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2023.01.30
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カテゴリ: イマジン
💛2023年1月29日の「COOL JAPAN」のテーマは
「外国人に聞きたい素朴な疑問」 だった。
日本人100人へのアンケートから、外国人に聞きたい素朴な疑問をピックアップ。
・日本人は人に見せる字は丁寧に書くのに、外国人はあまり気にしていないのはどうしてか?
・ハンカチを持ち歩かない外国人が多い理由は?
・海外では店員同士がおしゃべりしててもいいの?
外国人と徹底討論すると、日本と海外の考え方の違いが浮かび上がってくる。
素朴なギモンから深い国際理解へ!

その中で、気になりなるほどとも思ったのが、

日本人への調査では、年に数回程度、あるいは多くても月に数回だった。

私は10年以上にわたって「家族ふれあい新聞」を作ってはせっせと田舎の父母に送り続けた。
週に2,3度にもなる。当初は子供の成長を記す目的だったが、次第に私が感動したことどもになった。
これって日本人にとって、きわめて稀な事象であり、
親だからこそ、喜んで読んでくれるものの、兄弟や友人にもわずらわしいことだったのだということを番組を見ていて思った。

しかしこの「家族ふれあい新聞」を作り続けた習慣が、20冊以上の資料集を作り続けている原体験になっていることを思う。喜んで読んでくれていた父と母に感謝である。

家族ふれあい新聞第700号より

宮沢賢治の母(葉山照澄阿闍梨)要約
1.仏教について | 公益財団法人仏教伝道協会 Society for the Promotion of Buddhism
 去年の暮、岩手県花巻市を訪ねた。
早朝にもかかわらず、賢治の弟清六さんらのお迎えを受けて、ひとまず旅館に入った。
そのうち戸外がほの明るくなってきたので、降り積る雪の中を、賢治の碑やお母さんの家へご案内頂いた。
あわただしい日程で五時間後には東京へ引返さねばならない。

 花巻にきた一番の目的は、賢治のお母さんにお目にかかることであった。
それに9月ではないが、21日の命日に、墓参をしたかったのだ。
私(葉山照澄阿闍梨)はこの2月から千日行に入るので3年間は下山できなくなる。
そのわずかな間を見つけて、花巻に賢治母堂を訪れることにしたのだ。
立派な子は、その母が立派である ことは鉄則だとされているが、その母親について賢治の秘密を知りたいと考えたのが、本当の花巻行の目的であった。

 イギリス海岸では、雪の中の白い小石を拾い、手向けの経文を唱えた。
それから賢治が奉職していた旧稗貫農学校、今の花巻農学校へ行き、校庭に建つ有名な「雨の中なる真言なり」*の詩碑を拝んだ。
 すぐ近くに、日蓮宗身照寺というこの土地の菩提寺があり、そこに賢治のお祖父さん以来の「遺骨塔」と、賢治供養のための小さな「五輪塔」がある。
この墓は父祖代々の浄土真宗の墓所から、移されたものである。
 賢治は、父母に対して「たとえ信仰でなくてもよいから、題目を唱えてくれ、そこに必ず自分が出てお答えする」とまで法華宗に打ち込んでいた。
それで今までの家の宗旨も変えざるを得なくなったのだ。

 賢治の一番好きなのはあの「デクノボウ」であった。
即ち常不軽菩薩の行そのものを実行することにあった。
私どもが「回峰行」を、禅と念仏の綜合として最も生きた、将来性のある信仰としてとらえているのも、まったくこの意味からである。
かって父上と賢治が心を一つにして、比叡山へのぼった。
このとき賢治26歳、父上との信仰の旅は、まず国の源としての伊勢に詣でそれからまっすぐ叡山にのぼった。
賢治は比叡山で、
「ねがわくは、妙法如来正偏知、大師のみ旨成らしめ給へ」
と願っている。
そのまま大師の
「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち、わがたつ杣に冥加あらせたまえ」
に、参入したものであろう。
 私どもはそれからさらに、三角の一角をなしている郊外桜町の、賢治の詩のうちでも最も名高い「雨ニモマケズ」の詩碑に参った。
ここは、もと賢治の祖父の持ち山であった。
山といっても雑木林で、そこに祖父が小屋を建てて一人で生活し、農村の青年達を相手に、科学的で芸術的だともいえる新しい農業を実践したのである。
碑は実に雄大なものであった。
碑文は高村光太郎先生の筆である。

 豊沢町の家へ向う。
仏壇には、妹とし子さんの瞳の澄んだきれいな顔を大きく引きのばした写真が、真ん中に飾ってあり、その横に賢治の写真があった。
ここでも私は天台のお勤めをした。
 ここで始めて賢治の母上にお目にかかった。
きれいな着物に頭は白い手拭いで、姉さんかぶりにしておられた。
お年は80歳だが、そんな年には見えない。
 賢治の弟さんも、姉さんも、兄がと、いろいろ語ってくださった。
しかし母上はおだやかな微笑でただ返事をくりかえされるだけだった。
私が賢治の命日に比叡山からきたことがうれしいらしくよろこんで下さった。
母上は私の回峰行のことなど熱心に聞いておられたが、どうか身をいとえ、大事にしろといって下さった。
 母堂に別れ、汽車での帰途、
「みとせの比えの山ごもり」 にはじまり、 「亡き母よりも 年たけて 更に清らに美しき 賢治の母は 我がために 身体いとへと云いたもう。

の詩をつづった。
 いつか賢治のふるさとは、雲のかなたに隠れてしまった。


 「雨の真言」 宮沢賢治

 黒雲峡を乱れ飛び

 げにもひとびと崇むるは
 青きGossan銅の脈
 わが索むるはまことのことば
 雨の中なる真言なり






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最終更新日  2023.01.30 01:58:52


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