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睦月・如月・弥生・卯月・皐月・水無月・ 文月・葉月・長月・神無月・霜月・師走 早 きさらぎ から やよい へ 如月 の過ぎ行く様は ひそやかに 月名もはえる 弥生かな ・・・かな。 如月もあと数分となり、いよいよ弥生 春の兆しも 弥生と共に来たりけり・・・う~む。 日本文化を見直せば 月名 も しどろ もどろ なりけり~。 いよいよ 春 がきますね。
February 28, 2006
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自在にイメージする。広大な宇宙には、中心があるといいます。一点から放射状に無限に展開するとされています。自分は、現実には太陽系第三3惑星地球のある一点に存在します。 ※イメージ宇宙は、 私が中心にあって そこから放射状に自在に光を発することができます。 尚且つ、自在に移動します。 そして、上も下も右も左もなく、放射状に動きます。 束縛のない、イメージの宇宙では、紛れもなく 自分が中心であり、イメージの中では、 無限な放射状の方向に移動ができます。 自ら、自在に発想するために。
February 26, 2006
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つれづれに。仕事の都合で深夜便になってしまいました。今朝の朝日新聞を見た瞬間、なんと華やいだトップ紙面かと驚きました。 なんとも明るく美しい表情と共に。 普段にも事件ではない明るい出来事を、トップに飾る新聞が あって、良いのではないかと思いました。 [どこどこの、何々ちゃんがこんな心温まる~をした。] みたいな。 事件や政治問題がその次にくるような。 そうすれば、・・・世の中は、明るさの中に 時折つまらぬ問題もおこるのだ・・・ といった世相に変えられるかもしれない・・・・。 類は類を呼ぶ ということもあります。騒ぎ立てることによって、煽って商売になるような節操もない人々が、いかにも当たり前のように振舞うために、 なおさらに仮面の記事を書いたりしているのではないかと思ったりします。 人は、情報に左右されがちです。 情報の選択も難しい時代になって くればこそ、 また、 清貧な情報 が 価値を持つ必要を感じます。皆が自信のなくなるようなときは、皆が自信を持つことができるよな情報をいっぱい流せばよい。と単純に思います。 思いやりのない時代なら 思いやりの深い出来事を 取り上げればよい。 どうせ、情報操作するのなら 賢いやり方でやりましょう。 金一個だからこそ 感動も深くなりましたね。
February 25, 2006
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そこにしかないもの。そこだけにあるもの。みなにあるもの。だれにでもあるもの。いつもこの両方を考えます。このどちらも考えます。 やさしさ ということです・・・。
February 22, 2006
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建築に限らず、創作分野に関わるすべてにも限らず、どんな仕事にも、普段の生活においても、 想いを深くして見つめたり 想いを尽くして、考えたり、想いを尽くして 相手を思いやったり、 自分の為に、人の為に良かれと思いのたけ 想いをめぐらす。 これらはすべて創造する基本であり、 可能性を追いかけていること、 可能性を見出すこと、 誰かに可能性を与えて行くことにもつながる。 淡々として、自己のみ清廉潔白に生きるより 必死になって、想いを尽くして生きる人を好む。 うまくいくことも、とてもいい。 うまくいかなくても、なおも想いを捨てず、 挫折しても、なお想うをあきらめず。 創造することが好きなのは、 可能性を生み出す可能性があるから。 想像することはが好きなのは、 より深い想いに行き着くから。 想うことが好きなのは、 より温もる心を呼び起こすことができるから。 きっと素敵な人生になれ。
February 21, 2006
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つれづれに だいぶ、外は春めいてきました。 二月も後半になり、三月の声を聞けばもう気分は春。 季節感は自分自身をも後押ししている。 もしも、こうした季節の移ろいを感じとりながら 日々をおくれるのならどんなによいだろう。 季節感をわすれさす日常は、いったいいつから始まったの だろうか。 こどものころのような、敏感に季節を嗅ぎとって 湧き起こるあのわくわくする感じや、季節の香り、匂いは、 いったいどこに置き忘れてきたのだろうか。 それでも、冬から春に向かうころの 感触には、変わらぬうれしさを感じるのは、 冬は耐える季節 とう束縛感から解き放たれる という印象があるからだろうか・・・・ 季節を感受し季節を享受する生き方はとても 大切な生き方なんだなと あたりまえのことを 忘れていた・・・・・。
February 19, 2006
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レイテの山崩れによって、3千人以上にのぼる犠牲者が出そうだということです。大変な惨事と思います。地崩れの規模がどの程度なのかは数字を聞いてもピンとこない程、大変な山崩れと感じます。堆積土砂が数十メートルもあると聞くとその除去は、水分を含んだ土砂であることも考え合わせて、重機を投入しても相当の期間を必要とするものと思います。いつどのような災害が発生するか、地震であれ、台風であれ、自然のパワーは、人の智慧も力も及ばないものを感じます。近年に限らず、地球規模での天変地異は過去にも多く起きています。 故に近年特別な変動を地球自体に起きているとはいえないとしても、確実に人間社会の影響によって、引き起こされる、自然環境の異変や、二次災害は、多くなっています。NHKの100年後の地球の気象環境の予測番組を見ましたが、温暖化が及ぼす影響は、かなりのもので、産業社会の発展とあわせて、その脅威は増し、加速度的に短期間に自然界の様子が変容して行きます。私たちの次の世代その次の世代は、予測通りであれば過酷な現象に直面します。今、何をどのようにその変化を緩やかに、あるいはくい止めるための新たな対処の智慧を探り実行に移すかは、真実味のある命題となっています。インターネットが急速に発展する意味には、情報化社会における経済効果の手法としてばかりではなく、地球社会全体が一つであることをいち早く自覚する意味で活用させるという付加価値を重視するべきだと感じます。価値のある有意なる情報を協力して協調の情報として共有するためのものと考えれば、国家利害を超えた認識啓蒙も可能かも知れません。加速度的な世界事象を時間をかけて制度化するよりも早く、一人一人の良心や感性に直接語りかけるのはこうした、情報媒体は有利です。個人のブログがネットワークを組むこともできます。いかに、良質の情報をより多く伝えるか、が今後大きな力となり得ると考えます。
February 19, 2006
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つれづれのままにいきの構造 なんかを久々に思い出したついでに少し、建築的な考察を。 いき は 粋 のことですが、粋が粋であるためには、どうしてもそこに「品性」が不可欠である と私は思います。 とは言うものの 粋 そのもの定義が いきの構造 のような、難解な本になるのですから、人に依ってそのイメージはそれぞれなのかもしれません。 日本語の 侘び・寂び もまたその定義が難しいですが共通して、含まれるイメージは私なりに 「奥ゆかしさと凛とした品位」 と感じています。どちらも、その場しのぎができにくいものです。 建築も完成時に顕れてくる雰囲気は、その設計段階 のみならず、それ以前からの設計者の、また建築主さんの 人間性が現れてくるものですが、私は、粋かどうかはさておき 「品位」は重要な形のない要素だと思っています。 けれど この 品位 とは、気取り ではなく、 少しの緊張感と少しの威厳と謙遜であって、 建物が 使い手あるいは、住む人を 育むためになるもの・・・。 建物は、人の手によって造られるのですが、 いったん、命を得た建物は、また人を包み込む 使われる「器」として機能するばかりではなく、 名茶器が、人をして規制するような気概を持つ ものだと考えています。 さらには、常に人と関わる時間が長く言い換えれば 動かぬ家族あるいは同僚 のようなものとも思います。 故に、私の描く 品位 とは 優しくあること と 対であり、共に成り立つための役割をもつものです。ちょっと 粋 からそれてしまいましたが、かく言う、私自身 この品位と言い、奥ゆかしさといいどうも、欠けているのではないか・・・ と ふと我に返って はたと 無粋な日常がよぎるのでした・・・・・・・・。
February 17, 2006
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建築つれづれ設計事務所に入りたてのころ。設計事務所もいろんなスタイルがありますが、そのころは、設計界隈で読まれる標準書(結構皆が知っている)見たいなものがあり、それは、建築の専門書ではなく、文学であったり、哲学もあり、随筆あり、週間、月間漫画雑誌ありでした。 中でも、必須であるけれど意味が解らない代表が、 『いきの構造』ー九鬼周造ー は有名。今、思い出しても内容は、 いき について確かに書かれていたのだけれども、ほとんど記憶にない・・・・。 「いきの構造を読む」 とういう新書もでていたくらい。とにかく難解なのです。 故に解説は致しません。 読みやすいかもしれない、結構良い本は、谷崎潤一郎 の 『陰影礼賛』 日本の家屋を中心にした、作者のエッセイもまた、必読書みたいなので当時なんどか読みました。 また、建築家が主人公の相手とかで登場する純文学も何冊かありました。先輩に教えられて原田安子の「挽歌」とか芝木好子さんものとか・・・。それと、やはり忘れてならないのが、 「ビッグコミック」シリーズである。石ノ森正太郎ものの時代劇の写実はリアルで建築パースより情緒的である と建築家にも絶賛。最近は、読書離れしているのですが、当時は何を読めばいいか、すぐに情報が得られてよかったのかもしれません。 ある建築史の先生が、事務所に遊びに来たときこんなことを私に言ってました。「建築の本はたかが知れているから、それ以外の 物をいっぱい読んでおいた方がいいよ。」って。 事務所に入って、1年目にでした。そのせいか、それから、数十年経っていますが、やはり、あまり建築に関する本を読んでいない・・・。 読まな過ぎかもしれません。
February 16, 2006
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つれづれに 気ままにトリノオリンピックが開催されていますが、日本勢は、なかなか結果が出せないようです。スピードスケートを見ましたが、加藤選手が力を出し切れずに残念でした。予期せぬアクシデントは、自分ではどうしようもないものですが、気の毒な気がします。何気なく 使う 『気』 もう何回もこのコメントに使っていますが、日本語では 気 のつく言葉は最も多いと聞いたことがります。気配・気遣い・気配り・天気・気候・気疲れ・気付き・・・気持ち・気まま・気の病・・・・きりがない。見たこともない 『気』ですが、気功のようなパワーがあるのも確かだと思います。 気力 気の持ちよう などというのもいかに『気』が何かにつけて作用するもの と思われているかがわかります。 気を付けて・・・気にしない人の体も電気を持っていて、そのエネルギーが放たれるとするならその電気には、念も加わって 『気』 となって実際に作用するのでは・・・また +と- のように二つの 気 に分かれるような気 がします。・・・ しかし、-と- は反発し+と+もなじまず、-と+はくっ付くと言うのは、よく考えるとなかなか、凄い 自然の気配り ではないかという気がします。何事も 和する気 をワスルべからず。少し、近ごろの日本は気力が落ちているのではないかという気がします。 頑張れ!! 日本 です。
February 14, 2006
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つれづれに明日は10度ぐらいになるそうです。 三寒四温 は春への移ろい。 七転八倒 しちてんばっとう ではなく ななころび八起き。人の人生も 「三寒四温」 でありたい。 「七転び八起」 でもいい。人への思いやりも 「三寒四温」 がうれしい。やはり、 後が 四温 八起 で終わる方がいいなと。根っからのお人よしの人は、どうしても ~四温。 になってしまう。 が その後、七転八倒したりもする。それでも、 人生は 『三寒四温』 でありたい。・・・・・
February 13, 2006
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つれづれに母なる地球の皮膚を剥ぎ取って、体毛を抜きあるいは、大地を穿って、噛み砕き、練り上げ、捏ね上げ作る 建築物。ちょっと表現がよくありませんが、自然環境云々。環境にやさしい云々と、耳障りよく聞こえるけれども、事実は、 経済優先の中の美辞に過ぎない。地鎮祭とは、地下の御神々を招きだして、お許しを乞うのが主意なのですが、なんぼ得した、損した、赤字だ黒字だと、最後は、神仏も二の次三の次。とあいなる。建築行為は、直に地球を痛めつける。ドバイかどこかで、地上800mの超高層ビルが建築中だそうだが、技術を誇るべきか、否か。 倒れないことを祈るが、終末観も同時に起る。 かつて、文明が衰退するのは、その周辺の環境が枯渇することが、その大きな要因となっている。今は、地球規模の枯渇が問題でもある。先見性という言葉は、今は予測という言葉と近くデーターの分析によって行われる。 経済至上 という表皮が内部を侵食して行く段階が痛みに変わりつつあり、なおもこの潤わぬ表皮におもねる建築家や、建築分野に関わる者は、私も含めて、自己を見直すべきときである。
February 9, 2006
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つれづれに 晴 と ケ 「ケ」とは雑多な普段の日常です。いろいろな出来事が善くも悪しくも起ります。「晴」は ある結界からその雑多な「ケ」と仕切られてまたこの雑多な日常と共にあります。この 「結界」とは、儀式であったり、鳥居のような物であったりあるいは、意識の転機 とも言えます。普段が雑多であるのも必然なるが故に、 「晴」を恋うるのもまた人の心情といえます。自然界の自浄作用のように繰り返しながら・・・それ故に、「結界」が必要とされる時は、自然と「ケ」の行き詰まる時でもあり、応じて呼び開かれる。「晴」なるものは、清浄観が具わります。境内の凛とした気配にも似て。時には、意識して結界に踏み込む必要な時期があるのです。
February 8, 2006
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つれづれにもっとも、手強い相手は 自分自身に他ならない。そして、相手にまわしてもっと恐るべきは、 無欲な正直者 執着のない人ほど、強い。自由な発想や、未来を拓く新たな仕組みもこの手強き人たちから起るだろう。創造的分野の人たちは、真っ先にこのふるいにかかる。けれども、あらゆる人にこの粋(すい)なる智慧と能力は秘めているのであって、先駆けてそれを 感動と共に知らしめる働きは、創造的分野の人であるべき なのだ・・・ と 私は考えています 故に私自身に対しても。
February 7, 2006
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つれづれに久々に、本当に久々に緊張感の漂う建築空間。 茶室 にて。作り手の意識がそこに紛れもなく顔を出す。ごまかしの効かない空間の典型の一つに茶室があります。侘びと寂び の代名詞として取り上げられる空間でもある。一般の設計でもよく緊張感を意図的にプランに組み込むのですが、感性であれ、すべて、相対するものがあってこそその価値が顕在化されてくる。 無駄のない茶室は、時に心地よい緊張と規制とを伴なって目の前に迫ってくる。 こちらの潜在意識を程よく呼び覚まされて、一時、日常の喧騒やわだかまりから解き放され、包み込まれているのを自覚する。質素なおもむきの空間は、また多くの気づきを与えたりする。過剰な華燭は、知らぬ間に多くのものを見失わせる。かくして、安寧で、心地よい とはいくばくかの緊張と私自身の意識の顕在する中で自受され感受されるのだ と再び呼び覚まされされている。
February 6, 2006
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つれづれに夢をもつこと、夢をえがき、追い続けること。そのエネルギーは何より大事なのだと思います。どんなときでも、希望があれば、人も活きていると言えるのだと思います。誰でも夢を持つことは、できます。それは、点火材であり、自由なものであり、実は エネルギー そのものなのかも知れません。だから、自ら点火することも走りだすことも可能なのだと。自らに希望を与える為に。 そして、他にも。(夜茶会の後で)
February 4, 2006
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つれづれに一緒になってゆれる。少しずれながらゆれる。これは、昔からの日本家屋の性質です。強く抵抗して耐える。これは、近頃の家屋です。離れて(浮いて)、逃げる。これは、免震構造です。人間関係ならば、どうなるのでしょうか?私は、少し 一緒にゆれる が好きだったりします。建築は、人を守るためでもあります。しっかりしたものでなければなりません。それでいて、一緒に泣いたり笑ったりするような住宅も、人も、かなりすきかな・・・。
February 2, 2006
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つれづれに止まない雨はない、晴れない天気もない。曇らない晴もない、止まない雪も無い。曇りは晴の始まり、晴もまた曇りの始まり。冬も春のまえぶれ。人の思いも、晴れのちくもり、曇りのちかならず はれ です。
February 1, 2006
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