まいかのあーだこーだ

まいかのあーだこーだ

2023.04.24
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駆ける子と背で鳴る氷夏囃す わかめ狩り水筒ころがす親父の船 春暁や陣痛室で握る水 背後より歳時記覗く椿あり 水筒の底にゐる春愁の澱 花冷の砂かぶり席売り子駆く 水筒の囀り満たし一息に
プレバト俳句。
お題は「水筒」。



キスマイ横尾。
花冷の砂かぶり席 売り子駆く
売り子駆く 花冷の砂かぶり席
(添削後)

原句の「砂かぶり」と「売り子」は名詞ですが、
字面的には「砂かぶり、席売り、子駆く」と、
動詞が3つ並んでるように見えてしまう。

いわば、
{名詞+動詞+名詞+動詞+名詞+動詞}の形なので、


ちなみに、わたしは、
「砂かぶり席」という単語自体を知らなかったので、
相撲の場面と誤読することはありませんでしたが。



梅沢富美男。
水筒の囀 さえず り満たし一息に
水筒はさへづる 囀りの真下
(添削後)

原句の「囀り」は名詞だけれど、
「囀り、満たし」と動詞が2つに見えるし、
末尾には「飲む」も省略されているので、
これまた、ややこしくて読み迷わせる。

そのうえ、
何が何を「満たす」のかも不明瞭で、

ほとんど日本語としての体をなしていません。

まあ、
「水筒のさえずりをコップに満たして一息に飲んだ」
と解説されれば、それなりに詩情も理解はできますが、
あまりにも技術的に覚束ないので、

季語の「囀り」をクサい比喩にしただけの句でした。



コットン西村。
駆ける子と背で鳴る氷夏囃 はや
駆ける子と背で鳴る氷 夏の空
(添削後)

これが今週の1位。

詩情の面で評価されたとは思いますが、
技術的にいろいろと問題が多い。
ちょっと身の丈以上のことをやりすぎてる感じです。

最大の問題は、やはり動詞が多いこと。
「駆ける」「鳴る」「囃す」の3つですね。

世間には「氷夏」なんて造語があったりもするし、
どれが主語で、どこで切れるのか、かなり分かりにくい。
わたしは「夏囃す」という季語があるのかしら?…
などと勘違いしましたが、そういうわけでもありません。

結論をいうと、
原句には切れがなく、一句一章です。

構造的には、

主語B:背で鳴る氷が
述語 :夏を囃している

※正確には「主語」でなく「主部」、「述語」でなく「 述部」です。
というワンセンテンスの句ですね。

そのなかで、
主語Aの「駆ける子が夏を囃す」という比喩と、
主語Bの「氷の音が夏を囃す」という擬人化を、
いっぺんにやってる形です。

しかし、
とくに主語Bの 「鳴る氷が囃す」 は、
修飾語の動詞と、述語の動詞が、
どちらも音の情報になって紛らわしい。

そのうえ2つの主語の関係は、
主語B「リヤカーを引く氷売りの主人公」と、
主語A「その横を走ってる子供」というようにも誤読できます。
子供自身の背中で氷が鳴っているのなら、
「駆ける子と」ではなく 「駆ける子の」 にすべきです。

他方、場所の助詞「で」は、
許容範囲内と判断されたのかもしれないけど、
わたしなら、やはり 「駆ける子の背に鳴る氷」 とします。



村上弘明。
わかめ狩り 水筒ころがす親父の船
水筒をころがし父の若布 わかめ
(添削後)

季語の「わかめ狩り (若布刈) 」は名詞ですが、
字面のうえでは「狩り、ころがす」と動詞が2つ見えるし、
とくに「水筒ころがす親父」のように、
2つの名詞で動詞を挟んだ場合は、
動詞が述語なのか修飾語なのかが分かりにくい。

たとえば「犬食べる鳥」と書いたときに、
切れの位置によって、
「犬が食べている」とも読めるし、
「鳥が食べている」とも読める、ってことです。


作者自身は、
「船が水筒を転がす」という擬人化を意図したらしい。
でも、読んだだけでは主語が「親父」か「船」かは分からない。
添削でも「父」が主語になっているように見えますね。



篠原ゆき子。
背後より歳時記覗く椿あり
歳時記を覗くか 目のような椿
(添削後)

動詞は「覗く」「あり」の2つ。
このぐらいなら許容範囲内だろうと思います。

季語の「椿」を擬人化した句ですが、
あまりに主観に傾きすぎて無内容に見えるから、
まずはやはり客観写生の原則に立つべし、ってことですね。



春香クリスティーン。
春暁や 陣痛室で握る水
水筒を握る陣痛 春の暁 あけ
(添削後)

動詞は「握る」のひとつだけ。
動詞が少ないと、じつにスッキリして見えます(笑)。

原句の「水を握る」というのは、
ペットボトル時代ならではの言い方ではあるものの、
俳句の表現としては、やや無理があったのかな。
(わたし自身は、さほど違和感ありませんが)

ちなみに、
添削は「水筒」に直してますが、
映像でもペットボトルだったし、
作者が意図したのもペットボトルだと思います。

場所の助詞「で」はちょっと説明的でしたね。



森口瑤子。
水筒の底にゐる春愁の澱 おり


これも動詞は「ゐる」のひとつだけ。
この場合の「澱」の不気味な擬人化は効果的でした。

梅沢も言ってましたが、
(「ぴこんぴこん」とか「だってば」とかじゃなく)
こっちこそが「森口節」だろうと思います。

それにしても、
遠足のリュックの底にチョコの染み
花疲れ リュックの底の底に鍵
春愁をエスカレーター地下へ地下へ

…と、
なぜ森口瑤子は「底」が好きなのかしらねえ。
夫婦ともども、
底を覗かずにはいられない性分なのでしょうか。








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最終更新日  2023.04.24 13:56:10


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