全12件 (12件中 1-12件目)
1
「話は分りました。でも、その話と体操と、どういう関係があるのですか?」遠慮がちに訊いてきたのは、訳あって特別に月一回だけの契約をしているKさんです。それに乗るようにして同じ質問が出ました。休みなく出席して、いつも深いところで理解をしてもらえるSさんです。二人の質問を聴いていて、野口三千三のことばとからだの動きの関係は、口には出さなくとも多くの人の中でいまひとつ未消化なままになっているのかもしれない。と思いました。野口先生のことばに感動して、ことばだけに繋がろうとしているひともいます。自分は下手だからと決めて、からだが疎かになっていることには気がつきません。反対に、野口体操の技術だけを欲しがるひともいます。からだが利くようになるだけで、味わいのない動きにしかなりません。野口三千三のことばと野口体操の動き。両方とも必要で大切なことは分っていても、いまひとつ曖昧で、からだに落ちないままになっているひとの気持ちを、二人が明確に言い表わしてくれたのだと思いました。野口体操は、野口三千三のことばとからだの動きで成り立っています。二つで一つです。からだがあって、からだからことばが生まれて来たのです。ことばがからだと分離しているとは考えられません。野口三千三のことばは、宇宙から日常に至るまで亘っています。宇宙の摂理、自然の法則、日常の下世話までです。それを繋ぐのがからだの動きです。そこには自然の神が創りたもうたからだへの絶対の信頼があるのです。日曜クラスは、今日から「私は『俗悪を楽しむ聖者』である」(野口三千三)に入りました。「俗」「悪」「聖」の文字の成り立ちを学びました。「それぞれの文字の原義からいえば、『俗悪を楽しむ聖者』とは、『人の表や高い所に立たず、野にあって俗塵を浴び、その俗世間の生活の中の、かすかなほんのちょっとの兆しによって、大自然の神の声をまっ直ぐに貞(き)きとり、新しく貞(き)きとったものが、たとえどんなささやかなことであっても、大いに喜び楽しむ者のことをいう』ということになろうか」(野口三千三)野口三千三は、どんな「俗悪」も「聖」の耳を持ってそこから自然の神の声を貞(き)きとりました。自分の中に起こっていることに何一つ無駄はない。それを拾い上げて、深めるのも捨てるのも、一度じっくり大切に味わってからにしたいものです。
Jan 30, 2011
コメント(0)
教室では初めての板書無しの授業をやりました。列車の事故があり、車の渋滞でバスまで巻き込んで、参加者の大幅な遅刻になりました。皆さんの集まりを待って、それから板書に繋げようとして始めたからだの動きが、そのまま最後まで行ってしまったのでした。何故、時間を忘れるほどに熱心になれるのか…。「脚口」「腕口」の動きを丁寧にやっているのです。「脚口」「腕口」を丁寧に感じることで、逆に、「胴体」が生命の起源・コアセルベート(原初生命体)であることの実感を持つことができるのです。脚も、腕も、この胴体から生まれてきたものであるからです。「私は、コアセルベート、すなわちまだ単細胞生物とさえ呼べない、未分化全体の命の在り方を、今の自分を構成している、すでに分化・特殊化してしまっている何十兆何百兆の細胞のひとつひとつが、思い出してほしいと願うのである。そして、その全体のまとまりである、まるごと全体の自分も、大きなたったひとつの原初生面体でありたいと願うのである」(野口三千三)脚と腕で言えば、脚よりも腕の方が末端です。その腕よりも手の方がさらに末端です。現代の都会に暮らすわたし達は、末端しか使わなくなっています。舌先三寸と同じく指先だけの仕事で終わらせようとします。本当は、舌先も、指先も、からだ全体と繋がっていなければいい仕事ができないのに。舌先も、指先も、「胴体」(コアセルベート)から生まれてきたものなのに。「胴体」から腕の出たところが「腕口」です。「胴体」から脚の出たところが「脚口」です。それを、死体解剖学によって名付けられた「股関節」「肩関節」などと呼んでいたのでは、ただの関節の機能だけになってしまいます。生命の起源の感覚は失われてゆくのです。関節の可動範囲を広げることを目的にしてだけでやられるトレーニングも、「原初生命体」の体操、野口体操ではないのです。わたしの細胞たちに話しかけます。「思い出しておくれ。今のわたしを構成している、すでに分化・特殊化してしまっている何十兆何百兆の細胞のひとつひとつよ。その全体のまとまりである、まるごと全体のわたしも、大きなたったひとつの原初生面体であることを。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・かめおかゆみこさんが、自分自身の夢を未来に託す仕事をされています。子供たちのミュージカルです。「それを生涯の仕事としたい。」と横浜に引っ越して行ってしまったかめおかさん。かめおかさんの熱意にいざなわれて応援しようではありませんか。きっと、自分の未来ともつながります。あさって、土曜日、幕を開けて、日曜日とたった二日間の舞台です。ぎりぎりですがまだ席は空いています。*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*2010横浜市青葉区小中高生ミュージカル「こどもの国物語2010~よみがえる歌声」http://plaza.rakuten.co.jp/aobamusical/*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*日時/2011年1月29日(土)18時、 30日(日)10時30分・14時30分会場/横浜市青葉公会堂(東急田園都市線市が尾)http://www.city.yokohama.lg.jp/aoba/00life/15local/koukaidou.html入場料/大人900円(当日999円)、子ども500円チケットご購入・お問い合わせ/ 横浜市青葉区小中高生ミュージカル事務局 携帯090-1703-5926 FAX/045-972-9444 メール/aobakumusical09@softbank.ne.jp-------------------------------------
Jan 25, 2011
コメント(0)
デイケアの始まる前、スタッフのチーフがメンバーからの伝言を持って来てくれました。「Mさんのこと憶えていらっしゃいますか?彼が、野口体操との出会い、先生との出会いを本当に喜んで感謝されています。『誰も自分を待っていてはくれないと自信をなくしていた自分に、調子が悪くてもそのままでいいから、待っているから、と言ってもらえれて、よく来れたわね、と喜んでもらえた。それがうれしかったし力になった。』と言っています。Mさんは、今のところ三時までの就労時間ですが、職場復帰が出来ています。『休みを取っても野口体操にだけは出て来るつもりだけれど、もしも来れない時は先生によろしく伝えてほしい。』と頼まれました。」体調が悪くて午前中だけで早退するメンバーを連れて挨拶に来てくれることもありました。チーフがそうやってわざわざメンバーからの伝言を話しに来てくれたり、挨拶するように誘ってメンバーに同伴して来るのは、メンバーと野口体操が治療関係になるように繋げてゆおうとするためです。チーフのメンバーひとりひとりに対する細やかな気づきは確かなもので、経験と学問が、さらにメンバーに対する眼を深くしています。それを聴くことができるのが、体操の時間の後にスタッフと「振り返り」の時間です。一ヶ月一回だけのからだの動きから見えてくるメンバーの課題・変化を、彼らと毎日接しているチーフの率いるスタッフとすり合わせをします。違う立場から互いに学び合いながら、野口体操を治療に繋げてゆこうとするためです。学びも多く、時間の経つのも忘れるくらいですが、「振り返り」の時間が充分機能しているのでしょうか。メンバーの力になる具体的な行動がそこから見つけ出されているのでしょうか。デイケアの仕事は、表に現れにくいメンバーのからだの表情から、少しの変化をも感じ取り、注意深く見つめ、時にはそのひとの内側に潜りこむ作業の継続です。「自分の裏(なか)に、ほんのちょっとの発想の芽生えを感じたとき、たとえそれがかすかなつまらないもののようであったとしても、そっと大事にとり上げて、育つのを待つことが何よりも大切なことである」(野口三千三)
Jan 24, 2011
コメント(0)
充実した緊張と、高揚した気持ちで今日の授業が始まりました。「地球上のすべての存在の究極のふるさとは地球の中心である」(野口三千三)の章を、今日で終えようとして始めた授業だからです。正確に言えば、このあと火曜日の教室でもう一度同じところをやります。しかし、芝居で言えば初日の感覚です。火曜日の教室はさらに検証が加わり深めてゆく楽しさがあるのですが、初日の緊張と高揚は初日ならではのものです。もう一つ、この第一章から野口三千三の特別な思いを感じるからです。大変分り易い文章で書かれた野口三千三ことばは、一般論として理解する人が多く、「わかる。そのとおり。共感します。」と上滑りしてゆきます。しかし、読み進むほどに読み終わったところの意味が新しく分り、深まってゆきます。それがまた、からだの動きを深めてゆくのです。上つらの理解ではまったく得られなかったからだの動きの変化なのです。「これって哲学ですよね。僕は今まで、哲学は本を読んだり講演を聴いてやってきました。からだの動きで学ぶ哲学は初めてです。」「私がずーっと追い求めてきた“自分とは何か"“このことの真理は何か" は、追い求めれば追いもめるほどコトバに頼って行かざるを得ませんでした。しかし、からだの動きでそれができる、そして、ことばが変る、・・・これは初めてです。」こんなコトバで言い表すひともいます。「身体のこまごましたことを気にしながらちょっとずつできる範囲を広げていく、という『身体で悩む力』というか、からだに掛ける本気さ。」「僕が体操をするのは、自分のことをするのです。」と言っているひともいます。二十年も前、明確に言い切ったのは、今年百歳になられる米津千之先生(国文学者)です。「野口体操はからだでやる哲学です。これは世界で初めてです。野口三千三はそれをやったひとです。」教室で交わされることばも変ってきました。「からだの内側が感じられるようになってきた。」「からだの内側に現実を感じるようになってきた。」「からだ中身の変化を感じられるようになってきた。」日曜日は来週から次の章に入ります。新しい実感が生まれ、自分自身が生まれ変わります。楽しみです。「ほんの一瞬前までは、自分が絶対正しいと確信していたことさえ、自分のからだの実感が納得しないときは、決然と否定し去る頼もしさ、この姿勢こそ真理を求めることにとって何より大切なことであろう」(野口三千三)
Jan 23, 2011
コメント(0)
目隠しをして、おたふくの面の絵に目鼻をつけてゆく「百面相」というお正月の遊びがあります。目隠しをしてやるのでどうしたって整った顔には仕上がらない。それでもどの顔も可愛いのは、それを見てげらげら笑っている皆が一番承知しています。お正月月間の楽しみとして、からだの百面相をやりました。まず「顔の百面相」で。無表情でほとんど変化の無い顔も、口も鼻の穴も目も眉もみーんな、かっぴろげてください。内臓を引きずりで出すようにベロを出して。じゃあ、今度は、すべての筋肉がみーんな左横に。今度は右横に。などと過激なことを言ったりやって見せたりしているうちにだんだん緩んできました。すぐに気がつくのは、力を入れていたのではどんな表情も自由にはならないことです。肩・首・胴体の力を抜いて、からだ全体にながれるように表情が変化してゆくとなると、なおさらです。こんなときこそスタッフのからだ動きを見てもらいます。恥ずかしい、みっともないが自分の思い込みに過ぎないことがわかります。だって、このひとの百面相も可愛らしい…。このひとの百面相も美しい…。と本当に思えるのですから。見る眼が変わると自分も変わる。誰も見ちゃいないのに恥ずかしがっていちゃ、もったいない、中途半端にみっともながっているのは、もっとみっともない。再びやるときはさっきとはまるで違う表情になっています。次に、四つん這いで「背中の百面相」です。四つん這いこそ、生命の起源であるところの胴体=原初生命体の感覚を味わえます。顔の百面相で出来たことを胴体に移すことは、そう難しいことではありません。そして、「腕立てはずみの動き」です。教室に溢れていた笑い声を、からだの中に起します。足の下から働きかけられた「重さ」が、笑いに変わって足の下から入ってきます。笑いの反作用です。細胞の一つひとつが笑います。周囲からも囃し立てられ盛り立てられて、細胞たちはご機嫌です。「わたし、無表情なんです。でも、足の下から笑いが入って来るのは分りました。何がなんだか分らなかった『腕立てはずみ』が初めて楽しかった。気持ちよく出来ました。楽しくて、楽しくて…。」朝とすっかり違った表情で語ってくれたCさん。ただ表情豊かになどできないきっと、からだの中身とCさんとの関係がかわったのでしょう。「『いま(今)』とは、このような気持ちを持って感じとる、時間や、もの・こととの関係をいうコトバであろう」(野口三千三)今日の主題を、「腕立てはずみ」というからだの動きで実感したCさんなのでした。
Jan 18, 2011
コメント(0)
お正月だから、ということで少しいつもと違う遊びも入れています。そこで今日は、「手2拍子・脚3拍子の動き」をやりました。しかも、6拍子まで行ったら、手と足の拍子が逆になります。つまり、「手2拍子・脚3拍子」から「手3拍子・脚2拍子」になります。この動きを「理不尽な動き」と言ったひとがいて、なるほど、と思いました。人のからだは有機的で、手が2拍子なら脚だって2拍子、脚が3拍子ならば手だって3拍子になるのが普通で当たり前というもの、何で手と脚の拍子を変えなくっちゃならねえんだ?こんなことができて何の意味があるってえんだ?という言い分です。けれども、野口先生はこの動きがとても好きだった。音楽大学を出たひとにも、右手は3拍子・左手は2拍子などの「理不尽な動き」を見事に叩くひとが実に多い。この動きにはどんな秘密があるのでしょうか。教室ではさらに、号令をかけるリーダーが、手と脚の拍子を自由に変え、他の皆も、その号令に合わせて手脚の拍子を変える、というのにも挑戦してみました。さらにさらに、号令をかけながら自由に手脚の拍子を変えるリーダー役もやったのでした。自分も動きながら、号令をかける。つまり、号令をかけながら自分で変えた拍子を自分でやり、皆を連れて行くのです。ここまできたらほとんど全員がコンガラガッテしまいました。号令をかけて皆を引き連れてゆくどころか、ただ号令に付いて行くほうだってお手上げ。それでも、男性が多い日曜クラスは全員が挑戦してわいわい騒いで大笑いでした。「ぜんぜん出来ないのに、すっごく楽しい。」何と言っても、これが一番。でも、それだけではありません。なぜ野口先生はこんな「理不尽な動き」をことあるごとにやろうとされたのか?からだが本当に繋がっていれば、「理不尽な動き」だって理不尽ではなくなり繋がります。繋がるには、力が抜けて解けていなくては繋がらないのです。意識ではどうにもこうにも処理しきれない「理不尽な動き」は、楽しみながらも、自分の意識人間ぶりをイヤと言うほど知らしめてくれたのでした。「人間のからだは、分析的・意識的に動かすようにはできていない」(野口三千三)
Jan 16, 2011
コメント(0)
新しい年が明けて最初の教室。「ワルツ」を踊りました。8日大阪、9日日曜教室、11日火曜教室と。追うごとに少しずつ時間が延びて、今日は25分踊り続けました。一つだけ約束をしました。止めてしまわないこと。20分前後の時間は、想像以上に長いのです。そのあいだ、さまざまな感情が湧いてきます。飽きたり疲れたりもする。実感するからだではいられなくなる。それでも勝手に動くからだ。三拍子のリズムを刻む伝え手の声が、遠くに聴こえたり近くに聴こえたり…。信じてからだに任せていると、また実感が戻ってくる。虚と実のあいだを行き来するような感覚の中で、「実感」の虚実を味わいます。「私にとって、私の裏(なか)での実感と読んでいるものを大切にすることだけが、ただ一つの生きる証(あかし)なのである」(野口三千三)「実感」こそまさに確かさの証として使われることばなのに、実感を実感したことがありません。、実感は何もないです。実感なんて考えたことがないです。、と言う若者がいます。それを言う弱弱しくか細い声が、聴く者に彼の虚しさを実感させてくれます。しかし、その彼が抱えている「違和感」は、彼の裏の「実感」がその「違和感」を嗅ぎ分けていることに気がついていないだけなのです。「実感」とは何ぞや。問われて、確実さの代表のようなこの「実感」ということばが、実に曖昧で不確かなものに感じられてきます。「実感」は、個人の孤独で個別な感覚だからです。そして、「実感」もまた変わり、磨かれてゆくことを経験しているからです。さっきまで美しかったものが醜いと感じられ、昨日まで大切だったものが意味を失う、「実感」の変遷です。「実感」の元になる「経験」もまた、孤独で個別なものです。三日間、場にからだを置いて、自らのワルツのリズムを刻む声を聴きながら踊り続けて「実感」したのは、ここで踊っている人たちとの「つながり」でした。
Jan 11, 2011
コメント(0)
いつも真っ先に来て暖房を入れて下さるHさんは今日も一番乗りです。もう止めてしまわれるかもしれない、考えないようにしていたSさんが晴れやかな顔を見せてくれました。正直に向き合ってきたことがちゃんと伝わっていたんだ、よかった…。待ち望んでいた彼女がやっぱり顔を見せない。ひょっとして、検査結果が悪かったのか…。「やっぱり年の初めでしょう」と約束どおり浜松から参じてくれたMさん。え? Tさんも今日は参加できるはずだったのに…。大阪の教室からもお客様がおいでです。Kさん。Nさん。Sさん。Oさん。あのひと、このひと。長年この教室を支えてくださった方達。スタッフ全員も揃いました。あ、ロンドンに留学している花崎摂がいないんだ…。こうやって数え上げたくなるのは新年だから?新年の教室は殊さらに一人ひとりの存在が気になります。一人ひとりの存在がこの教室を創っているのだと改めて認識されるのです。いい話ばかりではありません。あんなに熱心に参加されていた男性が突然顔を見せなくなって、あんなにことばを交わしたのに…、あの人に限って何で…、いや、あるいはご病気では…と心配のあまりスタッフが電話をしました。その返事は、「仕事上もいろいろあって、今後行かないでしょう。」でした。野口先生の頃から、不思議な、思い当たることのない退会をされることがありました。そのたんびに寂しい思いをされた野口先生と同じ寂しさをわたし達も味わっています。今日は新年の願いと祈りを籠めて「ワルツ」を踊りました。二日続けてワルツを踊った大阪のWさん。「大阪の教室ではワルツの時間がとても長く感じられたのに、それよりも長い時間だったのに短く感じられました。」ちなみに、Wさんの教室の感想は、「東京の教室はまさに野口体操教室なんだな~。」それは、「自分自身の内部の世界を信じることのできない者には、現実というものは存在しない」(野口三千三」のことばが、一人ひとりのからだの動きの違いとなって、Wさんに届いたからです。その人自身でさえも初めて出会うその人だけの内なる世界が、決して真似のできない動きとなって。
Jan 9, 2011
コメント(0)
年が明けて初めての大阪の教室です。あの顔この顔が集まりました。特別の嬉しさがあるのは、12月の大阪の教室は不調でお休みさせて頂いたからでした。12月。大久保 岳に「代行」を勤めました。突然の「代行」の依頼で、大久保は断りました。四時間の長丁場はやり切れないとも言いました。大久保に、自分のことだけをやってほしいと言いました。自分のやりたいこと、自分が大切だと思っていること、自分の課題、それだけをやってほしい。出来ないことは出来ないと言い、分らないことは分らないと言う。大切なのは、自分のからだの内側に起こっていることにどれだけ集中して「貞(き)く」ことができるか。そこをしないで一足飛びに自分から離れて外側に関心が向いて行きがちで、だから、「方法」とか「やり方」「効能」に向いてしまう。大阪の教室でもそれが充分に伝えられていないことが気になっている。自分からしか出発できないことを分ってもらうには大久保が誰より適任だ、と言いました。大久保が本当に自分のことに集中できれば、必ず皆さんの役に立てる、とも伝えました。自分のやりたいようにすればよい、あとの責任は私がとります、すべてを彼に託しました。大久保岳の「代行」はみなさんにどう受け止められたのか。その日のアンケートのまとめがあります。⇒ http://noguchitaisou2osaka.seesaa.net/article/177264372.htmlその後、さらなる感想も届きました。「大久保さんの教室では、身体のこまごましたことを気にしながらちょっとずつできる範囲を広げていく、という「身体で悩む力」というのか、大久保さんの体操にかける本気さに感動もしました。身体で悩むことを訓練してきていない私には、得てしてすぐに身体を動かしたくなります。とても今からじゃ遅すぎる私には、大久保さんの若さがうらやましかったです。私も歳をとったことを思い知らされたので、同じようにはできないことがはっきりわかりました。」(k) 「若くしてあのようなリードができるというのは、大変なことだと思います。彼の動き自体の評価は私はわかりませんが、普段から正しくアプローチしているのだなぁと感じました。大久保さんは、時に(動こうとモゾモゾしつつも)動かず、自分がどのように貞いているか吐露してくれたので、今後体操にどう取り組む方向性について感じるところがありました。」(M)「大久保さんの体操教室は、本当に感動すらしました。丁寧に、少しづつ、まっすぐとはこういう態度なんだと。やっぱり俺はぜんぜん出来てないな~~となぜか楽しく思えました。」(W)「こういう風にアプローチされているのだ、こんな丁寧さ、繊細な心持ちで取り組まれているのだということや、からだの可動範囲がせまくても、こんな感じでされてるのだ、などなど、おもしろく、過ごさせていただきました。」(K)「大久保さんの代行は私にとっては、新鮮な内容だと感じました。」(H)12月の大久保 岳の【主題】は 「貞(き)く」こと ぶら上がりでした。そして今日も、【主題】は 「貞(き)く」こと ぶら上がりとしました。この魅了ある主題で違う伝え手が、“核心”に向かってゆくのは興味深いことです。今日は、…深められる野口三千三の道程から学びました。「対話」から「貞(き)く」に。自然の神と人間の意識が対等であるかのような傲慢さから「自然の神にお任せをする」に。……野口の道程は手の届かないような高み(深み)にまで達しました。「私にとって、今まで体験したあらゆる練習法・思考法・発想法・・・・・・と全く違った世界があったのだ。『任せる』ということの本当のあり方は、これだな!! そんな気がするのである」(野口三千三)老いや熟練を初めて見るもの・聞くもの・触れるもののその時の驚きと、打ち震えるような新鮮な感覚が失われていくことだと言うひとが多いのですが、それよりも、「貞く」ことを諦め止めることこそが、老いや熟練の最大の敵といえましょう。2010年の終わりと2011年の初めに、「貞く」と「ぶら上げ」を主題にして核心に迫ることができたことは、ただひたすらにからだの動きに「問い」そして「聴く」ことをしてきたこの野口体操教室ならではの悦びでした。
Jan 8, 2011
コメント(0)
【Tさんの介護記録――この切なる願いは誰も叶えてあげることはできません】「もう介護記録とは言えません。夫の両親はすでに子供達、殊に私達夫婦の手から離れて、施設の専門家の手に委ねられているのですから。今日、義父母を預かってもらっている施設に行ってきました。専門家に預けたこと、これは義父母にとっても良かったのだと思いたい。そう思って、良いことを探しています。義父母にとっても良かったのだ…、当人達はどう感じているのか、本当にそうなのだろうか、それはわかりません。あくまで子供達の側から見ての“義父母にとっても”にすぎません。週二回の医師の健康診断があり、外からのリハビリも個別に“出来るだけ多く”依頼しています。義姉は必ず毎日施設を訪ねます。それ以外にも子供達の誰かは施設を訪ねます。決まって毎日訪ねてくる家族は他にはいないそうで、職員からは「〇〇さんは幸せねえ」と言われています。義父母は、生活のすべてを介護人にお任せです。もう専門家でなければここまで満足な介護はできないと思えます。しかしそれでも、これが義父母の望む暮らしの中身なのでしょうか…。自分の家で家族と一緒に暮らしたい、この切なる願いは誰も叶えてあげることはできません。では、お前が同じ状況になった時、お前はどうしてもらいたいのだと大真面目に考えます。まず、こんな施設に入れるのかどうかも分らない。よしんば入れたとしても、見舞ってくれる家族もいない。…結局、同じ状況になってはならない、という決意するしかありません。「自分で自分の始末ができる。」老いるということは、これが手にあまる望みになり、こんなことが叶えられないのが現実となってやってくるのです。施設に行く度に、考えさせられます。お爺さんお婆さんたちは(もっとずっと若い認知症のひともいますが)、顔を憶えているからなのか、誰に対してもそうなのか、私に微笑みかけてきます。施設の雰囲気がいいからなのだと思いたい。介護人がいいから、つまり介護人が優しいからだと思いたい。嚥下で苦しむ義父に、「ゆっくりでいいのよ」と笑って匙を口に運ぶ介護士のからだ、義父母を抱きかかえてベッドと車椅子の間を移動させている痩せた介護士のからだ、お願いいたします。優しくなければ出来ない仕事だと思い頭が下がります。しかし彼女たちもつぶやきます。まず、こんな施設に入れるのかどうかも分らない…。よしんば入れたとしても、見舞ってくれる家族もいない…。…結局、同じ状況になってはならない、という決意するしかありません。」老いた親の願いと子供たちの関係のジレンマは、社会を巻き込んだ深い課題です。老人たちがさみしい終わりを迎える方向に向かっていることは確かで、自己防衛を決意するしかイメージが持てないのもぞっとするさみしさです。ただ、自分ももうすぐ同じ状況になるとしても、“今”をそのための準備としてだけ生きるわけにはゆきません。その時、“今”を精一杯生きた結果としての"死“が明るみになります。"生"と"死"が同列に語られる所以でしょうか。「……このように『もっともっと』と『今を、今を』というコトバは、『今だ!!』という気持ちにおいて同じで、人間のものやことをこの上なく大事にする姿勢のことをいう、と私は考える」(野口三千三)
Jan 6, 2011
コメント(0)
落ち込んでいたからだを立ち上がらせるのには、精神のデイケアが一番です。正直で落ち着いた時間、からだとのゆったりとした対面、基礎だけのやさしい動き…、この病院のデイケアは、今日からでした。4日間のお正月休みでした。みんな待ち望んでやってきたのでした。最初に聴きました、お正月はどんなだったの?「普通に、いつもと変りなくすごしました。」肉親の家はすべて彼らにとって実家です。「実家で、お餅を頂きました。」わたしはね、からだの調子が悪くて休んでばかりいました。今日はみんなの力を借りて元気になりたいと来ました…よろしくお願いします。みんなの乗り出す気持ちが伝わってきます。その気持ちに助けられて、この間の不調を話します。毎晩咳き込んで眠れなくって…、寝汗をかきながら生まれてからこの方、一生分の恨みつらみを全部思い出しちゃった…、これでもかこれでもかって。終いには、別れた男も全部出て来ちゃって…。こちらの気持ちの動きをそのまま受けて食い入るように聴いてくれます。ところでね、落ち込むのもそんなに悪いことばかりじゃあ、ないのよ。と大きく息をしたら、みんなどっと笑いました。すっかり先取りされています。ここから、からだの話しになるんだな…。そう。こちらも笑って頷きながら彼らの予測どおりに話します。立ち直ってゆくからだ、信じてもいいからだ、本当に困ったときの一番の応援団は自分のからだなのだ、と。だから、普段からからだに力を貯めておくのだよ、と。何度も聴いては忘れしている話も、繰り返される度に奥に沁みこみます。からだの不調の数々は、彼らには思い当たることばかりです。その上長い付き合いで、一緒に年も取りました。社会復帰の強い願望が実現できないまま齢を重ねている彼らに、一緒に齢を重ねた伝え手の具体的なからだと、そのからだから発せられることばは現実感を与えているのかもしれません。さまざまな繊細な感情を控えめに、細やかに、けれども確かに表わす彼ら。この人たちと出来るだけ長い時間を共に生きたい。「からだとこころ、身体と精神、この問題は心身一元論といってみるだけで済ましてしまうわけにはいかない」(野口三千三)最後には12月の「ジングルベルのダンス」に向けて、輪になって歩きました。
Jan 4, 2011
コメント(0)
新しい年が明けました。三ヶ日が過ぎて、いよいよ明日から“仕事”開始です。暮れは、11日からただひたすら休んでいました。すっかり体調を崩してしまいました。正確に言うと、19日の日曜から、体操の仕事だけは再開したのですが、新しい風邪に見舞われたのか、それとも回復しきれないのか、その間も不安定でからだはすっかり鬱になってしまいました。どんなに不調の時も、体操の仕事で立つとアドレナリンが湧き出てきて回復できる、だから逆に気をつけなければ、…とここまで来たのですが、そうは行きませんでした。不眠・倦怠感の中で過ぎたさまざまを寝汗をかきながらこれでもかとほじくり返し、味わい尽くして2010年が終りました。そのおかげで、解けたこと、解かなくてもよいこと、どうでもよくなったこと、生涯をかけて抱えてゆくこと…が鮮やかになりました。これで2011年の一歩が踏み出せます。「その一人の人間がほんとうに興味を持つこと、魅力を感ずること、思いつくことには、自然の神の理法が働いているはずだと信じているからである。理屈で枠組みを考えた体系よりも、自然の流れそのものであると感ずるのである」(野口三千三)わたしのそれは本物なのか、繰り返しからだの神に貞(き)くことができたのでした。明日は、病院の仕事。8日(土)は、大阪の教室。9日(日)は、日曜教室。11日(火)は、火曜教室。から始動します。
Jan 3, 2011
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1