全3658件 (3658件中 1-50件目)

いよいよ夏本番か。昨日今日のニュースも、各地で猛暑、熱中症に注意、の連続だ。いったい今年はどうなんだ。エルニーニョとか、大蛇行とか、年の初めにはあれこれ論評もあったが、結局やっぱり暑い夏になるのかね。そこで、当ジャーナルの総力を挙げて、東北の「涼」をアピール。食べ物、風物、夏に涼しい洞窟、そして背筋が寒くなる伝説や奇譚の数々。そう、猛暑の世紀を迎えた今こそ、縄文、蝦夷、平泉、気高い文化性と純真な日本の心の源泉、わが東北の底力を示そうではないか。と、大げさに言いましたが、わがジャーナルの過去記事を以下に(画像のあとに)羅列しただけです(編集長慎んでお詫び)。なお、画像は、我が家の冷蔵庫に今なお入っていた山形冷やしシャンプー。今夜使おう。 仙台ミステリー傑作選(2024年10月24日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 宮城県の妖怪伝承(2023年07月13日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 釜石で35.6度(2022年6月26日) 前森風穴(2016年6月14日) ついに体験 冷やしシャンプーin山形(2015年7月25日) UFOと東北(2015年5月31日)(飯野町) 9月の気温差 盛岡が世界2位(2012年10月15日) 盛岡冷麺の起こり(2012年1月16日) 猛暑にも「つや姫」が健闘(2010年10月21日) 薮川はもう氷点下3.8度!(2010年10月20日) 薮川が寒い理由(10年2月7日) 大雪の庄内(09年12月17日) 龍泉洞 41年ぶりの潜水調査(09年12月10日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 座敷わらしと緑風荘(09年11月17日) 長梅雨の東北と飛島・庄内浜の夏(09年8月2日) 神秘の地下洞窟 地質百選の龍泉洞(09年3月28日) 怖い話 at 仙台駅前(08年12月9日) 薮川で氷点下(08年9月29日) 盛岡冷麺を食す(08年9月21日) 山形発冷やしシャンプー 編集長も試してみる(08年8月18日) 紫波SAの盛岡冷麺(08年3月23日) 猛暑の経済効果を考える(07年9月5日) 仙台百景画像散歩(その18 撮影成功!霊気のトンネル)(07年2月6日) ダイナミックな寒暖の差(06年11月28日) もりおか三大麺(06年11月18日) マイナス10度の朝を迎えられるか(06年1月9日) みちのく国際ミステリー映画祭に思う「みちのく」と「ミステリー」(05年9月30日)
2026.07.16
コメント(0)
さかんにニュースでやっている。寝屋川市で、空き家税を課する条例が市議会で可決された。しかも全会一致。空き家税は、京都市が有名だが、市内全域を対象にするのは全国で初めて。日経新聞によると、賃貸用や売却用などを除く空き家の所有者に負担を求める。課税標準は(1)家屋の固定資産税額、(2)土地の1m2あたり固定資産税額に家屋延べ面積をかけた額で、その両方に税率35%をかけて税額を算定。だいたい、固定資産税の3割から4割程度になるという。寝屋川市の空き家は1万5千戸。このうち賃貸や売却用を除くと、6400戸程度。税収は、1.4億円程度になるが、市では、税収が目的ではなく空き家所有者の行動変容を促すという。つまり、流通促進と定住者確保だ。読売新聞は、こう記す。寝屋川市は大阪府北東部にある中核市で、24.7km2に約22万人が暮らす。高度成長期に大阪市の衛星都市として開発され、高齢化が進む一方で、新住民が入れる新たな住宅地を開発する余地が少ないという事情がある。また、居住実態の具体的な把握方法や、転勤等の一時的不使用との線引きなど、課題はあるようだ。寝屋川市がベッドタウンで市域が狭いことが指摘されているが、東北だと、近いのは、多賀城市や塩竈市だろうか。空き家の課題は、今後も広がっていくことは必定である。人口は減少し、人材の確保や地域の維持、さらには国民経済的観点からストックの有効活用を本気で考えなければならない。これは、自治体の側からの取組だが、日本全体で知恵を絞るべきことであろう。■関連する過去の記事 ズバリ!東北一面積の小さい自治体は?(10年7月9日) 可住地面積の割合の高い市町村(2020年8月30日)
2026.07.10
コメント(0)

川崎町内にはいくつもの山城の跡が残され、どれもが桁外れのスケールだ。兵どもが駆け巡った往時に思いを馳せて、歴史探訪に出かけよう。(別冊りらく川崎町探訪編2025(2025年5月)から、当ジャーナルにて編集)1.上楯(かみたて)城跡東西400m、南北600mの大型の連郭式山城跡。連郭式とは、本丸、二の丸、三の丸を直列した形式。最高所に本丸、西に二の丸、南に三の丸のほか、曲輪、馬場跡からなる。比高70m、北側は断崖で、東南面は数段のそれぞれ平場。1545年(天文14)頃に築城。城主支倉常正は1200石の中級武将。1571年(元亀2)米沢の伊達藩士山口常成の子に生まれた常長は、7歳で伯父支倉時政の養子に。養祖父常正の築いた上楯城で青年期まで過ごした。上楯城跡までは、圓福寺の駐車場から登るほか、山頂付近に駐車場。本丸は広く、西に土塁が築かれ、空堀がぐるりと囲む。中央は鬱蒼と杉木立。明治以降は本丸は畑として利用されたが、持ち主が杉を植林して現在の杉の回廊のような光景に。本丸の北東側は二重の空堀で、ここに通じる虎口は二段のコの字の土塁が築かれている。同様に横堀が巡る二の丸も一部に土塁。三の丸はやや荒れているが、東側に横堀がみられ、南は堀切で遮断されている。攻め入る敵をイメージすると武者震いがする臨場感だ。2.圓福寺圓長山圓福寺(えんぷくじ)。開創は平安後期で、明治初期に真言宗智山派の直末寺として現在地に中興開山した。塑像の延命地蔵菩薩が本尊。身の丈3尺、平安時代の作と伝える。脇仏にマリア観音像が置かれ、仏像に模していることから隠れキリシタン由来とされる。常長は藩主政宗の命でイスパニアにわたり、帰国後は支倉の地に安住し52年の生涯を閉じたといわれる。圓福寺の本堂裏手の斜面には常長の墓とされる宝篋印塔が残る。ほかにも、錨印の付いた墓跡も3基あり、同行した人物の墓と考えられている。五輪塔は苔むして文字が風化で磨滅し解読ができない。なお、常長の没年は、圓福寺の碑には51歳とあるが、大郷町メモリアルパークの碑は84歳、さらには常長の墓とされる場所は岩手県を含めあちこちに点在する。3.前川城跡(川崎城、川崎要害)川崎小学校の小さな丘(館山)が、かつて砂金氏の居城前川城の跡。砂金氏11代砂金右兵衛常房(実常)が1608年(慶長13)から2年ほど費やして築城。1702年(元禄15)まで居城。砂金氏途絶後は、最上境、笹谷街道沿いの要衝として、一門川崎伊達氏を配した。仙台藩の要害は支城の役割を果たし、21城のひとつがここである。要害は、城だけでなく必ず町場や宿駅などの城下町を持った。現在城山公園となっている場所が本丸、川崎小学校が二の丸だった。周辺の町割りもほぼ当時のままである。いまの川崎町の名は、川崎城(要害)に由来する。なお、庁内には、前川城とは別に前川本城(もとしろ)がある(後出)が、川崎要害の前身の意味で、中ノ内城がそう呼ばれるようになったもの。4.小野城跡(牛ケ館)小野城跡のてっぺんからは、釜房湖、国営みちのく杜の湖畔公園、蔵王連峰までを一望できる。この巨大な山城は、天正年間、笹平山に小野雅楽之允(うたのじょう)が築城。1576年(天正4)、伊達輝宗と相馬盛胤の間の丸森での戦いに、近郷の砂金、支倉両氏とともに参戦。1588年(同16)の政宗の大崎攻めでは支倉氏とともに出陣。東西250m、南北180m、東郭と西郭に二分され、それぞれが曲輪群と土塁、空堀などをもち、東の南側には大手、北中央付近に搦め手の虎口があった。南山腹に二の丸。主郭の西から北にかけて土塁がめぐり、北下には空堀から続く通路が搦め手虎口まで続く。小野城跡にある熊野神社隣には、疱瘡神である若木(おさなぎ)神社がひっそりと佇む。5.前川本城(もとしろ)(中ノ内城跡)土塁が三重に連なり、美しくウェーブする。内枡形をふたつ重ね付けた技巧的な虎口とあわせて、土の芸術と呼ばれる。笹谷街道と羽前街道に接する交通の要衝。山形最上氏、米沢上杉氏と対し、伊達氏にとって重要な防衛拠点だった。前九年の役(1056-)の際に、安部貞任が4千の精鋭で川崎柵によって戦い、その柵が地名から中ノ内城と呼ばれた。天正年間1573年頃、砂金氏8代常久が築城。1609年頃、11代常房が前川城に移転するまで居城した。居城期間は36年と短く、廃城後は本城と呼ばれ、周辺の地名にもなった。200mの中世連郭式山城で、本丸、二の丸と大規模な土塁、空堀があり、馬出曲輪も備える。1500石ほどの砂金氏の動員人数より曲輪が広すぎるため、関ヶ原のころに上杉対策で最上への増援を考え外曲輪を増設したのではないかと考えられている。6.知ってタメになる用語一覧(当ジャーナル編集長メモ:これは気が利いたコーナーです。りらく編集者に敬意を)・土塁 土を高く土手状に盛った防壁・曲輪(くるわ)/郭(かく、くるわ) 生活上軍事上の理由で平坦化された土地・虎口(こぐち) 曲輪の出入り口・枡形(ますがた) 土塁や石塁で方形に囲んだ虎口。防御を重視した出入り口で、塁線の内側に設置する内枡形、外側に設置する外枡形がある・空堀 水堀(濠)に対して水のない堀。現存する堀は、廃城以降堀底に土が堆積して浅く見える・要害 地形が険しく、守りやすく攻めにくい所・搦め手 城の裏・横堀 曲輪を取り巻くように、等高線に沿って作られた堀・堀切 敵の侵入を防ぐために尾根を垂直に切り取って作られる空間。曲輪同士の区切りや城の境を示す目的で造られることもあった
2026.07.09
コメント(0)
当ジャーナルではかなり前に、青森県の地域呼称「上十三」について(大げさに)論じたことがありました。青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日)昨日のこと、東北学院時報(第793号)を眺めていたら、同窓会のページに、上十三支部があります。昨年11月29日に十和田シティホテルで第16回上十三支部同窓会を開催、14名の方々が集まったとのことで、写真も添えられていました。報告記事を読むと、やはり懇親会は讃美歌から始まったそうです。また、参加者の卒業年の差が56年とのことで、さすが東北学院、幅広い年代で人材を輩出していると感じました。このページには、福島県北支部、近畿支部新年会の報告の記事も。また、支部総会の開催案内があります。全国に広がっていて、すばらしいですね。私はTG会ではありませんが、感動したので書き出してみます。武蔵野支部(会場は所沢パークホテル)、白石支部(和み処ももの木)、宮城の支部(メゾンドリア・フィーユ)、利府支部(森の郷集会所)、秋田県南支部、岩沼支部、弘前支部、多賀城支部(和食の小島)、札幌支部、東京支部(コートヤード・マリオット銀座東武)、北海道TGしびる会総会(ポールスター札幌)、神奈川支部(みなとみらい県民共済プラザビル・メルヴェーユ)、近畿支部(KKRホテル大阪)、仙台同窓会主催TG交流ビアパーティ(仙台国際ホテル)、など。さて、話を戻します。上十三は、やはり青森では定着した呼び方だということが、わかりました。■関連する過去の記事 青森はデジタル県(2024年04月10日)=黒田四郎さんの文章 十三の読み方 再論(2015年5月26日) 十三(じゅうさん)湖と十三(とさ)湊、とさの語源(2013年7月14日) 「三八地方」を考える(再論)(2011年12月4日) 五能線の名の由来を考える(10年5月24日) 青森県東部の地理概説(三八、上十三などの意味)(09年8月1日) 南部の戸(へ)の地名(07年12月17日)
2026.07.07
コメント(0)

きのう(3日)、午後2時20分頃に幸町二丁目で通行人から、約1メートルのクマらしきものをみたと通報があり、警察が捜索したが見当たらず、幸町南小学校では、未下校の児童を集団下校にしたという。コンビニの裏のフェンスを越えて、会社敷地に入ったという証言があり、テレビの画像では、その場所が映されていた。朝夕の渋滞ポイントである中江の仙山線踏切(新石巻街道踏切)のすぐ脇にファミリーマートがある。私もよく利用する。店と駐車場をはさんで、県道と並行する形で、専用引き込み線跡の小道があり、そこを渡って北側の会社の敷地のフェンスを乗り越えて侵入したということのようだ。1980年頃の仙台市の地図では、こうだ。専売公社工場まで伸びている貨物線が、細い線で示されている。いまでは、幸町南小学校の校庭になって消えているが、ファミマと今回クマが侵入した会社(松本事務機か)に挟まれたあたりでは、引き込み線跡がはっきりとわかる。緩やかに弧を描いて、仙山線(東照宮駅方)に合流していくのだ。踏切より北の仙山線沿いには、レンタル倉庫が細長く点在する。■関連する過去の記事 クマの親子が出た平成一丁目(2026年07月02日)
2026.07.04
コメント(0)
きょうニュースで盛んにやっているが、午前3時半頃に、親子らしき2頭のクマが徘徊していたと自転車で通りかかった人から警察に通報があった。場所は、平成一丁目の丁字路交差点だという。テレビの映像だと、貨物線をくぐるガードが見えて、路上に自転車注意とペイントされた道。中原本通り(松岡街道)の信号のある交差点から、西に、東郵便局角の交差点まで延びる道だ。報道では、目撃地点から50メートルに保育園があるという。たしかに、ピースフル保育園がある。南に300メートル行くと梅田川があるので、川を伝って来たのだろうか。■関連する過去の記事(東仙台、松原街道、苦竹付近など) 宮城県沖地震を知る(2026年06月11日)=苦竹の被災建物 名が珍しい平田神社(2026年04月22日) 岩切の追分の道標(2026年04月11日) 御立場町の道路愛称(2025年12月06日) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.07.02
コメント(0)
6月28日の朝日新聞の記事だ。「ラーメン大好き 断トツ 山形市」との見出しで、データの紹介がある。(おそらく、掲載する地域によって見出しを変えるのだろう。)以下に概要を紹介する(おだずまジャーナルで要約)。「家計調査」(県庁所在地と指定都市などが対象。なお、2023年から25年の平均、2人以上の世帯)によると、「中華そば」(ラーメンを含む)の外食費の最高は山形市。年間支出額21,695円で、唯一の2万円超え。2位の新潟市(16,893円)、3位仙台市(14,207円)、4位宇都宮市、5位富山市と続く。逆に低いのは、神戸市(4,810円)、長崎市、松山市の順。家計調査には、他の麺類として「日本そば・うどん」「他の麺類」の外食費の項目がある。「日本そば・うどん」では、支出がトップは高松市の17,704円が突出している。2位静岡市(11,718円)、3位山形市(10,980円)と続く。3つの種類の合計でみると、山形市が36,370円でトップで、2位は高松市(28,647円)、3位仙台市(28,968円)。東北や北陸では中華そば、四国では日本そば・うどんが好まれると言えそうだ。山形市の栄屋本店では、この店発祥とされる看板メニューの「冷しらーめん」が人気だ。この存在が夏場のラーメン需要を支えていることも、山形のトップの背景にある。また、米沢、坂田、辛みそラーメン、鳥中華などの多彩なラーメン文化。人口10万あたりラーメン店数は31.81で、47都道府県中で最多である(タウンページデータベース、2025年)。山形では古くから、家族や知り合いが集まると出前でラーメンをとる習慣があった。一方、家計調査で21年に唯一首位の座を奪ったのが新潟。22年から4年連続で2位だ。長岡生姜しょうゆラーメンなど、県内のご当地ラーメンを5大ラーメンと銘打ち、県外の観光客向けにアピールし、県内メディアで取り上げられたのが県民の支出額向上につながったか。■関連する過去の記事 魚と中華ソバ!東北人の好みを読む(10年2月8日)ラーメン消費日本一の山形市(08年1月20日)(めん消費の比較)
2026.07.01
コメント(0)
今朝のNHKニュースで驚いた。猛暑日しらずの街というので、どこかと思って観ていたら、千葉県勝浦市。観測史上、猛暑日が一日も記録されていないというのだ。勝浦市ホームページも、涼しい街と自慢している。説明によると、沿岸は水深があり水温が低いので夏は涼しく、冬は親潮の影響で寒さは弱い、つまり年中過ごしやすいのだ。それでは、われらが東北ではそんな場所はあるだろうか。気象庁ホームページから、日の最高気温の記録を拾ってみる。地点は、当てずっぽうに。まず青森県内から。(以下、地点の次のカッコ数字は猛暑日=35度以上=が記録された日の数である。次の行の数字は、日最高気温の最も高い記録とその日付。)・大間(ゼロ) 32.9(2023/8/24)・脇野沢(ゼロ) 34.7(2025/8/3)・小田野沢(ゼロ) 34.9(2023/8/4)・大間(1日) 35.3(2023/8/10)・今別(ゼロ) 33.7(2023/8/26)・蟹田(ゼロ) 34.6(2023/8/24)・市浦(7日) 37.2(2023/8/10)・青森(10日以上) 36.7(1994/8/12)・野辺地(1日) 35.6(2023/8/10)・六ケ所(ゼロ) 34.8(2024/8/23)・三沢(10日以上) 37.0(2023/8/5)・鰺ケ沢(4日) 36.9(2023/8/10)・酸ヶ湯(ゼロ) 30.8(1978/8/3)・休屋(ゼロ) 33.7(2021/8/7)青森県内の他の地点は、ゼロではないようだ。次に、他県で猛暑日ゼロの地点を探して、以下に書き出す。(ほかにもあるかも知れないが。)・沢内 34.1(2018/8/23)・湯田 34.9(2018/8/23)・駒ノ湯 33.3(1994/8/14)・江ノ島 34.5(2018/8/1)・猪苗代 34.6(2025/7/29)・桧枝岐 32.5(2015/7/14)・桧原 32.0(1985/8/15)
2026.06.24
コメント(0)

澱橋を渡って尚絅学院前を通り、細いバス通りを上っていくと、北三番丁通りに交差するが、ここはもう20年以上前だろうか、丁字路だったのがスッキリと土橋通りに直通する道になった。その交差点のやや手前左側(道の西側)に、こんな看板があった。「へくり沢散歩道案内板② 下流域2 土橋周辺(八幡1丁目)」 かつて、国見から八幡地区にかけて「へくり沢」又は「蟹子沢」と呼ばれる小川がありました。 国見小学校の北西部から段急傾斜を南東側に下り、広瀬川の澱橋付近に注いでいました。 今は下水道となって水流を見ることはできませんが、深い峡谷状の地形や流れの痕跡を観察しながら散策してみませんか。 へくり沢の名の由来は・・・「へくる」とは、谷の縁(へり)を縫うように通過すること。沢が深く抉(えぐ)られ、ここを越すには坂道をくねくねと下り、上らねばならなかったことからきているといわれます。 へくり沢の下流域は、深い峡谷となっているため、伊達政宗公が仙台を開いた頃から、城下を分断する交通の難所として知られていました。そのため、江戸時代中期までに北三番丁から中島丁方面に渡る土橋が谷底に作られ、交通の便がよくなりました。土橋は土管などで通水路を確保しつつその上部を土盛りした土手状の橋で、水田によく見られます。当初の橋は人が通れるだけの小さなものでしたが、かさ上げされて現在に引き継がれています。北西方向からこの土橋まで至る道が「土橋通」と呼ばれてきました。 へくり沢の峡谷地形は、河口から春日神社付近まで続いていましたが、左図の下流域3から中流域1のあたりまでは戦災復興期に瓦礫などで埋め立てられました。この橋をはさんだ両側だけが、かつての谷の深さを今に伝えています。(手前の石碑は、天然痘除けのため建てられた「疱瘡神碑(ほうそうがみひ)」。道路拡張の際、発見されました。)製作へくり沢散歩道会議八幡地区町内連合会・国見地区連合町内会・八幡小学校・八幡児童館・仙台市柏木市民センター連絡先事務局 柏木市民センター 電話233-8066(平成29年度仙台市地域力創造支援事業)
2026.06.16
コメント(0)

きのう(6月14日)は、暑い日だった。広瀬川でクマが発見されたという。テレビの映像だと、赤門自動車学校の教習コースが映っていた。クマが出たという時間帯の約1時間ほどまえ、自分はちょうどその赤門自動車学校の前(建物と教習コースの間の道)を散策していたのだった。じつは以前、花壇自動車大学校との校名の違いを記事にしたことがあり(自動車学校の花壇? そして校名について(2015年8月16日))、確認してみたかった。むろん、確認なら歩く必要もないが、市内ど真ん中なのに歩いたこともない場所だったから一度行ってみたかった。クマも同じ心境だったか。画像その1。トークネットホール(仙台市民会館)のラウンジから望んだもの。このあたりにクマが出たらしい。建物のサインは、「専門学校赤門自動車整備大学校」だ。その右手側に自動車学校がある。建物1階にAKAMONとローマ字のサイン。画像その2。仲の瀬橋の仙台二高側のたもと付近の看板。「専門学校赤門自動車整備大学校、赤門自動車学校(公認・実免)、東北運輸局認証、自動車整備・板金工場、工場名オートハイテクニカルセンター川内(赤門校内)」画像その3。赤門自動車学校の正門から案内図を撮影してみた。■関連する過去の記事 自動車学校の花壇? そして校名について(2015年8月16日) 自動車整備大学校?(2007年6月17日)(花壇自動車整備大学校の呼称について) 仙台藩の牢屋(2007年8月19日) 仙台藩の刑場(2007年9月3日)(花壇にあった) 愛宕下の発電所(2013年11月25日)(花壇対岸の追廻地区から取水)
2026.06.15
コメント(0)
有効得票の推移(投開票日→町選管再点検→県選管採決)・平山幸宏 5,099→5,099→5,104・小山田典之 5,098→5,096→5,106・笠間慎一郎 229→229→229・無効票 140→142→127平山幸宏(ひらやま・ゆきひろ)と小山田典之(こやまだ・のりゆき)の両候補が接戦だったが、特に問題となったのが「平山のりゆき」、「小山田ゆきひろ」と書かれた票。県選管は、名前のひらがな部分に誤記が起きやすかったことを特段の事情として認め、当初無効とされた小山田候補の10票と平山候補の6票を有効とした。ほかに、平山候補について同日の町議補選候補との混記があった1票を有効、「ゆき」を二重線で消して「ひろゆき」と書き直した1票と、他事記載の1票を無効とした。この結果、小山田候補が10票、平山候補が5票増えた。(東京新聞)県選管の裁決では、無効票とされた「小山田ゆきひろ」10票と「平山のりゆき」6票を有効と判断。また、平山氏側では「ひらいでゆきひろ」1票を有効とし、他方で、平山氏の有効票とされたうち2票が欄外に「○」が記載されたなどの理由で無効と判断した。(毎日新聞)栃木県選挙管理委員会HPに裁決書が出ている。6月11日付である。その中では、公選法68条1項は無効とする8項目を列挙するところ、今回の疑義票に関して問題となるのは、2号(別人投票)、6号(他事記載)、8号(混記投票、判読不能)の3項目であるとして、過去の裁判例を引用して、それぞれの判断基準を丁寧に検討している。そのうえで、今回選挙の特別な事情を考察し、類型ごとに個別判断している。非常に興味深いので、主な類型について、以下に紹介したい(当ジャーナルで要約)。●類型1=氏が正確に記載され、名が逆順に記載されたもの、39票・町選管の判断は有効 → 県選管もほぼ同様だが、1票だけ無効とした(「ゆき」を訂正し「ひろゆき」としたもの)・「平山ひろゆき」の33票は、実在する副町長平山浩之の別人投票として無効とすべきか。しかし、同士は大田原市に居住し、県職員から副町長に就任し、過去に選挙に出ていないことから、平山候補の名を逆順にしたものと解する●類型2=候補の氏が正確に記載され名の部分に相手候補の名が正確に記載されたもの15票(平山のりゆき6票、小山田ゆきひろ9票)、これに準じるもの(小山田ゆきひき)1票・町選管は無効 → 県選管は有効・町選管は、特段の事情が認められず完全混記票として無効としたが、語感音感の類似性、投票所記載台の氏名掲示に両者が並記され見間違いがおきやすい状況、県北で平山は多い氏で小山田な少ないが疑義票全体で氏の誤記はすくなく名の誤記や誤記訂正が多いのは選挙人が氏を重視したこと、などの特段の事情が十分に認められる・従って、有効票と判断●類型3=両候補の氏と名の前半2文字が正確で後半文字が相手の文字のもの6票(平山ゆきのり4票、小山田のりひろ2票)・町選管は有効 → 県選管は有効・選挙人に意思は明確で有効●類型6=同日の町議補選候補者の氏や名との混記、3票・そのうち、「ひらいでゆきひろ」について、町選管は無効 → 県選管は有効・補選候補者の平出文宏の誤記または混記かが問題になるが、平山候補の氏名をひらがなで記載しようとした誤記とみるのが相当●類型7=他事記載、2票・平山候補関係では、注意事項欄の頭柱数字「一」にマルを付したものについて、 町選管は有効 → 県選管は無効・小山田候補関係では、氏名記載欄の脇に「少しましかな」と記載のものについて、 町選管や無効 → 県選管は無効そして、これら疑義票のすべての実際の候補者氏名欄の記載状況(手書きの文字)の画像が添付されている。類型7の他事記載もちゃんと出ている。この裁決書は、多くの人に納得される判断を示そうとする「労作」だと思う。■関連する過去の記事 那須町長選挙でも当落逆転の県選管裁決(2026年06月12日) 神栖市長選に関連して過去の裁判所の判断(2026年05月11日) 神栖市長選を考える(何度目か)(2026年05月01日) 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.06.13
コメント(0)
今日のニュースだが、3月の那須町長選挙に関して、栃木県選挙管理委員会は、今日(12日)、次点候補の有効得票が2票上回ると判断し、1票差で上回ったとされていた現職の当選を無効とする裁決を行った。(朝日新聞による)3月の町長選の開票結果は、・平山幸宏氏 5,099・小山田典之氏 5,098・笠間慎一郎氏 229・無効票 140であった。4月、町選管による再点検により、小山田氏が2票減らして、5096票とされた(無効票が142に)。これは、小山田氏側の異議申し立てによるものだったが、票差が3票に広がった形だ。棄却された小山田氏側は、こんどは5月、県選管に対して審査申し立てをしていた。そして、県選管による(町選管に次いで)2度目の全票点検が5月に行われ、絞り込まれた疑問票790票の効力を審議していたものである。小山田氏側の指摘は、平山氏の得票のなかに名を「ひろゆき」と(逆に)記したものがあるというものである。5月16日の読売新聞の記事(県選管の全票再点検の報道)では、次のように記している。小山田氏の陣営は、「平山ひろゆき」と書かれた票が平山氏の有効票となっているのに、「小山田ゆきのり」は無効となっているなどと主張。町選管は4月、再点検を実施し、票差が拡大。小山田氏の陣営は県選管に審査を申し立てていた。より詳しい解説が今後でてくるだろう。県選管の裁決書もみてみたい。■関連する過去の記事 神栖市長選に関連して過去の裁判所の判断(2026年05月11日) 神栖市長選を考える(何度目か)(2026年05月01日) 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.06.12
コメント(0)
新聞記事で驚いた件。青森県板柳町議会で、定例会最終日の10日に、副町長の現行の定数1人をゼロとする議員発議の条例改正案を賛成多数(賛成6、反対5、議長除く)で可決したというのだ(11日の河北新報朝刊記事)。記事によると、野党系議員3人が連名で提出。提案理由は行財政改革の一環で、サービス残業している職員の処遇改善費に充てるべきとのこと。現在の副町長は2023年6月に選任されている。閉会後に町長は、再議に付したいと語った。そして、今日(12日)の報道(河北新報朝刊)では、11日の町議会臨時会で再議に付し、賛成少数で否決された(賛成6、反対6)。再議に必要な出席議員の3分の2以上の賛成がなかった。地方自治法は、市町村に副市長村長を置くが、条例で置かないことができ、またその定数は条例で定めると規定する(161条)。従って、通常の自治体は、定数条例を有していて、例えば仙台市だと、「本市の副市長の定数は、3人とする。」という1条文だけの「仙台市副市長定数条例」がある。制度的には条例事項なので議会の判断になることではあるが、地方自治法は、副市長村長が市町村長を補佐し職員を監督すること(167条)や、市町村長に事故あるときは職務を代理すること(152条)などを定めており、副市長村長が設定されることを原則としていると解されるので、廃止するのであれば説得的な理由が必要になろう。また、通常の自治体経営のあり方論から考えれば、人口数百人の自治体ならともかく、役場の各部門の全体を統率しつつ首長との間を取り持つ役割、あるいは議会と柔軟な調整をする役割などは重視されるだろう。板柳町の件は、おそらく、町長と議会の対立構造やなんらかの政治的な姿勢の違いが決定的な局面となり、はずみで飛び出した議員提案で、まさかの可決に至ってしまったハプニング、だったのではないだろうか。それとも副町長の言動を問題視した、副町長に対する攻撃だったのか。現に副町長が空席であったのならまだしも(それでも条例はポストとしての副町長を置くかどうかの定めだから、実際にいるいないの問題ではないと理論的には言える)、現任者の任期終了後の適用とするなどの現実的配慮もなく(おそらくそういう議員提案だったのだろう)、副町長を失職させるのだから、異例中の異例だ。事情や経緯がわからないが、仮に、副町長個人の資質を問題視して更迭すべきと考えるのであれば、首長に対して可能な不信任の議決は、副町長に対しては地方自治法上の制度としてはない。ただし、決議を行うなど議会としての意思表明をすることはできるし、住民による副町長の解職請求(地方自治法86条)を誘導することもできる。そのような、「資質問題論」を正面から論じるのなら住民に対して説明もつくのかも知れないが、行財政改革だという論理で組織を踏みつぶそうというような論法は、住民に理解されると思っての行動なのだろうか。そうとう乱暴な議会の動き、と評されるべきだ。賛成派の議員にどれだけ信念があったのだろうか。
2026.06.12
コメント(0)

明日(6月12日)で宮城県沖地震から48年である。昭和53年(1978)のことだった。宮城県内の死者27人、ブロック塀の倒壊や、苦竹のビルの押しつぶされた姿などが印象に強い。河北新報オンラインで、当時の写真マップが公開されている(記事)。その画像を、いくつか眺めてみて、その「地点」を記しておきたい。●日乃出興業ビル 屋上の給水塔が損傷して水が路上に注ぎだしている。左手奥(仙台駅より)には、仙台ホテルの建物がある。●丸光デパート 倒壊した排煙塔が、小道(政岡通りでないか)をはさんで隣接の建物(一ノ蔵、などの看板がみえる)に、もたれかかっている。丸光は、その後、ビブレ、さくら野百貨店だ。●東宝仙台ビル 外壁が粉砕されて落ちている。壁にある次回ロードショーの案内は、スターウォーズ。ちょうど、第1作公開の時期だろう。青葉通りの向こう側には、漢字で十字屋と書かれている建物がみえる。●東二番丁と広瀬通の交差点 停電で信号が消えて渋滞が発生している状況。●宮城学院女子大学 赤レンガ塀が崩れている。中央四丁目にあった頃だ。現在の国際ホテルの場所だろう。●東北学院中高 同様に、赤レンガ塀の崩落。一番町一丁目、とある。●北根黒松 地盤崩落と共に木造アパートが倒壊。破裂した水道管から水が浸透したことが原因という。この画像は、新聞紙面(紙の)にも出ているもの。●苦竹 一階部分が押しつぶされたビル。パロマガス炊飯器の看板がある。奥に見える建物は、とんかつとん亭だ。三角屋根で、妻の部分の壁に、一文字づつ丸で囲まれて店舗名が書かれているのが、なつかしい。■関連する過去の記事(とん亭について)・七北田川を考える(07年10月3日)=寛文の流路変更と舟曳堀。「とん亭」が出てきます・舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)●苦竹三丁目 上記のビルよりやや東。これは有名な画像で、きょうの紙面(紙の)の一面にでている写真だ。三階建てで、一階部分がすっかり潰されて、2階3階も変形している。マルに「は」の赤い文字のおおきな看板が屋上に見える。●若林区卸町二丁目 一階部分が倒壊してビル全体が大きく傾いた状態。会社名だろうか、「オビサン」と書かれている。●若林区新寺 石材店で石灯篭が倒壊。写真に写っている小型フォークリフトに、「●(一文字読めない)平石材店」と書かれている。●太白区郡山 4号バイパス沿いのガソリンスタンド。日本石油とのサインがある大屋根が倒壊している。仙台バイパス給油所、と建物に書かれている。●長町一丁目 完全につぶれた商店。佐藤文雄商店、と読める。隣は、板隆洋服店。●太白区緑が丘 大きく斜面崩壊している。●東北石油 港5丁目。タンクから漏れた油が製油所敷地内に広がっている。また、港内にオイルフェンスを張って流出を防いでいる。■関連する過去の記事 地すべり、宅地災害、土砂災害などの基礎知識(2024年05月28日) 宅地災害フロンティアの東北(2024年05月28日) 宮城県沖地震の体験記(2016年6月29日) 宮城県沖地震の前ぶれか(08年12月7日) 宮城県沖地震から30年(08年6月7日) 宮城県沖の地震(08年6月2日)
2026.06.11
コメント(0)

富谷市が自走式の都市型ロープウエーの導入を検討している話題が、きのうも報道された。市長が南相馬市の実験線を試乗したからだ。ところで、今は、全国にも少ない「駅なし」「鉄道なし」の市だが、かつては駅があった。富谷駅が大和町小野地区に、また、志戸田駅が、富谷市志戸田(国道4号高田橋の南)にあった。後者が現在の富谷市域にあった駅である。富谷駅の痕跡を探訪しようと、二年前に撮った写真があった。最初の写真は、大和町小野地区ののどかな道。パークタウンや東京エレクトロンあたりから新しい道が北に伸びていくが、宮床地区に入らずに右折すると、竹林川に沿った町道に出る。フェンスにしっかり汽車のイラスト。この画像だと右手に、かつて仙台鉄道が走っていたはずだ。次の写真は、軌道跡と思われる(自分の見解ですが)、路盤のあと。最後の写真は、前の地点から西成田宮床線(山下橋より少し東側、富谷寄り)に戻って歩いている眺望。路線跡ではないかと私見です。■関連する過去の記事 新生富谷市はなぜ「駅なし鉄道なし」なのか(2016年10月10日) 駅なし市 いまむかし(09年11月7日)■フリーページをご覧ください 近現代の仙台・宮城(鉄道敷設史含む)(ページの下の方に、鉄道敷設史があります。)
2026.06.02
コメント(0)
先日、石巻に行った際に石巻日日新聞を読んだ。温故知新聞というコーナーがあって、過去の記事を紹介しているのだ。(2026年5月27日石巻日日新聞)昭和の石巻/英吉作「羅漢像」を寄贈 高橋英吉が昭和13年に桂の板に彫ったレリーフ「羅漢像」が19日、石巻市に寄贈された。 贈ったのは同市中央で理髪業を営む磯田義男さん(80)。かつて英吉の実家の水産加工会社に勤めていた兄が、「潮音」の文展表彰式で着用する礼装を英吉に貸したお礼でもらった作品の一つという。当時、東京に住んでいた磯田さんは、戦災にあい「天平人形」などを焼失したが、防空壕に持ち込んだ羅漢像だけが無事だった。 市役所を訪れ、青木市長に作品を手渡した磯田さんは「自分の家のタンスにしまっておいてはもったいない。市に寄付して、大勢の人に見てほしい」と作品が市の宝となることを願った。(昭和56年5月20日)(写真があり、「羅漢像」を青木市長に送る磯田さん)磯田さんの兄が大切にしたこの羅漢像は、どこにあるのだろう。平成になって石巻文化センターに収蔵されたとしたら、津波で被害を受けたのだろうか。石巻博物館収蔵品データベースでは、羅漢像が2つあるが、材質がそれぞれ檜、欅とある。記事には桂の板とあるので、違うのかもしれない。■関連する過去の記事 高橋英吉の名作(2012年11月27日) 高橋英吉と幸子さんの父娘展(10年3月12日) 悲劇の天才彫刻家 高橋英吉(10年1月24日)
2026.06.01
コメント(0)

何気なく、駅で手にした五能線のパンフレット「五能線の旅」。JR東日本と五能線沿線連絡協議会の発行とある。岩館駅(秋田県八峰町)のコーナーで、小入川鉄橋、お殿水などと一緒に写真で紹介されているのが、チゴキ灯台。県境に近い岬にある灯台で、恋人や家族連れに人気、とある。そうです。このメルヘンの世界にあるような小さな灯台を紹介したのは、2013年、このブログでした。ああ、ここまで有名なったのか、と感慨を覚えます。(注、これは事実ではありません)2013年5月。一人旅で訪れたときは、誰もいなかった。2019年に家族で立ち寄ったことがあるが、このときは、何台か車が来ていた(下の写真)。やはり当ブログの影響に違いない(注、事実ではありません)。岬、海、花、柵、そして白い灯台。本当に絵になる。■関連する過去の記事 チゴキ灯台、お殿水(八峰町)(2013年5月17日)
2026.05.24
コメント(0)
蝦夷平定を成し遂げた坂上田村麻呂の成功を支えたのは、道路である。その時代、すでに都から大軍勢を東北まで進軍させられるだけの道路が整備されていた。古代王朝は、租税を全国から集めるためもあり、道路網の整備に注力したのだ。中でも幹線は、大和と大宰府を結ぶ山陽道。東北方面には、都から東山道が造られた。東山道は、美濃、飛騨、信濃をぬけて、いまの前橋市を通り、いまの宮城県内陸部から日本海にはいり、最終的にいまの秋田県にまで達していた。田村麻呂率いる軍勢はおもにこの東山道を通って遠征した。その道幅は広く、幹線道路の場合10メートル以上に達することもあった。埼玉県所沢市で発掘された東山道の一部は、12メートルもあった。(歴史の謎研究会編『舞台裏から歴史を読む:雑学で日本全史』青春出版社、2022年 から、当ジャーナルで要約)所沢市のサイトをみたら、東の上(あずまのうえ)遺跡というのがあって、南陵中学校校庭から12メートルの道路跡が検出され、古代の幹線道路東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)として埼玉県内で初めて確認された、とある。ついつい、現在の東京中心の交通網、また近世の五街道をイメージしてしまうが、古代の官道が、いまの岐阜県→長野県→群馬県→栃木県と、山をのりこえて横断したのだ。いまの埼玉県の道は、東山道幹線と東海道を連絡するもののようだ。後日、古代官道の東山道のルートをよく調べたい。■関連する過去の記事(東山道など) 東北と海の大道(2026年04月18日) 北方へのびる道(2026年04月17日) 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(2010年10月24日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)
2026.05.19
コメント(0)
テレビでやっていた。奇岩が飲み込んだような神社。ぜひ、行ってみたくなった。(只見町インフォメーションセンターの解説)
2026.05.18
コメント(0)

光禅寺通り、仙台青葉教会の辻から少しだけ南に入ったところ。蘇生白虎隊士 飯沼貞吉終焉之地光禅寺通幼稚園跡地 1951ー1991飯沼貞吉、1868年戊辰の役に出陣、會津飯盛山にて自刃、唯一人蘇生、後名を貞雄と改め、1931年この地に没す1991年12月 建之飯沼貞雄終焉の地(幼名貞吉、嘉永7年(1854)生れ) 会津藩士飯沼猪兵衛一正(禄450石)二男。 慶応4年(1868)戊辰戦争の際、白虎隊士として出陣するも飯盛山で同志と共に自刃。偶然救助され唯一人蘇生した。後、白虎隊自刃の顛末を手記に残し、歴史の貴重な証言者となる。 明治5年(1872)逓信界に入り、電信技術者として九州から北海道にいたる全国の電信・電話網の架設に尽力した。この間、明治27~28年(1894~1895)に日清戦争に出征し、朝鮮半島の軍用電信架設を成功させた。明治30~37年(1897~1904)に仙台郵便局勤務、後、札幌郵便局を経て、明治43年(1910)に仙台逓信管理局工務部長となり、以降この地を終の住み家とした。 大正2年(1913)退官。従5位勲4等。昭和6年(1931)仙台にて没。 享年78歳。 父方の祖母に会津藩家老西郷頼母妻千重子、母方の従兄妹に山川浩、山川健次郎、大山捨松あり。〔おだずま注:次の一文は読めるが、カバーされている。おそらく、言及している樹木が、2013年以降現在までの間に伐採された。〕 2013年8月 貞雄孫飯沼一浩、同一宇、同一元 建立
2026.05.17
コメント(0)
何気なく決算や人事の記事を眺めていて、山形銀行の社外取締役に、元県教育長が就任し、原田啓太郎社外取締役が退任するという。お名前からして、原田製作所を起こして戦後山形の機械工業を牽引した原田好太郎さんの御親族の方だろう。昨年の勉強を思いだす。同じ紙面に、「やまや」の創業者山内英房取締役ファウンダー、妻の山内一枝取締役副会長が、それぞれ退任するとの記事もある。英房氏は91歳、山内英靖代表取締役会長の父で、1970年に株式会社化し、社長、会長を歴任したとある。■関連する過去の記事 原田好太郎と山形の機械工業(2025年01月25日)
2026.05.16
コメント(0)
最近、大崎市田尻地区を通って、気が付いて驚いた。大崎八幡神社があるのだ。地域名にも八幡があるが、明治の町村制で田尻村ができる前は八幡村だった。あ、そうか。数少ない仙台の国宝、大崎八幡様は大崎から移したというが、もとはここだったのか。大崎八幡宮のサイトには、次のようにある(当ジャーナル要約)。坂上田村麻呂が武門の守護神である宇佐八幡宮を旧水沢市に勧請し鎮守府八幡宮を創祀した。奥州探題大崎氏がこれを自領内の旧田尻町に遷祀し、大崎八幡宮と呼ばれた。大崎氏滅亡後は政宗公が岩出山城内に御神体を遷し、仙台開府後は城の乾(北西)の方角の現在地に、旧領米沢の成島八幡宮とともに、祀られた。知らなかった自分がいうのもおかしいが、もっともっとPRするべきでないか。先日、田尻の記事を書いた。蕪栗沼も有名だが、縄文の遺跡から、中世の城柵、近世では萱刈潜穴などの先人のすばらしい遺産もある。すばらしい地域だ。■関連する過去の記事(旧田尻町)●田尻の謎を解く(その2)(2026年05月12日)●田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.13
コメント(0)
田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)に続く記事です。前回記事では、解ききれなかった謎に、今回ついに踏み込んでいます!前回は昭和58年の田尻町史を調べたが、実は、それとは別に、田尻町史編纂委員会編纂、桜井宇京編集、『田尻町史』(昭和35年8月)があるのだった。読んでみた。昭和の合併における新町名と役場の場所についての部分を、下記に記す。(当ジャーナルで適宜まとめている。)1 昭和の合併の経緯(なお、前回記事とも内容は重複)町村合併促進法施行(昭和28年10月)頃から、合併機運は旺盛。しかし、実際に動きが具体化したのは、田尻町が12月中頃に、4か町村(田尻町、沼部村、大貫村、中埣村。通称河北4か町村)による合併案を呼びかけたのが始まり。各村の与論は区々で必ずしも田尻町案に同調する機運ではなかった。しかし、翌29年1月に至り、沼部村の与論が田尻町案に傾き、村当局も積極的に。たまたま県試案が発表されたが、4か町村案と、小牛田町、不動堂町、北浦村、敷玉村のうち堀切・松ヶ崎・梅ノ木、及び中埣村による合併案となっていた。これは中埣村住民の与論が、田尻ブロックと小牛田ブロックの二派に分かれたことを考慮したものだった。県試案の発表を契機に合併の機運は益々高まる。中埣村は3月7日、帰趨を決する住民投票を行い、投票総数1624(うち持ち帰り4,無効3)、小牛田ブロック賛成945,田尻ブロック賛成672をもって、中埣は脱退にいたった。このことが田尻、沼部両町村を強く刺激し、両町村から大貫村に対する働きかけが強力に行われた結果、3月15日、合併期日を5月3日とし、法定の合併足趾協議会を設置することで一致した。3月27日の第1回協議会を皮切りに数回協議を重ねる。その過程で、町名、役場の位置等で紛糾もしたが、ついに基本的事項の決定をみ、4月10日沼部大貫両村議会、11日田尻町議会が議決に至った。2 紛糾の内容以下は、昭和35年の町史の記載のうち、合併協議会の議事録で、町名と役場位置に関する部分を書き出す。ちょっと長いが、紛糾の様子がよくわかる。(当ジャーナルで適宜簡素化。)●合併協議会議事録、第2回(3月31日)から田尻、沼部、大貫の順に、第一項(新町名)の提案を説明。沼部(宮崎):町名の審議は後回しとして審議しては如何田尻(高橋):本日の審議の進行はいかなる方法で決定するや議長(富田沼部村長):できるだけ満堂一致で決定したい。田尻(沢田):小牛田ブロックの方法は遠田地方事務所長(餅):満場一致で決定した。できるだけ満場一致で決定してほしい。小牛田ブロックは最後に決定した。議長:沼部宮崎氏の発言通りで如何。賛成の声有り。(中略)第三項(町村役場支所又は出張所の統合整備に関する事項。内容は、1号役場の位置、2号増改築方針、3号支所出張所の位置など)について。田尻(山村):役場は、増改築が不要な旧田尻町役場を本庁としたい。沼部(宮崎):将来の新町の発展を考えるべき。田尻(山村):庁舎位置は町名とともに重要だから、休憩して座談的に決定すべき沼部(中峯):町名とは関係がない。田尻(山村):関連性ではなく、重要ということだ沼部(宮崎):いままで何か話し合いがあったのなら、紳士的に満場で決定すべき沼部(柳原):新町の中心部におくべき大貫(高橋):休憩せず決定すべき田尻(後上):他官庁との問題、人口密集等を考えた場合、また、旧中埣村の一部合併問題もあるので、旧田尻町役場とすべき大貫(林源):役場は中心に置くべき。また大貫村民には遠くなる。大貫(遠藤):大貫村としては何も利益のない合併なので、旧田尻町役場とすれば、合併して不便となる田尻(菅原):田尻町案は現在当分の間ということでその後は移転されるもので、田尻町案に賛成議長が休憩を宣言。15分後再開。沼部(宮崎):大貫案に賛成。賛成の声1、2名。田尻(佐助):田尻町としては引くことができない。地方事務所長の参考意見は沼部(加誠):我々委員で決定すべき田尻(宮崎):田尻案は合併に経費がかかるので当分の間の庁舎であり、将来沼部に新築は何も差し支えない沼部(宮崎):田尻も沼部も言葉に表し得ぬことがあると考えるので一応大貫村案に賛成。裁決(ママ)すべきなり。裁決、裁決とさけぶ声有り大貫(佐々木):当分の間田尻に置くのは良いが、役場位置を決定しておくべき田尻(佐助):大貫としては1号(役場の位置)の問題は了承したのではないか大貫(佐々木):当分どこで事務を執るとも、場所はここで決定すべき沼部(加稔):役場の位置は大貫村案のとおりで、位置は沼部村富岡、として、仮庁舎の件は2号(増改築の方針)で定めるべき田尻(佐々敬):田尻町案の書き方は間違っているのでないか。2号で審議すべき沼部(柳原):位置を沼部に置く、ただし増築新築までは旧田尻役場を使用するのは村民に知らす方法を知らず、反対大貫(遠藤):田尻町案の修正はいかに田尻(佐々敬):当分の間とは、仮庁舎の意味田尻(山村):将来の新築計画は合併後にすべき大貫(伊藤):田尻町助役(山村)に反対。この会議で決定せねばかえって後に禍根のこす。議長裁決せよとの声1人田尻(宮崎):役場の位置を決定していた場合、将来議会で変更できるか地方事務所長:禍根を残すからここで決定してほしい。ここで決定した場合、その決議は有効議長休憩を宣言。再会(ママ)は午後1時30分。議長:休憩中いろいろ審議せるも結論を得ず。よって本日はここで散会に決定。沼部(加稔):議長、散会とは何か。休憩中にいかなる状況か説明もなく納得いかない。その通りの声が多し議長:散会の決定を取り消す。改めて、散会か続会かを諮る。田尻(佐助):二三日おいて再開が良い沼部(柳原):続会して審議を田尻(菅原):議長の取り消しはいけない田尻町側委員が退場退場との声あり。騒然となり記録不能。田尻町側7名退場せり。大貫(佐々木):退場が今後悪例となるので会議を続行してほしい議長:再会を諮る沼部(加稔):続行してほしい。田尻の理由を示さず退場は遺憾佐々木田尻町長、田尻町委員の無断退場を陳謝田尻(山村):二三日考慮したい旨述べているので、その点議長から伝えてほしい議長:ただ今の田尻町助役の言を全員に伝え、続会か散会か一堂に諮る。議長は非常に苦しい立場で迷っているから皆さんの意見をはっきりしてほしい大貫(林源):続会に賛成だが、田尻の二三日の余裕は見通しあってのことか田尻(佐々敬):5月3日の合併に支障ないよう努力する沼部(加稔):佐々木町長と助林役の意見は了承するが、退場した田尻町議長(佐々木助五郎)は遺憾だ田尻(山村):田尻町としては全部取り入れられない状況なので、二三日研究させてほしい沼部(中峯):退場は遺憾だが、後日田尻が同意された場合考えることとして2か村の意を考えてはどうか沼部(加稔):3か町村合併を2村のみで会議はできないから、本日は閉会してほしい沼部(柳原):退場した委員は田尻町の半数だから続行して差し支えない大貫(林源):退場の理由を明らかに議長:柳原に、半数でなく5名(おだずま注、合併協議会は各町村から12名の委員で構成)、林氏に対し、1号の役場位置は沼部村富岡に置くことは田尻も了解、2号の仮庁舎は、新築まで旧田尻町役場に置く点は大貫村は絶対に譲ることができないとのことで、この2の点で意見の相違あり退場したと思われる大貫(林源):それを二三日研究してどう決定しても、大貫村は絶対に譲歩できない田尻(佐々敬):大貫林氏に対して了解できるよう説明した大貫(遠藤):どこまでも続会を希望。2か村の合併も考えている沼部(加清):議長の宣言の非をせめる議長:散会は取り消したので非はないから了承を。田尻の委員5人も残留しているので、続会か散会かを諮っている。改めて続会かどうか諮る続会の声多く、異議なしの声も。大貫(伊藤):続会も良いが、田尻の残留委員は参加するのか、2か村だけでやるのは違法だ議長からこの旨たずね、田尻町委員回答なし沼部(柳原):同席していれば参加したことになる大貫(佐々木):議事規則には過半数で進行できるが、一応二三日待つ方がよいかと。同じことをしばらく繰り返す。違法問題で騒然となる。休憩状態にはいる。大貫(伊藤):前言の違法を取り消した議長:再会の宣言を明確にして議事進行してもよいのだが、田尻町委員が半数以上退場しているので、今後退場等の絶対ないこととして、本日は散会しては如何大貫(遠藤):田尻の修正案は今までの会議の線に近づけて提出を議長休憩を宣言。再会して第三回協議会日程を決定す。●合併協議会議事録、第3回(4月3日)から・議長(大貫村長):本日の議長は前回のゆきがかり上、富田副会長に。なお、会議の前に懇談30分行う・議長(富田):10時30分まで懇談を懇談が時間が延びて、その間昼食。・議長、午後1時再開を宣する・議長:第三項1号の件(役場の位置)について、懇談中の結論に基づいて決したい。・田尻(佐助):沼部案に賛成・沼部(中峯):その地区内としては如何沼部案に賛成の声多数議長:1号の件、沼部案に賛成の声有るが如何、満堂賛成。2号(増改築の方針)上程。田尻(佐助):大貫案に賛成満堂賛成。3号(支所出張所など)上程、大貫案に満堂賛成。4号上程。田尻(佐助):4号は田尻案に決してほしい大貫(遠藤):大貫案にしてほしい田尻案多数の賛成有り、田尻案に決定。5号を上程、田尻案に決定6号を上程、大貫案に決定。以上で第三項を全部決定。田尻(佐助):第一項にもどって審議を。賛成の声多数議長:第一項、町名の件を上程す大貫(遠藤):大貫案通り遠田町としてほしい。遠田の遠、田尻の田とした大貫(門間):過去の状況、田尻米のこと等から、田尻町としてほしい大貫(岩井):合併合体の意味から遠田町県(二上地方課主事):番外として発言、合併町村の町村名の状況を説明沼部(加稔):町名は自主的に決定したいので番外者は発言を遠慮を田尻(佐助):田尻米として全国に知られている、田尻町で沼部(加誠):田尻案に不賛成沼部(中峯):沼部村の委員だけの協議を希望大貫(遠藤):中峯氏の案には不賛成議長、休憩を宣言午後2時10分再会を宣言。休憩中の結果について、沼部(中峯):決定しかねたので今日は閉会してほしい大貫(遠藤):遠田町に関わる適当な町名であれば、あえて遠田町を固持(ママ)しない大貫(瀬戸):続行して決定を沼部(宮崎):休会して研究することにして今日は散会を沼部(宮崎):賛意大貫(遠藤):休憩を要求議長休憩を宣言。大貫村委員、田尻町委員、各別室で審議。大貫(遠藤):町名は遠田町とし、高校と病院は旧田尻町新町付近に建築を。もし町名を田尻とするなら、病院は駅より大貫村寄りに。また高校は廃止して沼部村に小牛田農林高校分校を置いてほしい。議長:田尻町の委員の意見は田尻(山村):田尻町の案は私心がないもの。なお、役場は駅近くにするので病院は旧田尻町にしてほしい大貫(遠藤):消防本部は旧田尻町にして遠田町とする田尻(山村):病院は大貫診療所を病院と同じ設備にしてほしい。なお、家政専門学校を大貫村に設置は差し支えない議長:一同に諮る。田尻(佐助):第三項の案で譲歩したのだから、今また町名に異議があるとは考えていなかった。駅名をとることでは如何大貫(遠藤):遠田町を固持(ママ)田尻(宮崎):病院は大貫村にあるので、田尻・沼部の中間に立ててほしい。高校は、小牛田農林分校は反対。田尻高校の独立校として場所はどこでもいいから存置を希望する大貫(遠藤):大貫の病院は独立で建築したもの田尻(山村):田尻が全国的に知られている田尻(千葉):町名の話に病院や学校が条件づけられているが、提案事項のみの審議とせよ大貫(遠藤):7項と同時に審議を。議長:休憩を宣言。15分後再会。田尻(菅原):第1項の町名を譲歩したという経緯を明確に。議長:一案は遠田町、二案は田尻町で条件付き大貫(議長):3号は決定されたので町名とは別。田尻(佐々敬):総合的に審議しても良い沼部(中峯):条件付きで田尻町として良いとの話なので、病院を考えず授産場等を拡大すべき大貫(岩井):急がずに進めていくべき議長:本日は結論にならないので、散会と本協議会解散の重大なる2案が出たが如何沼部(久保):散会が良い大貫(伊藤):一問題ごとに散会しては議長:県では19日の県会で審議決定するので、本日散会では5月3日の合併がどうかとなる再び休憩、午後5時10分再会沼部(柳原):町名は田尻町として、7項の問題を考え、学校病院等は田尻駅付近として、総合的に考えて町名は田尻町とすべき沼部(加誠):田尻町の名は不賛成沼部(加稔):第一項第1号の審議も必要だが、総合的に全部審議の必要あり、小委員会を設けてその後本協議会で審議では沼部(宮崎):紳士的に定めていきたい。総合病院は旧田尻町、高校は旧田尻町新町へ沼部(加誠):町名は総合審議してはどうか沼部(柳原):委員付託としてその報告通り決定する方法も議長:沼部加誠案はどうか諮る。賛成の声、不賛成の声あり田尻(佐々敬):小委員会にて総合調整委員会としては大貫(遠藤):大貫の代表意見として、町名は新町名、病院その他は全部田尻町へ、他は何も要求せず、遠田町は譲らず議長:小委員会は必要か必要ないとの声有り田尻(佐助):調整委員会でいくべき大貫(林源):委員を引き受ける人はない沼部(中峯):このまま会議を進めるべき大貫(遠藤):役場は少しくらい遠くていいが町名は遠田町沼部(中峯):町名は田尻、病院・学校は沼部に置けばいい大貫(遠藤):町名は賛成できず沼部(宮崎):町名は田尻町で大貫に了解いただいてその他の事項は後日研究では沼部(加稔):結論出ないと思う議長:皆さんの意見で沼部(柳原):歩み寄りの線が残るよう散会して後日再会しては。そうでなかったら解散が良い賛成の声有り議長:町名の問題で散会となると後の審議にも影響沼部(宮崎):町名を田尻町とすることで大貫村の公式発言あるのか議長:田尻町とした場合、病院は大貫寄り、高校は小牛田農林分校とするよう、第二案として発言有った沼部(加稔):ここまでくれば結論出ないから閉会を。打ち切り解散は希望しない議長:5日に再会で如何休憩状態となり、議長休憩宣言。再会。議長:大貫村提案の第一案か、第二案か再び休憩状態、午後6時40分再会宣言議長:休憩中に話し合い結論が出たようなので、町名の件審議を得たい。大貫(佐々木):署名員は如何に議長:前回同様一同了承大貫(遠藤):休憩中に第7項の問題と関連していろいろ話し合いされたので、その点了承した。喜んで町名を田尻町とすることに賛成する。妥結の要点は以下。1.旧大貫村直営診療所を拡充して丁型の国保病院とする2.旧田尻町・旧沼辺村中間道沿いに、病院を新築する3.旧大貫村に講堂兼体育館各150坪を新築する4.旧大貫村の家政研究科を整備拡充して、家政専門学校とする5.高等学校を統合し、家政科を併置して、田尻駅付近に建設する議長、休憩を宣言、休憩中に一同了解。再会を宣言して、大貫遠藤氏の言を再確認するため一同に諮り、満堂賛成。これにより議長は第一項新町名を田尻町と決定する旨を宣言した。3 田尻駅の名称について東北本線が本町を貫通したけれども、停車場は小牛田と瀬峯(ママ)に頼る不便があったので、庁内に停車場を設置してほしいというのが宿願であった。とくに地方物産の米穀その他の移出と地方開発に痛切な必要を感じたのは田尻地区町民であった。29年以来、設置について地元沼部地区の有志と協議の上、再々、停車場設置の請願書を帝国鉄道庁に提出し、他方、代議士菅原伝に陳情した。遂に認可され、明治41年起工、同年俊成、業務開始。昭和35年町史には、上記の趣旨が書いてある。駅名はスンナリだったのだろうか。4 郵便局の名称気になったのは、郵便局の名称。現在の郵便局は、「本田尻」と「田尻」だ(ほかに大貫も)。昭和58年町史には郵便局の記載がないが、昭和35年町史には数ページにわたって、記載がある。ごくごく一部だが、下記の通り。・田尻郵便局(局員19)、明治7年創設。明治29年田尻町字町の大火で類焼。・沼部郵便局(局員23)、昭和4年設置。区域は新田尻町のうち、旧沼辺大貫の両村なお、郵便関係の歴史をまとめた資料では、昭和55年1月時点で、次のように記されている。・本田尻 田尻町田尻字町浦、定員14・田尻 田尻町沼部字新富岡、定員21以上から、昭和55年までに、沼部局が田尻局に、田尻局が本田尻局に、それぞれ改称していることになる。日本郵政グループのサイトでは、「もとたじり」と読む。5 感想私は、人家密集している田尻と沼部の対立の図式化と予想したのだが、新町名については大貫村が遠田町を主張したが、沼部村は沼部の名を主張することはなく、役場位置については田尻町が自町を主張したいようだが、病院や高校の配置とも相まって、新町の中央の沼辺におさまったという感じだろうか。駅名は、すでに知名度がある一帯の名として田尻の名として、沼部も反論がなかったものと推察。なお、本田尻(もとたじり)の表現は、郵便局だけなのか、地域でも浸透しているのか。やはり、地域の人に聞いてみようか。■関連する過去の記事(旧田尻町)●田尻の謎を解く(その1)(2026年05月09日)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.12
コメント(0)
朝日新聞に、票の有効無効をめぐる過去の裁判所の主な判断が載っている記事があった。(5月9日、原晟也、野口駿の署名。デジタル版は11日)・(記載の内容)チョキ →有効(木村長吉候補は「チョキ」と呼ばれている)、1952、仙台高裁・○トミ →無効(通称がマルトメだとしても、文字による投票と言い難い)、1952、名古屋高裁金沢支部・ホンテン →有効(柴田四郎右衛門候補の家は酒屋で、「ほんてん」は、柴田本店の略称として使われている)、1978、最高裁・イシイマ →有効(石井若三郎候補を「イシイサマ」と記載しようとして「サ」が脱落したもの)、1956,東京高裁・サワダケイ →有効(沢田操候補に対して「沢田兄」の趣旨で書いた票で、「兄」は敬称)、1951、仙台高裁・石田親分 →有効(親分は一種の敬称であることに疑いない)、1954、東京高裁・カガヤアンコ →無効(アンコは敬称でなく若い男などを意味する蔑称で、他事記載とすべき)、1957、最高裁こうみると、本当に微妙だ。以上は、記事の中で表として解説されているものだが、記事の本文の中にも過去の実例がある。・1950年代、新潟県堀之内町議選、「カジ」が鍛冶業を営む候補者の通称として、裁判で認められた。(当ジャーナル補注)この件は、神栖市選管も有効とする理由として挙げていた)。・2005年鳴門市議選、「バンド ヒゲ」が有効に。坂東という前職がヒゲの写真やイラストを使用、また一部市民からヒゲさんと呼ばれていた。・2015年大竹市議選、「キタジタカシ」を市選管・県選管は北林隆候補の票として有効としたが、無効と判断。北地という別の候補と取り違えた可能性あるとした。誤記の場合は、他の候補者と解釈されうるかどうかが、判断の分かれ目のようだ。■関連する過去の記事 神栖市長選を考える(何度目か)(2026年05月01日) 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.11
コメント(0)
素朴に感じている疑問。旧田尻町は田尻と沼部に2つ密集地があるが両者の関係はどうなのだろう、例えば、沼部地区の駅名がなぜ田尻なのか。また、昭和の合併で新町名で揉めなかったか。田尻町史編さん委員会編集『田尻町史 下巻』(昭和58年3月25日発行)をもとに、調べた。1 田尻の地域区分史の概略明治の町村制では、遠田郡に1町(涌谷町)と11村ができた。田尻地区では、大貫村、沼部村、田尻村が成立。その後、明治35年に田尻村が単独町制。小牛田町(明治40年単独)より先の町制である。昭和29年に、田尻町、大貫村、沼部村が合併して、田尻町が発足する。2 明治の町村制について明治21年4月、市政町村制が公布され、翌年4月1日に施行、あたらしく田尻、沼部、大貫の3か村が成立した。県は政府の訓令に基づいて、一町村およそ300から500戸を標準としながらも、町村の旧慣、現状を考慮し、民情にそむかぬように、郡長の意見、地方民の希望にできるだけそうよう配慮した。合併後の新町村名を付けるときも、旧村を大字として残すなど、意外なほどに慎重な考慮を払った。たとえば、県の作成した合併試案の変化にもよく表れている。このなかで、大嶺、八幡など北西部の6か村で大幡村という全く新しい村域を構想したのは面白い。田尻村554戸、沼部村514戸、大貫村292戸となった。・田尻村 ←旧村名(数字は戸数):田尻(260)、大嶺(68)、八幡(44)、小松(42)、通木(41)、諏訪峠(13)、沼木(20)、中目(40)、北牧目(26)・沼辺村←沼部(242)、小塩(81)、大沢(102)、桜田高野(14)、北高城(8)、北小牛田(67)・大貫村←大貫(189)、蕪栗(103)大貫村が小規模なのは交通、地理上やむを得ないことだった。新村の組み合わせの後、新村名を付けるときに一悶着が起こった。たとえば沼部村では、連合村時代の村会議員たちが大沢村を主張し、あるいは、大沼村、鶴城村を持ち出すなど容易に定まらなかった。結局、沼部村に落ち着いたものの、藩政期以来の沼辺村の「辺」をさけて、沼「部」村と字を変えた。村役場は、田尻村が新町田尻に、沼部村は沼部館浦の八幡社境内におかれた。ともに前代の戸長役場を踏襲した。大貫村役場は祇劫寺内におかれた。その後、田尻村役場は、著しく老朽化したため、昭和7年に至って議会で庁舎位置を町浦22番地内に決定、着工。請け負った会社の倒産などもあったが、8年末に完成、昭和30年まで存続。沼辺村役場は旧修験寺道場であり老朽が甚だしく、昭和9年、沼部字富岡183の21、もと産業組合事務所跡に新庁舎を建築した。大貫村役場はまもなく大貫館山館跡に写った。それから明治33年3月、ふたたび字宿にもどって米谷源之丞別宅を借り受け移転。41年に大貫字2また71番地、高橋氏居宅の一部を借りる。大正13年に大貫海上春見所有の居宅を買い入れ、小学校運動場東に建築することとした。3 東北本線田尻駅について東北鉄道の敷設と小牛田駅の開業で、駅前に米穀肥料商が進出したばかりでなく、総じて田尻地方での地方商業資本の続出と成長を授けることとなった。これらをもたらした一つが道路整備。明治22年に遠田郡役所から小牛田、中埣、田尻、沼部、北浦、富永6か村に指示があり、小牛田駅から高清水村に至る街道(高清水街道)の修築が目的であった。前代までほとんど藩政期の脇街道そのままだったものを、路幅を広げ、屈曲を直し、近代的道路に替えるものである。明治22、23両年度の事業として、それぞれの村会で、組合設立(小牛田村外5カ村組合)と分担金を決議した。分担金は田尻村の負担が最も大きい。高清水街道の修築と同時に、県議で中埣村出身の鈴木丙二は、自費で江合川に橋を架け、高清水街道を南北に結んだ。通行料をとったので営業橋という。34年に県に買い上げられ、遠田橋と呼称。明治41年12月田尻駅の開業とともに、田尻駅前には田尻合同運送株式会社が興った。町史にはほかにも鉄道と地域経済の変貌ぶりなどが記載されているが、田尻駅の位置や名称についての経緯は記載がなかった。ただ、22年の組合6カ村の「告第1号」には、次のような内容がある。(概略)1 修築すべき路線区分第1区 小牛田停車場より小牛田駅まで第2区 北浦村より中埣駅西出口まで第3区 中埣駅西出口より田尻駅横町入り口まで第4区 田尻駅出口より旧道を経て栗原郡界までここで、停車場が鉄道駅のことで、北浦、中埣、田尻は、近世からの継立や宿駅としての意味なのだろう。停車場としての田尻駅については記載がない。まったく想像なのだが、開業当初は停車場の計画はなく(反対運動に対する配慮もあったか)、その後地元の機運も沸き上がり設置した際に、場所は沼部だが、宿駅としての交通上の地位の重要性から、また先に町制を単独で施行した(明治35年)こともあったか、停車場名は田尻でおさまった、か。4 昭和の合併田尻町長佐々木敬一は田尻、沼部、大貫、中埣の4か町村による合併案(河北ブロック)を打ち出し、関係町村によびかけた。各町村ではまだ合併機運が熟さず、29年1月にいたって沼部村の与論がようやく田尻町案にかたむく。こうしたときに、県試案が出され、中埣村は、河北ブロックと同時に、小牛田ブロック(小牛田、不動堂、北浦)にも属する形となった。当時中埣村では、村民の意見も二つにわかれ、村当局は収拾に苦慮しており、県試案もそれを顧慮したものだった。2月に4町村長、議長が会合したが意見の一致を見ず、一方、中埣村当局は村民投票で帰趨を問うこととし、3月7日住民投票、小牛田ブロック参政954票、田尻ブロック参政672票で、小牛田に決定した。これがかえって3町合併機運を急速に盛り上げた。3月15日には話し合いで合併期日を憲法記念日の5月3日にすることなどで意見が一致。しかし、合併促進協議会の新調建設計画策定では、とりわけ新町名と役場位置で紛糾した。ようやく第4回協議会でまとまり、翌4月6日に正式に新調建設計画が作成された。役場の位置は、旧沼辺村字富岡。なお、一時仮庁舎として、旧沼辺村役場および近接家屋を借り上げて充当する。役場位置とは、田尻駅前富岡であり、32年9月着工、33年4月竣工。沼部字富岡183の3番地。県内で初めて円形庁舎。町村合併は、29年4月1日の1市3町(白石、小牛田、鳴子、岩出山)に次いで、二番目の新町である。5月5日、沼部小学校講堂で新町開庁式を挙行した。4 当ジャーナル補足上記(3)のとおり、新町名と役場位置で紛糾したとあるが、じっさいにどのように紛糾して、どんな案が浮上したのか、などは記載がないようだった。地図を眺めて気づいたのだが、郵便局名が、田尻地区(田尻町浦)が「本田尻郵便局」、沼部地区が「田尻郵便局」だ。このへんにヒントがあるかも。後日調べます。(だいたいこのようなことは、地元に長く住んでいる人に聞けばわかることなのですが...)〔当ジャーナルからお知らせ〕次の記事(下記)で、謎を解いて(?)います! ご覧ください。田尻の謎を解く(その2)(2026年05月12日)■関連する過去の記事(旧田尻町)●加護坊山(2026年05月04日)●涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日)= 政宗の岩出山移転の際に、伊達三傑の一とされた亘理元宗は、遠田郡に村替えになる。はじめ、大沢村の百々城を与えられ、間もなく涌谷城に移る。百々城は田尻駅東南の丘陵で、岩出山城の南の抑えとして要地だった。●宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日)= 当初計画は、吉岡ー古川ー築館ー一関の奥羽街道沿いだったが、三本木や金成が難工事だったことと、松島、塩竈に近くなることから、小牛田ー瀬峰ルートになったとされ、山地の少ない田尻を通ることになった。小牛田村長の奮闘も伝えられる。●幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)●気仙沼線の歴史とBRT(2015年9月22日)= 大正11年の改正鉄道敷設法の別表による予定路線には、「気仙沼より津谷、志津川を経て前谷地に至る、津谷より分岐し、佐沼を経て田尻に至る」鉄道が含まれた。その前半部は昭和52年に気仙沼線として全通。後半部は、気仙沼線と東北本線田尻を短絡する路線だが、実現していない。●組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)= 定時制分校の数が多すぎ、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格した。●奥州仙台の三大名数シリーズ(寺社仏閣)(07年8月21日)= 大崎八幡社について。栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮とともに、奥州三八幡という。大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。
2026.05.09
コメント(0)
伊東市の市民団体が田久保前市長に、議会解散に伴う市議選や市長選の費用約8千万円を賠償させるよう、市に住民監査請求をしたとの報道があった。大変興味深い事案だと思う。形式上は、法律に基づいた権限行使だから、賠償責任を問うためには、この権限行使が法に反するものと評価されなければならない。地方自治法242条(住民監査請求)は、違法又は不当な公金の支出、と定め、同法242条の2(住民訴訟)は、違法な行為、と定める。意外と知られていないように思うのだが、住民監査請求の場合は、「違法」でなくても「不当」であれば、賠償責任を肯定する勧告ができるのに対して、住民訴訟の場合は、「不当」では賠償責任を問えないことになっている。「不当」とは、違法(法令の規定に違背すること)とまではいえないが、行政活動として実質的に妥当性を欠くことであり、不当な公金の支出の具体例としては、理由もなく特定の団体に補助金を支出したり、時価より高い物品等を購入するような場合である(松本英昭)。逆に言えば、訴訟では不当性の判定はしないが、監査の段階では、不当なので賠償せよ(ただしくは賠償させるよう首長に言う)と勧告することができる。法規に照らした厳格な法律関係の確定という司法活動(憲法上の司法権の範囲には含まれない客観訴訟だとしても)とは違い、行政活動の違法性のみならず合目的性を柔軟に判断する監査委員の権限として武器を与えているものと考えることができるだろう。監査委員の活動それ自体も行政の一環であり、団体自治の自浄性なり統率性の発揮を期待されているとも言える。首長が好き勝手に税金使うのを許すのか、ということだ。今回の事案では、どうだろうか。まず、住民監査請求で前市長の賠償責任を認めるために「違法」とするなら、たとえば地方自治法2条14項(最小の経費で最大の効果)を根拠にすることが考えられそうだが、他方で、首長による解散の権限は法に明示されているものだし、不信任と解散について理由は限定されておらず(地方自治法178条)、首長と議会のねじれを早期に是正させるための仕組みと理解すれば(ねじれ是正が住民の利益になる)、理由はさほど重視すべきではない、つまり、今回の件では不信任や解散の理由がないから違法だという論法は困難だとなるように思う。また、失職による市長選挙は直接には議会の不信任の結果だから前市長の責任と構成するには難がありそう。まず難しいだろう。しかし、「不当」なら可能性はあるようにも思う。世に争点とされたのが卒業したのかどうかという前市長の個人的な事項に属する問題であること、解散したとしてその問題は解決するとは言えないだろうこと、当の本人はダンマリを決め込んで「解決」の姿勢もみえなかったこと、刑事手続きも行われているほど特異であること、などを重視して、他方で客観的に市政が停滞したこと(重要な意思決定や議会決議などが事実上できない状態でいたことのコストは大きい)のバランスからしても、想定される市長の権限をおおきく踏み越えて恣意的に行使したものだ、という方向だ。それでもなおハードルは高そうだが、市民の不利益が尋常ではないことと前市長の主観的態様を際立たせることで、可能性はあるように思う。次いで、住民監査請求が棄却されて住民訴訟に進んだ場合はどうだろうか。違法というためには、権限の濫用の法理しかないだろう。では、どこからが濫用と認められるかは、相当難しい。また、かりに、監査請求による勧告があって、市から賠償を求められた前市長が、訴訟の場で争うことも考えられるが、裁判所は、監査委員の勧告について自律権を尊重する姿勢をとるのか、も関心がある。これまで、首長の個人責任が問われた訴訟はわりと多いはずだから(三セクへの支出など)、時間を見て調べておきたい。〔随時内容を追加します。編集長〕以下、今回の経緯を整理。・昨年5月 田久保氏市長就任・9月 市議会が全会一致で不信任決議を可決・市長が、議会を解散・市議選(定数20)で決議案賛成派19名当選・10月 再度の不信任案可決、市長失職・12月 市長選、田久保氏落選・今年3月 有印私文書偽造同行使で在宅起訴■関連する過去の記事 大衡村の議会解散を考える(2015年3月18日)
2026.05.08
コメント(0)
たまに思うことだが、立憲主義を破壊するなどの論法で、為政者、たとえば高市政権の政治姿勢を批判する論調がある。言いたいことはわかるし、憲法が組み込んでいる権力抑制の仕組みたちを軽視したり踏み越えるようなことは抑制的であるべき、という趣旨なら理解もする。しかし、政治的手法が横暴だとしてそれを批判する場合に、独断さや国民の理解や共感を得ていないことを説明すればいいのに、わざわざ「立憲主義」を持ち出して、それも憲法の規範的論議の作法もさほど行われず、一方的で乱暴で度が過ぎる、と感じるときがある。今朝の河北新報にジャーナリスト尾中香尚里さんの評論文があった(5月6日。共同の配信か)。当ジャーナルで論旨を書き出すと、次のとおり。・高市首相は、来年の党大会までに憲法改正発議にめどを立てることに意欲をしめした・唖然とするのは、首相が憲法を理想の国の姿を物語るものとしたこと・憲法は国家の恣意的な権力乱用を縛るもので、その根本を首相は理解していない・立憲主義は個人の尊厳を最優先するものだが、首相はむしろ国民を国家に従わせる真逆の姿勢・今年1月の無謀な自己都合解散は、有権者に投票先を考える時間を与えず、およそ国民を個人として尊重したとは言えない(a)・当初予算案を衆院でまともに議論せず強引に通過させたのは、代表たる国会の意思も尊重しない態度だ(b)・武器輸出を原則容認する4月の閣議決定は、国会に説明もない政策転換である(c)・選択的夫婦別姓は、名前に関する個人の決定権の問題で憲法の要請から必要不可欠な政策なのだが、首相にはどこ吹く風だ(d)・そんな首相がもくろむ改憲は、憲法の存在意義自体を変えることにつながりかねない。すなわち、国家権力を縛るのでなく、権力側が描いた国家の形に国民を従わせるものだ・そんな憲法を変質させてしまいかねない改憲は、あってはならない・憲法改正の正しい姿は、国家ではなく国民から声が高まったとき国会がそれを受けて発議する形しかないごく簡潔にまとめれば、「(ア)高市首相は国民の総意に基づかない独自の内容の憲法改正に前のめりだが、(イ)これまでにも憲法の根本を踏まえない政権運営(具体的にaからd)をしてきた首相のことだから、(ウ)憲法じたいを変質させる懸念があり、とても容認できない」となろう。まず、(ア)で論者がいうのは、改正の具体的内容についてではなくて、国民が求めていないだろう姿に従わせるという姿勢を問題視している。論者からすると、国民から声が高まって国会が発議するのだと良いというが、憲法96条は各議院の総議員の3分の2の賛成をもって国会が発議して、国民投票に付することを定めている。なにをもって「国民の声が高まったか」を問題視するのなら、それは、まさに代表たる国会(各議院)が熟議のうえで、主権者である国民に発議できる状況と内容とタイミングであるかどうかを判断することでしかない。まさか「総意」を憲法学者やマスコミが赤旗白旗を挙げて判定するなどありえない。そして、議院内閣制である我が国では、発議に関わる立場の国会議員を擁する党の代表でもある首相が意思を表明することが、政治的に(主要施策の選択行動という意味で)おかしくはないし、憲法上も禁じられているとは言えまい。要するに、論者が言いたいのは、論者の識見からは国民不在の首相独断なのでおかしい、という点に尽きる。それは、一つの価値判断で尊重されていいが、だからといってことさら憲法を持ち出す必要はない。論者は、憲法の本質である権力乱用の抑制の趣旨に反している、あるいはそれを理解していない、と言いたいようだが、少なくとも首相の側では国民の総意を得て進めている(総選挙の圧勝)、あるいは発議の上で国民投票で承認を得るつもり、として憲法の趣旨にむしろ沿っているというだけだろう。この論者氏は、むしろ、高市首相や各政党が主張する憲法改正の具体的内容を丁寧に取り上げて、国民の総意かどうかの点をふくめて、検討する方がいい。国民の総意による憲法改正は、私も賛成だ。そうであれば、どの点をどう改正すべきかすべきでないか、具体的に論じることが、国民のためでもある。次に、(イ)について。何点か高市首相の政権運営に批判があるが、その意見自体は、一つの政治的立場に過ぎない。一つの価値判断である自論の擁護のために「立憲主義」を援用するのでは、とても客観的で公正な議論とは言えないだろう。たとえば、(d)選択式夫婦別姓は憲法の要請だ、式の論議は、現行法の同姓主義には違憲の主張もあるが、最高裁は立法政策の問題と判断しており、ましてや、選択式までも憲法の要請とは解されないだろう。立法政策の議論として国民各位の理解をえる方向が望ましいところ、たしかに高市氏の主張は、これまで集約しかけた整理とは別の持論を持ち出したようにみえる面はあるが、だとしても、それが立憲主義に反するとはとても言えないだろう。最後に、(ウ)について。憲法を変質させる姿勢だからダメだとするが、まず、憲法を変質させるとの指摘は、規範的に考えるとどういうことだろう。論者が言いたいのは、憲法の個別の条項の改廃なら(国民の総意を前提に)許されるが、憲法の本質である権力抑制の趣旨自体を変えるのは絶対だめだ、ということのようだ。それ自体は正論らしく聞こえるが、じっさいのところ首相はそこまで言っていないし(それは当たり前だが)、考えているはずもない。民主制を変更して専制にするのは革命であり、憲法制定権力が何らかの形で正当化づけなければならないだろう(憲法論的には議論百出しそう)。もっとも、論者氏からすれば、なにもそこまで言ってはいない、民主制の外観のままで実質的に専制になる懸念があるということだ、と反論しそうだが、憲法上の規範的論議として何の意味があるのだろうか。政治家としての資質や政策遂行の姿勢について批判はじゅうぶん有っていいし望ましいが、憲法をもちだしてそれを変質させるとかいう議論ではありえないだろう。現状変更や独断らしき政治的振る舞いを批判するのに、いちいち憲法を(それもその本質をゆがめる式の議論を)もちだすのでは、憲法の価値を下げてしまうことに気づかないのだろうか。それよりは、政権の具体的な言動や選択しようとする主要政策をしっかり批判して、主権者である国民に正しい判断(選挙、国民投票)を促すほうが良い。私は、こういう論者には注意すべきだとおもう。国の重要な施策についてどのような意見があるにしても、だいたいこういう論者は、自論に引き寄せるために、立憲主義をもってくるのだ。そして、こういう風潮が我が国はまだまだ多いのだ。偽善者的な立憲主義(者)と、名付けよう。おなじ今日の新聞にも世論調査結果がでていたが、憲法改正で論じられる具体的な条項について是非のアンケートができるような時代に、やっとなった。戦後80年以上が経ち、社会も経済も随分と変わった。日本国憲法だけがひとりそのまま全く変わらないということは、不自然であるといえないか。一定の人たちは、いまでも憲法が手つかずの聖典であり続けてほしいのだろうか。(もちろん私は、いわゆる改憲ありきの立場ではなく、さまざまな不都合を打開するための改正であれば必要とする立場。そして、国民の支持を得ることはもちろんである。また、法規範的な論議が主となるべきで、ムードや理念的な憲法改正はむしろ有害だとさえ思っているが、そうした点も含めてメディアや(あまり動かないが)憲法学者等がしっかり議論して、国民の幅広い合意を形成してほしいと願う。)耳障りの良い正論めいた議論ほど、じつは有害かもしれない。■関連する過去の記事(立憲主義、特に、安易に立憲主義に言及することについて、など) 皇室典範改正勧告問題を考える(2025年02月14日) 国事行為に踏み込む?(2024年10月08日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その2)(2016年6月12日) 藤田論文を読む(2016年5月30日) 安保法制をめぐる立憲主義や違憲の論議を考える(その1)(2016年5月22日) 新安保法制と憲法学者(2015年6月6日)
2026.05.06
コメント(0)
こどもの呼び方について、多くの小学校では男女平等のためか「さん」で統一する例が多いようという。全国紙のある新聞社は、幼児から大人まで原則として「さん」で統一、別の新聞社は、原則小中学生は(男女を分けて)「さん」「くん」、高校生以上は「さん」で統一しているという。ちなみに河北新報社は、小学生以上は(男女とも)「さん」、0歳から未就学児は主に「ちゃん」だ。大事なのは組織として明確な判断基準があることだという。(5月5日付河北新報から。NIEのコーナーで、前日本新聞協会NIEコーディネーター関口修司さん)そうなのか。学校や幼稚園保育園での悩みも察するが、新聞がそれぞれ基準を持っていること、そして基準を持つことが大事なのだという。いろいろな考え方があるだろう。私自身は、家族や社会のはなしであり、あまり統一や基準とかには馴染まないと考えるが、放送や新聞がみずから基準を持つことは理解できる。学校や保育などの現場も自由でいいと思うが、呼ばれる側(親でなく本人)の受け止め方は重視していくべきだろう。思い出すことがある。大学時代の友人が4年生のころ、社会人になったら同級や目下の人間も「さん」づけで呼ぶと、決意をもったように語っていた。まだ昭和の時代だが、自分はそこまで意識は高くなかった。いまは令和の世だ。ジェンダー平等の観点とあいまってか、職場の部下や同窓会の主に男性の後輩を「君」でなく、みな「さん」で呼ぶ流れがあると思う。自分も、それが良いと考えており、実践しているつもりだ。みな同じ会社や集団の仲間だ、指揮命令関係があるとしても、個性を持った人間同士、互いを尊重して付き合おう、という趣旨だろう。思えば、私の同級生の40年以上前の発言も、こうした考えだった。相手を見下してはいけない、と。本当に素晴らしいやつだ。また、「さん」統一の理由には、「君」付けで後輩や格下のスティグマを与えないという上記の理由の外に、私自身はもう一つ、「面倒がないこと」を理由に挙げたい。消極的な理由だが、少々無理して積極的に言うなら、だれでも「さん」なら敬称の意味もうすれて、組織やポストでなく生身の人間の付き合い(ファーストネームで呼び合うアメリカ社会みたいに?)を促すかもしれない。実はいまの職場で、若手職員から、上司をポスト名で呼ぶのをやめて「さん」にしたらとの意見があった。私自身は賛成だ。たぶん、一定の時間つづければ慣れると思うが、「始め方」が問題だ。上から強制や誘導は下策だろう、何気なく若手から使って広まる仕掛けがうまくできないか。こどもの話、ジェンダーの話からそれてしまったが、これも一つのポジティブアクションだろう。
2026.05.05
コメント(0)

大型連休の中のこの日。大崎市田尻の加護坊山に登った。山頂から、風わたる耕土を眺める。豊かなる里が広がる。遠くには七ツ森と蔵王連峰だ。
2026.05.04
コメント(0)
これだっ!と思わずにいられない。河北新報記事だ(5月3日、川村公俊さん署名)。箟岳山焼(ののだけやまやき)だ。概要を下記に(当ジャーナルまとめ)。涌谷町の割烹みうら(三浦嘉彦代表)で、箟岳山焼が提供される。ウェルファムフーズの町内立地工場(2024年稼働)が生産する銘柄鶏「森林どり」と、箟岳で名物だったジンギスカンのタレを再現して組み合わせた逸品。遠田商工会が中心となり、今年3月の試食会では13の事業者が独自メニューを披露。今秋には大規模イベントを開催。箟岳山地区は、1960から70年代、4軒ほどのジンギスカン店が営業していた。三浦さんも少年野球の打ち上げで訪れた。各店の味は違ったが、当時の記憶と食材を意識して、タレを開発した。地元の川敬醸造のしょうゆに、果物やスパイス、ニンニク。料理を通じて、町に人を呼び込むと三浦さん。昔は羊、今は鶏だが、町に根付いた食文化を次代に合わせて残したい、と意気込む。実は、私(おだずまジャーナル編集長)も社会人駆け出しの石巻時代に、天気のいい日に先輩が、ああ箟岳でジンギスカンでも食うか、なんて言ったことを覚えている。なので、箟岳はジンギスカンの名所という印象が自分には強いが、地域の皆さんには味で馴染んだソウルフードに違いない。そして、新たな立地企業と地元の企業とが一丸協力して、昭和の味で町おこし。なんてすばらしい取組か。歴史と今が融合し、世代もつないで、町を盛り上げる味づくり。あたらしい味を求めに、たくさんの人が涌谷を訪れるかも知れない。ぜひ、頑張ってください。秋のイベントいきます。ところで、この記事は連載のようで、「おいしい物語@みやぎ/まち盛り上げるグルメ」の5回目とされている。シリーズのこれまでも、よく読んでおこう。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 城山公園の桜まつり(涌谷町)(2026年04月12日) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.05.03
コメント(0)
前回記事(神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日))に続けて、改めて、茨城県選管の裁決についての報道を拾ってみる。・県選管は、市選管が有効票と認めた「まんじゅうや」「だんごさん」は、木内氏の通称として市内で広く使用されているとは認められないとした。また、欄外に「○」が付された石田氏の有効票も無効とした。(毎日新聞から。当ジャーナルで表現整理。以下同じ)・木内氏の親族が市内で営む和菓子製造会社「木内製菓」の存在を根拠に、市選管は有効としたとみられるが、通称として広く認められたものではないとした石田氏側の申立てが通った。県選管は、「だんご「まんじゅう」は木内製菓の商品として認知されているが、「だんごさん」「まんじゅうや」が通称として広く使用されているとは認められない、とした。(読売新聞)・神栖市選管が有効と認めた根拠の一つは、かつて新潟県で実施された選挙で、鍛冶業を営む候補者に「カジ」と書いた票が有効とされたこと。しかし県選管の裁決では、新潟の事例は人口が神栖市の1割程度の小さな自治体で、人口が大きくなるほど同業者が多数想定される、とする。(朝日新聞)ところで、茨城新聞の記事では市民の声として、・市選管が再点検したのに県選管で審査結果が変わることに驚く・これまでは(まんじゅうやで)認められていたのかも知れない・名前以外の記載が無効になることについて高齢者にもわかりやすく説明をなどが紹介されていた。市民側の率直な意見だろう。さて、肝心の茨城県選管の裁決は、神栖市のホームページに出ている(おそらくは概要資料で、裁決書本文ではない)。県選管がどのような判断をしたのか(他事記載の○に関する部分は除外)、以下に当ジャーナルで要点を整理する。・過去の判例等に基づき慎重に判断・公職選挙法68条の規定(どの候補を記載したか確認しがたいもの)に反しない限り、投票した選挙人の意思が明白であれば有効とすべき(法67条)・誤字脱字などがあっても、記された文字の全体的考察によってどの候補者に投票したかを判断しうる以上、有効として投票人の投票意思を尊重することが、代議制民主主義に合致(最判昭和25.7.6.)・候補者の氏名のほか、他事の記載は無効だが、職業、身分、住所、敬称のたぐいはこの限りでない(法68条)・他事記載とは、符号、暗号等、投票した選挙人の何人たるかを推知させる意識的記載であって、しかもそれが明白な場合を指す(仙台高判昭和63.6.30.)・「だんごさん」「まんじゅうや」について、市選管の主張は、木内氏を「まんじゅうや」と呼称する者がおり、一定の範囲の市民や市職員の一部からも日常的に呼称されている、また、「まんじゅうや」「おだんごさん」の記載は木内氏を示すものと考えられ、反対に石田候補を示す要素は全くない、とする。・しかし、「まんじゅうや」等の記載が石田氏を示す要素が全くなく木内氏を示す要素しかないとしても、そのことのみで木内氏の有効投票と認められるのではなく、その記載内容が木内氏の呼称として神栖市内いずれの地でも慣習的に使用されている状態にある限りにおいて、氏名に代わる通称として有効になるというべきところ、「だんご」「まんじゅう」が木内製菓の商品として市内で認知されたことは認められるが、「だんごさん」「まんじゅうや」が木内氏の通称として広く使用されていると認めるに足りる証拠はなく、無効と判断せざるを得ない。■関連する過去の記事 神栖市長選挙のその後、また、投票をめぐる問題を考える(2026年04月29日) 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.05.01
コメント(0)
昨日(4月28日)の報道。やっぱりそうなったか。茨城県選管の裁決は、木内氏の当選を無効とするもので、石田氏(得票同数でくじで敗れた前職)が当選人になると結論付けた。具体的に言うと、木内氏の有効票とされた「まんじゅうや」「だんごさん」の計2票を無効と判断した。木内氏の実家が和菓子店だが、それが同氏の通称として広く使われた十分な証拠がないとしたもの。他方で、石田氏側で有効とされた票のうち1票に、欄外に他事記載があったとして無効と判断。結局、石田氏16,723票、木内氏16,722票で、1票差で逆転。特定の候補に投票した意思が明白かどうか、ということになるのだろうが、通常は「まんじゅうや」で有効票にはならないだろう。ただし、投票者の意図がポイントだから、当該自治体の区域において、相当程度明確に、通称、屋号、芸名、あだ名などが一般に通用しているなどの事情があれば例外的にオーケーなのかも知れない。また、(最近記事にした那須町長選挙の場合のように)対立候補の氏名との関係で特別な判断が必要かどうか、もあろう。さて、県選管で全票検査が行われたので、あとはこの2票をどう評価するかに絞られたと言えよう。市長の座が半年で入れ替わるかも知れず、また、選挙や係争に要するコストなども無視できないが、考えようによっては、民主主義のもっとも重要なイベントである選挙というものについて、当該地域のみならずすべての国民が考える機会になるとも言えるような気がする。さまざまな意見があるだろう。2票の有効性について。あるいは両陣営の姿勢について。また、市選管の判断の透明性を求める意見、たとえば疑義票でこういうものがあってこう判断した、と公表するとか。まずは迅速に市選管で事務処理し、不服があれば事後に県選管さらには訴訟で決着という仕組みだが、相談もできず判断せねばならない市選管も実は負担だろうし、とにかく時間と費用のコストがかかる。私が思うのは、もう現行の投票システムを見直す機会にすべきではないかということ。候補者名を自署する方式だが、例えば選択式、さらに電子投票にすれば、集計の手間もコストも省ける。固定した投票所を前提にした電子投票は現行法でも可能だが、さらに、在宅でネット投票も技術的には不可能ではないだろう。ほかにも、選挙や投票をめぐっては見直しを検討すべき点が多いと思う。投票権行使はありがたい機会、あるいは公民の義務感をもって誰もがわざわざ足を運んで投票に臨み、選挙を実施する行政側も人的財政的コストをいとわない、というような昔のモデルに拘泥していていいのか。いまや、投票率低下こそ民主政治の危機だし、コスト削減も重要だ。あまり表に論議されないが、投票所における本人確認の問題は常にリスクがあるが、電子基盤を活用すれば確実性と迅速性が飛躍的に高まる。■関連する過去の記事 得票同数の神栖市長選等について(2026年04月21日) 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.29
コメント(0)
やはり気になる。大差で現職が信任された、とはいえ、朝日新聞は無名の対立候補が5千票以上を集めたことを、今朝(4月28日)の朝刊でも追っている(福留庸友記者)。記事の概要は、こうだ。ポスターも事務所もない新顔に、約2割の得票率を許した。また、白紙投票も985票で、前回(選挙戦となった2018年)の3.8倍。多選や頑固な市政への批判ともみられる。河村和徳さんの解説があって、復興から変わろうとする局面でもあり、現職への不満が可視化されたとする。以下当ジャーナルのコメントだが、たまたま同日(26日)に行われた福島県昭和村の村長選挙では、3人の新人が争い、当選者が543票、次点が139票、三人目はわずか7票。この人は昨秋の宮城県知事選挙にも出た乗馬学校代表の85歳。知名度なら福島県でも多少はあると思うが、気仙沼市と比較すれば顔の見える地域で浮動票がないのか(投票率は79.87%)、とにかくまさに泡沫扱いの結果だ。気仙沼市の市長選挙でも、開票前はおそらく有権者もマスコミもその程度に考えていただろう。朝日の記事にもあったが、無投票で良いものをわざわざ公費を使わせて、的な批判も正直あるだろう。今回は市議選があったが、市長選単独だったとしたら、出費も差が大きいが、市職員の労力も多大なのが実際だ。(もちろん、民主主義の正当なコストだが。)だから、2割で5千票という結果は、まさに衝撃だ。どのような気仙沼の状況がそうさせたのかは、政治社会学的に非常に関心がある。■関連する過去の記事 気仙沼市議と市長選の結果を考える(2026年04月27日) 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日) 大崎市長選挙はじまる(2026年04月13日)
2026.04.28
コメント(0)
昨日(4月27日)の読売新聞で、社会生活上の法的問題として関心を引くものがあった。概要はこうだ。(見出し)盲導犬に犬接近 責任は/急停止し女性「転倒」 飼い主に損賠訴訟(松山支局 宇仁菅玲香、氷見優衣 両氏の署名記事)(以下記事の趣旨。おだずまジャーナル整理)・2023年6月、視覚障害者女性(50歳代)が盲導犬(ラブラドルレトリバー)と路上を歩いて帰宅中に、小型犬(チワワ)が接近したため盲導犬が急停止し女性は転倒したとして、飼い主に約170万円(治療費、慰謝料)の損害賠償を求めた・この訴訟は松山地裁今治支部、2024年5月提訴・飼い主(被告)は、リードをつけず散歩させたことは認めた一方、呼び戻すとすぐに盲導犬から離れたと反論。盲導犬が立ち止まった際女性(原告)がその場に座り込んだだけで負傷していないと主張・裁判官からの和解提案も、双方が受け入れず・原告女性は、ガイド中の盲導犬に犬を近づけることの危険を広く知ってもらいたい、とする・盲導犬は全国で768頭・日本ライトハウス(盲導犬を育成)は、盲導犬に犬を近づける、許可なく触る、食べ物を与える、などの行為をしないよう注意を促す・急に犬が近づいて盲導犬が立ち止まると、状況把握が難しい視覚障害者は、予測した対応がとれず、危険につながる恐れがあるという・公益財団法人アイメイト協会の調査(2018年)では、盲導犬使用者からは、盲導犬に触ったり声をかけたりしないでほしいとの声が多かった。この訴訟じたいは、当事者同士こじれていると推察するが、一般化して考えれば問題の本質は、障害のある人ができるだけ自分らしく暮らせるために、そのための必要な条件整備や周囲がわきまえるべき注意事項などを、社会全体で意識共有して、障害のある人もない人も誰もが住みやすい社会を目指すべきという点にあると思う。法律論的にみれば、ミクロ的(個別事件の解決の視点)には、因果関係などの問題だろうが、もう少し法政策的に考えると、日常生活における責任の配分の問題ともいえる。盲導犬利用者が多少のリスクを負うべきか、それとも一般人(犬の散歩する人など)が注意すべきことなのか。いやしかし、おそらく、法的に根詰めた議論よりも、ちょっとした社会的な周知で解決をめざすことが可能であり、行政やメディアの啓発、学校教育などを含む理解促進で解決すべき問題だろう。そして、成熟した現代社会であるわが国では、そのようなインクルーシブな考えを許容できると期待する。
2026.04.28
コメント(0)
昨日投開票が行われた気仙沼市議選に注目した。定数21に対して27人の立候補は、議員のなり手不足がいわれる昨今では望ましいと言えることだし、そのうねりを押し上げているかも知れないのが、従来型の候補だけでなく、一般サラリーマン、よそ者、若者、女性、などいわば「新風」ではないかとの視点から、得票状況をみてみたい。投票率は55.61%で、を0.15上回った。ただし、これは、同日の市長選挙が前回は無投票だったことも影響するかも知れない。全体を見ると、当選回数が多く安定した地域基盤をもつ市議が安泰にみえる一方で、新風候補もだいぶ期待を受けたように思える。まずは、得票順に並べる。そのうえで、まことに恐縮でありますが、当ジャーナルの勝手な私見で、「新風」候補者(★印)に対するコメントを付したい。新風の判断は、選挙公報の記載と今朝の河北新報記事をもとにしている(結果として新人当選者と一致)。また、コメントは、出身地や、主な経歴など。選挙公報の記載で特に気になった点も記した(再度言いますが、私見で大変恐縮です。)1当 1879 村上佳市 無現(6) ・68歳、気仙沼市、PTA会長、防犯協会会長、(現)市議会副議長2当 1516 杉浦美里 無新(1) ★37歳、浜松市、復興支援、モデル事務所、4児の母3当 1410 菊田 篤 無現(4) ・59歳、階上、県PTA連合会会長4当 1394 熊谷伸一 無現(6) ・68歳、古町、旧市議、市議会議長、学校法人理事長5当 1331 三浦友幸 無現(3) ・45歳、本吉町前浜、大谷まちづくり協議会事務局長6当 1315 秋山善治郎 共現(5) ・77歳、旧市議、日本共産党7当 1307 鈴木高登 無現(6) ・64歳、唐桑町議、市議会議長、総合型地域クラブ理事長8当 1273 臼井真人 無現(6) ・74歳、気仙沼市、倉庫業、旧市市議、市議会議長9当 1189 白川雄二 公現(2) ・50歳、大島、サラリーマンを経験10当 1155 佐藤健治 無現(6) ・59歳、九条小、条南中、旧市の市議、市防犯協会会長11当 1080 垣下美紀 無新(1) ★48歳、気仙沼市、3児の母、ひとり親家庭の不安を経験、津波伝承館職員12当 1029 村上伸子 無現(3) ・61歳、気仙沼市、豪キャンベラ大、女性の視点などを強調13当 1018 菅原雄治 無現(4) ・62歳、中学教諭、NPO理事14当 1017 佐藤俊章 無現(3) ・67歳、階上小中、PTA会長、県漁協15当 925 及川善賢 無現(6) ・63歳、小泉中、本吉町議、本吉地域の平等な発展を訴えた16当 892 宮井和夫 無新(1) ★50歳、気仙沼観光タクシー、JC理事長、社会福祉法人理事17当 840 三浦由喜 無現(5) ・77歳、津谷、本吉町職員、副議長18当 798 今川 悟 無現(4) ・41歳、面瀬、地元紙記者、防犯協会長19当 791 千葉慶人 無現(6) ・62歳、(現)市議会議長、本吉、JC理事長、PTA会長20当 656 菅原清喜 無現(6) ・76歳、市議会議長21当 615 遠藤秀和 無現(2) ・58歳、津谷中、本吉町職員、稼げる農業を訴えた------------22落 600 熊谷雅裕 無現 ・74歳、大島、小中学校再編計画に反対、議員定数削減を訴えた23落 544 菅原俊朗 無現 ・76歳、現職1期、酒店、風力発電反対を訴えた24落 530 斉藤巳寿也 無新 ・昭和40気仙沼市生、元県職員、市長選挙(平成30年)12300票、騒音に配慮して選挙カーは使いません25落 486 白幡 章 無現 ・昭和39生まれ、漁業、農業26落 365 村上 敬 無新 ・54歳、松岩、関係人口創出などを目指す27落 328 田中実尚 無新 ・47歳、気仙沼市、選挙公報の記載は非常に独特■関連する過去の記事 気仙沼市議選挙を考える(2026年04月24日) 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)ところで、市長選挙について。・当選 菅原茂(現)68歳 19,734・落選 岩村彬(新)79歳 5,305事実上の信任投票で、しかも対抗馬は告示直前に名乗り出た無名で、街頭活動をほとんどしない上に、選挙公報を見ても具体的政策は不明。それなのに、5千票もとることに率直に驚きだ。見出し的には「大差」なのだが、例えば朝日新聞県内版(今朝)は、供託金没収ラインを大きく上回る票を集めた、と解説。現職への批判票として岩村氏に入れた人の声を紹介している(朝日新聞は福留庸友記者の署名)。閉塞感打破の期待、ということか。
2026.04.27
コメント(0)
夜のニュースでも、赤々と燃え上がる炎が生中継されていた。発生4日目になる大槌町の林野火災だ。各県の防災ヘリや緊急消防援助隊が、懸命に消火活動を実施。今朝の時点で約1176haを焼失、避難指示の対象は町人口の3分の1にあたる3,233人。燃える山の麓に家があるという人が、避難した街中の路上から、淡々とインタビューに応じる姿をTVで見たが、眠れない日々が続いているだろう。消防団の懸命の活動が報道される一方で、専門家が、こうなると林地の延焼を食い止めるよりは、住宅地の側で住家への飛び火を監視して機動的に消火する作戦に移るべき、と話していた。今後1週間は雨も期待できないという。平成以降で、昨年の大船渡市の被害(約3,370ha)に次ぐ規模になっているとの説明もあった。消火活動や避難者の支援に携わる方々に、感謝しつつ心から応援の思いだ。そして、火勢が弱まること、そして、住宅や施設への被害が広がらないように、願う。
2026.04.25
コメント(0)
大崎市議選で新しい動きを探ってみる記事(下記)を書いたが、今週末が投票の気仙沼市議選のほうが、ダイナミックなようだ。■ 大崎市議選挙結果を考える(2026年04月20日)今朝の河北新報記事にも出ている。議席21に27人が立候補、新人6人も多彩な顔触れ、と。震災後の移住者、Uターンした人、若手経済人などで、3月になってから名乗りを上げる動きが一気に表面化したという。議員成り手不足、市議会の活性化、地域と議員の関係などの観点から、市町村議会の選挙に着目してきたのだが、今回の同市議選挙は興味深い事例になるだろうか。見方を変えれば、それだけ市政への関心が高い、つまり閉塞感打破の願いが強いということか。市議候補者の選挙公報を市ホームページで読んでいる。限られたスペースでアピールする内容もさまざま。選挙期間中なので論評はいまは避けるが、新人を中心に分析を進め、日曜夜の開票の後で、当落や得票数などを踏まえて、当ジャーナルが市議選結果をどう見るか、渾身の記事を書きます。
2026.04.24
コメント(0)
今朝の河北新報に出ていた。涌谷藩志会が主催した講演会(18日、約140人)で、佐藤憲一さんが話したとの事。あきる野市の寺に、政宗の弟が住職を務めたという資料が残り、義姫と政宗の手紙を見ても仲が悪い様子がない。当時の伊達家は存続の危機もあり、政宗は一人だけの弟を寺に逃がしたのではないか。義姫も自分が悪者になることで藩の安泰を祈った可能性もある。このような内容だったようだ。新聞記事には、政宗と再会した時の義姫の年齢と近くなり、義姫の気持ちが理解できる、という参加者の感想が載っていた。歴史だけれど、身近に感じられるところが、非常に興味深い。佐藤さんの説などについては、下記の記事に以前書きました。■関連する過去の記事 政宗毒殺未遂と小次郎生存説(2016年5月2日) 再び政宗毒殺未遂事件を考える(07年10月12日) 政宗毒殺未遂事件を考える(07年6月28日)
2026.04.23
コメント(0)
4月21日河北新報の記事(菅野正道さんの連載)に、原町の平田神社が出ている。菅野さんの記事の概要はこうだ。神社の名の由来である平田五郎は政宗に仕えた勇猛な武士だが、祖父が会津の戦国大名の蘆名氏の重臣であった。仙台藩士の出自には、政宗治世下で新たに召し抱えられた家臣が意外と多く、蘆名氏の旧臣も目立つ。蘆名分家の猪苗代、針生。会津の執権と称された金上(かながみ)。四天王といわれた平田、佐瀬、富田、松本など。他にも、荒井、栗村、黒沢、小荒井、十二村(じゅうにむら)、中目、生江(なまえ)、西方、樋渡(ひわたし)など。政宗は黒川城を攻め落としたことから、伊達氏と蘆名氏はライバルと受け止められるが、実は以前から友好関係にあり、対立したのは晴宗時代の一時期と蘆名氏滅亡直前の5年ほどの期間だけだ。そして、記事の冒頭で、こういう。「一般に神社の名は、八幡や諏訪などの祀られる神の名か鎮座する場所が多いが、神でも地名でもない神社名はあまりなく、平田神社は東北ではここだけではないだろうか」と(おだずまジャーナルで若干要約)。直接には、平田神社の名は東北ではここだけ、という説明だが、おそらく、神社の名前に「勧請された神や(神格化して)祀られた人物」を冠することはあるが、それ自体は俗人である「祀った人」(この場合は平田五郎)の名を冠することは珍しい、という意味なのではなかろうか。平田神社の境内に掲げられる「由来」には、遷宮者の姓から公式に平田神社と称したとある。(下記の記事に画像があります) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)平田五郎は、慕われ続けている人物なのだ。 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日)■関連する過去の記事 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日)■関連する過去の記事(神社について) 神社の多い福島、少ない岩手(2014年02月09日)■関連する過去の記事(付近の地域) 清水沼のこと(10年9月8日)■関連する過去の記事(松原街道の関連) 岩切の追分の道標(2026年04月11日) 御立場町の道路愛称(2025年12月06日) 案内のネコ(2024年10月14日) 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.22
コメント(0)
産経新聞の面白い記事があった。4月19日(日)の東日本総合版で、深層リポート茨城発として「神栖市長選、月内にも裁決」と題して。以下は当ジャーナル要約・再整理。3選をめざした石田進氏と、元市議の木内敏之氏が、いずれも16,724票で、くじにより木内氏が当選となった(昨年11月9日)。石田氏陣営の異議申し立てで市選管が、全33,667票(無効票219含む)を再点検したが(11月26日)、結果は変わらず申し立て棄却(12月5日)。次いで、石田氏陣営は、県選管に審査申し立て(市選管の棄却決定の取り消しと木内氏当選を無効とする裁決の2件を求める、12月22日、23日)。木内氏の有効票の中に、「まんじゅうや」「だんごや」とだけ記載されたものがあり、これらは無効票とすべきだと主張。木内氏の親族が和菓子店を営んでいるという。30年ぶりとなる県選管の再々点検は、県選管職員約30人が全投票用紙を確認して、慎重な判断を要する票を抽出した(3月21日)。現在は、その審理を進めているという。今月以降に県選管の裁決が見込まれる。県選管が裁決したケースとしては、令和5年4月の小山市議選がある。1票差で敗れた次点候補者が栃木県選管に審査申し立て。この裁決では、最下位当選者の氏名以外に「!!」の記号と二本の縦線が記載された計2票が、他事記載(公選法68条1項6号)に該当し無効投票とされた。この候補者が裁決取り消しを求めたが、裁判を経て確定。次点候補者が逆転当選となった。栃木県選管の裁決当時の委員長を務めた平野浩視弁護士は、神栖市長選について、「まんじゅうや」「だんごや」だけの記載は、候補者のだれを記載したのか確認しがたく、無効票(68条1項8号)になる可能性もある、とする。また、かりに候補者名と併記されれば、他事記載該当の判断が行われると指摘する。なお、同法67条は、68条の規定に反しない限り、投票者の意思が明白ならその投票を有効とするよう規定する。単にその投票用紙にどう記載されたか、の判断でなく、その地域ならではの事情や、さらには他候補者の状況(類似した氏名など)も影響するだろうから、なかなか難しい判断が迫られるようだ。■関連する過去の記事 那須町長選挙 その後(2026年04月06日) 那須町長選「1票差」事態の行方を考える(2026年04月05日) またも1票差の選挙結果(2026年03月26日)=那須町長選挙 得票同数の場合のくじを考える(神栖市長選挙)(2025年11月12日) 僅差の西目屋村長選挙(2025年02月12日) 下呂市長選挙ふたたび(2016年4月12日) 大鰐町長選挙は得票同数で抽選(10年6月30日)(くじによる決定の制度) 激戦の登米市議選 同姓同名の立候補も(09年4月14日) 再選挙は超僅差の決戦(07年6月18日) 加美町長選はついに再選挙(07年4月22日)■関連する過去の記事(大郷町住民投票について。公職選挙法の制度として関連) 大郷町の住民投票問題(続き)(2026年03月16日) 大郷町の住民投票は白紙に(2026年02月26日) 大郷町長選挙の結果(2025年09月01日) 大郷町SSP問題について(再び)(2025年04月18日) 大郷町問題(続)-直接請求と争訟について(2025年04月16日) 大郷町の議会解散騒動を考える(2025年04月12日)
2026.04.21
コメント(0)
昨日の19日(日)は宮城県内でも投票日の自治体があった。・大崎市長選挙 合併以来5期続けた現職の勇退に伴う選挙。元県議会議長の中島さんが、自民党支部が支える市議などを制して初当選。投票率53.09%は、前回選挙戦となった2018年を1.85上回った。・山元町長選挙 現職の橋元さんが再選。政争の町ともいわれたが、町政停滞から脱することになるだろうか。投票率は59.31%で前回から8.42の減。・山元町議補欠選挙 定員3に対して立候補3人で、無投票だった。さて、ここでは、大崎市議選に注目したい。28議席に30人が立候補した。市長も代わるが、現職11人が引退し、2人は市長選に出るため、半数が入れ替わり世代交代が進むとみられていたことと、従来は農村部的な政治風土が色濃かっただろうが(そして特に地方部では地方議会のなりて不足が深刻だ)、若い世代や「よそ者」の進出などがあるか、に着目していたからだ。落選者は2人しか生じないので当落という分かれ目から決定的な評価はしにくいが、得票数などの動向から、どんな候補者が受け入れられたか、を探ることができないだろうか。得票順に書き出してみる。1 3,587 加川 康子 無現 22 3,309 早坂 憂 自現 33 3,155 山田 匡身 公現 24 2,634 佐藤仁一郎 無現 45 2,458 小玉 仁志 無現 26 2,404 伊勢 健一 自現 37 2,373 佐藤 弘樹 無現 68 2,316 富田 堅治 無新 19 1,985 八木 吉夫 無現 510 1,954 遠藤 彰 公新 111 1,939 荒井 純 無新 112 1,877 吉越 美穂 無新 113 1,828 木内 知子 共現 614 1,767 高橋 雅博 無新 115 1,672 木村 和彦 無現 616 1,577 五島 啓太 無新 117 1,529 法華 栄喜 無現 218 1,509 後藤 錦信 無現 619 1,454 菅原 智宏 無新 120 1,439 石田 政博 無現 221 1,395 結城 豊 共新 122 1,331 鎌内 克美 共新 123 1,322 遊佐 辰雄 共現 624 1,306 山口 寿 無元 225 1,255 小嶋 匡晴 無現 226 982 平野 洋子 無新 127 912 山口 文博 無元 228 839 川合 明弘 無新 1(ここまでが当選者)落 581 畠山 紳悟 無新落 124 梅津 泰幸 無新新聞記事で紹介されていた肩書と年齢くらいしか情報がないが、上記の視点から当ブログの独断で注目した候補の得票数を見てみる。(1)若い人(40代以下)・川合明弘 無新 46歳 会社代表 28位・早坂 憂 自現 40歳 塾講師 2位・平野洋子 無新 46歳 鍼灸師 26位・五島啓太 無新 44歳 会社代表 16位・伊勢健一 自現 45歳 会社役員 6位・吉越美穂 無新 37歳 トレーナー 12位・加川康子 無現 48歳 研修講師 1位・小嶋匡晴 無現 41歳 会社役員 25位・畠山紳悟 無新 31歳 環境NPO代表 落・小玉仁志 無現 42歳 会社代表 5位・山田匡身 公現 47歳 党地区支部長 3位現職がある程度優位とは思われるが、新人で順位の高いのは吉越さん。(2)よそ者(選挙公報から新人で出身地が市外とわかる人。当ジャーナルで拾った)・畠山しんご 秋田県潟上市出身、大崎三年目。議会と戦う、政治家に嫌われる仕事、などやや過激な内容を選挙公報で記載している。→落選・平野洋子 結婚を機に大崎市に移住。→当選26位出身を明示しない候補もいるし、仕事で東京等にいた人も何人かいるようだ。正しい分析にはならないが、おそらく、今回の選挙では、従来にないような「流れ」が生じたとまでは言えないか。もっとも、選挙は議会政治の入り口。これから、新しい市議たちの活躍に期待いたします。(4月21日補遺)河北新報記事によると、当選者一覧で表示された出身地は、大崎市がほとんど。大崎市以外なのは、平野洋子さん(26位)の兵庫県西宮市、川合明弘さん(28位)の美里町、だけだ。
2026.04.20
コメント(0)
■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日)北方へのびる道(2026年04月17日) に続く■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」後半部分から。おだずま要約・再構成)1 陶磁器の道 - 北上川の舟運平泉の遺跡から大量に出土する陶磁器の9割は、渥美・常滑焼だが、陶磁器の搬入ルートは海上や水上しか考えられない。例えば柳之御所跡遺跡からは直径高さともに90センチ超の大型の渥美焼の甕が出土したが、馬の背で陸路を運ぶことは考えられない。そして、東海地方から運ぶのだから、太平洋岸の海路ということになり、太平洋岸の海運はこれまで考えらたより古くから発達していたと考えねばならない。そのルートは、海と北上川であった。北上川は日本でも有数の流れのゆるやかな川で、流域の仙台藩領の広大な米作地帯の産米が石巻に集められ、江戸に運ばれ、仙台藩の財政収入のかなりの部分を占めていたことは有名な事実である。江戸時代の北上川では、大型のヒラタ舟(艜)が筵帆をあげ米俵を満載してゆっくり川を下った風景が日常だった。さらに近代には、河口の石巻には水運の商社が創設され、鉄道による舟運の衰退まで続いた。中世の北上川の舟運を証拠立てる材料のひとつは、石巻で産出する井内石の分布である。井内石は粘板岩で、天然スレートともなる。北上川流域では13世紀中ごろから井内石を素材として板碑(供養碑)の造立がはじまり、中世末に及ぶ。関東においては秩父青石(緑泥片岩)を素材とする武蔵型板碑がつくられ南関東一円に分布していたことと同様のことが北上川流域でおこっていた。井内石板碑の北方への分布は、北上川をさかのぼって平泉の北の胆沢郡まで及び、井内石文化圏とでもいう分布圏が存在する。石材は当然石巻から北上川を舟で遡って運んだと考えられ、平泉のやや北で分布が終わっているのは、この時期の北上川舟運の北限がそのあたりだったことを示しており、その水上交通圏は奥州藤原氏の時代に形成されたものにちがいない。自然条件でみても、北上川は平泉付近から北は流れがやや急になる。現在の県境付近に狐禅寺という狭窄部があり、その北の一関市付近は磐井川との合流点でもあり古くは池沼上の地形だったと考えられる。平泉はその台地上に位置し、北上川水運の基地はこの付近ではここ以外には考えられないような場所である。藤原清衡は12世紀のごくはじめ頃に、奥六郡内の江刺郡豊田の館(たち)を出て平泉に居を構えるが、平泉を選んだ理由の一つには北上川水運があったと思われる。2 陸上の道一方、陸上交通でも平泉は重要な場所で、陸奥国を縦貫する陸上の道と北上川水運の水上の道が交差するところでもあった。吾妻鏡(1189年=文治5=9月17日条)には、中尊寺建立の由来について、清衡は白河関から外が浜にいたる20余日の行程の一町ごとに笠卒塔婆を建て、その中心をはかって山頂に一基の塔を建てたのが中尊寺のはじまりで、寺院の中央の多宝寺には釈迦如来と多宝如来が左右に安置され、その中間に関路が開かれていて旅人の往還の道となっている、と記されている。中尊寺は山号を関山(かんざん)と称し、その山頂には歌枕で有名な衣関(ころもがせき)があったと伝える。関山を越えるとすぐ北に衣川があり、その北が胆沢郡。関山は磐井郡の北端で奥六郡との境の山である。古代の奥六郡は俘囚の地で、以南の内国とは政治風土が全く異なるところであったので、関山は政治的にも重要な境界であった。また、関山の麓は衣川と北上川の合流点に近くかつては低湿で交通困難であったため、奥六郡に入る交通路は関山を越え衣川をわたるルートをとらざるをえなかった。中尊寺はその交通路上に、それを扼する形で建てられた寺だったのである。一方、南から平泉に入る道路は、今の一関市市街地を通るルートはかつては低湿であったため、現在より西のルートだと考えられる。文治奥州合戦の際には、頼朝は鎌倉への帰途に平泉の南の達谷の窟(いわや)、西光寺の前を通り、西光寺に水田を寄付している。西光寺には大量のカワラケを出土する遺跡も存在する。頼朝の通った道は、毛越寺の門前から太田川の谷に沿って南下し、山を越える道で、現代や江戸時代の道より西のルートを通るが、平安時代はこれが平泉に入る主要なルートだったにちがいない。この道はそのまま南下して陸奥国府の多賀城にいたる。つまり、陸上の道は平泉ではじめて北上川の水上の道と交差するのである。平泉は水陸の交通路が交差し、奥六郡と以南の境界をなす、交通上きわめて重要な場所であった。3 伊勢と陸奥渥美・常滑焼が海路から石巻でヒラタ舟のような吃水の浅い船に積み替えられて、北上川を遡ったであろうことは、石巻市水沼で発見された、渥美焼とそっくりの陶器を焼いた窯跡の発見により明らかである。この窯跡は、渥美から工人を招いたと考えられ、12世紀の渥美焼と瓜二つの袈裟襷文(けさだすきもん)の陶器を焼いていた。この窯で焼いた陶器片が柳之御所跡遺跡から出土しているのである。この窯の製品が北上川水運で平泉に運ばれたことを踏まえれば、海路太平洋岸を運ばれた渥美・常滑焼の陶器が、石巻と北上川を経由したことはほぼ間違いない。北上川は流れがゆるやかとはいえ、浅瀬もあれば狭窄部もある。安全に上り下りするには、水路図が必要で、場合により改修も必要だったろう。そうした水上交通の開発維持のために奥州藤原氏が何らかの寄付をしたことも想像できる。1338年(延元3、暦応1)伊勢国の大湊を発って海路陸奥国に向かった南朝の北畠親房の一行が目指したのも石巻港でなかったかと考える。親房は実際には台風で常陸の国に漂着し、親房が奉じる義良親王は伊勢国に帰ったが、親房は陸奥国白河の結城親朝に対して、宮(親王)と国司(北畠顕信)は宇多か牡鹿に着いているはずだから連絡を取るようにと書き送っている(結城古文書写)。宇多は松川浦、牡鹿は石巻港をさす。こう書いたのは、両港のどちらかが到着予定地だからと解され、伊勢と石巻をつなぐ海路が14世紀に存在したことは確実である。それは12世紀にもさかのぼるものだったに違いない。知多半島の中ほどの常滑焼や、渥美半島先端の渥美焼が、どこから船に積まれてか確実なことはわからない。小野正敏氏は、産地からいったん伊勢国の桑名か大湊に集められて、大船に積み替えて東国をめざしたのではないかとする。それは北畠親房がたどろうとした道の先蹤をなすものである。15世紀初めに武蔵国品川湊に出入りしていた船に、大塩屋、馬漸(まぜ)、和泉、本郷、藤原、通(とおり)など、大湊の付近の地名を船名とするものがある。綿貫友子氏が、そこからこれらの船は伊勢から来航したと推定することも参考にして良いだろう。大湊は伊勢と関東や陸奥国をつなぐ港として早くから開けていたと思われる。4 陶磁器を運んだ人々尾張や三河の窯業地帯から陸奥に陶器を運んだのは、小野正敏氏によれば、伊勢大神宮の神人(じにん)や熊野の御師(おし)であり、中でも前者の役割が大きいという。筆者(おだずま注、大石氏)は、熊野の海上勢力の荷担を重視したい。その根拠は、12世紀における伊勢勢力の東国進出の証拠とされる大神宮領の御厨の設定が、常陸国でとどまり陸奥国に及んでいないこと、奥州藤原氏周辺に熊野勢力の存在が強く観察されること、秀衡の庇護を受けた義経周辺に熊野海上勢力の存在が見え隠れすること、などである。だが、平泉に運ばれたのは、渥美・常滑焼だけではなかったし、平泉から運ばれたものも伊勢国どまりであったはずはない。紀伊半島をまわって京、畿内、さらには瀬戸内海経由で博多、中国、朝鮮半島に向けられた道もあったにちがいない。そして、伊勢大神宮の神人以上に、熊野海上勢力との関係は大きな意味を持ったはずである。5 日本海海運従来は、日本海海運のほうがずっと大きく評価されていた。越後国小泉荘の定使(じょうし)が、清衡の金、馬、檀紙などを押しとったという事件がある(中右記、1120年=保安1=6月17日条、24日条)。小泉荘(新潟県村上市を中心とする地域)には岩船潟があり、中世には船着き場や町が形成されていた。二代基衡の代に、摂関藤原家の奥羽の家領の年貢納入の責任を奥州藤原氏が負っているが、それは清衡の代に始まったと考えられる。この事件は、摂関家領の年貢が港に保管されていたと考えられる。これらが日本海海運で、越前、若狭、さらに琵琶湖の水運で今日に運ばれたことは間違いないだろう。基衡が管理して年貢納入の責任を負っていた荘園は、陸奥国本良(吉)荘、高鞍荘(栗原市金成)、出羽国の屋代荘(高畠町)、大曽禰荘(山形市)、遊佐荘(遊佐町)の5つである。基衡と本家左大臣藤原頼長との間で年貢増徴交渉が行われていたが、これらの荘園の年貢は、布、金、馬、鷲羽、アザラシ皮、漆などであった(台記=頼長の日記)。檀紙もまた陸奥国土産として有名なので、これも年貢となることは充分考えられる。6 大楯遺跡ただし、奥羽の荘園年貢がすべて日本海海運を利用したかはわからない。貢馬の例からすれば、出羽国の荘園だけが日本海を利用したのが実情だったのかもしれない。出羽国の3荘のうち最北の遊佐荘内に、平安時代の大楯遺跡があり、大量のカワラケ、珠洲焼系統の陶器などが出土する。保元の紀年銘の木製品が発見され、曲物の素材の年輪年代鑑定からも12世紀前期または中葉とされている。この遺跡が荘内の有力者の館に関連することは疑いなく、柳之御所跡とカワラケ文化を共有しながら、国産陶器は日本海海運による珠洲系陶器の流通圏内あったのである。陸奥は太平洋海運、出羽は日本海によって西日本と交流したというのが実態だろう。奥州藤原氏はこの両地域を支配しており、平泉は両方の交通路の一つの終着駅であった。数は少ないが平泉から珠洲系陶器も出土する。7 日吉神人日本海海運の担い手は、鎌倉時代後期には時衆(じしゅう)が目立つが、この時代の手掛かりはまったくない。ただ、この時期に、北陸道諸国の海辺には比叡山地主の神で山門と一体の日吉社(ひえしゃ)の神人(じにん)の存在がかなり見られることは注目に値する。網野善彦氏が推定するように、海上交通にかかわりを持つ者がいたに違いないのである。そして当然ながらこの日吉神人の活動は奥州藤原氏の周辺にもみられる。また、中尊寺経蔵別当領の骨寺村には、山王岩屋というものがあったが、これは、この村がその開発と中尊寺領化とともに、日吉神人の手で設定されたからと考えられる。山王権現は日吉神社の別称だ。さらに、奥州藤原氏と北陸の白山の関係も注目に値する。平泉の鎮守に白山社が勧請されているほか、秀衡が加賀国の白山本宮に獅子駒犬の像や五尺の金銅像を寄進した伝えがある(白山之記)。白山社は12世紀には山門の末社となり、白山神人は日吉神人を兼ねることがあったという(網野善彦)。これらから総合すると、日吉社の神人が平泉と西日本を結びつける媒介を果たしたことは充分に考えられる。日本海方面の山門、日吉社の勢力と、太平洋側の熊野海上勢力は、海を通して平泉を西日本に結びつける二大勢力だったのだ。彼らが運んだのは年貢物ばかりではない。陶磁器が商品だったことはもちろんだが、金、馬、鷲羽、アザラシの皮、檀紙、奥布といわれる陸奥国特産の麻布なども、年貢としてだけでなく商品としても流通していた。彼らは、商品を運ぶ商人でもあった。そして、奥州藤原氏の自立的政治権力は、こうした商品流通によって支えられたのであり、陸上と海上の道の存在なくしてはありえなかったと言ってよいだろう。(完)
2026.04.18
コメント(0)
■前回記事 奥州藤原氏と貢馬の道(2026年04月16日) に続く■後続記事 東北と海の大道(2026年04月18日)■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」から。おだずま要約・再構成)1 出羽と陸奥をむすぶ道交易御馬は、陸奥国だけの制度で、奈良時代に同様に馬を貢納した出羽国には存在しない。その理由は、交易御馬の制度が奥六郡の北の糠部郡の馬産から生まれたこと(1)と、津軽や糠部をふくむ北奥羽が全体としてこの時期に陸奥国の側から支配された(2)からと考えられる。第(1)の要因について。渡辺真紀子氏の研究では、岩手山麓から糠部郡に至る地域は、全国的に最大の黒ボク土地帯である。黒ボク土は馬の放牧を主要因に形成されるが、興味深いのは、岩手山麓の植物珪酸体の分析から、約千年前からシバ草型の草地成立の時代に入ったと言われていることである。シバ草の形成は過放牧と密接に関連するという。つまり、10世紀ころから過放牧になるほど馬産がさかんだったのである。陸奥国交易御馬の制度はこれを踏まえて成立したと考えられる。第(2)の要因。9,10世紀の蝦夷の反乱は出羽国方面が多く、馬や鷹の交易にともなう紛争が起因であった。出羽国の北の米代川流域の鹿角・比内郡や津軽方面でも一定の馬産が行われたことを示しているが、同時に、糠部地方がこの時代、鹿角・比内と半ばは一体の地域と把握されていたのではないか。馬淵川流域の糠部が、北上川流域の奥六郡よりは鹿角・比内に近く、日本海方面の文化の影響下にあったことは考古学者がしばしば指摘するが、中世においても、高橋与右衛門の研究では、糠部の建築は中世を通じて平面プラン、柱間寸法ともに、北上川流域よりは米代川流域や津軽地方に類似しているという。道に即していえば、能代から米代川をのぼって比内・鹿角を通り、安比川に沿って北上し糠部にいたるコースが、当時の北奥の主要交通路ということになる。奥六郡から糠部に至るコースも、現在のように直接奥中山を越える(国道4号)のでなく、いったん鹿角方面への道に入ってやはり安比川沿いに一戸に入ったと考えられる。この点は、頼朝に追われた泰衡が夷狄島をさして糠部郡に赴き、また比内郡贄柵にあらわれて河田次郎に殺された事実からもうかがえるが、しかしそれは、9,10世紀において糠部地方を外界と結ぶ主要な道ではなかったことになる。だが、12世紀には、糠部のみならず鹿角・比内、その北の津軽地方までが陸奥国に編入され、それぞれ郡に編成される。北奥がすくなくとも政治的には北上川をさかのぼるルートで支配されたのであり、その原型ができあがるのが10世紀後半で、その結果、交易貢馬は陸奥国だけのものになったと考えるのである。その景気は、鎮守府を中心とする北方の軍事的支配の強化、鎮守府直轄としての奥六郡の一体化、その司の安倍氏の台頭などにあったと考えられる。2 北海道ルートとの関係奥州藤原氏が都に貢納したのは、馬や金だけでなく、鷲羽やアザラシの皮がある。鷲羽は上質のものは北海道産で、アザラシは北海道でも主にオホーツク沿岸の住人との交易ではじめて供給が可能になる。12世紀以前のオホーツク海岸はオホーツク文化人の生活地で、それ以外の北海道は、本州と接触する渡島半島を含め、擦文文化人の居住地だった。アイヌ文化は、擦文文化を母胎にオホーツク文化を吸収して成立したと言われる。アザラシの皮の供給は、その変化すなわちアイヌ文化の形成を促進した役割を果たしたことが推測される。いずれにしても、奥州藤原氏が北海道方面の交易を自己の重要な権力基盤としたことを示しているといえるだろう。この交易は、津軽半島の陸奥湾側の海岸(外が浜)または日本海側(西が浜)で行われた。平泉からそこに至る道は藤原氏時代に開発されたものだが、北上川を北上し、鹿角・比内を経て、上記の北奥横断路と交差するものである。この結果、鹿角・比内郡は、12世紀には陸奥国内の郡として編成された。これは、鹿角・比内を北上する交通路が主として平泉と津軽・北海道を結ぶ役割を帯びるものとして、開発、維持されたことを如実にものがたる事実といえるだろう。そのことを示すのが、津軽地方のこの時代の遺跡から出土する、渥美・常滑焼の陶器とカワラケ(土器)である。渥美焼、常滑焼は、奥州藤原氏の時代の12世紀初めに勃興し、中世においては東国で使用される陶器の最大を占めるのであるが、平泉にもすでに12世紀の段階で大量に搬入された。柳之御所跡遺跡からも出土している。ところが、その渥美・常滑焼の陶器が、それも12世紀のものだけが津軽から出土するのである。津軽地方から出土する中世陶器で、最も多いのは珠洲焼の系統のもので、多くなるのは13世紀以降であるが、渥美・常滑焼は12世紀のものだけで、以後のものは出土しない。つまり、藤原氏時代のものだけが出土し、その滅亡後は出ないのである。これは、渥美・常滑焼が奥州藤原氏を媒介として、その北奥支配の政治的ルートによって津軽に運び込まれたことを示している。鷲羽やアザラシとは逆の道をたどったのだ。一方、カワラケは、京都風の宴席の使い捨ての食器だが、平泉では非常に大量に出土する。柳之御所跡だけで10数トンである。東北地方では前後にもこれだけ大量に出土するところはない。京都の12世紀の仏教文化の最先端をストレートに移入したことは、中尊寺や毛越寺で明らかだが、カワラケ大量出土は、それが生活文化の面にも及んでいたことで明らかになった。京都風の華麗な宴会が頻繁に催されていたのだ。このカワラケが津軽の遺跡からは出土する。そして、これも12世紀のものだけで、以後はまったくない。これもまた奥州藤原氏の政治的支配を媒介に運び込まれたと考えねばならない。出土する遺跡の中には、外が浜の館もある。そこは中世の日本国の東の境界で、北海道から来た人々と本州の人々が接触する場所であった。
2026.04.17
コメント(0)
東北と貢馬の歴史、そして交易の道について。■井ヶ田良治他編(当巻担当編集委員吉田晶)『歴史の道・再発見 第1巻 平泉からロシア正教まで』面屋龍延、1994年(同書のうち、大石直正による「第2章 奥州藤原氏と貢馬の道」の前半部分から。おだずま要約・再構成)■後続記事 北方へのびる道(2026年04月17日) 東北と海の大道(2026年04月18日)1 貢馬遞送1188年(文治4)、藤原泰衡から京都に送る途中の貢馬(くめ)、貢金、桑糸などが、相模国府に近い大磯駅(おおいそのうまや)に着いた。すでに義経を保護し交戦状態にあった平泉からの貢納物であったため国府役人が源頼朝に報告すると、頼朝は、泰衡は反逆に与するものだが、これらは公物であるから抑留すべきではないと返事した(吾妻鏡)。このことから、奥州藤原氏の貢馬や貢金は東海道を通って京都に運ばれたことと、公物すなわち国家的な貢納物と考えられていたことが明らかだ。これ以前の11世紀の陸奥国からの貢馬は、新任の陸奥守が第一に行わねばならない重要な仕事であった。公物である馬の運送は国家的に行われ、官道の宿駅の間を国内の人民の負担する役によって、遞送(送り継ぎ)された。貢馬遞送の実態は、天喜年間(11世紀中ごろ)の例が、美濃国大井荘(大垣市)と茜部荘(あかなべ、岐阜市)の史料で知られる。2 東海道と東山道貢馬の官道が、陸奥国と美濃国が含まれる東山道であることは当然とも思われるが、冒頭の1188年の貢馬は、少なくとも相模国までは東海道を通っている。じつは、東海道から東山道の美濃国に抜ける道は、すでに奈良時代から使われていた。734年(天平6)尾張国正税(しょうぜい)帳、739年(天平10)駿河国正税帳には、陸奥国から進上する御馬の飼糠米などの費用が記されている。陸奥国からの貢納物が東海道(尾張、駿河)を経由したのは明らかである。おそらく、陸奥国から常陸国に出て東海道を通るコース、あるいは下野国から後の鎌倉街道と同じような道で相模国に抜けるコースが使われただろう。陸奥国に属する出羽国の場合は、進上御馬が北陸道を通っていた(733年(天平5)越前国郡稲帳から)。なお、陸奥国から下野国に出る東山道本道は白河関を越えるが、陸奥国から東海道の常陸国に抜ける道は菊田関(勿来関とも)を越える。後者の地域は陸奥国内でも古くから海道あるいは東海道といわれていた。また、東山道本道から分かれて久慈川の谷に沿って南下して常陸国に入る道もあった。その途中に焼山関があった(茨城県太子町北田気、南田気と推定)。「今昔物語集」巻27第45話には、相撲使(すまいのつかい)が焼山関付近を通る話だが、官使も東海道を通って陸奥国と都を往返したことを示している。3 陸奥国交易御馬と糠部郡奥州藤原氏の貢馬の前提となる陸奥国交易御馬は、陸奥国の正税をもって交易(きょうやく)して入手した馬を毎年11月12月のころに20疋または30疋づつ貢納する制度である。年の前半に、陸奥国御馬交易使なるものが朝廷から派遣され、その交易使が馬を牽いて上京する慣例だった。貢進された交易馬は、紫宸殿または清涼殿の南庭で、天皇の前で陸奥国交易御馬御覧の儀式が行われた。この陸奥国だけの制度は、10世紀中ごろに始まった。対象となる馬は北奥産だったと考えられる。陸奥国には、南部にも安達牧のような馬産地はあるが、陸奥国の産馬の名を高らしめたのは何といっても北奥の糠部郡の牧である。糠部(ぬかのぶ)郡は、現在の一戸から九戸にいたる広大な地域で日本最大の郡である。全郡が馬牧のようなところで、糠部駿馬の名声は全国に聞こえ、武士にとって垂涎の的であった。「源平盛衰記」では、熊谷次郎直実が上品の絹200疋を投じて買った名馬権太栗毛は一戸の牧の産。頼朝秘蔵の名馬で宇治川の先陣争いで有名な「いけづき」「するすみ」「わかしらげ」は、三戸立ち、七戸立ちの馬という。藤原基衡が都の仏師雲慶に送った品物にも糠部駿馬50疋が加えられていた(吾妻鏡)。糠部が郡に編成されるのは12世紀で、それ以前は蝦夷の村として把握されていたが、その時代からすでに蝦夷は名馬の産地で人々は争って蝦夷と馬の交易を行っていた。すでに787年(延暦6)、王臣百姓が綿や冑鉄を売って狄馬、俘奴婢を買い求めることが禁じられ、815年(弘仁6)には、権貴の使、豪富の民が争って蝦夷の馬を求めるため馬の値が騰貴し兵馬が得がたいとして軍用に耐える馬を国境から持ち出すことを禁じている(類聚三代格)。これらの狄、蝦夷の居住地の中に後の糠部郡が含まれていたのは間違いない。4 馬の交易と蝦夷の反乱9世紀から10世紀にかけて北奥羽では、馬の交易をめぐり蝦夷との紛争が絶えなかった。出羽国方面のことだが、元慶の乱(878年)の原因は馬と鷹の交易に伴う紛争であった(出羽国の国守藤原保則の伝、三善清行筆)。また901年(延喜1)に、陸奥守藤原滋実(しげざね)の死の遠因となった蝦夷との交易の問題性や官吏の腐敗を、菅原道真が痛烈に批判している(菅家後集)。道真は、人々は陸奥国に対して金・皮衣・鷹・馬などを求めるが、これらはみな狼のごとき夷民との交易で得るもので、昔から夷民の変が起こるもとになっているという。ところが蝦夷の反乱の記録は10世紀中ごろまでで、以後はぱったり消える。これは、陸奥国交易御馬の制度化の時期と一致するので、両者は関係するのだろう。10世紀後半、陸奥守には、平貞盛、平繁盛、平維叙(これのぶ)など桓武平氏一族(平将門の乱で活躍した家柄)が相次いで任ぜられたが、こうした武者の登用による軍事力強化は、蝦夷の反乱鎮圧がねらいであったに違いない。並行して蝦夷との間の馬の交易の統制が行われ、それを踏まえて陸奥国交易御馬の制度ができたと考えられる。糠部の南は、奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、志和、岩手)だが、これは胆沢城直轄の俘囚(服属した蝦夷)の居住地として編成された特殊な郡である。馬の交易統制はおそらく奥六郡の組織を介して行われた。奥六郡の司で蝦夷社会と深い関係にあった安倍氏が交易統制に一役買っていたことは疑いない。5 藤原氏の貢馬陸奥国交易御馬は1120年(保安1)を最後に史料から消える。奥州藤原氏初代清衡の晩年であるが、奥州藤原氏は私的な貢馬とともに、国土貢(くにのどこう)といわれる公的な貢馬を行っていた。これは交易御馬と同様に毎年20疋だったようで、交易御馬を受け継いだと考えられる。1186年(文治2)、頼朝は秀衡に対して、貢馬貢金は国の土貢であり東海道の惣官として自分が管領する立場にあるので今年から自分が伝進すると要求した。頼朝の管轄下にあるというのは、1183年(寿永2)宣旨による東国行政権に基づくのだろうが、いずれにしても奥州藤原氏は事実上頼朝の統率下に立ち、貢馬は鎌倉に進上され、鎌倉を経由して京都に送られた。冒頭(1 貢馬遞送)に述べた泰衡の貢馬・貢金はその後の義経問題を契機とする鎌倉と平泉の手切れ後のもので、奥州藤原氏滅亡直後の1190年(建久1)春に頼朝は20疋の貢馬を行うが、奥州藤原氏時代の例を受け継いだものであった。もう一つ重要なことは、頼朝による貢馬・貢金の伝進が、奥州藤原氏の鎌倉への従属を意味しているとすれば、逆に、貢馬・貢金は奥州藤原氏の独立の証だったということである。貢馬・貢金を行う政治権力として朝廷から認知されていたのであり、奥州藤原氏のアイデンティティにかかわる特殊な貢納物であった。
2026.04.16
コメント(0)
先日の12日(日)投開票された全国の首長選挙では、パワハラやセクハラに関わった現職の当落が分かれる結果となった。前回の当ブログ記事(下記)で取り上げた4つの市や町について、単純に結果を見れば、パワハラで2勝1敗、セクハラは1敗、というのが現職の当落状況だ。■関連する過去の記事 パワハラとセクハラの首長選挙(2026年04月14日)もちろん、選挙の争点はそれだけではないし、ハラスメントと一口に言っても状況はさまざまだし、当該行為だけでなく日頃の現職の首長の人格や言動、振る舞いが、どう有権者に受け止められているか、が問われるのだろう。あえて図式化すれば、当該現職が有権者の支持を得るかどうかについて、次の要素を提示したい。(a)行き過ぎた行為それじたいの重大性あるいは有権者の忌避感(b)当該行為によって生じる市政町政の混乱や停滞の度合い(c)当該行為についての当人の反省や再発防止策についての評価(d)当該行為を惹起する日頃の当人の人格、言動、振る舞いについての有権者の評価(e)上記以外での当人の首長としての実績に対する評価(更に、当落結果については、選挙なので相手候補の数、候補者の人物像や政策、支援者の状況などが大きく影響するし、投票当日の天候など投票率も影響する。)これらの要素の強弱によって、当人(続投をめざして立候補する現職)への支持が決まるという構図だ。(a)が比較的軽微で、(b)議案総反対や不信任決議もなく、言ってみればちょっと行き過ぎたところもある人物だがむしろその性格が市政や町政の推進に役立っているなどの(d)評価が高ければ、(c)もあることだし、現職の方が良いのじゃないか、と有権者が思うだろう、という説明だ。ここで、(d)と(e)をあえて分けたのは、「他の政策(e)でいいから、パワハラを重視しない」(峻別による正常化)というのと、「パワハラは行き過ぎだが、それも当人の実行力の逸脱であって、もとの実行力は(d)大いに評価している」(逆に関連付けて合理化)、というのを分けるためだ。そして、実は(d)が有権者に重視されているのではないか、と個人的に感じるからで、その感覚を持つ一つの原因は、明石市で市長をやっていた泉房穂さんへの市民の評価(出直し選挙で圧勝)を想起するからである。私は、前回記事に記した山形県西川町、黒部市、佐賀県有田町、同県吉野ヶ里町の状況について、的を射た解説はできないが、一般論として次のようなことが言えるのではないだろうか。パワハラは、対象者が職員、議員、関連の深い企業などだろうから、有権者のほとんどからみれば実害もなく、客観的には役場内の風土の透明性健全性には関心を抱くだろうが、議会で不信任や訴訟にまで発展して市政町政が混乱や停滞する事態(b)にでもならなければ、さほど気にしないのではないだろうか。むしろ、ある程度実績があると(e)、有権者の心理としては、パワハラは良くないけどそういう人だからね(d)とむしろ積極的に「合理化」してしまう(そう考えたくなる)ということかも知れない。ただし、セクハラは事情が異なり、当人の人格の印象を一気に下げるし(そんな人物が首長でいいのか)、好機の目から、自治体のイメージを長期にわたって落とす可能性もある。以上、役立たずの考察でした。投票率への寄与、争点の分析(発言データ)などをすれば、研究テーマとして大いに成り立つかもしれない。
2026.04.16
コメント(0)
昨日の月曜が新聞休刊日なので、今日(4月14日火曜日)の朝刊各紙(紙面)に日曜日の全国の首長選挙の状況が報道されている。気になったのは、パワハラやセクハラにまつわる記事が多いこと。以下、河北新報、毎日、朝日の記事から。●パワハラ認定菅野氏再選/「信任得られた」神妙に/大泉氏現職批判不発(山形県西川町)・現職の菅野大志氏(47)が、新人大泉敏男氏(71、元東北労金山形県本部長)を破り再選。・菅野2147 大泉1052・投票率 83.72%・菅野氏は、複数の町職員へのパワハラが第三者委員会に認定されていた。・4年前も争った大泉氏に1000票以上の差で圧勝・菅野氏は、街頭に立たず、毎晩個人演説会で実績を強調し、若者の定住策など町の未来を語ることに注力して支持を集めた・大泉氏は、パワハラ絶滅宣言の町にする、など現職批判を強めたが浸透せず●黒部市・前副市長上坂展弘氏(64、無新)が、現職武隈義一氏(58、無現)を破る。・投票率60.03%・管理職へのパワハラ疑惑を抱える武隈氏と、昨年まで部下の上坂氏が争う異例の構図・両氏とも自民党籍を持つ保守分裂選挙だった●パワハラ町長3選/佐賀・吉野ヶ里/「対応は卒業」(佐賀県吉野ヶ里町)・男性部下へのパワハラ発言が認定された現職伊東健吾氏(78、無)が、3選。・伊東氏2321票。次点とは435票差。前回から1500票ほど減らし、新人3人の合計得票が5216・投票率59.48%(前回55.33)・当選後、伊東氏は「これで卒業させていただく」と。その後、「行政はそれだけが仕事ではない、仕事の一つとしてやっていく」と発言を訂正。・町の課長だった男性は、新庁舎建設に関し財政負担に難色を示したところ、伊東氏の「俺が(課長職を)代えてやる、建設的な意見を言いなさい」とのパワハラ発言の後に死亡。町の第三者委員会は伊東町長のパワハラを認定した一方、死亡との因果関係は対象外として調査せず。遺族はパワハラが原因と主張している。●セクハラの現職 佐賀・有田は落選(佐賀県有田町長)・3選をめざした現職の松尾佳昭氏(52、無)が落選。・松尾氏3164票、元町財政課長鷲尾佳英氏(60)に1852票差をつけられる。・投票率69.70%(前回67.43)・松尾氏は、町内進出を検討していた名古屋市の企業を訪問した際、企業側が設けた宴席の二次会で泥酔し、飲食店女性にセクハラをし(昨年9月)、一度は辞意を表明(12月)したのち撤回していた■おだずまジャーナル補足。次の記事(下記)に続きます。 パワハラとセクハラの首長選挙(再び)(2026年04月16日)
2026.04.14
コメント(0)
久々の白熱した選挙戦が展開される、と評価していいだろうか。大崎市長選挙(19日投開票)が告示され、4人の新人が立候補した。合併新市の20年の歴史を担って勇退する伊藤市長の後任者が誰になるのか大いに注目される。届け出順に、候補者を紹介する(河北新報記事から情報を引用)・鹿野良太氏 元市議会議員(劇団員、銀行員) 48 2022市議トップ当選、0-2歳児保育料無料化、DX推進、企業誘致などをめざす・高島健一氏 農業(結婚式場勤務) 67 娯楽の充実、鳴子温泉への大手ホテル誘致などをめざす・藤本勘寿氏 元市議会議員(銀行員) 32 2022市議、財政再建、東北第2の経済圏形成、子育てワンストップサービスなどをめざす・中島源陽氏 元県議会議長(農業) 63 大崎未来塾の創設、農業の振興などをめざす2006年3月31日(年度末の最終日)に大崎氏は誕生した。翌4月の選挙で初代市長に伊藤康志市長が当選。人口は2006年13万9157人から2025年は12万1226人と1割強減った。合併後20年で小学校20校、中学校2校が閉校。新たに小学校2校、義務教育学校2校が誕生。15歳以下の子どもの数は合併当時に比べ約3割、6760人減った。合併前の旧6町に対して旧古川市域は人口が微増しており、人口推移には偏りも。また、観光振興や古川駅前の再生も大きな課題だ。(以上、河北新報記事から)これまでの選挙を振りかえる。・2006年当 39,546 伊藤 康志 無新 37,139 本間俊太郎 無新 2,941 渋谷 貞雄 無新・2010年当 34,404 伊藤 康志 無現(2) 25,924 本間俊太郎 無新 14,656 佐藤 仁一 無新・2014年 無投票・2018年当 39,982 伊藤 康志 無現(4) 14,774 加藤 幹夫 無新・2022年 無投票■関連する過去の記事 宮城の首長選挙の投票率を考える(再び)(2012年7月9日) 首長選挙の投票率を考える(2011年2月21日)(県内市長選との比較) 大崎市長選挙は伊藤氏再選(10年4月19日) 大崎市長選挙を考える(10年4月18日) 大崎は伊藤氏、気仙沼は鈴木氏(06年5月1日) 大崎市長選挙を注目する(06年4月30日)
2026.04.13
コメント(0)

桜の名所、涌谷町の城山公園に行ってみた。晴天の日曜日だ。ここから、城山公園(涌谷神社)に石段を上る。往時はこのあたりが船着き場で、涌谷の町は舟運で大いに栄えただろう。江合川のはるか先に望むは舟形連峰か。城山公園の最奥部に、涌谷神社。非常に風の強い日で、桜の枝が揺れている。■関連する過去の記事(涌谷町。ほかにも多数ありそうですが) 箟岳白山小学校(2025年05月30日) 涌谷町の殺人事件(2022年11月20) 涌谷町の地名 産仮小屋(2015年4月25日) 誉れ高き箟岳分校史(2012年5月15日) 定時制箆岳分校の充実ぶり(2012年5月14日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日)=涌谷町と鉄道の歴史 ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月25日) 涌谷商人隆盛の歴史(2011年10月15日) 金華山と涌谷を考える(06年12月17日)
2026.04.12
コメント(0)

県道泉塩釜線(旧道)を、今市橋方面から多賀城・塩竈方面に進むと、郵便局あたりに三差路がある。ちょっと先(東)には、利府街道(仙台松島線)が岩切大橋に続いてオーバーパスしていくのが見える。看板がある。こう書いている。追分(おいわけ)の道標ここは二つの路線に分かれる分岐点であり、昔はここを追分といっていた。一つは利府・松島方面への道(奥大道)、一つは岩切の町を経て多賀城・塩竈への道(東街道)である。従是右 しほがまミち 1り25丁左り まつしまミち 3り27丁年号は「安永3年」(1774年)側面に「施主亀屋庄右衛門」「妻」「子より」と刻んである。穀物問屋をしていた亀屋庄右衛門とその家族が、塩竈・松島遊歴の人々のために建てた。台座の上に建てたが現在は地中に埋もれて台座(大きな石)は見えない。刻んである文字はのびのびしており彫りが優れている。県内屈指の道標といわれている。岩切歴史探訪会■関連する過去の記事 奏社宮道道標(市川追分の碑、多賀城市)(2026年03月30日) 塩竈道と七ヶ浜道 ー 仙台藩の流通統制システム(2026年01月06日)■関連する過去の記事(松原街道、岩切など) 案内のネコ(2024年10月14日) 何事もあわてずいそがずまず相談(シリーズ仙台百景 43)(2024年10月14日)=苦竹の梅田川沿い 平田神社(宮城野区原町二丁目)(2024年08月22日) 原町苦竹の道知るべ石(宮城野区原町三丁目)(2024年08月23日) 平田橋(宮城野区原町三丁目・五丁目)(2024年08月24日) 延慶の碑(平田五郎)の新しい説明板(利府町)(2024年08月17日) 岩切城跡を歩く(2024年04月02日)=利府町側からも登ってみた パルテノン神殿?(シリーズ仙台百景 42)(2024年01月06日) 遊んではいけません(シリーズ仙台百景 40)(2023年09月10日)=鶴ヶ谷カトリック墓地 比丘尼坂(2023年09月05日) 大須賀森(鶴ヶ谷カトリック墓地)(2023年09月04日) 御立場町(2023年09月02日) 小鶴城跡(2023年09月01日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=板碑、延慶の碑について 南口新設 変わるか岩切駅周辺(2016年2月14日) 七北田川の自転車道、中野小学校、日和山(2015年11月22日) 今日の七北田川(2015年9月13日) 平田五郎の力試し石のあった神谷川と平田橋を探して(2015年3月28日) 平田五郎と力試し石 画像です(2015年2月27日) 平田五郎と力試し石(2015年2月23日) 仙台のアイヌ語地名(2013年4月18日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日) 四野山観音堂(2013年4月2日) 多湖の浦と田子(2012年11月8日) 茨田踏切(2011年12月31日) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 清水沼のこと(10年9月8日) 七北田川の自転車道を楽しむ(10年5月3日) 岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) 松原街道(07年8月18日) 漂泊の旅 岩切「おくのほそ道」(06年11月4日) 燕沢の名前(06年3月17日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 彩雲?でしょうか(シリーズ仙台百景 34)(2011年5月3日) 富士宮やきそば(シリーズ仙台百景 31)(2010年10月17日) 一時停止だ!三時はお茶だ!(シリーズ仙台百景 24)(07年8月20日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2026.04.11
コメント(0)
岩手めんこいテレビの記事だ。(ネットで4月10日朝5:00の配信。宿場町の面影が残る住田町「世田米」の由来 地名に刻まれた歴史と新たなにぎわい)以下に概要を記す。長年岩手県の地名を調べている宍戸敦さんが解説する。昭和30年誕生した住田町は、上有住村、下有住村、世田米町の合併による合成地名。最初は気仙川の旧名鳴瀬川から、鳴瀬町を町名案としたが議会で字が難しいとされ急遽決定した経緯がある。世田米は、内陸と沿岸の中継地点として発展し、街道沿いに町家を並べ後ろに土蔵を立てるようになった。金田一京助は、世田米は、アイヌ語で「セタ・オマ・イ」、犬(セタ)がいるところ、と解釈している。世田米に犬頭山(いぬがしらやま)があるからと述べられているが、犬と世田米の関係はわからない。一方で宍戸さんは、地形由来の説に着目し、「せ・た」で狭い土地の前の意、「せ」は気仙川の川の瀬で、気仙川の瀬の前の土地、と考える。世田米駅という地名は江戸時代の宿駅の名残である。交通の要衝だった世田米の役割を今に伝え、新たなにぎわいを創出するため、古民家を改修した「まちや世田米駅」で2016年オープン。私は住田町が合成地名とは知っていたが、それは宮城県に来て宮城のあちらこちらの地名に触れているうちに気が付いたことだ。岩手の中学生のころは、そんなことには気づかず、むしろ、有住(ありす)という地名に不思議感を覚え、有住中学校は略したらアル中だな、と友達と言い合っていたものだ。■関連する過去の記事 有住と世田米で住田町(2022年12月10日)なお、地名については合併等による命名についての下記の記事のほか、多数の過去記事があります。 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日) 合併と広域地名を再び考える(岩沼と名取)(2024年03月22日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日)
2026.04.10
コメント(0)
全3658件 (3658件中 1-50件目)
![]()
