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2025.08.27
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カテゴリ: 鈴木藤三郎
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協力者
 事業家としての藤三郎は、一生を通じて事業遂行のスピードをゆるめたということは、全くなかった。彼は生涯を通じて、事業という矢を射つづけた射手のようなものであった。的は時々変ったが、彼の手から矢が射出されない日は、全く一日もなかったのである。こうした傾向は、その処女事業ともいえる氷砂糖製造の事業が、ようやく始まったばかりのときに、すでに現われたのである。
普通ならば8年間も苦労した結果が、やっと報いられるときが来たのであるから、出来るだけその状態を持ち続けるように心がけるはずである。それを藤三郎は、氷砂糖工場の新築が成ったばかりの年の夏には、これが東京移転を企てたのである。この事実を知ったときには、友人達はもとより家の者までが、彼の気が狂ったのではないかと思ったのは、無理のないことである。
 しかし、藤三郎だって、一時の気まぐれに、こうしたことを思いついたのでは、もちろんない。自分としては、長い間、よく考え抜いた結果なのである。氷砂糖事業に対して、彼は非常な自信を持っていた。自分の製品が、清国の福州あたり主として輸入されていた『福永』あるいは『瓦片』とう呼ばれる褐色の氷砂糖を、近い将来には完全に駆逐するであろうことを知っていた。だが、そうなっても、自分が製造している純白透明の氷砂糖の原料となっているのは、香港から輸入される精白糖である。だから、氷砂糖としての輸入は防げても、その原料としての精製糖をそれだけ、あるいは需要が増せばそれ以上も輸入したのでは、国家の経済上から見れば、大して得にならない。いたずらに外国人に利益を占めさせるばかりである。それでは、まことに残念だ。砂糖そのもの生産は、気候風土の関係上、わが国ではできないが、それを純白に精製する位のことは、どうしてもやらなければならない。しかし、精製糖製造には、氷砂糖よりもいそう複雑精密な学理と機械の応用を必要とするが、それはこんな田舎にいては、とうてい学ぶことも造ることもできるものではない。この研究と完成には、どうしても東京へ出るよりほかに方法はない。これが、東京移転の第一の理由であった。
第二の理由としては、現在の氷砂糖業だけでいっても、その原料である精白糖が横浜に輸入されたものを、鉄道は東海道線さえまだ全通してはいなかった時代であるから、また船に積み換えて遠州(静岡県)の袋井町南方の福田(ふくで)まで回船して、そこから陸路を森町まで運ばなければならなかった。そして製品は、またそれを逆に東京へ送ったのである。それに、当時の沿岸航路はすべて旧式の帆船であったから、風次第で航海日数の予定もつかない上に、少しの風浪でも浸水や沈没はするし、保険制度もなかったので、荷主の不便と危険は非常であった。したがって、これらを加算したものは、生産原価の大きな部分を占めていた。工場を東京に移転すれば、この失費は非常に節減されるから、製品もいっそう安く販売できて、それだけ国家の経済にも貢献できるわけである。こうした直接的利益だけからいっても、彼が東京移転を考えたのは当然であったともいえるのである。
 藤三郎は、これらのことを熱心に養父に説いて、東京移転の許しを求めた。しかし、一代を田舎町の菓子屋として、なんの懐疑も不満もなく穏やかに過して来た老人には、国家経済上の利益というようなことは、あまりに耳遠かった。それよりも、これほど家運が順調に向いて来たばかりのときに、また訳の分らぬ大望を起して、大冒険のうちに一家を巻き込んでしまおうとする息子の気まぐれには、開いた口がふさがらぬ程に驚いたばかりでなく、やがて、その口の中に泥を投げ込まれたような憤りをさえおぼえた。
 「お前のような気まぐれ者は、わしゃ知らん。せっかく、泉吾さまのお力添えで氷砂糖工場ができたかと思えば、もう東京へ移転するなどといい出すとは、飛んでもないことじゃ。こんなことでは先々が案じられる。お前が、どうしても東京へ行くというのなら、そりゃァ勝手にするがいいが、野たれ死にするかもしれぬ所へ、嫁や孫をいっしょにやる訳にはいかぬから、それは承知でやるがいい。」
と、養父は、怒りの興奮にドモリながらいい渡した。藤三郎は、養父と口論しても無駄なことを知っているから、
「お父さんが御安心下さるまでは、私一人だけやって頂ければ結構です。」
と逆らわずに答えた。
それから彼は、新村をはじめ2,3の報徳社の先輩の人々に意中を話した。しかし、ここでもだれ一人、賛成してくれる者はなかった。
「氷砂糖事業も、せっかくこれまでになったのだから、そう焦らないでも、ジッとやっていさえすれば、この地方で指折りの富豪になれるではないか。」
と、口を揃えていうのであった。藤三郎もこの場合、これ以上を、この人達に期待することの無理なことを知っていた。
さすがの彼も、福川に意中を打ち明けることは、よほど考えた。しかし、打ち明けないで済む訳のものではない。そこで、彼は意を決して福川を訪ねて、最近、恩借によって事業を始めたばかりであるのに、またまた、こうした方針変更の申し出をする罪を深く詫びてから、氷砂糖工場を東京へ移転することの希望と理由を、詳しく話した。福川は眉一つ動かさずに、静かに熱心に聞いてくれた。それにいささか勇気を得て、藤三郎は言った。
「負えば抱けと申し上げるようで、甚だ申訳ないことでありますが、もし東京へ移転の費用さえ出して頂けましたら、活動資金のほうは、氷砂糖の一手販売を託しております村山商店が、まだ会ったことはありませんが、昨年来の取引ぶりで見ると、中々商売も熱心ですし、産業界の大勢にも通じているようですから、キット話に乗ってくれようと思います。それで、固定資本のほうだけ御融通をお願いしたいと存じますが、いかがでしょう?」
 彼は、福川に熱心に頼んだ。福川はしばらく考えていたが、
「よく分かりました。村山商店で活動資金を引受けてくれるようでしたら、東京移転の費用は御用立て致しましょう」
 と即座に承諾してくれた。藤三郎は、自分の真意を了解してくれるのは福川だけだという感じを胸いっぱいにたぎらせて、言葉に尽きせぬ感謝の念と、この信頼を裏切らぬようにしようという決意を新たにして、洗い磨かれたような心になって、福川家の門を出たのであった。初秋の夕焼け雲が、真紅に頭上で輝いていた。

  藤三郎は、すぐ旅の支度をして、東京へ出かけた。東京へ着くなりその足で、日本橋堀留の村山仁兵衛商店を訪ねた。秋といっても9月のことで、まだ日中は焼きつくような陽が強く照りつけている紺のれんを、ソッと分けてはいって来た見慣れぬ埃まみれの田舎者を見て、居並ぶ番頭、小僧達は眼を見合わせ薄笑いを浮かべて迎えた。

「私は、いつもお世話になっております森町の鈴木藤三郎でございます。御主人がおいででしたら、一度お目にかかりたいと存じますが・・・・・。」
 これが、このごろ素晴らしい氷砂糖の製造に成功して、業者の間でも評判になっている本人かと、店の者達は、いまさらのように見直した。当時の藤三郎は、田舎町の菓子屋の一職人であり、氷砂糖工場の一職工にすぎない見すぼらしい風采であったが、もう相当にこの店とは取引を続けていたから、名前を聞けば、そう冷遇はしない。それで、小僧の知らせで、奥の方から年配の番頭が出て来て、
「主人は幼少でございますから、手前が代って、お話を承りましょう。それにしても、ここではなんですから、ともかく、お宿へ御案内してから伺うことにいたしましょう。」

と、煙草入れを腰にさすなり先へ立って、霊岸島の宿屋へ案内した。

藤三郎は、そこで村山商店の番頭に、近く精製糖業に着手したい希望と、その瀬踏みとして氷砂糖工場を東京へ移転するから、その際に活動資金を融通してもらえまいか、ということを話した。
 西陽の射し込む部屋の中で、もう大分くたびれた扇子をパチパチいわせながら聞いていた番頭は、彼の話が終るか終わらないうちに、
「それは、およしになったほうが良いでしょう。」
と高飛車にきめつけた。そして、業界の事情にうとい田舎者を哀れむような口調で、薄い唇をなめながら流れるような江戸弁で、まくし立てた。それは、こういうことであった。精製糖事業などというものは、日本で成功するものではない。明治10年(1877年)頃、島某という人が、アメリカから帰って、有力者の出資を得て東京築地に洋式製糖所を建てたが、創業後1年もたたないうちに倒れてしまった。また讃岐の某地にも精製糖製造所を設立した者があったが、これも2,3年のうちに廃業した。大阪でも川崎某ほか知名の豪商の発起で、中之島に紙砂糖製造所というのができたが、これも不結果に終った。北海道の紋鼈(もんべつ)には、官営の紋鼈製糖所という甜菜(てんさい)から砂糖をとる工場が、ずっと前からできていて、近ごろはドイツから技師を2人まで雇って来ているが、まだろくな製品が出ていない。
「こんな工合で、日本では製糖事業というものは、お上(かみ)の力でやっても、なかなかうまくゆかないのですから、とてもほかの人がやれようはずはありません。先年、島が築地でやったときには、同業者のうちでも、大分金を出して大損をかけられた者もありますので、砂糖問屋は、製糖事業と聞いただけでも身震いする位ですから、これは、どこへお話になっても無駄です。

それに氷砂糖のほうも、なるほど東京へ工場をお移しになれば、運賃は大分助かりましょうが、もともとこの品は、高価なところが値打なのですから、そう安くする必要はありませんし、また産地がどこか分からないところで、世の中に珍重されるというものですから、人の気のつかない地方で製造なさったほうが、お互いに利益も多いというものです。国益のためだなんていっても、そんなことは、だれも、ありがたがりはしませんよ。」

という調子であった。藤三郎は、東京の大商人といえば、地方の人とは違い、思想も高かろうし、時勢に対する達見もあろうから、必ず自分の意見に共鳴して、力を貸してくれるであろうと思っていた。そうなれば、家族を残し、友人とも別れ、故郷を捨てても、この念願を成就しようくらいの覚悟を持って上京して来たのであるから、これには全く失望しない訳にはゆかなかった。しかし、その考えることに、あまり距離があり過ぎることを知ったので、村山商店の援助を得るために、これ以上説くことは断念した。そして、東京に一週間いた間に、市の内外を回り歩いて、工場敷地の候補地を4,5か所見つけただけで、森町に帰った。






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最終更新日  2025.08.27 01:00:06


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