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なじみのスナックのママより電話があった。まいど「嫁さん、ミツカッタカ?」という言葉で探りをいれてくる。この“台湾人48歳17歳の子ひとり持ちパパ付”との出会いは10年前にさかのぼり、彼女は私を“東南アジア人ホステスとの擬似恋愛”という迷宮のアンドローラに嵌りこませる水先案内人となったママだ。思えば10年前は美しいヒップをしてこの私をたらしこむことも容易であったママも、その身体の線は松坂慶子のごとく寄る年波には勝てず、容貌も次第に王貞治のような広東人特有の特徴に至ってきた。(太い直線マユ、鼻の穴を黒で塗るやせた鼻梁、張り出す頬骨など)女としては一丁あがったママは、最近、己の恋に遊ぶ代替として、いわゆる近所の世話焼きババアの領域に入ってきた様子なのである。台湾人ママの誘いは私を惑わす。思えばこの10年の自分史はママとの二人三脚であった。初来店の際の機転の効いたサービスと安い料金。初心者マークまるだしのネギカモ状態の私はエキゾチックな風貌の当時26歳のタイ人ミキにやすやすと篭絡されてしまい、新車を買って250万円のローンを組んだ直後にも関わらず、サラ金の無人貸出機へと誘導されてしまった。幸か不幸か、審査にひっかかったことで、タイに建設するためのふたりのお城は夢と消えたのである。(実はミキの家族のためのお城建設であった)私は50万円ほどの焦げ付きで済んで、周囲には『一発50万!』とうそぶいてみせた。「ズイブンタカイ、イッパツネ。」と慰めてくれたフィリピン人ユキとの出会いも彼女の店だったし、この日記にしばしば登場するマリエルもママの店で出会ったのであった。(ママはこの10年で何店か店を出したりつぶしたりしている)拝金主義チャイニーズの心にもボランティアの目覚めというべきか、金銭の利害を超えた友情にのっとった女性の紹介にも関わらず、私には再度1発50万円の世界にいくのではという漠然たる不安がフラッシュバックしてきた。お陰で、ホントの幸せがきても逃してしまうこととなる。タイ人36歳、色白美人。結婚歴なし。子なし。性格は表面的には明るく誰とでも付き合える優れたコミュニケーションを持ちながら芯は強い。ボイン。ママは私の性格をよく鑑みて、この女はおぎーのさんにピッタリだと思ったという。ママの言葉はつづく。「おっぱい、大きいの、スキダベ。」といってママはにやりと笑った。見抜かれている。私は、じつはこのところうつ病がひどくて、スナックなどとてもいける状態ではなかった、と打ち明けた。ママはたいそう心配してくれて、気分転換のためにも遊びにおいで。ウチにタイ人の二十歳のコが来たので、そのコに日本語を教えてやってくれ、と誘われた。「かならずオイデヨ」といわれると、鬱をおしても20:00の開店時間に行かねばならぬ。元来、私はホステスの新人研修を担ってきたのである。(この項つづく)
2005年01月31日
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一昨日のこと。17:30より始まる来年度の事業計画案についての会議は蹴っ飛ばした。(すいません、医者から無理しちゃいけないって言われてるモンですから)会社を出たらすぐに後輩Sへ電話。前々から約束していたデートなのだ。買い物につきあってくれとお願いしていたが、冬物のバーゲン漁りはすでにひとりで済んでしまっていた。例によって身の程知らずの高級ブランドを半額で購入したのである。ブレザーの上・綿のパンツ・ハイネックのセーター。しめて7万、10年は着るだろうから1年で7千円と思えば高くはない、と、思う。それはいいとして、後輩Sとなにしよう。。落ち着いた雰囲気の店でうまいものでも食べたいな。Sは30歳にして膝頭くらいのミニスカートにフードにファーのついた白いキルティングのパーカーを着てやって来た。顔つきもやや童顔なのでパッと見では25歳くらいにも見える。オレだって35歳くらいにも見える、かしら。駅前でSを拾ってとりあえず国道を走る。めし何にしようか?焼肉にしようか?肉なら『Y』だよな。「いいですね」とSはよい反応。松坂牛を出す店である。うまいんだな、松坂って。話はすぐにまとまった。はじめにサラダをちょこっとつついて、まずはタン塩から。ではでは。レモンのタレで。うまい。私はノンアルコールビールでビール気分のみ味わいつつ、Sの絶妙な焼きの間合いに関心しつつ、財布の中身なんぞ忘れつつあり。つぎはユッケ。これ、生まれてはじめて食べた。ずいぶん上品だなあ。これっぽっちで1700円か。ユッケってロース肉だったのか、知らなかった。Sは私の周囲において一番の食通である。我々の関係者では評判のよい創作料理の店『 I 』のどこがうまいのかわからんというと、Sもまったくの同感で、そんなときにはふたりだけの共通認識として密かに盛り上がるのである。上カルビ、ロースと焼きをすすめる。Sがすべて進行する。なんともちょうどよい加減だ。この焼きぐあいを「まだ早い」と思う人とは、このお店では同席したくないのである。肉がもったいないから。私は語る。『マリエルはトニーローマが好きでときどき行くんだけど、奴らはウェルダンじゃないと嫌なんだよね。アメリカ牛を焼ききってパサパサしたのを噛みしめて食べるのがいいらしい。オーストラリア人もそうだった。マリエルは焼肉好きだけど、この店にはつれて来ることはないよ。』Sが同調する。「そうですよ。肉をしっかり焼かないと気がすまない人にはアウトバックのステーキでいいんですよ!」我々の会話は週末のファミリーレストランでの外食を楽しみにする4人家族の30代夫婦が聞いたら嫌味のひとつも言いたくなるほどに飽食なセリフであふれていた。「人間はいつ死ぬかわかりませんから」とSはいう。可処分所得の多い独身者はマイホームもなく、子育てもなく、そして夢もない。いつまでこんな生活を続けていくのかお互いにわからないが、Sは現在のライフスタイルに満足の様子で、私は10年も煮え切らないカンケイを続けているウメミヤ君とはいいかげんに別れろよ!と強くはいえない。私も同じだからだ。ゆっくりと咀嚼すれば意外と満腹するもので、会計をしてみれば安い店で食べるのとたいした差はなかった。ふたりで¥8800なり。ガムをもらってふたりしてクルマの中でくちゃくちゃと噛む。『焼肉を食べる男女というのはかなりリレーションが深いらしいよね。』「そんなこと、いいますよね」翌日、給料明細を渡され、手取りはいつもの半額であることを知った。がーん。しかも来月も同様なのだ。みなさまくれぐれもお体をお大事にしてください。健康あっての幸せですから。
2005年01月27日
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本日は晴天なり。なれど我が脳内は曇天なり。めまいや吐き気まで催しながらも、気力を振り絞ることにより出勤することを可能にせんとす。久しぶりインテーク面接等、集中力や機転を要する仕事を行い、苦しくもやり遂げたという達成感もあり。つうことで、現在も頭痛がする。朝からずっとでもう目もへろへろ。しかし。書かねばならぬ。ネタはまたしてもテレビによるものだ。NHKで憲法9条や憲法全体の改憲についての番組をやっていた。『公平・中立』をモットーとする皆様のNHKが、この微妙な時期にどんな番組を行うのかということにも興味があった。結論からいうと、慎重に上手(うわて)を取りにいって寄り切るという北の海のような横綱相撲であったと感じた。三宅アナウンサーよりも私の方がみていて緊張していたくらいで、憲法をネタにした番組をNHKらしく放映した。憲法を改正すべきか否かという問題である。小学生の高学年の頃より社会科で、日本の平和憲法は戦争を永久に放棄したことを謳った、世界の中においても類を見ないまことにすばらしい憲法だと教えられた。義務教育課程において、何度か憲法の授業があったと記憶する。副読本なんかもあった。子供の私は、戦争のない日本に生まれてよかったとしみじみ思ったものである。死にたくないし、軍隊のつらさにじぶんが耐えられるはずもないことはよく知っている。自衛隊の存在についてが不思議であった。オマケのようなものなんだろうと子供ココロに思っていた。なくてもいいのだろう、いや、自衛隊は悪い、とも考えてみた。小学生の私はお父さんが自衛隊員という女の子に、はなわ君のごとく『へえ~、きみのおとうさんは自衛隊なんだ。』といいたい衝動に駆られたが、同時に抑止力も働き、結局、そんな話をすることはなかった。高校、大学と時を経て、現在に至る9条についての私の見解を書こうとするのだが、やはり体調わるし。尻切れトンボのごとく、今日はこれでおしまい。
2005年01月24日
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※すっきりと目覚めるうれしさよ。火曜日に抗うつ薬を点滴されてから、あれよあれよと活気がでてきたのである。昨日も今日も、遅刻なく出勤。あれほど苦しかった日々はいったいなんだったのか。全快しているわけではないので慎重に仕事をしている。あすは会社の新年会だが欠席だ。さすがに大勢の前で芸などできるわけがない。昨年末の時点では企画を考えてはいたのだが。めちぇくちゃまじめな総務主任37歳男に腹話術の人形の格好をさせて私がいっこく堂になるとか。数年前に前の職場でやった東京コミックショーの『レッドスネーク、カモン!』の芸をやるとか。あれは台をつくるのに手間がかかる。二人羽織といった古典的な芸もいいんじゃないかとか。しかし、現在の私にそんなことができるわけない。新年会の場にいるのも無理ということで、あしたもさっさと家に帰る。※ところで、朝日新聞とNHKの喧嘩についてである。いよいよ全面戦争の様相を呈してきた。どちらもマスメディアの権威だ。ことの発端は長井さんというNHKのおっさんが番組の制作について政治家より圧力を受けたと泣いて訴えた。4年前の番組である。テーマは戦争の暴力を裁くというもので模擬裁判の形式で昭和天皇と旧日本軍の人たちは強姦と性的暴力で有罪を判決されるという内容であった。それはやりすぎだろうとNHKの上層部は考えて放映の数時間前まで編集作業は続き、判決のあと傍聴者が拍手する場面等を削除したり、天皇の犯罪について否定的な学者の意見の時間を多くとったりしたとのこと。それが自民党政治家の圧力で改変されたのだと、朝日新聞は報道した。制作の実際は子会社であるNHKエンタープライズがドキュメンタリージャパンに発注するというもので、ドキュメンタリージャパンは企画意図どおりに作らなかったとエンタープライズに訴えられて、100万円の損害賠償を払うようにと裁判では判決を受けている。圧力を与えたといわれる政治家ふたりは事実ではないので訂正と謝罪を訴え、NHKは一昨日の朝刊で1面にわたり取材の経緯等を報道した朝日に対して、訂正と謝罪を訴え、また朝日新聞もNHKに対して訂正と反論を…と、ことは訂正と謝罪合戦になってきたのである。どうでもいい人にはスルーな事件かもしれないが、昔、広告屋にいて、「うそをつくとJAROに怒られるんだぞー」と肝に銘じていた私には大事件なのである。どちらかがうそをついていることははっきりしているのである。とんでもない大嘘である。これまでの経緯を私なりに眺めると、朝日新聞は崖っぷちに立たされていると思っている。朝日は前代未聞のとんでもない捏造をしたのではなかろうか、早く謝ってしまったほうがよいのでは、と思っていたら一昨日の1面にわたる堂々とした報道姿勢なのである。よほどの自信がないとできないことである。記事を書いた記者をデスクやその上の上層部は全面的に信頼しているのであろう。一方、NHKの上層部は「長井のヤツはとんでもないことを内部告発しやがったな」とこちらは内ゲバの様相を呈している。ここまで書いて、おっと『報道ステーション』が事件を報道、ここで小休止。(時間の経過)テレビ朝日および古館は朝日新聞をバックアップしますた!(2ちゃんねらーかw)報ステの論調はことの詳細の事実関係がどうのこうのはそう問題ではなく、常日頃より政治家はマスコミを利用せんとし、マスコミはそんな政治圧力の中で頑張りながら報道しなければならぬのだ、それをNHKは否定するのか、といった按配だ。(やはり暗黙の圧力はあったのだろうと。)テレビ朝日はとりあえず事実関係の詳細についてはスルーした。NHKは政治家とズブズブ…とはいわないまでも、ズくらいの論調で、朝日新聞はそのへんが清潔だというイメージを与えたように思う。私の印象では古館は番組のスタッフよりのブリーフィングに即してなんかいまひとつアタマで消化できないが、例の調子でとにかくしゃべっているよう。古館キャスターさんは何事もそんな調子だが。となりの加藤論説委員さんは(私は朝日新聞の組織に属していますから、詳細はセクションがちがうのでよくわかりませんが社員として…とスナオさんであった)加藤さんはコメントしづらい立場だな、とお察しした。ここまで書いてじぶんはNHKに味方をしていることを十分に理解した。朝日新聞はストーリーを書いてしまったと。だが、朝日にとっては国民に対して政治家とマスコミの構図を啓蒙するという意味でだけでも報道の意義があると考えている。私の考えは、単純で、朝日新聞はついつい捏造記事を書いたがいまさら謝罪はできんと。あなたはどう思いますか?
2005年01月20日
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今日は、ダメダメ。起床時、『ううううう、ぐるじい!』と頭痛とめまいで完全にダウン。11:45にアタマは痛いがなんとか起きて、精神科クリニックへ通院する。『…ということで、わたしはどうしたらよいのでしょう?先生は簡単に休職についての診断書は書かれませんよね。でも、私はおおまかなプランがほしいのです。それを管理者にきちんと報告すれば会社も納得するのではないかと思いまして。』「そうね。でも、今、不況でしょう?それに長く休んだからといって、全快するとはかぎらないの。わかったわ。きょうはアナフラニールを点滴しましょう。あしたも悪かったら点滴しましょう。それでもダメだったら木曜日に(休職についての)診断書を書きましょう。」1時間後。点滴の入った私はアクセルを吹かしながら、会社へと向かったのであった。T田も、やさしく迎えてくれた。『でも、今、点滴入っているから元気なんだよ。(これこれこういうことで)休職になるかもしれない』T田と今後の私の身のふり方について、ああだこうだと話し合っているうちに、なぜかT田の目が赤くなり涙目に。(へ?これなんで?そんなに重大?ああ、仕事がT田にもろにふりかかるからな。まったくオレはどうしようもない男だな。それにしても気丈なT田は思いもしないときに涙目になるな。ケース記録のファイルをひとつ紛失したときも泣きそうになった。すぐに出てきたのにな。T田って、やっぱ、ものごときちんと決まってないと安心できないのだな。今はオレの出勤があてにならんので、彼女はどう仕事したらいいのか、わからないのだな。おぎーのさんがいないから、あたしこのくらいしか仕事できません。それじゃお先に失礼します!ってできないんだな。この気まぐれおぎーのは罪人だ)管理者(60歳のおばさん)にきちんと報告したら、彼女には「休職」の2文字しかアタマに入らなかったらしくとちくるった反応をみせた。ああ。そりゃ、オレいないとしわ寄せがあちこちに行くもんな。どうしよ。う~ん、考えるのやめた。明日、出勤できますように。アーメン!
2005年01月18日
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本日、6:30にきちんと目覚ましが鳴った。『う~ん、ちょっとくるしいが、そんなでもないぞ。まだ、早いからもう少し寝ていよう。無理しちゃいかんしな。』7:00『7:30に起きればじゅうぶん間に合うのだ』7:50『あれ、こんな時間か。動作がにぶいし、めまい少しする。ああ、布団の中ってなんて気持ちいいんだろ。無理しちゃいかん、むりしちゃ。ちょっと遅刻しますって、会社にメールしとこ。ちょっとなら、許してくれるだろ。』10:00『うわ、いい気持ちで寝てしまった。起きろ!うごけ!』ということで、10:40に出勤。管理者は当然、しぶい顔。だが、薄いクビの皮はつながっていると思う。きれちゃったら、縫っておこう。本日の仕事は、単調な入力作業に徹する。いつもなら、すぐに飽きてほかの仕事をしたくなるのに、今日はえんえんとやっていられた。18:30まで仕事をした。お昼休みも飯だけ食べておわり。重役出勤のせいか思いのほか疲れなかった。明日は、遅刻せずに出勤したいものである。できるかな。
2005年01月17日
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うつ病患者の独白2002年2月。無理な仕事をさせられつづけていた私はなるべくしてうつ病を発症した。『このままではつぶれてしまう』と周囲や上司にうったえることはもちろんあったが、こうも数式のようにきちんとうつ病になるとはなってみるまではわからなかった。うつ病という病気は突然やってくるといわれるが、誠にそのとおりで、2002年の2月10日の起床時に、『ううううう、ダメだ。』とその瞬間にすべてを確信した。うつ病がついに来た、と。鈍器でうなじを殴られたようなかんじなのだ。うつ病患者は自分を追い詰めて、強い自責の念にかられるのを常とするが、病気についての知識をもつ私は、一方で無理なことをさせていた組織、とくに管理者について糾弾したい気持ちすらあり、休職についてはさっさと自ら決定した。まあ、半年くらいは期間が必要だと思ったが、主治医は(もともと抑うつ的な性質をもつ私は22歳の頃から知る精神科医に断続的に受診していた)笑いながら、「そんなには、必要ありませんよ」といわれた。こんなにつらい症状がそうそう治るはずもない。と私には思え、うつ症状はどんどん悪化していったわけだが(飯も食えずに、ズボンもぶかぶかになった)、しばらくすると、薬の効果により、これまたどんどん元気をとりもどしていきズボンはぴっちりともとの位置にもどっていったのである。2~3ヶ月でほぼ寛解した。主治医(女医)の予想どおりで悔しい気さえしたが、よくなることに越したことはない。※ウェブによる日記を始めたのは2月12日で、なんにもする気がしないが日記くらいの文章なら意欲があり、たまたまライコスの日記をクリックしたところ、今でいうブログのサイトにやってきたので始めたのだ。その、記念すべき1日目より今日までのログが、ここに残っている。(興味のある人は、日記一覧で書き始めをみてください)3月の頃は病状がすぐれずに日記すらかけない日もあった。が、とにかく、今日まで続いているのである。4月半ばより復職した私は、サウナを入りにいくくらいには回復した。マシンを使った日も何回かある。これも日記で知り合った皆様のおかげだと当時はとても感謝したものだ。しかし。11月の半ばに再燃してしまうのだ。このときは1週間程度休むつもりが3ヶ月休んでしまった。身体、精神のつらさは1回目の発症を超え、病識があるにも関わらず、自殺念慮すら出てきてしまったのだ。復職は少々早かったのかな、と今考えても結果論だ。2003年の1月くらいより再度、復職。おばさんケアマネージャーに陰で嫌われたものだ。謝罪のひとつもないと。だが私にしてみるとじぶんのことに誠意いっぱいだし、うつ病という社会性の強い病気でまわりに謝罪などしていたら、いつまでたってもそこにいるかぎり治らないぞ、と思っていた。この頃、T田が入社してくる。小ぶりながらも社長秘書タイプで美人の彼女は、このおぎーのとコンビを組むことになろうとは露ほども思っていなかったはずだ。2月より支援センターというほぼ放置されていたセクションにふたり配置され、T田はファイルをこつこつと整え、私はケースワークを中心に行い、地域の拠点をつくっていった。T田のクレバーなしごとぶりには感謝したい。がけっぷちの私は、彼女の支えで復活していった。ある程度業績をあげれば、周囲もおとなしくなる。このあと、2004年1月に3週間ほどうつで休み、この冬、12月より今日まで、出勤するほうが珍しいという状況で今日にいたっている。(ここまで書いて、オレはなにが言いたかったのだろうか?よくわからなくなってしまった)早い話が明日こそちゃんと出勤しなければまずいのだ。それをT田が教えてくれるので、彼女の忠告に応えなければと思いつつ、生活状態が改善されてなくて、我ながらまったく困ったものなのである。T田はやんわりと励ましてくれる。社長秘書のごとく的確に。(じっさい、以前は外資系化粧品会社の社長付きだった)T田はほんとに性格のいい、美人さんで、いつもニュートラルなポジションだ。しかし、T田の励ましにプレッシャーを感じるじぶんがいるのである。"ちょっと、うつ病の奴に励ましは逆効果だぞ”と、自ら、T田さんにはいえないのである。明日の起床時、いつものように非常にくるしい気分を味わうことになるだろう。いつもならくじけて休みの連絡だ。だが、明日からは、布団を蹴飛ばして、シャワーを浴びて、身だしなみを整えて出勤せねばならぬ。できるだろうか。この一言をいうがために2,002年までさかのぼってしまう私の心象はなんだろうか。
2005年01月16日
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ここのところ、タランティーノ病が再発している。もうすでに観ているタランティーノの映画を再度レンタルしてくるという病だ。今回はレンタルにとどまらず、DVDやCDのサウンドトラックの購入へと発展している。(うつ病患者の養生というものは、なんでもいいから興味がわくことをしてそれがあとでココロの負担にならないようにすることなのである。)始まりは『キル・ビル』であった。ウェブ上の皆さんの評価はあまり芳しくない作品である。その特徴として『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』での独特のセリフ回しやどんでんがえし・ループするストーリー等の魅力がないと。ストーリーも荒く、中途半端にハリウッドなエンターテーメントな映画。と評されても仕方ないかな、とも思う。しかしです。『キル・ビルVOL.2』を観なければキル・ビルについては語れないのである。私の場合、『VOL.1』での冒頭の♪BANG,BANG~のうたが流れた瞬間より、これからただならぬ何かの気配を察知したのである。あとはユマ・サーマンの動きをひたすら追っかけてみればいいのだ。千葉真一のすし屋のシチュエーションは笑っていればよし。クライマックスの青葉屋のシーンは反復が効く。あれだけ人を斬って刃こぼれひとつしない服部半蔵の刀は名刀だ。ルーシー・リューの「ヤッチマイナ!」のセリフはなんとなくほのぼのしていて好きだ。ユマとリューが互いに日本語で啖呵を切っているシーンは耳をすましてもセリフがよくわからない。それもよし。キル・ビルの脚本は200ページあって、VOL.1は57ページで終わったのだそうだ。なので、1作目だけ観て懲りてしまった皆さん、ぜひ後編もごらんになってください。2作目でようやく全体がみえてくるのです。○しかしながら、タラ映画は音楽がカッコイイよなあ。ファンクあり、マカロニウェスタンあり、マリアッチあり、いろいろあるよ、いろいろね。キル・ビルの最後は、「恨み節」が流れて終わるのだよな、梶芽衣子の。買いましたよ、梶芽衣子の全曲集を。(サウンドトラックに「恨み節」は入っているんですが)寝る前に流すとよく眠れるのだ。興味は、ネタ元の梶芽衣子と移っていき、『女囚701号さそり』のDVDをアマゾンで注文。この世界に足を踏み入れるとなんだか抜け出せなくなるような気もしてくる。とにかく不幸を背負った梶芽衣子。男にだまされ、復讐する梶芽衣子。ロングヘアで幽霊みたいな梶。こりゃ、たまらん。VOL.2は、マカロニウェスタンやカンフーそして不思議なラブストーリーだ。梶芽衣子の映画をほぼ観尽したであろうタランティーノならではの展開なのだ。女同士の格闘も昭和40年代の東映だ。つづきは、また。
2005年01月14日
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トラックバックは初めてです。いったい、どんな影響力があるのか、よくわかりません。いきなり相手方のHNをタイトルにして、リンクするという方法は、ネット上のカンケイにおいてはビミョーなことにもなりかねないので、皆さんにはお勧めしません。が、彼はきっと許してくれると思うのでageします。まあ、力の抜けた、彼にとっては屁みたいに軽い文章ですが、そのうちネット生活を思い出して、名作日記を書いてくれるでしょう。※私はようやく、本日午後より出勤できました。
2005年01月07日
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かつて、ライコスがあったころ。ライコスクラブという閲覧制限のできるネットのクラブがあって、ある男が『千日前変態倶楽部』というクローズドなクラブをつくった。私はあのクラブのテーマをこう解釈している。世の中にはいろんな変態さんがいる。あんたもなにかの変態かもしれないし、街を歩けばさまざまな変態にぶつかり、変態どおしのブラウン運動のぶつかりあいで街は生きている。変態はおもしろい。だから、みんなで変態を語ろう!変態を報告しよう!フロントページよりそのように解釈した。クラブ管理者はきっと、変態をテーマに『にんげんだもの』をやりたいのではないか。そう、思った。そして、変態倶楽部の門を叩いたのである。クラブはしばらく誰もノックせず、私は最初の会員となった。倶楽部黎明期の話である。しかし、しばらくして管理者は、なんか知らんが荷が重くなったらしく10人くらいになったところであっさり放擲してしまった。メンバーではありましたが。せっかくの倶楽部だからということである女性が管理者となって継続していった。(今でもあるのだろう、きっと)私は、なんだか置き去りにされた師弟のような気分だった。女性だらけの変態倶楽部は私の体質にどうもなじまない。女性はじぶんの変態を話したがり、そして変態の秘密を共有することで結束するという特性があったのだ。それはそれでよいのだが、管理者はロムのみのメンバーを好まなかった。私は、じぶんの変態話を強要されてこまった。今までにやった変態の一番凄いことを報告せよと、隊長よりお達しがあったのだ。ほおっておくと「何日の何時までにアゲるように!」と命令されたのである。私はアンケートの強要を好まない男なのである。仕方なく、私は創作文を書いた。※風呂場にビニールシートを敷いて、ノコギリでのこのこ、女の手足を切断するのである。しかも、メディカル面でのフォローはばっちりで、医療処置もされるので死なないのだ。だるまさんとなった女をクルマの後部座席に乗せて筑波山ろくをめざす。天候は雨。ザーザーとどしゃ降りの中、山の中腹で女を蹴飛ばして捨てて帰ってくる。という内容であった。↑(もう、これは立派な荒らしの部類でんな)他人の腹の中を強制して覗くもんじゃないという、忠告のメッセージなのであった。つうことで、ほどなくして倶楽部を脱会。倶楽部は当初私が描いていた方向とは違う、女性の秘密倶楽部となったのである。だから、特定の女性の皆様にはたいへん楽しい倶楽部だったと思う。不特定の女性にはもちろん排他的とうつったにちがいない。そんなわけで(どんなわけだ)なんだかよくわからなくなってきた文章をうつぶせになってえんえん書いているのである。なにが、そうさせるのか。『千日前変態倶楽部』を創設した男がひさしぶりに訪問にみえたからなのである。その男がこちらの世界に帰ってきたら、『秘密の』ご婦人たちがほおっておくはずがない。だから、我先にと、「コマちゃんとはお友達だもんね~~~」と強調しておく必要があったのである。ネットの人間関係もいろいろあるのである。私を責めたてたみなさんはもう、このページは見ていないよ、ね?
2005年01月06日
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