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2025.05.26
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「安居院庄七」
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6.おいたち
 次に、安居院庄七が、いつどこで生まれたかといいますと、寛政元年(1789)1月秦野の蓑毛(現秦野市蓑毛)の密正院という御師朝田家に生まれました。現在は神成という名前になっています。その家の次男として生まれました。
 お父さんは、秀峰といい、上に兄さんと姉さんがいて、下に弟がいます。弟は勇次郎といい、8つ違いです。この弟と二人で報徳の教えをひろめたのです。
 庄七が生まれた寛政の頃といいますと、それより以前からちょうど、大山信仰で賑わいを極めていた頃です。大山千軒須賀千軒とか言われ、家が立ち並んで蓑毛は、西坂本として賑わっていたといわれています。
 ですから、たくさんの碑等があります。蓑毛に行けば見ることができますが、もっと近くでは日立製作所と、市文化会館をはさんだ通りの前に、大山道という道標があります。ちょうど寛延年間に建てられたという年号があります。
およそ二百三、四十年前のものです。その所は大山へ行く道と尊仏へ行く道と、富士山へ行く道との三つに分かれる場所です。表に、大山道、左にふじみち、右にそんぶつみちとあり、旅人が参詣で道に迷うので、ここに碑をたてますよということが書いてあります。そのくらい栄えました。
 そういう中で生まれましたし、生家が雨降神社の神職であるということで、人の出入りが非常に激しかったことが想像できます。
 お父さんが博学の人だと伝えられていました。その子供ですから、いろいろ見たり、聞いたりして、知識を持っていたと思います。

 生まれて、それ以降、若い頃、どんなであったは伝えれれていません。
 そして、秦野の本町地区に婿養子に入りましたが、何歳の時かわかっておりません。今は電気屋になっているところで(秦野電気株式会社)、磯屋という米穀商に養子にきています。
 そこの店の仕事に携わるのですが、若い頃なので、ひと儲けしてやろうとという気持ちもあったのだろうと思います。相場に手を出すのです。
 しかし見事に失敗してしまいます。それこそ一銭もなくなってしまうんです。そしてもう一回、何とか金があれb、一勝負してこの相場で金もうけをしたいという気持ちがあったようです。しかし、なかなかそう簡単に金を貸してくれる人もありません。
 たまたまその時に、二宮尊徳が困っている人には無利息で金を貸してくれるということを聞いて、それならばこの人に金を借りてみようという気になりました。
尋ねるにもただ、噂に聞いただけですので、そこで二宮尊徳の指導を受けていた南足柄の中沼の田蔵という人を知っていましたので、その人を訪ねてから、二宮尊徳からお金を借りようとしました。これが天保13年(1842)のことです。





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最終更新日  2025.05.26 08:00:11


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