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森の声

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2026.08.10
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カテゴリ: カテゴリ未分類
一昨日は、


ゲームやVRなどデジタルの世界の中には、命の世界、人間の感覚、心とからだの世界、子どもの成長のルールなど存在していません。なぜなら、ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」だからです。


という所で終わりました。今日はその続きです。
ゲームなどのデジタル世界を支配しているのは、「命が存在していない世界のルール」です。そこでは、物理法則は無視され、死んだ人が生き返り、時間、空間、因果の律は無視され、願えば何でもかなえることが出来ます。

「死んだ人が生き返り」と書きましたが、実際にはデジタルの世界の中には生も死もないので、生き返っているわけではありません。そう見えるだけです。まただから、「シネー」とバンバン殺しても罪悪感も感じないし、罪にも問われないのです。

問題は「命が存在している世界のルール」を学ぶべき時期の子ども達が、「命が存在している世界」と触れ合う前に、それよりももっと刺激的で面白くて楽しい「命が存在していない世界」と出会ってしまう危険性です。

最初に「命が存在している世界」と出会うことが出来た子は、その世界を「自分が生まれてきた世界」として認識し、様々な体験を通して、その世界のルールを学ぼうとします。
その世界には、五感を刺激する「音」「触れてくるもの」「味」「匂い」「様々な視覚的な刺激」があります。

そして、子どもは「他者」と出会うことによって「自分」を認識できるようになります。五感の働きを通して「他者」に触れることで「自分」を感じることが出来るようになるのです。「自分」という存在を知るためには「他者」という存在が必要なんです。

また、それら五感の働きは「外の世界」を感じるためのものですが、そのような「外の世界の刺激」は心やからだといった「自分の内側からの反応」を引き起こすので「体内からの感覚」を感じる能力も育ちます。


ただし、それらの「内側からの感覚」を感じ取る能力が育つためには、感じたことを何らかの形で表現する必要があります。
「味覚」が育つためには、「他者と味覚を共有する体験」や「自分が感じた味」を言葉などで表現する必要がある言うことです。「美味しいね」「甘いね」「いい匂いだね」と顔を見合わせながら味わうことで「味覚」が育つのです。だから、味覚には文化差があるのです。

肉体の機能としての感覚能力は生まれつき備わったものですが、文化としての感覚能力、たとえば雲を見て「モクモク」と感じたり、風に触れて「ソヨソヨ」と感じたりするのは文化としての感覚能力です。
モンゴルの人たちは馬を見分ける能力に非常に優れているそうです。
日本人は動物の死体を見ると不快感を感じますが、それを感じない文化圏の人たちもいっぱいいます。
殺し合いに嫌悪感を感じる人は多いですが、逆にワクワクする人もいます。

というようなことを見ていくと、幼い子ども達が「命が存在している世界」と出会う前に「命が存在していない世界」と出会うことの問題点と危険性が山のように見えてくるのです。

ゲームをやったり、ユーチューブなどの動画を見たりしても「音」と出会うことは出来ます。でも、その「音」は「自然界の音」つまり「命が存在する世界の音」とは全く異なります。
タブレットが自然の風景を写しだし、自然の音を流してもそれらは全く「自然」ではありません。タブレットの中の風景の中には「空間」がありません。そのため、映像に映し出されている空や木と自分が、空間を共有することが出来ません。ただ、「情報」として見ることが出来るだけです。
「音」も目の前にある小さなスピーカーから出てくる、デジタル化された音しか聞くことが出来ません。その音もまた空間を含んでいません。でも実際に森の中に入れば、「からだ全体を包むような音」を体験することが出来ます。

自然の中で自然な音を聴いて育った人は、その違いが分かります。また、スピーカーからの音を聴いても、自然の中で聴いた音を想い出しながら聞くことが出来ます。スピーカーから流れてくる風の音を聞きながら、風に揺れる木々をイメージすることも出来ます。


でも、子どもたちが何を見て、何を聞いて、何を感じているのかということは子どもたちを見ているだけでは分かりません。
それを、絵を描いたり、詩を書いたり、歌や踊りで表現させてみた時に、初めて子どもが何をどのように聞き、何をどのように感じ、何をどのように見ているのかが分かるのです。

「命が存在していない世界」からやってくるのは全て「情報」に過ぎません。そこにリアルはありません。そしてリアルがない世界に囲まれて生活していると、子どもは自分の心や、からだや、命にもリアルを感じなくなります。自殺してしまう子どもたちは「命のリアル」「死」のリアルを知らないのでしょう。

ちなみに阿蘇山は自殺の名所として知られているそうですが、飛び込んでも火口の下の段に引っかかって助かってしまう人も多いそうです。そこから再度飛び込む人は滅多にいないそうです。実際に飛び込むという表現行為を通して、「命のリアル」や「死のリアル」を知ってしまうからなのでしょう。





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Last updated  2026.08.10 08:23:46
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