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初回プレスのレア物ですよ。即納できます!■初回限定盤■ジュリアン・レノン CD【フォトグラフ・スマイル】 98/9/17発売シンシア・レノン『思い出のジョン・レノン』1970年のきょう、ジョン・レノンの最初の妻シンシアは他の人と再婚しました。ジョンと別れたのは2年前の夏の頃だったのでしょうか。しかし誰もジョンと関係があったということを忘れることはできないでしょう。1968年の「HEY JUDE」の録音はトライデントスタジオに変わりました。8トラックの録音装置がアビー・ロードのスタジオにはまだなかったからでしょうか。当時ポールはシンシアの息子ジュリアンを元気づけるためにこの曲を作ったんだそうです。面白いことに後にジョンは自分のことを歌っていると言ったそうです。歌詞の「go out and get her」の彼女はヨーコだと言うのです。そしたらポールは「いや、自分のことを歌っている。」と言ったそうです。当時ジェーンとの婚約を解消したのを考えるとそれも肯けます。ポールにはリンダという女性がいたのです。本当に僕はこのポールとジョンとの関係が不思議でなりません。あまりにも共通点が多過ぎるのです。それに加え、きっとジョンに去られるシンシアとジュリアンの事が、ジョンから去られようとしているビートルズのポール自身の境遇と重なったのだと思います。だからこそポールは本当の父親であるジョン以上にジュリアンに対して愛着があったんだと思います。この日のレコーディングだったのでしょうか。もしかしたらポールだけ感動させたかもしれないエピソードまで生まれました。ポールは魔法みたいなテイクだったと言ったそうです。ポールはリンゴがドラム・ブースにいると思って歌い始めたけれど、実際はトイレにいていなかった。しかしリンゴはちょうどドラムスが入るところで戻って来たそうです。リンゴはちゃんと計算していたのかもしれません。おそらくリンゴが自分の出番が来るのがわかるほどポールは何回もその曲をやったと思えるのです。
2009年07月31日
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【レコード・EP盤】(中古) ビートルズ/ヘイ・ジュード【レコード・EP盤】(中古)ビートルズの「ヘイジュード」【080912SP_10】きのうに引き続き7月30日のビートルズも1968年です。その日も彼らは、アビーロードのスタジオで「HEY JUDE」のリハーサルとレコーディングを行ったようです。この日は全英音楽協議会が作るイギリスの様々な音楽の形を追ったドキュメンタリー映画「MUSIC!」の撮影が数時間行われました。当時のシングル盤の演奏時間としては掟破りの長さのこの曲を発売させるため、ビートルズは全英音楽協議会にこの映画の撮影を協力したそうです。この映画は1969年の10月にイギリスで公開され、翌年にはアメリカのテレビの「NBCエクスペリメント・イン・テレビジョン」で放送されたそうです。この時の映像は「BEATLES/TV TAPES COMPLETE VERSION」に2分32秒、3分5秒と2つのシーンが収録されているそうです。
2009年07月30日
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きょうの長崎の天気予報では80%の降水確率でしたが、雨はまったく降らなかったみたいです。天気の予測をするのは難しいみたいですが、ビートルズのポールは自分が作った歌に関して、いい曲かどうか判断する力がないと自分で言ったそうです。1968年のきょう、アビー・ロードのスタジオでは26日にポールとジョンで完成した「HEY JUDE」のリハーサルが行われたようです。この時の録音は「アンソロジー3」で聴くことができます。時々ビートルズの曲は前奏なしで突然始まります。この曲もそうでした。そのせいかこの日の演奏の始まりがビートルズらしいのです。ジョンが「ブラック・カントリーの真ん中で」と言ったら、ポールは「ボストン・プレイス」と言ったらしいです。ポールは初め、「ヘイ、ジュールズ」と歌っていたそうですが、ジュードのほうがいい名前だし、そのほうがカントリー・ウェスタン風に感じられたからジュードに変えたらしいです。
2009年07月29日
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1968年7月28日、その時期レコーディングでほとんどスタジオに居ることが多かったビートルズは写真を撮るため、1日に7箇所での撮影をこなしたそうです。
2009年07月28日
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きょうのビートルズは1965年です。とうとうジョンは自分の苦しみを歌にして発表したのでした。ジョンが望んでいた世界の頂点にはとっくに登りつめ、後はマネージャーなどの言われるままに過密なスケジュールをこなし、有名になったがゆえ、もっともジョンに必要であった自由がなくなっていたようです。ジョン自身「太ったエルヴィス」と後で言ってたようです。前年に映画とLPと同タイトルのシングル盤「A HARD DAY’S NIGHT」が成功したせいか1965年も映画とLPとシングル盤のタイトルが同じ「HELP!」を7月23日に発売しています。この曲のテンポはジョンの理想よりも速いものでした。しかし速くすることにより「PLEASE PLEASE ME」のようにヒットしたとも言えるでしょう。ジョンによれば心の叫びは、みんなが本当にわかっていなかったのか、それとも、わかっていたのにもっとビートルズに活躍してもらうために、歌の中だけの「物語」にしておいたのでしょうか。(ジョン)のビートルズはもはやこのシングル盤で終わったと思うのです。ジョンは「HELP!」とすべての人に助けを求めたのですから。そのころシングル盤のA面で出せる曲をジョンとポールは競い合っていました。B面ですがA面に負けないくらい、いい曲です。何より玄人受けする曲です。ポールの「I’M DOWN」はエアロスミスが1969年にデモテープをレコード会社に出すために一番最初にレコーディングしたらしいのです。この曲はリトル・リチャードの「のっぽのサリー」のような、ステージを締めくくるにふさわしい曲を作ってやろうと思いポールがほとんど作りました。たしか日本武道館の公演でも最後の曲だったと思います。きっとジョンはこの曲と同じ日に録音されたポールの名曲にも嫉妬しただろうと思うのです。そのうちの1曲は「YESTERDAY」です。この曲はビートルズの代名詞にもなりうることは間違いないと思います。このようにポールは作曲家としての実力もジョンや他のメンバーたちに見せつけ始めていたのです。
2009年07月23日
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ちょうど40年前のきょう、ビートルズは「COME TOGETHER」の録音を行いました。この曲はチャック・ベリーの曲と似ていたため訴えられたようです。この曲はマイケル・ジャクソンも歌っていたようです。彼の1988年の映画「ムーンウォーカー」で見れるそうです。なんとこの作品には映画初出演のショーン・レノンも出ているそうです。
2009年07月21日
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ビートルズといえば「イエスタデイ」という曲をたいていの人が挙げると思う。きょう7月20日はポールにとって悲しい日となったのでした。1967年に婚約したジェーン・アッシャーがBBCのテレビ番組「Dee Time」に出演してポールとの婚約を解消したそうなんです。ジェーンが家に帰ったときポールはフランシー・シュワルツというガールフレンドとベッドにいたそうです。それを知ったジェーンの母親がジェーンの荷物をみんな持って行ったらしいです。1968年当時ビートルズは2枚組のLPのレコーディングの真っ最中でした。その頃4人の関係もよいとは言えなかったようです。ジェーンは巡業に行ったりして、ポールはジェーンをあきらめたのでしょうか。しかしリンダと結婚した後もジェーンが好きだと言っていたそうです。「イエスタデイ」という曲は1963年から1966年までのジェーンの家の屋根裏部屋に居候していたポールが夢の中でその曲を作り、目が覚めたときはできていた。という曲です。ビートルズは契約でレコードを作るノルマがあったようなので、1日中、曲作りのことを考えていたのだと思います。実際ファンも新曲を待っていたのです。ポールが何回もメンバーに歌って聞かせたというこの曲は「恋人が何も言わずに去って行く」という歌詞の内容だったと思います。ポールはジェーンと結ばれないことを、出会って間もないうちから予感していたのでしょうか。二人の写った写真を見るとつくづくポールはジェーンのこと好きなんだな。と感じます。きっと若すぎたんだと思います。お互い好きだったのに意地を張りすぎて、結局は別れることになるという。でもジェーンと会わなければ、別れがなければ「イエスタデイ」やいくつかのビートルズのラブソングは生まれなかったでしょう。
2009年07月20日
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ジョン・レノンが日本公演に来た1966年当時、赤塚不二夫の「おそ松くん」が連載されていたのか「イヤミのシェー」をしてくれたとミーは?記憶しているざんす。きのうテレビを見ていたら、(たぶん本人より渡辺直美のものまねから僕はビヨンセという歌手を知ったと思うのです。)ビヨンセがなんとあの「コマネチ」を振り付けに取り入れていたのです。僕はこれはきっと日本のファンのためにしてくれたんだと思いたいです。その「コマネチ」もビートたけしがよくしていましたが、実際初めそれをやったのは、せんだみつおだったと思います。もしジョンが生きていたら「コマネチ」もしてくれたかもしれません。ビートルズのきょうは1963年です。当時のバンドのノルマでは1年に2枚のLPを出さなければならなかったようです。3月に発売されたLP「PLEASE PLEASE ME」は7月も1位を保っていました。それでも2枚目のLPの録音が開始されたのです。1日目の録音は1959年に出されたバレット・ストロングの「MONEY」で、この曲はタムラ・レコードが前身のモータウン・レコードを設立した1929年生まれのベリー・ゴーディ・ジュニアがジャニー・ブラッドフォードと作っています。マイケル・ジャクソンの葬儀にも出席していました。しかし、ブルック・シールズがマイケルと交流があったのは意外な感じがしました。この曲はLPの最後に収録されています。オリジナルはまだ聴いたことはありません。ビートルズのヴァージョンではジョンがオリジナルの歌詞に1行付け加えたらしく「I WANNA BE FREE」。と歌っています。ジョンはお金と同じくらい自由が欲しかったのですね。
2009年07月18日
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ミニスカートの女王と呼ばれて日本にも1967年に来たというツィッギーは、ビートルズとも交流があったそうです。1968年の7月17日、ビートルズの映画「イエロー・サブマリン」のプレミアショーに現れたのはローリング・ストーンズやツィッギー、ジョンとヨーコ、ジョージとパティ、リンゴとモーリン、そしてジェーンと婚約中だったポールは一人だったそうだ。モデルの仕事を3年間で辞めたらしいツィッギーは、ビートルズの収入を上回るほどだったらしい。ポールがアップル・レコードの歌手メアリー・ホプキンのために「グッドバイ」という素晴らしい曲を作っています。ポールが彼女を知ったのは、ツィッギーが1950年生まれのメアリーをBBCテレビの新人オーディション番組で7週勝ち抜いたのを見て、ポールに強く働きかけ、設立間もないアップル・レコード初の女性アーティストとなったのです。
2009年07月17日
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1963年のきょうビートルズは、ロンドンBBCのパリス・スタジオでラジオ番組「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」で8月に放送される第8、9、10回の3回分を収録しています。そのとき演奏した曲は、BBCでのライヴを集め1994年に発売されたCDで聴けます。このCDではビートルズの数多くの未発表曲を聴くことができました。ビートルズファンならこれは絶対見逃せないCDだったのです。それまでステージでも演奏したことがなく、レコードにもなっていない。このBBCでだけ、1回しか演奏していない曲も収録されていたのです。それは2曲収録されてあり、どちらもジョンがリード・ヴォーカルです。これは常に新しいことをやろうというジョンのチャレンジ精神の表れだと思うんです。その1曲が『I JUST DON’T UNDERSTAND』です。付属の解説書には「ビートルズがなぜこの曲を選んだのかは不明」と書いてありました。僕はこの曲の歌詞をまた見てみました。すると大体の意味は、「相手が自分のことを必要としているなどと口では言うのに、自分のことを傷つけたり、裏切ったりする」という相手を愛し過ぎてしまった人の歌です。僕はジョンが母親のジュリアが好きだったけれど、捨てられてしまった。また母親といい関係を築けると思った矢先に死んでしまった。そういう悲しさを持ったジョンにはぴったりくる歌だったと思うのです。おまけにラジオだからそんな弱い部分を聴衆に見られる心配もなかった。(第一その頃のビートルズがその曲を選ぶとは誰も予想しなかったでしょうから。しかしその曲を選び歌うのが何よりジョンらしいと思うのです。)この歌を歌ったアン・マーグレットという人を知ったときに僕は確信しました。ヨーコのような一人でも生きていけるタイプ?と直感したのです。ジョンは最初シンシアという女性と結婚しましたが、ジョンにはシンシアでは物足りなかったのです。(シンシアのことはよく知らないんですけど)ヨーコのような、(ジョンは後にヨーコを何の役でもなれることができると言っている)バンジョーをジョンに教えることができた波乱万丈、歓迎タイプ?母親ジュリアのような女性に惹かれたのです。あるいはこの女優であり歌手であるアンが、その時にジョンが好きだったプレスリーと映画で共演するもしくはしていることをジョンは知っていたのじゃないでしょうか?(1963年に映画『ラスベガス万歳』が製作され翌年公開されているようだ。)それを知らないにしても、ジョンがこの女性の歌を取り上げた理由は他にも考えられます。アンはジョンより半年くらい年下でスェーデン出身ですが、1946年にアメリカに移住して大学を中退して芸能界に入り、コメディアンのジョージ・バーンズに認められテレビに出演してハリウッドのプロデューサーにも認められ映画界に進出しました。ジョンはほとんど同年代で成功が約束されていると思えた彼女を知り、ビートルズも同じようにアメリカでも成功したい、成功するという願いも込められていたのだとも思えます。アンは1961年、『愛情物語』など音楽関係の映画を得意とするジョージ・シドニー監督の(ジョージといえばジョージ伯父さんをはじめ、ジョンにとって生涯忘れることはなかっただろうと思える名前だ)『バイ・バイ・バーディー』に出演して『I JUST DON’T UNDERSTAND』も発表しています。その他にもジョンが最後に出した『スターティング・オーバー』という曲のタイトルも正式には「JUST」という言葉が含まれています。アンはその後ビートルズがイギリスでデビューした1962年10月に日本でシングル盤を発売しているようです。『バイ・バイ・バディー』という曲が何回もレコードになっているのでよっぽどこの曲はいいのでしょうか。(ビートルズも曲のタイトルが映画のタイトルになった)他には『KANSAS CITY』や『日曜はダメよ』1964年にはシングル盤のB面で『ハートブレイク・ホテル』も出しています。1975年には自分が長崎の映画館で見た「トミー」にも出演していたようです。この日の収録は他にも書いておきたい曲があるのですが、きょうは長くなったので、放送日に書くという手もあったりしますよね。
2009年07月16日
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「あなたはどうして酒を飲むのですか?」と訊かれ「そこに酒があるからだ」と言ってもかっこよくも何ともないのですが、ひとたびマロリーちゃんに「あなたはどうしてエベレストに登るのですか?」と訊ねたら「そこにそれがあるからだ」と答えたそうです。きょうはグスコーブドリさんのブログに教えてもらったことを書かせてもらいます。1924年に3度目のエベレスト登頂をイギリス人、ジョージ・マロリーはパートナーのアンドリューと目指しましたが帰ってくることはなかったそうです。このことを知り僕は、日本人の冒険家、植村さんのことを思い出しました。きっと植村さんはマロリーさんのことは知っていたと思うのです。そして宮沢賢治の「よだかの星」も思い出しました。その後、マロリーさんの遺体が1999年5月に、8160mのところでほぼ原型をとどめ、アメリカ隊の捜索により発見されたそうです。
2009年07月11日
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きっと自分の人生に影響を与えただろうと思う歌手、吉田拓郎の公演が中止になった。拓郎さんは風邪を引きやすいらしくそれも影響しているらしい。こんなに長い間続けてこれたのは本人の才能などあったかもしれないけど、根強いファンも多いからだと思う。7月10日はウルトラマンの日だそうだ。1966年のきょう、ウルトラQの最終回だったそうだけど中止になり、ウルトラマンの放送があったらしい。だからビートルズが日本に来たときは、ほとんどの人はウルトラマンをまだ知らなかったのだ。それから2年前のきょう、欧米ではビートルズがヒーローになっていたのでした。1964年にアメリカに渡り、公演を成功させた彼らは、故郷のリバプールに凱旋し20万もの人を集めました。夜にはオデオン・シネマで「A HARD DAY’S NIGHT」のプレミアショウがあり、夜中にロンドンへ帰って行ったそうです。あまりの人ごみに倒れる人まで出たようです。ちょうどその日「A HARD DAY’S NIGHT」のシングルとLPの発売日でもありました。その日リバプールはきっとお祭り騒ぎだったに違いありません。このタイトル曲ですが、「ジャーン」とギターの和音から始まり、ビートルズの代表曲にあげられますが、もしかしたらジョンがこの曲の発想を得たのかと思える曲があるのですが・・・。「BECAUSE」はジョンがベートーヴェンの(月光)を聴いて作り出したそうですが、もともとがショパンの曲で他の人が手を加えた曲にも最初、和音から始まる曲があったんです。ショパンが生前「死後、この楽譜を燃やしてほしい」とユリアン・フォンタナという人に頼んだそうです。しかしその遺言に背きフォンタナはショパンの遺品の中にあった曲に手を加え、1855年に「幻想即興曲」と題し出版しました。そして1962年、ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインという人がこの曲の自筆譜を発見して出版したそうです。どうしてショパンがこの曲を公表しなかったのかというと、冒頭部分がベートーヴェンの(月光)に非常に似ていることを気にしたからだそうです。ジョンは1963年の同じ日には、エオリアン・ホールというところで1956年のチャック・ベリーの曲「スイート・リトル・シックスティーン」を歌っているようです。それから何年か後にジョンとジョージは盗作問題に苦しむことになるのです。せめてもの救いは僕が知る限りでは、ビートルズ解散後その問題が表面化したことでしょうか?
2009年07月10日
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リンゴ・スターはジョン・レノンより早生まれで同じ年の7月7日が誕生日だ。リンゴもジョンやポールのように両親がずっと一緒ではなかったようだ。リンゴが3歳になったばかりの頃両親は別れたらしい。ビートルズのメンバーに加入するのが一番遅かったのは、他の3人とは居住地が離れていたせいらしい。ジョンがエルトン・ジョンと共演したのは有名だけど、リンゴも1972年にエルトンと共演していたようだ。ロンドン・アップルレコードの地下スタジオで「チルドレン・オブ・ザ・レヴォリューション」というセッションをT.REXというバンドとしたらしいのだ。リンゴは2003年に発見されたT.REXの1972年のライブを収めたフィルムの監督もしていた。それらのフィルムをまとめて「ボーン・トゥ・ブギー」と題したのがリンゴ・スターだったのでしょうか。きょうの新聞ではあの、アレン・クラインが4日に死去したと出ていた。最近、吸血鬼の話題がよく出ているので調べてみると面白い事実を発見したのです。1968年にミア・ファローがビートルズとインドに滞在していたことがありました。どういう理由から彼女が彼らと接点を持ったのか不思議に思っていたのでまた調べてみると、彼女は、パリ生まれのユダヤ系ポーランド人で、ユダヤ人の母親をアウシュビッツ収容所で失うという、過去をもっていたらしいロマン・ポランスキー監督のハリウッド映画「ローズマリーの赤ちゃん」に1968年に主演しています。その映画の舞台は後にジョンが住むことになるダコタ・アパートだったようです。ミア・ファローの父はジョン・ファローという映画監督で、1959年の父親の映画「JOHN PAUL JONES」が彼女のデビューだったのです。ポランスキー監督はイギリスに渡りカトリーヌ・ドヌーブの「反撥」、「袋小路」「吸血鬼」を撮りました。彼自身も「吸血鬼」ではシャロン・テートと共に主演もしており結婚したようです。そしてアメリカで悲劇が起こったのでした。その事件にビートルズの曲が登場させられることになろうとは誰が予測したでしょうか?新しい映画「戦場のピアニスト」ではアカデミー監督賞を受賞しています。これまで彼の作品には、ハリソン・フォード、ジョニー・デップ、ジャック・ニコルソン、シガニー・ウィバーなどが主演していました。あとナスターシャ・キンスキー主演の「テス」というのもありました。その後のミア・ファローはビートルズ同様に、映画以上の劇的な人生を歩んでいるのです。
2009年07月07日
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7月2日のビートルズは1963年です。その年4月発売されたサード・シングルの「フロム・ミー・トゥ・ユー」もナンバー1になった彼らはBBCのラジオ番組にも数多く出演しています。この日演奏した曲目はプレスリーの1954年のデビュー曲と言われるジョンが歌った、「ザッツ・オールライト」と「ゼアズ・ア・プレイス」「ソルジャー・オブ・ラヴ」「クララベラ」「キャロル」「LEND ME YOUR COMB」で放送が16日だったそうです。
2009年07月02日
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7月1日のビートルズは1968年「ザ・ビートルズ」の中の最も長いタイトルのジョンとヨーコのことを歌っているという曲の録音をしていたようです。この日彼らは映画の『女はそれを我慢できない』を観たようです。この映画にはプレスリーのものまねをし優勝して、1956年にデビュー曲『ビー・バップ・ア・ルーラ』をヒットさせたアメリカ人の歌手ジーン・ヴィンセントが出演しているそうです。彼はレザーのつなぎを最初に着て歌ったロッカーだそうです。ビートルズのメンバーのデビュー前の服装で、彼の影響を受けていることがうかがい知れます。1962年の7月1日にはキャバーン・クラブに彼と出演しているようです。ヴィンセントは巡業中に自動車事故にあったようです。彼とキャバーン・クラブに出演した日と同じ7月1日に、ジョンはヨーコと、ジュリアン、キョーコとスコットランドをドライブ中に自動車事故で全員負傷する羽目になるのでした。ジョンは70年代の歌手生活最後に『ビー・バップ・ア・ルーラ』をカバーしましたが、ヴィンセントのその後を知った僕はジョンとの因縁を感じずにはいられないのです。「男はソレを我慢できない」という映画もあったのでした。監督が「男女7人蕎麦物語」「代官山物語」の信藤監督。出演者の顔ぶれだけで面白い映画という気がします。DJタイガー役の竹中直人、初めて回転寿司を経験し、劇中でSTARDUSTを歌ったという鈴木京香、ベンガル、清水ミチコ、高橋幸宏、アンガールズの田中、斉木しげるなどです。
2009年07月01日
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