時事通信の行った世論調査では日常生活でよく使うのは元号か西暦かを聞いたところ、「元号」は54.9%で「西暦」32.6%を上回ったという。「どちらとも言えない・分からない」は12.5%だったというが元号表記は公文書や民間の契約書などにでも数多く使用されており、浸透していることがうかがえるという結果だったという。世代別に見ると60歳以上では「元号」と答えた人が64.7%だったのに対し「西暦」は21.9%にとどまったという。40歳代や50歳代も「元号」がそれぞれ多かった一方で、10歳代~30歳代では「元号」が上回ったものの、4割台で「西暦」と拮抗しているという。世代が下がるほど「西暦」が定着している傾向だったそうなのだが、さすがに「皇紀」を使うという人はいなかったという。
4 月 1 日の新元号の発表まで 1 カ月を切ったわけだが、当日は「平成」の時と同様に政府が有識者懇談会に複数の案を示した上で最終的に閣議によって決定される。「昭和」までは最終決定権を持っていたのは天皇で中でも「明治」は天皇がくじを引いて決めたことで知られている。「日本年号史大辞典」などによると 1868 年に明治政府で議定を務めていた前越前福井藩主の松平慶永は最終 3 案を選び明治政府の輔相岩倉具視に提出すると、当時 15 歳だった明治天皇がくじ引きで元号を「明治」に決めたという。「大正」は 1912 年に西園寺公望首相が第 1 案として他の 2 案とともに天皇の最高諮問機関「枢密院」の山県有朋議長に提出し、大正天皇が同院本会議などの議決通り「大正」を選んだという。
若槻礼次郎首相は新元号に「昭和」を選定し他の 2 案も参考として添付したが、 1926 年末に枢密院がこれを追認し最後に昭和天皇が決定する流れをたどったという。「平成」の時も先日その存在が明らかになった九州大名誉教授のメモに書かれていた「修文」とともに「正化」が最後まで残ったというのだ。京都産業大の久禮旦雄准教授は「近代以降に最終案として残ったのはいずれも 3 案だが、明治の時に採用されなかった 2 案だけが何だったのか明らかになっていない」と話している。菅義偉官房長官は記者会見で元号に関する商標登録の審査基準を見直す考えを明らかにしたが、いまの審査基準で商標登録できないのは「現元号」だが「元号は過去も含めて商標登録できないことを明確にすべく検討している」と述べたという。
元号は「登極令」に基づき天皇が「勅定」という形で決めていたが、 1979 年に成立した元号法により平成からは内閣が政令で定めることになっている。大日本帝国憲法下においては元号に関する規定は旧皇室典範第 12 条に明記されていたが、現憲法下においては現皇室典範が制定されるに伴って条文が消失し法的明文がなくなっていた。1979年に成立した元号法は「元号は、政令で定める」と規定し、。政府は新元号制定の手順について平成改元時を踏襲する考えで、複数の候補の中から4月1日に有識者や衆参両院議長の意見も踏まえて閣議決定するという。新元号は新天皇がお亡くなりになった後の「贈り名」となるが、天皇や新天皇は新元号の選定過程に関わらないことになっているそうなのだ。
平成改元の際も政府は宮内庁長官を通じ、元号発表前に現在の天皇陛下に報告しているそうなのだが、政府が平成に代わる新たな元号について公表直前に天皇陛下とともに、皇太子さまにも報告する方向で調整していることが分かったという。新元号を定める政令は現在の陛下の署名を受けて公布し皇太子さまが新天皇に即位する5月1日に施行され、改元されることからお二人にあらかじめ伝えることが望ましいと判断したという。新元号を最終案に絞り込んだタイミングで速やかにお二人に報告する見通しだが、天皇の政治関与を禁じた憲法4条に抵触する疑義を生まないよう具体的な段取りは内閣法制局の意見も踏まえて慎重に判断するという。もっとも共産党の志位和夫委員長は元号法廃止を改めて主張しているという。
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