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映画『マッチング』のプロモーションで出ずっぱりの由貴ちゃん。昨日はフジテレビ「突然ですが占ってもいいですか」に出演。この収録は、まだ「ぽかぽか」や「ネプリーグ」のときほどには痩せてない。直近のインタビューでも「死」について語ってたけど、年齢的なこともあるし、本人もすこし健康面が気になってるっぽい。当たり前の順序として“死”について考えるようになったという斉藤さん。だからこそ、そこに「悲壮感はない」とも。「もちろん若干、恐怖心はあります。病気はつらいだろうなとか。でも本当に“死ぬ”ってどんな感じだろうということは、よく考えるようになりました。同時に、それは当たり前のことなんだということも」https://futabasha-change.com/articles/-/655?page=2でも、星ひとみの占いによれば「60代でまたやらかす」ってことだから、まだ健康面で衰えることはないってことでしょ。それですこし安心しました(笑)。◇痩せてるのが気になりはしたものの、2月21日の「ぽかぽか」生出演でも、いろいろ面白い話が聞けました。てっきり神田愛花と横浜トークで盛り上がるかと思いきや、神田愛花のほうは横浜よりも港区のほうが好きだと(笑)。まあ、そういう人もいるでしょうね。横浜といっても、ド田舎もあれば旧スラムもあれば旧遊郭もあるし、いろんな面があるわけだから。じつは由貴ちゃんも「8年くらい自由が丘に住んでいた」そうです。この話ははじめて知った。わたしが忘れてるだけかもしれないけど…。凜が「東京出身」といってるのは、それゆえなのかしら?でも、横浜を抜ける風って大事だよね。横浜の海と風は、由貴ちゃんの作品のテーマにもなりうるはずだとずっと思ってる。この日の冒頭のトークでは「ストイック」という形容詞について「ストアという哲学者の名前からきてる」との小ボケもありましたが、これは人名じゃなくて学派名ですね。ストア派は、ゼノンがアテナイのアゴラ北面の彩色柱廊(ストア・ポイキレ)で教授していたことにちなむ。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2%E6%B4%BEそれから映画『恋する女たち』の快晴のラストシーンが加佐ノ岬(石川県)じゃなくて東尋坊(福井県)で撮られたみたいに言ってたけど、これもたぶん勘違いじゃないかな。ほかのサスペンスドラマかなにかと混同してるのでは? 立川智也を中心とするバンドメンバーと数ヶ月おきに遊んでるって話もしてた。アクアラインを走ってたのは「ちゃんゆき」呼びしてる立川智也の車だったのだな。https://t.co/fISfV3xTbo pic.twitter.com/NfZ01VCtti— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) December 28, 2023年齢的にも健康面を気にしはじめてるっぽい。https://t.co/H2OSIYnNWp pic.twitter.com/V7zIdoUrHh— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 いままでになく次女をディスりがち。ペットボトルが気になるらしい。次女は占い好き。そして佐久間大介と相性がいいって!!由貴ちゃんにとって次女は救いの存在。https://t.co/afRLKxDBMq pic.twitter.com/wMJ7AmIA61— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 長女は母親似で、警戒心が強いわりに騙されやすく、男運も悪い。似てるだけに厳しくしすぎたのね。でも、音楽に向いてる!https://t.co/lhbXc6GcfR pic.twitter.com/8CFOYEnETg— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024…さて、ここからは配信ライブの話。上記の「ぽかぽか」に生出演した2月21日の夜、デビュー曲39周年の記念トークライブを武部聡志とともにU-NEXTで配信しました。◇わたしは、そのチケットを買うべく近くのファミマでU-NEXTのプリペイドカードを買ったのだけど「3500円のチケットだから、とりあえず2000円のカード2枚買えば十分よね~♪」などとテキトーな考えで買ったのが大間違い!1ヶ月見放題プランとの組み合わせだったので、カードのポイントは2枚足しても2400円分にしかならず、結局はセブンイレブンで金額指定のカードを買い、不足分の1100ポイントを補うハメに(笑)。でも、結果的にU-NEXTの見放題プランを2ヶ月分ゲットしたのは良かったかも。「1ヶ月見放題+1200ポイント=2189円」だったので、実質的には1000円弱で映画が1ヶ月間見放題なのですね。見放題オンリーの「3ヶ月=4917円」のプランより割安だし、Amazonのレンタル視聴が1本300円だと考えたら、月に4本ぐらいで元がとれる感じ。ためしに観たい映画をリストアップしてみたら、かるく100本は超えた(笑)。シリーズもののドラマやアニメを含めたら200本以上になりそう。まあ、放送中のTVドラマも観なきゃいけないし、さすがに2ヶ月で映画100本観るのは無理だけど、1日1本ずつ観れば2ヶ月で60本、2日に1本のペースでも30本はイケる。これはもう時間との勝負!(笑) なんとか頑張って30本は観たい。これまでU-NEXTのことはよく知らなかったけど、現金派のわたしとしてはクレジットカードなしで利用できるのがありがたいし、去年まで利用してたGYAOの無料動画より検索しやすくて使い勝手もよかった。今後は自分で《映画月間》を設けて、このサービスを利用しようかな、などと思ってます。U-NEXTのラインナップでちょっと驚いたのは、およそ半世紀前に宮城まり子がアフレコしてた『まんが世界昔ばなし』が全話視聴できること!まだ「レミゼ」などという呼称が存在しなかった時代の「ああ無情」や「少女コゼット」が見れる。子供のときに見て以来だけど、絵のテイストとかけっこう覚えてました。それ以外にも、凜が演じてる「オルペウス&エウリディケ」とか、ゲーテの「ファウスト」とか、大人になったいま見ても面白くてためになります。キリスト教文化圏のお話が多いので、けっこう宗教色が強いけれど。…てな話はどうでもいいとして。なにやら「水響曲」は、由貴ちゃんと武部のユニット名になるらしい。由貴ちゃんが「水」の字を選び、武部が「響」の字を選んだわけだけど、由貴ちゃんにとっての「水」は、たんなる思いつきじゃなく、じつは『透明な水』からずっと繋がってたことに気づきました。《透明で形がなく変化していくもの》という概念は、93年の短編集『透明な水』から2010年の『何もかも変わるとしても』まで一貫して変わってない。由貴ちゃんが引用した《この世の中で唯一絶対があるとすれば、それは変化することだ》って何の漫画のセリフか分からなくて、なんとなく『ポーの一族』のような気はしたものの、残念ながら確認はできませんでした。一般的にはスウィフトの《There is nothing in this world constant but inconstancy》という言葉が知られてます。由貴ちゃんいわく、水は「いちばん必要な根源でありながら、透明で、いかようにでも形を変え、ひとところに留まらず流れていく」と。わたしは『透明な水』のタイトルの意味がいまいちよく分かってなかったけど、今回の話を聞いてようやく分かった感じ。ヘラクレイトスの「万物流転」も平家物語の「諸行無常」も同じことだけど、むしろ由貴ちゃんにとっては「透明」というところに力点があるのかも。かりに人生が透明な水であるのなら、それはいっさいが「無」であり「無常」ということです。余談ですが、…漫画といえば、上述の「ぽかぽか」でもアニメの話題になってて、近年の由貴ちゃんは『鬼滅』『チェンソーマン』『呪術廻戦』『葬送のフリーレン』などを観てるらしい。『呪術廻戦』の影響でKing Gnuのドームライブにも行ったと。チェンソーマンなんて怖そうな漫画を読んでるのは浜辺美波や山崎紘菜だけかと思ったら、由貴ちゃんもしっかり観てるのね…(笑)。さすが鬼滅どまりのわたしなんぞとはアニメ好きの格が違う。正直、北斗の拳にもベルセルクにもついていけなかったけど、チェンソーマンにもついていけません。ちなみに、奥森皐月と結婚しちゃったハライチ岩井も、山崎紘菜とアニソンバトルを繰り広げるほどのアニメヲタクだよね。#山崎紘菜 #浜辺美波 #チェンソーマン pic.twitter.com/kFJ5KMyNgg— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 28, 2023ライブの1曲目は「MAY」でした。長岡と武部の蓼科選曲合宿の話。そして、谷山浩子と中島みゆきにはホワイトorブラックの二面性があり、中学時代の由貴ちゃんにとって、この2人は対照的ながらも双璧だったとのこと。先日の「霜降り80'S」でも、中島みゆきについてかなりツッコんだ話をしてましたよね。以下は由貴ちゃんの話。ーー初心者の方に伝えたい、中島みゆきの魅力って何ですか?自分の傷をあからさまに晒しているところ。よく見せたいとか、綺麗に思ってもらいたいとか、キチンとしてると思ってもらいたいとかっていう風に、なんとなく表現をオブラートに包んでしまおうとする自分がやっぱりどっかしらにいると思うんですけど、自分ががむしゃらに向かっていって痛みや傷を負って血を流して…っていうのを全部表現してる。表現に命かけてる感じがすごくする。リスキーでもそうやって生きていくしかない…っていって生きてる感じがする。さらけ出してるという意味でいえば、すでに斉藤由貴のほうが中島みゆきを凌いでますけどね。…というか、現代の日本社会で斉藤由貴ほど自分をさらけ出して生きてる人など存在しない。みんな他人のことばかりあげつらって卑怯な自分を隠しながら生きてるのだから。https://t.co/RlTP1myyHf pic.twitter.com/PQDTkvVzWI— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024 由貴ちゃんとヒコロヒーの選曲が対照的なのも面白かったな。ヒコロヒーが「負け女のやさぐれたセンチメンタリズム」に共感してるのに対して、由貴ちゃんは中島みゆきの「孤独」や「達観」に共鳴してる感じだった。斉藤由貴という人は、どんな状況でも自分のことを惨めだとは考えないと思ってたのよね。これはたぶん「横浜だからカモメ好き」ってのが最大の理由だとは思うけど、カモメの孤独をさえ「惨め」とは考えず、むしろ「美しい」と思うのだろうし、なんなら「そこにこそ至高の悦びがある」と考えるのが斉藤由貴だろうと思ってた。ーー「かもめはかもめ」について。横浜だからカモメ好きっていうのもある。「青空を渡るよりも…♪」みたいに、すごく明るいじゃないですか。ふわっと広がっていくビジュアルの感じと。でも、ふっと曲調が一瞬にして入れ替わって「かもめはかもめ、ひとりで空をゆくのがお似合い」って、ちょっと悲しくなる。その変化の仕方がすごく素晴らしいなって思います。よく私たちって「空を飛べる鳥がいいな」とか言うじゃないですか。「飛べることが羨ましい」みたいになるけど、最終的にいわんとする究極のところは「孤独」っていうことなんだと思うんですよ。その「孤独」を悲壮感をもって抱きしめるんではなくて、ふわふわ空を浮きながら「ひとりで孤独で、もう行くんでいいんじゃん」みたいな感じの軽やかさがすごい好き。でも、昨日の星ひとみの話によれば、じつは斉藤由貴は「孤独に弱く依存しがち」なのだと。これはあくまでも占いですが、そのように看破されるのも、ひとつの気づきになるかもしれません。高い場所に住むのは、丘の上が約束の地だからね。https://t.co/jY7vA1C8JK pic.twitter.com/r3BMxJ5D4Z— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024さらに由貴ちゃんの場合は、80年代の中島みゆきに対して世代的なノスタルジーがあって、たぶん「悪女」とか「夜曲」とかが好きなのはそういうことでしょう。80年代の中島みゆきのポップでキャッチーなところに惹かれる感覚はわたしにもある。わたしは86年の「横恋慕」がいちばん好き。ヒコロヒーのほうは、由貴ちゃんとは対照的に、泥水を舐める人間の悲哀や感傷や慰めに共感してるっぽかったけれど、その反面で「うらみ・ます」の歌詞を俯瞰的な自虐ユーモアと解釈してたのは興味深かったです。凜も由貴ちゃんもキョコロヒー。由貴ちゃんのときと同じ企画w安里麻里は『氷菓』の監督。#斉藤由貴 #水嶋凜 #キョコロヒー #泥濘の食卓 #ヒコロヒー #齊藤京子 https://t.co/dvUsqLKckX pic.twitter.com/unyUGQdjZN— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 31, 2023なお、由貴ちゃんは、リスペクトライブに出演したものの、中島みゆき本人にはまだ会ったことがないとのこと。「歌縁」(うたえにし)-中島みゆき RESPECT LIVE 2023- [ (V.A.) ] 楽天で購入 中島みゆきのシングル曲はサブスクで聴けますが、いまのところアルバム曲のほうはSpotifyとかには配信されてませんね。「夜曲」の原曲も聴きたいし、由貴ちゃんバージョンの「夜曲」も聴いてみたい。中島みゆきといえば… 由貴ちゃんは、櫻井・有吉の「夜会」にも出演して《超速台詞覚え》にチャレンジしてました。台本をもちかえらず現場でその日のセリフを覚えるってのも不思議だったし、もしかして由貴ちゃんが読書家なのは映像記憶的な速読術を体得して超人的な集中力をもってるからではないの??などとも思ってたのだけど、あえなくレベル2で撃沈してました。わりと普通の人だったので安心(笑)。https://t.co/2squUNjaQl pic.twitter.com/oXXYhN52f4— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 27, 2024…ライブの2曲目は「青春」でした。母ピッチャー、娘キャッチャー。#斉藤由貴 #水嶋凜 #デビュー作#直ちゃんは小学三年生 #直ちゃんは小学五年生 pic.twitter.com/GeJg3BtKdx— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) October 9, 2022 筒美&松本による「卒業」「初戀」「情熱」と合わせて漢字2文字4部作になるという話。音楽惑星さんは、松田聖子の「制服」も合わせれば松本隆の5部作だと言ってたけれど。(ちなみに「制服」の作曲はユーミンです)ま:「卒業」に続いて「初戀」と「情熱」で二字熟語の3部作になるわけですけど、ほんとは、なにげに「青春」も二字熟語だったんですよね。惑:松本さんの作品として見れば、松田聖子の「制服」からはじまる5部作という見方も可能かもしれません。http://manzara77.blog.fc2.com/blog-entry-248.html…3曲目は「木綿のハンカチーフ」。由貴ちゃんの「卒業」が、太田裕美の「木綿」のエピソード0にあたるという噂の話。噂の出どころが松本隆本人かは判然としない。映画『青いうた〜のど自慢青春編』のときは、めずらしく体調が悪くて立ち上がることもできず、点滴を受けてから車椅子で撮影現場に入り、歌った後はまた車椅子で帰ったという話。そんなことあったのね。…4曲目は「夢の中へ」。井上陽水にかんしても、崎谷健次郎のプロデュースした『âge』にかんしても、おおむね音楽惑星さんとの話は終えてるのだけれど、公開のタイミングを逸したまま、もう5年も経ってるwww音楽惑星さんは「そのうちアップする」と言ってるけど、このままお蔵入りでもいいんじゃないかなあって気がしなくもありません。情弱すぎて事実関係のわからないことも多いし、谷山浩子の歌詞について勝手な解釈を垂れ流すのも、若干の後ろめたさを感じるようになってきたから。…情弱といえば、最近はだんだん萌音・萌歌・美波の情報も追いきれなくなってきたのよね(笑)。とくに年末年始は、去年もすごかったけど今年もすごかった。大晦日と元旦だけでも3人が出まくってました。12/31萌歌:Nコン90回のあゆみとともに 7:20~萌音:ポルトガル・アゾレス諸島 12:15~美波:紅白歌合戦 19:20~美波:ぐるナイおもしろ荘 23:45~1/1萌音:朗読『妹』という祝福 6:05~萌音:四国お遍路の旅 7:20~萌歌:バナナサンド元日SP 17:00〜美波:有吉弘行の爆食ツアー 20:50~萌音:あたらしいテレビ 22:15〜(元旦の番組のいくつかは地震の影響で延期)萌音が朝ドラ主演のあとに帝劇『千と千尋』初演をしたのも、朝ドラ『はね駒』のあとに帝劇『レミゼ』初演をした由貴ちゃんを彷彿とさせたけど、由貴ちゃんと同じく朝ドラ主演のあとに紅白司会をやってのけたのは浜辺美波でした。ちなみに美波は『ゴジラ-1.0』で国際的な評価を得てますが、萌音が主演した『夜明けのすべて』のほうも国際的に注目されてる。すくなくともヨーロッパでは濱口竜介と三宅唱が並び称される形になってます。そして、この2人は相米慎二の系譜を引いてる面がある。…5曲目は「春よ、 来い」でした。ユーミンの春の曲ってことで、てっきり「ダンデライオン」かと思ったら、これはまさかの選曲。去年は一青窈が歌ったわけですが。https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202304180000/この曲は迷宮的だ、と話す由貴ちゃん。いわれてみれば、そうなのです。迷宮といっても、けっして「不思議の国のアリス」のような謎や魅惑に満ちた世界じゃなく、むしろ人生の春を待ちつづける者の永遠の迷いの歌です。谷山浩子のような自虐的なユーモアもなく、むしろひたすらに悲しい曲だというべき。もしかしたら世間では希望の歌だと受け止められてるかもしれないけど、じつはとても悲しい歌だと思う。ここ最近の由貴ちゃんが「死」について考えるようになったこととも無関係な選曲ではないのかも。春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く 夢よ 浅き夢よ 私はここにいます君を想いながら ひとり歩いていますそういえば、朝ドラ『春よ、来い』に主演したのは安田成美でしたが、彼女も由貴ちゃんと同い年で、やはり3人の子育て(男・男・女)が終わって一段落したらしく、夫婦それぞれ活動が顕著になってます。夫はドラマ『春になったら』の末期癌の父親役で奈緒と共演してるし、安田成美は細野のリアレンジで「風の谷のナウシカ」を再録音して、先日は「徹子の部屋」に出演してました。いちおう安田成美も相米組だったのよね。当初は『雪の断章』に彼女が主演する予定だったって噂もある。でも、彼女の口から相米の話ってあんまり聞いたことがない。いまのところU-NEXTのラインナップにも『光る女』は含まれてません。U-NEXTのラインナップは、ゴダールは充実してるのにエリック・ロメールが1本もないとか、小津や黒澤は充実してるのに山本嘉次郎や溝口健二にだいぶ不備があったりとか、けっして万全とはいえません。まあ、わたしの場合はとりあえず2ヶ月間利用するだけなんだから、まったく問題ないけど。…ライブの話はここまで。◇以下は「霜降り80'S」で由貴ちゃんが中島みゆきについて話した内容のメモです。ーー中島みゆきの歌詞の世界について。ダークで恨みとか情念みたいなところがあるかと思うと、地球とか人生とかをものすごく俯瞰で見たような作品もけっこう書かれてて、「時代」もそうですけど、人生とはそういうものっていうのを、私たちに諭し、諦めさせ、そのあとに勇気づけてくれるみたいな、多分そういう歌なんだと思うんですよね。ーー「炎と水」について。炎と水、相反するものが対照的なところに立っているんだけれども、その2人がどうしようもなく惹かれあって、ともに歩んでいくみたいな感じ。北海道出身ですから、炎とか水とか雪とか氷とかっていうのを歌うと、彼女の生まれもってきた土地のバックグラウンドがすごく感じられる。(この話を聞いて相米慎二の『風花』のことをちょっと思い出しました)ーー「永久欠番」について。歌詞の中に「100年前も100年後も私がいないことでは同じ」っていう歌詞があって、本当そのとおりだなと思う。私たちはいま生きてるけど、100年前に生きてなかったし、100年後もたぶん生きてないじゃないですか。自分がこの年齢になって人生の残り時間とか人生ってどんな意味があるんだろうなとか、やっぱりけっこう考えるわけですね。救いと、あとそれから「執着するなよ」っていうことをメッセージとして与えてくれる歌です。ーー「夜曲」について。たぶん、みゆきさんが本当に自分のことを書かれたんだろうな。どの曲もそうなのかもしれないけど。彼女がラジオやってて、その深夜ラジオで「私が言ってることとか歌ってる歌はすべてあなたに向けて歌ってるのよ」っていう歌なんですね。「どこかの街角でこの私の声とか歌を耳にしたら、すこしだけ私のことを思い出して」っていうような。私、ラジオがすごく好きなんです。耳だけで聞いて、たくさんの人が聞いてるかもしれないけど、不思議な「1対1感」があるじゃないですか。彼女はしゃべりながら、ただひとり自分が本当に心から愛する人たちに向かってしゃべってる、…あるいは歌ってるんじゃないのかなっていう感じがすごくする。だから有名な曲ではないかもしれないけど、私にとってはいちばん好きな曲に近いかもしれない。ーー中島みゆきの曲をどういうときに聴きますか?くじけそうなときですかね。自分の中にいろんなものが絡まってしまって、何が正解かとか何を選ぶべきかとか分からなくなるような、自分の中でこんがらがっちゃったときとかに、そういうものを「大したことじゃないんだよ」っていう風に「とりあえずみんな捨てちゃっても良くない?」とか「とりあえず手放してみなよ」っていうようなことを言ってくれる気がする。
2024.02.28
またまた一週おくれで、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第6話の《タイムトラベル》を見ました。めっちゃ面白かった!!いつもならオカルトっぽい要素があっても、ちゃんと種が明かされるのだけど…ついに今回はマジモンのSF??◇2059年からやってきた殺人未遂の女。未来では地球温暖化が深刻化し、キリンやオランウータンが絶滅し、環境運動家の男が極右政党と組んで独裁者になってる…と。でも、未来の独裁者が逮捕されて、石油企業オペラ社の不正が暴かれれば、タイムパラドックスが生じて未来が変わる?◇はじめのうちは、オペラ社がその女を暗殺者として雇い、環境運動家の男を消そうとしたと推察されました。そして女は、その報酬の大金をワイロに使って、護送車から脱走したのじゃないかと疑われた。でも、実際は、環境運動家の男こそが、オペラ社から大金をせしめて、おなじ環境運動家の女性を殺害していたのですね。なので、オペラ社が男を暗殺する理由などなく、女に大金を支払う理由もありませんでした。そう考えると、やっぱり女は脱走したんじゃなく、タイムリープで未来へ戻ったとしか考えられない!※余談ですが「タイムリープ」ってのは和製英語だそうです。◇でも、ラファエルは、猫が引っ掻いた女の子の手首の傷を確認しませんでした。それが未来人の傷と同じかどうかは、視聴者のご想像におまかせします!…って感じ?そこらへんの演出もニクい!まあ、女がほんとに未来人だと証明したかったら、DNAを鑑定して、レイプ犯だった環境運動家の男と父娘関係を調べれば、確実だったのだけどね。◇◇今回のエピソードには、SFっぽい本筋以外にも、いろいろと興味深い部分がありました。…ひとつは、環境運動家の男が、スラノヴスキーという東欧・ロシア系の姓だったこと。これには何かモデルや背景があるのかしら?ためしに「SRANOVSKI」でググってみたけど、何の情報も出てきませんでした。「スワロフスキー(SWAROVSKI)」なら、オーストリアの高級ガラスブランドですけども。…ちなみに、殺された仲間の女性は真面目なヴィーガンで、オペラ社の不正も本気で暴こうとしてたのに、スラノヴスキーのほうは、もともと悪質なレイプ魔で、金のためにオペラ社と手を組んだり、権力のために極右政党と手を組んだりしていた。彼にとって環境運動は、金と権力を握るための見せかけ・隠れ蓑だった?◇ついでながら、「ヴィーガンの死体は腐敗しやすく肥料になりやすい」って話も興味深い。いってみりゃ有機農法だよね…。ツバキの花は、品種によって、開花時期が11月〜4月ごろまでバラバラだけど、肥料しだいで開花が早まったりするのかしら。ふつうの椿も、ヴィーガンの死体を埋めれば寒椿になる??◇ノラとニコラの以下の会話も気になりました。ノラがニコラに、> ベビーブーム世代の人は音楽の趣味もいいし、> X世代やZ世代の人よりも好きだわみたいな思わせぶりなことを言ったのだけど、こういう世代分類って世界共通なのねえ…。ネット情報によると、X, Y, Z世代は米国発祥の概念だそうです。かたやベビーブーム世代ってのは、日本でいう「団塊ジュニア」のことかと思いましたが、Wikipediaによると、アストリッドやラファエルは30才の設定らしいので、たぶんニコラもそのぐらいの年齢だと思うし、いわゆるY世代(ミレニアル世代)のことですね。しかし、そこにフランスのベビーブームがあったかどうかは、調べてみても分からなかった。◇もうひとつ気になったのは、「アストリッドはニルスの指ぬきだ」という表現。たぶん指ぬき=保護者ってことだと思うけど、日本ではあまり耳慣れない言い方。フランスの慣用句なのかしら?ためしに「指ぬき・フランス」でググってみたら、可愛いアンティークの指ぬき画像がたくさん出てきました(笑)。フランス語の指ぬきは男性名詞の「dé」だそうですが、残念ながら比喩や慣用句の用法までは調べきれない。SAJOU ファインボーンチャイナ 「A」 指ぬき シンブル 【DÉ DE COLLECTION PORCELAINE - POINT DE CROIX - LETTRE A】 フランス MER_DE_FISMES_A 【予約】 楽天で購入 サジュー 指ぬき シンブル ホワイトポーセリン 【DÉ DE COLLECTION PORCELAINE BLANCHE BRODEUSE SAJOU ROSE】 手芸 パッチワーク キルティング フランス MER_DE_REIMS_ROSE 【予約】 楽天で購入 Sajou(メゾンサジュー) 指ぬき シンブル アセテートクリスタル 【DÉ DE COUTURIÈRE ÉCOSSAIS】 フランス MER_DE_ECOSSAIS_01 【予約】 楽天で購入
2024.02.27
フジ・カンテレ月10「春になったら」見てます。末期ガンの父と、嫁ぐ娘の話。物語のテーマはオーソドックスともいえる。俳優陣も演技派ぞろいで安定した内容。これは第4話ぐらいのシーン。1週おくれの第6話ですが…。父の雅彦(木梨憲武)をはじめ、ようやくみんながカズマル(濱田岳)の存在を受け入れました。予想どおりの展開ではあるけど、やっぱり泣いてしまう。忘れられないような幸福な時間。じんわりとした神回だった。龍ちゃん(石塚陸翔)の存在に救われる。子供がいるだけで救われることってあるよね。「ピザ食べたい」とか「おじい」とか言ってくれるだけで、老いることの寂しさが紛れます。たとえ血がつながってなくても。ふとした瞬間に死ぬのが寂しくなる…というのは、とてもリアル。
2024.02.27
映画「マッチング」のプロモーションがはじまってから、ずいぶん痩せて見えるんだけど。配信ライブのときとくらべても、急激に痩せてる感じがする。役作りなの?腕まで細くなってる感じで、あまり健康的な痩せ方には見えないし、ちょっと気になる。年齢的にも、そろそろ健康を第一に考えるべきでは?
2024.02.26
親友のしゃがれたエール忘れ雪 デンモクがふたりを隔てる春休み 春の夜のカラオケ締めは「雪椿」 カラコロンマイクとお酒沁みる春 朧月負けたらあかんで東京に 「なごり雪」君を見ないで歌い出し らうらうと僧侶の美声花まつり カラオケの履歴は桜らんまんと2月22日のプレバト俳句。お題は「カラオケ」。◇GLAY・HISASHI。親友のしゃがれたエール 忘れ雪これが今週の1位。かなり知的に感じられる出来です。的確な写生だけに徹しつつ、ちゃんと心情が伝わってくるし、季語の選択も絶妙だし、中七で切って下五に季語を置く、という二句一章の型もしっかり出来てる。どこにも欠点は見当たりません。◇関口メンディー。デンモクがふたりを隔てる春休みデンモクが隔てるふたり 春休み(添削後)デンモクは第一興商の商品名で、カラオケ操作用リモコン(=電子目次本)だそうです。まず問題のひとつは、中八をどう処理すべきか。助詞「を」を除けば済む話ではあるけど、語順についての先生の解説は正確さに欠ける。「ふたり隔てる」なら動詞に軸足が来て、「隔てるふたり」なら名詞に軸足が来る、…みたいな話じゃないでしょ!これは、あくまでも切れの問題です。つまり、「隔てるふたり」とすれば、中七が名詞止めになって切れるけれど、「ふたり隔てる」とすれば、動詞の連体形が下五に繋がるわけです。先生&梅沢の添削案だと、中七で切れるために、映像のない季語「春休み」だけが浮いてしまう。季語を映像化するには、動詞の連体形で修飾して、デンモクがふたり隔てる春休みと書くほうが正解でしょう。しかし、問題はもうひとつある。そもそも「隔てる」という動詞の選択は、句材の状況を描くのにふさわしいのかどうか。この動詞を使うことで、二人の関係がネガティブな状態に見えて、別れを予感させてる気がしなくもない。作者いわく、二人の関係は、「デンモクを超えてまでは近づけない」ものの、その反面では、デンモクがあってこそ繋がってるわけだから、けっして二人の関係を裂いてるのではありません。いうならば、「繋いでもいるけど隔ててもいる」…みたいな微妙な位置づけのアイテムってこと。それを客観的に写生するなら、デンモクをはさむ二人の春休みとでも書くしかないと思います。◇田中あいみ。カラコロン マイクとお酒沁みる春ドアベルとマイクとお酒沁みる春(添削後)作者いわく、・おなじ擬音でドアベル&グラスの氷を掛け合わせた・楽しむ人もいれば悲しむ人もいるカラオケ店の様子とのことです。ちょっと材料が多すぎますよね。「カラオケ」「ドアベル」「グラスの氷」の3つの要素を描きながら、客の様子まで季語と取り合わせるってのは…。しかも擬音の「カラコロン」は、ドアベルやグラスの氷というよりも、入店客の下駄の音かしら?と誤解してしまう。さらに「沁みる」というのは、作者の主観・心情であって客観写生ではありません。あえて「沁みる」とは書かずして、そこに集う人々の心情を想像させなければならない。かりに「歌と酒が沁みる」と書いていれば、かろうじて聴覚&味覚の描写と言えたのだけど、「マイクが沁みる」という変な表現をしたことで、そうも言えなくなってしまった。そして、添削句のように、「ドアベルとマイクと酒が沁みる」と書いたなら、これはもう聴覚や味覚の描写ではなく、状況に対する心情の表現と解釈する以外にない。かりに「カラオケ」の要素を省くなら、ドア鈴と水割り 泣き笑いの春のように書けます。◇レイザーラモンRG。朧月 負けたらあかんで東京に例によってネタを組み込んだお約束の作風。今回は天童よしみネタを取り入れたわけですが、パクリ審判で「70点」から「3点」への大減点。歌謡曲の七五調を安易に取り入れる失敗は、星の入東風 今夜の恋をくれた人のときに予測したとおりの結果です↓https://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/202211150000/このときの前科があったわけだから、まして「カラオケ」の兼題で詠ませれば、こういう顛末になるのは想定内だったし、そう考えれば、今回の減点査定は、あらかじめ番組が仕込んだものと思えなくもない。…とはいえ、当初の査定が「70点」だっただけあって、句としてみると、じつによく出来てるのよね(笑)季語の選択もけっこう的確だし、「で」を省けば中七の定型になるものの、あえて中八のダメ押し効果を狙った気もする。たぶん、この人は、俳句の作り方は心得てるんだろうなと思う。◇梅沢富美男。らうらうと僧侶の美声 花まつり締めの一句に認定されましたが…中七の「美声」があれば「らうらう」は不要だし、逆に「らうらう」があれば「美声」は要らないでしょ。ためしに、らうらうと読経の若し 花まつりとしてみました。しかし、もっと根本的なことをいえば、「花まつりで読経する」のは当たり前なのだし、「剪定で鋏の音がする」ってのと同程度に無内容な凡句です。伝統行事にかんする知見をひけらかしただけ。◇小林幸子。春の夜のカラオケ 締めは「雪椿」雪椿咲きカラオケの締めはさて(添削後)曲名をそのまま季語として用いたら、季語の鮮度が落ちてしまうという話です。添削では、あえて曲名とは明示せず、あたかも実景の季語っぽい体際にして、そこから曲を連想させる、という作戦。…それはまあいいとして、添削句の「咲き」と「さて」は、不必要な音数合わせにしか見えません。ためしに、雪椿 カラオケの締め選びけりとしてみました。◇武田鉄矢。「なごり雪」君を見ないで歌い出しなごり雪 君を見ないで歌い出す(添削後)これも実景の季語から曲名を連想させる添削。…それはいいとして、そもそも「君見ず歌う」と書けば7音で済むものを、後段の12音をまるまる使う必要ってあるの?とくに中七の「見ないで」は、あまりにも口語的かつ散文的な言い回しだし、かりに4音分を使うにしても、「見ずして」「見ぬまま」「見れずに」のように書くべきでしょ。下五「出す」の必要性についても疑問なので、なごり雪 君見ぬままに歌う夜とでも直してもらいたい。もしも12音分を7音で済ませるなら、なごり雪 君見ず歌う博多の夜よのようにさえ書けるはずです。◇清水アナ。カラオケの履歴は桜らんまんとこれまた曲名を季語とするのでなく、やはり実景から曲名を想像させるべき内容。単純に添削するのなら、カラオケの履歴 桜のらんまんとでもいいでしょうが、カラオケの履歴や 並び立つ桜と書いたほうが楽曲履歴を連想しやすいかも。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥おしい…!今週の放送回で学びましょう!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/3ixZe39wS8— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 19, 2024 ▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.26
またも周回おくれですが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第5話の《盤上の殺意》を見ました。今回は、犯人のチェスおたくっぷりが炸裂!アストリッドがチェス対決で自白させた結末もお洒落だった。◇わたしはチェスができないし、小ネタの多くもチンプンカンプンだったけど、チェス好きにはたまらない内容だったかも。いちおう、わたしなりに、ドラマに出てきたチェスネタを調べてみました。ほとんどはニコラが話してたネタです。1.ロシアの「ルーク」は舟。チェスの「ルーク」という駒は、塔や城塞みたいな形をしてますが、ロシアでは「ラディヤ=船」と呼ぶらしい。チェス駒の概念は国や地域で異なるのですね。これは「ルーク」だけの話じゃない。もともと、古代インドのチャトランガという盤ゲームが、ペルシャでシャトランジになり、中国でシャンチーになり、日本で将棋になり、ヨーロッパでチェスに変わったとのことで、その結果、チャトランガの「ラタ=戦車」が、将棋では「香車」や「飛車」に変わったのだけど、これがチェスでは「塔」や「船」に変わってる。その経緯や理由は謎です。◇…ちなみにロシアといえば、今回のドラマには、「ロシアン・ザグレブが制作したチェス駒」が出てきて、これが事件解決の糸口になってましたね。きっと職人の手彫りによる高級品なのでしょうが、ネットで調べても詳しいことは分かりませんでした。日本でいったら、天童市の将棋の駒みたいな感じ?2.チェスとフリーメイソンの関係。これもよく分からないけど、たぶん「テンプル騎士団のチェス」のことだと思う。…といっても、▽Wikipediaに画像が掲載されてるだけで、https://ja.wikipedia.org/wiki/チェスの歴史それ以上の情報はネットを調べても出てこない。他方、「十字軍とサラセン人のチェス」を描いた絵も、ネット上にたくさん出てきます。つまり、チェスは、ヨーロッパ人とアラブ人の共通の遊びだった?それとも、チェスの伝播が十字軍遠征に関連してる?3.宇宙論の「クイーン」は変わりゆく魂。この話もよく分からなかったのですが、ちょっと気になったのは、甚野尚志の『中世ヨーロッパの社会観』という本です。1992年の『隠喩のなかの中世』を改題・文庫化したもので、もともとの単行本の内容紹介には、蜜蜂・人体・建築・チェス盤のなかに、宇宙の神的な秩序や社会の理想的なあり方を見出した中世ヨーロッパの人々の世界観を再現する。と書かれてます。中世ヨーロッパには、チェスに見立てた宇宙論があったのかもしれません。中世ヨーロッパの社会観【電子書籍】[ 甚野尚志 ] 楽天で購入 4.宰相シッサの米粒の説話。この話はネットでも確認できます。米粒じゃなくて麦粒になってる場合が多いけど。英語のWikipediaにも詳細な記事が載ってます。https://en.wikipedia.org/wiki/Sissa_(mythical_brahmin)https://en.wikipedia.org/wiki/Wheat_and_chessboard_problemいわく、インドの宰相シッサは、チェスを発明した褒美として何を望むのか王に問われ、> チェス盤の1マス目に1粒、> 2マス目に2粒、3マス目に4粒、4マス目に8粒、> …とマス目ごとに粒の数を倍にして、> 最後の64マス目に置かれた小麦の粒が欲しいと言ったのですね。これは2の63乗になる。似たようなものとしては、日本の曽呂利新左衛門の説話があって、彼は、豊臣秀吉から褒美を問われた際に、> 1日ずつ米粒を倍にした100日目の米粒が欲しいと言ったそうです。これは2の99乗になる。◇これは要するに指数関数の話で、> 折り紙を26回折ったら富士山より高くなるってのと同じようなことです。2の26乗は、67,108,864。2の63乗は、9,223,372,036,854,775,808。2の99乗は、633,825,300,114,114,700,748,351,602,688。https://ja.wikipedia.org/wiki/2%E3%81%AE%E5%86%AAなお、曽呂利新左衛門は秀吉に仕えたお伽衆で、落語の始祖ともいわれてますが、実在した人物かどうかは不明だそうです。インドの宰相シッサも、おなじく伝説上の人物です。5.囲碁の打ち手とチェスの打ち手。アストリッドは、テツオとの囲碁練習が功を奏して、犯人とのチェス対決にも動じませんでした。これって、ある意味、チェスに対する囲碁の優位性を示してる気もする。実際のところ、囲碁の打ち手(局面数)はチェスよりはるかに多く、チェスが10の120乗、囲碁は10の360乗だそうです。木製 チェス セット ポーランド製 Olympia オリンピア ブラウン35cm×35cm chess set ハンドメイド 駒盤 数量限定販売 楽天で購入 初心者の木製囲碁入門セット ※木製新桂13路9路盤・プラスチック碁石椿(白石84粒・黒石85粒)・ブロー碁笥・囲碁入門本(1冊選択) 楽天で購入
2024.02.24
本職に黙礼される今年も春 春の雲血のり右目に染みており 春夕焼台本ト書き「ここで泣く」 初刑事手錠震わす余寒かな 冴えかえる帰宅後妻の取り調べ ロケバスに積む犯人の春日傘 張り込みのあんぱん香る桜漬け 刑事ドラマ沈黙破る鶯よ2月15日のプレバト俳句。お題は「刑事ドラマ」。◇矢柴俊博。春の雲 血のり右目に染みており春の雲 右目に染みてくる血のり(添削後a)撮影のどか 右目に染みてくる血のり(添削後b)紺野まひる。春夕焼 台本ト書き「ここで泣く」春夕焼 ト書き犯人「ここで泣く」(添削後)どちらの句も、上五に季語を置き、撮影の場面と取り合わせた作品。添削は入ったものの2句とも「才能アリ」の査定でした。なお、矢柴俊博の添削は、(b)よりも(a)のほうがいいと思う。状況は下五の「血のり」で想像できるはずだから、わざわざ冒頭から字余りでネタバレしなくともよい。◇内藤剛志。本職に黙礼される 今年も春本職に黙礼さるる春やまた(添削後)上の2句をおさえて、今週の一位だったのがこの作品。しかし、その評価が適切かは疑問です。まず作者が誰かを知らなければ、上五の「本職」の意味が分かりにくい。リズムや形式の面でいうと、下6の字余りもさることながら、中七に切れがあるかどうかも判然とせず、(終止形か連体形かが不明瞭)俳句の形として、いまいちボヤッとしてる。…添削句は、古語を使って動詞が連体形であることを明示し、くわえて下五の字余りも解決してます。ちなみに、ここで注目したいのは、添削句の下五「や」の用法です。以前もこういう添削があった気がするけど、思い出せない。一般に、切れ字「や」は場面を転換するため、リズムだけでなく意味の切れも生むのですが、実際には、場面転換をともなわない「や」もあって、たとえば芭蕉の「古池や」も、じつは場面を転換してないとの解釈がある。また、日本語の間投助詞「や」には、詠嘆のみならず呼びかけの意味もあるので、たとえば「ポチや、お食べ」のようにも使える。そこに場面転換はなく、多くの場合はリズムの切れさえありません。詩歌にも「これやこの」「春や春」などの例がある。それらは切れ字とは異なる「や」の用法です。なお、場面を転換しない「や」の用法については、↓以下の記事でも言及されてます。https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_55.jsp◇トレンディエンジェル斎藤。冴えかえる帰宅後妻の取り調べ冴返る深夜の帰宅 妻や待つ(添削後)下五の「取り調べ」はつまらない比喩。しかも、比喩だと伝わらなければ、妻が容疑者になった場面と誤読されます。かたや添削のほうは、またも下五で切れ字ではない「や」の用法!もしや先生のマイブーム?その是非はともかく、今後、この用法が増える可能性もあります。◇大友花恋。初刑事手錠震わす余寒かな余寒なり 手錠をかける初シーン(添削後)切れのない一句一章を「かな」で締める形。俳句の型はちゃんと出来てますが、主語に助詞がないため、リズムが上五で切れるのはちょっと惜しい。上五の造語「初刑事」は、兼題写真がなければ読み手に伝わらず、「刑事としての初仕事」「生まれて初めて会った刑事業の人」などの誤読を招きます。また、初めての刑事役に挑んだ「緊張」を、季語の「寒さ」と重ね合わせたことで、かえって焦点が散漫になっている。それらの問題は、刑事デカ役の手錠震わす余寒かなのように書けば、いちおう解決します。季語の「余寒」と「震え」が、重複(もしくは因果関係)に当たるとの見方もありますが、「刑事役の手錠の震えない余寒があったら持って来い!」とまでは言えないし、むしろ原句の問題は、「緊張」&「寒さ」の二重の因果が重複する点にあるので、「緊張」の要素を排して「寒さ」だけに特化したほうが、(添削というよりも改作になるけれど)手錠の金属の冷たさも際立ってくるはず。かたや添削句のほうは、「緊張」&「寒さ」を両立させたまま、それらが「震え」に帰結する因果関係を排除した形です。もちろん、それもひとつの選択ではある。ちなみに、添削の上五は「なり」で言い切る珍しい形ですが、その是非はちょっと判断しかねます。◇清水アナ。刑事ドラマ 沈黙破る鶯よここで描かれてる状況は、舞台かドラマかの違いはあれど、森口瑶子の「くつさめ(くっさめ)」の句とほぼ同じ。上7字余りの「刑事ドラマ」はちょっと状況説明的だし、下五の「よ」は詠嘆するだけの必然性に乏しく、取ってつけただけの音数合わせに見える。鶯の鳴き声を《子季語》と見なせば、刑事デカ役の台詞遮るホーホケキョのような定型にも出来ますが、それでもまだ因果関係の説明くささが残る。やはり森口瑶子の「くっさめ」と同じく、刑事デカ役の沈黙 鶯の初音のような対句に直すほうが描写的ですね。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥お題がハード過ぎた…🤷♀️#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/khSOf6tqZI— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 12, 2024◇森口瑤子。ロケバスに積む犯人の春日傘犯人が女…ってところにドラマがありますよね。しかも日焼けを嫌う優雅な金持ち女の役どころ。その天気の良さとサスペンスの暗さの対比も面白い。◇梅沢富美男。張り込みのあんぱん 香る桜漬け桜漬けほんのり 張り込みのあんぱん(添削後)原句は、切れがあるのかないのか分かりにくいものの、香るのは「あんぱん」じゃなく「桜漬け」だろうから、構造的には中七で切れる句またがりです。(作者にその自覚があるかは知らんけど)そして、そのことをハッキリさせるためには、張り込みのあんぱん 桜漬け香ると書いて動詞の主語を明確にすればよい。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.19
またまた一週おくれですが、「アストリッドとラファエル4~文書係の事件録」第4話の《不死の男》を見ました。今回のテーマは"トランスヒューマニズム"。すなわち《超人間主義》です。遺伝子工学などによって、人間が生物学的な限界を超えるという思想。ストーリーは、いままででいちばん面白かったかな。◇以下は、簡単なあらすじネタバレ。メッタ刺しに殺されたのは遺伝子研究者の男。ところが、凶器に付着してたのは被害者自身の指紋とDNAだけ。もしかして自分で自分をメッタ刺しにした??そんなことありえない!!DNA型が同じ一卵性双生児の犯行とも疑われたけど、被害者に双子の兄弟など存在しません。結局、犯人は被害者の息子でした。…といっても、それはほんとうの息子ではなく、齢の離れたクローン人間だった …というオチ!クローン人間の息子が父を殺す一方で、アストリッドの腹違いの弟ニルスは、父の顔さえ知らないのに、亡き父と同じように鉛筆の噛み癖をもっていた…。そんな2つのエピソードが対比されてます。◇今回、とくに興味をひかれたのは2つの名前でした。ひとつは、遺伝子操作で誕生した赤ちゃんの「アンティゴネー」。もうひとつは、被害者の男が名乗っていた「イザーク・ラクデム」。◆アンティゴネーギリシャ神話のアンティゴネーはオイディプス王の娘です。彼女は、オイディプスの次王クレオーンと対立しました。このアンティゴネーとクレオーンの対立は、神の法(ピュシス)と人間の法(ノモス)の対立といわれてます。それは言い換えれば「自然」と「人工」の対立なのですね。今回のお話では、遺伝子操作の犠牲者である赤ちゃんアンティゴネーを見て、アストリッドが涙を流すシーンがありましたが、遺伝子工学にもとづく超人間主義が、神=自然の法則への冒涜と位置づけられてるわけです。◆イザーク・ラクデム一方、この名前は、デュマの未完の小説から採られてるらしい。その名も「Isaac Laquedem」という1853年の作品。主人公の名前が題名になってるようですが、残念ながらネットで検索しても邦訳が見当たらない。調べてみると、これは「さまよえるユダヤ人」のヴァリエーションで、すなわち不死伝説に材をとった物語のようです。ヨーロッパに伝わる「さまよえるユダヤ人」とは、十字架に向かうイエスを罵ったために、その再臨まで地上を彷徨いつづけるよう呪われた男のこと。つまり、永久に死ねなくなって、いつまでも生きることを強いられたユダヤ人です。◇この「さまよえるユダヤ人」の不死伝説は、その後、さまざまな文学作品などに変奏されてます。ワーグナーの「さまよえるオランダ人」もその一つですが、このアレクサンドル・デュマの「Isaac Laquedem」もそうなのね。日本でいうと、手塚治虫の「火の鳥」や、萩尾望都の「ポーの一族」や、大今良時の「不滅のあなたへ」などの漫画作品も、やはり不死をめぐる物語なので、この「さまよえるユダヤ人」のヴァリエーションかもしれません。Isaac Laquedem【電子書籍】[ Alexandre Dumas ] 楽天で購入
2024.02.14
タン塩を頬張る視線春愁の吾子 ハラミ食む君の笑顔や春の恋 目を背く燃えるパプリカ彼我の春 先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜 焼肉で筋肉つけて春肥大 スッカラの窪みは浅し春の宵 春愁の一人焼肉持て余す 二月の焼肉屋涙の受験生2月8日のプレバト俳句。お題は「焼肉」。◇清水アナ。二月の焼肉屋 涙の受験生AのB/CのDの対句。季重なりなのもあるけど、下五の「受験生」って主観の説明なのかも。つまり、作者が「受験生だろう」と判断しただけで、厳密な意味の視覚情報ではないのでは?視覚的に描写するなら、学生の涙 二月の焼肉屋焼肉屋の冬 セーラー服の涙みたいな書き方になると思います。まあ、かつて受験生だった自分とか、知り合いの受験生を描写した可能性もあるので、季重なりを回避するだけなら、駒場の焼肉屋 涙の受験生焼肉屋の煙 受験生の涙みたいなやり方もあります。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥初歩的ミス…。😭#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/kQx69Mmwo3— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) February 5, 2024◇渡辺満里奈。タン塩を頬張る視線 春愁の吾子タン塩を頬張る春愁の吾子よ(添削後)下7の字余りですが、「春愁の吾子」と書いたら、わざわざその表情まで書く必要はない。なお、語順を逆にして、春愁の子はタン塩を頬張れりのようにも出来ます。◇梅沢富美男。春愁の一人焼肉持て余す春愁と一人焼肉持て余す(添削後)渡辺満里奈と同じ理屈でいえば、下五の「持て余す」が不要との判断になる。つまり、「持て余さない春愁の一人焼肉があったら持って来い!」ってこと。しかし!先生の添削は予想外の一手。下五を消すのではなく、「春愁」と「一人焼肉」を切り離してしまう作戦。これは添削というより改作だけど、なるほど、その手もあるか!って感じです。◇笠原秀幸。ハラミ食む君の笑顔や 春の恋ハラミ食む君と春待つ恋ひとつ(添削後)中七を「や」で切って下五に季語を置く形。そして「ha」の頭韻も踏んでます。…ってことからいえば、俳句の型はしっかり出来てるのだけど(笑)まず内容がつまらないし、「ハラミ食む君」と書いたら、あとは「笑顔」だの「恋」だの書く必要はない。そして、韻を踏むために使ったのか、文語のつもりで使ったのか、女性を可愛く見せるために使ったのか知りませんが、一般に「食はむ」という動詞は、人間が肉を食べるときには使いません。牛や馬が草を食べるときの動詞です。その意味では添削句も容認しがたいので、春待つや ハラミを食べる君の口としてみました。…そもそも、詩歌の世界で、「肉を食べる女性」というのを、綺麗な恋愛対象として描くのは難しいよね。あえてそれをやったら、滑稽になるか、ちょっと諧謔的になってしまう。◇棚橋弘至。焼肉で筋肉つけて春肥大筋肉の映える春なり 肉を食う(添削後)こちらは「肉を食べる男性」なので、女性にくらべれば句材にしやすいけど、発想があまりに散文的で詩情に欠けました。でも、本人の意図はともかく、下五の「春が肥大する」という表現は、考えようによっては面白いのよねw春の息吹が膨れ上がる…とも読めるし、春の妄想が膨れ上がる…みたいな解釈もできなくはない。まあ、作者自身が意図したところは、肉食えば筋肉輝く俺の春みたいな話なのだけど…(笑)。一方、先生の添削もなかなか面白い。下五は「肉喰らう」のほうがいいかも。◇市川紗椰。目を背く 燃えるパプリカ 彼我ひがの春彼と吾と網にパプリカ焦がす春(添削後)市川紗椰にはちょっと期待したのに!予想以上にダメだったな…(笑)。なにか難しいことをやろうとしたっぽいけど、結果的には意味不明な三段切れでした。本人の話によれば、網の上でパプリカが焼け焦げてるのに、それを見て見ぬふりをする自分の姿を、彼との距離感に重ねた…とのこと。うーん。ちょっと何言ってるかわからない!まず上五で、なにか凄惨な場面から「目を背けてる」と誤解させるので、中七の「燃えるパプリカ」もなにやら大仰な事態に見えます。下五の「彼我」は、相手と自分を対比的にとらえる言葉だから、あながち間違った用法とも言えないけど、男女の描写というよりは、パプリカをめぐる地域紛争とか、パプリカに象徴される国家戦争とか、そういう対立の抽象的表現かと見まがってしまう。たとえば、パプリカの焦げるのも見ず 春の彼我のように書けば大仰さは軽減されるけど、それでも状況はちょっと分かりにくい。かりに男女の描写だとしても、まだ出会ったばかりで距離感が埋まらないのか、もう別れ際で距離が遠ざかったのかも判別できない。ちなみに、以前もパプリカを使った句はありましたが、つい、それが季語なのかと錯覚してしまうし、色彩的なぶんだけ季語の主役感を喰ってしまいます。その意味でちょっと扱いにくいアイテム。なお、パプリカの一般的な収穫時期は7月以降なので、本来なら「春の野菜」とは言いがたいらしい。◇和牛水田。先輩をいや肉待ち侘びる二月の夜焼肉屋の前に先輩待つ余寒(添削後)いわく、「俺が寒さのなかで待ってるのは先輩ではなく肉なのだ」ってことだけど、意味も分かるし、句材も面白いとは思う。ただ、それは写生というより作者の心情なのよね。これを描写的に書き換えるのはなかなか難しい。◇フルポン村上。スッカラの窪みは浅し 春の宵掲載決定だそうですが…わたしなら断じてボツ!!句材は悪くない。描いてる映像は良いと思います。しかし、スプーンや匙のヘラ部分を「窪み」って言いますか??「スプーンの窪み」とか「匙の窪み」とか、そんな日本語の言い方は聞いたことがない。むしろヘラじゃなくて柄の部分に「窪み」があるのかしら?…と誤解してしまいます。わざわざ「窪み」などと書かなくても、「浅いスプーン」「浅い匙」と書けば通じるのだから、この句の場合も「浅いスッカラ」と書けば済むのです。たとえば、汁掬ふ浅きスッカラ 春の宵料理屋のスッカラ浅し 春の宵スッカラの浅きこと知る 春の宵のように書けば事足りる。ところが!!Googleで「スッカラ/浅い/深い」を検索すると、なぜか、この「窪み」という表現がネット上に頻出します。ちなみに、「スプーン/浅い/深い」で検索しても、「匙/浅い/深い」で検索しても、この「窪み」という表現はいっさい出てきません。せいぜい「掬う部分」「皿の部分」などと出てくるだけ。にもかかわらず、なぜか「スッカラ」で検索したときにだけ、この「窪み」という謎の日本語表現が頻出するのです。…どゆこと?あくまで、わたしの想像ですが、きっと日本語を使い慣れない韓国人のだれかが、この「スッカラの窪み」という変な表現を使いはじめて、それが韓国料理業界へと広まったのではないかしら?そして、村上も、これをどこかの韓国料理屋かネットで目にして、俳句にそのまま取り入れたんだと思う。しかし、これは日本語の表現としてかなり違和感があります。日本語の「窪み」は、全体の中でそこだけ凹んでる箇所を指すわけで、皿状・椀状の器具などに使う言葉ではありません。「茶碗の窪みに飯を盛る」「鍋の窪みで汁を煮る」「湯船の窪みにお湯を張る」などとは言いません。またしても、おかしな日本語が、公共の出版物に掲載されることになってしまった。やれやれ。▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.12
セクシー田中さん問題。いろいろと議論が進展しています。まずはプレジデントオンライン。西山守の記事です。~芦原さんを苦しめたのは「原作改編」と「SNS炎上」のどちらか~これまでの関係者の発信を読み解くと、ドラマは最終的に全て芦原さんの監修が入っていた。「原作が尊重されなかった」と主張しているのは第三者だけではないか。https://news.yahoo.co.jp/articles/00423158fe0253207d329fbb4b63232794eb7741つまり、ドラマ版「セクシー田中さん」は、双方に想定以上の労力を強いたとはいえ、たえず原作者による修正が加えられたことで、結果的には「原作に忠実」な形で放送されてる…って話。たしかに、この事実は重要です。一部の漫画ヲタクは、「改変されまくりのドラマ版はつまらなかった!!」などと言ってるようですが、それは事実上、芦原妃名子の仕事を否定してることになる。◇最終的に、ドラマが「原作に忠実」な形で放送されたなら、プロデューサーは当初の約束を守ったことになります。…もちろん、いくつかの未解明な部分についての説明責任は残ってますが。それは大きく以下の7点です。1.なぜドラマ化は許諾されたのか。そもそもドラマ化に消極的だった芦原妃名子は、なぜ日テレによるドラマ化を許諾したのでしょうか?いちどは矢島弘一の脚本によるドラマ化を断り、まだ連載も途上だったのに、なぜ三上絵里子プロデュースのドラマ化には応じたのか?その時点で相沢友子の脚本起用は決まっていたのか?これについては、日テレよりも、許諾側の代理人たる小学館が説明すべきだと思います。2.なぜ木南晴夏は5月からダンスレッスンを始めたのか。原作者がドラマ化を許諾する1か月前から、木南晴夏はダンスレッスンを始めていたらしい。これについては日テレから説明するほうが早いでしょう。小学館と口裏を合わせていた可能性もありますが、たんに日テレやホリプロの勇み足だった可能性もあるし、これもまた業界の慣例だったかもしれません。3.プロデューサーは脚本家に何を伝えて何を伝えなかったのか。相沢友子は「初めて聞く事ばかり」とコメントしましたが、具体的に何を指してそう言ってるのかはハッキリしません。さすがに「原作に忠実に」という条件すら知らなかった、…とは考えにくいです。もし、そうなら、第1~8話も修正どころでは済まなかったはずだから。逆に「原作に忠実に」という条件が共有されていたなら、第1~8話の修正は想定内の作業だったといえます。実際、相沢友子も、第1~8話については「自分が書いた」と言ってるだけで、原作者による修正についてはとくに言及していません。一方、終盤の脚本を原作者に交代する可能性については、あらかじめ脚本家に伝えられていたのでしょうか?原作者側から、その可能性を通告されていたにもかかわらず、実際にそんな事態になるとは予想せずに、プロデューサーが相沢友子に伝えてなかった、…ってことも考えられる。その場合、相沢友子にとって脚本交代は青天の霹靂で、大きなショックになったろうと想像されます。そのあたりの事情は三上絵里子が説明したほうがいい。4.相沢友子のインスタ発信は妥当だったのか。相沢友子が、脚本交代の顛末をインスタで明かしたことが、騒動の発端になってしまったわけですが、わたしは、昨日の記事にも書いたとおり、暴露したその行為自体が悪いとは思いません。その種の「不満のぶちまけ」は、ほかの作家や脚本家もやってることだし、あくまで個人の表現行為の範疇であって、べつに日テレ側が制止すべきことでもないはずです。まあ、それについても、三上絵里子なりの見解を示せばいいと思いますが。5.なぜ脚本交代の経緯を小学館から説明しなかったのか。終盤の脚本交代に至るまでの経緯をくわしく説明したのは、小学館ではなく原作者自身だったわけですが、それは何故だったのか。日テレとの窓口は小学館だったのに、なぜか世間の矢面に立ったのは原作者自身だった。その理由については、代理人たる小学館が説明すればいい。6.なぜ芦原妃名子はSNSの文章を削除したのか。脚本交代に至る経緯について説明した文章を、芦原妃名子は亡くなる前に削除したのですが、これは本人の独断だったのか。それとも第三者による何らかの関与があったのか。それについて事情を知る人がいるなら説明すべきでしょうね。7.なぜ連載は休止になったのか。小学館によれば、今回の事態が起きる前から休載は決まっていたとのこと。これについても、自殺の動機を知る手掛かりの一つかもしれないし、代理人たる小学館が説明すればよいと思う。◇…ってことで、じつは三上絵里子が説明すべきことは、さほど多くありません。実際のところ、日テレのプロデューサー陣には、これといった契約違反もないし、目立った過失も義務違反もないのかもしれません。◇次に、Yahooの猿渡由紀の記事です。~原作ものの映像化と改変、最近のハリウッドの例を見る~小説やノンフィクション本、コミックが映像化されることは過去にも今にも数えきれないほどあるハリウッドでは、傑作の中にも、駄作の中にも、原作に沿ったものもあれば、大きく改変されたものもある。実際のところ、ある程度改変されることのほうが多い。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4f16e5b6d5bcb5bd82c97339e4057e5e105b08f9ハリウッドの優れた映画が、かならずしも原作に忠実なわけじゃない…という話です。まあ、常識的に考えて、オスカーにせよ、カンヌにせよ、原作をそのままトレースしただけの映画が高評価を得るわけがない。漫画ヲタクを喜ばせる映画と、映画ファンを唸らせる映画は、かならずしも同じではない、ってこと。◇次に、Yahooの徳力基彦の記事です。~「セクシー田中さん」と芦原先生の悲劇を繰り返さないために~おそらく重要な分岐点は、12月27日に一部メディアが、相沢氏のコメントを引用し「最終回で消化不良を起こした視聴者が続出」という内容の記事を掲載したことです。この記事は残念ながら、ライブドアなどのポータルサイトにも転載されており、それなりの人数に届いてしまったようです。https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/3ed6b751c16a1baee29f72a36e2de6bc79653899じつはSNSでの怒りの連鎖に着火したのは、ひとつのネット記事だったのではないか?…という話です。この問題については、明日以降に言及できれば、と思います。
2024.02.10
セクシー田中さん問題。まるで示し合わせたように、各所からコメントが出ましたね。おおむね全体の「すり合わせ」が終わった感じ?小学館編集部が「伝えた」と言い、脚本家が「聞いてない」と言ってるところを見ると、おそらく日テレがすべての責を負う形になるでしょう。まあ、実際のところは全体の共犯だったとしても、脚本家に仕事を依頼したのは日テレなのだし、小学館にドラマ化をもちかけたのも日テレだろうから、小学館や脚本家になすりつけるのではなく、やはり日テレが全責任を負うのが筋なのだろうし、そういう決着で、とくに異論もありません。1.原作者の軽視相沢友子の「聞いてない」という話が、ホントかウソかはもちろん分かりません。実際には聞いていながら、それを無視するのが業界のルーティンだった可能性もあるし、おおむね原作者の意向は把握していて、それなりに「忠実」に書く努力はしたものの、芦原妃名子の要求する「忠実」が予想以上だったために、最後までその齟齬を埋められなかった可能性もある。小学館のほうだって、日テレと共犯だった可能性は十分にあるけれど、とりあえず原作者に近しかった編集部にコメントさせることで、なんとか漫画ヲタ勢の信頼をつなぎとめた形でしょうか。わたし自身はひねくれ者なので、あの情緒的な文章がやや気持ち悪く思えましたが、あれで漫画ヲタ勢を感動させることが出来たなら、小学館としては御の字じゃないでしょうか。きっと不買運動にもならずに済むでしょう。◇なお、相沢友子が最初にインスタでトラブルを暴露したことは、芦原妃名子の死の《遠因》になったとも言えるのだから、そのことを後悔する気持ちは理解できるけど、わたし自身は、トラブルを暴露したこと自体が悪いとは思いません。それと同じことは、佐藤秀峰なども原作者の立場からやってるわけだし、他の作家たちも同様のことはやっています。一方の「暴露」が賞賛されるのに、他方の「暴露」が断罪されるというのは、たんに結果から見たジャッジに過ぎず、公平性を欠いています。実際のところ、暴露しなければ分からないこともあるのだし、組織の隠蔽体質を助長することにもなりかねない。そう考えれば暴露することが一概に悪いとは言えない。2.自殺の原因重要なことは、ドラマ制作部が原作者の意向を軽視したことにせよ、相沢友子がインスタでトラブルを暴露したことにせよ、それらは原作者の死の《遠因》ではあるけれど、けっして《直接的なトリガー》ではないということ。結果から物事を見ようとする人間は、死の責任までも安易に背負わせようとするけれど、それを事前に予測するのは不可能です。自分が同じ立場だったら、それを予測できるのかどうかを想像すればいい。結果の側から原因を想像することもできない人間が、原因の側から結果を想像することなどできるはずもありませんが。◇原作者を軽視してきた構造上の問題と、原作者が自殺してしまった個別の問題とは、別々に切り離して考えるべき話です。むしろ自殺の《直接的なトリガー》は、原作者を軽視したことでもなければ、、インスタでトラブルを暴露したことでもなく、おそらく、1.SNSで相沢友子へのバッシングが加熱したこと2.芦原妃名子のSNSの文章を削除させる圧力が働いたこと…のどちらかである可能性のほうが高い。もちろん、そのどちらかであるにせよ、芦原妃名子の死までを予測することはできないし、その行為者に責任を負わせることは不可能です。とはいえ、相沢友子が後悔を表明しているように、SNSでバッシングを加熱させた人たちも、その行為について後悔はあってしかるべきでしょう。後悔することもなく、なおもバッシングをやめないとすれば、それはもう人間としてどうかしている。◇たしかに、ドラマ制作部の二枚舌に気づけなかった段階なら、相沢友子の側から芦原妃名子の存在が「悪者」に見えたり、芦原妃名子の側から相沢友子の存在が「悪者」に見えたりしても、ある程度は仕方ないことと言えます。しかし、現在ではもう状況が違っている。さまざまなファクターが介在しただろうことが、一般の人たちにも推測できる状況に変わっています。それにもかかわらず、この期におよんで、相沢友子のことを、まるで「人殺し」であるかのようにバッシングするのは、いまや不法行為としての《名誉毀損》の度合いが強い、…と言わなければなりません。そもそも、書き直しを迫られるような脚本を、わざわざ好きこのんで書く人間などいるはずがないし、その労力をあらかじめ予測しながらも、あえて悪意をもって原作を改変するなどありえない話です。3.SNSのバッシング逆にいえば、「相沢友子は悪意をもって原作を改変したのだ」みたいな解釈を拡散させている人たちのほうに、今となっては強い悪意を指摘せざるをえない。しかも、その中には、相沢友子の書いた文面を意図的に書き換え、曲解に曲解を重ねながら印象操作をおこない、それを拡散させている人間がいるのです。わたしの確認できる範囲では、ヤフコメに以下のようなデマが書かれている。https://news.yahoo.co.jp/articles/029c2791d0b1ff4f91c9c066cae82ba1f4b42f31/commentshttps://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05/comments相沢友子の実際の文面は以下のとおり。最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。まったく違う文面が、まるで相沢友子の投稿/コメントであるかのように書かれ、そのデマに1万人前後の人々が「共感」する形で拡散し、いまだ訂正も削除もされていません。たとえリテラシーの欠如が背景にあるにせよ、かなり悪質と言わなければなりません。
2024.02.09
わたしは知らなかったのですが、2010年に、いわゆる「やわらかい生活裁判」ってのがあって、そこでは、《原作者の完全勝訴/脚本家の完全敗訴》…との司法判断が下されてるのね。https://ja.wikipedia.org/wiki/絲山秋子#映画脚本を巡る訴訟このときは、原作の二次使用の許諾を取ったのが、映画制作会社や脚本家でなく、出版社(文芸春秋)だった、…というテクニカルな面での失敗もあるのだけど、やはり最大の判決理由は、原作者の「著作権/著作者人格権」を重視したことだと思う。(この裁判での出版社の立ち位置はいまいち分かりません)ちなみに、この裁判は、シナリオの雑誌掲載をめぐる争いだったのだけれど、理屈のうえでいえば、映画公開の中止さえも可能にするような判例だと思う。つまり、原作者の一存さえあれば、あらゆるメディアミックスを中止に追い込める、…ってことではないかしら?◇そこで気になるのが、現在の東宝ミュージカル「ジョジョ」のことです。一部では、あの騒動も、「もしや原作者とのトラブルでは?」なんて噂されてますが、…どうなんでしょうね。実際のところは分からないけど、あくまで理屈のうえでいえば、原作者の一存で公演を中止させることは可能だと思う。◇芦原妃名子だって、法的な観点からいえば、自分の一存でドラマをやめさせることは出来たはず。でも、小学館との信頼関係を優先させたのでしょう。出版社とのあいだで、二次使用や代理人にかんする契約をすることが、一概に悪いとも言いきれませんが、あくまで著作権や著作者人格権は原作者にあるのだから、代理人に縛られる必要はなかったはずなのよね。出版社は、最終的には企業のロジックで動くだろうし、そういう出版社を信頼しすぎると、結果として原作者自身が苦しむことになると思う。◇まあ、セクシー田中さんの問題でいえば、表向きは味方のフリをしながら、実際は二枚舌で原作者の権利を搾取していた、出版社&テレビ局が悪いんだろうし、それを慢性化させた業界全体の責任でもあろうけど、ぶっちゃけていえば、メディアミックスをめぐる対立というのは、すぐれて権利上の争いなのであって、誰が正義で誰が悪か…みたいな話ではないと思います。今回は、原作者の死という結果から見てるがゆえに、どこかに犯人がいるかのごとく考えがちだけど、ほんとうはそうではない。この争いでは、二次使用をする側が負けることもありうるし、そちら側に被害者が出ることだって想定せねばならない。◇もし原作者の一存で、映画やドラマや演劇を中止させることが可能だとすれば、それはメディアミックス産業にとって恐怖です。原作者の多くは、あくまで忠実な二次使用を望むかもしれませんが、それが市場の評価に帰結するとは限らないし、そもそも、映画にしろ、ドラマにしろ、演劇にしろ、「完全に忠実な二次創作」などありえないのだから。いったい何をもって「忠実」と判断するのか。たとえば東宝の「ジョジョ」はミュージカルですが、原作漫画に忠実なミュージカルなんて本質的に不可能!物語やキャラのみならず、衣装や舞台セット、音楽や歌など、原作漫画の世界観を壊しかねない要素は枚挙に暇がない。◇相沢友子の脚本もそうだったかもしれないけど、たとえ制作側が「それなりに忠実」なつもりでも、原作者から見れば「ぜんぜん忠実じゃない」って判断になったり、たとえ制作側が「最大限に忠実」なつもりでも、原作者から見れば「まだ足りない」って判断になるかもしれない。そういう終わりのない「無限忠実地獄」に翻弄されかねない。まして、出版社が二枚舌を使って仲介していたなら、その齟齬は永遠に埋めようがありません。かといって、細かい条件までを事前に確認しようとすれば、それはそれで、とてつもなく膨大な作業になるはずです。◇従来のメディアミックスの世界で、その合意がうやむやにされてきたのは、ある意味で必然的なのだと思う。うやむやにして進めるしかなかったのでしょう。結論をいえば、「改変OK」の原作でなければメディアミックスは不可能。さもなくば、「最低限ここだけは譲れない」みたいな限定的な項目だけを列挙してもらって、それ以外は「改変OK」と容認してもらうしかありません。これは、二次使用の際に、「リスペクトする気持ちがあるかどうか」なんぞという生易しい抽象論ではありません。そんな精神主義などクソほどの意味もありません。◇何をもって「忠実」とみなすかは、おそらく原作者の主観によってそれぞれであり、それを客観的に判断したり規定したりはできないのです。世間の漫画ヲタは、「原作ファンが納得することがいちばん大事!」などと都合よく考えてるらしいけど、そんな話は二の次三の次のどうでもいいことであって、法的な意味の最重要事項は、やっぱり「原作者自身が納得するかどうか」になる。そして、それは、原作者によって重視するポイントが違っていて、内容面での納得かもしれないし、権限面での納得かもしれないし、待遇面での納得かもしれません。まあ、原作者といえども、映像や演劇のプロじゃないのだし、二次創作へ介入するにしても能力的な限界があるから、最後はやっぱり、「金銭的な待遇」で決着するしかないんじゃないかしら?その意味でいうと、もしかしたら今回の東宝ミュージカルは、原作者による事実上の《ストライキ》の可能性もあります。◇たとえば映画会社は、Youtubeの「ファスト映画」を権利侵害だと糾弾してきたけど、原作者から見れば、待遇面で折り合わない映画会社の二次創作は、ファスト映画と大差のない権利侵害ってことになるはずです。なお、「ジョジョ」は集英社の作品ですが、先の「やわらかい生活裁判」の場合と同じように、二次使用の許諾を取ったのが集英社なのか東宝なのか、そこらへんも重要なポイントになるのかもしれません。つまり、仲介をする出版社が許諾をとるのではなく、制作会社が直接原作者から許諾を取らなければ、つねに中止に追い込まれる危険性を避けられないのでは?◇もともと「ジョジョ」の荒木飛呂彦は、メディアミックスに寛容なイメージがあるのだけど、本当のところはどうなんでしょうね。NHKドラマの「岸辺露伴」などは、原作ファンも納得の出来だと言われてるけど、あのドラマだって、かならずしも原作に忠実なわけではありません。とくに飯豊まりえの演じた泉京香のキャラは、かなりドラマオリジナルの要素が強い。あのドラマの人気は、泉京香のキャラによるところも大きいけれど、案外、原作者にしてみれば、そこが「最大の不満ポイント」だった…なんてことだって、ありえなくはないのです。◇わたしは、ドラマ版の「岸辺露伴」も、ドラマ版の「セクシー田中さん」も、十分に楽しんでいたわけですが、三次元の住人(ドラマファン)と二次元の住人(漫画ヲタ)とでは、まったく見え方が違ってる可能性があり、原作ファンと原作者自身のあいだでさえ、ぜんぜん見え方が違ってる可能性があるのです。原作者が納得しても、原作ファンには大不評ってこともありえるし、その逆も十分にあり得るってこと。◇そういえば、漫画ヲタクどもは、TBSによる「砂時計」のドラマ化を評価してたらしいけど、文春の記事によると、じつは芦原妃名子は、あの映像化にさえ苦慮してたらしいじゃないですか。原作者と原作ファンの見解が一致するなんてのは幻想です。それは原作者と出版社の利害が一致しないのと同じ。求めるところはそれぞれに違っている。漫画ヲタクの人たちは、「原作に忠実に作るのが正義!」みたいに簡単に言うけど、《二次創作の忠実性》という概念は、きわめて主観的、かつ曖昧、かつ多様だと考えるべきです。◇メディアミックス産業の未来に暗雲が立ち込めている。二次元世界と三次元世界は、いよいよ全面戦争に入るかも。池田理代子の「ベルばら」などは、漫画と宝塚歌劇がどちらも大ヒットして、メディアミックスの先駆的な成功例になった。萩尾望都は、宝塚ファンだったにもかかわらず、自作の舞台化にはずっと消極的でしたが、30年余りの交渉を経て「ポーの一族」が宝塚歌劇になった際は、「感動で言葉になりません」と話してたから、これも最終的には成功裏に終わってる。漫画協会理事長の里中満智子も、「二次創作は原作とはまた別の世界」と話してて、わりとメディアミックスには寛容なようです。今回の「ジョジョ」は、宝塚と同系列の東宝ミュージカル。東宝は舞台「千と千尋」も成功させましたが…もしかしたら今回の「ジョジョ」ミュージカルは、過去に例がないほどの大きな躓きになってしまうかもしれない。ジョジョの奇妙な冒険 31 (ジャンプコミックス) [ 荒木 飛呂彦 ] 楽天で購入
2024.02.08
相沢友子のインスタの文章は、昨日の記事にまるまる引用したとおりですが、あの文章が、芦原妃名子を攻撃したものだったかどうかは、文面そのものからは読み取れないし、内心どう思っていたかも知りようがない。すくなくとも、あからさまに原作者を攻撃した文面ではありません。◇しかし、この相沢友子の文章を受けて、彼女の仲間やフォロワーの一部が、芦原妃名子をあからさまに「悪者」と見なした、…そういうフシはあるっぽい。たしかに、日テレや小学館の二枚舌に気づかなければ、芦原妃名子が悪者に見えてしまっても仕方ない面はある。とはいえ、もし相沢友子本人に攻撃の意図がなかったとすれば、こうした「援軍」の存在はかえって迷惑なのよね。意図せずして対立図式が出きあがり、そのうえ自分が矢面に立たされるのだから。でも、その「援軍」の人たちは、おそらく相沢友子のファンや仲間なのだろうし、当人たちはよかれと思って、つまりは「相沢友子のために」やってるわけなので、それをむげに諌めたり非難したりもできない。そういう板挟みに陥ってしまう。◇それと同じことは芦原妃名子の側でも起こります。本人は相沢友子を攻撃するつもりがなくても、取り巻きの「援軍」の人たちは、ここぞとばかりに芦原妃名子を守れ!といって、相沢友子の陣営へ一斉攻撃をはじめてしまう。その結果、他人を傷つけることをいちばん嫌った漫画家が、なぜか、その攻撃の最前線に立たされてしまう。これはかなり絶望的だったかもしれません。◇太平洋戦争のときの天皇が、それとほぼ同じ。本人はアメリカと戦うつもりなどなかったのに、愛国的な天皇主義者たちが「天皇万歳!」と叫び、勇ましくも鬼畜米英に立ち向かってしまう。そして天皇が、その矢面に立たされてしまう。勇ましい愛国主義者たちは、さぞかし天皇を崇拝していたのでしょうが、崇拝された側にとっては、はなはだしい迷惑。さいわい昭和天皇は戦犯にはなりませんでしたが、ひとつ間違えれば処刑されていました。◇これにそっくりなことはジャニヲタにも言える。ジャニヲタ軍団は、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪まで擁護していたわけですが、それがかえって世間の反感を買って、ジャニーズもジャニタレも窮地に追いこまれてしまった。しかしながら、ジャニヲタの人たちはあくまで善意のつもりだから、ジャニタレたちは、それに対して怒りを向けるわけにもいかず、ひたすら出口の見えない板挟みに苛まれていく。◇わたしの知っている範囲でいえば、上白石萌音にも同じようなことがありましたね。一部のファンが、「なんで紅白司会は萌音ちゃんじゃなくて橋本環奈なの?!」と言って橋本環奈のことをディスりはじめた。しかし、それで迷惑するのは萌音本人なのです。なぜ友人の橋本環奈と対立しなければならないのか?萌音の場合はさすがに我慢がならなかったらしく、すかさず自分のファンに本気で怒っていましたが、実際、そうでもしなければ収まらないのです。本人たちは善意のつもりでやっている。競合相手を蹴落とすことが、大好きな「萌音ちゃんのため」だと信じてる。◇こういうことは何度も何度も繰り返される。そして、くりかえし死者を出すことになる。当人たちには悪気がないどころか、むしろ正義だと思ってるから、なおさら質が悪い。まよわず敵陣を攻撃することが、仲間や崇拝者に尽くすことだと信じて疑わないし、その過ちに気づく理性と想像力は決定的に足りていない。バカにつける薬が是非とも必要なのだけれど、それはなかなか見つからないのです。◇◇◇絶賛暴走中の漫画ヲタク軍団が、ネトウヨやジャニヲタとよく似てるのは、組織の隠蔽体質に加担してしまうところにもいえます。漫画ヲタクは、好きな漫画や漫画家を守ろうとするあまり、その媒体である小学館をも擁護しようとするのです。編集担当者は漫画家の味方にちがいない!…と信じて疑おうとしないし、小学館の企業風土に多少の疑念があっても、そこには蓋をして見ないようにする。とりわけ、ふだんから小学館の漫画や雑誌を愛読してる人たちは、できれば小学館が「悪」だとは思いたくないし、可能なら日テレと脚本家だけが悪いという図式に持ち込みたい。◇これはジャニヲタが、大好きなジャニタレを守ろうとするあまり、ジャニー喜多川の性犯罪に蓋をして、それを見ないようにしてたのとまったく同じだし、ネトウヨが、政権与党や自衛隊の不祥事や失態を擁護したり、その隠蔽に加担したりして、問題をうやむやにしようとする心理にも似ています。つまり、都合のよい面ばかりに目を向けて、不都合な真実からは目を背けようとする。◇ジャニーズの問題が改善されなかったのは、シャニヲタがその暗部に蓋をし続けてきたからでもある。日本が戦争に負けたのは、当時の自称愛国主義者の連中が、日本軍の失態や敗退に蓋をして目を向けず、勇ましい活躍や成果ばかりを称えつづけ、真実の隠蔽に手を貸してしまったからでもある。現在の漫画ヲタク軍団が、不都合な真実から目をそむけて小学館を擁護するかぎり、小学館の側もまた、みずからの暗部と隠蔽体質を変えようとはしないでしょう。
2024.02.05
片言の子の猫舌と鱈の鍋 無事願いかかあと待ってる三平汁 牛鍋の〆のおうどん捜索隊 鍋囲う笑顔思いて出汁選び よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜 商談の中華テーブル窓凍てる ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸 日脚伸ぶポン酢はあるかと問ふ電話2月1日のプレバト俳句。お題は「鍋つゆ売り場」。◇高橋真麻。片言の子の猫舌と鱈の鍋片言の子の猫舌と鱈鍋と(添削後)句材は面白いけどね。下五「鱈鍋」を「鱈の鍋」と書いたところは、いかにも音数合わせだなと感じてしまいます。また、幼い子供の描写として、「片言」で「猫舌」と2つの特徴を並べるのは、やや材料が多すぎる気がしなくもない。あるいは、すこし脚色をして、片言の子は猫舌で鱈鍋を猫舌の子が片言で鱈鍋とのように季語に絡める手もあるかな。◇勝俣州和。無事願いかかあと待ってる三平汁無事帰港願うかかあの三平汁(添削後)字面だけを見ると、「息子の無事を妻と一緒に願う夫」の句に見える。しかし、実際は、「夫の無事を願うその妻と一緒にいる作者」の句らしい。失礼にも、他人の妻を「かかあ」などと呼んでるので誤読を招きます。◇ナダル。鍋囲う笑顔思いて出汁選び鍋の出汁選ぶ売り場や 冬の夕(添削後)鍋の出汁を選んでる…というだけの凡庸な場面。そこに自分の心象を添えてしまう初心者の失策。なお、調理器の「鍋」は季語ではないけれど、「鍋物」「鍋料理」の意味なら季語と見なすべき、との考え方もあるようです。◇加藤ローサ。よーいドンおしくらまんじゅう鍋の夜おしくらまんじゅうみたいに寄せ鍋を囲む(添削後)兄弟家族で鍋を囲んでる…というだけの凡庸な場面。そして季語「押し競饅頭」を比喩にしてしまう初心者の失策。ちなみに、作者は一句一章のつもりで詠んでるのだけれど、字面だけを見ると、「かけっこ」「押し競饅頭」「夜の鍋」という三段切れの三句一章に見えてしまいます。◇キスマイ宮田。牛鍋の〆のおうどん捜索隊牛鍋の〆のうどんをさぐる箸(添削後)ベタな比喩で「捜索隊」と書いてしまう初心者の失策。ぜんぜん初心者じゃないけどねw鍋の底のうどんを探ってる場面だそうですが、台所の奥にしまってある乾麺を探してるのかな?と誤読されます。◇森迫永依。商談の中華テーブル 窓凍てる窓凍つや 商談中の中華卓(添削後)原句にあきらかな欠点があるとは思えない。「窓凍つ/凍てる」を上五に置くか下五に置くかは、もはや好みの問題かなあ…って気がします。たしかに、添削のように上五に置くほうが安定するけれど、逆にいうと、原句のほうは、最後の窓の印象が心もとなげな余韻を残します。しかも「凍てる窓」より「窓凍てる」のほうが、いっそう心もとない余韻を残すので、そこは好みの分かれるところかもしれません。なお、添削句のほうは「商談中」としたことで、当事者視点から第三者視点に変わってる気がする。それから「中」と「中」が重なるのも、押韻という感じではなく、むしろ鬱陶しい印象。原句の当事者視点を維持するなら、凍つる窓 中華テーブルの商談のような破調でもいいかなと思います。ちなみに、「凍つ」と「凍てる」は同義の古語だけど、「凍つ」は文語で「凍てる」は口語です。つい安易に《古語=文語》と同一視しがちですが、正確にいえば、現代語に《書き言葉》と《話し言葉》があるように、古語にも《文語》と《口語》があるわけですね。凍つ:自動詞下二段活用活用{て/て/つ/つる/つれ/てよ}凍てる:自動詞下一段活用活用{て/て/てる/てる/てれ/てよ}◇清水アナ。日脚伸ぶ ポン酢はあるかと問ふ電話先週につづいて動詞の季語。しかも、上五を終止形で切る形ですね。古語なので、連体形で「日脚伸ぶるポン酢」と誤読される惧れはないけど、時効の季語だけが映像化されないまま浮いてる感じがして、いまいち収まりが悪い。内容的にも、ちょっと状況が見えにくいですよね。近所に住む実家の親から、「ポン酢を貸してくれ」と頼まれたのか。遠方に住む実家の親から、「ポン酢がないなら送るよ」と言ってもらったのか。兼題写真を見れば、鍋の季節の状況だと想像できるけど、兼題写真がなければ、「醤油切れ」とか「味噌切れ」みたいな、ごく日常的な調味料切れの場面とも読めます。ちなみに「日脚伸ぶ」は、大寒と同じく1月下旬の時候の季語ですが、春の近さを感じさせる季語でもあります。もう鍋の季節も終わりに近づいて、日常で使うポン酢も切れてしまった状況なら、「日脚伸ぶ」という季語は妥当かもしれないけど、大寒のころで鍋真っ盛りという状況を詠んだなら、この季語はあまりふさわしくありません。そこは解釈の仕方によって判断が分かれる。なお、中八は助詞「は」を省けば解決します。/木曜、夜7時からはプレバト!!\清水アナが次回のお題に挑戦!🔥まだまだこれからも勉強!!📚💪#清水アナの俳句挑戦#プレバト #MBS #TBS pic.twitter.com/o7FSbLR8ZH— 「プレバト!!」毎週木曜よる7時【公式】 (@prbt_official) January 29, 2024◇梅沢富美男。ちゃぶ台に干支の過ぎたる祝箸かしましや 干支の過ぎたる祝箸(添削後)中七・下五の、「干支の過ぎたる祝い箸」はとても面白いけど、作者の話をよく聞くと、じつは「年を越した」という意味ではなく、たんに「正月を過ぎた」という意味らしいので、正確性を欠いた記述なのですよね。つまり、作者は、正月を過ぎてしまって、ハレの日に用いられるはずの祝い箸が、日常のちゃぶ台に置かれてしまっている、…という滑稽味を詠んでるわけです。ところが、先生は「年を越した」と誤読してるので、去年の干支違いの祝い箸が使われてることに、面白みと詩情を見出してしまっている。そうすると「ちゃぶ台」との取り合わせは、蛇足かつ不釣り合いにしか見えないのです。これは先生の誤読のせいではなく、作者の不正確な記述のせいとしか言いようがない。まあ、わたしとしては、「去年の祝箸がちゃぶ台に置かれてる」との解釈でも、それはそれで面白いかなって気もしますが。両端を細めてあるのは神様と共用するためだそうです!▽過去の記事はこちらhttps://plaza.rakuten.co.jp/maika888/diary/ctgylist/?ctgy=12
2024.02.05
漫画ヲタクの暴走がいっこうに止まらない。原作至上主義こそ「絶対正義」と思い込み、テレビ局と脚本家が「絶対悪」と思い込み、にもかかわらず、なぜか小学館のことは「漫画家の味方」と信じて疑わない。そのうえ今度は、木南晴夏やめるるや毎熊克哉にまで、そのルサンチマンの矛先を向けている。おそらく3次元世界のすべてが憎いんでしょうねw芦原妃名子が亡くなった直接の原因は、相沢友子のインスタなんぞではなく、ほかならぬ漫画ヲタクどもの暴走にあるのかもしれないのだけど、その可能性からはあくまで目を背けつづけ、あろうことか、ますます個人攻撃をエスカレートさせてます。◇このような漫画ヲタクの暴走は、かえって自分自身の首を絞めてもいる。漫画ヲタクの掲げる原作史上主義は、メディアミックスの選択肢を狭めるあまり、かえって漫画出版社を窮地に追い込み、漫画文化そのものの経済基盤をも揺るがしてるのだけど、その現実からも目を背けてる。べつに「大人になれ」とかいう話じゃなく、子供であろうと、大人であろうと、現実から目を背けることはできないだろって話なのですが、おそらく漫画ヲタクの人たちは、彼らの愛する2次元世界が、現実の3次元世界を凌駕するように望んでるのでしょう。しかし、シンギュラリティでも訪れないかぎり、そんな世界は実現しません。◇もちろん日テレと小学館は、原因究明と事情説明をする必要がありますが、その説明を聞くまでもなく、もはや野木亜紀子や佐藤秀峰の文章を読んだら、おおよその背景と事情は察しがついてしまった、…ってのが正直なところ。そして、原作者と脚本家にすり合わせをさせない手法は、三上絵里子や相沢友子にかぎった話ではなく、テレビ業界全体の悪習だったこともバレてしまった。もちろん再発防止策も改善策も必要なのですが、おそらく改善に向かうというよりは、たんに《漫画原作が忌避される方向》へ流れるだけでしょう。漫画原作はめんどくさい、との認識が共有されて終わる。◇テレビドラマが漫画原作を避けることで、いちばん損をするのは出版社ですが、メディアミックスの可能性が大幅に狭まる事態に対し、どんな方策を講じればいいかについては、昨日の記事に書いたとおりなので割愛します。いずれにしても、漫画ヲタクの暴走から得られるものなど何もなく、漫画を中心とするメディアミックスの経済を縮小させることで、かえって彼ら自身の首を絞めているにすぎません。◇あらためて相沢友子のインスタの文章は次のとおり。〔12月24日〕最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました。〔12月28日〕私が脚本を書いたのは1~8話で、最終的に9・10話を書いたのは原作者です。誤解なきようお願いします。今回の出来事はドラマ制作の在り方、脚本家の存在意義について深く考えさせられるものでした。この苦い経験を次へ生かし、これからもがんばっていかねばと自分に言い聞かせています。どうか、今後同じことが二度と繰り返されませんように。この文章をどう読むかは人それぞれでしょう。脚本の書き直しをさせられたり、終盤の脚本がまるまるボツになったことについて、ショックを吐露してるのはたしかです。最初からボツになる可能性を知っていれば、わざわざ苦労して書くわけがないのだから、まともな意思疎通が出来てなかったのは想像に難くないし、原作をねじ曲げられた芦原妃名子がショックだったように、せっかく書いた脚本を反故にされた相沢友子が、同様にショックを受けたのも当然のことでしょう。◇そして最後の、「今後同じことが二度と繰り返されませんように」という一言は、十分な意思疎通を怠った自分への戒めとも取れるし、それを遮ったプロデューサーや出版社への苦言とも取れるし、構造的な問題が改善されることへの願いとも取れるのだから、それをあえて「原作者への嫌味」だと解釈するのは、ひとつのバイアスのかかった見方にすぎません。たしかに相沢友子の支持者のなかには、あからさまに原作者を "悪者" と見なす人もいたのだけど、それはちょうど、現在の芦原妃名子の自称支持者どもが、相沢友子を ”人殺し” 呼ばわりすることの裏返しであって、はたから見たら「どっちもどっち」でしかない。要は、双方の外野どうしが、> 自分たちが絶対正義で、> 相手がたは絶対悪である!と主張して互いに暴走してるだけ。さながら馬鹿なネトウヨが、> 日本人の愛国心は絶対正義だが、> 中国人の愛国心は絶対悪である!と主張してるのと同じで、はたから見たら「同じ穴のムジナ」なのです。◇ちなみに、ヤフコメには、この相沢友子の文章について、脚本家が「原作者のわがままのために酷い思いをしたけど、俳優さんたちやスタッフの皆様は素晴らしかった」という内容のコメントを誰の目にも触れる場所に発信…https://news.yahoo.co.jp/articles/dc2d3ddc1815f33d770df8a190ac0d1dc0f12b05などと、まったく違う文面に書き換えた人物が存在し、このデマ情報が、いまなおいちばん上位に表示されていて、1万人もの閲覧者が「共感」のボタンを押すなど、かなり悪質な拡散ぶりを見せています。◇芦原妃名子が亡くなったのは、相沢友子のインスタの文章のあとではなく、それから1ヶ月後のことです。つまり、芦原妃名子が、小学館に確認のうえでトラブルの経緯説明をし、それがSNSにおける騒動へと発展し、それを受けて当該文章を削除した直後なのだから、そこにこそ直接的なトリガーがあったと考えるのが普通。漫画ヲタクどもは絶対に認めたくないでしょうが、芦原妃名子の自称支持者の連中が、相沢友子への攻撃を激化させたことこそが、直接的な引き金だったのではないか?…と疑ってる人はかなり多いはずです。そうでなければ、「攻撃したかったわけじゃなくて」という最期の言葉にはなりようがない。◇もちろん、遺書の内容が公表されないかぎり、そのトリガーを特定することはできないし、わたし自身も、彼女が亡くなる前日に記事を書いてますから、それが本人の目に触れた可能性というのも、ずっと気になってるのは否めません。当時のアクセス数は300程度だったけれど、自分の記事がトリガーになった可能性が、絶対にないとまでは言い切れない。極論をいえば、この問題についてのネットの言葉のすべてが、何らかのトリガーになった可能性はあるわけで、その意味で、現在の状況というのは、たがいに責任のなすり合いをしてるとも言える。◇けれど、たとえ何がトリガーだったとしても、それが罪だとまではいえません。犯人探しをしたくなる気持ちは理解できますが、自殺の背景において、かならず犯人が存在するわけではない。にもかかわらず犯人を捕まえて断罪しようと暴走すれば、実質的な冤罪まがいのものを生み出すだけです。◇しかし、それでもなお、漫画ヲタクどもの暴走が止まることはないでしょう。わたしは今回の件で、日本で漫画ヲタクと呼ばれる人たちが、ネトウヨやジャニヲタと同じ種類の連中なのだ、…ということを完全に理解しました。
2024.02.04
芦原妃名子の自殺が今後どのような結果を生むか。大きく2つの方向性があります。1.原作に忠実なドラマが増える2.原作アリのドラマ自体が減るそして、おそらく正解は「2」のほうだと思います。◇野木亜紀子や佐藤秀峰がアップした文章を読むと、原作者と脚本家の意思疎通がいかに困難なのか分かるし、クリアすべき問題は脚本だけじゃないのだから、原作に忠実なドラマを作るのは途方もなく難しいと思える。脚本家と原作者が意志疎通をはかろうにも、時間的・距離的な制約があって難しい場合もあり、たとえ会ったところで、すり合わせの作業が円滑に進むともかぎらず、折り合いがつかなければ決裂する場合もありうる。なので、出版社側の担当者も、TV局側のプロデューサーも、なるべく両者を対面させずに乗り切ろうとしてきたわけです。それがなかば慣例化していた。その事情を知ると、出版社の担当者を責める気にもならないし、TV局のプロデューサーを責める気にもならないし、まして脚本家を責める気にもならない。原作者と本気で向き合おうとすれば、それはかなり手間のかかる作業になる、ということ。そこまでして原作に忠実なテレビドラマを作るというのは、まったくもって理想論としか思えない。◇以下は野木亜紀子のツイート。脚本家が好むと好まざるとに関わらず「会えない」が現実で、慣例だと言われています。私も脚本家になってからそれを知って驚きました。良くいえば「脚本家(あるいは原作者)を守っている」のであり、悪くいえば「コントロール下に置かれている」ことになります。慣例といっても、原作サイドから「事前に脚本家と会いたい」という要望があれば、プロデューサーも断れるはずがなく、そんな希望すら聞いてくれないのであれば作品を任せないほうがいいし、それを断る脚本家もいない……というか、会いたくないなんて断った時点で脚本家チェンジでしょう。原作がある作品において、脚本家の立場なんてその程度です。脚本家からしたら、プロデューサーが話す「原作サイドがこう言ってた」が全てになります。私自身も過去に、話がどうにも通じなくて「原作の先生は、正確にはどう言ってたんですか?」と詰め寄ったり、しまいには「私が直接会いに行って話していいですか!?」と言って、止められたことがあります。(後に解決に至りましたが)また、プロデューサーも、先生の意見を直接聞いているかというとそうでもない。半年以上に及ぶやり取りの中で、地方在住の方もいらっしゃいますし、ご自身の仕事が多忙でそんな暇ないということもある。そのため大抵は、出版社の担当者やライツを通した、伝言の伝言になります。https://twitter.com/nog_ak/status/1753260514329887140そして佐藤秀峰のnote。「映画は水ものだから企画段階では真剣に考えなくて良い」という編集者の言葉を真に受けていたら、ある日決まっていました。決まったと思ったら僕が口を挟める余地はありませんでした。漫画家は通常、出版社との間に著作権管理委託契約というものを締結しています。出版社は作品の運用を独占的に委託されているという論理で動いていました。契約書には都度都度、漫画家に報告し許諾を取ることが書かれていました。が、それは守られませんでした。すでに企画が進んでいることを理由に、映像化の契約書に判を押すことを要求されました。嫌だったけど、「映像化は名誉なこと」という固定観念がありました。映像化決定のプロセスが嫌なだけで、出版社もいろいろ動いてくれたんだろうなと。原作使用料は確か200万円弱でした。出版社への不信は募ります。何も言わないことと、何も不満がないことは違います。言えることは、出版社、テレビ局とも漫画家に何も言わせないほうが都合が良いということです。出版社とテレビ局は「映像化で一儲けしたい」という点で利害が一致していました。出版社はすみやかに映像化の契約を結んで本を売りたいのです。映像化は本の良い宣伝になります。だから、漫画家のために著作権使用料の引き上げ交渉などしません。漫画家の懐にいくら入ったところで彼らの懐は暖まらないのです。それより製作委員会に名を連ね、映画の利益を享受したい。とにかくすみやかに契約することが重要。著作権使用料で揉めて契約不成立などもっての外。テレビ局はできるだけ安く作品の権利を手にいれることができれば御の字。漫画家と直接会って映像化の条件を細かく出されると動きにくいので、積極的には会いたがりません。出版社も作家とテレビ局を引き合わせて日頃の言動の辻褄が合わなくなると困るので、テレビ局側の人間に会わせようとはしません。漫画家の中には出版社を通じて映像化に注文を付ける人もいますが、出版社がそれをテレビ局に伝えるかどうかは別問題です。面倒な注文をつけて話がややこしくなったら企画が頓挫する可能性があります。出版社は、テレビ局には「原作者は原作に忠実にやってほしいとは言っていますけど、漫画とテレビじゃ違いますから自由にやってください」と言います。そして、漫画家には「原作に忠実にやってほしいとは伝えているんだけど、漫画通りにやっちゃうと予算が足りないみたい」などと言いくるめます。https://note.com/shuho_sato/n/n37e9d6d4d8d9※佐藤秀峰のように出版社にまで喧嘩を売れるツワモノはかなり貴重だと思う(ちなみに「海猿」も小学館の作品です)。ふつうなら、安タケコのツイートのように「同じ思いの小学館、担当編集者、編集部も誠心誠意作家を守るために尽力してくれています」みたいに書くだろうから。べつに安タケコが嘘を書いてるとは言わないけど、とくに連載をもってる漫画家なら、公然と出版社に喧嘩を売るのはかなり難しいはずです。野木亜紀子がテレビ局を批判するのも、かなり勇気のいることだと思います。わたしは、そういう人たちのほうを圧倒的に信用する。◇今後のテレビドラマは、オリジナルの脚本が増える一方で、「改変OK!」のものでないかぎり、原作アリの作品は忌避されていくことになる。わざわざ原作者と折り合いをつけるために、時間と手間をかけるプロデューサーは少ないはずです。そもそも、原作に忠実なドラマは、漫画ヲタクには評判がいいかもしれませんが、一般層にまで広く遡及するとは限らないし、テレビドラマというのは、原作者以外にも配慮すべきことが多すぎます。話数や放送時間やCMのタイミングなど、様々なフォーマットに収めなければならないし、絶対に守るべき納期があるし、視聴率も取らなきゃいけないし、予算的な制約や撮影技術上の制約もあるし、スポンサーや出演陣のイメージにも合わせねばならないし、コンプラ違反をしてもいけない。おそらくドラマの脚本制作というのは、脚本家の自己表現を全開にできるような仕事ではなく、さまざまな要求や条件や制約に合わせていく作業だし、それを考えたら、原作者の要求に全面的に応じられるテレビドラマなど、ほとんど不可能だと考えたほうが正しい。◇なので、今後のテレビドラマは、「原作なしのオリジナル脚本」と、「改変OKな原作もの」に傾いていくはずだし、さらには「AI脚本」みたいなのが増える可能性もある。その結果、いちばん損をするのは誰かといえば、それは出版社です。これまで漫画出版社が、自社作品をTV局に売りわたすことによって、どのくらい儲けてきたのか知らないけど、今回の問題によって、テレビドラマはおろか、メディアミックス全般の可能性が大幅に狭まっていく。これは出版社側の自業自得ともいえますが、漫画雑誌の廃刊や、出版社の倒産を加速させることにもなりかねません。◇しかし、損をするのは出版社だけではありません。漫画ビジネスが日本の基幹産業になりつつある今、そのメディアミックスの可能性が狭まっていくことは、日本経済全体の巨大な損失になるからです。したがって、これは、ある意味、政治的な案件であり、経済界全体が注視すべき問題だというべき。◇では、漫画のメディアミックス産業を衰退させないために、いったいどうすればよいのか?ひとつの方策として考えられるのは、それを原作者にとっても「旨みのあるビジネス」に変えていくこと。たとえ原作の内容やイメージを変えられるのが苦痛だとしても、たとえ原作ファンの漫画ヲタク連合から袋叩きにされるとしても、「これだけ儲かるのなら仕方ないか…」と思わせるだけの経済的なメリットがあれば、その苦痛を我慢してくれる原作者はきっといると思います。◇そして、もうひとつの方策があるとすれば、漫画原作の売り先を、時間に追われてドラマを量産してる日本のテレビ局ではなく、Netflixのような国際映像メディアに移行させる、ということ。そのほうが、時間とお金をかけて、原作に忠実なドラマを作ってくれるかもしれないし、国内の漫画ヲタクだけでなく、世界中の漫画ヲタクの市場を相手にすれば、時間とお金をかけるだけの採算が合うかもしれません。
2024.02.03
いまだに多くの漫画ヲタクの人たちは、「小学館は芦原妃名子の味方だったはず!」と信じて疑わないようですが…何故そこまで出版社を信用できるのか、わたしには不思議でなりません。ネトウヨが自衛隊を批判しないのと同じく、漫画ヲタクは小学館を批判してはならない、…みたいな暗黙のルールでもあるのかしら?◇すくなくとも、わたしから見ると、小学館のふるまいには以下の4つの点で疑念があります。1.なぜ《原作クラッシャー》による企画を承認したか三上絵里子と相沢友子は、《原作クラッシャー》との不名誉な異名を与えられてますが、なぜ小学館は、もともとドラマ化に前向きでなく、さまざまな条件付けも多かった芦原妃名子の作品を、よりにもよって《原作クラッシャー》の2人に委ねたのでしょう?最初の段階では、まだ脚本家が未定だったかもしれませんが、三上絵里子がプロデューサーを務める時点で、原作が改変される恐れはあったわけだし、脚本家として相沢友子の名前が挙がった時点で、その起用を拒否することもできたはずです。かりに芦原妃名子が、2人のことをよく知らなかったとしても、小学館の担当者が知らなかったはずはない。三上絵里子が担当した「二月の勝者」や、相沢友子が担当した「ミステリと言う勿れ」は、いずれも小学館の作品だったのだから。もし小学館側が、2人を《原作クラッシャー》だと認識していたなら、芦原妃名子の作品を彼女たちに任せるはずがありません。にもかかわらず企画が止まらなかったのは、日テレの問題ではなく、むしろ小学館側の勇み足で原作者の意思を飛び越え、ドラマ化の流れを作っていったからだ、と思えます。そもそも、多くの漫画ヲタクの思い込みとは裏腹に、むしろ企業としての小学館は、この2人の仕事を高く評価していたのではないですか?2.なぜ日テレ側のスタッフと対面させなかったかこれについては、昨日の記事に書いたので割愛しますが、目下、小学館と日テレには、「なぜ原作者と脚本家に意思疎通をさせなかったのか」について説明することが求められています。一部の漫画ヲタクの人たちは、「小学館はあくまで原作者の味方であり、 原作者に代わって日テレ側に意向を伝えていたのだ!」と主張していますが、わたしに言わせれば、たんに原作者は小学館を頼るほかになく、小学館をとおして意思を伝える以外に手段がなかった、…というだけのことに見えます。3.なぜトラブルの経緯を説明したのは原作者だったかドラマ終盤の脚本を、原作者が書くことになった経緯について説明したのは、小学館ではなく、原作者自身でした。原作者が "小学館に確認しながら書いた" としているので、これをそのまま「小学館側の説明」と見なす漫画ヲタクもいますが、原作者と出版社の利害が同じではない以上、両者の言い分が同じである保証はどこにもありません。わたしに言わせれば、日テレとのあいだを仲介したのが小学館だったから、たんに小学館に確認するしかなかった、というだけに見える。そして、その説明は本来なら、仲介をしていた小学館が直接おこなうべきだったし、そのほうがはるかに正確だったはずです。…ところで、原作者は、亡くなる前にその文章を削除してしまいましたが、それは何故だったのでしょうか?相沢友子へのバッシングが加熱してしまったため、原作者が自分の意志で削除したとも考えられますが、もしかすると、日テレ側との関係が悪化するのを恐れた小学館が、原作者に削除要請をした可能性もあるのではないですか?もしそうだとすれば、それは原作者を激しく失望させたでしょう。4.なぜ小学館はいまだに経緯を説明しないのか繰り返しますが、脚本制作のトラブルについて説明したのは、原作者自身であって、小学館ではありませんでした。そして、原作者が亡くなった今もなお、小学館はその経緯について公に説明をしていません。それは何故でしょうか?小学館側に非があるからなのか。日テレとの事実上の「共犯」だからなのか。日テレとの関係悪化を恐れているからなのか。◇◇◇昨日の繰り返しになりますが、わたしは「小学館が悪い!」と言いたいのではありません。原作者と出版社の利害は同じではないのだし、たんにその立場の違いが顕在化しただけであって、企業としての小学館のふるまいは、むしろ当然だとさえいえる。企業は企業としての利益を優先するはずだからです。◇芦原妃名子は、残念ながら小学館を頼る以外になかったのだろうし、いまさら言っても遅いことですが、ほんとうは小学館を信用しすぎるべきではなかった。小学館を頼りすぎるべきでもありませんでした。そして、これは、芦原妃名子と小学館だけの話ではなく、あらゆる出版社に依存するあらゆる漫画家にいえることです。
2024.02.01
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