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「あ~、湧いたな~… New! かめおか ゆみこさん

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森の声

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2019.09.24
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カテゴリ: カテゴリ未分類
「感覚」を失うことは「心」を失うことと同じです。

でも現代人は、いとも簡単に「簡単便利」と引き替えに、自分の感覚を捨ててしまっています。

でも、それまでは当たり前にあったものでも、一度失われてしまうと、自分たちが何を失ったのか思い出せません。

その感覚があるのが当たり前だったのに、失ってしばらくするとその感覚がないのが当たり前になってしまうからです。

人々が自然と共に暮らしていた時にはみんなが当たり前に持っていた感覚も、みんなが人工的な世界の中で、簡単で便利な生活をするようになったら、あっという間に消えてしまいました。

でもそのことに気付いている人は多くありません。必要がない感覚の存在に気付く機会などないからです。

その結果、「心の世界」がドンドンと狭くなってしまっています。でも、そのことにも気付きません。(そのことに気付くために、異文化との出会いや異文化の人との触れ合いが必要になります。)

感覚の世界が消えて来ると、その感覚を表していた言葉が消えます。知識としては残っていても、自分自身との感覚とのつながりは消えてしまっています。それは「剥製」のような言葉です。

「生きていない言葉」です。そのため、自分の感覚を表す言葉としては使えません。
心は言葉で出来ているのですが、そのような「命のない言葉」には心を支える力がないのです。


そして、「自分自身の感覚」とつながっていないため「自分の心」ともつながっていません。

そのため、情報の交換は出来ても、対話が出来ないのです。

対話は「心から出た言葉」を心で受け止め、「心とつながった言葉」で返すことで成り立ちます。そのため、「心とつながった言葉」を持っていない人には対話は出来ないのです。
(そこが単なる「話し合い」とは違うところです。)

その「心とつながった言葉」が「身体感覚とつながった言葉」なんです。「身体感覚」とつながっているから「心」とつながっているのです。

例えば、最近の子どもたちは、「よじる」「ひねる」「払う」「しぼる」「ねじる」などの身体感覚とつながった言葉がよく分かりません。

情報(知識)としては知っていたとしても、自分の身体感覚でそれらの言葉を感じることが出来なくなってしまっているのです。

そのため、
その時、太郎は身をよじって悔しがりました

という文章を読んでも、身体感覚的な実感が分かりません。
それは「その時の太郎の心」が分からないということでもあります。

ちなみに格闘技の練習で一人の人を大勢で押さえつけて、そこから抜け出すということをやるのですが、それをやると「身をよじる」という感覚がよく分かります。(先日お知らせした「からだの会」でもやることがあります。)


今ではネットや電気の関係で使われることが多いですが、「つながる」という言葉は、ネットや電気がない時代からあります。では、そのネットや電気がない時代の人たちは「つながる」という言葉をどのような状況で使っていたか自分の感覚として分かりますか。

それらの「身体感覚とつながった言葉」は、「心を振り絞る」というように、心や感情の状態を表す時にも使われます。

その時、日常的に雑巾などを絞る体験がある子はすぐにその心の状態が分かるでしょう。

また、「木」というような言葉でも、身体感覚的に木を体験したことがある子は「生きている木」の話をすることが出来ますが、テレビや知識でしか「木」を知らない子は、剥製のような木の話しかすることが出来ません。

身体感覚的に木を体験したことがある子の心の中には「生きている木」が存在しています。そして、その木の命は、子どもの命と共鳴して、その子の心やからだの一部としてその子の心とからだを支えます。



そして、最近の子どもたちの会話を聞いていると、言葉に命が通っていない情報交換ばかりです。





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Last updated  2019.09.24 08:37:41
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