まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2020.11.29
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カテゴリ: 政治
三島由紀夫の没後50年ということで
メディアでは彼のことが盛んに取り上げられています。

三島の死について考える機会も増えていますが、
これについて、わたしには根本的な疑問があります。

そして、その疑問は4つの形に集約されます。

1.三島の死は、たんに個人的なものだったのか?
2.それとも、三島の死は、社会的(国家的)なものだったのか?


端的にいえば、
あれは「個人的な死だった」と考えるほうが分かりやすい。

ひたすら彼自身の生の美学や理念をまっとうするための死だった。
もちろん、それに共鳴する人がいるとしても、


そう考えるほうが、はるかに分かりやすいのです。



しかし、そう考えるには、
不可解な部分が多いのも事実です。
なぜなら、三島の死は、あまりにも大仰すぎるからです。

道連れになって死んだ人もいるし、
切りつけられてケガを負った人もいます。
たとえ政治的な示威行為だったとしても、
ひとりで焼身自殺をするのとはかなり違っている。

三島の死は、
たんに個人の自由の範囲を超えて、


つまり、
たんに「個人的な死」というだけでは、理解できない部分が多すぎる。



では、
あれは「国家のための死」だったのでしょうか?


>それをすぐに取り戻すことはできないけれど、
>いつかそれを取り戻すためにも、
>その精神をまで失ってしまってはならない。

三島は、自らの死をもって、
そのように伝えたかったのかもしれません。

しかし、わたしは、
さらに2つの疑問を抱きます。

3.日本がこの先、失ったものを取り戻すことなど可能なのか?
4.そもそも、それは必要なことなのか?
  それを取り戻すことに、まともな「意味」などあるのか?


三島は「失われた日本の回復」に対して、
何らかの希望や展望をもっていたのでしょうか?

それが分からないかぎり、
かりに三島の「遺言」らしきものがあったとしても、
わたしは、
それを真面目に受け止めようという気になれません。

はたして、現代の若者なら、
彼の遺言を真面目に受け止めようという気持ちをもつのでしょうか??

せいぜいのところ、
またしても三島のセンセーショナリズムを、
一時的に消費するだけで終わるのではないのですか?



以前も書きましたが、

結局のところ、
三島が主張したのは、
「日本が軍備を増強して、欧米にも負けないような国に立て直す」
ということです。

はたして、この先、
そんなことが可能でしょうか?

そして、そもそも、
それは本当に必要なことでしょうか?




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最終更新日  2020.11.29 13:20:05


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