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2025.11.14
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カテゴリ: 坐禅
「禅談」沢木興道述(沢木興道全集第2巻)

修証一如  その3

 二宮尊徳翁の歌に
  音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ
 というのがあるが、これも宇宙いっぱいを相手にしたものである。禅でいえば尽天地一巻のお経だ。前にも話したように二宮尊徳は柴を負うて本を読んでいる姿が、どこでも使われているから、偉い勉強家だったと思うが、あの人の生涯は、自分のために努力したことがほとんどないのが感心である。桜町の開墾でもずいぶんつまらぬやつに金をやったり、家を建ててやったりしているが、とにかく人のために一生あれほどのことをしてやって、自分のためを思わぬというのは、何か悟りがなければならぬ、あの人は十四の時に観音堂で観音経を聞いた。そこで悟りを開いたと書いてあるが、実に偉いものだ。
 宇宙いっぱいのお経、天地無尽の百万巻経は、われわれでも毎日読んでいるのだが、なかなか実際には一生かかってもピンとこない。しかし二宮尊徳がその歌を詠んでいるのは、宇宙いっぱいのお経を味得しておったといえるだろう。まったく「音もなく香もなく常に天地は書かざる経をくりかへしつつ」で、宇宙はどこを眺めても一切経のグルグルまわるフィルムである。『法華経』の諸法実相、『般若経』の一切皆空のフィルムだ。ただこのお経を信じているか、おらぬかということがわれわれの問題である。このお経を読むということが悟りであると同時に、修行である。修行と悟りとべつべつにあるのじゃない。いままでが修行でこれからが悟りという理屈でやれ悟前の修行だ、悟後の修行だという区別はない。そこは午前だ、これからが午後だと、昼飯を食った後と食わぬ前というような、はっきりとした違いがあるものではない。
 この宇宙いっぱいのお経というフィルムは、じつによくできたフィルムである。ところがそれを冒涜する手合いがある。「ワー雨が降りやがる」という。雨が降らなんだらどうするのだ。雨が降るというのもフィルムの一幕である。降らなければたまらない。この間ハワイから手紙がきて「いつまでたても雨が降らなかったが、降ってホッとした」と書いてあった。そうすると雨が降らなければ、降るとかえって具合がよいのだ。べた一面で、フィルムに変化がなかったらおもしろくない。
 しかしただ変化があるというだけでは、何もべつに大したことはない。子供の時ははやく大きくなりたいと思う。年寄ると年寄りとうないと思う。「若い時はよかったがナー」と、よく愚痴をこぼすが、子供は子供、かかあはかかあ、娘は娘、親父は親父でよいわけである。
 旅にたとえてみれば、宇宙尽天地一巻の経で、くねりくねりしてゆくその道中がどこでも修行でなければならない。このお経を読みそこないさえしなければ、それが修行であると同時に悟りであらねばならない。要するに悟りとか迷いとかいうことをはっきりわけて、人間という手合いが概念化して、悟りというものを頭の中にいれている。そうするから、修行というものが足のしびれるつらいものになってくる。こういう具合に人間というやつは、鑑賞することが好きである。それでいて本物が嫌い、贋物が好きときているからおかしなものだ。(『禅談』p.229-231)





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最終更新日  2025.11.14 09:30:05
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