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今日は、世田谷美術館に行きました。 メキシコ20世紀絵画展。(30日までです) http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html お目当ては、フリーダ・カーロ。 この絵を見るきっかけになったのは、 水木一郎さんのフラワーロックの話題が出たときに、つい、思い出しちまった・・・という気の毒な話から始まっています。 しかし、印刷されたフライヤーは、本物よりはるかに色がきついのです。だから、つながった眉毛とか、ひげとか、ごつく見えるのです。もしかしたら、どんなコピーも、この絵の真実を伝えることは出来ないのかもしれない。 本当の絵は、とても小さくて、写実的に丁寧に描かれていて、 ちょうどかわいらしい人の顔くらいの大きさなのです。 視線が、生きているようで、 たくさんの人のまなざしの中、とまどっているように見えました。 強さとためらいと、「わたしは、こんな姿なのです」と見返しているようでもあり、 ちょっと目をそらしているようでもあり、対峙しているわたしは、 かわいらしさに立ち去りがたい気持ちになりました。 「メダリオンをつけた自画像」というのは、 花嫁衣裳を着けて涙を流すフリーダの姿。 小さいときに小児麻痺を発症して、 その後、子宮を刺される大怪我をしながらも、 画家のディエゴ・リベラと2度の結婚をして、 痛みと戦いながら情熱的に生きてきた女性とあります。 フリーダの絵は、この一枚だけなのですが、 このたった一枚に出会うだけでも、行くだけの価値はあるように思います。 それにしても、用賀から砧公園に向かう道は、 そこここに、このフリーダの看板が掲げてありました。 さすがの彼女も、自分が涙を流している小さい絵が、 60年も経った東洋の町にあふれる様子は、想像できなかったことでしょう。
2009.08.29
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公園を歩くと、蝉の抜け殻が枝枝に連なっていた。 抜け殻と蝉の屍は似ている。 生まれることは、死ぬことのはじまり、 そんな言葉を思い出す。 ちょうど一年前に、父のことを題材にして、 「こもれび」という歌を作ったのは、 この場所だった。 http://www.youtube.com/watch?v=jaCfee5zIEI こないだ、お盆に実家に帰ったら、母がこんなことを言う。 おたくは、恋愛結婚だから、 出てくるのよね。 うちは、お見合いだから、ぜんぜん出てきてくれないの。 って言われちゃったわ。 そんなこと、ないわよね。関係ないでしょ。 母は、けろけろと笑う。 お盆なのか、違うのか、 こちらに来てくれているのがわかることがあると、母は言う。 風の音、気配・・・、思い込みと言ってしまえばそれっきりだけれど、 人は深いところでつながっていると思いたい。 ごめんね(謎)。 <ライブ告知です>8月22日 11:00-11:40 旧東横線桜木町駅舎 STREET LIVE 9001 入場無料 http://www.9001.tv/index.shtml 9月6日 OPEN 13:00 START 13:30 【弾き語りデイ】 Charge ¥1,000+1drink ¥500 ・華月 ・石井蒔 ・行志堂 ・佐藤龍一 ・フォーク野郎 ・ターナーB♭ 新宿ゴールデンエッグ 東京都新宿区歌舞伎町1-16-10 第27東京ビル B2F http://g-egg.info/top.html
2009.08.21
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お暑うございます。 朝の公園には、男が横たわっていました。 荷物を散乱させて、赤黒い顔で、手足をナナメに投げ出したまま。 生きているのかな? 犬に水を飲ませていると、男が顔だけひょいと持ち上げる。 「暑いですね、だいじょうぶですか?」と声を掛けると、 寝転がったまま、少しほどけた顔で、うなづく。 そりゃ、わかるけど、あんな公園じゃ、、 お母さんたち、子どもを安心して遊ばせられない。 画像は、「種子を粉にひくな」というケーテ・コルヴィッツの絵。 「種子を粉にひくな」というのは、ゲーテの言葉だそうですが、 これから蒔くべき種を、パンの粉に挽いてはいけない。 転じて、これから世の中を作るべき若い人、幼い子どもたちを戦いのために、 死に追いやってはいけない。 と言った母の守りの腕にしっかりと守られた子どもたちを描いています。 (ゲーテの出典はどこなのでしょうね。どうも調べてもわからない。) わたしは、この言葉を聞くと、特攻隊のもと、 死に追いやられた多くの日本の若者を思います。 「聞けわだつみの声」という本には、 彼らの今際の際で書かれた多くの文章であふれています。 知恵もあり、多くの才能に満ちて、そして勇気ある若者が、 お国の名の下に、一枚の木の葉のように命を投げ出されていった戦争。 彼らが生きていたなら、日本の文化ももっと知恵の深みに満ちていたのではないかと、 わたしは、ときどき思うのです。 蒔くべき種を粉にして、パンにもせずに吹き飛ばしてまで、 ありもしない勝利を願った人たちは、いったいどんな未来を夢見たのだろうか。 (つづく・・・カモシレナイ)
2009.08.19
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いやあ、まいったまいった。 借家の扉のところで、あしなが蜂さんがぶんぶん飛んでいたのです。 なんか妙に親しげなので、ふっと見てみたら、 扉の上のところに、直径1センチくらいの穴が開いていて、 別の1匹が出入り・・・・ もしや、蜂さん、マイホームですかぃ~? フレンドリーに下宿先を提供するには、あまりにいかついその御姿。 黄色と黒の危険区域カラーのボディ。 これは・・・とキンチョールでお見送りいたしました。 穴の中にも、殺虫剤。これで、にっこり。 と、思いきや・・・、数時間経ったら、またもや同じカップルが 申し訳ありませんが、本日閉店。 と、セロテープで穴をふさぎましたとさ。 昭和な住宅は、自然がたっぷり。ホリデー気分で、エコだよね~。 (ほんとかい?) ※ 画像1 ご近所では、青いみかんが秋の準備を。
2009.08.14
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こないだ、夏休みの子どもの宿題のつきそいと称して、ゴーギャン展に行ってきました。ゴーギャンが生きたのは、1848年 - 1903年ということで、まさに、フロイトやニーチェが、封建的な文化の中で、抑制された生の衝動(性的なものを多く含む)をどのように文明の中に明らかに位置づけようかと戦っていた時代だったのだと思います。(※ あんまり歴史は詳しくないのです。)ゴーギャンは、南洋の生活の中で、「知恵の実を食べてエデンの園から追い出される」前の理想郷を、描きましたが、それは、西洋の画壇からは、受け入れられるものではなかった。生きることの終わりを前にして、描かれたのが、この「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という大作です。この絵の展示は、動物園のパンダのようなてすりをしつらえてあって、「近くから歩きながら見たい人用」が手すりの手前で、「遠くから全体を見たい人」が階段の下から見上げるかたちになっている。しげしげと、右から左に見て回ると、最後の左端の人が気になる。手で顔を覆って、座り込むこの人は、あきらかに死を前にしている。解説では、絵の右側の画面からはみ出して、絵の中と外をつないでいる黒犬は、画家自身ではないかと書いてあったが、むしろ、わたしは、この左端の人に、画家の生死の達観を見取るのです。この絵は、ゴーギャンが生きて、見て、考え、感じた世界の縮図。輝き、味わう人生のよろこび、名誉、もぎとる知恵の木の実。寄り添う人々、そして、必衰、去り行くとき。昨今の輝かしい世界にいた人たちが、いろんなお別れや、哀しい余生に落ち込むニュースを見ていたら、こんな文章を書きたくなりました。さよなら、おおはられいこさん。
2009.08.07
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