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2023.05.24
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カテゴリ: 報徳記を読む
報徳記  巻之二

【6】物井村無頼の農夫を導き善に帰せしむ(3)

 奥州(あうしう)標葉(しめは)郡代官某(ぼう)なる者此の事を聞き、大いに嘲(あざけ)りて曰く、
二宮の道大道に非ずして小道と云ふべし。
惡人に大恩を與(あた)ふる時は、何を以てか勸善懲惡の道を行はんや。
是一人に行ふべくして、萬人に行ふべからざる也。
聖賢の道は萬人に行ふべきの大道(だいだう)なり。
故に此(こ)の如き小術を用ひるは聖人の道を知らざるが故也と云ふ。
或人之を聞きて高論也と云ひて大いに感ぜり。
後某(ぼう)博奕者(ばくえきしゃ)に金五両を貸して其の行(おこなひ)を改めしめ美名を取れり。




 高慶曰く、
固なる哉(かな)郡宰(ぐんさい)之言也(や)。
夫れ、聖人の民に於る其の舊染(きうぜん)の汚(お)を去り、固有の善に復せしむる、此の如きのみ。

且つ夫れ人を導く者、之に先んずるに、教を以てし、從はざれば之に繼ぐに刑を以てす。
然して刑なる者は聖人藉(か)りて以て消惡の具と爲して、刑無刑に期す。
刑を用るの之、善者に非ずや。
物井村農夫に至ては、先生其の姦猾未だ遽(にわか)に施すに教を以てす可からざるを知る。
故に且之を懐るに恩を以てし、其をして感観して顧化する所有らしめ、一惡を化して三邑の民皆善に歸す。
大道に非ずして何ぞや。
郡宰淺學固より以て先生の知るに足らず。
或者に至ては其言を以て善と爲す。
亦論ずるに足らざる也と。


「高慶曰く」以下は、原文は漢文である。
富田高慶が、当時二宮尊徳先生の言動に対して行われていた誹謗中傷に対して自らの意見・感想・批評を行っている。
この報徳記の最初の「例言」において
「ある人は、先生の一生の事業と思想とを記述するには漢文で書くのが良いと言う。
 また、ある人は、漢文は簡古なのが長所であり、最大の事業を書くには能文者でなければ詳細にできないところがあるから、通俗の文章で記述するのが良いという。
 私はいま、後の説に従った。」
とある。当時儒学者などのインテリは漢文で記述していた。こうした地の文は軽蔑するむきがあった。
後に齋藤高行はおそらくはそうした批判があったことをふまえ、「二宮先生語録」を漢文で書いた。今となっては一般人が「語録」の原文を読むのは難しい。
こうして富田高慶が通俗の文章で記述してくれているおかげで先生の口ぶりまでが想起されるというものである。


富田高慶は、字(あざな)は弘道、任斎と号し、通称を久助と呼んだ。
斎藤嘉隆の二子で文化11年の生まれ、幼い時から能力が優れ、文武の道を修めた。
はじめ若殿の近侍(きんじ:側近くに仕える)となった。
天明の大飢饉からほどない頃で、藩財政は窮迫を窮めていた。
これを見て17歳の高慶は、藩財政を救おうと志を立てて、江戸に上り、
成島氏の塾に入ろうとしたが、火災のため果たさず、屋島弘賢の門に入り、ついで昌平黌(しょうへいこう:江戸幕府の学問所。1632年、林羅山が上野の忍岡に孔子廟を営んだのが起源。徳川綱吉が1690年神田湯島に移転。林家が大学頭(だいがくのかみ)となり、官学としての昌平黌(湯島聖堂)が成立した。)の儒官依田、古賀等の塾生となって勉学すること約十年。
この間、学費を家に仰ぐことなく、筆耕をもってあてた。
そのため、帯を解いて床に入ることなく、常に机によって仮睡した。
こうして勉学が大いに進み、師の屋島弘賢の代講をするまでになった。
しかし、一藩の衰廃を復興する方法に関しては、なんら得るところがなかった。
ところがたまたま病気となり、医者磯野弘道の診察を受ける機会があった。

磯野の門弟に、野州芳賀郡から来ている奥野幸民という者がいた。
彼が富田に「二宮金次郎という者が自分の近くの宇津家の領地で、荒地を復興して実績を挙げている」と告げた。
これを聞いた富田は、これこそ求めていた師だと思い、書籍を売り払って金に替え、芳賀郡物井村に尊徳を訪ね、教えを請うた。
天保10年6月1日、富田久助27歳の時であった。

陣屋の日記には

一 下高田より 太助 相馬儒者富田久助殿
  伯耆国荒木勝悦殿は医者
  四つ半つれ参候事」
とある。尊徳先生の娘文子は当時16歳で、富田の妻となる。

尊徳先生は儒学者には用はないと面会を許されなかった。
そこで富田は小栗村の奥田の家に行き、近くの高田村の太助と、桜町陣屋に出入りしていた畳屋源吉の二人に頼んで先に入門を願い、医者の荒木と同道して尊徳先生の門をたたいた。
ところが尊徳先生は「ひまが無い」と面会を許されなかった。
6月3日、4日、9日、13日と訪問したが、面会を許されない。
出入りの者に聞くと、ちょっとやそっとではだめだろうと言う。
そこで彼はこれは自分の誠心が足らぬからだと考えた。
昔、熊沢蕃山(くまざわばんざん:江戸前期の陽明学者。京都の人。中江藤樹に学び、岡山藩主池田光政に招かれ治績をあげた。著に「大学或問(わくもん)」、「集義和書」、「集義外書」がある。)は、中江藤樹に入門するとき、二昼夜、軒下に立って面会を待ったという。
「半年、一年くらい何であろう」と、半里ほど離れた隣村の谷田貝村の農民の太助の家に仮住まいし、幾度も尊徳先生の陣屋を訪れた。
そして生活のため、小栗村に寺子屋を開いた。
先生は相変わらず面会を拒絶され、富田は、先生が門人にさとす教えを聞いて慰めていた。

 季節は移り、秋となり、ある日尊徳先生は思い出したかのように
「かの学者はまだおるのか」と聞いた。
「あいかわらず入門を許されたいと待っております」と門人が答えると
「会ってみよう」とここに初めて面会がかなったのである。
時に天保十年(1839)9月27日実に4ヶ月弱である。

「天保10年9月27日 天気今朝大霜厚氷
一 相馬藩中儒者 富田久助 今七つ時
  谷田貝より罷り越され候事」
と日記には残る。

喜んでまかりでた富田に尊徳先生は、
「お前は豆の字は知っているか」と尋ねた。
富田は言われている意味が分からず、紙に「豆」の字を書くと、
尊徳先生は笑われて、
「おまえの豆は馬は食わぬが、私の豆は馬が食う」と本当の豆を示されたという逸話が残る。

 また、ある時、富田が
「先生はこの法を行えば相馬藩は復興するとおおせられたが、わが藩の衰貧ぶりは並大抵のものではない、そう容易に復興できるでしょうか」と聞いた。
尊徳先生は、
「包装した樽は一見しては何であるかわからないが、錐(きり)をさして漏れる一滴を嘗めればわかる。あなたは相馬の一滴である。」
そういって激励したのであった。

☆「富田翁談話傍聴筆記」に富田自身が入門した頃の事を語った記録が残っている。
「私は幼少の時から国家(相馬藩:福島県相馬市)の衰廃を憂いて、17歳の時、遙かに家を出て、江戸に来て、儒学者の下男となり、家からは一切援助を受けず、下男として働きながら、あるいは書を書き写すなどをした。湯島の聖堂に入って学問することすでに十年過ぎたが、国の衰廃を復興する方法がないのに苦悶していた。
ある時、
「野州(栃木県)桜町に二宮先生という人がいる。小田原の大久保侯の末葉である宇津家の領村4000石の復興に従事してすう成果を挙げている」
と聞いた。
私は大いに感嘆し、数千巻の書を投げ捨てて、すぐに野州に赴いて、先生に面会を求めた。
先生はこうおっしゃった。
「それ儒学に在る者は、たとえば漆をもって塗り固めたようなもので、それにいくら水をそそいでも何にもならない。どんなに言い聞かせても、一向に受け取ることがない者だ。そのような者に面会しても仕方がない。」と会ってくださらない。
私はもとから先生が容易に一面会すら許してくださらないだろうと思っていた、それこそが自分が慕うゆえんだと言って、
隣村のある者の家に宿をとった。
そして時々面会に行った。
しかしやはり面会を許してくださらない。
すでに季節は春から秋へと移った。
ある時先生が門下の者に問われた。
「あの儒学者は帰ったか?」
門人は答えた。
「今も依然として動く様子がありません。」
先生は
「それほどの大丈夫であれば、面会を許そう。早く連れて参れ。」と門下の者におっしゃった。
私はここに始めて志を達して先生の下で学ぶことができたのだ。」

☆二宮尊徳先生が、江戸の宇津家の屋敷にいらっしゃった時、宇津家の家来の岩本という者が先生に問うたことがある。
「儒者と普通の人とは大いに異なるもののと思っていましたが、先生の門下にある富田氏は、幼少の頃から、人と異なる志を抱き、艱難をなめ、刻苦勉励し、儒書を心に刻み付けること10数年、大変儒学に達していると聞きました。
それに比べて私は無学、もとより同じく比較するわけにはいきませんが、今日先生の指揮によって仕法に従事しているところは、そんなに優劣があるようにも思われません。どういうところに差があるといえましょうか。」

尊徳先生は笑って言った。
「俊傑といい、平人といい、目前の事業をもって言うことはできません。
一心の目的と志操の堅固かどうかを見るべきです。
だから歳月をたつことの久しくならなければ知ることは難しいのですが、
当初の目的は、知ることができます。
これを知れば、また将来を察することができます。
富田氏は、生れた国の衰廃を憂えて、回復の方法を求めて上下ともに安泰であるように願い、この地に来て私の仕法を研究するものです。
これが彼の目的で、いつの日か、きっとその志を達し、6万石を再興することでしょう。
あなたは私が再興した桜町4千石の地に留まって、再び衰廃に陥らないための守護の任務さえ、なお力が足りないとして辞任しようとしているではありませんか。
彼は今から衰国を興そうとし、あなたは、興したものを保つことすらできない。
どうして一緒に論じることができましょう。
(「随筆随感」より)

☆鷲山恭平著「安居院義道」現代文への試み 

◎商売についての例は浜松の地が多い。当時この中心地の田町の巨商は各軒を通じてその教えを奉じている。これに続いては昔の国府である見付町の商業地であって、全町にわたって報徳社が結ばれている。全国において報徳は農業地に専属するように思われるのに、我が遠江の地においては商業地に普及されていることは見逃せない。これはひとえに安居院先生の商業知識を報徳に織り込んだ体験から発生した特色と見てよい。
 商売においては、元値商いが話題となる。これは前にも述べたが、その基本となる考えは二宮先生の「売って悦び買って悦ぶようにようにすべし、売って悦び買って悦ばざるは道にあらず。買って悦び売って悦ばざるも道にあらず」から出ていて、お客を大切にする奉仕的な務めを説いたものである。これは後に薄利多売主義を連想させていると思う。当時は報徳風の吹き及んだ所には必ず一、二軒の報徳店があったものだ。その種類には宿屋、飯屋、雑貨商に多く、染物屋にも及んでいる。その一例としては小野江老の談話を紹介する。

「当所に豊田屋源蔵といって燗酒(かんざけ:温かい酒)を売る者があった。平素、実直の人で、その頃報徳先生安居院と申す方が、初めてこの地にお越しの際に、ご理解を聴聞し、毎日話合後のお諭しに感服して、報徳商いを行った。これまでは元手が少なく酒一斗(約十八㍑)ばかりを前借りで求めては、生活していた。次第に店も繁昌し、本人の篤実を気の毒に思って、報徳社中である時、酒造家から一駄(酒では三斗五升入(約六十三㍑)二樽を一駄という)の酒を求め、販売を加勢したところ、仕入れ値が格安になり、百文で買って九十文で売る道理。かえって儲けは一割余りの利益があった。その後は酒造家から豊田屋あてに、直に一駄ずつ送ってくれるようになり、大変都合よくなった。
またその頃、豊田屋に魚屋がかつおを売りにきて、二、三本買って置いていた。魚屋が申すに、今日は荷物も多いから、五本ほど置くので帰りまでに売りさばいてくれるよう頼んで帰り道に立ち寄った所、そのかつおが残らず売りさばかれていた。小店には余りに多分の事だからいかほどで売ったのかと尋ぬると、一本六百文のかつおを一節百五十文ずつに元値商い(原価のまま販売)したと話したので、魚屋も感心して、それでは手数料もない、気の毒だといって、一本につき百文ずつ値引きしてくれたので、元値売りで二割近い儲けがあった」と。(明治十二年十二月十一日浜松館常会講演)

なお、この報徳店と称する家々には必ず次のごとき張り紙が店に張り下げてある。
   口上
一 この方、報徳に付き諸品改め安売
    現金
     懸値(かけね)なし
一 私義、近年借財相かさみ候に付き
  時かし、かけうり、預かりもの
  一切お断り申し上げ候
    以上
  月  日
以上のような商業地風で、小野江老は「商家の心得」と題する、心得を説いている。
一 商業の秘訣は買人を看出す(見つける)にあらずして、むしろ売人を看出すにあり。何となればもし廉価に貨物を仕入れて薄利を得たらんには買人を招かずにて来たるべければなり。
一 売先買先は父母のごとく心得べし。
一 労苦なければ利益なし。
一 正直に得た利益のみが真の利益なり。
一 信用は黄金に優る宝なり。
一 信用はその身その家の資本なり。
一 商売は金銭を産み出す母なり。
一 汝の業務によく注意せよ。
一 約束するに先立って善を考えよ。
一 黄金種なし、独り勤倹の人の家に産す。
等々よくこの道が吹き込まれている。この所に天下の浜松商人としての心構えが偲ばれるわけがある。

💛上記の元値売りや商売の心得は非常にためになる。また興味深い考え方である。
小冊子「ツキを呼ぶ魔法の言葉」[30冊未満] - とやの健康ヴィレッジ 本店 公式サイト

「ツキを呼ぶ魔法の言葉」

イスラエルのおばあさんから二つの箱をもらった五日市さんは「こんなにお世話になりながら、贈り物までもらうわけにいきませんよ」と遠慮するとおばあさんは真剣な顔をして「それなら買ってください」と言う。いくらでもいいという。
そこで現地のお金で大金を渡した。
すると
p.12 「そのとき、おばあさんが、どうしてこんなことを言ったのか未だにわからないのですが「やっぱりね」とポツリと言いました。

人に感動を与え、お金自身も喜んでまた仲間を連れてくるような使い方をする。
「売って喜び買って喜ぶ、お互いに喜び合うような商い、それが報徳商い」





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最終更新日  2023.05.24 00:00:19


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