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2025.07.28
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カテゴリ: 報徳
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二宮翁夜話巻の1

【8】尊徳先生はおっしゃった。
世の中に誠の大道はただ一筋である。
神といい、儒といい、仏という。皆同じく大道に入るべき入口の名である。
あるいは天台といい、真言といい、法華といい、禅というのも、同じく入口の小道の名である。
何の教え、何の宗旨というようなものは、たとえばここに清水(せいすい)があり、この水で藍をといて染めるのを、紺屋といい、この水で紫をといて染めるのを、 紫屋というようなものだ。
その元は一つの清水である。紫屋で私の紫の妙なる事は、天下の反物を染めるもので、紫ほど尊いものはないとほこり、紺屋ではわが藍の徳たるや、広大無辺である、だから一度この瓶に入れば、物として紺でないものはないというようなものだ。
このために染められた紺屋宗の人は、自分の宗の藍よりほかに、有り難い物はないと思い、紫宗の者は、自分宗の紫ほど尊い物はないというのと同じだ。
これは皆いわゆる三界城内を、躊躇して出る事ができないものである。
紫も藍も、大地に打ちこぼす時は、また元のように紫も藍もみな脱して、本然の清水に帰るのである。

この入口がいくつあっても至るところは、必ず一の誠の道である。
これを別々に道があると思うのは迷いである。別々であると教えるは邪説である。
たとえば富士山に登るようなものだ。
先達によって吉田口から登るものがあり、須走口より登るものがあり、須山口より登るものがあるとっても、その登るところの絶頂に至れば一つである、このようでなければ真の大道とはいえない。
しかし誠の道に導くといって、誠の道に至らないで、無益の枝道に引き入れる、これを邪教という。
誠の道に入ろうとして、邪説にだまされて枝道に入って、また自ら迷って邪路に陥るものも世の中に少なくはない。慎まなければならない。

【8】翁曰く、
世の中に誠の大道は只(ただ)一筋(すぢ)なり。
神(しん)といひ、儒(じゆ)といひ、仏(ぶつ)といふ。
皆同じく大道(だいだう)に入るべき入口の名なり。
或(あるひ)は天台といひ、真言といひ、法華(ほつけ)といひ、禅(ぜん)と云(い)ふも、同じく入口の小路(こみち)の名なり。
夫(そ)れ何の教へ何の宗旨(しゆうし)といふが如(ごと)きは、譬(たと)へば爰(ここ)に清水(せいすい)あり、此(こ)の水にて藍(あゐ)を解(と)きて染(そ)むるを、紺(こん)やと云ひ、 此(こ)の水にて紫(むらさき)をときて染(そ)むるを、 紫(むらさき)やといふが如(ごと)し。
其(そ)の元(もと)は一つの清水(せいすい)なり。
紫屋にては我(わ)が紫の妙(めう)なる事、天下の反物(たんもの)染(そ)むる物(もの)として、紫ならざるはなしとほこり、
紺屋(こんや)にては我(わ)が藍(あゐ)の徳(とく)たる、洪大無辺(こうだいむへん)なり、故(ゆゑ)に一度(ど)此の瓶(かめ)に入(い)れば、物(もの)として紺(こん)とならざるはなしと云ふが如(ごと)し、
夫(それ)が為(ため)に染(そ)められたる紺(こん)や宗(しゆう)の人は、我が宗(しゆう)の藍(あゐ)より外(ほか)に、有難(ありがた)き物はなしと思ひ、
紫宗(むらさきしゆう)の者は、我が宗(しゆう)の紫ほど尊き物はなしと云ふに同じ、
是(これ)皆所謂(いはゆる)三界城内を、躊躇(ちうちよ)して出(い)づる事あたはざる者なり。
夫(そ)れ紫も藍も、大地に打(うち)こぼす時は、又(また)元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰るなり。
そのごとく神儒仏を初(はじ)め、心学(しんがく)性学(せいがく)等枚挙(まいきよ)に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入口の名なり、
此(こ)の入口幾箇(いくこ)あるも至る処は必(かなら)ず一の誠の道なり、
是(これ)を別々に道ありと思ふは迷ひなり。
別々なりと教(おしふ)るは邪説(じやせつ)なり。
譬(たと)へば不士山(ふじさん)に登るが如し。
先達(せんだち)に依(よ)りて吉田(よしだ)より登るあり、須走(すばしり)より登るあり、須山(すやま)より登るありといへども、其(そ)の登る処(ところ)の絶頂(ぜつちやう)に至れば一つなり、 斯(かく)の如(ごと)くならざれば真(しん)の大道と云(い)ふべからず。
されども誠の道に導くと云ひて、誠の道に至らず、無益(むえき)の枝道に引き入るを、是(これ)を邪教(じやけう)と云ふ、
誠の道に入らんとして、邪説(じやせつ)に欺(あざむか)れて枝道に入り、又(また)自ら迷ひて邪路(じやろ)に陥(おちい)るもの世の中少(すくな)からず。
慎(つつし)まずばあるべからず。




二宮尊徳先生は100年以上も前に、染物のたとえや富士山登山のたとえを使ってこう説かれていた。
「世の中に誠の大道はただ一筋である。
神といい、儒といい、仏という。
皆同じく大道に入るべき入口の名前である。
あるいは天台宗といい、真言宗といい、法華宗といひ、禅宗というのも、同じように入口の小道の名前である。
何の教えとか、何の宗旨というようなことは、
たとえば、ここに清水あって、この水で藍(あい)をといて染めるのを、紺屋といい、
この水で紫をといて染めるを、 紫屋というようなものだ。
そのもとは一つの清水である。

紺屋では、わが藍の徳たるや、広大無辺である、だから一度このカメに入れば、物として紺とならざるはなしというようなものだ、
そのため、染められた紺屋宗の人は、我が宗の藍よりほかに、ありがたき物はないと思い、
紫宗の者は、我が宗の紫ほど尊いものはないというのと同じである。
これは皆いわゆる三界城内を、ためらって出ることができない者である。
紫も藍も、大地にうちこぼす時は、また元のように、紫も藍も皆脱して、本来の清水に帰るのだ。
そのように神儒仏をはじめ、心学、性学(せいがく)など数えるにいとまがないのも、みな大道の入口の名である、
この入口がいくつあっても至るところは必ず一の誠の道である、
これを別々に道があると思うのは、迷いである。
別々であると教えるのは邪説である。

たとえば富士山に登るようなものだ。
先達(せんだち)によって吉田口から登るものがある、

須山(すやま)口より登るものがあるといっても、
その登るところの絶頂に至でば一つである。
このようでなければ真の大道とはいえない。

しかしながら誠の道に導くといって、誠の道(富士山の絶頂)に至らないで、無益の枝道に引き入ることを邪教という。
誠の道に入ろうとして、邪説に欺れて枝道に入って、または自ら迷って邪路に陥いるものが世の中に少なくない。慎(つつし)まなくてはならない。」





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最終更新日  2025.07.28 06:29:48


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