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三好京三先生の本を読んでいたら、かつて教員生活の舞台だった衣川村(現奥州市)の大森分校は平成10年に閉校したが、平成15年に文部科学省の廃校リニューアル50選に選ばれたそうだ。(『北上川神楽囃子』チクマ秀版社、2003年)岩手日報の記事も引用されていて、環境庁の事業を導入して平成3年5月にふるさと自然塾として蘇り、環境教育の拠点として活用されている、という。文部科学省サイトの廃校リニューアル50選によると、廃校施設利用に際し、その有効活用に積極的に取組んでいる事例を全国から選定したもの。東北関係では、4県から9事例が選ばれている。抜き出してみた(市町村名は当時)。県市町村施設名称用途旧学校名廃校年岩手県葛巻町森と風のがっこう自然エネルギー・自然体験活動等の研修施設小屋瀬小学校上外川分校平成8年岩手県衣川村ふるさと自然塾自然体験等交流施設衣川小学校大森分校平成10年宮城県志津川町さんさん館滞在型宿泊施設(地域農産物等活用型総合交流促進施設)林際小学校平成11年宮城県牡鹿町網小医院診療施設(入院・デイサービス有)網長小学校平成9年秋田県男鹿市加茂青砂ふるさと学習施設国登録有形文化財加茂青砂小学校平成13年秋田県西木村多世代交流施設山鳩館高齢者生きがいデイサービス・デイケア事業、保育事業、多世代交流事業上檜木内中学校平成11年秋田県平鹿町平鹿町屋内スポーツセンター全天候型スポーツ施設浅舞中学校平成9年山形県白鷹町滝野交流館集会施設滝野小学校平成10年山形県酒田市上田コミュニティ防災センター社会教育施設上田小学校平成9年
2009.11.29
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女子刑務所の定員過剰収容状態を受けて、我が国7番目の女子刑務所として2004年に誕生したのが福島刑務所(収容人数500)である。受刑者数が増加する中でも高齢者、外国人、そして女性は比率が増加し、女子刑務所はどこも定員2割増の過剰だった。以上は、加賀乙彦『悪魔のささやき』集英社新書0354C、2006年 に書いていた。女子刑務所はどこにあるのか。法務省サイトなどから「女子収容施設」を拾ってみた。○札幌刑務所札幌刑務支所○福島刑務所福島刑務支所○栃木刑務所(栃木市)○笠松刑務所(岐阜県)○和歌山刑務所○岩国刑務所○麓刑務所(鳥栖市)の7つのようである。平成23年版犯罪白書によると、次のようなことがわかる。------------刑事施設被収容者は平成19年から減少に転じ、平成22年末現在は7万2,975人(労役場留置者1,038人を含む。前年比3.0%減)。刑事施設の収容率(年末収容人員の収容定員に対する比率)は、平成5年から14年に大幅に上昇したが、平成17年から毎年低下し、平成22年末現在は収容定員9万182人(うち既決7万2,129人)に対し、収容率80.9%(既決90.0%,未決44.8%)。人員が定員を超える刑事施設(本所に限る)は77施設中13施設。なお、女子については収容率は平成19年以降おおむね横ばい。22年末現在で女子の収容定員5,464人(うち既決3,921人)に対し収容率97.8%(既決120.3%,未決40.5%)で、既決は収容定員を約2割上回る状態が続いている。刑事施設の職員一人当たりの被収容者負担率(刑事施設全体の一日平均収容人員を職員定員で除した数値)は、平成10年の3.04から18年には4.48まで上昇。平成22年も3.88と高水準。なお、女子施設(美祢社会復帰促進センターを除く)の同負担率は4.86で、より高水準である。------------女性の被収容者はまだまだオーバー状態のようだ。ところで、刑務所の増設に関して地元はどう受け止めているのか一応気になった。一昔前には刑事施設の誘致をする自治体すらあったのだが。福島県議会の検索システムでは、会議録に福島刑務所も同支所もヒットしなかった。福島市議会では、刑務所施設拡充に関連して、自立更生促進センター開所と地元への説明について、また、更生保護施設の移転が何度か話題に取り上げられているようだ。刑務所増設、女子刑務所建設の際には、地元として安全対策などを求める発言がある。また、メリットデメリットを問われた市の部長が、職員による税収増、被収容者の人口カウントによる交付税増などを答弁していた。
2012.04.30
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藤原氏が滅びた後に支配者となった鎌倉御家人などの推移をまとめる。(山本博文監修『あなたの知らない宮城県の歴史』洋泉社、2013年 などから)1 奥州合戦後(鎌倉前期)の体制・御家人2氏(奥州惣奉行と呼ばれる)が事実上の現地支配者に・諸国におかれた守護に近いが、陸奥には守護がおかれず、奥州惣奉行が事実上守護に相当・鎌倉時代を通して、多賀国府と平泉が奥州統治の拠点になった(1)葛西氏・葛西清重。関東八平氏・秩父氏の一族豊島氏の子。下総国葛西御厨を所領として葛西氏を名乗る・鎌倉をめざす頼朝の陣営に加わり、平氏追討や奥州合戦で軍功。幕府草創期の重臣・胆沢郡、牡鹿郡などの地頭職を得るとともに、陸奥奉行人として戦後処理にあたる・検非違使所(平泉)を指揮。御家人の統制、軍事警察権執行、農村復興など・伊沢氏(国衙)に対して、清重は奥州藤原氏の行政権を継承した・鎌倉末期には関東御代官として奥羽両国の年貢を中尊寺に進上(清重以来のもの)(2)伊沢氏、留守氏・伊沢左近将監家景。京下りの役人。文才を買われて御家人になった・幕府の陸奥統治の拠点は多賀国府。現地最高責任者である留守職に・家景以後も留守職は代々継承・(事例)淡路国から将軍に献上された九本足の馬を外ヶ浜に放つ(建久4年)・(同)津軽海辺に人のような大魚の死体が浮かんだことを幕府に報告(宝治2年)・家名も留守氏を名乗る2 所領を得た鎌倉御家人たち・奥州合戦と大河兼任の乱で藤原時代の土着の領主が没落・鎌倉御家人(治承・寿永の内乱で武功)が幕府の命で次々と奥州各地の地頭職に就任・宮城県内では 葛西清重(牡鹿郡) 伊沢家景(宮城郡高用名) 千葉常胤(亘理郡) 畠山重忠(長岡郡) 和田義盛(名取郡) 宇都宮朝綱(遠田郡) 熊谷直実(本良(もとよし)荘) 山内首藤経俊(桃生郡)など・ほとんどの御家人は自ら赴任せず、庶子や一族、家人(けにん)を代官(地頭代)として派遣・かれらが本家から独立して各地に土着していく・地頭の権益は大きく、年貢収納をはじめ、警察、裁判、自社造営役の催促など・(事例)正治2年長岡郡小林新熊社(大崎市)僧侶の境界争いで、地頭畠山重忠は藤原以来の由緒ある祈祷所の争論を専断できないとして幕府に採決を仰いだが、裏を返せば通常の訴訟は地頭の専断であって奥州の地頭の権力の強大さがわかる3 平安以来の土着の武士の多くは所領を失う・鎌倉以後も宮城県内に所領を持ったのは、陸奥介氏(八幡荘)、柴田氏(柴田郡)・柴田氏は鎌倉の召喚に応ぜず、正治2年追討を受け滅びる・陸奥介氏は鎌倉中期に下野国保田景家を祖とする八幡介(やわたのすけ)氏に代わられる(続く)
2016.12.23
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アイリスオーヤマがダイシンを買収との報道があった。2日午前は両者の記者会見があったようだ。河北新報記事の概要(当ジャーナル要約)である。------------アイリスオーヤマはダイシンの経営支援を続けていたが、救済依頼に応じて完全子会社化。既にグループ持ち株会社のオーヤマが、ダイシンの創業家とグループ企業が保有していた株式を全額取得。社名は変えず、店舗と従業員はそのまま引き継ぐ。買収額は不明。1日付で伊藤潔ダイシン社長が特別顧問に退き、後任にはアイリスから派遣された専務の村井幸一氏が昇格。アイリスは今後、生活用品製造・卸大手のノウハウを生かした売り場づくりを進め、販促では、アイリスがスポンサー契約を結ぶプロスポーツチームとの連携も検討。また、ホームセンター事業参入を機に、従来の郊外大型店から、中規模店のホームコンビニエンスも展開したい考えだ。アイリスは既に関東や宮城県で家具の専門店を出店し、小売事業に参入しているが、ホームセンターの業態は初参入。ダイシンは1975年、顧客第一、地域貢献を掲げて設立され現在、宮城県内に15店を構える。大手チェーンの相次ぐ出店に伴う競争激化で売り上げが減少、赤字決算が続いていた。その後も不動産投資による多額の借入金に加え、消費低迷などで経営が急速に悪化し、アイリスに救済を要請したとみられる。アイリスはホームセンター事業参入に伴い仙台市を中心に地域密着型店舗を展開する方針で、5年以内の経営再建を目指す。------------ダイシンのサイトによると(12月1日付けの情報)、次のようだ。------------私たちダイシンは1975年、「お客様第一」「地域貢献」を経営理念に掲げ、東北最初のDIYホームセンターを開設しました。当社は平成二十年十二月一日より、アイリスオーヤマグループの一員となり、新体制のもと新たなスタートを切ることになりました。創業以来三十三年の「ダイシンブランド」を受け継ぎ、「ホームコンビニエンスストア」として、お客様の要望に即した小回りと迅速性、住まいの不便を気軽に相談できる身近な店をモットーとして地域貢献に努めてまいります。------------ダイシンと言えば、私は昭和63年頃に、おそらく当時まだ新しかった泉店に何度か行ったことを思い出す。石巻に住んでいた頃は、市街地の航空写真が大きく載ったカレンダーをダイシンが景品につけていて、部屋でよく眺めたものだ。ちなみに、日本DIY協会の会員一覧(小売部門)を見てみた。カインズ、ケーヨー、コメリ、サンデー、ジョイ、トステムビバ、ホーマック、ロイヤルなど、馴染みの名前が並ぶ。もちろん、ダイシンも名を連ねている。今やDIY店舗も大手が随分参入して色とりどり。店舗にこだわるというよりは、どこでも品揃えはあるから、近所の便利なところに行くという人が大半だろう。20年前は、全国規模の店は思い当たらないが、地元系のDIY店が幾つかあった。もちろん、ダイシンは宮城県民に最もなじみのお店だったと思う。写真は、泉店で購入したドライバーセット。もう20年も使っている。一般に物持ちが良い私だが(つまりケチ)、このドライバー君は私と一緒にあちこち引っ越してきた。今は家の半地下倉庫が定位置だが、折に触れバリバリ活躍している。
2008.12.02
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昔サッポロビールのテレビCMで、「ミュンヘン・札幌・ミルウォーキー」と言いながら、映像では世界地図で横線(同緯度)で結んで見せる、というのがあった。子供ながらに、世界とのつながりを感じさせる面白い企画だと思った。世界は国と国の集合ではなくて、都市と都市の連結という視点もあるのだな、と。何と言っても、札幌は1972年の冬季五輪を立派にやった都市だ。笠谷、金野、青地の表彰台独占は日本人の自信回復になった。高度成長のただ中で、サッポロビールのCMやトワエモアの歌と一緒になって、あのころの札幌というと、清らかで伸びやかで誇らしい印象が残る。屯田兵以来の百年ちょっとの歴史ながら、勤勉に北海道開拓をすすめる歴史とともに、中心都市を立派に造った。五輪を契機に地下鉄整備とまちづくりを進展させ、いまや世界に堂々と誇れる都市だ。そういえば、前後は忘れたが、あの頃サッポロビールにはクラーク博士をモチーフにしたCMもあったと思う。開拓、雪、冬季五輪、都会、ジンギスカン。オイラ東北より奥なのにナマリがないというから、何とも不思議な地。子供の頃の札幌のイメージはそんな感じだった。なぜかそれを思い出したので、今日の企画は、同緯度の比較。例えば、仙台市と山形市。 ○仙台市役所 北緯38度15分53秒(ちなみに宮城県庁は38°15’57”だそうだ) ○山形市役所 北緯38度15分(市のHPより)何ともピッタリ。山形市役所の「秒」がわからないが、1分は2キロ弱だから、とにかく十分歩ける距離の「近さ」だ。秋田市と盛岡市もほぼ同緯度だ。これも歩ける「近さ」だろう。 ○秋田市役所 北緯39度43分02秒 ○盛岡市(気象台) 北緯39度41分07秒福島市は県の中では相当北に位置する。地図で推測すると、北緯37度45分くらい。ところで、新潟市は37度49分くらいで、むしろ福島市より北に位置する。米沢市のちょっと南という感じ。世界を見ると、仙台と同緯度は、サンフランシスコ、ワシントン、ソウル、アテネ、リスボン(宮城県の広報資料による)。寒いイメージのソウルと、地中海気候のアテネが同緯度とは今更ながら驚く。こう見ると、同緯度だとして、それ以上の意味はない。そのことがわかったので、この辺で終わります。
2006.06.29
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猪苗代湖には魚がほとんど棲んでいない。せいぜいウグイやフナ程度。エサとなる微生物やプランクトンがほとんどいないからである。理由は、湖に流入する最大の川である長瀬川の最上流が硫黄川。その源流付近にある中ノ沢と沼尻温泉がPH1.7の強酸性の源泉だからである。このため、湖水の平均PHは4.9の微酸性なのだ。東北では十和田湖もかつては魚の住めない湖だった。奥入瀬渓流の滝が、魚を寄せ付けないと聞いたことがある。ところで、魚のいない湖とは逆に、田畑や宅地を掘り進めると地下で魚に出会えるのが会津盆地だ。会津盆地は阿賀川やその支流に広がる盆地で、地下は川原と同じような地層になっており、大小の小石や石礫で構成され、冷たい地下水が大量に流れる状態になっているのだ。地上は現在は田畑や宅地だが、土地を掘り進めると深い地下には川のように流れる地下水があり、イトヨが生息しているという。イトヨはトゲウオ科の魚で背中に3本のトゲを持ち、水草などに巣を作る。地元ではトゲチョと呼ばれるそうだ。イトヨは阿賀川の堤防周辺にも生息しているがどうやらそのイトヨの中から、堤防の下方にもぐり込み田畑の地下を流れる川にまで入り込んだものがいたようだ。■参考 ロム・インターナショナル編『教科書にも載っていない 日本地図の楽しい読み方』河出書房新社、1997年■環境省ホームページ 喜多方市の湧水群、会津の名水
2013.03.16
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初原浄水場を過ぎ、県道9号(大和松島線)を交差してさらに進むと、大字初原の田園地帯を進む生活道路になり、車も通っている。(写真1)画像の右側は県道8号(仙台松島線)沿いの住宅。この画像のほぼ中央、わかりにくいが仙台松島道路の高架があり走るトラックが見える。(写真2)この先で田中川を渡ると、道の両側に住宅が建ち並ぶ地区に入る。進んでいくと住宅の玄関はみな道路側にあるので、1962年の山線廃線の跡に宅地化されたのだろうか、などと思い巡らしながら歩く。しばらく進むと、旧松島駅舎を活用した(現)松島町健康館デイサービスセンターがある。建物の正面と駐車場は県道8号側だが(写真3)、旧線側(写真4)にはかつてのホーム跡が残っている。(写真3)松島町健康館デイサービスセンター(写真4)その建物の裏手は、かつては松島駅ホームの名残り(ほかの方のブログなどから)。じつは、この健康館にお邪魔した。旧駅舎の跡や解説コーナーがないかと思ったのだが、ちょうど朝のデイサービスの集合時間だった。訳を話すと、たまにそういう人が見えるのですよ、時間によっては施設の中を案内できるので改めて連絡ください、とスタッフの方から話をいただいたが、まったく利用者の皆さんの感染予防が一番で、大事な時間に連絡もなく訪問する方が悪い。申し訳なく思ったが、御配慮に従い、体温測定と記帳を済ませ、館内には立ち入らず、入口すぐに掲示されたワープロ打ち2枚の説明書き(写真5)と関係記事が載った河北新報(現物、写真6)を読ませてもらった(感謝)。まず掲示の説明書きは次の通り(おだずま一部着色、また数字をアラビアに。なお、2か所の塩「竃」は原文ママ)。------------松島町の鉄道施設と概略明治16年7月 日本鉄道株式会社設立 東北地方の鉄道が順次開設 20年12月 塩竃線が開設 20~22年 松島村の鉄道施設が着工・完成 23年4月 東北本線 仙台~石越まで開通、松島駅が営業開始 11月 東北本線 仙台~一関間開通 39年9月 鉄道国有法が施行 全国の鉄道が国有鉄道になった 9月10日 根廻鉄橋が高城川開削によって架替工事着工 40年4月14日 根廻鉄橋が完成。工事費1万円(鉄道負担5千円、品井沼水害予防組合5千円負担) 41年10月3日 大正天皇根廻鉄橋上に1分間停車、明治潜穴工事を視察し激励大正13年2月 松島電車株式会社設立。旧松島駅から五大堂間営業(初原~松島海岸)昭和2年4月18日 宮城電気鉄道会社本塩竃~松島間開通。松島海岸公園駅が開業 3年11月23日 仙石線。仙台~石巻間開通 7年7月16日 東北本線 幡谷信号所として開所 12月26日 幡谷信号所が品井沼駅になり営業開始 13年2月 松島電車 初原~松島間の営業停止 19年 宮城電気鉄道が国有化され松島海岸駅に改称(仙石線) 東北本線(海線)が輸送力増強で複線化工事施工。(敗戦で工事中止) 28年9月 東北本線の複線化工事再開〔2枚目〕 29年 品井沼~小牛田間の吉田川・鳴瀬川橋梁工事開始 11月 東北本線 岩切駅から分岐し陸前山王~品井沼駅間開通(海線) 32年10月22日 東北本線 品井沼~鹿島台間の複線開通 37年 東北本線に愛宕駅新設、山線が廃止。山線の旧松島駅と町内の鉄道敷地が松島町に譲渡され町の基幹道路として整備された。 38年4月 旧松島駅舎に松島町国民健康保険診療所を開設 8月10日 品井沼~一関間の複線化完成 43年8月1日 東北本線の複線化・電化の全通化が青森で挙行 61年8月 阿部医師の逝去で診療所閉院 62年4月 国有鉄道が分割・民営化され現在のJRが発足平成2年6月 初原診療所の廃止(おだずま注:昭和38年4月の診療所開設では「初原」の語はない。) 5年6月10日 旧初原診療所が健康館になった〔1行空け〕平成23年3月11日 東日本大震災発生。鉄道施設も大津波で大被害、交通機関が寸断され東北本線・仙石線も地震直後に全面運休になった。 4月5日 東北本線 仙台~松島間運行再開 4月21日 東北本線 仙台~一関間運行再開 5月28日 仙石線 仙台~高城駅(おだずま注:原文ママ)間運行開始------------そして、河北新報夕刊(2021年9月6日)の現物が配架されている。------------いぎなり仙台まちかどブラ昭和健康館デイサービスセンター(宮城県松島町)東北線の旧駅舎内部を改装三角屋根 人集まる拠点〔写真 上 松島駅舎の面影を残す町健康館デイサービスセンター 下 施設の裏側にある線路跡の道路〕 宮城県松島町の初原地区にある町健康館デイサービスセンターは、JR東北線の旧松島駅舎だ。木造平屋で膨らみのある三角屋根が当時の姿をしのばせる。 かつて東北線の利府ー品井沼間は山側を抜けるルートだった。旧駅舎には商店や映画館、ホテルが立ち並んでいたという。 近くの会社員(おだずま注:氏名略)さん(78)は「列車に乗るのが小さな頃の楽しみだった。記者は急な坂を苦労して上って行った」と振り返る。 海沿いを走る現在のルートは、急勾配を避けて輸送力を増強するため194(昭和19)年に開業。山側ルートは62年、現在の松島駅の誕生を機に廃止された。 旧駅舎は町国民保険診療所などとして使われた後、町が内部を改装し、健康館とした。施設の裏にあった線路の跡地は道路として使われている。 運営管理者の(おだずま注:同上)さん(58)は「センター利用者は70~90代で駅舎を使っていた人も多い。年に何人かの鉄道ファンが写真を撮影しに来る」と話す。駅は廃止後もかつてのように人が集まる拠点となっている。(高橋公彦)メモ JR東北線の山側ルートは1890年に開業した。旧松島駅舎は明治初期ごろに建設されたとされる。松島町健康館デイサービスセンターは新型コロナウイルス感染拡大を受け、施設内部の見学を受け入れていない。松島町初原石清水1の1。------------(写真5)(写真6)松島第二小学校の公式サイトには、地域の自慢として、旧駅舎を活用した健康館の内部の様子が紹介されています(記事)。最後に今回の探訪マップです。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.02
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何気なく古い地図を眺めたとき、柏木三丁目に見つけた。市立女子高(定時制)とある。北八番丁通りの北、今では市民センターになっているようだ。古い地図と言ったが、昭和50年代後半で、大昔ではない。高校を出て仙台に来た時分に買った地図だ。中学や高校を仙台で過ごしていたら知っていたのだろうが、あるいは柏木の周辺に住んでいれば気づいたのだろう。しかし、当時にそんな高校があるという意識はなかった。市立女子高校は昭和58年(1983年)まで存在した。この年には五輪に仙台図南萩陵高等学校が、いずれも定時制高校だった仙台図南高(男子校)と仙台市立女子高を統合し、共学の定時制高校として開校した。この時、女子高の校章であった「萩」の字を校名に加えたのだそうだ。なお、今では、その図南萩陵高に代わり、平成24年に仙台大志高校が昼夜の定時制として開校している。
2014.03.18
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朝日新聞に、票の有効無効をめぐる過去の裁判所の主な判断が載っている記事があった。(5月9日、原晟也、野口駿の署名。デジタル版は11日)・(記載の内容)チョキ →有効(木村長吉候補は「チョキ」と呼ばれている)、1952、仙台高裁・○トミ →無効(通称がマルトメだとしても、文字による投票と言い難い)、1952、名古屋高裁金沢支部・ホンテン →有効(柴田四郎右衛門候補の家は酒屋で、「ほんてん」は、柴田本店の略称として使われている)、1978、最高裁・イシイマ →有効(石井若三郎候補を「イシイサマ」と記載しようとして「サ」が脱落したもの)、1956,東京高裁・サワダケイ →有効(沢田操候補に対して「沢田兄」の趣旨で書いた票で、「兄」は敬称)、1951、仙台高裁・石田親分 →有効(親分は一種の敬称であることに疑いない)、1954、東京高裁・カガヤアンコ →無効(アンコは敬称でなく若い男などを意味する蔑称で、他事記載とすべき)、1957、最高裁こうみると、本当に微妙だ。以上は、記事の中で表として解説されているものだが、記事の本文の中にも過去の実例がある。・1950年代、新潟県堀之内町議選、「カジ」が鍛冶業を営む候補者の通称として、裁判で認められた。(当ジャーナル補注)この件は、神栖市選管も有効とする理由として挙げていた)。・2005年鳴門市議選、「バンド ヒゲ」が有効に。坂東という前職がヒゲの写真やイラストを使用、また一部市民からヒゲさんと呼ばれていた。・2015年大竹市議選、「キタジタカシ」を市選管・県選管は北林隆候補の票として有効としたが、無効と判断。北地という別の候補と取り違えた可能性あるとした。誤記の場合は、他の候補者と解釈されうるかどうかが、判断の分かれ目のようだ。■関連する過去の記事 神栖市長選を考える(何度目か)(2026年05月01日) 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.11
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前から気になっていた。看板の英語が。Commercial High School としているけれど、「商業的な学校」「営業ベースに乗った学校」と受け取られるのではないのだろうか、と。例えば、商学部なら faculty of commerce 或いは faculty of commercial science とするのだろう。もし、commercial faculty と表現したら、利益ばっかり考えている堕落した教授たち、と受け取られるのでないか。ならば、commercial (high)school は大丈夫なのだろうか。「商業に関する(高等)学校」と素直に通じるなら良いが、商業的な学校、経営が軌道に乗った私立の学校、などと受け取られるのではないか、と勝手に心配していた。そこで辞書を見ると、商業高校を a commercial high school とするので、何の心配も要らないようだ。仙台商業の公式サイトでも Sendai Commercial High School を称しているし、念のため県内外の商業高校のサイトを見たが、同様だった。私の英語の知識のなさを論じることになったが、どうしてこの点が気になったかというと、1つのことが思い当たる。学生時代に英語の教材に関するアルバイトをしていた時に、「教育上の~」を英訳するに際して、educational ~ とするのは間違いだと指摘する解説があった。その意図は、educational は「教育的な」の語義に限定されるので、「教育に関する」の意味を表す場合には用いない、ということだったように思う。私自身は、そこまで厳密に考えなくて良いのではないかと感じていたのだが、この指導に従えば、例えば「教育に関する施設」なら、an educational institution はダメで、of education で説明するのが正しい、ということになる。前者だと、「教育的な指導をする機関」とでもなる、ということだろうか。educational について言えば、このような厳密な使い分けの心配は、多分無用なのではないか、と私は思う。いつかネイティブに確認してみたいが、英語学習における日本人ならではの厳密さが高じたのではないかと思っている。ただ、このように、「~に関する」の語義と「~的な」の語義とを英語表現でも使い分けるべきとすることが、トラウマのように私の頭の奥底に残っているようだ。だから、仙台商業高校についても、例えば Sendai Highschool of Commerce でなくて良いのか、と心配してしまった訳だ。ところで、仙商の正門には、画像のように Sendai municipal sendai commercial high schoolと銘板に記されている。正式名称が 仙台市立仙台商業高等学校 だから、忠実に表現したのだろう。しかし、Sendai Municipal Commercial High School で良いと思うのだが。どうだろうか。たしかに以前ならば、市立仙台女子商業が存在したので、単に「市立の商業高校」ではなく、固有名詞として「仙台市立の仙台商業」とすべきだったかも知れないが、現在は商業高校は1つだ。日本語に忠実たるべきことは大切と思うが、どんなものだろうか。
2009.04.30
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宮城の大地主と言えば、桃生郡前谷地村(現在は石巻市)の斎藤善右衛門家。酒田の本間家と並び立つ日本の大地主だ。現在では、ホテル仙台プラザ隣接の斎藤報恩会(自然史博物館)としても知られている。明治23年(1890年)に遠田郡小牛田町の会社の資産を買い受けて、一躍1120町歩の巨大地主になった。斎藤家の特徴は、旧来の人格的上下秩序に依拠する小作関係ではなく、近代的な対等の契約に基づく小作経営関係を先取りしていたことである。明治25年(1892年)の斎藤家の「地所管理心得書」には、家族的な親愛と尊敬の関係は昔の大名と百姓の関係と同視する時代遅れの考えであること、小作人の土地使用は権利だからその収穫は当然に小作人のものであり、小作に利益なければ地所を返付する自由もあること、などが記されている。逆に、小作人が契約を守らない場合には取り上げ、また争議化すれば裁判に訴えるのが、斎藤家のやり方だった。家族的関係や力関係ではなく、契約に依拠したのである。ところで、明治後期の凶作続きで小作人の夜逃げが続発した。しかし農民も逃げてばかりではない。小作騒動も頻発した。日本で最も小作騒動の多い県が、宮城県だったという。宮城県の特徴は、小作人同盟会という組織があったこと。小作人が合同で地主に対抗し、小作料引き下げを認めさせた。地主も地主会を組織して対抗したので、組織と組織の対抗となり、各地で争議が起きた。最大のものは、明治41年(1908年)の桃生牡鹿10カ村による「桃生牡鹿連合小作人同盟」闘争である。斎藤善右衛門の支配下にあったものだが、面白いのは、同盟会のリーダーとなった安倍(須江村)、菅原(鷹来村)、加賀(広渕村)などは小作人ではなく小地主で、村長や県会議員を経験し、小作人の窮状を理解して村民とともに村の発展に尽くそうとした特徴があったこと。小作層だけでなく村ぐるみで地主に対抗した運動だった。明治41年の2月に始まったこの闘争は、地主会と小作人同盟会の決裂を受けて、斎藤家が「現今の小作人は、言葉巧みに生活難を針小棒大に、新聞を利用して世の同情を求めるもの」と非難するなど、大事件に発展した。しかし、やがて地主側の統一がくずれはじめ、最後は斎藤家も小作の要求を認める。もっとも、小作人同盟会の組織は長続きしなかった。村の有力者を中心とした村ぐるみの運動という特徴は徐々に崩れ、村内部の対立も反映して、近代的な階級闘争に変わっていく。■参考 我孫子麟『宮城県の百年 県民百年史4』山川出版社、1999年
2007.01.25
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大物政治家を輩出できない宮城県だが、高橋是清を仙台藩が育てた史実は、意外と知られていないのではないだろうか。是清は維新を米国で迎えたが、渡米させたのも仙台藩である。幕末の混乱の最中にあって、多くの俊英を育てる度量を仙台藩は持っていた。高橋是清は生後すぐに仙台藩江戸詰の足軽高橋覚治の養子となる。子の無かった高橋家に大事に養育されたが、幼少の頃から大童信太夫の目にとまり、元治元年(1864年)13歳で横浜で英語を学んだ後、慶応3年(1867年)に外輪船コロラード号で渡米。このとき仙台藩は3人の少年を渡米させた。富田鉄之助、高木三郎と是清である。江戸詰の藩士子弟の教育係であった大童信太夫が、是清の恩人ということになるが、その信太夫は玉虫左太夫の門下である。左太夫は文政6年(1823年)下級武士の5男に生まれ、養賢堂に学び、江戸に出て林大学頭の塾に入門。万延元年(1860年)39歳で通商条約批准交換のために訪米する外国奉行新見豊前守の従者に選抜されて訪米。後に、養賢堂で教育にあたるが、もともと保守的な仙台藩に嫌気を抱いていた左太夫は、米国の議会制共和政治に強い関心を抱く一方、薩長の方策に対抗し藩の正使として会津を訪れるなど列藩同盟の立役者となり、議会制による北方政権を構想した。左太夫を育てたのは養賢堂の学頭大槻磐渓だ。磐渓は天皇を利用する薩長のやり方を批判し、民主国家に近い理念を語った。仙台藩は、先見の明を持ち、脈々と人材を育てていた。星亮一『東北謎とき散歩』(廣済堂出版、1998年)の「仙台藩が生んだ高橋是清」ほかの項を参考にさせて頂きました。
2009.10.17
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利府街道の小畑酒店の角から細い道に分け入る。東北本線「小鶴踏切」をわたり、小鶴城跡を探訪する。(関連記事 御立場町(2023年09月02日)、大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日)、比丘尼坂(2023年09月05日))上の地図の細長い屋舗公園の入口に、スーッと高く新しい感じの標識があった。振り仮名は「こづるじょう」だ。側面の文書を読む。(以下)この城跡は仙台市の東部、宮城野区新田に所在し、標高10m程の低い丘陵地に位置する。『仙台領古城書上』には、小鶴村の「小鶴城」として「東西60間、南北36間」とあり、また、小鶴村『風土記』には「古館」として「竪38間、横27間」との記録がある。城の本丸は、屋舗と呼ばれる低地より少し西寄りにあたる伝上山というやや高い丘の上にあったと言われている。また、丘陵を取り巻く形に幅5mに及ぶ水濠があったと言われており、その名残が本丸跡の西側や北側にみられる。平成13年に西端部で発掘調査が行われ、堀跡などが発見されている。贈 仙台東ロータリークラブ公園の南が小高い丘で、ここが本丸だったのだろう。公園から北を望むと、東北新幹線と東北本線。■岩切市民センター岩切歴史散歩の会「いわきりの息吹き」64ページ(御立場町から小鶴城跡へ)(あとがきに、平成3年3月1日編集者伊藤敏、とある。仙台市岩切市民センター図書室にて) 小鶴城跡と云うからさぞ木立があって遠くからでもわかる様な場所と思いながら歩いたが、それらしき物が見当たらず道端の小さな案内板を偶然見つけた。これがなかったら見過ごしてしまいそうだ。平地にポコンと盛り上がった饅頭のような小さな丘がそれであった。周囲はすっかり住宅に埋められて城らしき雰囲気はまるでなかったが頂上へ出ると平場があり作業小屋のような建物が一つあった。ここが本丸の跡とのこと。 この平場の北西側は杉林となっており、その中に小さな祠があった。熊野神社と云う。往古は水濠をめぐらせた平城で、高さ20m、東西200m、南北100mの規模で室町時代末期ごろ構築されたものと云う。 安永3年(1774)9月の風土記によれば、逸見丹波という人が館を構えたとある。昭和50年頃は水濠跡で蓮根の栽培が行われていたと云うから記憶されている方もあると思う。今その面影はない。 この城の南東側に小鶴池があった。今は埋められて資材置場や倉庫となっている。小鶴池の伝説は日本中どこにでもある伝説といわれており、昔の農村の形態を物語るものと思われる。 「小鶴池往古は當村沼新田の内桑木橋と申す所の東に在りしが明暦年中新田開発致し候」 古歌「千とせをはひなにてのみや過しけん小鶴の池と云いて久しき」藤原敏行朝臣 安永風土記より 小鶴城の北側を廻り帰路につく。ここは昔の水濠跡であろうか細長い公園になっている。名前は屋舗(やほ)公園だった。昔何があったのだろうと考えさせられる。 この小鶴城跡の地図を見ると古碑が二つあり、又、安永風土記を見ると経塚があることになっているが、どちらも見付けることができず残念だった。 経塚は風土記に「げっそう壇廻り9間、右は何年頃に御座候哉三浦げっそうと申人法華経壹部八巻埋候塚之由、即此処をげっそう壇又は経塚とも申来候事」と書いてある。廻り9間というからかなり大きい塚であったものと思われる。小高い丘の高い場所で、見上げた電柱の表示はこうだった。■小鶴ケ池(同上資料から) 朝日がよくさす丘の中腹に、大きな屋敷を構え、多くの田畑を持ち、大勢の人を使っている一人の長者がいた。たくさんの米を収穫し、その籾がらが小山のように積っているので、近所の人々はそれを糠塚と呼び、その屋敷を長者屋敷といっていた。この長者は欲が深く、人使いが荒く、世間からはおそれきらわれていた。此の家に、小鶴と云う女が働いていたが、或日主人に千刈の田を植えるようにと命じられ、自分の子供を背負いながら、夜明けと同時に田植えを始め、やっと千刈の田を植え終えたのは夕暮れであった。背中の子供に乳をやろうとおろしてみると、子供はすでに死んでいた。小鶴は悲しさの余り、ただ呆然として子供を抱いたまま、田圃道をあてもなく歩き廻り、一つの大きな池につきあたった。いつしか夜も更けて、空には明るく月が照り、池の水に小鶴のあわれな姿がうつり、その影を追うように小鶴は池の中に沈んで行った。 翌朝、近所の人々が池の水面に浮かんでいる小鶴親子の姿を見つけ、手厚く葬ってやり、この池を小鶴ヶ池、ここの部落を小鶴と呼ぶようになった。(岩切歴史ものがたり より)下の地図は、上記資料「いわきりの息吹き」の散策案内だ。■関連する過去の記事 --- 岩切・燕沢・東仙台を中心に(なお、ほかにもありますので、フリーページの記事リストご覧ください。) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2023.09.01
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7歳の娘。最近は朝ご飯に桜でんぶをのっけて食べるのが好きなようだ。今朝は、でんぶの袋をみつめながら、「賞味期限が切れてる」とつぶやく。なに、大丈夫だ、早く食え、とお父さん。「違うよ」と娘。よく見ると、袋の上の方にある「賞味期限」の欄が、袋を開けたときに切れて見えなくなっている。本当だ。かなり切れているぞ。
2007.11.30
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岩手県金ケ崎町は、町名を構成する「ケ」の文字について、小さい字で表示する場合も見られるが、1年余の調査を経て、改めて大きな「ケ」で統一すると発表した、という。9月28日の岩手日報記事だ。全国の自治体に聞いたら、14自治体中10は小さな「ヶ」を採用しているそうだ。この問題は、当ジャーナルでも調べたところだが、もともと、片仮名としての「ケ」の大文字小文字という議論ではないのだ。ただし、現在の実務上混乱はあるだろう。具体的に言えばワープロで文字を表現するときに、どちらでやるのか。いずれにしても統一してもう悩まない、ということなら、それで良かろう。■関連する過去の記事 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日)
2007.09.29
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仙台で越路(こえじ)といえば、今は市内から愛宕橋を渡ったところの町名ですが、元来は、そこから霊屋下に至る街道、つまり今でいう向山のバス通りを指したのだそうです。 昨夜、以前住んでいた宮城野区五輪のことを考えながら寝ましたら、今朝の夢で、向山のバス通りが浮かんで、昔を思い出していました。 越路は、古くは東街道と呼ばれた江戸と奥州を結ぶ街道筋として活用されたそうで、長町からこの向山バス通りを通って鹿落を経由して広瀬川を渡るというルートだったのだそうです。仙台開府の後に、清水小路などのルートが主流になったそうです。 また、八木山は八木久兵衛さんの山だったからですが、八木家の所有となる前は、八木山一帯は仙台藩士の共有財産で、「越路山」と呼ばれていたそうです。 あの辺一帯は、旧町名も「長町越路」ですね。昭和40年代の住居表示導入前に建てたと思われる家の表札に長町越路の住所を記した家を何軒か見かけました。 実は私、学生時代は向山三丁目に住んでいました。 その「越路」(向山バス通り)は、私の新聞配達ルートでもありました。 あの年の12月は例年になく寒い冬だったと記憶していますが、コートにくるまって電気コタツで寝て、朝4時に起きたら、向山高校下のアパートから、八木山入口の新聞販売店まで、暗い中、坂を走って下りるのです。K新聞のようにメジャーじゃない、M新聞なものですから、配達軒数の割には配達区域が広く、上は八木山香澄町の県警住宅から、下は霊屋・米ヶ袋まで、という具合です。6時過ぎに配達を一通り終えて、鹿落の坂をスパイクタイヤのバイクでグィーンと登ってくる頃には、東の空がほのかな紫に明けてきて、販売店から今度はトボトボ歩いてアパートへ。ゴソゴソと石油ストーブをつけて... 咳がなかなか抜けなくて辛い冬でした。1月2日(新聞休刊日)の朝はものすご~く安楽な気分に浸った記憶がある。 八木山入口の角のF酒店でよく酒やツマミを買い、また灯油も配達してもらいましたが、ある時、おばさんが「あんだもガンバらいよ」といって、梅干しの詰まった太いビンをくれました。朝起きたら、1粒口に入れて、しばらくは噛むのを我慢、坂を下ってちょうど酒店のあたり、販売店の直前で噛みつぶしたものでした。すっぱ~い。 ありがとう、おばさん。なぜか南高校の新任の先生だネと間違われていたけど。 酒や灯油代のツケも完済していたかな。ちょっと大げさかも知れないが、あの梅干しで頑張れたような気もする。 「越路」には本当にたくさんの思い出があります。(編集部注:今回も『忘れかけの街・仙台』(河北新報出版センター)を一部に参考にしました。)
2005.12.28
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前回記事(神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日))に続けて、改めて、茨城県選管の裁決についての報道を拾ってみる。・県選管は、市選管が有効票と認めた「まんじゅうや」「だんごさん」は、木内氏の通称として市内で広く使用されているとは認められないとした。また、欄外に「○」が付された石田氏の有効票も無効とした。(毎日新聞から。当ジャーナルで表現整理。以下同じ)・木内氏の親族が市内で営む和菓子製造会社「木内製菓」の存在を根拠に、市選管は有効としたとみられるが、通称として広く認められたものではないとした石田氏側の申立てが通った。県選管は、「だんご「まんじゅう」は木内製菓の商品として認知されているが、「だんごさん」「まんじゅうや」が通称として広く使用されているとは認められない、とした。(読売新聞)・神栖市選管が有効と認めた根拠の一つは、かつて新潟県で実施された選挙で、鍛冶業を営む候補者に「カジ」と書いた票が有効とされたこと。しかし県選管の裁決では、新潟の事例は人口が神栖市の1割程度の小さな自治体で、人口が大きくなるほど同業者が多数想定される、とする。(朝日新聞)ところで、茨城新聞の記事では市民の声として、・市選管が再点検したのに県選管で審査結果が変わることに驚く・これまでは(まんじゅうやで)認められていたのかも知れない・名前以外の記載が無効になることについて高齢者にもわかりやすく説明をなどが紹介されていた。市民側の率直な意見だろう。さて、肝心の茨城県選管の裁決は、神栖市のホームページに出ている(おそらくは概要資料で、裁決書本文ではない)。県選管がどのような判断をしたのか(他事記載の○に関する部分は除外)、以下に当ジャーナルで要点を整理する。・過去の判例等に基づき慎重に判断・公職選挙法68条の規定(どの候補を記載したか確認しがたいもの)に反しない限り、投票した選挙人の意思が明白であれば有効とすべき(法67条)・誤字脱字などがあっても、記された文字の全体的考察によってどの候補者に投票したかを判断しうる以上、有効として投票人の投票意思を尊重することが、代議制民主主義に合致(最判昭和25.7.6.)・候補者の氏名のほか、他事の記載は無効だが、職業、身分、住所、敬称のたぐいはこの限りでない(法68条)・他事記載とは、符号、暗号等、投票した選挙人の何人たるかを推知させる意識的記載であって、しかもそれが明白な場合を指す(仙台高判昭和63.6.30.)・「だんごさん」「まんじゅうや」について、市選管の主張は、木内氏を「まんじゅうや」と呼称する者がおり、一定の範囲の市民や市職員の一部からも日常的に呼称されている、また、「まんじゅうや」「おだんごさん」の記載は木内氏を示すものと考えられ、反対に石田候補を示す要素は全くない、とする。・しかし、「まんじゅうや」等の記載が石田氏を示す要素が全くなく木内氏を示す要素しかないとしても、そのことのみで木内氏の有効投票と認められるのではなく、その記載内容が木内氏の呼称として神栖市内いずれの地でも慣習的に使用されている状態にある限りにおいて、氏名に代わる通称として有効になるというべきところ、「だんご」「まんじゅう」が木内製菓の商品として市内で認知されたことは認められるが、「だんごさん」「まんじゅうや」が木内氏の通称として広く使用されていると認めるに足りる証拠はなく、無効と判断せざるを得ない。■関連する過去の記事 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.01
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以前の日記(仙台コンビニ今むかし)で、学生だった頃の仙台のコンビニについて書きましたが、偶然、当時のコンビニ事情を伝える非常に面白い資料を目にしました。宮城県商工労働部が昭和58年3月に出した調査報告書です。まず面白いのは、調査の趣旨の説明。大店出店規制を受けて流通王手がCVS(コンビニエンスストア)のチェーン展開に重点を置く一方、フランチャイズチェーンやボランタリーチェーンが真に消費者に受け入れられるか(コンビニエントなのか)を見定める必要もある、という趣旨です(ODAZUMA Journal要約)。当時は東北新幹線開業直後ということもあり、また、82年(昭和57年)は県内コンビニ店舗数が対前年で倍増以上(207%)と雨後のタケノコの時期であったことを反映して、中央資本と地元資本の動向、地元の小売経営者の意識、消費者の意識、など基礎データを全体的に把握しようという意図だったのだろうと思います。この後に到来する本格的な郊外型店舗立地も含めて、従来型の単立小売店と商店街を軒並み潰していく商業大変革の津波の、その第一波というところでしょうか。ライフスタイルの点でも、深夜や未明でもモノが買えるというのは、まさに画期的だったはず。いや~まさに、時代ですね。(中島みゆきの「時代」を聞いたのは小学校6年生だったかな...)以下に、調査報告書の要点をご紹介します(ODAZUMA Journal要約。なお、消費者や経営者の意識などの部分は除外)。データなのでちょっと長いですが...------------○ 83年春時点で県内に200店舗以上(何らかのチェーンを形成しているもの)。○ 内訳は(括弧内は資本)... サンチェーン(キャバレーハワイチェーン・ダイエー・ローソン)55店 サンクス(長崎屋)34店 コスモス(独立系)23店 パンプキン(オーケー(ダイエー系))16店 エイトテン(独立系)15店 マイショップ(独立系)9店 セブンイレブン(イトーヨーカ堂)21店 サンエブリー(山崎製パン)2店 YDS:ヤマザキデイリーストア(山崎製パン)42店○ 当時の全国チェーンで宮城県に参入していないのは、 ミニストップ(ジャスコ) ローソン(ダイエー) ファミリーマート(西友) サークルK(ユニー) Kマート セイコーマート コミュニティストア○ チェーンの形態別にみると、 フランチャイズ方式(FC)100%なのが、セブンイレブンとYDS。 逆にレギュラー(直営)チェーン(RC)100%が、サンチェーンとコスモス。 他はFCを基本に一部RCやVC(ヴォランタリーチェーン)を混合。------------さらに、調査報告書の中から興味深い点をいくつか。■ 店舗数ではサンチェーンが堂々第1位。仙台では、78年(昭和53年)のコンビニチェーン第1号を始めに、サンチェーンが出足が速かったようです。(78年は宮城県沖地震。私はまだ仙台におりませんでしたし、来るとも思っていなかったですが。)そのあとセブンイレブンの猛追を受け店舗数で一旦抜かれますが調査時点ではトップの座を回復。■ 82(昭和57)年には単月に約9店舗の新規開店という、物凄いペースでコンビニが拡大。この年には、セブンイレブンとサンエブリーの大手2チェーンが参入し、乱戦の幕開け! ちなみに向山高校の下に住んでいた私も向山2丁目のセブンイレブンによく行きました。■ 他方で、83(昭和58)年1月には既に仙台で2店が閉鎖しており、競争の激化の一端として注目される。(注:このコメントを書けた県の担当者はすばらしい。)■ 有名な石巻のエイトテン。15店舗全部が石巻市内。石巻では最大の店舗数を誇り、他にはサンチェーン6店、サンクス1店のみです。出足も比較的速く、70年代末には店舗網を構築したようですが、その後は店舗数も伸びず、結局大手に飲み込まれていくことになります。■ 仙台・宮城のコンビニ展開の特徴。札幌や福岡と比較して、地場のCVSが少ない。と、だいだいこんな感じ。とても興味深いですね。前の日記では確信を持てずにいた仙台の「コスモス」は、やっぱり実在した! この点は記憶が実証されたので安心。たしかこの直後に「ニコマート」(これも消滅したはず)に吸収されたように思います(この点はまだ曖昧)。それと、エイトテン。ネーミングだけで全国的に有名になりましたが、他に先駆けて地元展開したチェーンが数年であっさり大手に負けてしまったのは、一面で寂しいですね。独立系のコスモスとエイトテンが、その後東北各県に店舗展開する、なんてことにはならなかったです。まあ、それが仙台・宮城らしい、ということでしょうか。その点では、古川市に本社のあるリトルスターが注目されます。86(昭和61)年にCVSに進出、今では、岩手、山形、福島にも店舗を展開しているのだそうです。
2005.11.16
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福田町の名は、福室と田子の両地名から合成した地名です。 と知ったふりをして書きましたが、仙台での生活が通算20年の私、実はこのことを今日になって知りました。まだまだ不勉強。たしかに、大字で田子と福室はありますが、福田はないですね。それにしても古くにつけた名前なのでしょう、すっかり定着しているように思います。 では、市役所の行政サービスセンター(支所)名や小学校名になっている「高砂」という地名はどうでしょう。 明治期に宮城郡の蒲生村、福室村、岡田村、田子村、中野村の5村が合併して高砂村が誕生しています。おそらく縁起の良い名前を命名したのだと思います。仙台市史を確認していないので想像ですが。そして、昭和16年の合併で、中田村、岩切村、六郷村、七郷村などと一緒に仙台市に編入されたようです。 現在のサービスセンター(支所)は基本的に昭和16年合併時の旧村単位をエリアにしているので、その名も高砂支所(現在の高砂サービスセンター)となったと思われます。また、小学校や仙石線の駅名(陸前高砂駅)も、この高砂村に関係しているのでしょう。
2005.11.10
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鳴子町の鬼首(おにこうべ)中学校では12日(日)に閉校式が行なわれた。10日卒業したばかりの21人の生徒も出席したという。閉校は、生徒数の減少による措置で、新年度から町内にある鳴子・川渡の2つの中学校と統合。3校いずれも今年度いっぱいで59年の歴史に幕を閉じる。卒業生や地域の方にとって、気持は淋しいことでしょう。生徒数は、101人(鳴子中)、100人(川渡中)、50人(鬼首中。いずれも平成17年学校統計)だから、中学生のためには統合の方が良い。今月末には大崎市もスタート。地域にとっては新しい時代の始まりだ。実は編集長は鬼首の地域づくりを整理しようとしています。その契機は1月に久々にスキーに訪れたことです。久々のゲレンデにて気づいたこと。 ○リフトが2本くらい撤去されている。 ○テレキャビンは運行せず。鍋倉はリフトは休止、ゲレンデは使用せず。客層も、どこのスキー場もそうですが、軽いレジャー感覚の若者は絶えてなくなり、若者なら目的志向のボーダー中心、あとは、県内の家族連れ、単身シニアスキーヤー、というところです。以前にも夏や秋のイベントには結構家族で行っていた。また、吹上高原やその周辺もよく行きます(滝の温泉とか)。ダム主催のイベントで荒雄岳の奥の方の林に子どもたちと行ったことも。結構、鬼首には行っているのです(さらに47号沿いを含めれば鳴子にはもっと行っている)。私個人としても実は昔々学生時代にボランティアに行った思い出の地でもあります。でも、スキー場の現実をみて改めて気づかされた。オニコウベリゾートの経営主体も変化したのです(三菱地所の撤退)。それに今回の中学校閉校などと考え合わせると、時代の大きな変化を感じます。よく、行政(宮城県や鳴子町)が中央大手資本と結託してリゾート開発に浮かれ、結果として後に残ったのは環境破壊と過大な自治体の負担だ、などとする論調があります。たしかに、施策の検証は多角的に行われるべきで、また行政投資が妥当かどうか自治体の政策決定の是非は慎重であるべき。しかし、私は、鬼首の歴史をみるとき、そんな皮相的で通り一遍の大資本批判と権力批評だけでは、何にもならないと強く感じます。かえって地元のためにならない。地元は熱意を持って観光開発に向かって進んで来たのだ。考えるべきは、この地の良さと時代の変化(交通事情、在住の方の生活の変化、来訪者の観光志向の変化などなど)を謙虚に受け止めて、これからどう対応していくか。ODAZUMA Jorunal久々の(前にあった?)大型地域スタディ。少しづつ考えていますが、今回まずは鳴子の観光開発小史。大手資本の入る前まで。鳴子町史と下記各種資料からODAZUMA Journal要約。------------○ 昭和22年、県立公園玉造温泉郷(鳴子町、川渡村、鬼首村の全域)を県が指定。昭和37年には、山陰地方の同名地域と重複を避けて、鳴子温泉郷と改称。○ 昭和43年には、4県にまたがる栗駒国定公園が指定される(鳴子町分では鬼首地域)。○ 国定公園指定に伴い昭和43年栗駒観光開発株式会社が設立される。町、県、名鉄などが出資、山本壮一郎(当時副知事)が社長就任。第1次開発(~昭和45年)で吹上高原、潟沼を整備。第2次開発(昭和46年~)で、火山道路、カムロ高原などを開発。○ 鳴子ダムは昭和32年完成。昔から江合川は洪水による被害が多く、明治43年は鳴子地区に大被害。大正6年から江合川改修行うも、昭和22年カスリン台風、23年アイオン台風、24年キティ台風と続き、25年の豪雨で江合川沿いの町は大きな被害を受けた。そこで国は洪水に備えて江合川に堤防をつくると共に、発電・利水もできる多目的ダムの建設を決めた。○ ダム底に沈む鬼首の26戸は川渡に移転。水害が無くなるならと、あまり反対はなかったという。○ ダムによる人造湖の荒雄湖は、仙北新聞(鳴子町)の一般公募で命名。昭和32年。○ 日本こけし館 昭和50年8月完成。○ 鬼首地熱発電所 昭和50年3月完成。○ 鳴子熱帯植物園 昭和34年開園。有限会社鳴子植物園中山平農場による。○ 林業館 昭和44年完成。○ 宮城県農民の家 農民出資による日本初のレジャー・ヘルスセンターとして開設。○ 鳴子ゴルフ場 昭和40年7月地元有力者が株式会社鳴子ゴルフ場を設立、昭和41年完成。上野々の町有地を借用。○ スキー場は、(1)上野々が最も早い。(2)花渕山は昭和38年冬季国体スキー会場、後年も全国大会の会場に。(3)恒常的に12月末から使用できるスキー場を設置するべく、町が主体で昭和48年から着手。 ■参考 国土交通省鳴子ダム管理所のサイト ■ 特にその中で「水源地域ビジョン」 ■参考 (財)日本ダム協会の鳴子ダム情報------------町史を見ると、観光開発にかける地元の人たちの期待と熱意が伝わってきます。上記の鳴子町史(下巻)は昭和53年発行で、三菱地所による本格整備の前の時点ですが、カムロ(禿)高原開発が、後の三菱の参加により、リゾートパークオニコウベ開発となるようです。(以下続く。次回は大手資本の参加後の開発と今後の方向。ただし、いつになるか...)
2006.03.13
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27日(金)は、おだずまジャーナル編集局は業務閉鎖。ついでに編集長の収入源の副業(実は本業)も休んで、編集局の全員(一家のこと)で東北調査旅行(単なる家族旅行)です。今回は盛岡の繋温泉に宿をとりました。朝は盛岡南ICで降りました。志波城跡公園から南部片富士が快晴に映えます。田村麻呂はどんな思いで岩手山を眺めたのだろうか。さて、初めて訪れる、けんじワールド。10時の開始時間は少し遅れたが、結局6時過ぎまで滞在して、子供達は思う存分楽しんだようだ。プールには色とりどりのカッパ君たちがいて、楽しいイベントの案内などをしてくれる。遅いお昼を食べているとき、ステージではカッパ君達がお楽しみ抽選をやっている。リストバンドのロッカー番号でもって抽選するのだが、だいたいこういうのって当たらないよね、それにしてもステージの赤いカッパ君はお腹出ているね、などと娘たちと話していた。ところが、青いカッパ君がマイクで呼ぶ番号。何と私編集長のリストバンドの番号じゃないですか。思わず、両手を上げてステージに走る。腕を突き出して番号を見せて、例の赤カッパ君から景品をもらった。感激のあまり、赤カッパ君に握手を求めて、帰りには手まで振ってしまった。思わず、の行動で、なんとも小市民丸出し。席に戻ると、子供達が、なぜか醒めていた。いただいた景品。お風呂の入浴券です。午後もたっぷり楽しんだ、けんじワールド。あの赤カッパ君はバック宙飛び込みを見せるなど、実は敏捷な身のこなし。さらに、プールのアチコチに出没してみんなを楽しませていた。私も水をかけてやったら、メガホンでたっぷり返された。夜は繋温泉の宿。御所湖の向こうに岩手山。
2007.07.27
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東北大学の研究成果の産業化というと東洋刃物が思いつきますが、東北大学の研究成果の産業化の歴史を、以下に企業名で整理します。------------(1)東洋刃物株式会社○ 数々の特許を誇る世界一の工業用鉄鋼刃物メーカー○ トップページにある鉄と剪断技術についての文章は感動的で素晴らしい!○ 大正14年創立、国内3工場(多賀城、富谷、大阪)のほか、海外に営業拠点(ジャカルタ、香港、シンガポール、マレー)と関連会社(仁川、上海)を持つ。(2)NECトーキン株式会社○ 昭和13年、逓信省の勧奨で通信機器用金属材料国産化のため日本特殊金属株式会社設立、同年に東北大学金属材料研究所の増本博士の発明したセンダストの工業化のために設立された東北金属工業株式会社を吸収合併(東北金属工業株式会社)、1988年株式会社トーキンに変更、2002年にNEC・電子部品事業と統合、NECトーキン株式会社に社名変更。本店は仙台市太白区郡山六丁目。○ 宮城県民には昭和59年(1984年)11月テレホンカード生産の白石工場設立が懐かしい。○ 岩手県一関市、富山、栃木、兵庫などに関連会社(生産拠点)を持ち、営業網は全国展開。海外では、中国・フィリピン・ベトナム・タイなどに生産拠点をもち、営業拠点は欧米・アジアに広がっている。○ 第1回ものづくり日本大賞(2005年)受賞(3)通研電気工業株式会社○ 昭和21年東北帝大電気通信研究所の研究成果を活用したベンチャー企業として設立。昭和31年に東北電力の資本参加をうけ、電力設備運用自動化の遠隔監視制御装置をはじめ、情報伝送装置、ネットワークシステムなどの電子応用機器を開発・製造。○ 新潟を含む東北7県にネットワーク。(4)東北電子産業株式会社○ 昭和43年設立、電気計測機器、応用機器、医科用機器で世界唯一の技術を誇る。○ NEC在職中に発明60件の実績を残し特許の重要性を認識する佐伯社長が、大学と連携して研究開発に努めた。著名な発明であるケミルミネッセンス・アナライザは、東北大学電気通信研究所との産学共同研究の成果をベースに、東北大学農学部との共同研究の中で開発。○ 本社は太白区向山3丁目。利府町に工場。編集長も向山の本社二階で佐伯社長からお話を伺ったことがあります。(5)八木アンテナ株式会社○ 創業者は八木式アンテナ(八木・宇田アンテナ)の発明者である八木秀次博士。大正14(1925)年、長中波大陸間無線通信が脚光を集め、短波によるラジオ放送すらなかった当時、八木率いる東北大学電子工学科は夢物語だったマイクロ波に挑み、超短波の送受信方法を理論的に解明したが、国内学界から無視された。しかし八木の研究成果はニューヨーク高い評価を受け、先進各国では八木の指向性アンテナの原理を応用し着々とレーダーを開発。日本政府は重要性を理解できず、日本軍が占領した英国植民地シンガポールで最新のアンテナを見つけ、英兵が持っていた技術書(ニューマン・ノート)の中に"Yagi"という文字を見つけ、大変驚嘆したという逸話がある。○ 戦後、超短波利用テレビ放送の時代に八木アンテナに再び世界の脚光を集める。○ 昭和27年八木アンテナ株式会社発足、八木が初代社長。平成12年に国際電気(株)・日立電子(株)・八木アンテナ(株)が合併し、株式会社日立国際電気へ。平成16年10月分社により(新生)八木アンテナ株式会社発足。17年4月株式会社日立国際電気サービス八木システム本部を会社分割により八木アンテナ株式会社へ統合。(6)株式会社本山製作所○ 流体器機の専門メーカーですが、労働法ゼミだった私には労働争議の方が有名でした。○ 1924(大正13)年、本山重寿が本山商会を創設、冷暖房衛生工事設計に従事。東北大学金属材料研究所長本多光太郎博士の指導を受け金属ベローズ国産第1号を完成。その応用製品としてスチームトラップ、減圧弁等を商品化。1938(昭和13)年、北仙台に本社・工場を新設し、株式会社本山製作所と改組。○ 昭和60年東北大学の技術指導で半導体製造ガスプロセス用ウルトラクリーンバルブ(UCV)を開発。○ 現在本社は青葉区堤町一丁目、工場は大衡村。北京、上海にも営業拠点を持つ。また関連会社(株)モトヤマも全国展開。------------他にも、例えば東北特殊鋼株式会社(現在は村田町に本社を置き、長町の本社・工場跡地は西友のザ・モールとなった)は、東北大学の技術協力があるようです。詳しくは手が回りませんでしたが西澤潤一も言っているので、あるはず。以上、整理していても仙台・宮城の人間として誇らしく胸を張りたくなる。でも、同時にいつもながらの落胆も感じます。つい先週も、中部国際空港(セントレア)のパンフレットにで「中部圏にある企業」のページを見ますと、「中部にはメイドインジャパンを象徴する企業が数多くあります」なんて、言っている。トヨタ、ブラザー、ヤマハ、INAX、スズキ、セイコーエプソン(以上は本社所在)、三菱重工業、シャープ、三洋(以上は工場所在)、など、圧倒的です。例えば、仙台空港の振興を考えようと比較すると、背後の経済界の実力の違いに、いまさら仕方ないことと思いながらも愕然としてしまいます。中京地域の財界は、口ばかりでなく、ちゃんと金も出すでしょうし、実際に空港の経営までするのだから。比較するんじゃないぞ。はい、わかっちゃいるけど。はぁ~(ため息)宮城の産業は、仙台の商業特に卸売りにボリュームがあるものの、製造業は地場の食品関連などを除いて域内連関が薄く企業立地の波及効果も発揮しにくい。これは何十年も変わらない本県の特質だ。大学の研究成果や人材供給力が長所とされてきたが、立地企業も上滑りで地域産業に定着しない。そもそも経済界中軸がガードの堅い仙台商人たち。それでも、仙台市や県の地道な努力がジワジワと効果を発揮し、個別の領域で有力な経営者が輩出し出してきた感がある。ただ、どうもモノづくり分野ではやっぱり発展・集積は望めない。規模はともかく域内集積の厚みは山形、福島、岩手に負ける。東洋刃物のような企業があと100個あれば、と思うこともあるけれど、わが宮城県はうまい米と魚で「心豊かに」(はんだや参照)生きてきたのだ、それはそれで仕方がない。コメ本位経済だったことを誇りに思えばいい。東北大学や誘致企業が上滑り(域内経済循環につながらない)なのも当然。教科書的な産業発展モデルはあきらめて(追求する必要もない)、こうした個別分野をテコにして、都市の総合力(人材、大学、空港など)を活かして、できればコメ本位で生きてきたことを逆手に(つまり例えば「食材」です)、モノ作りか新手のサービス業か、何かわからないけどネットワークが形成されて、いつのまにか産業集積して経済が域内で活性化するという姿を目指すことになりましょう。経済資源の流動の射程距離は宮城県では狭すぎ、少なくとも近接県までは考えるべき。本県内にモノづくり集積がないことを嘆く必要はない。その時、やっぱり大学は重要な役割を果たすはずです。これまでの裸の集積が薄いだけに相対的にそうなるのですが、そういう消極的理由以上に、今後の強い武器として使えるからです。幸い、行政や大学も前向きですし、ベンチャーなどの支援体制も定着してきつつあるように思います。宮城の企業で世界に進出しているものの大半がこれら企業であることも(他には弘進ゴムとアイリスオーヤマか)、それを物語ると思います。東北大学の産学連携も、IT技術、学生ベンチャーなどを含めて、多様な展開が出て来ているようです。大学のみならず、せっかく東北の他の県都より抜きんでて成長した(それも実は他県のお陰なのですけど)大都市仙台の総合力を今こそ発揮の時。梅原市長も総合力とか伝統重視とか言う様ですが、仙台(市)という狭い料簡で伝統を論じない方が良い。田舎の雄藩のプライドに満足し安閑・無為と足引っ張りの閉鎖体質を重んじないでいただきたい。空間的には東北他県も視野に、経済主体の面ではヨソ者こそ大切にして、また気風の点でも進取や珍奇を賞賛して... 本当の政宗の気概はこうなのだろうと思うのだけど、その後が良くなかったか。(この辺は後日テーマを細分化して客観的に整理する用意あり。)ところで、これを書いている過程で、仙台市のHPの中に、起業教育・キャリア教育の教材として「仙台立志伝 仙台の起業家102人の履歴書」というのを見つけました。色んな分野の方がいて、面白いですね。自由闊達、多彩に、仙台の経済界、宮城の産業界の明日の天気図をカラッと塗り替えていただきたいです。
2006.01.31
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先日、河北新報に載っていて軽い衝撃を受けた。昨年末に開業の地下鉄東西線は、日本一の標高を誇る(?)八木山動物公園駅の手前で、竜の口(河北の表現)渓谷を橋で渡る際に一度外の空気を吸うのだが、この橋は「2階建て」で、下は地下鉄電車が走り、上には道路橋が整備されているのだ。工事費55億円の内訳は車道32億円、東西線23億円で、効率化のため一体化して架橋したとのこと。上下式の併用橋とは、知らなかった。記事が解説するのは、都市計画道路計画がたどっている経過だ。都市計画道路の川内旗立線は、川内亀岡町から、3つのトンネルと、この竜の口を渡る橋を経て、太白区ひより台、旗立に至る。しかし、仙台市では事業着手時期は未定とする。市中心部へのアクセス向上で期待された道路だが、東西線開通もあり地元の熱意は冷めつつある。その上、渓谷一帯はオオタカやハヤブサが生息するため自然保護団体の反対もある。八木山地区の地元では、現在はむしろ、青葉山と八木山を結ぶ散策路としての橋の活用を市に提案しているという。川内旗立線と聞くと、若い頃に見聞きした仙台の道路の環状と放射状にめぐらされたネットワークを想起する。南小泉川内線といっしょになって、国道4号や北環状線よりも内側の都心部をまわる道路だったと受け止めている。当時できていた「宮城の萩大通り」や、数年前に伸ばされた台原から安養寺・ガス局へ至る道路が、それを構成している。青葉山や八木山の方面では、川内旗立線が、昨年できた(かつて幻の橋とされた)ひより台大橋で格段に通行が向上したが、計画では、川内亀岡から動物公園までは工学部の下をトンネルで抜けることになっている。仙台市は2010年6月に、都市計画道路網の見直しによる「新たな幹線道路網(案)」を定めている。評価の結果として、継続候補と廃止候補に仕分けをしているものだが、市のサイトでマップと合わせて、具体的にどの路線が該当するのかが、その理由とともに示されているので、わかりやすい。この資料をもとに、当ジャーナルの主観による「主な」路線が、どう評価されてどう位置づけ(継続か廃止か)られているのか、拾ってみたい。【環状系の道路】● 川内旗立線 未整備の、工学部、ひより台-旗立の両区間とも、継続候補。幹線道路としての連続性が重視された。ただし、後者の区間は、旗立保存緑地と基準を超える縦断勾配が課題とされている。● 川内南小泉線 川内-国見の区間1.7kmは、八幡と川内駅のアクセス、国見地区の幹線道路の必要などから継続とされる。他方で、国見-台原の区間は、トンネル構造のため北仙台駅にも北山トンネルにもアクセスできないという理由で廃止候補とされている。しかし、これは計画の考え方自体を否定することになるから、おかしな理由だとも思う。旧国道4号の西側部分で、確かに反対運動もあったとは思うが、結局、「環状」線としての完成は断念したようだ。● 鶴ヶ谷国見線 旧4号の北根3丁目交差点から西に東勝山や桜ヶ丘の下(北四番町大衡線タッチ)までは完成、また北根交差点から東に南光台小学校あたりまでは整備済み。未整備の区間のうち、西の桜ヶ丘、中山区間は混雑緩和のため必要として継続、しかし更に西の中山-国見の区間は、国見駅との直接のアクセスにならないなどの理由で廃止とされた。東の未整備区間である鶴ヶ谷区間(4号バイパスまで)は継続。● 鶴ヶ谷仙台港線 上記の鶴ヶ谷国見線の鶴ヶ谷区間(未整備)と接続して、4号バイパスから宮城野大橋で七北田川を越え、国道45号を立体で越えて仙台港に至る。未整備区間は、45号バイパスからの利府街道までの岩切地区で、パークタウン流通工業団地と仙台港を結ぶ産業活動を支えるため継続としている。● 六丁の目鶴ヶ谷線 六丁の目から新田を経て鶴ヶ谷に至る道路。鶴ヶ谷団地の南側は整備済み。また、新田のあたりも整備されたが、未整備部分のうち、小鶴、燕沢などの区間は廃止、自由ヶ丘は混雑緩和に寄与のため継続との位置づけ。● 上杉山通東仙台線 北仙台駅から、台原、小松島、幸町を経由して東仙台駅までを東西に結ぶ。そのほとんどが、他の路線で交通需要に対応できるなどとされて廃止候補に。● 東仙台南小泉線 東仙台駅付近から南下する路線。新田や自衛隊の中を縦断する区間は、廃止とされた。【放射系の道路】● 仙台駅旭ヶ丘線 錦町から台原に北上して旭ヶ丘駅に至る。大半を占める台原中学校付近以南の未整備区間は、廃止候補に。● 定禅寺通上田子線 錦町から東に延びて、国道45号とJR東北本線に挟まれる形で並行する形で、新田、田子大橋に至るもの。新田までの区間はすべて廃止とされた。● 向山富田線 緑が丘、西の平、西多賀を経由して富田に至る。八木山団地群を南北に縦断するものだが、構造やコストなどを理由に、すべて廃止候補としている。なお、この仙台市の資料には、優先度の高い路線・区間として、今後20年以内の着手を予定するものもリストアップされている。● 郡山折立線(環状) 未着手区間を挙げている。中でも最長の青葉山区間3.5kmは、八木山南地区から一気に仙台宮城IC南側に出る路線。● 川内南小泉線(渋滞解消) ガス局交差点から、坂下交差点を経て銀杏町まで。救急機関、産業活動などを理由に継続とされているところ。● 宮沢根白石線(環状、放射状) 国道45号から中江、小松島を経由して、南光台まで北上する区間。約4.5kmくらい。骨格的な幹線とされている。● 原町広岡線(概成済み、区画整理関連)● 向山常盤丁線(概成済み) 市民会館から大学病院前までの区間。
2016.06.26
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前回に続いて、利府線の跡の探訪記。旧線ルートは森郷児童遊園を抜けて小川の橋梁を渡り、生活道路となっていて北東に伸びていく。両側にはまばらに住宅があり、猫たちが朝の日光浴。しばらく進んでいくと、ルートはそのまま町道をクロスする。(写真1)利府方から松島方(北東方向)を望む町道を横断したその先も明確にルート跡はわかるのだが、進んでいくと、三陸道(仙台松島道路)の利府中ICのために、ルートは消失する。探訪者は、三陸道高架をくぐって、ICを回り込むように歩いていかねばならない。写真2にみえる高架道路の奥(反対側)に利府中ICがある。(写真2)利府方から松島方(北東方向)を望む利府中ICを過ぎて進むと、旧路盤跡の築堤された道が現れてくる。(写真3)仙台松島道路の西側道から北方向を向いて撮影。右手が仙台松島道路で奥は石巻方面。画の中央から左に向かって築堤の道がみえる。カッコウの声を聞きながら気持ちよく道を歩いていくと、左右の田畑がだんだん低くなっていく。鉄道建設の際に高低差を避けるための築堤だったのだろう。たまに車が通ってきた。(写真4)そして、少し進んだところで築堤の下に降りてみると、レンガ造りの隧道があり、集落利用の道が潜り抜ける。写真5の右の方向に、舗装道路は堤の上に駆け上がっていく。(写真5)築堤(旧線路)を降りた西側から撮ったもの(画の右が利府方、左が松島方)。(写真6)築堤の東側から。この隧道は、人や車が通れるが、その下が河道になっている二重構造のようだ。写真7の標柱で、藤田川の上端を示すらしいが、偶然にも同様の標柱が利府線跡ルートの橋脚跡(今回シリーズその2で写真があります)の脇にもあった。あちらの場合は、藤田川が橋の架かる勿来川に合流しており、藤田川の下端を示すものだろう。(写真7)下の画が、今回の探訪のマップと写真撮影ポイントです。なお、撮影ポイントは、赤矢印の先端が撮影した地点であり、撮影の方向を示すものではありません。撮影方角は文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日) 利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.11
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東北本線の旧線(山線、利府-品井沼)の跡を訪ねる編集長の散策。利府町の赤沼信号場跡(松島海岸IC付近)まで記しました。続編として、同IC以北を順次記していきます。なお、タイトルを「利府線」から「東北本線旧線」といたしました。順序はこれまで同様、利府方から松島(品井沼)方に向けて進んでいきます。旧線ルートは松島海岸IC西側にあるが、正確な位置は、高速道やインター進入路で新たに側道となっている部分もあると思われる。(写真1、2、3)(写真1)旧線ルート(付け替えた可能性あり)は県道144号(赤沼松島線、松島海岸に降りる道)を横切って仙台松島道路(三陸道)の西側堤下を進む。(写真2)この先で県道8号(仙台松島線、利府街道)をくぐる。昔は踏切だったのだろうか。細い道だがセンターラインの痕跡があるのは、自転車道として位置付けていたからか。(写真3)道路と水路を一体として通すカルバート橋。珍しいと思う。カルバート橋のちょっと先、路傍左手の川の堰に、なにやら標識が建っている。(写真4)上流端 高城川水系 二級河川 田中川 と書いているようだ。旧線ルートはこの先愛宕まで、この田中川と付き合いながら進んでいくのだ。さて、この先は長い区間にわたり、県道8号(利府街道)の西側を並行して松島町初原へ伸びていく。利府街道を車で走っていてもよくわかるお馴染みの道(写真5、6、7)。(写真5)ハッキリと残る旧道ルート。画像の奥の高架は仙台松島道路。(写真6)ゴルフ場入口の標識は利府街道の車中から認識できるランドマーク。(写真7)旧線ルートの長くて気持ち良い里の小径も、この先で一度途切れる。左(西)から迫ってくる仙台松島道路(三陸道)の堤で消されているのだ。旧線の本来のルートはいったん仙台松島道路(三陸道)で消されるので県道仙台松島線(利府街道)を歩かねばならないが、ほどなくして小径は復活し、細い道となって初原浄水場の西を回るように進む(写真8、9、10、11)。私(編集長)は単に小径を歩いて想像するだけなのだが、詳しい方のブログなどでは、渡河する際の橋台跡や銘板から鉄道橋の跡であることを確認されている。写真11撮影地点付近で田中川を渡る橋もそうだ。(写真8)仙台松島道路(画像の左)が県道仙台松島線(右)に迫った区間が過ぎると旧線ルートと思われる道が復活する。車はブロックされている。(写真9)こんな感じで道が続く。画像の右側奥(北)に浄水場施設。(写真10)この画像だけは振り返って撮影(品井沼方の進行方向に対して右後方。東の方角)。初原浄水場。小高い場所(画像の奥、県道仙台松島線に近い方)には、お馴染みの鉄さびた給水塔。(写真11)浄水場を過ぎると、右手(東)に田中川が流れる。この先で宮城県道9号(大和松島線)と交差する。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・今回 東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(松島町桜渡戸、初原あたり) 松島町の隠れた名所散策(07年4月5日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.06.01
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1票差だった那須町長選挙(3月22日投開票)をめぐる投票用紙の再点検が今日(4月5日)午前から、町の体育館で行われたという。考えられる結果とその後の可能性について、朝日新聞の報道が良く整理されているので、以下に掲げてみる(表現等は、おだずま再整理)。パターン(1) 当落結果は不変→ (可能性。以下同じ)次点者が県選管に審査を申し立てパターン(2) 当落が逆転→ 現町長が県選管に審査を申し立て。訴訟に発展も。その間、町長の職にとどまるパターン(3) 得票同数=くじ引きで決定→ いずれも県選管に審査を申し立て更に朝日の記事には次のような解説がある。2017年葛飾区議選、2023年小山市議選では、票の再点検の結果、最下位当選者が1票差の次点者の票を下回ることになり、最高裁まで争ったが、当初最下位当選とされた者の当選の無効(次点の落選者が当選者となること)は覆らなかった。さて、午後の報道だ。再点検の結果は、次点だった小山田氏の票が2票減り、町長の平山氏との差は3票に広がった。当落結果は変わらない(上記のパターン1)が、小山田氏は県選管に審査を申し立てる構えだという。■関連する過去の記事 またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.05
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日経新聞(東北版)の記事(11日)に、東北各県の大学進学率ランキングを掲げて、最高(46.7%)の山形県は「大正時代から長野や福岡とともに「教育3県」に数えられた教育熱心な地域だ」と評されている。知らなかった。東北人として恥ずかしい。山形県の教育といえば、給食や作文指導や、人づくりに力を入れている印象は確かにあるが。とにかく、ビッグスリーとは、東北の誇り。調べてみました。平成20年8月28日に第52回山形県市町村教育委員大会知事祝辞というのがあって(山形県公式サイト内から)、知事が、「昔から教育3県の1つ、理念の長野、施設の福岡、そして実践の山形と言われてきたわけでございますが...」と発言しているようだ。理念の長野施設の福岡そして、実践の山形ですか。
2010.03.11
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河北新報2023年4月3日(ワイド東北)で、東北大学災害科学国際研究所の川内淳史准教授(東北近現代史)に聞いたという記事。東北の侮蔑後とされた「白河以北一山百文」は、最近の研究によって意味合いが時代によって少しづつ変化してきた過程が明らかになってきたという。概要は以下だ。(記事の文中には、川内氏の見解(持論)などと随所に断りがあるが、以下では省いた。なお、記事の署名はコンテンツセンター小沢一成さん。)1.近事評論の寓話文献に初めて登場したのは、雑誌「近事評論」の明治11年(1878)8月23日第148号。福沢諭吉の門弟だった旧熊本藩士で自由民権運動に共鳴した林正明が書いたとされる。記事は、西南(薩長)の地図の上に並べた人形は飛ぶように売れるのに、白河以北に並べた人形は誰も顧みようとしないという寓話。時代が変われば売れるようになると慰められた人形売りが泣き止み、白河以北一山百文と叫んだという内容。。2年後の同誌第277号は、東北人士を人形になぞらえ、薩長藩閥政府の下で西南優位の状況を覆絵層としない無気力を批判し奮起を促す狙いだったと記述している。2.天恵薄き地意味合いが変わったのは20世紀に入った頃。明治三陸大津波(1896年)や大飢饉(1905年)などで、東北=「天恵薄き地」という認識が広まった。これを理由に東北振興の機運が高まっていく。東北人を発奮させるためだった「白河以北一山百文」が、天恵薄き地の認識が広まる中で、東北全体を指す言葉に意味がずれていった。3.薩長発信との認識昭和に入ると薩長新政府が東北に投げかけた「罵倒語」との認識が登場し始める。1930年出版の「総合ヂャーナリズム講座Ⅲ」に、「一山百文とは明治維新の変革に政権を握った薩長が、東北を侮蔑した呼称で(中略)あざける意味が含まれていた」との記事。昭和三陸津波(1933年)や昭和東北大凶作(1930-34年)に見舞われ、さらに戦時体制の強まる中で、同じ日本にも関わらず差別的扱いを受けたとして国家を造った薩長に不満が向けられて、「白河以北一山百文」に結びついたのではないか。4.司馬遼太郎の推理と影響一方で、戊辰戦争で薩長の司令官が攻め込んだ際に「白河以北一山百文」と言ったという俗説がある。司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」が一番古い記述とみられる。1972年の連載を収録した「街道をゆく三」の冒頭部分に「『白河以北、一山百文』といったのは、戊辰戦争を戦って会津城を攻め落とした長州軍の士官の一人であったであろう」とある。司馬一流の推理とみられるが、意味がずれていく中で生まれたものと推量される。司馬の影響で、以降こうした認識が広まった。■関連する過去の記事 中央からの視点だった東北開発(2023年04月02日) 東北という呼称の初現 ー 「東北」の形成(2023年03月26日) 明治政府の焼き付けた東北後進論(2013年8月19日) 「二束三文」と東北(2012年8月11日) 「白河以北一山百文」の由来と河北新報(07年8月7日)
2023.04.04
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随分と小さい頃のことだが、祖父に連れられて東京から帰る途中、宮城県内松島あたりの仙石線で電車脱線事故があり、併走する東北本線列車の窓からその現場を目にした記憶がある。水色の電車が大きく線路から逸脱して、回りには救出のためなのか人が多数集まっている、天気は良くて、背景は海、というような構図で覚えている。ただ、私が実際に目にしたのか、それとも帰宅してからニュースで事故を知り、その映像が頭に残って自分が直接見たものと誤信してしまったのか、よくわからない。電車の水色についても、後になってから記憶の中で仙石線の定番のカラーに置き換えられたのかも知れない。いずれにしても、子どもながらに衝撃だったことは間違いない。あれは、どんな事故だったのだろうか。『仙台鉄道管理局60年史』(昭和54年5月1日)で見ると、昭和47年の項に出ていた。------------8月18日、仙石線東塩釜-陸前浜田間の新田踏切(第3種)で警報無視のダンプカーが下り電車と衝突、電車の前2両が脱線、うち1両は線路わきの沼に転落、電車運転手殉職、ダンプ運転士死亡、乗客65名が負傷するという重大踏切事故が発生した。------------写真が添えられている。1両目と2両目なのだろうが、2両の連結部が大きくレール上に「人」の字のように浮き上がり、おそらく一両目は頭を沼に突っ込んでいるのだろう。白黒なので車体の色はわからない。東塩釜駅と陸前浜田駅の間という。新田踏切とは、どこか。住宅地図を見る。浜田駅のすぐ南に踏切があるが、ダンプは通らないと思う。塩竈市との境界付近にも小さい踏切があるようだ。塩竈市域に入ると(越の浦一丁目)、やや大きな道路が仙石線と交わるようだ。もっとも、昔のことなので道路も付け変わったかも知れない。■関連する過去の記事 浜田駅付近の立体交差(10年9月28日)
2011.09.08
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年末だったと思うが、石川太郎さんのラジオの中で聞いたこと。リスナーの方の母はその昔、(今の)名取市から仙台市の山田に嫁に来た。さほど離れてはいないから習慣の違いなどはなかったはずだが、家の畳を普段は壁に立てかけて(つまり床は床板のままで)生活していたことに戸惑った、とかいう話だったように思う。時代を感じさせる深い話だと思ったが、もう一つ、そのご母堂は名取川を渡しで越えてきたということが印象的だった。太郎さんが、栗木橋もなかったのね、とか相槌をいれたように記憶しているが、本当に太郎さんは仙台をよく知っている。ところで、今では随所に立派な橋がかかって、車でスイスイ走っているが、戦後もしばらくは彼方此方で渡船がみられたはず。通学や買い物など、日常の足だった。名取川なのだが、七北田川や広瀬川に比べて、橋が少ないような気もしていた。下流から見ると(鉄道橋や水管橋をのぞく)、(1)県道塩釜亘理線の閖上大橋、(2)仙台東部道路の新名取川橋、(3)国道4号バイパスの名取大橋、(4)国道4号旧道の名取橋、(5)県道仙台館腰線の太白大橋、(6)仙台南部道路、(7)国道286号の名取1号橋、(8)栗木橋、(9)国道286名取2号橋、(10)県道仙台村田線の生出橋、などと続く。その後は赤石地区や秋保になる。これらのうち、かの昔日のお嫁さんが渡った頃と思われる昭和前期を想定すると、奥州街道のメインである(4)ぐらいしかなかったのではないか。木村孝文『太白の散歩手帖』(宝文堂、2001年)に記されている内容から、名取川の渡しに関するものを拾ってみた。------------(要約)中田宿を通る奥州街道は江戸時代に通じたもので、それ以前は、東街道が重要な交通路であった。高館から名取川をわたる地点によって2つの道があるという。一つは、栗木渡しから鈎取に入る。西多賀から茂ヶ崎山の麓を南から北に回り越路から鹿落坂を下り、広瀬川を渡り、米ヶ袋、田町を通って宮城野、多賀城へ通じたという。「仙台鹿の子」はじめ郷土史書はほとんどこの道が記される。(なお、奥州街道の広瀬川の渡りは、はじめ宮沢渡しで舟丁に連絡する道を通っていたが、慶長17年、長町渡しで渡ることとされ、さらに、寛文8年(1668)には長町渡しに橋が架設され、長(永)町橋と名付けられた。今の広瀬橋のやや上流にあり、渡ってから鈎の手に折れて長町の通りに出た。初めて橋を架けるとき通りかかった巡礼の女を人柱にしたといい、橋姫供養碑が建っている。木橋は、明治22年9月の洪水で流失したとき、鉄橋架設の庵のあったが、当時外国から伝わったばかりの鉄筋コンクリート造にし、明治42年11月竣工、広瀬橋とした。)栗木渡しから鈎取、鹿落坂、田町を経由するコースは回り道過ぎる。東街道の別コースは、高館から柳生を通り、上河原の相の瀬渡しで名取川を渡り、大野田の宿在家・王の壇を通り、広瀬川は宮沢渡しか、永町橋(広瀬橋)下流の瀬(俗称ネギ洗い瀬)を渡って宮城野に向かう道である。高館と陸奥国分寺を直線で結ぶと、相の瀬渡しが線上の最短コースになる。東街道の主幹道路だったと思われる。相の瀬渡しを渡ると大野田の宿在家である。宿在家には、荷屋(にや)という屋号を持つ郷内家がある。宿在家の地名とともに、東街道筋を証するものとして注目すべきだ(関根一郎「西多賀郷土史物語」)栗木渡しは今では栗木橋となり下流100メートルほどには名取1号橋。栗木渕を渡ると、北に太子堂に至る道に出る。この太子堂は耕田寺の400メートル西になる。栗木橋の北80メートルには大神宮等の3つの石碑がある。ここから国道を越えて東に800メートルほど歩くと、船渡前というところにつく。もとはここから熊野堂へ川を渡れたが、今は有料道路があって通行止めになっている。さらに東に約200メートル歩くと山田八幡神社(旅立八幡とも)。------------以上には、東街道ルート論を基礎に(他のルート説もあるようだ)栗木渡しと相の瀬渡しが登場する。ただ、藩政時代や明治、昭和前期の渡しポイントとは限らない。太白区まちづくり推進協議会のサイトによると、落合の渡しが解説されている。------------閖上から落合を通り、日辺から三橋の井土浜街道に繋がる閖上街道は、落合・日辺間で名取川で分断されるため渡し舟がありました。この落合の渡しは、初め私営で渡し守が名取川の落合岸に小屋を建てて住んでいましたが、後に落合地区の共同運営になり、渡し守りは落合の人が交代で務めるようになりました。また、渡し守りが船頭となって水棹を川底にさして舟を進めていたのが、後には両岸に渡した針金をたぐって進めるようになりました。最盛期には閖上からの魚の行商人などで日に百人以上の人が利用した渡し舟も、昭和三十年中頃には姿を消してしまいました。 ------------また、中田宿について、次のようにある。------------奥州街道が整備されたのは、伊達政宗以降。それ以前は、高館を通る東街道が主幹道だったという。東街道は、高館から栗木の渡しを通って西多賀へ、あるいは、高館から中田・長町・根岸を通り、宮沢渡しを越えて国分寺へ、などさまざまな説がある。最近ではそれらに加え、高館から増田を通り、郡山へ抜けたという説も取り上げられるようになった。中田地区柳生にある相の瀬は、川幅が約三十メートル。深さ四十~五十センチ程度で、歩いて渉れる。高館から当時の旅人は、このあたりで名取川を越え、中田を抜けて郡山方面へ向かったとも考えられる。いずれの説も、いまだ証明されてはいないが、郡山官衙の発見とともに、増田や中田から郡山へ向かうルートが、重視されるようになってきた。江戸時代に入り、伝馬制の採用とともに、主街道は東街道から奥州街道へと変わった。長町宿の開設とともに中田宿が誕生し、人や馬が中田の町を抜け、行き交うようになる。長町・中田間は、およそ一里(四キロメートル)。さほど遠い距離ではないが、名取川の氾濫などのために川止めになることも多く、宿場が欠かせなかったらしい。当時の中田宿は、長さ四町二十九間(約五百メートル)。街道に沿って宿屋や小間物屋が並ぶ小さな宿場だった。街道に面して間口がとられ、板戸を開けば、酒や醤油、小間物などが商えるようになっていたという。今でも町内には、そうした家屋のつくりがいくつか残り、宿場の面影を伝えている。------------なお、同サイトには、かなり上流になるが、人来田付近には義経主従が平泉に逃げたという「判官瀬」も紹介されている。他のサイトを巡ってみると、藤塚の渡しと篭の瀬の渡しが存在していたという。篭(籠)の瀬は、対岸の袋原と結ぶもので、昭和の時代まで使われた。船場からは、笊川にかかる北目橋をとおって、電力の施設の東を経由して、八本松に出た。閖上街道と呼ばれ、閖上の魚介類が仙台に届けられた。国道4号パイバスに、篭ノ瀬交差点の名がある。藤塚の渡しは、藤塚川の岸に記念碑がある。船は人がたまると出るのだが、一日に40往復もした。最後まで残っていたのは相沢さんという方の私設で、地域からの寄付もあった。閖上からは魚売りや通勤、藤塚からは野菜売りのほか町場の閖上で買い物などでにぎわった。後に県営の形式になり、昭和47年に県道閖上大橋の開通で、江戸時代からの渡船が幕を閉じた。
2015.01.24
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仙台藩の刑場は最初は城下の琵琶首(花壇)に置かれ、その片平丁寄りの根本東側に裁許所、後改めて評定所が設けられた。江戸、鹿児島と共に、日本三評定所である。次いで、この地が罪人を刑罰する場所ともなった。その後評定所内の処刑場は寛文6年(1666年)に、広瀬河原に近い米ヶ袋的場付近に移る。なお牢舎も米ヶ袋鍛冶屋前丁(東北大農学研究所の地)に置かれた。更に24,5年経った元禄2、3年頃に処刑場は七北田に移り、七北田刑場と呼ばれる。現在の七北田橋の南方県道筋の丘の上である。当時、士分の処刑は牢舎前で斬罪または切腹を執行し、士分以下の凡下扶持人や百姓町人は七北田刑場、乞食非人は小泉で処刑されたようだ。士分でも重罪囚は凡下に身を落として七北田刑場で執行したという。凡下でも親や主人を殺害した重罪人は芭蕉の辻で3日間晒した。更に重罪のものは竹鋸と称して、主人を箱に入れて通行人に箱から出ている首を挽かせた。引廻しは、処刑日が決まると牢前に呼び出し、町同心が科書を読み聞かせ、非人が罪状を書いた紙旗と捨札とを持って七北田刑場に送るもの。行列順は、先頭に非人2人が六尺棒を持ち、2番目に非人1人が白衣で捨札を持ち、3番目の者が白衣帯刀で抜身朱鑓2本を持ち、4番目に馬乗の囚人。7番目に南北組与力検使正副2人が騎乗。引廻しの順路は、片平丁、弾正横丁、北目町、染師町、猿牽丁、土樋、姉歯横丁、荒町、南鍛冶町、茶畑、連坊、六道の辻(ガード)、東四番丁、新伝馬町、大町、肴町、立町、本材木町、北材木町、国分町、二日町、北鍛冶町、通町、北八番丁、新坂通、北山町、堤町を経て、刑場に向かう。この町筋は寺院所在の町を主にし、侍丁や商人町を加えたもので、「寺廻り」と称し仙台藩特有のものだったという。堤町から数丁行くと左側に「新助壇」という所があり、囚人は馬から下ろされて望む物を食わせる習慣があった。さらに奥州街道を下ると左側に青笹不動が祀られており、囚人に柄杓で末期の水を飲ませた。七北田刑場の2、3丁手前の「くらすみ橋」で家族のものと最後の対面を許されたという。刑死者の葬儀と墓碑は旧藩時代には許可されなかったが、七北田刑場前に常念仏堂があって供養することは許されていた。5代藩主吉村夫人長松院の遺言によって延享2年(1745年)頃建てられたもので、七北田街道に沿い刑場を中心に南北に建てられた。南に河南堂、北に河北堂、共に単層三間四面の萱葺きの堂。刑の執行の最も多かった日は天保11年10月29日で、獄門17人、打ち首2人。刑死者の塚碑を秘かに刑場付近に建てる者もあり、見逃されたようである。出典 菊地勝之助『仙台事物起原考〔再編復刻版〕』1995年、株式会社ヨークベニマル(原著は昭和39年発行(郵辨社)。復刻はヨークベニマル仙台古内店開設記念の非売品)
2007.09.03
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(寛政9年一揆の指導者 正覚坊召し捕らえられる(上)(2010年10月15日)から続く)4 正覚菩提塔一揆の首謀者正覚の住地だった胆沢郡徳岡村(奥州市水沢区)には、正覚坊の石碑がある。折居の高根神社境内にあり、昭和14年再建とある。もとは文政年間に建立の碑があり、昭和8年に火災で焼け折れたので再建したと記されている。高根神社には板に書いた再建の趣旨も保存されていて、正覚が高峯山清福寺住持五宝院正覚坊という山伏であったこと、仙台近郊の七北田刑場で処刑されたこと、正覚の義挙に地方18カ村の農民が感動し寺内に菩提塔を建てて冥福を祈ったことなどが記されている。元碑の根元は現存していて、宮城県の稲井石だという。文政年間だが、文政元年は寛政9年から20年目になる。地方の農民が自分たちのために命を捨てた正覚坊を、20年以上も忘れずに記憶し、恐らく年忌(文政12年が33回忌)に際して供養の石碑を建てたのだろう。高根神社は、もと修験道場の五宝院清福寺が明治に神社にされたもので、境内には五宝院代々の墓碑があり、正覚の両親の墓らしいものもあるが正覚の墓はない。5 一揆の故地について水沢市街の西方にある丘陵地が見分森である。胆沢平野を一望できる眺望の地で、藩主巡視の際は必ず登ったという。また上下胆沢の境界に近い入会の草生地で、境界が明らかでないため度々争いの場となり、一揆集会の場所となった。明治初期に関係の村々は積年をわだかまりを解いて祝宴を開いた。建立されている別宴碑がその時の記念である。正覚が捕縛された養ヶ森(用ケ森)は、前沢市街地の西方2kmにあり、もとは密林で覆われていたが、現在は開拓されている。正覚が捕縛された事実は、地方民の間には伝えられていないそうである。江刺郡方面の一揆を指導した伊手村の清三郎という者があった。正覚坊と清三郎だけが頭目張本として召し捕らえられ、処罰された。他は遠島だった。義侠心に富む彼が、責を一身に引き受けたと伝えられる。御用の朝、静かに子どもの着衣を温めながら、何の罪もない子どもに冷たい着物を着せる親が居るかと悠然と言い放ち、起きてきた子どもに着せた後、従容と縛について、引かれていく途上岩谷堂郊外の伊手坂で打ち首となった。後年その地に供養碑を建て、年々供養が行われた。■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から (同書の第2章、第4章を中心とした。なお、10月10日の2件の記事は同書の第1章を中心とした。内容が重複しているが、著者の原典の違いのためである。)■関連する過去の記事 仙台藩領寛政9年大一揆(2010年10月10日) 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日)■奥州市サイトから「百姓一揆」
2010.10.15
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現在の表示で北根、鷺ヶ森、藤松、双葉ヶ丘、北根黒松あたりは、藩政時代の北根村であった。古街道は上谷刈から朴沢を通って宮床に抜けていたのを、政宗が元和9年(1623)芭蕉の辻から、鹿島崎、堤町、北根を通って七北田宿、富谷宿への奥州街道(七北田街道)を開通させた。安永3年の風土記御用書出には、七北田村の肝入が北根村肝入も兼ね、住居は一軒もなく耕地は足軽の持分ならびに七北田村の入作地であった。北根村は明治10年代になってようやく戸数7、人口22人となった寒村であった。その後七北田村に編入され、昭和6年4月仙台市に併合された。■関連する過去の記事 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2010年10月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について)
2011.10.24
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東京から関西方面に新幹線で移動するとき、それまであまり気にしていなかった車内アナウンスの英語に、軽い疑問をいだいた。Welcome to the Shinkansen...と呼びかけているのだ。この場合、Shinkansen は大文字で始まる感覚なのだろう。じっさい、車内の電光文字メッセージ(正式には何というのか。)には、大文字で流れていた。英語に弱い私だから自分の適当な感覚の話になるのだが、the Shinkansen と定冠詞で言い切っているのが、よくぞ本家本元日本のザ・新幹線に乗ってくれたね、という尊大なニュアンスに聞こえたのだ。ちょっと具体的に書くと(私の言語感覚を論じても何の役にも立たないのですが)、新幹線を大文字でいうのなら、(日本の)新幹線という乗り物あるいは新幹線ネットワークを利用していただいてどうもありがとう、というだけで良いのに、わざわざ the で限定するのが気になる。何かに限定する文脈にしたいのなら、(冠詞なしで)Tokaido Shinkansen とすべきだろうが、the で導いたということは、「今皆さんの乗っているまさにこの新幹線」に乗って皆さん良かったね、と言っているように聞こえたのだ(何度も言いますが自分の英語感覚ですから全く当てになりません)。われらが東北新幹線の場合は、Welcome on board to Tohoku Shinkansen. とアナウンスしているような気がする(これも適当)。今朝ネットでみてみたら、on board the Tohoku Shinkasen なのだそうだ。the があることの感覚については後述するが、少なくとも、「東北」新幹線と紹介していることはまず指摘できる。つまり、(どの路線と特定しないが日本の)新幹線に乗ってくれたね(無冠詞のShinkansen)、というのならいい。また、新幹線一族のうちでも「東北新幹線」に乗ってくれたね(Tohoku Shinkansen)、というのもわかる。なのに、(1) なぜ、the が必要なのか(これは東北でも東海道でも)(2) なぜ東海道は the Shinkansen なのかという疑問だと分析できようか。ちなみに私が違和感を抱いた「ひかり号」車内での日本語アナウンスは、「今日も新幹線を利用いただきありがとうございます。」だったから、これに相応しい英語は、私の乏しき感覚ながら、Welcome to Shinkansen だと思う。まず、(2)について。これは英語の問題というより意識の問題なのだろうか。すなわち、我こそ新幹線。日本には、ほかに東北新幹線や秋田、山形、最近は北陸や北海道新幹線もできたみたいですけど、この新幹線が本家本元でっせ。こんな主張をしたいということではないか。と考えてみたが、開業当初からこれで通しているだけかも知れない。それとも、ひかり号やのぞみ号は、山陽や九州新幹線に乗り入れることもあるから敢えて一般的に表現しているのだろうか。さて、(1)について。これが最も厄介なところだ。はるか昔の学生時代に読んだマーク・ピーターセンさんの『日本人の英語』では、a,the,無冠詞の区別は文脈が全てであり、名詞の性質によって前につく冠詞が決まるということでは決してないという説明を思い出す。限定の文脈なら固有名詞だって the が付くのはおかしくない。冠詞は名詞に付くのではなく、意味的カテゴリー(限定か一般か)を決める役割を持っている。日本語の「今日も新幹線をご利用いただき...」は、特に「どの新幹線」と決めつけていないニュアンスを受けるから、無冠詞の Shinkansen が素直だと(私の乏しい英語感覚では)思う。もっとも、このアナウンスは、東京駅を出発してから発せられたわけだから、皆さんが乗車している「この新幹線」ないしは「このひかり号」という意味で、聞き手の乗客と話し手の女性(録音だけど)の間に、特定の文脈を受け入れる前提はできている。だから、新幹線にいくつかの種類があるという認識があるという前提の中で(ウルトラマンに一族があるように)、「この新幹線」とか「この新幹線列車」ということなのだと理解できるのだろうか。だとすれば、逆に、Tokaido などと付けていないのもうなずけるというものだ(the Tohoku Shinkansen という言い方はおかしいことになる)。つまり、Welcome to the Shinkansen(みなさんが乗ったこの(東海道)新幹線にようこそ)Welcome to the Shinkansen train(みなさんが乗ったこの新幹線列車にようこそ)という意味内容において成り立っている、と。ネイティブに聞けばすぐわかることでしょうが。本棚から探し出して『日本人の英語』もう一度読んでみますか。
2016.09.19
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戊辰戦争は東北の1つのアイデンティティである。本格的に勉強しようと、ここ40年ほど(!)思っているが、なかなか手が回らない。星先生の著書を読んでいるが、夜明けを迎えた日本のうねりの中で、わが仙台・東北が目ざそうとしたもの、そして同盟諸藩の相互関係や内部事情などについて深く考えたい。 ○ 星亮一『仙台戊辰戦史 北方政権を目ざした勇者たち』三修社 2005年賊軍の汚名を負い白河以北の発展が遅れた、というのは私たちの世代には決まり文句にしか聞こえないことが多い。しかし、私たちの先輩たちは、どのような意味を持ってこの言葉を語り継いだのか。仙台にとって戊辰の戦いは何だったのか。これから当ジャーナルのテーマとして行きたいが、今日は同書の終わりの方にある印象的な部分を記す。藤原相之助は明治44年に『仙台戊辰史』を著した。私の祖父の生まれた年だ。藤原は、戊辰戦争をこう総括しているという。 列藩同盟は利害の打算が多く、各藩内の状況も様々の行き掛かりがあって、各個人としては思慮があり実力もあり技量もあったが、団体としては脆弱であった。このため同盟が容易に破れ、戦争のたびに敗戦に終わった。 当時の時勢において列藩同盟が5ヶ月にわたり屈せず、薩長政治家をして国政の前途に対して猛省を発せしめた効果は確かにあった。列藩同盟の余勢は五稜郭戦争に及び、武門三百年の意気を示し、東北人が自ら反省する点と、自ら重んずべき点を発見することができる。後段の、東北人の意気に誇るべき点と反省すべき点、の語に強く惹かれる。やっぱり戊辰戦争史を学ばねばならない。藤原相之助は、秋田仙北郡生保内村の生まれだ。つまり同盟を離脱して南部藩に攻撃された地域だ。しかし、当時子供の相之助に対して、祖父は「南部人が賊でもなければ、秋田が官軍でもない」と教え諭したという。わきまえのある祖父だ。ちなみに私の祖父は、秋田人とは付き合うな、と孫の私に何度か言っていた(自分もそういわれたという言い方だったとは思うが)。官軍か賊軍かという一面的な歴史観を斥け、東北にとってのこの戦いは何だったかを追求したのだろう。藤原は後年、河北新報の主筆となり、昭和23年に死去。■関連する過去の日記 ○玉澤さんと戊辰戦争(06年5月27日) ○輪王寺宮と東北(06年4月8日)
2006.08.21
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子どもと何気なくTV見ていたら、懐かしい場面をやっていた。リーグ優勝した1989年の近鉄。ブライアントの西武球場の3連発だ。あの日、僕は西武球場に行くかどうか本当に真剣に悩んだのだけれど、結局行かなかった。10月12日のダブルヘッダー。たぶんTVで見たのだろうか、敗色濃厚で近鉄のVは遠のいた、と思いながら所沢に向かった電車から引き返したように思う。アレ球場に行ったんじゃなかったのかという友人達に教えてもらったのだと思うが、何とブライアントの3連発で見事に試合をひっくり返した。3発目は、語り継がれている渡辺久信の痛恨の1球を打ち返した特大弾。すごい試合だった。前年の10.19ダブルヘッダーも伝説だが、89年も稀に見る混戦のリーグ最終盤だった。あんな強烈な助っ人。来季のルイーズには秘かに期待しているのだが。
2010.10.07
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昨日の新聞で、仙台市国分町三丁目の国道48号で事故、という小さな記事があった。国道48号というと北四番丁や大学病院、八幡あたりがパッと想起されるので、ちょっと戸惑う。国分町三丁目は市役所のあるブロックだから、おそらく勾当台通りで、それこそ市役所前バス停のあたりだろう。国道48号は起点が勾当台公園なので、地下鉄駅で言えば、勾当台公園駅から北四番町駅までの区間も、R48なのだ。ところで、記事を見てしばらく合点が行くまでの間、余計な事まで考えてしまった。R48というと、広瀬通のうちで晩翠通から仲の瀬橋の下層の部分を経由して西道路や愛子バイパスもR48だから、実はほかにも飛び地的にR48があるのか、などと...■関連する過去の記事 仙台西道路の謎を考える(2014年6月8日)ところで、山形側の終点は山形市の南の方まで行って、大学病院そばの飯田交差点。てっきり、天童あたりか、せいぜい国道13号の旧街道の関係で市内の駅前あたりだろう、と思っていたが、だいぶ南まで国道13号とのダブルトラックなのだ。意外。
2015.09.27
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坂上田村麻呂ゆかりの観音像をもつとされる。以下が、「奥州三観音」だ。大仰寺(だいぎょうじ)富春山大仰寺、臨済宗松島町、奥州三十三観音第7番富山観音と呼ばれる。松島四大観の一つ(麗観)本尊は千手観世音菩薩、坂上田村麻呂開基、延暦年間の建立梅渓寺(ばいけいじ)両峰山梅渓寺、曹洞宗石巻市牧山の中腹、奥州三十三観音第8番本尊は聖観世音菩薩(牧山観音)、無尽天全和尚開山、貞治2年(1363)創建箟峯寺(こんぽうじ)無夷山箟峯寺、天台宗涌谷町の箟岳山頂、奥州三十三観音第9番本尊は十一面観世音菩薩(箟岳観音)、坂上田村麻呂開基、大同2年(807)建立古来、殺生禁断、女人禁制。大門より一歩入れば仙台藩で科人を捕らえられなかったなお、奥州七観音と呼ばれるものがある。やはり坂上田村麻呂祈願のものと伝えられるようだ。大嶽観音(登米市南方町、興福寺、奥州三十三観音第10番)箟岳観音(上記)長谷観音(登米市中田町浅水、長谷寺、奥州三十三観音第24番)富山観音(上記)牧山観音(上記)小迫観音(栗原市金成小迫、勝大寺、奥州三十三観音第22番)鱒渕観音(登米市東和町米川、華足寺、奥州三十三観音第15番、馬頭観音)奥州三十三観音、奥州七観音のほかに、三陸三十三観音(1991年設定)、仙台七観音もある。(『岩手・宮城 御朱印を求めて歩く 札所めぐり 奥州ルートガイド』メイツ出版、2016年を参考にいたしました。)■関連する過去の記事 奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)
2017.01.21
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雄勝に味噌作なる地名がある。石巻市民だった私はもちろん知っている(雄勝に住んだわけではないが)。釜谷トンネルから雄勝の町に入ると、中学校付近のT字路を左に折れて中心部や役場、病院方面に至るが、T字路を右に行けばやや山側に向かって住宅地がある。そのあたりが、「味噌作」だったと思う。海の幸、雄勝硯、こじんまりした商店街路。旅館に投宿したこともある。美しいリアスの入江に佇む印象的な町、だった。津波が街を消し去った。宮城県地名研究会「地名 第30号」(2009年11月)に、「石巻市雄勝町の「味噌作・ミソサク」地名について」という論考があった。千葉昌子先生(石巻市桃生町)の寄稿である。素晴らしい雄勝の町を思い出しながら、勉強させてもらった。ミソサクの地名、その背景として桃生郡と牡鹿郡の勢力地図、そもそも雄勝は一貫して桃生郡だったのかなど、大変興味深い。------------10年ほど前(odazuma注:原文の表現)に町の文化財保護委員は、延徳2年(1490)の古文書に大崎今泉の高橋記六という者がこの地を拓き、坊の入(坊の沢)の熊野権現を祀る年四度の精進味噌を煮たことから部落名に転用された、と説明されていた。頼朝は平泉を討って奥州を支配したとき、奥州総奉行葛西清重に5郡2保(磐井、胆沢、江刺、気仙、牡鹿。2保は黄海、興田)を与え、牡鹿と境を接する桃生郡は山内首藤経俊に与えられた。これが300年後の永正合戦(1511-15)につながるのである。中世の恩賞は大掴みで近世のように村名がしっかり記されていないこともあるという。桃生郡雄勝町がその例で、首藤氏の領地に含まれるかどうかはっきりわからない。首藤氏の領地は、旧桃生町全部、旧河北町全部(大森地区は微妙)、旧北上町のほぼ全域(一部は本吉郡)で、旧河南町広渕と旧矢本町、旧鳴瀬町は深谷保になるし、旧河南町和渕は遠田(小田)郡に入る。和渕は後に葛西領になったとも思われるが。雄勝が首藤氏の領地と見られない理由は、首藤氏に関する古文書等に旧雄勝町の記載が全くみられないことによる。むしろ牡鹿郡の浜方に雄勝(十五浜)が含まれた方が自然にも思える。しかし疑問は、雄勝には延喜式内社桃生六座の一つ石神社が鎮座する。延喜から延長年中に編纂された延喜式の神名帳にある桃生郡石神社が雄勝の石神社であるならば、平安時代には雄勝は桃生郡であった。これはどう解釈すべきなのか。平成6年の佐藤雄一氏『雄勝町の板碑』は、 ■中世期の雄勝町の姿はわからない ■鎌倉時代には牡鹿郡は葛西氏、桃生郡の内深谷保は長江氏、残る桃生郡が山内首藤氏によって支配されていたことは文献で確認できる ■従って現雄勝町地域は山内首藤氏の支配下にあったように見えるが、確たる文献がみあたらず、現在ではおそらく葛西氏支配下であったろうと推定されているようだと記している。葛西氏と首藤氏が争った永正合戦で首藤氏が敗れた結果、桃生郡北方は葛西氏領地となるが、それ以前については正確にわからない。服部英雄『景観にさぐる中世 -変貌する村の姿と荘園史研究-』によると、ミソサクは御正作で、「御さうさく」が「御そさく」となったと思われるとする。御正作は、中世における領家、荘官、地頭などの直営田であり一等田。みそざくは御正作故地を示す地名である。従って、みそざく地名を調査することによて中世水田や灌漑用水のあり方、在地領主の館である堀の内や村落との関わりがわかるはずである、と。では、雄勝の「味噌作」は御正作になりうるか。延徳2年文書の「坊の沢の熊野権現」が現存するかについては、熊野神社は8百年前に坊の沢から下雄勝の山上に祀られたという。坊の沢から味噌作に至る途中に地元の人がトーバと呼ぶ小地点があるが、何だかわからない。新山神社には合祀されていないという。雄勝に検地帳などの古文書がないのは度々の津波で家ごと流されたためとのことだ。旧雄勝町の要覧では、「奈良時代は牡鹿郡に属し、のち桃正(odazuma注:原文ママ)郡に属した。大浜の石峰神社は延喜式内社石神社と推定されている。平安末期は平泉藤原氏の所領となり山崎氏や熊野氏がいたという。中世は遠島と呼ばれた荘園公領の一部。鎌倉時代は初め北条得宗家のち葛西氏の所領となった...」とある。つまり、奈良時代雄勝は牡鹿郡であった。桃生郡が建てられたのは、続日本紀の天平宝字元年(757)に陸奥国桃生が見えるのでその何年か前と言われる。石峰神社は延喜式内社で800年代には既に祀られていたと考えられ、もしかしたら桃生建郡の頃まで遡るかも知れない。平安末期の藤原氏の所領はうなずけるが、この頃の熊野氏が熊野権現と何らかの関わりがないだろうか。そして、雄勝の味噌作は古代より修験の地とされた紀伊熊野神社の荘園だったのではないか。ところで、旧河北町と旧北上町にかけて流れる皿貝川があるが、地区の奥が深いことはまさに「更なる峡(かい)」であり、そこにも「味噌作」と「熊野堂」の地名がある。このあたりの地頭職は山内首藤氏、後に葛西氏であるが、御正作の荘園領主は熊野堂主だったのではないか。県内にはミソサク、ソウサク地名がたくさん残っていると思う。調査すれば平安、鎌倉時代の荘園歴史が見えるかも知れない。------------
2012.10.27
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明治21年に市制と町村制が公布され、22年4月から施行される。従前の区町村を合併しつつ、各地で市や町村がスタートしていくこととなった。明治22年4月市制施行までに告示されていた市、いわば我が国の市のスターティングメンバーは以下の通り。 東京、京都、大阪、堺、横浜、神戸、姫路、長崎、新潟、水戸、津、名古屋、静岡、仙台、盛岡、弘前、山形、米沢、秋田、福井、金沢、富山、高岡、松江、岡山、広島、赤間関(下関)、和歌山、徳島、高松、松山、高知、福岡、久留米、熊本、鹿児島、佐賀(37市)このうち、東京、岡山、名古屋、徳島、松山、高松の6市は、4月の市制施行時には市となっていないので、スターティングメンバーは正しくは31市である。東京と名古屋は特別市の扱いとなった(ほかに大阪市)ためである。31市には、東北地方から弘前、盛岡、仙台、秋田、山形、米沢の6市が入っている。ほかに、九州地方が6市、北陸3県と新潟県で5市など、現代の列島の大都市圏のイメージとはだいぶ異なる。関東地方では、水戸と横浜の2市だけだ。当初は当然ながら雄藩の城下などが市に選ばれているためだが、それにしても、100年前の日本の人口構造、そして東北の「地域力」がうかがえるようだ。ちなみに、明治22年時点の市区町村(のちに市制施行を含む)の人口ランキング。1東京市1390千人2大阪市4763京都市2804名古屋市1635神戸市1366横浜市1227金沢市948仙台市909広島市8910徳島市6111富山市5812鹿児島市5713和歌山市5714長崎市5515福岡市5326盛岡市3129弘前市3032米沢市3033秋田市3035山形市2954若松町2256酒田町2160鶴岡町2062青森町1978石巻町1781福島町17129土崎港町12139新庄町11140能代港町11147横手町11159八戸町11東北の市制施行は、スターティングメンバー以降では、青森(明治31年)、若松(32年)、福島(40年)、郡山、鶴岡(いずれも大正13年)、八戸(昭和4年)、石巻、酒田(いずれも昭和8年)などとなっている。■参考 浅井建爾『超雑学 読んだら話したくなる 日本の地名』(日本実業出版社、2010年)ほか■関連する過去の記事 秋田の人口減を考える(2010年12月28日) (明治初年の東北の人口などについて記しました)
2013.03.20
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気になっている福島の山。以前も記しました。福島のマッターホルンたちです。■関連する過去の記事 会津のマッターホルン 蒲生岳(2010年8月29日) 阿武隈のマッターホルン(2009年11月27日)今朝の仙台は雨。イースタンのファンイベントも中止でしょうか。それでは読書の一日としようかなどと思案中です。そこで、新しい山の本『新・分県登山ガイド6 改訂版 福島県の山』(山と渓谷社、2010年)により、福島に行った気になって山のプロフィールを記してみます。それにしても福島は広いですね。まずは、常葉の鎌倉岳。阿武隈には、古殿町竹貫(たかぬき)と田村市常葉(ときわ)に2つの鎌倉岳があります。常葉の方は、おっとりした阿武隈山地の中で、天を衝く姿が異色の存在で、岩峰がそそり立つ阿武隈の異端児、と紹介されています。鎌倉岳とは、頼朝の奥州攻めの際に功労のあった千葉常胤が家来の鎌倉武士とともに移動することになった時、僧侶や修験者の宗派拡張のためこの山に分け入ったことにちなんでつけられた名だそうです。さえぎるもののない山頂からは、西に吾妻、安達太良、那須連峰などが眺められる。歩行時間1時間55分、歩行距離5.5kmです。山頂は967.1mですが、累積標高差はプラス446mとマイナス515mとのこと(少年自然の家発、山根小学校着)。家族の登山にも向いているようです。さて、マッターホルンと言えば、やはり蒲生岳。只見のマッターホルンの異名を誇る鋭鋒と紹介されていますが、近年は会津のマッターホルンとも呼ばれ、それだけ知名度が上がったのだろうと記されています。本家の5分の1ほどの標高ながら、眼下に蛇行する只見線などの情景が素晴らしい。828mで、累積標高差(会津蒲生駅から発着の周回コース)456mです。露岩帯の急坂や鎖場などもあります。十分準備をした上で、子ども達と登ってみたいと思います。
2010.09.23
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先日、日本の精神医学のパイオニアで仙台出身の石田昇について記した(精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日))のは、秦郁彦の著作を読んでだったが、その出自などはわからなかった。阿曽沼先生の著作を読んでいたら、先生が丹念に調べた内容を記していた。■参考阿曽沼要『墓誌・碑文・古地図にかいまみる仙台の医学史』丸善出版サービスセンター、2010年■以前の記事(石田昇について) 精神医学のパイオニア 石田昇(2022年8月21日)石田昇は、東北大学医学部の前身である共立病院副院長であった石田真の子である。以下、阿曽沼先生の著作に基づき、概説する(整理と構成はおだずまジャーナル)。1 石田真(1837-1891)について仙台市若林区弓ノ町の大安寺に、天籟石田先生讃徳碑なる石碑がある。石田とは、中目齋と図って宮城医学校~共立(社)病院を創立し、副院長となった石田真である。天籟は号である。石田真は、伊達一世念西公以来の藩医、錦織即休の第六子として生まれ(天保8年)、同じく藩医の石田道隆(現在の東二番町小学校に屋敷があり、第一次宮城県立医学所が開校された)の養嗣となる。明治3年、藩命により中目齋先生とともに大学東校で西洋医学を修め、さらに米国人医師シモンズとヘボンに学ぶ。横浜で塩谷良翰(初代宮城県参事に内定)に説かれて帰仙し、中目とともに共立病院を創立(明治5年)、中目が院長、石田が副院長となる。地域医療の中核として共立病院の果たした役割は大きく、創立の年には白石に分局を設け、翌明治6年には、石巻、古川に分局を、松山、仙台河原町に出張所を設けた。明治12年に病院が公立(県立宮城医学校)となると勇退して自宅で開業。信望が厚く門前市をなす盛業で、中目齋とならび当時の二名医と称された。明治24年55歳で食道がんで亡くなる。遺言により山形仲藝が解剖した。弓ノ町の大安寺に葬られた。石田の居宅には梅樹が数十本あったので、香韻書屋と名付け老後は漢書に親しみ吟詠を楽しんでいた。石田真の先妻(石田道隆の次女ツネ、明治2年25歳で死去)との間には、息子の康(1863-1951、北海道庁官吏)と娘がいた。継室は佐藤氏娘(市子)で、六男一女をもうけたとあるが、長男が昇(1875-1940)、次男が基である。真が亡くなったときは昇が16歳だった。2 石田真と昇大安寺には石田家の墓が二つある。石田真一家の墓と石田昇一家の墓である。昇の墓には、昭和15年5月31日昇行年66とあり、従五位勲六等醫學士 興學院昇雲俊龍居士 と刻まれている。真が東京・横浜に西洋医学を志して勉強しに行ったのは、先妻ツネをなくした翌年の明治3年で、後妻市子との間の長男、昇は、当時長崎にあった第五高等中学校医学部を卒業し、東京大学医学部に入り、在学中にドン・キホーテを翻訳出版。東大精神科に入局後三年目には『新撰精神病学』を著した大変な秀才だった。シゾフレニーを精神分裂病と訳して日本に紹介したのは昇である。昇は、明治40年(1907)弱冠29歳で長崎医専初代精神科教授(第二代は斎藤茂吉)となり、大正6年文部省留学生として米国ジョンス=ホプキンス大学に留学した。ところが昇自身が精神分裂症(現統合失調症)を発症し同僚医師を射殺し終身刑となったが、結核を併発し、病状が悪化して日本に送還され、昭和15年松沢病院で亡くなった。石田昇が地元の仙台を離れて遠隔の長崎に行ったのは、多感な16歳の頃の父、真の死が関係していたのかもしれない。石田昇先生一周忌追悼会で斎藤茂吉が詠んだ詩鳴滝をともに訪いたることさえもおぼろになりて君ぞかなしき(注:鳴滝はシーボルトが蘭学を教えた鳴滝塾)■関連する過去の記事(疫病、民俗、感染症など) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)
2022.10.08
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やはり気になる。大差で現職が信任された、とはいえ、朝日新聞は無名の対立候補が5千票以上を集めたことを、今朝(4月28日)の朝刊でも追っている(福留庸友記者)。記事の概要は、こうだ。ポスターも事務所もない新顔に、約2割の得票率を許した。また、白紙投票も985票で、前回(選挙戦となった2018年)の3.8倍。多選や頑固な市政への批判ともみられる。河村和徳さんの解説があって、復興から変わろうとする局面でもあり、現職への不満が可視化されたとする。以下当ジャーナルのコメントだが、たまたま同日(26日)に行われた福島県昭和村の村長選挙では、3人の新人が争い、当選者が543票、次点が139票、三人目はわずか7票。この人は昨秋の宮城県知事選挙にも出た乗馬学校代表の85歳。知名度なら福島県でも多少はあると思うが、気仙沼市と比較すれば顔の見える地域で浮動票がないのか(投票率は79.87%)、とにかくまさに泡沫扱いの結果だ。気仙沼市の市長選挙でも、開票前はおそらく有権者もマスコミもその程度に考えていただろう。朝日の記事にもあったが、無投票で良いものをわざわざ公費を使わせて、的な批判も正直あるだろう。今回は市議選があったが、市長選単独だったとしたら、出費も差が大きいが、市職員の労力も多大なのが実際だ。(もちろん、民主主義の正当なコストだが。)だから、2割で5千票という結果は、まさに衝撃だ。どのような気仙沼の状況がそうさせたのかは、政治社会学的に非常に関心がある。■関連する過去の記事 気仙沼市議と市長選の結果を考える(2026年04月27日) 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日) 大崎市長選挙はじまる(2026年04月13日)
2026.04.28
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仙台駅前の丸光デパート増床改築完成記念として設置されたものだ。ミュージックサイレンは、10音階のキーがある。100万円もする上に、1都市に1台と限定された。全国に25台しかなかったが、斬新なアイディアが好きだった丸光の創始者佐々木光男社長が東北で初めて導入。昭和28年10月21日の増床改築完成を記念して設置された。曲目には、仙台に相応しい「荒城の月」が選定された。12月11日の午前9時。吹鳴式に参席した岡崎市長と佐々木社長がスイッチを入れた。演奏は、午前9時、正午、午後5時の3回行われた。その後、午後3時と午後9時が追加されて、一日5回の「荒城の月」の演奏となった。さらに、警察から青少年の健全育成・非行防止に活用して欲しいとの要請を受けて、午後9時のミュージックサイレンは、帰宅を促す「この道」に替えられた。昭和62年7月15日の故障を契機にミュージックサイレンは取り外され、解体された。修理部品がなかったのが理由だそうだ。以上は、せんだいCM特捜隊(スタジオM77)『懐かしのせんだいCM大百科』(2007年)による。CDとセットの冊子だ。CD収録の音源は昭和43年のものだそうで、後半には仙台駅を出発するであろうSLの汽笛の音が入っている。若い日の私は、もちろん市内でも聴いたが、向山に住んでいて、夜9時になると何やら機械の起動音が立ち上がるのが聞こえ、次いで「この道」の吹鳴。曲が終わると、再び起動音が終息する。そんな記憶がある。市の中心部ならば、曲は聞こえても、雑踏に紛れて起動音は聞こえないだろう。駅前のネオンを望みながら、夜9時の空を響いてくる機械音がハッキリ聞こえたものだ。その時期とは、ミュージックサイレンの歴史からすれば、ほんの最後の一コマだった。昭和28年から仙台の街に時を知らせてきたのだから。
2010.09.05
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長野県知事選挙が面白そうだ。まだ表面的な二、三件の報道にしか接していないが、候補者選びが進展しているという。田中康夫に対抗する意識と、自民、民主それぞれの思惑と、入り交じって昨年の宮城県知事選挙と似て無くもない、と思わせる。田中県政への県民の評価はどうなのだろうか。長野といえば、昔々には(学部学生時代)、社会党の興隆を調べたことがあった。その後は保守王国、近年は羽田元首相などの力もあり民主にも勢い、だろうか。もう少し調べてから、記したい。
2006.06.12
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泉区の七北田公園は地図では、その北半分が泉区七北田字赤生津とされている。また、泉中央から七北田公園西口を経て北環状道路方面に抜けようとすると、七北田川を越えるが、この橋は「赤生津大橋」である。宮城県の地名研究で高名な太宰幸子先生によれば、赤生津(あこうづ)は、阿久戸、阿久津などとともに、アクタ(川沿いの低湿地で水はけの悪い地)の転訛という。(太宰幸子『地名に込められた伝言 災害・崩壊・津波地名解』彩流社、2013年)雨や豪雨の水がなかなか抜けにくい地に多くある地名だが、その大雨や洪水で肥沃な土が運ばれることが多いので昔から稲作が行われ、決してその地を捨てるようなことはなかったようだ。栗原市志波姫の一迫川流域に「阿久戸」(あくと)があるが、アイオン台風で土手が切れた。大崎市鹿島台の「阿久戸」(あくど)は鳴瀬川が蛇行する氾濫原で古くから大雨などで水はけが悪い。「赤生津」の地名は、登米市豊里町(旧北上川)、奥州市前沢区(北上川)にある。前沢の赤生津は北上川が大きく蛇行し一関遊水地のすぐ上流。昭和30年には豪雨で赤生津橋が流失したほか、平成14年、19年にも浸水被害が発生した。泉区の赤生津は、古くから七北田川の氾濫原で、開発の際にもこれを認識して公園とした(上掲の太宰先生の書による)。仙台市建設局の資料(橋梁長寿命化修繕計画。平成23年)によると、赤生津(アコウヅ)大橋(112.2m)は経過年数22年。下流の「かむり大橋」28年に比べると意外と新しい。■関連する過去の記事 飛び地の多い上谷刈(2010年11月15日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 七北田川を考える(07年10月3日)
2013.10.14
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今週のこと。あの仙石東北ラインの新型ハイブリッド車両に、乗りました。仙台と石巻を、震災前より、より近く、より早く。JRの方々や地域の方々の熱意をひしひしと感じます。ありがとう。がんばろう東北。進め、走れ、わが仙石線。画像は、社内のハイブリッドエナジーの表示。駅を出るときはエンジン全開。次の駅の手前で減速するときなどは、バッテリーに電気を戻す。見ていると結構面白い。
2015.06.11
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久々に先発の青山がここまでは好調。しかし必要なのは打線の爆発です。3連敗の悪い流れを打ち破ってCSに向けてチーム力を結集するには、得点力の発揮が重要。今日のスタメンは素晴らしい。憲史とセギと草野が、並んでいるのですから。これで、切り替えよう。早速山崎に目の覚める2ランが飛び出した。しかし2回にF武田勝を崩せなかったのはちょっと残念。3回表は、不運にも青山1点を返されたが、マダマダこれから。憲史がレフトなのだから割り切って。それ以上に、とにかく打ってくれ。さて今日は汗ばむ陽気ですが、一旦帰宅した私、顔を洗って出直して、また仕事で出かけます。現在3回表で走者1、2塁。うーん不安増幅。
2009.09.05
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先日、うららかな初夏の朝、多賀城の歌枕めぐりをいたしました。末の松山、沖の石に続いては、野田の玉川です。■関連する記事 末の松山・沖の石(10年4月30日)宮城県民として恥ずかしながら、歌枕の地、いずれも私は初めて訪れました。近くは何度も車で走っていましたが。野田の玉川について、下流側から順次4回に分けて、画像で漫歩を振り返ります。第1回はおもわくの橋から下流の部分。川の片側は人が歩けるように整備されていて、おもわくの橋まで、間に2つの橋があるが、ちょうど「あみだ」のように、橋ごとに歩ける岸が入れ替わる。おもわくの橋の説明には、四代綱村が楓を植えたというが、紅葉山橋の名はそれにちなむそうだ。何とも歴史のある場所だ。----------その1 おもわくの橋~大土手橋その2 清水橋~おもわくの橋その3 天神橋~せせらぎ橋その4 天神橋上流の鉄道廃線跡
2010.05.04
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居酒屋、スナックの建ち並ぶ登米市佐沼の繁華街の通りの名だ。佐沼の夜のにぎやかさは格別で、東北の上海と呼ばれたという。県北鉄道があって、また石巻の水産の最盛期なども関係したのだろうか。市役所隣接の「中江公園市役所通り」の一本南側に並行するのが、「中江その通り」だ。佐沼中央商店会の作成した地図つきパンフレットにそう書いてある。ところで、字で書くとどうも固有名詞らしくなくてしっくり来ない。え、何のとおりですか?市役所通りというネーミングも最近っぽい印象があるから、これも新しい命名なのだろうか。それにしても、「その」とは何だろう。
2015.05.01
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