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43年前のきょう、ビートルズは神聖な場所とも言われていた日本武道館で公演しました。そして、「元アイドル」と書いてあったのが悲しいのですが・・・。小向美奈子がロック座という所で、ストリップをするということを知ったときは少し驚きましたが、29日に千秋楽でその後会見したようです。ビートルズだって下積み時代がありストリップ・クラブでも2、3度仕事をしたことがあったそうです。
2009年06月30日
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1966年の6月、ビートルズのワールドツアーはドイツから始まりました。27日ハンブルグから東京へと飛び立った彼らは、台風のためにアンカレッジで足止めを食い29日午前3時39分に羽田空港へ日本航空の「松島」で到着したそうです。飛行機を降りた彼らは、外国の政府要人ですらまったく例がないという、空港の滑走路の誘導路からさらに滑走路を横切って、当時の整備地区を走り抜けて高速道路へ入ったそうです。この日、東京ヒルトンホテルで記者会見があったそうですが、そのときインタビューした記者はみんなビートルズ否定論者だったそうです。会場には2500人の警官、ビートルズ滞日中、警備などのために動員された警官延べ8370名、経費は9000万もかかったそうです。
2009年06月29日
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ビートルズの曲でリード・ヴォーカルをとっているメンバーが、だいたいその曲の主な作曲者ですけど、ジョンは自分が作曲した曲も時々他のメンバーに任せています。1968年のきょうの録音のホワイトアルバムと呼ばれた「ザ・ビートルズ」の最後の曲「GOOD NIGHT」もそうですが、リンゴが歌うのにぴったりのような気がします。そんなやさしい一面もあるジョンのエピソードをきのう僕は知りました。1963年、ビートルズの2枚目のシングル盤は1月に発売され、2月にはとうとうイギリスでナンバー1になりました。3月9日からの国内巡演でMONICA TICKELがEXETERで彼らを、アメリカ人歌手のトミー・ロウがメインだったステージで初めて見てファンになりました。当時ヨークシャーにある男子校と文通することがはやっていたらしく、MONICAの友人が男の子たちと文通することになったが、MONICAはとても動揺したそうです。というのは、名前のせいで誰もMONIKAに手紙をくれなかったのです。(「TICKLE」というのはくすぐる。こちょこちょするなどの意味がある。名前と発音、スペルが似ていたため不当な扱いを受けていたと考えられるそうだ。)MONIKAはジョンに「こういう理由で、誰も手紙をくれない」という手紙を出した。するとジョンから返事が来たそうだ。ジョンの文字で「君の名前は変わった名前なんかじゃないからね。愛を込めてジョンより」と書かれ封筒の裏にはビートルズのドラムスキンに書かれていた『アンテナつきのB』が描かれていたそうです。
2009年06月28日
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テレビで日本人がマグロを獲りすぎるのでかなり少なくなっていると言っていた。きのうの毎日新聞には九州電力の発表で、08年度の同社の二酸化炭素の排出量が景気悪化などで5年ぶりに減少したそうです。きょう、またジョン・レノンのエピソードを発見したので次はそれを書きたいと思います。
2009年06月27日
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1963年のきょう、ビートルズは初期の大ヒットシングル「SHE LOVES YOU」をジョンとポールでコンサートを終えた後、炭鉱と造船の町ニューカッスルのホテルで書き上げた。そしてきょうまた一人スターが逝ってしまった。映画主題歌の「ベンのテーマ」を歌ったのはマイケル・ジャクソンではなかったか。「ムーン・ウォーク」も彼がはやらせたんじゃなかったか。ハウステンボスにも来たことがあったような。マイケルはジョン・レノンが死んだ後、ポールのパートナーとなったこともあった。スティービー・ワンダーだってそうだ。しかしポールにとってジョン以上のパートナーが現れることはなかった。オフ・コースが「I LOVE YOU」という曲の中で「誰もあなたの代わりになれはしないから」と歌っているようにジョンの代わりになるような人はどこにもいないのだ。同じように誰がマイケルのように「スリラー」をやってもきっと同じようにはできないだろう。彼は他にも私たちが理解できないことをして話題を振りまいた。なんとビートルズの曲の権利を買い取ったのだ。今はどうなってるのだろう。
2009年06月26日
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テレビのコマーシャルソングにも使われているビートルズのジョンの「ALL YOU NEED IS LOVE」ですがこの曲は1967年6月25日に「OUR WORLD」という衛星中継番組でミック・ジャガーなどのコーラスを入れライヴ演奏を録音しました。前もってジョージ・ハリスンのヴァイオリンなどの伴奏トラックを1967年の6月14、19、23、24日と録音していたようです。ある人がこの中継はビートルズ時代のジョン・レノンの最後のハイライトと言ってましたがそうかもしれません。この中継から約2ヵ月後に、ジョンが実の父親以上かもしれないほど慕っていたと僕は思うのですが・・・。マネージャーのブライアン・エプスタインが亡くなってしまうのです。ジョンが彼の死を悼む曲を残しています。その曲を聴けばジョンがどれだけ彼の死が悲しかったのかがわかります。その後ジョンはその寂しさのやり場をシンシアではなく、ヨーコにもっていったような気がします。
2009年06月25日
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ビートルズの事を調べていたら偶然見つけました。ジョージ・ハリスンの関係で「badge」とかあったので、もしかすると同じつづりかもしれないと思い調べてみたらあったのです。これが自分のIDの由来だったのです。昔映画の予告編か同時上映かで『バッジ373』という映画があったのをうっすらと覚えていたのです。だからまた「badge」を調べてみると『バッジ』と読むらしくジョージとエリック・クラプトンが二人で作った曲のタイトルで、しかもリンゴ・スターの作詞も1行入っているという、その曲のタイトルの由来もまた面白かった1969年の曲だったのです。まさかビートルズ関係にも同じつづりの単語があったなんてぜんぜん知りませんでした。最初に「むぎ」という言葉を考えつき、それだけでは短かったので373を足したのです。
2009年06月22日
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6月22日はビートルズにとって、とても意味のある日になったのです。彼らはデビューする前と後にドイツのハンブルグのクラブで演奏をしていました。最初は1960年の8月です。このためジョンとポールは学校を、ジョージは仕事をやめたようです。翌年2回目のハンブルク巡業で「トップテン」というクラブにビートルズは前年に知り合ったイギリスの歌手トニー・シェリダンのバックバンドとして出演していました。それを見たドイツのロック歌手トミー・ケントがドイツで活躍していた作曲家ベルト・ケンプフェルトに推薦しその後ケンプフェルト自身もトップテンクラブを訪れて彼らの演奏を聴きレコーディング契約を申し出たそうです。こうして彼らはその日レコーディングして、イギリスより早くドイツで8月にレコードを出すことになるのです。しかしそのレコードには『ビートルズ』ではなく『ビートブラザーズ』とあくまでトニー・シェリダンのバックバンドとして記載されていたようです。この日録音されたのは後のビートルズの伝説にも使われた『マイ・ボニー』、ジョンがたぶん美術学校で最初の妻シンシアにみんなが帰ってしまった教室で、ギターを抱え歌った『エイント・シー・スィート』、唯一ジョンとジョージの共作と思われる『クライ・フォー・ア・シャドー』などです。録音場所がフリードリヒ・エベルト・ホールという学校で、同名の財団もあるようです。次の日と二日かけてされたようです。それにしてもジョンが教室で歌った『エイント・シー・スィート』はもともとのスローなバージョンか。それともロック調のジョンが言うところの「行進曲」のヴァージョンだったのでしょうか?
2009年06月22日
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きょうの毎日新聞には18日にニューヨークに大気中の温室効果ガスの総量を示す巨大な電光掲示板が出現したと出ていた。19日現在1秒間に約800トンの割合で増え続けているそうです。1週間前の記事には歌手の加藤登紀子さんが「経済発展という尺度で未来をみる考え方からそろそろ卒業しなければならない。」と言われています。ここで一番重要なことは「巨大な電光掲示板を建設するのにもたくさんの温室効果ガスを排出するんじゃないか?」ということだと思います。6月20日、ビートルズ1965年です。その年ジョン・レノンはあまりに忙しすぎるときが長く続き過ぎ「HELP!」(アメリカの映画に[HELP]という映画が既にあったために「!」を入れたそうです。)という曲を作り出したのでしょうか。同名タイトルのLPの曲の録音を2月から、映画の撮影を挟み行っていた彼らは6月中旬に終えヨーロッパ演奏旅行を開始しました。彼らのコンサートではアンコールには応えなかったようでした。しかし初日のパリだけは違っていたのでしょうか。この日はアンコールに応えたようなのです。海賊盤が出ているようです。このコンサートも綿密な計算がされていたようです。というのも最後から2番目をラストナンバーと紹介し、一度舞台を下がり、再度登場して最後の曲をアンコールに応えたかのように演奏したらしいです。このヨーロッパ公演は7月3日まで続いたようです。
2009年06月20日
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ビートルズが活躍していた頃彼らはシングル盤とLP、そして4曲入りのEPも発売していました。1964年6月3日にリンゴがダウンした翌日彼らはワールド・ツアーの始まりです。その日は19日に発売されるEPの最後の録音日だったようです。ジョージ・マーティンがピアノをオーヴァーダビングしています。前日にリンゴがダウンした翌日に録音した曲のタイトルが「スロー・ダウン」なんてまるで作ったかのような話じゃないですか。(実際ビートルズに関して作り話は少なくありませんが・・・)ビートルズが「SLOW DOWN」とかいうタイトルの曲を作りそうじゃないですよね。この曲はラリー・ウィリアムズのカバー曲です。ジョンはこの歌手が好きなのか他にもあと2曲ビートルズ時代に公式に録音しています。オリジナルは聞いたことはありませんがジョンにぴったりの曲だと思います。どうしてこの曲を入れたかというと僕はその時にあまりにも忙しくて全速力で走り続けていたことをジョンはこの曲で「もう少しゆっくり行ってもいいんじゃないか」と叫んでいたんだと思います。
2009年06月04日
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新聞を見たらNHKの番組で道路凍結とか書いてあったのでどうして夏なのに道路凍結なんだろうと思いテレビをつけてみると今度はB/Cとか言っていた。なんだろうと思いまた調べてみた。それは「費用便益比」とか書いてあった。便益はBenefitと書いてあった。たしかビートルズの曲にその単語が・・・。そうです。ジョンが骨董屋で買ったポスターの文句から作った面白い曲「Being For The Benefit Of Mr.Kite!」
2009年06月03日
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1964年6月ビートルズはLP「A HARD DAY’S NIGHT」の録音中だった。3日にはとうとうリンゴがダウンしたそうです。それくらい1964年の彼らは忙しかったのです。その日も彼らはアビー・ロードのスタジオで仕事です。「BEATLES FOR SALE」の1曲目に収録されている「NO REPLY」のデモテープの録音です。この曲はもともとトミー・クイックリーという歌手のシングル盤のために用意された曲のようです。もう1曲ジョージの曲で「YOU KNOW WHAT TO DO」。ジョンがタンバリンをたたいたそうです。この曲は30年以上経ってやっと「アンソロジー1」で聴くことができました。同じ日にワールド・ツアーのためにリンゴの代役でジミー・二コルというドラマーとリハーサル・セッションを行ったようです。
2009年06月03日
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