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縁がある はなし 縁があるは無し・・・ ちかごろの住宅には『縁』がないものが増えている・・・ 建築には『縁』えん と呼ばれる部分があります 縁(ふち)にあるので えんがわ と言わずに ふちがわ でもいいのではないか とも思います。 普通、建築の意識は、部屋と外の間に この『縁』は 存在する訳で、家の ふち側である。 しかし、呼び名は 『えん』である・・・・ 確かに、 『縁』あるいは 『縁側』 は えん・えんがわ と呼ぶほうが 様になる・・・ 興味深いのは やはり 『縁・えん』の意味。 人の『縁』とか、縁(えにし)などなど つまりは、 あるものとあるものをむすびつける はたらきや そのめぐり合わせ、出逢い などの起因・・・・・ 建築の『縁』には実はこの働きがあるがゆえに そもそも 『えん』と呼ぶ。 そのほかの 建築部分や部材では 額縁(がくぶち)・野縁(のぶち) 竿縁(さおぶち)などのように 縁をふち読みしている。 つまりは、『縁側』えんがわ とあえて 縁を ・えん・ と読んで(呼んで)いるのは えにし を生みお越し、展開しうる ・ところ・として 意味を重くする 部分なのであると言える・・・ だから どうなんだ・・・なんなだ・・・ の以降は つづく・・・
May 30, 2006
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詩的な『間』 門 のあいだには 日 間の字は、「門」あいだから覗く「日」 この場合は、立体的な視覚 ものともののあいだ を指して 日を挟む・・・・ 日は時でもあり・日は明かりでもあり・日は中心でもあり・・・・・ なにもない空間は 間 ではなく ただの空(くう)である・・・ 『間』 には、確かな 大事な物事を収めて 間(ま)となる・・・ 『間』 をあなどることなかれ・・・ 世がうまく治まるゆえんも 『間』に何があるか による・・・つまり 世間 の納まり である・・・ また 世間の 『間』 は人と人の 『間』 によって 左右される つまり ・人間・ 『間』がなければ ・人間・にはならない・・・ 建築的 『間』 は 人間 を包む また『間』 なのである・・・・ 『間』を軽んじることなかれ・・・・・。 昔、昔、門の替わりに人と人が 囲炉裏 を囲んで できる 『間』は それは 立派な 『間』 である ・・・火 とぬくもりと 人の気配と 心持と 時には 言葉と 時には 食 と 時には、いろいろな 音と・・・ そして 表情と 流れる時間と 変化する周りの陰影と・・・ ゆらぎとともに・・・そして やすらぎと・・・・・ 『間』 とは 生きた ところを 指すのです・・・・。 ・・・つ づ く・・・
May 24, 2006
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計画(プランニング)と『間』 『間』についての、イメージによって、計画そのもの の印象が全くことなってきます。 建主の、設計者の計画における 『間』に対してのイメージの 持ち方如何で、決定的にその印象が変わります。 イメージしている『間』の内容がすでに 違っているゆえに、当然、出来上がる 印象は異なるのです。 ここでいう『間』は単純な「空間」と同じではありません・・・ 量的な空間のみならず、 床、壁、天井の仕上げ、人、物、間仕切り、外の景色 間同士のつながり、人の動き・・・・・ それらが混在しながら、変化する・・・ それが『間』です ゆえに、間取り(プラン)をイメージしているときに すでに『間』でどのようなことが起きて、どのような 展開になるのか、それをどのように想定し設定したのか それによって 『間』 は決定されそれに添った・力・を発揮します やはり、 『間』 は、柱や壁で区切られた空間であると いったような機械的イメージではなくもっと能動的であり、 芝居の効果的な舞台装置・背景以上の決定的な印象と、 具体的な作用を、醸し出して人に作用を与えるものです。 それ故に、住宅でも、ビルであっても、 それを企画したり、設計したり、要望したりした 人そのものをそこに反映しているとことにもなります。 特にプランニング(内部の間取り、建物全体の配置など) に於いては、『間』の連続であるがゆえに、 この 『間』 に対しての各自の認識がすでに 出来上がる建物の性格を決定していると言えます。 『間』 とは、人と物と空間と素材とそして心理と それぞれの考え方、あるいは生き方、 価値観までもが交差する 。 と捉えられるものです。 『間』は区切る のみならず 繋ぐものでもあります。 結構、人間関係の『間』の複雑さや、深さに似ています・・・・ つづく
May 23, 2006
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『間』の基本知識講座 『間』の基準は人の所作から・・・・・ モジュールというスケールの尺度は人体の動きから 生まれています。 肘から手まで、一尺(≒30cm)、畳が(3尺×6尺)で 起きて半畳 寝て一帖 の大きさとか 畳の長手が、一間(いっけん) 一間×一間 で一坪(3.3m2) それで、3坪は6帖間 二間×一間半(≒3.6m×2.7m)といった具合 高さは、身長から 出入り口の高さ(≒6尺) 天井は+2尺で8尺(2.4m) が日本の間 の基本。 そして、部分や家具でも 机、椅子、流し台の高さ、も ドアの巾も高さも 皆、もともと 人の体の所作から決ってきました。 機能的な 『間』は 人体の仕組みと所作 によって。 ・・・・・基本の寸法はいろいろですが・・・・・ 間尺に合うようにするための必要な知識は まず、自身のことを知ること・・・・・ 人には、動作の癖もありますゆえ、自分の行動 パターンも結構影響したりします・・・・・から・・・・・ それと、 生理的な感覚は、『間』の設定が相当に関わっていて それに、視覚(色・明るさ・距離感・・・・)と触覚とが加わります・・・・ では、 美的な 『間』 とは何で決まるのか・・・・ さらに それぞれの深層心理(経験やイメージ風景・・・なども) が関わってきます・・・・・ また、 折々の感情とか・・・当然個人のセンスも・・・・・。 ・・・じつに・・・・・ 固定された『間』は 気がつかない間 に 規制と拘束をしていたり・・・・・ 所作を決めてしまっていたりしています・・・・・ 本当は、 『間』 にはいろんな、いろんな ものが、詰まって 『間』を造っています・・・・ そこで、 『 間 』 を考えるときに 忘れてならないのは、 実は、 『変化する』 という 相反する概念・・・・・ です。 実に 『間』 は相当に ・力・ を 秘めているのですね~・・・・・ 数字上の寸法も、感覚も、 奥行き、ゆったり・奥ゆかしさも そして、個々の 『らしさ』 までも・・・・・ そして、 人同士の『間』にも この 『間』 は作用しているものなのです・・・・・ 『間』 の話は 結構 奥が深い・・・・・ 少し、 間を あけて ・・・・つ づ く・・・・
May 20, 2006
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ー序ー 『 間 』 ・・・・間合い、間取り、間が合う、間に合う、間違い、・・・・・ 間尺に合わない・・・・・等々 およそ、住まいや、建築に於いて決定的な要因は 『 間 』 である。 生活する中で、人同士の関係にも、この『間』は 問題となる。 建築は、あまり動かない物だから、余計に『間』が 大事だ。 適度な『間』は心地よくもあるが、 間が悪い、間尺の合わない間合いの間取りは、間違いなく 問題になる・・・・・のです。 美的にも 機能的にも 感覚的にも 生理的にも この 『 間 』 は決定的な働きを為す のです。 基礎や構造が、ハードの主役なら 『間』はソフトの主役である・・・・ つづく・・・・・・・
May 17, 2006
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つれづれに 五月の半ば、一年でもっとも優しい季節。 命が芽吹き、再生し、勢いを増す。 この時は、恵みの慈雨も降ります。 日の熱も程よい。 いろいろな命を勇気づけます。 耐えしのぐ時、そして生きている喜びを感じる時。 また耐える時、そして生きている喜びを感じる時・・・ 実ることは終りでもあり、始まりの点でもある。 すべて、等しくはないけれども、 それぞれに、それぞれの時節が必ず具わる 人それぞれの中にもきっと時節はある。 じっとよくみれば、大も小も さほど 差はない。 季節の気配の中に知らせていることがある・・・
May 15, 2006
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今日、もう二十年近く前に以前の事務所で担当し お世話になっている方のお宅を訪ねました。 ちょっとした依頼の相談の打ち合わせを兼ねて 何年ぶりかでお宅を拝見しました。 本来なら、設計事務所はずっとメンテナンスの相談等に 応じながら お付き合いするのですが、当時の事務所をやめた 事情もあって 直接に、私がお相手できずにいたのでした。 その間は、ところどころ傷みや、ちょっとした 雨漏りなどもあったそうですが、工事を請け負った 業者さんに都度、依頼して対応されて居られました。 結構な規模のお宅で、尚且つ少々複雑な形態故も ありますが、それ以外は、さほど古びたといった 感じでもなく、きれいな住まい方をされていました。 何の具合悪いこともなく何十年ももつ建物であれば それに越したこともないのでしょうが、実際は、七、八年 サイクルで、多少予防的な意味合いも含めて、メンテナンス しながら、維持する方が建物もより長持ちします。 それ以上に、その御主人、御家族は、非常にその住まいを 気にいっておられる御様子で、愛情深く思って住んで おられるのだそうです。 私としては、なによりもうれしい限りのことです。 私も都度、いろいろな意味で、勉強しなければならないことが ありますが、なにより、住まう方や使われる方が、建物に 対して、愛着をもっていることは最も重要なことであり、 手入れや維持管理されている建物は、よりその住む人 使いこなす人に馴染むものとなります。 また、その方の生活・個性に添って計画されているので、 なお更に余計に、愛着も深いものとなります。 そのように、維持していくと、よほどの不都合 な事情がない限り、建物は相当な寿命があります。 もう一つ、見えないことで意味深く上げられるのは、 愛着を持たれている、住まいや建物は、その住む人や、 使う人の日常を、共に同じように生活しながら 安堵感、落ち着き、時には多少困らせることも あったりしなが、その生活時間を・より良く導いてゆく・ という働きを 作用としてなしているという点にあります。 それほどに、建物は人の身近な存在であろうと思います。 洋服でも、ちょっとした小物でも同じように、価値をもって 大切にしながら、持ち主自身を励ましたり、和ましたりすることが あるように・・・・、建物は包み込むという役割の中で、空間と 時間を人と共有しながら・・・・・。 基本的な、機能、構造はもちろん重要なことです。 それらと共にまた「気配」のような醸し出される たしかな、作用も存在しているものです。 造る側も、それをどのように察知して建物に 愛着を込めて計画し、造り出すか、したのか・・・・・ 私が、最も関心をもつところのでもあり、 それによって、その建物の寿命も、人の 日常にも少なからず善くも悪くも影響を 及ぼしているのだからと、自覚を深くしなければ ならないと改めて思うのでした・・・・・。 つづく
May 5, 2006
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建築物は、多く、いやほとんどは自然界の産物を利用し加工した素材で成り立っています。これら資源的な産物には、木 のように生物であるものもあります。賢治のように、あらゆるものに命を見出すならば、鉱物も土も石もまた、「生物」足りえます。木が切倒されるまでは、確かに生きています。成長という現実の命はそこで絶えます。それから先、人の手によって加工され建物の大切な要素となり、例えば適所に用いるとその耐用は実際生きた年数に又等しいとも言われます。言い換えれば、第二の寿命でしょうか・・・勝手な人の言い草かもしれませんが・・・けれども、死して尚そこに命を見出すという、格好の事例とも言えるかも知れません。そして、本来自然界に生きることは、こうした、多くの命との関わり合いとその恩恵によって、また他の命を支える仕組みに依るものと感じとることがでます・・・『活かす』ということは、生きているものばかりに、当てはめるのではなく、いかに、一つの本来ある命を、他の命と重ね合わせて、あるべき作用と働きとをあたえるか、見出すか、あるいはその価値と意味とを増して行けるかとうことではないかと思います。慈しむという心 がそうした智慧にいたるのでしょうか・・・ややもすれば、傲慢に陥り、こうした他の多くの命と活かすことを軽んじて行く傾向のものが生まれて来ます。建築とは、確かに築き上げること、創造することでもあります。 と同時に多くのものを実際に活かすことのできる行為でもあります。と私は思います・・・少なくとも自身に言い聞かせるべきことであると・・・・建築を行う前に、必ず「計画」の段階という形以前の見えない思考と検討期があります。それは、伝統という規範の計画のときもあります。新たな仕組みや考え方を打ち出すこともあります。いずれにしても、見えない意識がすべてに作用して形になってゆきます。故に、人自身の普段の考え方、生き方がなにより重要な「資源」に他ならない・・・・これは、建築という分野範疇に限られたことではないかとも思います・・・・・まさしく、詩的な建築は 『詩』の意味こそ先になければならないということになります・・・・つづく
May 1, 2006
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