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以前の「NHK-FM問題」にも絡んで、今日は、そのFMの番組のことを少し。NHK-FMの昼の番組、「ひるのいこい」。ラジオ第一だけの放送だった頃は、とくに聴いてませんでしたけど、FMでも放送するようになってから、よく聴くようになった。あらためて聴くと、この番組、最強です。◇絶妙な選曲。古い歌謡曲や演歌に固執してるわけでもなければ、最近のJ-POPに偏ってるわけでもない。気持ちの落ち着く曲が多いけど、どの年代の日本人にも受け入れられる選曲だと思う。この番組で流れてくる曲を聴いてると、現在の日本のマーケットやポップ・ジャーナリズムが、いかに偏った嗜好をもった、排他的な世界をつくっているかが分かる。日本の普通の曲のなかにも、いいものはあるんだなと思える。今のマーケットも、ジャーナリズムも、つねに「新しいもの」を求めようとする傾向があるけど、じつはそれじたいが、偏狭で、狂信的な考え方だし、まして、一部のジャーナリズムのように、「歌謡曲的なもの」を意図的に排除しようとする態度は、日本の音楽文化にとって、かなりの害悪にさえなりつつある。新しくはないけれど、普通の音楽でも、いいものはいい。◇この番組の特筆すべき点が、もうひとつある。それは「番組全体が“音楽的”に構成されている」という点です。毎日、担当のアナウンサーが、日本中から届く、いろんな“便り”を読むんだけど、それを読むアナウンサーの語り自体が、番組のなかで、ひとつの音楽的な要素になっている。ぶっちゃけ、“便り”そのものの内容は、よく意味が分からなかったりもするんだけど、それは、さほど問題じゃない。重要なのは、語りと曲とが、ともに音楽を奏でてるという番組の構成です。こういうタイプの番組は、だいぶ少なくなった。かつての「クロスオーバーイレブン」なんかは、そういう番組の一つだったと思うけど、今はそれもないし。かろうじて、現在では「音の風景」とか「FMシアター」ぐらいかな。わたしが、個人的にNHK-FMに期待する番組には、大きく言って2種類あるんだけど、そのひとつが、この「ひるのいこい」のように、番組全体が“音楽”になるようにつくられた、洗練された番組です。あと、もうひとつは、徹底的にテーマを絞って、特定のジャンルの音楽を系統的に紹介してくれるような番組。以前のNHK-FMには、その種の専門番組や特集番組もあったんだけど、最近では、それも少なくなりました。近年のNHK-FMは、祝日などに「○○三昧」というのをやってるけど、たいした専門的な解説もなければ、選曲もさほど系統的でなかったりする。NHKなんだから、それなりに高い水準の内容にしてほしい。そのためには、資料になる音源も必要ですけど。こう言っちゃなんだけど、知性のないパーソナリティが、いきおいにまかせて喋りながら曲をかけていく、みたいな、そういう安っぽいDJスタイルの番組ってのは、おおむね、民間の放送局にやらせておけばいいんじゃないでしょうか。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.17
あわよくば、すべての極東裁判の内容を拒否してしまおうという、そういう貧しい発想を、よりによって「政府見解」にしようとしてるところに、安倍晋三という人物の、右翼的な幼稚さが出てる。安倍の繰り広げた理屈は、つまり、こうです。日本は、国際社会にむかって、極東裁判の内容に対する異義を申し立てる立場にはない。けれども、国際社会から、「極東裁判の断罪の内容に同意したのか?」と聞かれたら、日本政府は「うん」とはいわない。すごいなー。バカだなー。安倍。こりゃまた国連脱退だな・・。「敵国」復帰。◇安倍晋三は、大江健三郎の言った「あいまいな日本」に対抗すべく、あくまで川端が未練がましく語ったような、「美しい日本」の幻影に固執してる。でも、やっぱり「あいまいな日本」だな。ほかならぬ、安倍自身がいちばん「あいまい」なんだから。過去のあやまちを潔く受け入れないかぎり、日本は、いつまでたっても、- 美しい国 - になんかなれませんよ。やっぱり、日本は永久に「あいまいな国」のままだな。けっきょく、大江健三郎の予言は、こういうカタチで当たるんだよ。
2006.10.06
【ヒロインについて】今回の作品で、宮崎あおいちゃんに要求されたことは、視聴者の「共感」を呼びよせることではなく、とにかく、半年間にわたる長いドラマの、あれやこれやの様々なエピソードのなかで、たえまなく強力な「存在感」を放ち続けることだったと思う。その意味で、宮崎あおいちゃんは完璧でした。いわば、彼女の役割は、数々のエピソードが散乱する長期ドラマの中で、ヒロインとして「出来事に遭遇する力」を発揮し続けるってこと。事実、このドラマで、桜子の立ち会わないエピソードは、たぶん一つもない。ほぼ、すべてのエピソードに、桜子が立ち会ってたと思う。実際には、このドラマの外には、もっともっと色々なエピソードがあったはずなんだけど、桜子のいない場所で起こった出来事は、このドラマには出てきません。たとえば、反戦少女だった薫子が、兄を亡くしながら、戦中をどんな思いで過ごしてたのか。戦前の教育を受けた勇太郎が、現実との狭間で何を考えていたのか。かつての不倫相手と結婚するまでの間に、磯にどんな事があったのか。そんなふうに、実際にはいろんなドラマが同時にあったはず。でも、ヒロインのいない場所でドラマが進行すると、一般の視聴者は、物語がどこにあるのか分からなくて不安になるから、物語は、つねにヒロインのいる場所で進行する。本来は、各エピソードは脈絡なく散乱してるだけなんだから、物語がどこに行こうが、べつに構わないんだけど、でも、むしろ、各エピソードどうしをつなぐ明確な「軸」が無いからこそ、ヒロインがつねにそこに存在し続けることは重要です。ヒロインの存在そのものが、ドラマにとって唯一の「軸」なんだから。つまり、このドラマの各エピソードには、一貫したテーマも何も無いけれど、強いて言えば、このドラマのテーマってのは、「桜子=宮崎あおいちゃん」その人なんだと言っていい。不規則に羅列されたエピソードをつなぐ軸になるのは、ただ、あおいちゃんの顔としぐさ。それのみ。とにかく、彼女さえ画面に出ていれば、たとえどんなに突飛で唐突なエピソードが描かれようと、それは間違いなく『純情きらり』の物語なんだと、そう視聴者に思わせるような強い存在感が、宮崎あおいちゃんに必要だったし、宮崎あおいちゃんには、それを実現するだけの資質があった。そもそも、それが無かったら、「NHK朝ドラ」のような長期のドラマというものは成立しない。ヒロインは、長いドラマの沢山のエピソードを繋ぐ、唯一の軸でなきゃならない。こういう資質というのは、とりわけ宮崎あおいちゃんだけに具わっている資質ではありません。すぐれた俳優さんなら、ほとんどの人がもってる能力だと思う。でも、「NHK朝ドラ」のように、あえて既存の俳優を使わず、毎度毎度、ヒロインを新人オーディションで選ぶような慣例の中では、主役の新人の女の子に、こういう強い存在感を求めるのは、かなり難しいことだといえる。それは、はっきりいって賭けに近い。存在感そのものが軸になりえないような、心もとないヒロインを中心にして、沢山のエピソードや、長期にわたる物語を描ききろうというのは、よくよく考えれば、かなりリスキーなことだと思う。そういう意味で、「NHK朝ドラ」は、やっぱり厳しい条件を背負ってる。ちなみに、宮崎あおいちゃんは、その「存在感」という点から言って申し分なかったけど、演技力という点から見ても、さすがだったと思う。わがままであることが許された「戦前」ののびやかな時代。苦悶に満ちた表情を浮かべて、自分の欲望を押し殺して生きていた「戦中」の時代。そして、「戦後」に生きる大人として、自分の分をわきまえながら、与えられた人生を受け入れようとした後半の桜子。桜子の表情と生き方を通して、3つの異なる時代を明確に演じ分けていたあおいちゃんはさすがでした。【福士誠治くんについて】このドラマで、福士くんが果たした役割は大きい。浅野妙子は、視聴者戦術においても、重要なメッセージを伝える場面でも、かなり意識的に「達彦」の存在を使ってた。たとえば、通常、日本の戦争は「被害性」の視点から描かれることが多いけど、戦争の「加害性」の側面というのを、達彦の存在を通して描いたことは、重要な意味があった。(「加害性」といっても、中国人ではなく、日本兵に対する「加害性」でしたが。)こういう福士くんのような存在は、今後の「NHK朝ドラ」を考える上でも、重要な参考になるんじゃないかと思う。つまり、ヒロインをオーディションで選ぶのではなく、福士くんのような「王子様役」の男の子をオーディションで選ぶ、というのは、ひとつの手として有り得ると思う。ぶっちゃけ、今回のように、劇団ひとり、達彦、キヨシ、冬吾と、複数の「王子様候補」が登場するような展開なら、あらかじめ数人の俳優を抜擢して保険にしておくという展開も可能だし。視聴者対策としても有効に機能する。少なくとも、ヒロインをオーディションで選んでしまうよりも、リスクは少ない。今後は、新人男優の発掘に力を入れてみてはどうでしょうか。正直な話、今までの朝ドラみたいに、若い女の子が成長してく様子を、TVの前のじいさんたちに目を細めながら見てもらおう、みたいな発想の内容は、いいかげん飽きた。むしろ今は、テレビに出てくる可愛い男の子の立ち居振る舞いを、目を細めながら眺めてたい、という女性の側の要望のほうが強いし、そちらのほうを優先させるべき時勢に来てる。それに、そのほうが視聴者の需要にも合ってると思う。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.10.01
このドラマの成功要因は、大きく分けると、次の三つ。◎ 浅野脚本のエピソード量。◎ 宮崎あおいちゃんの存在感。◎ 福士誠治くんの貢献。もともと、わたしは、前作の『風のハルカ』に対して懐疑的だった。なぜなら、テーマ性が曖昧じゃないか、と思えたから。でも、じつは「テーマ性がはっきりしない」という点では、『純情きらり』も、『風のハルカ』も、大差ない。「ジャズ」なのか「クラシック」なのか分からないし、「家族」なのか「恋愛」なのかも分からない。ヒロインの「父の水晶」が紛失してしまうところも、風のハルカのときの「龍のウロコ」と同じだった。でも、それにもかかわらず、なぜか、『純情きらり』の場合、そのテーマ性の曖昧さや、各エピソードの連関の薄さは、さほどの欠点に思えなかった。いまになって思うことだけど、「NHK朝ドラ」にとって本当に必要なものってのは、一貫したテーマ性とか、各エピソードの整合性とかじゃなく、とにもかくにも、ネタやハッタリを駆使してでも、毎日15分の枠をきちっと埋めて、翌日の放送へと確実に継ないでいくため、その圧倒的な「量」と「密度」なんだな、と思う。『純情きらり』に有って、『風のハルカ』に無かったものは、けっきょく、何よりそれだったんだ、と気づきました。そう考えると、『風のハルカ』のときに、テーマの一貫性を求めようとしたわたしは、ちょっと酷だったなあと思うし、かえって、一貫したテーマ性なんかにこだわりすぎるのは、半年の長いドラマ枠を、単線的で、貧弱な内容にしてしまう恐れがあるし、むしろ、避けるべきことなのかもしれない。それが、「NHK朝ドラ」というドラマ枠の、他の枠にない特殊性なんだと思う。【浅野脚本について】そもそも、『純情きらり』の脚本は、以下の3つの点で有利でした。・歴史ものだったこと。・もともと浅野妙子は歴史ものが得意だったこと。・分厚い原作本があったこと。この条件があったからこそ、『純情きらり』は、豊富なエピソードの量を確保できた。もちろん現代劇でも、分厚い原作本などがあれば、豊富なエピソードを確保することはできると思う。だけど、現代劇の場合、エピソードの量が増えて、エピどうしの繋がりが希薄になると、物語全体が、どうしても散漫な印象になりかねない。その点、歴史もののドラマというのは強い。たとえ各エピソードのつながりが希薄になっても、物語全体が、「時代のベクトル」に向かって進んでいくような、そういう一体感を期待できるから。『純情きらり』でも、“戦前・戦中・戦後”という3つの時代背景のもつ一定の色彩が、登場人物の描写と、各エピソードの雰囲気に、統一した印象を与えてた。だから、長期の連続ドラマの場合は、やっぱり歴史もののほうが有利なんじゃないかという気がします。そして、やはり『純きら』では、エピソードを創造する浅野妙子の能力の高さが際立った。しかも、浅野妙子は、視聴者の関心を巧みに取り込んで、翌日の放送に強引に引っぱる、ネタやハッタリの使い方も、相当にあざとい。いわゆるアンチの人を引き込んだのも、かなりの部分はネタだったと思う。きわめつけのネタは、最終回にも出てきました。達彦の子守唄を聞いた途端、桜子の具合が悪くなってしまうという、あの不思議なシーン。もしや、達彦のあのビミョーな歌声が、ヒロインの直接の「死因」になってしまうんじゃないかと、みんなが心配して駆けつけてみると、何事もなく、おだやかに談笑している2人。死にそうで、なかなか死なないヒロイン。最終回の、貴重な15分の時間の中に、あんなドリフの“臨終コント”みたいな、どうしようもないコテコテの場面をあえて見せることで、浅野妙子は、じつはこのドラマ全体が、かなりの程度「ネタドラマ」だったんだと、最後の最後に、正直に自白してみせた。(しかも最後にネタに使われたのは達彦。)ネタとハッタリを織り交ぜて、圧倒的な量を書きこなす、そういう脚本。「NHK朝ドラ」に必要なのは、こんなふうに、ネタやハッタリを駆使しながら、とにかく半年分の「分量」を書きこなせる脚本家なんだろうと思うけど、でも、いまのドラマ界には、「上手な脚本」を書ける人は沢山いると思うんだけど、こんなふうに「量」を書ける人というのは、意外に少ないと思う。そういう意味で、今回の成功にもかかわらず、やっぱり「NHK朝ドラ」は、今後も厳しい条件を強いられるでしょう。
2006.10.01
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