MM2022のブログ

PR

プロフィール

MW2022

MW2022

カレンダー

コメント新着

天国にいるおじいちゃん@ Re:打席に入る前に、バットを天にかざして、天国にいるおじいちゃんに『力を貸してくれ』(08/24) 天国にいるおじいちゃんについては、 089…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2022.11.28
XML
カテゴリ: 鎌倉殿の十三人
生田は台本を読んだ段階で仲章の最期のセリフに驚いたという。

 「台本を読んでびっくりしたんですけど、仲章の最期の断末魔というか、最期のセリフが『寒い、寒いぞ、寒いんだよ!』というセリフなんです。普通はやられたときのシーンって、『なぜだ!』とか『貴様!』とかそういうセリフのような気がするんですけれど、三谷(幸喜)さんのセンスというか独特の感性で、こんなにもすてきなセリフというか、すてきなシーンをいただいて、冥利に尽きるなという思いでやらせていただきました。あんなに大きな階段のセットも、ワクワクするような撮影になりましたし、すごくいい日に、思い出深い日になりました」

 仲章の最期の言葉について、「役者によって、というか、言い方ひとつでどういう捉え方もできるようなセリフをいただいたので、これはなかなか難しい宿題を出していただいたな、という気はがしました。仲章は太刀持ちの役割を半ば強引に義時から奪い取るような形で務めるわけですけど、『思ったより寒かった』というのもあると思うんですよね。本当に寒くて、『なんでこんなに寒いんだよ、こんなんじゃ代わるべきじゃなかったな』という怒りもあるだろうし、その『寒いんだよ』の裏には『俺じゃないだろ! なんでお前、間違えたんだよ。なんで俺が斬られなきゃならないんだよ!』という思いもあった。そして、こんなところで自分の人生は終わってしまうのか、こんなはずじゃなかったんだという悲しみの叫びでもあると思います」と自身の解釈を述べる生田。同時に、「オンエアをご覧になった皆さんにどういうふうに受け取っていただけるのか、すごく楽しみにしています」と視聴者の反応に期待を寄せていた。

 25日放送のNHKトーク番組「あさイチ」の「プレミアムトーク」で小栗旬がゲストとして出演した際には、生田の名ヒールぶりも話題に。小栗と生田はプライベートでも親しいことで知られているが、仲章が「朝廷と鎌倉を結ぶ役割にわたしより適任の者がいれば教えてくれよ」「わたしが執権になろうかな~」と高笑いしながら義時を挑発する場面が流れると、小栗は「ほんとにあの時は殺す!って思いました(笑)」と生田を称えていた。

吾妻鑑を読む
西暦1216年建保四年9月18日吾妻鏡
相模守北條義時が大江廣元朝臣を招いて次のように語った。.
「将軍家(実朝)は大将への叙任を願っているようです。右大将家(頼朝)は官位を与える宣下がある度に固辞し良い運を子孫に残そうとされていたが、今の将軍家は若年なのに壮年に相当する官職を望まれる。これは如何にも性急であります。
御家人らも同様で、京都に仕えずに重い官職に補任されるのは頗る過分で嘆かわしい事です。 私如きが口出しをしても怒らせるだけでしょうから、貴方が諌めて下さるのは如何でしょうか。」

廣元はこれに答えて次のように述べた。

 昔から家臣は自分の器に応じた職に任じるべきだと言われています。今の将軍家は先君(頼朝)の功績を継承しただけで、特に勲功を挙げたわけではないのに諸国を支配しているのみならず、中納言や中将に昇りました。摂政関白の息子でなければ有り得ない待遇で、子孫に良くない影響が及ぶでしょう。早速に私の存念を申し上げるようにします。」

建保四年9月20日
大江廣元朝臣が御所を訪れ、相模守北條義時の中使※と称して将軍家の御昇進についての意見を申し述べた。
.
「子孫の繁栄を望まれるならば現在の官職を辞して征夷将軍のみに任じ、年齢を重ねた後に大将※を兼任されたら如何でしょうか」と。将軍家(実朝)はその言葉に対して、
「諫言の趣旨は至極もっともであるが、源氏の正統は私の代で終わりとなり子孫が継ぐことはないだろう。従ってただ官職に拠って源氏の家名を上げようと考えている。」と答えた。
廣元は言葉を続けられずに退出し、この旨を義時に伝えた。

西暦1216年建保四年11月24日
将軍家(実朝)は前世の居住地でを拝するために唐に渡ろうと思い付いて唐船の建造※を宋人の陳和卿に命じ、従者60余名を定めた。結城朝光の差配である。相模守北條義時と陸奥守大江廣元が再三これを諌めたが聞き入れず、造船が始められた。

西暦1217年建保五年4月17日
宋人の陳和卿が唐船を完成させ、御家人が拠出した数百名の人夫が船を由比ヶ浜に進水させようとした。

そもそも唐船の出入りが不可能な遠浅の浜※である。船は浜辺で朽ち果てるのを待つことになる。

西暦1217年建保五年6月20日
(故頼家将軍の息子)の阿闍梨公暁が園城寺から鎌倉に下着された。尼御台所政子の指示※に従って(定暁の死去により)空席となった鶴岡八幡宮別当に補任される。この一両年は(三井寺の)明王院僧正公胤の門弟として勉学と仏法の修行を続けていた。

西暦1217年建保五年10月11日
阿闍梨公暁が鶴岡八幡宮別当職を補任されてから初めての神拝を行った。また宿願があり、今日から千日間の宮寺参籠をされる、と。

陸奥守大江廣元朝臣が目の疲れと腫物などが重なり体調を崩した今日七座の如法泰山府君祭※ を行う、と。

11月9日
大江廣元朝臣の病状が重篤と聞いた右京兆北條義時は見舞いのため彼の屋敷に渡御された。
12月10日
前大膳大夫入道覺阿(大江廣元)の病気が平癒し、今日穢れを清める沐浴を行った。但し まだ視野が暗く、黒白の判別もできない状態である。
12月26日

西暦1218年
年令: 実朝 25歳(1月13日に権大納言、左近衛中将兼任)、 政子 60歳、 北條義時 54歳 、北條泰時 34歳 、 安達景盛 47歳前後 、 三浦義村 67歳、 大江廣元 70歳、 後鳥羽上皇 37歳、

建保六年1月15日
政所に於いて尼御台所(政子)の熊野詣が決定。相模守北條時房が供として同行する。
1月17日
将軍家(実朝)が讃岐国司を推挙するつもりだから早急に(朝廷に)申し入れるよう、京都守護の駿河守中原季時に命じた。式部大夫北條泰時朝臣を讃岐国司に任じる要望である。
尼御台所(政子)が相模守北條時房を供に従えて御上洛※の途に付いた。
※政子の上洛: 実朝の後継問題解決が目的である。政子は藤原兼子 (後鳥羽天皇の乳母)の推挙を受けて出家後の女性としては異例の従三位に叙された。結果として、兼子が養育していた頼仁親王(実朝の妻坊門信子の甥)を次期将軍候補にする事で二人の合意が成立、政子はこの年11月に再び兼子の推挙を受けて従二位に昇叙する。

3月16日
先月18日に文章博士源仲章朝臣が進講のための昇殿が許され、翌19日に宣下された。これは関東の推挙ではあるが朝廷による貴重な配慮である。

3月24日
将軍家は北條泰時を讃岐国司に推挙すると仰せになったが、過分を称して固辞※したため、その旨を後鳥羽院に奏上するよう重継に依頼した。
4月29日
申刻(16時前後)に尼御台所(政子)が鎌倉に還御の途に就いた。
14日に尼御台所を従三位に叙すると宣下され、筆頭公卿の中納言 三条実宣 卿 が参内して清範朝臣により叙書を尼御台所の宿舎に届けさせた。この件は朝廷でも相当の議論になったらしい。
出家した人物に叙位を与えた前例は 道鏡 の他に見えず、女の叙位としては准后(太皇太后・皇太后・皇后)に限る(安徳天皇の外祖母(平時子)の例がある。また知足院殿(藤原忠実卿) の御母儀准后(藤原全子) もまた、出家以後の叙位である。これらの前例に依拠して御台所の叙位を決定した。
同15日、仙洞(院の御所)から対面を許す旨の仰せがあったが、「年老いた辺鄙(田舎)の尼が上皇の尊顔を拝するなど滅相もない、遠慮させて頂きます」と答え、諸寺巡拝の予定を中止して直ちに鎌倉に下向した。

6月21日
午刻(正午前後)に藤原忠綱朝臣が京都から運んできた道具などの調度を御所に運ばせた。牛車が二輌(檳椰・半蔀)※・九錫の彫弓※・(左大将の)御装束・御随臣の装束・(古式の)移鞍(参考サイト)など、全て仙洞(院の御所)が調えて下さったもの。源仲章朝臣が奉行としてこれを受け取った。

7月9日
未明に右京兆北條義時が大倉郷に渡御され、南の山際で良い土地を占った。
堂を建立して薬師像を祀る目的である。
昨日 将軍家(実朝)の八幡宮出御に立ち会い 屋敷に戻った夜の夢に薬師十二神将の戌神※が現れて義時に告げた、それが建立を思い立った理由である。
今年の神拝は無事に済んだが明年の拝賀には供奉すべきではない。
奇異な出来事で託宣の意味も判然としないが、元服後の義時は薬師如来とその護法神・十二神将を篤く信仰している。今回の夢も軽視せず信仰を深めねばならない、日柄などに拘らず堂を建てようと考えた結果である。
相模守北條時房と李部北條泰時はこれに賛同せず、各々が次のように諌めた。
今年は左大将拝賀や殿上人の参向があり御家人も庶民も多くの財産を費やした嘆きが未だ収まらない内の造営は民生に有益とは言えないでしょう。
しかし義時は諫言を容れず、引き続いて工匠らに必要な指示を与えた。
これは一身上の宿願であり、もとより百姓や御家人には負担を求めない。
薬師如来と眷属の託宣をどうして黙止できようか。と。
12月2日
右京兆北條義時が霊夢(詳細は7月9日)に従って草創した大倉新御堂に薬師如来像※(雲慶(運慶)作像)を安置し、今日開眼供養を行った。
12月5日
鶴岡八幡宮寺の別当(公暁)が宮寺に参籠して長く退出せず、幾つかの祈請を行った。しかも剃髪しないため諸人はこれを不可解に思っている

西暦1219年建保七年1月7日
年令: 実朝 26歳(昨年右大将に、1月27日に殺害される)、 政子 61歳、 北條義時 55歳 、北條泰時 35歳 、三浦義村 68歳、 大江廣元 71歳、 後鳥羽上皇 38歳

建保七年1月27日
夜になって雪、二尺余りの積雪となった。将軍家(実朝)は右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参宮される。酉刻(18時前後)に出御された。
八幡宮寺の楼門を入る際に右京兆 北條義時 が急に体調不良を訴えて御剣役を 源仲章 朝臣に譲り、神宮寺で列から離れ小町邸に帰った。夜半になって親拝の行事が終わり将軍家(実朝)が退去される際に、石階(石段)の際に隠れていた八幡宮の別当阿闍梨 公暁 が太刀で右大臣実朝を殺害した。その後に 武田五郎信光 を先頭にして随兵が駆け付けたが下手人を発見できない。
.
或る人が言うには、「八幡宮上宮の横で別当阿闍梨 公暁 が「父の敵を討った」と名乗っていた」 と告げ、随兵らは(公暁の住む)雪ノ下の僧房に押し寄せた。門弟の悪僧らが防戦し、長尾新六定景 と子息の太郎景茂と次郎胤景が先を競って突撃して悪僧を追い散らした。
戦場に於ける勇士の行動はかくあるべきとの美談を残した活躍だったが、阿闍梨公暁はここにはいなかった。
阿闍梨公暁は将軍家の首を持って後見人である備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に入り、食事を勧められた間も首を離さなかったと言う。
そして阿闍梨は乳母子である弥源太兵衛尉を使者として 三浦義村邸に派遣し、「将軍の座が空席となった今は私が関東の棟梁である。早急に討議し手順を定めよ」と申し入れた。

この言葉を聞いた義村は先君(頼朝) に受けた恩が忘れられず、数行の涙を流した後も言葉を出し得なかった。暫くして「まず拙宅にお越し下さい。迎えの兵を差し向けましょう。」と伝えるよう使者に命じた。
使者の退去後に義村は使者を北條義時邸に派遣して対応の指示を求めた。義時からは「躊躇することなく阿闍梨を殺せ」との命令が届いた。
阿闍梨は義村からの使者が着くのを待てず、鶴岡八幡宮背後の峰を登って義村邸に入ろうとした所で定景と遭遇した。雑賀次郎は直ちに阿闍梨を組み伏せようとして戦い、定景が太刀を抜いて阿闍梨(素絹の衣に腹巻(鎧の胴)を着す、20歳)の首を落とした
定景は公暁の首を義村邸に持ち帰り、義村は直ちに首を京兆(義時)邸に届けた。義時は玄関で 安東忠家 の持つ灯火により首を確認、李部(泰時 ) は「私は阿闍梨の顔を良く見ておらず、疑念あり」と語った。
.
出立の朝、前大膳大夫入道 大江廣元が進み出て「私は成人してから涙を流した事がありませんが、今は涙を抑えられません。東大寺落慶供養の際の右大将(頼朝)の例に倣い、御束帯の下に腹巻(鎧の胴)」を着けて下さい。」と進言したが、源仲章 朝臣が「大臣や大将に昇叙する人にその例はない。」と制止した。
宮内公氏が髪を整えた際には自ら髪の一筋を抜き、記念と称してこれを与え更に庭の梅を見て禁忌(とされる)和歌を詠まれた。
     出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな

愚管抄の記述: 拝賀に参列するため京都から五人の公卿が檳榔の牛車と共に鎌倉に下った。.
大納言坊門忠信(内大臣信清の息)、中納言實氏(春宮大夫西園寺公経の息)、宰相中将藤原国通(故・泰通大納言の息、朝政前妻(時政前妻、つまり牧の方の間違い)の夫)、正三位光盛(平頼盛大納言の息)、刑部卿三位宗長(蹴鞠の名手難波(藤原)頼経の息)である。.
無事に拝賀を遂げ夜に奉幣を済ませ、神殿前の石階(石段は拝殿の前で、本殿ではない)を下り扈従する公卿の前を歩いている際に法師の姿をした者が実朝の衣を踏みつけ、一太刀で斬り倒して首を落とした。
それに続いて同じような姿の3、4人が現れて供の者を追い散らし、先頭で松明を持っていた源仲章を北條義時と思って同じように斬り倒して殺した。太刀を持って近くにいた義時は「公卿は中門にとどまれ」と指示し、全員が蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。光盛は鳥居に止めてあった自分の毛車で逃げ帰った。.
鳥居の外にいた多数の武士はこの騒ぎを知らなかった。犯人の法師は八幡宮別当に任じていた頼家の息子で前々から計画した犯行である。最初の一太刀の際に「親の敵はこう討つぞ」と叫んだのを公卿全員がはっきりと聞いた。.
その後に一の郎党と思われる三浦義村に「今は我こそ大将軍よ、そこへ行くぞ」と伝え、実朝の首を持って大雪の中の山道を義村邸に向かった。義村はこの経緯を義時に報告し、討ち取るように命じて武士を送ったが簡単には討ち取れず、斬り散らしつつ義村邸の板塀まで辿り着き、塀を越えて入ろうとした所で討ち取られた。.
実朝の首は山道の雪の中から見つけ出した。犯人の仲間は全て討ち取り、家も焼き払った。その夜と翌日に出家した者は7、80人に達したらしい。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022.11.28 02:06:48


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X

Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: