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仏陀の生きた時代というのは、バラモンを中心としたカースト制度が定着した時代です。今はカースト制度そのものが法律で禁止されていますが、隠然とその影響があるのは当たり前。それが真っ盛りな時代なんですから、その影響がどれだけ強かったのかは押しなべて知るべしですね。仏陀は釈迦属の王子として生まれていますから、身分は非常に高かったわけです。そんな彼が教えを説くのであれば、耳を貸す人も多かったでしょう。気品にあふれ、振る舞いが優雅な人と、みすぼらしく粗野な人と、どちらが真実を語っているのか。普通の人であれば前者を信じたくなるでしょう。さて、カースト制度においてバラモンとは司祭であり神の化身でもあります。仏陀は神様の存在を否定し、バラモンもただの人間であると言いました。仏陀はあらゆる物事を否定しています。自分という存在は無く、魂も無く、人という存在そのものが本来は無いものなんだと。カーストもあり得ないし、人間はみんな同じだと言いました。仏教は戒律でも否定が多いので否定の宗教ともいわれていますが、これは間違いです。例えば本質としての自己は存在しないと言っているだけで、知覚などによって生み出される自身の意識があるのです。この説明はもう少し後で詳しく行いますが、仏陀は当時のインドの常識からするととんでもない事を言っていたという事だけ理解してください。例えばここに猫を神様とする国があったとします。にゃんこ教信者が国民の99%を占めていて、国の運命や人々の生活までほぼすべてが猫を中心に動いているとします。にゃんこ教法典自宅に猫を飼う場合は、決して飢えさせてはならない飼えない場合は猫の偶像を置き、毎朝毎晩、必ず礼拝をする給料の1割を猫の保護のために寄付しなくてはいけない自宅の猫が死んだら、一か月は喪に服す猫が道にいるときは、どこかに行くまで人はその道を使うことが出来ないなどなどこのように猫を崇拝するため、人々の行動や生活習慣にまで影響を及ぼしているにゃんこ教ですが、もしこれを否定する人が現れたらどうでしょうか。おそらくすさまじい迫害を受けるはずです。一生、猫を見ることも触ることも許されないという地獄の日々を暮らすことになるでしょう(笑)要するに、当時のインドでカースト制度を否定した仏陀という人間はとんでもなく異端者だったという事なんですね。でも普通ならそんな異常者は社会に受け入れられる事は無いです。当然、排斥の憂き目にあうでしょう。仏陀の生きた時代は様々な思想家が現れ、多種多様な思想を広げようとしていました。その中で今日まで残っているのは仏教とジャイナ教だけです。くしくもこの二つを勃興させた開祖は同時代に生きていました。ではなんでそんな異端者が起こした仏教が今日まで生き残っているのか。それは人が自らの努力によって幸せをつかむことが出来ると説いたからです。カースト制度の底辺にいた人々にとって、幸せは望むべくもない事でした。上位カーストから与えられるもので生きるしか方法が無かったわけです。未来に活路を見出すこともできず、生きる意味すら与えられませんでした。ですが仏陀は人が平等で、幸せは望めば得られると言いました。すべての苦を離れ、究極の境地、ニルバーナに至る道を示したからこそ、多くの人が仏教に帰依し、今もその教えを信じているわけです。仏教は宗教ではなく、生き方を示した論理的な実践方法です。考え方、理論、実践法はとてもシステマティックで実用的です。私も本格的に調べ始めて、ここまで有益だとは思いませんでした。しかもスリランカに残された初期仏教には、フナに通じる呼吸法や瞑想がきちんと体系化されて存在しています。次回は仏教で行われる呼吸法について解説します。
2021.10.18
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最近は仏教の理論とフナの共通点を見つける作業に没頭しております。どうせ誰も期待していないブログなので好き勝手書きますが。仏陀はカフナです以上終わりって事はありませんが、フナの理論に到達していたのは間違いなさそうです。仏陀の入滅後、最初の結集が行われました。その時に編纂されたのが現在も残っているパーリ語による聖典です。スッタニパータという経典には、仏陀が弟子たちや自分のことを、”彼”と言っているフレーズが多く見受けられます。また仏陀は自分のことを述べるときは、”わたし”と言っています。それがなんやねんと言ってしまえばそれまでなんですけどね。ひとつずつ説明しましょう。ロング博士は聖書をハワイの古い神話と見比べ、その共通点が多い事に着目しました。旧約聖書に出てくる逸話がそっくりなんですよ。もしかしてキリスト教で言う神様って、ハイセルフなんじゃないかと思い、いろいろと調べ始めたらどうやらそのようだと。そしてイエスキリストがカフナであるという重要な証拠も見つけています。それは翻訳本に出ているのでここでは書きませんが、その中でもけっこう重要視している部分があります。それはイエスキリストが自分の事を、”彼”と呼んでいるところがあるんです。もちろん、”わたし”と呼ぶところもあるんですけど、言い換えているところもけっこうあります。なぜわざわざ換えて呼んだのでしょうか。それはイエスがハイセルフと一体化したところで彼と呼んでいるのです。ハイセルフと離れ、普通の人間になった時はわたしと言っています。つまりハイセルフがイエスの体を借りて話している時、人間のイエスである時の言動を分けて表現しているのです。この事を理解して初期仏教の話を読むと、やはり出てきました。解脱状態の弟子たちや仏陀本人は自分たちのことを彼と呼んでいるのです。ここで注意しなくてはならないことがあります。それは言語と翻訳についてです。古代ハワイ語はハワイに入植した宣教師たちによって辞典が作られました。その時に二重言語である事を知らなかったため、ひとつの単語に複数の意味がある理由が分からず、改訂版では意味の通じない部分はすべて削除されてしまっていました。特に漢文に翻訳された経典、大乗仏教には全く秘密の意味は失われてしまっています。ではパーリ語の仏典はどうでしょうか。実はもともと初期仏教の経典はすべて口伝で受け継がれてきました。これはカフナと同じ方法なのです。じゃあ仏典のパーリ語にも隠された言葉があるのかと思われますが、実はそうではありません。仏陀は自分の理解したことや知識はすべて弟子たちに伝えています。でも弟子の理解度や習熟度は様々だったので、その理解力に応じた方法を使って伝えています。もっとも仏陀に近い弟子たちは、仏陀の教えを完全に理解していたので、”言葉による教え”を聞いただけで、それが何を意味するのかを理解できました。しかし一般の人々や弟子になって間もない人間には言葉だけでは伝えきれません。そこで仏教を修行する集団、サンガでは兄弟子たちが後から入ってきた弟子たちを指導します。口伝の内容を伝えると同時に、その意味も理解させてくれるのです。これは非常に優れた方法で、集団で生活しつつ、お互いの理解度、習熟度を確認することで口伝を間違って教えたり理解しないように相互で注意することが出来たのです。残念ながら第二回、第三回の結集が行われる時期までに仏教は分裂を繰り返してしまいます。もっとも重要なパーリ語聖典はインドの南西部、そしtそこから南に下ったスリランカで受け継がれたために喪失を免れました。分裂した仏教の宗派や、他言語に翻訳された仏典はバラバラになってしまい、元の形を残すことなく散逸してしまっています。現在の日本で仏教を調べると、その多くは漢文から起こされた文章になっています。そのため、初期仏教で重要視された内容が欠落してしまっている事実があります。なので私はパーリ語から日本語に翻訳された文章を用いて(それでも失われている部分はあります)研究を進めているところです。特に呼吸法や意識の分析にはフナとの共通点が多く、非常に興味をそそられますね。では次回以降に仏陀の教えについてフナの視点で見ていくことにしましょう。
2021.10.17
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