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心を鬼にして、最後のレビュー。◇とってつけたような、最後の結婚式シーン。というより、意図的に「とってつけた」ことを暗示するみたいに、何の演出的創意も、目立ったセリフも無いまま、お約束の手続きだけで構成した、あっさりしたウェディングシーン。強いて言えば、身内のいないケータローの側に、だれひとり出席者がいないってこと。それ以外は、本当に、「とってつけただけ」と言っていい、おヤクソクな結婚式。とりあえず結婚式だけはやってくれ、という番組上の都合に屈した?◇猿丸ハルカ。時代劇コミックに出てくる忍者の名前か、はたまた狂言回しのちびっ子スターみたいな、結婚するヒロインに似つかわしいとは考えにくい、なんとも、気の毒な名前。嫁入りするヒロインの、その「幸福」という幻想にあてつけた、ささやかな皮肉??◇湯布院の、妻方の実家に住むことを決めた二人。もともとケータローには、家族も無く、家も無く、行動を共にする同僚も、結婚式に出てくる知り合いもいない。結婚しても、ケータローのこれまでの素性は、けっきょく分からないまま。背景のない人物との、勇敢ともいえる結婚生活。ハルカ: 信じられん、ふつうは塩やん。啓太郎: なんでやねん、牛乳やん!!それにケータローは、もともと「食べること」に対する関心が低くて、設定としては“味オンチ”ってことになってたはずなので、この「トマト&ミルク」が美味しいという主張も、説得力は乏しい?◇今日は、「最終回・大阪編」。なので、たこばあばの人々は出てくるけど、最後にもかかわらず、正巳も、奈々枝も、悟史も、登場ないままのドラマ終了。過去の伏線の回収らしきエピソードも、これといった情動をあおる仕掛けも無いまま、重要キャラをも置き去りにして終わっていく最終回‥。なんだか、わたし自身が置き去りにされるような、とてつもない寂しさ。そうですね・・。いま、一通りのストーリーを終えた気がします。レストランの夢も、家族で食卓を囲む夢も叶った。娘たちも幸せに暮らしている・・。なんだか、すこし、寂しくて。同感です。陽介さん。この最終回に感動があるとすれば、ただ「終わること」の寂しさだけ。村崎さんのことなど気にも留めずに、まるで全部のストーリーが終わったみたいに言っちゃた陽介さんへ、宗吉さんが語った、次のセリフ。ちょっと、質問していいですかね。この「料理の道」ってのに、“終わり” ありますか?もし無いとしたらね・・、「人生」と似とると思うんです。宗吉さんのこのセリフだけが、わたしにとって唯一の救いです。つまり、これはまだ、「最終回じゃない」ってこと!ワシね、まだまだこれからだと思っちょる。陽介さんのレストランもこれから、第二楽章がはじまりますね。本来、このセリフ、直接は村崎さん登場のために語られるセリフなんだけど、なんだか、それ以上の意味合いがあるように思わせてしまう。宗吉さんによる、最終回のメッセージみたいです。セリフの中身は前向きなものなのに、それを語る宗吉さんの、静かで、どことなく寂しげな微笑み。それが、わたしには、物語の外側にうったえてくる何かを感じさせてくれた。◇場面は変わって、仁子が研究を続けているロンドン。‥じゃなくて、木綿子が青木さんと暮らすロンドン。木綿子と、アスカとの電話。「今ごろ売れている」という、デビュー当時の問題作。そして、「見たいような見たくないような」映画。そんな、けっしてハッピーなだけではない世界が、このドラマのどこかに存在することを、さりげなく知らせつつも、いい感じのハッピーエンドになりそうよ。・・うーん。意味深なほど力強く、アスカから伝えられるメッセージ。『ジーン』のときの美香ちゃんのトラウマは、ここまで引きずってるの?脚本家が、まるで自分に言い聞かせてるようなセリフですね。・・・でも、このドラマ、NHKの公共放送的な要請の中で、「国民的連ドラ」を書くということの意味が、わたしには、良くも悪くも端々から伝わってくるようではありました。◇それでは最後に、番組のヒロインから一言。こんにちは!湯布院へようこそ!!はい。NHKのおつとめ、ご苦労様でした。☆ ☆ ☆さ。来週からのNHKは、満をじして、浅野妙子&宮崎あおいちゃんのコンビ!好みの問題はともかく、これが文句の言いようの無い作品になるのは、ほぼ確実。ある意味、いまや橋田壽賀子なみの“王道路線”と言えるかも。浅野妙子は浅野妙子で、ああいう構築的な脚本だし、宮崎あおいちゃんは宮崎あおいちゃんで、もう、古典的とさえいえるような演技力(→良い意味で)ですから、ここ数年の、お軽い現代劇を吹き飛ばすような、ガッシリした内容になる予感は、たぶん、外れることがないでしょう。☆そして、何より何より!この『ハルカ』終了のタイミングを見はからってか、NHKは、4月3日から、BS放送にて『ニコニコ日記』を再放送!!! (あたしゃ、どこの回し者?)って、わたしはBSを視聴できる環境にないんですけど・・。くやしいから、放送時間にあわせて自分のDVDを見ることにしよう、と考えてるわたしは、相当、どうにかしてるのかもしれませんが。(--;いったい何回見れば気が済むのか。。。あのドラマの魅力を語るのは難しい。大森美香ちゃんの脚本ではあるけど、彼女のオリジナル作品じゃないし、脚本だけじゃ、あのドラマの魅力は説明つかない。原作コミックと、美香ちゃんの脚本と、当時の「よるドラ」スタッフの才能の輝きと、そして永井杏ちゃんという天才少女とが、奇跡のようにめぐりあって出来た、宝石のようなドラマ。そういう作品の魅力を、言葉で説明したり、理解したりするのは、ちょっと無理。なので、BSが見れる環境にある人は、絶対見てください。BSを見る環境にない人は、DVDを買ってください。(命令)☆ ☆ ☆ 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.03.31
湯布院の面々が集ったレストラン。最後にケータローが登場。またまた海外からふらっと戻ってきたのか、それとも、この日が来るまで青鱗湖のあたりで何ヶ月も潜んでたのか、そんな言い訳すら、もはや不要。最終回だから来たのです。そして、全員が、おヤクソクの告白シーンを期待する、彼への熱いまなざし。そんな自分の役回りを悟ったケータロー。大見得をきって、詩人のような告白。主演の2人が演じる、そのNHK朝ドラのお約束シーンを、黙って優しく見守るキャスト一同。ここまで開き直った演出なら、逆に文句もいえません。宴会やっちょる言うんで来たけんど・・と言って入ってきたのは、観光組合の人たちと、農家のおじさん。もうここまできたら、「最終回や言うから来たんやけど・・」と言って、四方山支店長の一行が入ってきたって、驚きはしないんだけど。明日のウェディングシーンがあるので、全員集合はそこまで持ち越し。◇明日はいよいよヒロインの嫁入り。(小倉千加子の思うつぼ?)どうせなら、「子供のファンタジー」にすぎなかった龍のウロコを、結婚式の前に、みんなで青鱗湖まで返しに行って、そして、結婚式後の教会では、完成した映画の上映会もやってもらって、あの「父親が廃屋に火を放つ」という、小説の“キラキラしたエンディング”ってのを見てみたいけど、15分のうちの7分ぐらいを“回想シーン”に費やすとすると、そこまでやる時間的余裕は、もうないかも。◇明日は予定調和か、はたまた、大どんでん返しが来るのか。ほんのり期待。
2006.03.31
わたしは半年前から、かなりの気合を入れて、このドラマをずっとフォローしつづけてきました。でも、ラストが近づくにつれて、正直、わたしの不安は増すばかりだった。本当にこのドラマをフォローしてきてよかったの?最終的に、わたしはこのドラマを支持できるの??もしかしたら、このドラマをフォローしてきたのは、わたしにとって、大きな間違いだったんじゃないの??先週ぐらいのわたしは、正直そんなことばかり考えてた・・でも、どうやら、もう、そういう心配はしなくてよさそう。最終週になって、ようやく、このドラマの着地点が見えてきた気がする。◇青鱗湖で、天に昇る龍に出会った5人の夢。願いを裏切られても、夢見ることをやめられなかったハルカ。願いを裏切られ、湯布院と、家族とを憎みつづけてきたアスカ。願いどころか、兄を亡くし、家族を失くし、過酷な少女時代を生きてきた奈々枝。龍のウロコなんかより、ガイセイバーのほうがよっぽど大事だった金持ちの坊っちゃん、正巳。子供じみた夢より、着々と地道な現実を歩んできた悟史。5人の少年少女の、それぞれの夢が、どんなふうに挫け、そして、どんな形でかなえられるのか。それを描くことが、このドラマの一番のテーマなんだと、ずっと思ってきた。・・けれど。待てども待てども、「龍のウロコ」は出てこない。奈々枝の兄がなぜ死んだのかも、さっぱりわからない。小説の中のアスカの心の叫びが何だったのかも、まったく見えてこない。“レストランの夢”はどうやら叶えられたけど、あとは登場した男女をアミダくじのように結びつけてエンディング・・なんてことで、このドラマが終わってしまうんだとしたら、わたしには、いったいこのドラマが何を言いたかったのか、まったくもって理解できないで終わるってことになる。それに、猿丸さんとハルカが結ばれることでドラマが幕を閉じるのなら、それは、子供時代のあのエピソードとは何の関係もないエンディングになってしまう。本当にこのドラマが、ただ「娘を嫁入りさせるまでの物語」に終わるんだとしたら、まさに、小倉千加子が批判した、そのまんまの結果だと言っても過言じゃありません。わたし自身、本当にそんなことなら、最後の最後になって、このドラマをこっぴどくコキ下ろすことになるかもしれない。正直、先週ぐらいには、わたしは、そこまで考えてました。でも、どうやら、このドラマは、わたしが予測していたのとはまったく違うところに、その着地点を用意してるんじゃないかという気がする。そういう方向性が、今日の放送で、なんとなく見えてきた。◇青鱗湖の、5人の子供たちが、それぞれに描いていた夢。でも、重要なのは、その個人個人の夢が、叶うってことでもなければ、挫折するってことでもない。それぞれの夢は、その時々で、かなったり、くじけたりするかもしれないけど、大事なことは、それらを乗り越えて、それぞれが、それぞれの「個人」の立場から、「社会」へ開いていくこと。そこに、このドラマの着地点があるような気がする。これからのこの町を、守っていくんも、変えていくんも、わたしたちや。結局、いちばん重要なことは、レストランを成功させるかどうか、もういちど家族を取り戻せるかどうか、だれかと幸せな結婚ができるかどうか、そういうようなことじゃない、と思う。個人的な夢を実現できるかどうかが重要なんじゃなく、大事なのは、その夢と、その挫折を乗り越えたところから、彼女たちのまなざしを、社会に向けて開かせていくこと。それが、このドラマの着地点であり、同時に、彼女たちの新たなスタートラインになるんだろうという気がします。そして、そういうラストなら、たとえ登場人物がだれと結ばれ、どんな立場におさまったとしても、わたしとしては、納得のいく結末を迎えられる気がする。・・もともと、このドラマは、「トトロ的な世界」を描くと同時に、そのファンタジーを壊すところから始まりました。そういう意味で、このドラマの物語は、『となりのトトロ』に描かれていたような、子供の夢=自我の夢への、現実世界からのアンサーみたいな感じがあった。でも、最後の本当の答えは、そういう子供(=自我)の夢が、現実に叶うのか、それとも壊れるのかじゃなく、最終的に、それを乗り越えた彼女たちが、そういう「自我」の世界から「社会」に開かれていくことの大事さにあったんだ。そういう気がしてきた。それこそが、「トトロの世界」を乗り越えることなんだって気がする。こういうエンディングは、事前には、まったく予想してなかったけど、今になって思えば、こうやって登場人物の未来を「社会」のほうへ開いていく結末は、ちょうど『不機嫌なジーン』と同じ構造になってるのかもしれません。◇『ニコニコ日記』も『不機嫌なジーン』も、ともに九州を舞台にした話だった。もともと、大森美香ちゃん自身、中途半端な気持ちで九州の物語は作れないんでしょう。この『風のハルカ』も、ただたんに「湯布院の観光PRドラマ」に終わらせるだけじゃ、彼女自身の気持ちはおさまらなかったと思う。これ、昨日、もういちど読んでみたら、この主人公も、けっして故郷を「良し」と思ってない。だから、この町を嫌いなオレは、この映画に向いてるのかもしれんな・・これは、たぶん美香ちゃん自身の気持ちでもあるんだと思う・・。「書くべきことは書かなきゃならない」ってのが、最後に、こういう形で現れてくるんだなと思います。それに、これは湯布院だけの問題じゃなく、たぶん、日本中のあらゆる場所で、“故郷を愛するがゆえに憎む”というようなことがあるんだろうと思うし、むしろ、キレイごとで終わらせないドラマの内容のほうが、地元の人たちにとっても、有難いことじゃないのかなって気がする。なんだか、わたしは『不機嫌なジーン』のことが鮮明によみがえってしまいました。そういえば、YUIちゃんも福岡の出身だったっけ。◇「農業と、旅館と、観光」みたいな提案が、現実的にどれほど有効なものなのかは、わたしには分からないけど、とりあえず、彼女たちを、「個人」の願いから、そういう「社会」的な課題に向かわせて、そこでもういちど彼女たちを、同じ夢を共有させるような場所に立たせれば、それで、このドラマの役割を果たせるんじゃないかなと、そんな気がします。
2006.03.29
王貞治と、イチロー。日本が生み出した2人の世界的野球人が、この記念すべき第一回のWBCで華々しい歴史を残しました。◇これとは対照的に、日本球界にとっての重要人物、たとえば、長嶋茂雄がいる。長嶋も、今回の日本チームの優勝についてコメントを出してますが、おそらく長嶋なんかにとってみれば、今回の日本の優勝は、進化した日本野球が辿り着いた到達点のように、眩しいくらいの輝きをもって見えてるんだろうと思う。それから、もうひとり、日本球界にとって重要な役割を果たした人物のひとりとして、野茂英雄もいます。野茂にかんしては、今回のWBCでは、その姿も、コメントも、まったく見えてこない。野茂はまだ「現役」の選手だから、いまだ日本球界のOBとして登場する立場にもないし、かといって、いまやマイナーリーグの一選手にすぎない立場では、世界大会の表舞台で活躍できる身分でもない。例によって、野茂の場合は、自分の仕事をただ黙々とこなすのに精一杯なんでしょうね。◇野茂が果たした役割と、イチローが果たした役割。野茂がやったことは、いわば「日本人の野球を変える」ということだった。日本に生まれた野球人が、日本球界という枠にしばられずに、その可能性を最大限に開くにはどうすればいいか。それを、野茂は身をもって実践した。そう考えると、野茂のやったことは、あくまでも個人の可能性を開くということであって、「日本球界を変える」とか「世界の野球文化を変える」みたいな、そういう大袈裟なことじゃなかった。そこから見ると、イチローの志しというのは、野茂の場所からさらに先へ進んだものだったんだなと思えます。イチローの場合、彼は大リーグ・チームに所属しながらも、じつは、つねに「日本球界」のことを考えていたように思う。ここ数年の、一連の日本の「プロ野球問題」なんかのことも、イチローは、海外にいながら、とても関心をもって見つめていたように思います。つまり、イチローの場合、たんに「個人」を変えるだけでなく、「日本の野球を変える」とか「世界の野球を変える」みたいな意志が、かなり強く抱かれていたんだと思えます。◇そういう意味で、WBCが実現したことには、今後の世界の野球を考える上でも大きな意味があると思うけど、その一方、日本が、その第一回のチャンピオンになってしまったというのは、日本の野球にとっては、ちょっと出来すぎじゃない?って気もする。イチロー自身、「じつはここまではイメージできてなかった」と言ってたけど、あれは本当だと思います。・・・今回は「日本の野球」が、というよりも「アジアの野球」が、世界を征する結果になりました。日韓の野球が、アメリカ大陸の野球に勝ち、そして、そこを勝ち残った日本の野球は、つづけてカリブ海の野球をも打ち破ってしまった。本来ならカリブ的な野球をするはずのキューバを見ても、ちょっと意外な感じさえしたとおり、世界の流れは「パワー野球」から「技とスピードの野球」へと、あるいは「打撃力」から「投手力」の野球へと移ってるようです。つまり、「アメリカ・カリブ的な野球」ではなく、「アジア的な野球」というのが、時代の趨勢になってきてたのは確か。◇でも、今回のWBCで日本が勝ってしまったからといって、ほんとうに「日本やアジアの野球」が強いと信じるのは、まだ早いと思う。今回のキューバなんかは、かえって「つなぎの野球」に失敗して(2度の併殺!)日本に負けたけど、もし、本来の「パワー野球」を爆発させていたらどうなってたんだろう、なんてことを、逆に恐れてしまったりもする。どちらが強いにせよ、その差は非常に小さい気がします。3年後、世界の野球は、さらに進化した姿をして現れるはず。それまでのあいだに、日本の野球は、いまの日本的・アジア的な側面をさらに強化すればいいのか、それとも、いまの日本には無い何かを身につけなきゃならないのか、それを今のうちからよく考えないと、今回の祝杯が、かえって仇にならないともかぎらない。慢心してたら、3年後には、かえって惨めなことになる。日本の野球がほんとうに「世界最強」なのかどうか。まだまだ、それは証明され尽くしていません。
2006.03.22
なんどもあきらめようッち思ったのに。なんでやろ・・、夢みることをやめられん。やめたいのに。やめられん。おもむろに出てくる、このドラマのテーマ。〈夢〉と〈現実〉。ドラマも終盤にきて、おもなトピックは〈だれとだれが結ばれるか〉ってところに、偏ってきてるようにも見えるけど、やっぱり、このドラマのテーマは、ここにある(はず)。それぞれの人物が15年前の昔に描いてた夢。それが、どんなふうに壊れ、どんなふうに挫け、そして、どんなかたちでかなうのか。そこに何かの形があたえられれば、このドラマは、とりあえず幕を降ろせる思う。
2006.03.20
韓国戦ということもあって、ナショナリズムを露わにするような反応が、日韓双方ともにありますけど、手放しに日本選手の活躍ぶりを顕彰したり、無根拠に日本の「強さ」を信じようとするのは、最終的には、日本自身にとって命取りな結果をもたらします。6-0という結果だけ見れば、さぞ打撃力で上回ってるかのように思えるんでしょうけど、いっときにだけ打線が集中して爆発してるってことは、普通なら、日本の打撃力が相手を上回ってたことじゃなく、そのときの相手チームの継投策が失敗したことを意味するはずです。つまり、調子の悪いピッチャーが出てくれば打てるけど、そうでないかぎり、日本の打線は打てなかったってことです。実際に試合を見た人なら、今日の最大の勝因は、投球数制限のなかでほぼ完封に近いピッチングをした上原にある、という事は明らかに解るわけで、圧倒的な打線に勝因があったと思う人は、ほとんどいないと思う。相手の継投策が失敗するまで日本は打てなかったし、打てた時でも、着実に球を転がしてランナーを進めていくような、そういう「つなぎ」のバッティングが出来てたとはいいがたい。王監督の采配も結果的には当たったわけだけど、普通に考えたら、かなり理解しがたい選択があったと思う。・・・と、そんな具体的な野球の話はどうでもいいんですが、わたしが言いたいのは、ほーら、やっぱり日本は強いんだ!みたいなことを盛んに喧伝して、日本の選手の活躍を顕彰したり、日本の強さを無根拠に妄信したり、そうやってナショナリズム的感情を満足させている人たちというのは、往々にして、試合そのものをほとんど見ていないということ。試合を見て野球それ自体のことを考えている人たちなら、ほとんど、そういうことは言わないはず。だって、上原の投球を除いたら、日本はべつに圧倒的に強かったわけじゃない。日韓ともに、ナショナリズム的な反応をする人たちというのは、じつは野球そのものには興味がなくて、ほとんどの場合は見てもいない。恐ろしいのは、そういう人たちほど、自国の強さを無根拠に信じようとする傾向が強いこと。冒頭にも述べたとおり、それは、ほかならぬ自国にとって命取りな結果になります。これは次のキューバ戦のことを言っているんじゃありません。というより、これは野球の話じゃなくて、国の歴史の話です。太平洋戦争の日本のボロ負けというのは、妄信的なナショナリストが、自国の強さを無根拠に喧伝することの恐怖をわたしたちに教える歴史です。愛国心に満ちたナショナリストほど、自国の力とその限界を正確に把握しないし、そうしようとも考えない。ただひたすら、自国の力と栄光を信じ続けようとする。アメリカであれ、日本であれ、韓国であれ、そういう人たちこそが、自国を滅ぼす根源になってしまう。わたしは、WBCはとても良い機会だと思う。大切なのは、野球そのものをちゃんと見ること。そして、実際の野球の中身をとおして、ものを考えることだと思います。そうすれば、日韓双方とも、無駄なナショナリズム的な反応は、少しずつなくなっていくと思います。日本の野球が強くなるためには、国民文化として、野球そのもののことをきちんと考えようとする文化が、つよく育っていかなきゃなりません。
2006.03.19
またまたやってくれました。アメリカ人のボブ・デービッドソンさん(白人)。「大誤審」なんて言葉が、もともとあるんでしょうか?はじめて聞きました。イナバウアーにつづいて流行語にもなりそうな勢い。大誤審、愛国ジャッジ、史上最低の審判、etc・・ボブさんのような人物というのは、今のアメリカ以外には存在しえない気がする。ああいうキャラクターの人は、他の国にはいないだろうと思う。彼は、とてもアメリカ人らしいアメリカ人に見えます。◇彼には、今のアメリカの「孤立主義」が象徴されてる気がする。 自分の論理にのみしたがって行動し続けること。 それがアメリカの「孤立主義」。アメリカの国家はいま、「孤立主義」こそがアメリカの取るべき行動規範であると、自国民にむけて、身をもって示しています。今回の審判員だったボブさんは、まさしくそのアメリカの行動規範たるものを忠実に実践してるように見える。あきらかに間違っているのに「正しい」と言いつづける、その彼の、堂々として、屈することのない姿勢は、どこかしら、現在のアメリカ大統領の面影にも重なって見えた。◆孤立主義、その光と影。「孤立主義」を続けているかぎり、たしかに“自分が世界の中で一番なんだ”と思い込むこともできる。でも、その反面、鏡に眼を向けようとしないかぎりは、その思い込みと自分の真の姿とのあいだで、大きな乖離が生まれてしまっていることに気づくこともできない。それは何より、ほかでもない、自分自身にとって大きな弊害なんです。いつかは必ず、そのツケが回ってくるから。ふと鏡に映った、自分自身の本当の姿に気づいた時には、もうおそい。誤審もむなしくアメリカは敗退したけど、今回のWBCは、アメリカにとって、とても大事な、ひとつの教訓になったように思います。じつは、アメリカ人自身、今の自分たちの本当の姿に、うすうす気づきはじめてるんだと思う。あらゆる点で、アメリカは今回の顛末に目を背けるべきじゃない、と、わたしは思います。
2006.03.17
向こう30年は手は出せないなという感じで勝ちたい・・ってのは、いったい、どの国がどの国にあてて言った話だったんだか、今となっちゃぁ、もうすっかり思い出せないんですけど、そのくらい、この大会にはとびきり抜きん出た国がなくて、どこが優勝するのか全然わかんないほど、各国の力はものすごく拮抗してる。正直、WBCがこんなに面白くなるとは、予想できなかった。「誤審騒動」とかもありましたけど、こういうのが、ただ大会に水を差しただけのものとも思わない。むしろ、こんな一個の判定で大会が大きく揺らぐほど、このWBCは、予想以上にエキサイトしてるってことの証左です。日本は、この「誤審」問題を徹底的に追及すべき。こういうことで、どんどん大騒ぎをすればするほど、今後のWBCが、ますます白熱して面白くなっていくと思う。◆サッカーのワールドカップが大西洋のイベントだとしたら、今後、WBCが回を重ねるごとに、太平洋でワールドカップに匹敵するイベントになるのは確実でしょう。3年後、各国はさらに「本気度」を増して臨んでくることになるはず。太平洋を取り囲む地域の世界が、この4年に一度のイベントを機に国際関係を変えていくかもしれないし、何より、このWBCを通して、アメリカのメジャーや、日本のプロ野球が、変化せざるをえなくなる。今、現役の野球選手で、しかも、この第一回目のWBCに出る機会もあったのに、そのチャンスをみすみす逃してしまった人達というのは、世界の野球史での存在感を失ったものと思わなきゃなりません。完全に、乗り遅れたってこと。これからの太平洋の野球文化はこのWBCを中心に回っていくはず。その点、冒頭にあげた発言はともかく、さすがにイチローなんかは、このイベントの意義をよく理解していたと思う。もしかしたら、冒頭の発言だって、参加国を煽ってエキサイトさせるために、確信犯的に発言したものだったのかもしれないし。まあ、さすがに韓国に明日負けたら、上の発言もただの「シャレ」では済まされませんけど。
2006.03.15
今日は珍しく沖縄ネタ。◇ ◆小泉おやじは、沖縄の普天間飛行場の県外移設ができない理由について、「他の自治体では反対が強いからだ」と説明しました。でも、沖縄でも地元の反対が強くて合意ができない。もし、政府が、特措法をつかって強硬な辺野古基地建設をするなら、そのとき、この小泉おやじの説明は、下のような意味をもつことになる。沖縄以外の自治体では、反対を押し切ってまで基地を作ることはない。しかし、沖縄でなら、地元の反対を押し切って基地を建設しても構わない。同じ日本の都道府県でありながら、特定の都道府県のみを差別的に処遇することの意味。近代日本成立後100年を過ぎた時点で、このような、ある種「民族差別的」とも言える対応をとることが、民主主義国家にとって、どんな意味をもつことになるか。政府は、そのことを深刻に考えたほうがいいはず。日本という国家の安定性が、そこから根底的に揺らぐことになる。◆辺野古に新基地を作ることは、絶対にやめたほうがいい。ぶっちゃけ、普天間は、永久に残るということはないです。日本政府やアメリカを含め、だれひとり、その存続を望んでる人はいないから。地元はもちろん、日本もアメリカも、あの基地の危険性をよく承知しています。だから、なるべく早くあれを別の場所に移したいと思ってる。だから普天間は、多かれ少なかれ、今の場所からはなくなります。でも逆にいえば、いちど辺野古に新しい基地を作ってしまったら、それは、ほぼ永久的に残ってしまうってことになる。つくってしまったら最後、移す必要も、なくす必要もなくなる。それはいつまでも残る。かりに日本を取り巻く軍事的状況が変わっても、その海上の建造物はずっとそこに存続することになる。そういう意味で、「辺野古」は最悪の選択です。「いずれは民間で使う」なんていう馬鹿げた意見もあるけど、そもそも、あんな場所に民間の飛行場なんて必要もありません。はっきり言って、名護市民のための飛行場なんて、無駄な公共工事以外の何ものでもない。これからそう遠くない時期、北朝鮮をはじめとして、極東の軍事バランスが大きく変わる可能性は充分あります。それを見極める前に、不用意なかたちで新基地を建設したりするのは、とてつもなく愚かです。◆ついでに、今日も「嘉手納」のことを書いておきます。以前にも書いたとおり、嘉手納にある巨大な米軍基地というのは、あれは「日本のための軍事基地」ではなく、あくまでも「アメリカのための軍事基地」です。この極東最大の米軍の戦争基地は、ベトナム戦争やイラク戦争など、つねにアメリカ自身の戦争のために利用されています。この基地は、アメリカにとって、いわば太平洋戦争における、日本からの最大の「戦利品」です。この基地を日本に置くことが出来るがゆえに、アメリカは、世界中で戦争をすることができている。この基地こそが、アメリカを「世界の支配者」たらしめています。逆にいえば、この基地が日本の領内にあるかぎり、日本は、アメリカにとっての「敗戦国=従属国」であり続けるってこと。いまだ国連憲章に「敵国条項」があるのと同じように、嘉手納基地がある限り、日本の領土は「敵国の土地」であり続けていて、それはアメリカの戦争拠点として利用されつづけている。そして、これらのものが無くなって、これらの屈辱から解放されたときにはじめて、日本は国際的な意味で「戦後」から抜け出せるってことになる。嘉手納がある限り、日本は米国の奴隷です。「嘉手納の基地は自衛隊がそのまま使うんだ」みたいなことをいう国内の軍オタもいますが、もし自衛隊の戦闘機が、自国民の住宅の上をかすめて、なりふりかまわず飛び回るんだとしたら、そんなものは、もはや国民を守る組織ではありません。日本という民主主義国家が、「敗戦国」としての屈辱から抜け出すためには、嘉手納をなくさなければなりません。いわゆる「嘉手納統合案」というのがありますが、これは嘉手納の機能と普天間の機能を並存させるということではなく、アメリカの「戦争基地」としての嘉手納基地を閉鎖した後で、大幅に縮小されたその地域に、普天間の機能を移すという意味でなら、はじめて受け入れ可能になる案なんだろうと思います。実際、海兵隊が大量に削減されることになった今、「人間の輸送」という嘉手納の役割も大幅に縮小することになった。のみならず、今回の再編で、在沖縄の軍事物資が事前集積船に移せることも明らかになりました。その点でも、嘉手納の輸送機能は縮小が可能だということ。だから、これは、決して不可能な考えではありません。
2006.03.08
日本の映画ってのは、世界的に見ても歴史が豊かなほうだし、同時に、映画賞にもいろんなのがあって、日本映画に歴史がある分だけ、映画賞のほうにも、それなりの歴史と伝統がある。いちばん古いのが、「キネ旬ベストテン」。◇べつに、キネ旬ベストテンに権威があるとも思わないし、絶対的な信用があるとも思わないけど、とりあえず過去のキネ旬ベストテンを見れば、これまでに、さほど間違った選択はしていない。選考に大胆さが欠けるところはあるし、つまらないといえばつまらないけど、洋画、邦画ともに、まあまあ無難な選考をしてきてる。一方で、日テレ主催の「日本アカデミー賞」ってのはスゴイです。堂々と間違えますから。(~~;というか、もはや間違うのが伝統なのかもしれません。「間違ってて何が悪い」的な威厳だけはあります。◇どの映画賞の選考委員も、かりにもろもろの事情や好き嫌いがあったにせよ、「とりあえず今年はこの映画にやっとかんとマズイでしょ」みたいな配慮とか体裁って、最低限あると思うし、映画賞としての権威を維持する上でも、そういうのって意識せざるをえないと思うんですけど、日本アカデミー賞の場合、まったくそういうことは意識すらしてないみたいで、堂々たる間違えっぷりの上に、平然と開き直ってます。今さら間違うことなんか恐れてもないって感じ。この際、映画賞としての信用を得ることなんか、べつに望んでもいないのかもしれない。しかも今年は、身内が配給した映画に12部門を独占させるという、ある意味快挙!!(笑)これによって、『ALWAYS三丁目の夕日』という映画の評価が定まったというより、むしろ「日本アカデミー賞」という映画賞への評価が定まった、といっても過言じゃない。表向きの「公平性」とか、見た目の「バランス」とか、映画賞としての「信用」や「権威」の保持とか、そういうこと、全部かなぐり捨てて、とにかく自分とこの作品が一番!!12部門総なめ。問答無用。自分とこの映画で何が悪いんだ的大盤ぶる舞い。・・まあ、今年は日本アカデミー賞にとって、ちょっと不運だったってのも確か。『ALWAYS三丁目の夕日』という、それなりに話題性もあって、目立った失敗作でもなく、一般の人気と感動も得ることのできた映画を、うまいこと自分の配給で作れたわけですから、アカデミー賞選考サイドとしても、これなら心おきなく手前ミソな選考をしても構わないはずだったし、多少の大げさな評価をしたところで、さほど文句も言われないで済むという目算だったと思う。だけど、今年は『パッチギ』があったせいで、そういう手前ミソな選考ってのは、映画賞そのものの信用を失うリスクを賭けてやるほどの、思い切った独断的選考なしにはできなくなった。『パッチギ』は、べつに映画史に残るような大傑作ではないけど、とりあえず今年度の日本映画にかぎって見れば、この映画を選んでおくというのが無難な選択なのは誰の目にも明らか。今年の日アカ賞にとって、それが最大の不運だった。◇今回の「ALWAYS12部門独占」と、くわえて「パッチギはずし」という結果が、はたして映画賞としての信用と権威をかなぐり捨てた結果なのか、それとも、他の映画賞がこぞって『パッチギ』に傾いてたので、とりあえずアカデミー賞だけでも『ALWAYS』で独占させて、全体としてかろうじてバランスをとろうとした結果なのか、そのへんはよく分からないけど、これだけ華々しく、可もなく不可もないような映画に「12部門」もあげてしまったんなら、この際、そのことを、ある種“有終の美”にして、この映画賞それじたい、一緒に華々しく散ってもよさそうなんだけど、やっぱり、来年もまたやるんでしょうか・・・こうなると、貰うほうが恥ずかしいと思う。
2006.03.03
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