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2025.11.12
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その1

 宗門に修証一如ということがある。あるいは修証不二ともいう。修は修行、証は悟りである。
 この修行と悟りというものは、どういう関係にあるかというと、一如であり不二であるから、二つべつべつのものではない。しかい非常に甚深なる意味があるのである。むかし、悟るまで修行せいと、といった人がある。悟るまで修行せいというと、悟るまで修行して、悟ったらもう修行しないでもよいということになる。また悟ってからが本当の修行だというなら、悟るまでは仏道の修行にならぬ、という道理もある。
 それを道元禅師が何といわれたかというに、過去、現在、未来ペッタリコの坐禅、ブッ通しの修行であるといわれた。このことをまた一方究尽ともいわれた。わたしの子供の自分に、この一方究尽ということは、仏書の講義などで辞(ことば)だけは耳にはいっておったが、深い意味は知らなかった。それはどんなことかというと、修行という言葉には、悟りという意味がチャンと含まれている。つまり、修行というそのままが悟りだ、ということなのである。
 ところが人間には、カンニング根性があって、修行せんでも悟れるなら、その方がよほど得だという者がある。あるいは修行さえすれば悟りはいらぬ、という侠気のあることを申す者もある。だから修行さえすれば、悟りという名前がつかなくとも、それでよい。もっと大きなものに到達すれば、ことさらに悟りという名前をつけてしまいこまなくてもよいわけだ。
 そうすると悟りとは、こういう悟り、ああいう悟りという理念ではなく、修行そのものである。ところがそれが何か物足りぬ。修行ということが、何か悟りという舞台に上る花道のような気がする。そうすると、悟りが欲しいために足の痛くなる修行もしなければならぬ、勲章が欲しいために戦争というこわい目にもあわねばならぬ、というような妙なことになる。つまり勉強せい、修行せい、若いうちはしっかりやれと、小僧を奨励しがちである。(『禅談』p.226-227)





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最終更新日  2025.11.12 06:40:04
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