まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2020.10.15
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『純情きらり』を見ていたら、


それは、いうまでもなく、
源氏物語がエロ文学だからなのですが、

与謝野晶子や谷崎潤一郎は、
戦時中にもかかわらず、これを現代語に訳していました。
当時としては、けっこう政治的な仕事だったのかもしれません。



ちなみに、


最初は、儒学者や漢学者が、
中宮と光源氏との密通などをあげつらって、
皇室文化のふしだらさや、皇統の欺瞞性を指摘したわけです。

これに対して、
国学者の安藤為章などは、
必死になって源氏物語を擁護しましたが、
一般的に、国学者たちにとっては、
源氏物語が「不都合な書物」となってしまったようです。



一方、明治期になって、
源氏物語のことを批判したのは内村鑑三です。


ほんとうの文学とは「世界に戦争するときの道具」なのだから、
源氏物語のような美しいだけの軟弱な文学は、
「後世への害物」でしかなく、
「われわれを女らしき意気地なしになした」ものだ、
といって容赦なく罵倒したわけです(笑)。


非常に誤解されやすいところですが、
この内村鑑三の批判というのは、
けっして軍国主義の立場からのものではありません。

そもそも反戦主義者である内村が、
文学のことを「戦争の道具」などと言うはずはありません。
ここで内村が述べている「戦争」とは、社会改革のことです。

つまり、
ほんとうの文学とは、
未来に社会改革をもたらすための思想表現なのだから、
愛だの恋だのと軟弱なことを書くのが文学ではないと言って、
その代表格である源氏物語のことを槍玉に挙げたのです。
いわばロマン主義の側から自然主義文学を批判したのですね。

まあ、それはそれで、一理あると思います。



戦時中になると、
いよいよ国粋主義者の面々が、
源氏物語のことを「不敬文学」だと言いはじめます(笑)。
代表的なのは、橘純一ですね。

彼らは、
表向きは天皇の権威を利用しながら、
その反面で、皇室の華美で雅な文化を徹底的に否定しました。
そういう自己矛盾を犯していたのです。

もともと王朝文学というのは、
ヨーロッパであれ、アラブであれ、インドであれ、
たいていは恋愛物語なのですから、
それを否定することは、
王朝文化そのものへの侮辱でしかありません。

いまから見れば、
国粋主義者たちの態度のほうがよっぽど不敬であり、
なによりも国賊的な振る舞いなのですけどね(笑)。



谷崎潤一郎は、
そんな戦時中にもかかわらず、
源氏物語を現代語に訳したばかりか、
ひたすらエロ文学を書き続けていました。

それは、
内村鑑三のようなロマン主義の立場からすれば、
くだらない「害物」だったかもしれしれませんが、
むしろ戦時中にあっては、
谷崎のような断固とした数寄物の姿勢こそが、
かえって政治的な意義をもっていたように思います。

『純情きらり』のなかでも、
冬吾は好きな絵を描き続けていましたし、
桜子はジャズやクラシックを弾きつづけていました。

好きなことをやり続けるのは大切です。

さもなくば、
古関裕而みたいに、
戦時中だからといって、
軍国主義的な作品にばかり手を染めるハメになります。
それこそが、大きな過ちなのですよね。

書きたいものを書かずに、
時勢だの時流だのに合わせたものばかりを書いていると、
後悔するばかりか、後世に大きな批判を浴びることになる。

あくまでも好きなことをやり続けるのは、
勇気のいることだけれども、とても大切なことです。



ところで、
現代のネトウヨは、
大江健三郎のことが大嫌いです(笑)。

大江の作品は、
個人と社会との葛藤を描く近代文学です。
つまりは近代性の表現そのものです。

ネトウヨは、
表向きは「近代国家」を装いながら、
そのじつ近代性というものを非常に嫌っています。

彼らは、
表現の自由を抑制し、
中央政権が国民を統制するような総動員体制をこそ望んでいます。

つまりは、
北朝鮮や中国のような前近代的な国家こそが、
ネトウヨたちにとっての本当の「理想」なのですね。

それもまた、
戦時中の国粋主義者と同じような自己矛盾です。






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最終更新日  2020.10.15 12:40:06


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