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2025.10.30
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

回光返照 その11

『正法源蔵』現成公案の巻に「仏道を習ふといふは自己を習ふなり」と示されてあるが、これが回光返照の第一級だ。「自己を習ふといふは自己を忘るるなり」これが第二級、そして「自己を忘るるといふは、万物に証せらるるなり、万物に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしめるなり」すなわち自他透明になる。これが第三級である。そしてさらに「悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうけつ)なるあり」悟りの跡方もなくして、しかも「休歇なる悟迹を長長出ならしむる」のである。今生より未来、尽未来際、今日は今日限り、明日は明日限りと、一生永遠に回光返照して、とめどもなく自己を見つめ自己を体験することが、修行に終わりなしという相(すがた)である。つねに磨き、つねに新しく回光返照してゆく、ここにわれわれの本当の修行がある、回光返照しない者には「雖近而不見(すいごんにふけん)」というて、近いところに仏はあってもみることができない。つねに回光返照する者には。「常在霊鷲山」で、いつでも仏を見ることができる。浄土は近いところにあるわけである。
 それだから「言を尋ね語を逐ふの解行を休すべし、須らく回光返照の退歩を学す」るということが大切なので、これさえ努めれば、「身心自然に脱落して、本来の面目現前」するのである。ここにいたる方法はいろいろあろう。例えば笛も極致になればそうであろうし、武道の奥義もそれであろう。もろもろの芸術もそうでなくてはならないが、何よりもまず坐禅が、回光返照には一番の表門であり、正門である。これが坐禅の本筋である。
(『禅談』p.145-146)





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最終更新日  2025.10.30 15:30:04
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