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2025.07.30
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カテゴリ: 怠れば廃る塾
16 スピノザ 学問を守る純度の高い生き方
オランダの哲学者スピノザは、貧しい生活のためレンズ磨きをなりわいとして哲学の研究をした。数学や幾何学などの自然科学の考えを哲学の世界に採り入れた自説を発表した。当時の保守的な学界や宗教界の風当たりは強く、生活に困窮していた。
フランスのルイ14世は、文芸に理解が深く、スピノザが生活に困窮していると聞いて、使者を派遣した。「もしあなたがフランスに来て、その著書を余に献上してくれるなら、年々十分な年金を贈ろう」スピノザは「お志はありがたいが、学問に縁のない人に哲学の書を差し上げても、意味がないので、お断りします」と返事して、破格の申し出に応じなかった。

※バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza) 1632-1677。オランダの哲学者、神学者。デカルト、ライプニッツと並ぶ合理主義哲学者。ドイツ観念論やフランス現代思想へ強大な影響を与えた。スピノザの汎神論は唯物論的な一元論で、後世の無神論や唯物論に強い影響を与えた。アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。幼少の頃より学問の才能を示した。当時のユダヤ教に対して批判的な態度をとったため、ユダヤ人共同体から破門される。ハーグに移住し、執筆生活を行う。ハーグ移住後、レンズ磨きで生計を立てた伝承は有名。1675年に『エチカ』を完成させたが、出版は断念した。


I. B. Singer―作品にみられる宇宙論的夢想の一特色—A Young Man in Search of Love を中心に— その1
                                    三國隆志
(序)

     私たちは、愛と対立、信念と疑念からできています。私にとって、思考する全存在が分裂しているのです。つまり、感情と知性の間に。為すことと為し得るであろうこととの間で。既知の伝統と新たに見つけるものとの間で。分裂を被っていない個性は、高等なものだとはいえません。食物をとることで満足するのは、動物です。確かに食物は必要かもしれません。しかしこういった<健康>な精神は文学とは何の関わりもありません。実際、矛盾は、決して相入れないものではないのです。それらは、共通する起源を持っているのですから。懐疑主義とは信仰と非信仰の混淆ではないでしょうか。信仰のないところに懐疑主義は存在しません。

 これはアメリカで今なお旺盛に文学活動を続けているイディッシュ語作家I. B. Singerの言葉である。この言葉は、彼の文学の特質をよく物語っているように思われる。存在の全領域に二元的対立関係を看取すること、その対立関係は現象の背後で同じ根から派生していること、究局的には全てが一元的な構造に還帰していくことである。その還帰の過程のダイナミズムを記述することが、この作家の使命であるかのようにみえる。ノーベル文学賞受賞演説において、文学は人間に新たな地平と新たな展望をもたらし得るとSingerは力強く述べているが、文学に対するこの確信は彼の世界観から必然的に生まれてくるものなのである。

     その地平とは、とりわけ、感情の地平のことです。それは、人間の生活において非常に重要なものであって、観念よりもずっと広大な展望をもつのです。トルストイとドストエフスキーは、新しい哲学を創造したわけではありません。人間感情の知られざる空間を切り開いたのです。

しかしながら、彼固有の世界の見方、文学に対する強固な確信は、数々の試行錯誤と深い自己省察のをとることで獲得されたものである。以下の所論において私が素描したいと思っているのは、作品に反映されている彼独自の、世界・人生に対する読み取り方であり、つまりはこの作家に固有な想像力の特色である。

(1) テキスト
分析の対象として、作家自らが精神的自叙伝と命名した三部作、A Little Boy in Search of



   This work as well as the two volumes which preceded it, A Little Boy in Search of God and Young Man in Search of Love, does not pretend to be completely autobiographical. Because many of the people described in them are still alive, and for other reasons, I could not tell the story of my life in the usual style of a memoir. Actually, I don’t believe that the story of any human life can be written. It is beyond the power of literature. I had to skip events that I consider important. I had to distort facts as well as dates and places of occurrences in order not to hurt those who were close to me. I consider this work no more than fiction set against background of truth.
この作品は先行する二作品、即ち『神を探し求める少年』『愛を探し求める青年』と同様、完全に自伝的作品と言うつもりはない。何故なら、これらの作品に描かれた人々は今なお生存中であるし、他の理由もあって普通の回想記のスタイルで自分の生涯を物語ることが私には出来なかった。実を言うと、誰であれその人の生涯を物語ることが出来るとは私には思えないのだ。そのようなことは文学の力を超える。重要と思われる幾つかの出来事を省略せざるを得なかった。また、私と親しい人々を傷つけないため、出来事の起った日時や場所と共に、事実も粉飾せざるを得なかった。私の考えでは、この作品は真実を背景とした一篇の虚構にすぎない。

 従って、虚構を通して、背景となっている「真実」に接近することが必要となる。だが、その前に簡単に作家の個人史とこの物語の概略に触れておきたい。

(2) 作家の個人史と物語の概略
 Isaac Bashevis Singer は1904年7月14日ポーランドのレオンチンに生まれ、ハシディズムを信奉する父親と愛情深い母親の下で育まれた。兄は小説『アシュケナージの兄弟』を書き、後にアメリカに渡って文学を続けた高名なイディッシュ語作家 Israel Joshua Singer である。イディシュ語文化圏に生まれ、東ヨーロッパに拡がったユダヤ教の一派であるハスディズムのラビの家に育ったことは、以後の彼の文学者としての思想形成に独特な性格を与えることになった。この作品の舞台はワルシャワであるが、1923年にこの地で彼はイディッシュ語の文芸雑誌社に校正係として勤めながら創作を試み始めている。第二次世界大戦勃発の不安が高まり、ナチズムの台頭とユダヤ民族に対する敵対感情が表面化し始める1935年にSingerはポーランドからアメリカに渡る。ワルシャワにおけるこの不安な一時期の自分の生活を描いた作品が『愛を探し求める青年』である。
 ワルシャワのイディッシュ語の文芸雑誌社に校正係として勤める「私」は、自分を囲む世界に思いを巡らしながら、日々悪化していくポーランドのワルシャワに暮らしている。自分の母親といってよい程に年齢の離れた女性ジーナと同棲生活を送りながら、彼が今一番恐れていることは、ポーランドの軍隊に徴兵されることである。徴兵された場合、彼は自殺を決意している。自分が戦場において人間を殺すことが出来ず、また精神的、肉体的に軍隊生活に耐えることが出来ないことは明らかであるからだ。この時期、ポーランドのユダヤ知識人の社会では、様々なイデオロギー的対立が高まりつつあり、ロシア革命とスターリニズムに人類の希望を見い出す者たち、シオニズム運動に熱中する者たち、ヨーロッパ文化に完全に同化しユダヤ人としての同一性に背を向ける者たち、世俗を超越して敬虔な信仰生活を送るハシディームの人々など、一種、政治的、宗教的イデオロギーの混沌状態の様相を呈している。既に「私」はラビの息子としての正道を踏み外した、いわば文学的ボヘミアン生活を送っている。彼には、ロシア革命もシオニズム運動も信じることが出来ない。また、人は神の正義と慈悲に依存することは出来ないとも考えている。
 無力なユダヤ人の一青年が国外に脱出する唯一の道は、パレスチナへの移住である。しかし、そのためには独身者ではなく妻帯する必要があった。偽装結婚の相手として現れるのが、国外にいる婚約者と一緒になるためポーランドから離れる必要に迫られていたステファというヨーロッパ社会に同化した女性である。だが、婚約者の子供を身籠っているステファは、ある日、突然に「私」の前から姿を消してしまう。国外にいる婚約者が自分を捨て他の女に走ったことを知った彼女が、年上のユダヤ人の金持と結婚したことが後に「私」に知らされるのである。この悪銭苦闘の生活の間、彼はジーナの部屋を出て、新しく部屋を借り、糊口を凌ぐために翻訳や創作に打ち込む。他に、女中のマリラや、作家クラブで出会う共産主義者の女性サビナが登場する。ポーランドの政情不安、徴兵への恐れ、様々な政治的、文学的イデオロギーの波、確実に押し寄せてくるユダヤ人迫害の徴候、「私」の国外脱出を阻む官僚主義の壁、女性たちとの錯綜した関係、イディッシュ語文学の将来に対する悲観的見解、死への想いと生への希求との間の宙吊り状態、即ち、この作品には作家の求めているサスペンスが全篇を蔽っていると言っても過言ではない。

    これが人生なのです。破壊と苦痛。しかしまた創造と歓喜。性は、精神と根深くからみあっています。肉体と精神は、同一の現実の二つの顔なんです。すぐれた物語は、肉体の欲望と魂の渇きを結びつけるのです。

破壊と創造、苦痛と歓喜もまた、同一の現実の二つの顔と言ってよいであろう。『馬鹿者ギンペル』以来、愚者が聖性を帯び、賢者が地獄に堕ち、汚れが清浄へ、清浄が汚れへと絶え間なく変転生成する世界が、Singerの物語世界に展開されているからである。この小説は一篇の教養小説と思想的小説が結合した作品と言うべきかもしれない。想像力によって、無を有に、空虚を意味の発散する一種の磁場に変容し、世界に多様な意味を賦与する試みなのである。そして、なによりも浮かび上がってくる主題は、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』、カフカの『城』や『審判』、そして旧約聖書中の『ヨブ記』にみられるような、不条理な世界に直面する個人という主題である。
ところで何故イディシュ語作家であるSingerを論じなければならないのか?今世紀の半ば以降、アメリカ文学におけるユダヤ系作家の活躍は目ざましいものがあるが Saul BellowにしてもBernard Malamudにしても、彼らの物語にみられるシュレミエール的特色は、I. B. Singerの影響なくしては考えにくいと思われるからである。文学史家によっては、彼をアメリカ文学史から排除し、イディッシュ語文学の範疇に閉じ込めようとする傾向があったが、現在の時点では、そのような見方は正当性を失っていると言ってよい。狭い意味での通時的文学史の枠組が今や破産に瀕している事情とともに、多様な人種、言語、文化の混淆によって常に芸術の新しい開花を準備するアメリカにとって、現代アメリカのユダヤ系作家の創作を活性化したSingerの文学を、アメリカ文学に無縁なものとして片付けることは到底できないからである。


彼(I. B. Singer)固有の世界観は彼の受けた三つの影響を経て築かれているように思われる。そこから、彼の文学が生まれてきているのではないだろうか。その三つの影響とはスピノザ哲学、ユダヤ神秘主義、ヨーロッパ近代文学の影響である。これらの影響を経て彼独自の宇宙論的夢想とも言うべき、文学的想像力の足場が確保されたと思われる。


   1 全て存在するものは、神のうちに存在するのであり、神なくしては、何ものも存在し得ないし、また理解されもしない。
   2 様態によって私は、実体の諸変容、もしくは他者のうちに在り、それを通じて実体が把握されるものと理解する。
   3 事物は神の属性の変容、あるいは神の属性を、ある特定の仕法で表現するところの様態に他ならぬ。
   4 延長を持つ事物と思惟する実体とは、神の属性であるのか、神の属性の変容であるか、そのいずれかである。
                                  スピノザ『倫理学』



 Singerがスピノザ哲学に熱中したのは、1917年に母親と弟との三人で、母方の祖父が住むビルゴライの町に滞在するようになってからのことである。この時期、彼はヘブライ語を学ぶとともに、イディシュ語作家の作品や、イディシュ語の翻訳を通してストリンドベリ、ツルゲーニエフ、トルストイ、チェーホフ、モーパッサンなどの小説を読みあさっている。スピノザに関しては、彼の父親は否定的見解を持ち、その哲学は何物も寄与していないと息子に語っていたようである。しかし、息子にとってスピノザとの出会いは、世界認識上の大きな事件であった。

    The Spinoza book created turmoil in my brain. His concept that God is a substance with infinite attributes, that divinity itself must be true to its laws, that there is no free will, no absolute morality and purpose ― fascinated and bewildered me. As I read this book, I felt intoxicated, inspired as I never had been before. It seemed to me that the truths I had been seeking since childhood had at last become apparent. Everything was God ― Warsaw, Bilgoray, the spider in the attic, the water in the well, the clouds in the sky, and the book on my knees. Everything was divine, Everything in the sky, and the book on my knees. Everything was divine, everything was thought and extension. A stone had its stony thoughts. The material being of a star and its thought were two aspects of the same thing. Besides physical and mental attributes, there were innumerable other characteristics through which divinity could be determined. God was eternal, transcending time.
     スピノザの書物は、僕の心を動揺させた。神は無限の属性を持つ実体であること、神性はそれ自体の法則に従っていること、自由意志は全く存在せず、絶対的な道徳律も目的も存在しないというスピノザの思想は、僕を魅惑すると同時に戸惑わせた。かつて味わったことのない陶酔と霊感を、僕はこの書物を読んで味わった。幼年時代からずっと探し求めてきた真実がついに明らかになったように思われたのだ。万物が神なのだ。ワルシャワも、ビルゴライも、屋根裏に巣を張る蜘蛛も、井戸の水も、空に浮かぶ雲も、膝にのせているこの書物もだ。万物が神性を持ち、万物が延長と思惟なのだ。石には石の思惟があるのだ。恒星のような固物的存在とその思惟は、同一物の二面なのだ。物理的、精神的な属性に加えて、他に無数の特質を通して、神性を測り知ることができるはずだ。神は永遠であり、時間を超越する。(スピノザ著『倫理学』(河出書房, 昭和42年)p.9)

既に少年時代に味わった歓喜はない。世界の矛盾に引き裂かれている「私」は、やがて次のような結論に導かれていく。

    God was omnipotent, but He suffered from restlessness _ He was a restless God. At first glance, this seems a contradiction. How can the omnipotence be restless? ”Is anything too hard for the Lord?” How can an all-powerful suffer? The answer is that the contradictions are also a part of God. God is both harmony and disharmony. God contradicts Himself, which is the reason for so many contradictions in the Torah, in man, and in all nature. If God did not contradict Himself, He would be a congealed God, a once-and-for-all perfect being as Spinoza described Him. But God is not finished. His the beginning stage. God is eternally Genesis.
    神は全能であるが、不安に苛まれていた。これは一見矛盾しているように思われる。全能者がどうして苦しむことがあるというのか。答は、矛盾もまた、神の一部ということだ。神は調和であると同時に不調和である。神は自己矛盾を冒す。それが、律法、人間、全ての自然の中にある矛盾の理由なのである。もし神が矛盾を冒さなければ、神はスピノザが述べたような凝結した神となり、れっきとした完全な生き物となるだろう。しかし、神は未完成である。神の最も聖なる属性は、神の創造性であり、その創造性は常に最初の段階にある。神は永久に『創世記』にいるのだ。

 矛盾を神の一部と見做すことによって、またしても二元的対立関係は一元論的構造に解消されていく。ここまできて、I. B. Singerの物語世界を支え、強化しているものは、一種の神秘主義の存在に違いないと思われてくる。具体的に述べるならば、ハシディズムおよびカバラーの影響が作家自身の宇宙論の構造に大きな影響を与えていると考えられる。例えばこの物語で特徴的な事実は、劇的な事件の展開や登場人物の面白さもさりながら、「私」と隠れたる神との関係を巡って青年が絶え間なく思念を展開し続けることであろう。自己との対話は全篇にわたり途切れることがない。この作品にみられる、主人公の様々な経験や省察にかかる比重の大きさは、教養小説の伝統と言うよりは、作家が抱く一種の宗教的確信にその根拠を持っているのではなかろうか。

(二)

   “Father, what does God want?”
Father stopped.
“He wants us to serve Him and love Him with all our hearts and souls.”
“How does He deserve this love?” I asked.
Father thought it over a moment.
“Everything man loves was created by the Almighty. Even the heretics love God, If a fruit is good and you love it, then you love the Creator of this fruit since He invested it with all its flavor.”
   「お父さん、神は何を望んでおられるのでしょう?」
   父は立ち止まった。
   「神は私たちが神に仕え、全身全霊をもって神を愛することを望んでおられる。」
   「どうして、神はそのような愛を受ける価値があるのでしょうか?」
   父はしばし思いを巡らしていた。
   「人の愛するものは全て神によって創られたんだ。異端者たちでさえ、自分たちの神を愛する。もし果実が美味で、人がその果実を愛するなら、神がすべての風味を与えて下さったのだから、人はその果実の創造者を愛するのは当然ではないかね?」

 このSingerの父親のような敬虔なラビは当時のポーランドの都会といわず田舎といわず多数いたに違いない。彼らの多くは、ナチの収容所に連行され命を奪われたのである。「私」がステファに語っているように、ラビたちはキリスト教徒たちがただ口で説教していることを二千年間にわたって実践してきた人々なのである。第二次世界大戦の勃発、ナチによるユダヤ人大量虐殺を経た現在、この父子の会話の一節を前にして、我々はしばし言葉を失う。「私」と父親との距離は信仰者と懐疑家の距離である。息子の懐疑主義は父親からみれば弱さであり、父親の敬虔さは息子からみれば自分が決して持ち得ない強さである。だが、息子はその距離のために父親の世界に背を向けるのではない。矛盾に満ちた世界の背後にあるかもしれない神の絶対的統一性の秘密を彼はなおも探し求めているのである。「悪」と「苦しみ」の存在をどのように考えるべきか「私」はラビである父に尋ねる。





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最終更新日  2025.07.30 18:42:05


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