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2024.02.18
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「歴史エッセー集 志とはなにか 奈良本辰也」
『志とは何か―歴史エッセイ集 (1981年)』|感想・レビュー - 読書メーター
奈良本辰也さんは、歴史学者で「二宮尊徳」の著述がある。

最初読んだときは、新しく開発したところは租税を免ぜられる制度を活用したというところを強調されているように思えて、その描かれる尊徳像に違和感があった。

「日本史探訪第9集」(昭和48年10月5日発行)で 邱永漢 さんとの対話で、

邱さん 「一にケチ、二にケチ、三にケチというような非常に堅苦しいところがあるんです。」 という評価に対し、

私は、徳川家康に非常によく似ているのではないかと思います。 ・・・
世の中を変える一つの力は、案外尊徳みたいな人がほんとうに持っているのかもしれませんよ。 」と応じている。

菜種を川の土手へ植えて菜種油を採り、川の側の荒地に稲を植えた米には税金をとられないということを発見 した
 以後これを一貫して、・・・ 税金のかからない方法を徹底的に実践し、それを桜町以後も、百姓たちに教えて、ここのところをやれば税金がかからないぞということを実行している んですね。それを合法的脱税という言葉で、私は表現しているのですが。」

邱さんはいわば奈良本辰也さんの「二宮尊徳」の人間像を受け売りするが、
奈良本辰也さんはこう答えている。

人間が生きていくためには、自然を征服しなければならない、ということを彼はよく知っているわけです。 ・・・
しかし、その自然を変える方法は、自然が教えてくれたことをそのまま、うまく利用してやっています。 ・・・
彼にとって洪水、天災、すべて教師だった。それらから学び取った ということです。
私は、ちょっと、初めは大嫌いだったけれども、こんなことを考えるやつというのはすごいなと思い始めました よ。」

 「自然を征服しなければならない」という奈良本氏の自然観には違和感を持つが、正直に二宮尊徳の見方が変わってきたと告白する姿勢には好感が持てる。
 邱さんは「初めは大嫌いだった」という奈良本氏の二宮尊徳像で話すものだから、話がしっくり合わない。いわば過去の奈良本さん自身と対話して同意を求めているようである。

奈良本辰也さんは、成田山への参籠も大芝居だと断言する。
周囲の動きをちゃんとつかまえた上で、適当な時期にさっと成田山に現れて、断食しているということを皆に知らせるわけです。・・・ある意味では謀略というかな、ちょっと日本人離れしている 。」
 奈良本さんの指摘されるそういう側面も確かにあったと思うが、一方的に「謀略」と断ずるのは、まだ 奈良本氏は二宮尊徳の本当のところをとらまえていないのではないか と思える。

邱さん「 二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、いわゆる封建社会から一歩も出ていません。 ・・・いわゆる 立て直し屋に近い ところがあるんじゃないでしょうか。」

奈良本辰也さん「 百姓一揆をやった連中が、封建制度を否定する考えを持っていたかというと、一人も持っていませんよ。 ・・・・
彼が偉いのは年貢を制限する わけですよ。 分度を決める そして百年間の統計をとって、この土地の生産力はこれだけしかない、今、それが荒廃しているから、それを何割に見積もる、そこから領主の生活、収入が決まる。その収入の範囲内で暮らせよという
その要求を聞かなかったら、私はお手伝いしませんよ と彼は言う。
年貢を制限するというのは大変なこと ですよ。
百姓一揆以上にすごいことをやっている んです。百姓一揆で、このように年貢の半減を勝ち取ったところはどこにもないでしょう。ところが彼はやらしている。だから、私は彼をすごいと思うんです。

 「 二宮尊徳は百姓一揆以上にすごいことをやっている 」という奈良本辰也氏の創見には感心する。
そして全面的に同意する。尊徳の仕法が失敗に終わった原因は、すべてこの領主側の分度が守れなかったところにある。

彼がいちばん嫌ったのは、坊主と学者である。 ・・・ 本当に主体的にものを考える人間こそ正しい、尊い ということを尊徳は教えた。」

 そうではない。ただものを考えるだけでなく、 実行することが大事だ と尊徳は教えるために「坊主と学者が大嫌い」と言ったのだ。
尊徳は当時の第一級のすぐれた僧侶と親密な交際があって、いわば坊主一般を嫌っていたわけではない。

「志とは何か」は、昭和56年の発行であるが、そこに登載されている「二宮尊徳に学べ」とは、昭和48年9月に「中央公論」に載せたものである。ここでは「素晴らしい経営コンサルタント」という前向きの受け止め方になっている。


彼は、今日の経営者としても立派に通用する人間なのだ 」と、邱さんの「二宮尊徳は、思想的にも、また行動においても、封建社会から一歩も出ていない。」という見解を明快に否定する。

服部家の建て直しも「 全ての使用人が働きよい職場をつくるというのが尊徳のねらいであった。 」と言及される。これは現代において尊徳の思想を経営に活かしている企業、たとえば伊那食品工業の塚越会長が会社経営の目標について言われることと一緒である。
「経営にとって 本来あるべき姿 とは 社員が幸せになるような会社をつくり、それを通じて社会に貢献する ことだと思います。 そして売り上げも利益もそれを実現するための手段に過ぎないのです。」

奈良本氏は昭和56年の段階では、「大嫌い」から 二宮尊徳こそが経営の神さまみたいな評価へと大きく変っているのである。

調査のないところに経営はないということを、誰よりも早く実行したのは二宮尊徳であろう。

尊徳は、農業はいうまでもなく、治水や灌漑の土木工事に至るまで抜群の能力を持っていた。彼は経験を体系的に組み立てる頭脳を持っていた。そして、自然観察となる場合には、哲学といってもよいほどの思索の深さを示した。

教育とは褒めることだという言葉があるが、彼はまさにそうした考え方をもっていた。
 教育は同時に組織にもつながる。尊徳は、村人たちの心を百姓という仕事を中心として、その方向に組織していたのだ。

私は、桜町仕法をみると、尊徳という人の並々ならぬ手腕に驚きの眼をみはるのだ。
そして、彼こそ素晴らしい経営コンサルタントであったように思う。

奈良本辰也氏は2001年3月逝去されたが、最後の二宮尊徳観はどのようなものであったろうか。

東北大学の大藤修教授は、「報徳学ナンバー2」(2005)で
土着の思想家、農民の立場に立った実践家と尊徳をとらえなおし、彼の思想と実践の意味を追究したのが、奈良本辰也氏である。 」(34ページ)としている。これは、最初の岩波新書版の見解に依拠したもので、奈良本辰也氏は歴史学者としての良心で、たえず自らの見解を検証し、向上させ続けたのかもしれない。





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最終更新日  2024.02.18 19:57:21
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