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2025.11.04
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

坐禅の本領  その5

 坐禅というものはそういうものであって、そういう坐禅をしなければならんのに、そいつがどうも外側へ出がちである。尋常六年の教科書に「無言の行」というやつがある。また無住法師の『沙石集』という本の中には、無言の行ひとつについて長い文章が書いてある。それは、宗教、坐禅は内側のものでなければならんのに、外側へ飛び出した。内側に蔵して持っていなければならんのを、外側へポッとだしてしまった。そこを皮肉ったものである。あれはおもしろい。人に物を言わない、あぐらをかいて内側に持っておらなければならん。そとへだしてはいけない。この回光返照がなかなかできない。本を読むにしても内側へ持ってゆけばよいのを、こいつをひとつ生徒を感心させるために使ってやれーというわけで、受売、小売がはじまる。
 われわれ人間というやつは内側に持っておればよいものを、すぐ外側へだしたがる。内側へもどすということが肝心である。足許をちょっとも見ない。筒でのぞいているように向こうばかり見ている。「貴様なっておらんぞ、赤ん坊をどうしているんだ、この飯の炊き方は何だ」と、人のことばかり見る。足許をちょっとも見ない。
 そこでわたしは、回光返照の宗教という。眼鏡が筒になっているから、足許は見えずに人の方ばかりよくわかる。あれも駄目、これも駄目と、自分だけは抜きにしている、いやしくも坐禅を修行するならば、それは自己のものでなければならん、外側へださんようにー。
『学道用心集』の中に、「唯吾我を忘れて、潜かに修す」とある。京都大学にわたしがいくようになってはじめた会の名を「潜行会」といった。ひそかに行う。見せびらかすのでなく、ひそかに修行するのである。そうすると生徒監が眼の球を光らして、思想問題を研究するらしいが、潜行する会というのは怪しいぞとにらんだものである。なるほど世の中には、悪いことは内緒でするにきまっている。われわれは悪いことは見せびらかしてやる。良いことはひそかにやる。「吾我を忘れて、潜かに修す、菩提心の親しきなり」だ。
(『禅談』p.214-215)





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最終更新日  2025.11.04 09:30:06
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