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,世界遺産・知床(9) 「カムイワッカの湯」写真:カムイワッカの湯の入口、湯滝登りのワラジを賃貸しているウトロの街を離れると、道は大きくうねって山中を分け入るように高目を行く。 このヘアーピンカーブの先端高所から真下に、ウトロの街とオホーツク海が一望できる。 ここは一枚の絵になる絶景ポイントであろう・・!。 これから先は知床の深い森へ入る。 やがて知床峠へ向かう国道334と分かれて道道93号線所謂、「知床公園線」を行くようになる。 「知床五湖」の入り口までは快適な舗装道路であり、更に、車はカムイワッカへ向かう。この先の道程約15km全コースは無舗装・オフロードのコースである。 前回、カミさんと来た時は、「これだけ往来が激しいのだから、サッサと舗装すればいいのに・・」などと何気なく言い合っていたが、ガタガタ道を走りながら思ったことは・・、 『知床は環境保護の象徴でもあり、舗装道路にしないのは分断された道路左右の自然環境を出来るだけ保つようにし、大小動物が歩き易く往来し易いし、そして何よりオフロードのためスピードは緩めになり、出会った動物に対しても安全なのである・・』 このような理由からではないか、と勝手に想像するのである。 案の定、親子連れのエゾシカが道端で草を食んでいる、それも数箇所で見られ光景である。ジグザグの曲りくねった道を埃をたてながら、ヨウヨウ、「カムイワッカの滝」の入り口まで来た。これからカムイワッカ川を遡行して、名物「カムイワッカの湯」へ向かうのであるが。入り口には、沢を朔行するための滑り止めのワラジを500円でレンタルしている。 小生は予備のズック靴でOK。 次回は、更にカムイワッカの湯..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.25

.展望台・高架木道(ヒグマ対策として電気柵が併設されている)世界遺産・知床(8) 「知床五湖」(三)更に、「知床五湖」について・・、尚、遡れば、名所「知床五湖」の名前を付けたのが、ウトロ地区で最大規模の施設を誇る「知床第一ホテル」の創業者、上野茂樹さんであったという。先般、お上さん(妻)とお世話になったホテルでもあった。元々、地元で畜産業を営んでいたが、斜里町役場の時代、通算20年間の間に陳情その他の仕事でよく東京へ出張し、その時、新橋第一ホテルに泊まったのが心に残り、「あんな立派なホテルをつくってみたい」・・と、将来に夢を託し実現したのが、その名も「知床第一ホテル」であったという。 宿屋の経営は素人だったが、お客様の立場からいえばプロだ、との意識で経営を始めたいう。斜里町役場の時代、特に産業課長となった上野氏は、斜里・知床の町起こし・発展に力を注ぎ、観光に意力を尽くしたという。上野氏は、ウトロ奥地の開拓地近くに名前のない五つの沼があるのに目を付けた。 観光のため名前を付けて地図を整備しようということになり、「五沼じゃ格好悪いから、知床五湖でどうだ」・・と、しかし、どう見ても大きさからして「湖」という規模ではないという異論もあったが、上野さんのその一言で決まっという。近年になって、五湖の遊歩道がヒグマ出没で、時折全面閉鎖になっている状況に、上野を氏はじめ観光関連業者はいら立ちを強め、解決策として「高架木道」の設置を提案していた。五湖のうち入り口に近い「一湖」、または「一湖」と「二湖」双方の周りにヒグマの登れない高い木道を造り、一般観光客はそこを歩いて見学する。 それより奥は、猟銃を扱う許可を持つ知床財団のガイドが同伴することを条件に、一部見学を許すという案であったといわれる。因みに、北海道の「ヒグマ」について・・、ヒグマについたは前項にも記したが、古来、アイヌの人々は「ヒグマ」をキムンカムイ(山の神)として崇めた。「イオマンテ」とは、昔の歌曲の題にもなっているが、元よりアイヌの熊送り儀礼のことである。 言葉としては「イ(ものを)」+「オマンテ(送る)」という意味であり、単にイオマンテという場合、熊のイオマンテを指すことが多い。冬の終わりに、まだ穴で冬眠している熊を狩る猟を行うが、そこに冬ごもりの間に生まれた小熊がいた場合、母熊は殺すが、小熊は集落に連れ帰って育てる。 最初は、人間の子供と同じように家の中で育て、赤ん坊と同様に母乳をやることもあったという。 大きくなってくると屋外の丸太で組んだ檻に移す、やはり上等の食事を与える。 1年か2年育て、ある程度大きくなった後に、集落をあげての盛大な送り儀礼を行う。熊の姿を借りてアイヌコタン(人間界)にやってきたカムイをカムイコタンに送り返す儀式である。 その際、小熊を森へ返すのではなく、殺し解体して、その肉をふるまうということなのである。類似の熊送り儀礼は、サハリン周辺の北方民族など、ユーラシア・タイガ(シベリア地方に発達する、針葉樹から成る大森林)の内陸狩猟民族に広く見られており、イオマンテもその一種でもある。 このことからイオマンテは、オホーツク文化の一端でもあるといえる。次回は、カムイワッカの湯 .【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.24

.知床五湖のうち二湖と三湖の美景世界遺産・知床(7) 「五湖とヒグマ」『神が五本の指を大地について五湖の湖が出来た』という、アイヌの古くからの伝説である。知床観光地の代表的な自然景観は「知床五湖」ともいわれるが、その五湖をすべてを歩いても3km、凡そ1時間半程度である。昨今、この五湖周辺にはヒグマの出没が多いようで、特に奥の方に位置する三~五湖の間で頻繁に出没するらしく、看板にもある通り時折、遊覧・通行禁止の処置が出ているらしい。一湖、二湖を巡り帰路の途中、レストハウスを覗いてみるとヒグマの情報がそれとなく記載されていて、ヒグマとソーセージにまつわる話が案内板に書かれてあった。 以前、山から下りてきたメスのヒグマに観光客がソーセージを投げ与えてしまい、それ以後このヒグマは度々人前に姿を現すようになり、直接人に危害を加えなかったものの、結局は射殺すること破目になってしまったという。 クマに餌をあげることで、クマは人は食べ物を持っているということを覚え、人を恐れなくなり、最終的には危険に晒される恐れがあり、射殺しなければならない結果になってしまったという。 人々の軽率な行動によって危険が迫り、結局、ヒグマの命が失われるという逆目で、皮肉なことが起きてしまうのである。 心せねばなるまい。最近、観光バスが斜里町ウトロから「知床五湖」に向かう途中、車窓からヒグマの親子三頭が見えたというニュースもあった。 自然センターの監視員が嘆くには、最近は湖畔遊覧中に、アイスクリームやお菓子を食べなが遊歩道を歩く観光客が特に多く見かけられ、ヒグマの接近を招きかねないし、危険を自ら行っている行為であると。 ある時、観光客の歓声に驚いたヒグマが突進してきて立ち止まり、威嚇行動(ブラフ・チャージという)をとったということもあり、無神経な「ヒグマ見物」の危険さが現実になったともいう。この時は当然、五湖の遊歩道は全面的に閉鎖されてしまったという。よく熊除けには「鈴の音」、「熊除けスプレー」等がいいと言われ、確かなことではあるが、ヒグマが暮らす知床五湖を観光で散策することは「掟や決まりさえ守れば、大丈夫で安全」ともいう。 あくまでも「知床五湖はヒグマの良好な生息地であって、「我々人間はそこにお邪魔させてもらっている」という意識を先ず知らねばならないと監視員は言っている。近年、世界自然遺産になり観光客が激増する中、これまでの知床五湖にクマが出現すると、立入禁止になることがしばしばあったため、ヒグマの活動が活発な時期(通常6~7月)は一部は電気柵を設置し、一方は閉鎖して対策を講じているという。 2006年の4月からは知床五湖周辺では高架木道が設置され、周囲に電気柵を設けてヒグマ出没時にも観光客を受け入れられるよう配慮するそうである。又、この高架木道はこれまでの湖をまわるコースとはまったく別のコースに設置され、しかも車椅子使用者や高齢者にも配慮した仕様となっていて、新たな知床五湖の探索の場ができるらしい。次回は、知床五胡について、更に続きます..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.23

.写真:知床五湖の内の「一湖」世界遺産・知床(6) 「知床五胡」ウトロ温泉を抜けると次第に山中へ入り込むようで、高台から眺めるウトロの温泉街や港の風景が一服の絵のように輝いている。国道に沿った「知床自然センタ-」から左折すると、いよいよ知床の奥深い懐へ向かっていることが実感する。 知床自然センタ-は、ちょうど知床峠と知床五湖への分岐点に位置し、知床に関するインフォメーション基地でもある。 知床の自然を知るには先ずこちらを訪問するのも良いであろう。 巨大なヒグマが玄関先で迎えてくれる。 見どころは巨大映像による案内で、断崖絶壁を舞うオジロワシや羅臼岳山頂から知床岬突端までの空撮、流氷の訪れなど四季すべての美しさをダイナミックに映し出される。又、知床五湖やフレペの滝などのネイチャーウオッチング、夜の動物ウオッチング、オジロワシ・オオワシ観察会などの四季の催しや自然体験なども実施しているようである。岩尾別の渓流を眼下に見ながら、先ず名所である「知床五湖」へ立寄った。大駐車場へ車を置いて早速歩を進める。「望岳台」より眺める知床の大景観は素晴らしい。 特に夕刻迫る知床連山は一服の絵である。 ほぼ正面に知床の最高峰・羅臼岳(1661m)を筆頭に、左へ山並みが連らなり硫黄岳(1563m)で切れている。 活火山・硫黄岳の山腹にカムイワッカの温泉が湧き出し落下しているのである。徒歩で「五湖」へ向かう・・、全ての湖に遊歩道が整備され連なっていて、五湖の其々の神秘的な自然の景観をできる。 先刻、上さんと(妻)と訪れた時はゆっくりと散策できたが、今回は時間的余裕が無くなってきたので、一湖、二湖のみの見物とした。湿性部分は木道が敷かれて徒歩に良い。一湖、二湖とも湖面は鏡面状態で周りの樹林や知床の連峰を写しながら静寂している、その姿はまさに原始の中の楽園にふさわしい。この五湖は、いずれも流れ込む川も流れ出す川も無く、水は湖底から湧きだし、湖底の岩を伝わって知床半島の西側断崖に浸みだしオホーツク海に流出しているという。 一湖、二湖巡りは、凡そ30分の所要時間であった。 知床五湖は、湖(秘湖、沼)の観光地として五湖とあるが、湿地帯にあるため融雪期には数が増えるという。周辺では一湖を見下ろす展望台や湖を巡る遊歩道が整備されて、知床連山や原生林を水面に映す素晴らしく、遊歩道ではエゾリスやエゾシカなどが観察される一方、特にヒグマが目撃されることもあり注意を要する。 ヒグマの出没状況によっては、五湖のうち二湖までしか回れなくなる年、時もあるので、周辺観光地での情報収集が必要だという。知床五湖は、そもそもは無名の「沼」であったらしい。1980年代から1990年代にかけて、地元の営林署の職員などが積極的な歩道の整備に乗り出したことから、核となる観光地がなかった知床半島の名所として、たちまち脚光を浴びることとなった。元より、知床半島は 「日本最後の秘境」言われ、蝦夷・北海道の中でもヒグマが多数生息することで知られていた。 従って当然、五湖近辺もヒグマの生息地の中にあるため、遊歩道を設置したとはいえ、付近ではヒグマが頻繁に出没するのは必定であり、ヒグマが遊歩道に現れた際には安全が確認されるまでの期間は立ち入りが禁止となる。 最近では遊歩道に出没したヒグマに観光客が寄っていってフラッシュを浴びせる事件(襲撃されても不思議ではない行為)も発生しているという。更に、「知床五胡」 .【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.22

.ウトロ温泉と背後は知床連山世界遺産・知床(5) 「ウトロ温泉」一走りで「ウトロ」へ着いた。北海道の東海岸巡る国道を「オホーツクライン」又は「流氷ライン」ともいい、国道238号の宗谷岬から国道244号、そして、ここ知床の玄関口であるウトロの国道334号で終わっている。 総延長は、延々430kmであった。ウトロの港付近は奇岩怪石が多い、巨大な岩が海から突き出ている。オホーツクラインとしてははじめて見る光景であり、やはり、知床連山が背後に迫る山地特有の海岸風景である。 ウトロ温泉にはチョットした温泉街が広がり、港には知床観光船乗り場がある。 昨年秋、カミさんと訪れた時、この港から半島の西側を船で遊覧した。この時の印象は海岸線は殆どが断崖絶壁で、未だ人を寄せ付けないところと見聞したが、この荒々しい岸壁は流氷の成せる技で、流氷のもすごい圧力で岩肌を削りとったとされている。ウトロは、温泉場である。 近年、ボーリングによって湧出した新しい温泉街であり、知床岬めぐりの遊覧船が着く港付近と、オホーツク海の眺めを望む高台に設備の整った大小さまざまな宿が点在する。 あの時は、たしか高台でウトロ港が一望できる「知床第一ホテル」に泊まった記憶が甦った。泉質は塩化物泉で切り傷、やけど、慢性皮膚病、神経痛などに良いとされ、温泉宿は港付近と景色の良い丘の上にある。 オホーツクに沈む夕日を眺めながら温泉は素晴らしいとか、日帰り入浴できる宿は、知床第一ホテル、知床夕陽のあたる家などが有るようです。知床が「世界遺産」に登録されたことで更に観光収益が期待されているが、同時に観光客の増加による環境破壊も懸念されているという現状がある。ウトロ温泉概要泉 質 ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩泉所 見 無色透明・無味・無臭効 能 リュウマチ、神経痛、関節痛 など問合せ 斜里町商工観光課 TEL(01522-3-3131) 知床斜里町観光協会 TEL (01522-2-2125)ところで今、ウトロの温泉街で厄介な問題が生じているという。特に近年、エゾシカの集落進出が著しく、シカが温泉街を歩く姿をよく見ることがあり、TVや新聞でもニュースに取り上げられるほどである。 エゾシカによって農産物や家庭の観葉植物が食い荒らされる被害も出ているらしく、糞や尿の垂れ流しによる害、シカの道路飛び出しによる交通事故も懸念材料であるという。 銃器による駆除は、集落に接近しすぎている上、知床半島から流れ込む無数のシカには無力として断念、抜本的対策として、集落全てをフェンスで囲むことを2006年に決定したという。 フェンスは高さ3m、距離は3.6kmもあり、対策費用は3600万円で、2006年9月に建設を開始して12月に完成する見込みだという。次回は、「知床五胡」 .【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.20

.半島付根付近に聳える斜里岳とジャガイモ畑世界遺産・知床(4)知床の玄関・「斜里」知床半島の西の玄関口「斜里町」へ入った。知床半島が眼前に迫る海岸線より、やや陸地に入ったところに釧網本線の「知床斜里駅」がある。元々、斜里駅だったのが、1998年4月11日にから知床斜里駅に改称したそうである。 その名のとおり,知床への玄関口となる駅であるが、斜里町は知床半島の西側半分が行政区としての地域を占めていることはあまり知られていない・・?。 知床観光のメッカと言われるウトロ温泉、知床五胡、カムイワッカなどは、この斜里町に含まれているのであり、つまり、知床のいいとこ取りをしているのである。 駅前の斜里バスターミナルからは、知床に向って定期バス(知床線)や,定期観光バス(知床ロマンふれあい号)などが発着している。先般訪れたが、知床斜里駅の東方海岸よりに「斜里町立知床博物館」がある。この博物館も北海道、オホーツク海特有の文化や歴史、自然を展示しているが、特に秘境と言われる知床半島の自然情報、動物・植物の様子、流氷や半島の自然を展示、説明しているのが特長であろう。 2005年(平成17年)7月に、知床は「世界遺産」の登録物件として、7月17日正式に承認登録されたが、これによって観光客の賑わいも一段と増加するだろうし、知床斜里駅や知床博物館の価値が一層高まることは確実であろう。網走から知床方面に伸びる国道は実に雄大で北海道らしい風景を醸し出している。 又、「豊かな大地」北海道を実感、体感するのに絶好のルートでもある。 カラマツの保安林で区切られた色とりどりの畑が左右に広がる中を、前方に見え隠れする斜里岳やオホーツク海に向かって一直線に進む。 時に現れる大きなカーブやアップダウンが、角度を変えて景色を更に新鮮に見せてくれる。手前に斜里岳(1545m)、遠くに海別岳(1419m)の勇姿が美しい。阿寒の山々と知床連山の中間に聳える「斜里岳」は独立峰で、山容は知床富士の如く端正にして名峰である。 日本百名山の一つでもあり、登山も盛んな山であろう。 その麓に広がるのは一面ジャガイモ畑であり、畑が所々に小山を造っている。 よく見ると収穫しばかりのジャガイモの山である。 時折ダンプカーがすれ違う、積荷を見るとこれまたジャガイモである・・、今収穫の真盛りらしい。 すれ違うトラックや農耕機械もスケールが大きく、荷台から落ちたジャガイモが道の真ん中に転がっていたりして、気分を盛り上げてくれるのである。いつの間にか国道は244から334に変わっていた。 「知床国道」と言われる道で、いよいよ「知床半島」へと入り込むことになる。 海岸の際を走るようになって、斜里町の広大な平野、そしてジャガイモ畑がだんだん狭くなって、ついに山岳地帯に入っていく。 知床の山肌が迫ってきたのである。しばらくすると知床の名所の一つの「オシンコシンの滝」に来た。国道からいきなり豪快な滝が流れ落ちている様を見れるのはココぐらいだろう、海岸国道が出来る以前はヒョットすると、この巨大な滝は二段三段構えでいきなり、このオホーツクの海に落ち込んでいたのかも知れない。 こんなことを想像するのも面白い。 滝の上には旧道が通っており、そこから眺めるとオホーツク海を背景に一段とスケールの大きい姿が見れるらしい。この滝は高さ50mあまり、二筋に分かれて落ちる様子から「双美の滝」とも呼ばれるそうである。滝を見物しながら一息入れて、いよいよ「知床」の懐へと出発である。次回は、ウトロ温泉.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.19

.世界遺産・知床概要図(資料)世界遺産・知床(3) 「世界遺産について」「世界遺産」というのは、各々「文化遺産」「自然遺産」「複合遺産」と三種に分類されている。「文化遺産」は優れた普遍的価値をもつ建造物や遺跡など、 「自然遺産」は優れた価値をもつ地形や生物、景観を有する地域、 「複合遺産」は文化と自然の両方の要素を兼ね備えているもの・・、と国連(ユネスコ)では定義している。日本では自然遺産として、平成5年(1993年)屋久島と白神山地が共に登録されている。「知床」の世界自然遺産としの登録申請の概要。「知床を世界自然遺産に・・!」、希少生物の宝庫であり、原生的な植生など太古の姿をいまだ残す「知床」が、2004年1月に「世界自然遺産」として、地元の要望から政府を通じ正式に推薦され、その年、7月21日から7月25日にかけて、世界遺産委員会の諮問機関である国際自然保護連合(IUCN)デビッド・シェパード保護地域事業部長による現地調査が行われた。そして、平成17年7月17日、南アフリカのダーバンで開催されていた第29回世界遺産委員会において日本政府が推薦した知床の「世界自然遺産」への登録が決定された。登録に当たっては、流氷が育む豊かな海洋生態系と原始性の高い陸息生態系の相互関係に特徴があること、シマフクロウ、シレトコスミレ等の世界的な希少種やサケ科魚類、海棲哺乳類等の重要な生息地を有すること等が評価されてのことであった。遺産領域としては、知床半島の斜里町及び羅臼町の一部と知床連山の遠音別岳周辺山域から北方「知床岳」までの山岳地帯を核心部として、これらを取り巻く、ほぼ半島全域と周辺海域である陸地から3kmの海域を緩衝地帯として決められた。面積は概ね71,000haである。(1ha=100平方m)自然環境の主な特徴として、知床は世界で最も低緯度の季節海氷域であり、海氷に特徴づけられる海洋生態系と陸上生態系が連続することによって複合生態系を形成しており、海洋生態系と陸上生態系の相互関係を示している。海岸からの標高約1,600m(羅臼岳)の山頂部までの間には、人手の入っていない多様な植生が連続して存在しており、豊富な餌資源と多様な環境を背景として、ヒグマが世界的にも高密度で生息している。股、知床は北方系と南方系の両系の種が混在するなど、地理的位置と多様な自然環境を背景として特異な種の構成、分布がみられるほか、シマフクロウ、オオワシ、オジロワシなどの国際的希少種の重要な繁殖地や越冬地となっており、これらの種の存続に不可欠な地域ともなっている。尚、海域が世界遺産に選定されたのは日本では初めてである。当時の「高橋はるみ」北海道知事の話として・・ 「北海道が誇る知床が人類共有の遺産として評価され、世界自然遺産に登録されたことに言葉に表せない幸福を感じている。 これは、知床の海域から陸域に至る比類なき生態系や各種の希少生物にとっての貴重な生息地が、世界に認められた証しであり、地元の人たちの世界自然遺産への熱い思いや国をはじめとする関係機関や団体等の熱心な努力のたまものだ。今後とも、先人が愛した豊かな自然環境を持つ知床の保全に努め、これからの世代に引き継いでいくとともに、管理に全力を傾けていく」と談話をだしている。【国内の世界遺産と登録年】登録年 世界遺産 所在地 ≪文化遺産≫93年 法隆寺地域の仏教建造物 奈良93年 姫路城 兵庫94年 古都京都の文化財 京都、滋賀95年 白川郷・五箇山の合掌造り集落 岐阜、富山96年 原爆ドーム 広島96年 厳島神社 広島98年 古都奈良の文化財 奈良99年 日光の社寺 栃木00年 琉球王国のグスクおよび関連遺産群 沖縄04年 紀伊山地の霊場と参詣道 和歌山、奈良、三重07年 石見銀山遺跡 島根 ≪自然遺産≫93年 屋久島 鹿児島93年 白神山地 青森、秋田05年 知床 北海道次回、知床玄関口・斜里..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.18

,資料:アムール川より流れ出る流氷群の流れ世界遺産・知床(2) 「流氷について」最近は紋別や網走の流氷観光船が有名なため、流氷=紋別、網走と思っておられるが、以前は流氷と言えば「知床」だったらしい。 びっしりと流氷が来ると、船は出られなくなる。逆に、船が出られるということはそれだけ流氷の密度が少ないということである。 知床・ウトロでは、流氷のシーズンになると船はすべて陸に揚げられ、出航はおろか、港に留めておくと船が流氷の圧力で潰されてしまうという。このことからも、流氷が相当の圧力で知床半島の陸地を押し付けているかが察せられる。 知床半島の海岸の断崖絶壁は、地球的年齢の流氷による侵食作用によって生成されたものといわれる。その「流氷」について・・、流氷が見られるのは日本では北海道のオホーツク海岸だけであり、時期ともなると北の方から次第に流氷が押し寄せてくるのである。 樺太最北部、間宮海峡のアムール川(黒竜江)河口付近で流出してきた汽水域が氷結し、寒気とともに海流、風向によってやって来るのである。 北海道沿岸への流氷が襲来するのは、ほぼ一月の中旬ころであると言われ、そしてオホーツク海海域に現れるのもこの時期である。 2月の初めには流氷は千島列島の南端(北方四島)に達して、その一部は太平洋に流出を始める。 3月の初めか中旬には、流氷域が最大となって、オホーツク海の80%を覆ってしまうこともある。4月中旬には流氷は、オホーツク沿岸から去っていき、5月下旬にはオホーツク海から完全に氷がなくなる。尚、少し大業な数字を並べると・・、氷の厚さは、計算上、北海道沿岸では40~50cm、オホーツク海では70~80cmという。 因みに、オホーツク海の面積は153×10の4乗平方キロメートルと計算され、80%が厚さ 70~80cmの海水に覆われるとなると、その量は、9×10の11乗立方メートルもの大量になるという。 毎冬これだけの氷を融かすのに必要な熱量は、極端な話、日本の原油輸入量の25年分にも相当するといわれる。ところで、流氷の状況の変化は早い、特に春の解氷期に著しいという。1日のうちに見渡す限りの流氷原が流れ去ってしまったり、逆に青海原が一日のうちに流氷で覆い隠されてしまうことは珍しくない。 流氷の動きは速くても一時間に1kmか2kmくらいである。(風速の 2~3%で動くと言われている)。流氷は近海漁業者にとっては厄介者であるともいわれるが・・?、 漁業は出来なくなるし、流氷から吹き付ける寒風は身を切り裂く、又、防波堤など護岸設備をも破壊する。 しかし流氷は漁民にとって貴重な「食」をもたらしてくれる大切な存在でもある。 流氷は植物プランクトンを大量に運んできて、春先、太陽光に当たるとこれが爆発的に増える。これによって、海底のエビやカニ、ホタテなどを栄養にして育つ。 又、これを餌に動物性プランクトン(北海で人気のクリオネはこの一種)も増え、この動物プランクトンを餌に北方の魚が集まり、オホーツク海は豊かな漁場となるのである。 毎年、冬になると北海道の沿岸に押し寄せるオホーツクの流氷は、北の自然の厳しさと、その営みの壮大さを堪能させてくれると同時に、豊富な食を運んできて呉れる。流氷の去った後は、壮大な漁場を約束してくれるのである。この流氷も近年、温暖化の影響を受けているといわれる。 オホーツク海では、年々、流氷の到着が遅くなっていて、しかも、その広がりの範囲は減少しているという。ある機関の研究によると、50年後には流氷はすべて消えてしまうという予測もあるとか・・?。影響で魚介類の漁獲高も激減し、漁業は大打撃をこうむるとも推測されているが。 知床半島の海岸の断崖絶壁は、流氷による侵食作用によって生成されたものといわれる。因みに、「日本の地質百選」というのがあり、知床半島もその一つに選ばれているらしい。その要旨として・・、「知床半島」は千島列島から続く火山列の一つで、ドーム型の羅臼岳や硫黄を流出する硫黄山などは活火山であり、温泉も豊富である。 もう一つに、流氷による侵食で大崩れの海岸の断崖絶壁が形成され、枕状の溶岩質地盤も観察されている。この玄武岩質の岩壁は、現在も崩壊を繰り返している、としている。「日本の地質百選」とは・・、美しい日本の国土、火山の恵み・温泉、美しい景観の観光地、これらを形作っているのは日本列島の特殊な地質があってこそといわれ、或いは地震や地すべりなどの現象もまた地質の特異性の結果であるという。 日本の地質現象は多岐に渡っており、世界の地質学者もその素晴らしさに注目しているという。そこで日本全体から,地質現象のよくわかるところを百箇所選び出し、そのユニークさを顕彰し、広く知ってもらうために選出したものとである。平成19年3月、「日本の地質百選」選定委員会は、約1年間にわたり検討を進めてきた「日本の地質百選」の第1期選定として全国83箇所を選定した。其の中に「知床半島」も選ばれている。 北海道からは他に有珠山・昭和新山や夕張の石炭大露頭など7カ所選ばれている。次回、知床・「世界遺産」の概要.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.17

.写真(資料):上空からの「知床半島」世界遺産・知床(1) 「はじめに」北海道・知床が「世界遺産」に選定される以前に、何度か「知床」へは訪れている。2003年9月北海道の道東旅行で、ウトロから知床観光船に乗って「知床半島」の東面の一部を観光した。大勢の観光客を乗せて港を出た観光船「おーろら」は、サケ・マスなどの定置網を避けながら沿岸を行く。 まもなく、幌別の海岸に断崖を背にへばりつくようにポツンと取り残されたように漁業用の番屋が見えた。ブユニ岬を過ぎると、いよいよ200メートル近い断崖絶壁、奇妙な形の海食洞などが続くようになる。 地表に湧き出た地下水があちこちで滝となって流れ落ちている。 観光遊覧は、西海岸の一部にすぎなかったが、半島の峻険な地形を認識できたように思う。 知床半島の海岸線は、切り立った断崖が続いている。 そのため、今でも人々を寄せ付けない、大自然や野生生物のみが生息する世界である。知床はアイヌ語で「シリ・エトク」(大地の行きづまり、地の涯)を意味し、言葉を和名に当てはめた地名である。 江戸時代には東と西の蝦夷地の境界とされるなど、名実ともに北海道最果ての地であった。このオホーツク海に突き出た長さ70km、幅20~40kmの細長い半島は、遠隔地で地形が険しく開発が進まなかったことから、国内で最も原生的な自然が保全された場所である。この人跡を阻む海岸線は、長い時間をかけて波や「流氷」に削られ誕生したとも云われる。冬、知床の海を覆いつくす流氷は、一緒に運ばれてくる栄養分であるプランクトンを養い、知床の海を豊かにする。 その豊かさは、アザラシなどの海獣類、海鳥やオオワシなど鳥類、海に生きる命がつながる糧となる。 回遊して海の豊かさを体一杯に蓄えたサケの仲間は、ふるさとの川に遡上し、そこで山の生き物の餌となり、死体は土に返り知床の森を豊かにする。 生きるものと死んで行くもの、海と山の栄養の循環である命の輪が、知床の価値を高めているのである。それは知床半島の独特の地形にもあった。知床半島は長さで約70キロ海に突き出し、幅は基部で40キロあり、中央部には1500メートル級の山々が屏風のように連なっていて、豊かな森林を造り出している。そこの中央帯には硫黄山のような活火山も在り、海岸線には「カムイワッカの川」などの温泉も噴出している。知床の東海岸にしても西海岸に比べ、まだまだ厳しい自然のままの素朴な知床をかいま見る事が出来る。 羅臼から道道87号(知床公園羅臼線)が細々と延びているが、そのどんづまりが「昆布沢」辺りで、この先は道も人家もなく、有るのは断崖と漁師の番屋だけである。タラ、レバで申し訳ないが・・、「知床半島」が、もし海岸線に砂浜もある平坦な地域が含まれているならば、人々が容易に近づくことができ平凡な半島になっていたのかも知れない。 海岸を掘れば浅い所で温泉が湧きだし、奥に入れば珍しい自然が広がり、近海は豊かな漁場が広がっている。 人々はこの地に生活環境を整い、温泉地を造りあげて観光客を招き寄せ、次第に自然を侵食するようになるのは必定であろう。「シリ・エトク」は、現在も大自然が残され、流氷によって生物、動物の自然循環が生かされている。「知床半島」が「世界自然遺産」に登録されたのは、自然の成行きかもしれない。次回、「流氷」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.16

.斜里から知床の入口にある「オシンコシンの滝」.日本周遊紀行(59)斜里 「斜里場所と知床」知床半島の西の玄関口「斜里町」へ入った。こちらも先般訪れたが、海岸よりに「斜里町立知床博物館」がある。この博物館も北海道、オホーツク海特有の文化や歴史、自然を展示しているが、特に秘境と言われる知床半島の自然情報、動物・植物の様子、流氷や半島の自然を展示、説明しているのが特長である。 中でも、人物や歴史を学ぶコーナー等が有って、目に付いたのが、この地にも幕末北方警備の為「斜里場所」という駐屯地が置かれ、津軽の藩兵が派兵されていた事実であった。そして、この津軽藩・派遣兵は実戦で敗れたのではなく、北海道の自然の過酷さに敗れ去ったのであった。館内の目立つところに同形の弘前の「ねぷた」が飾ってあった。この同じ時期、蝦夷北端の地、稚内に「宗谷場所」が置かれ、津軽及び会津藩兵が赴任していた事は稚内の項でも述べたが。 同様に斜里場所においても寒さと偏食(野菜不足)のため、身体がむくむ浮腫(ふしゅ)病で多くの人が亡くなったといわれる。 斜里にやって来たのは凡そ100名の藩兵であったが僅か一年余で浮腫病のため、その殆どが死亡し翌年津軽に帰還したのは僅か17名にすぎなかったという。浮腫(ふしゅ)病は江戸時代には水症、水腫、水気ともいわれた。 体腔に大量の液がたまり体じゅうがムクみ、指で押すと大きくくぼみ顔は皺がなくなり、蒼白になって血の気がなくなり苦しんで死んでしまう、当時は不治の病といわれた。 この時期、斜里場所の津軽藩兵に「コーヒー」が与えらていたかどうかは否かは定かでない。この事が縁で現在、斜里町と青森県弘前市とは姉妹友好都市を結んでいる。 そして同時期に弘前の名物祭り「ねぷた」が催されているらしい・・!? 知床博物館のすぐ西方に釧網本線の「知床斜里駅」がある。元々、斜里駅だったのが、1998年4月11日にから知床斜里駅に改称したそうである。 その名のとおり,知床への玄関口となる駅であるが、斜里町は知床半島の西側半分が行政区としての地域を占めていることはあまり知られていない・・?。 知床観光のメッカと言われるウトロ温泉、知床五胡、カムイワッカなどは、この斜里町に含まれているのであり、つまり、知床のいいとこ取りをしているのである。 駅前の斜里バスターミナルからは、知床に向って定期バス(知床線)や,定期観光バス(知床ロマンふれあい号)などが発着している。尚、本文執筆中の2005年(平成17年)7月に、知床は「世界遺産」の登録物件として、7月17日正式に承認登録された。これによって観光客の賑わいも一段と増加するだろうし、知床斜里駅の価値が一層高まることは確実である。かって、斜里(現在の知床斜里)駅からは「根北線」(こんぽくせん)といって釧網本線より先の「越川」までの13km区間を結んでいた。 道東の盲腸線とも言われたこともあったが、廃止されてから30数年になるという。 根北線は今の国道244号線に沿った知床半島の付け根を横断して、斜里と標津線の「根室標津」をむすぶ路線になるはずであり、第二次世界大戦による工事の中断はあったが、斜里-越川間が1957年に開業していた。 しかし、根北線は当時営業収益係数が最悪であり、国鉄一の赤字線との烙印が押され、1970年に開通後わずか13年で未完成のまま早々に廃止されてしまったのである。(標津線については後述する)網走から知床方面に伸びる国道は実に雄大で北海道らしい風景を醸し出している。 又、「豊かな大地」北海道を体感する絶好のルートでもある。 カラマツの保安林で区切られた色とりどりの畑が左右に広がる中を、前方に見え隠れする斜里岳やオホーツク海に向かって一直線に進む。時に現れる大きなカーブやアップダウンが、角度を変えて景色を更に新鮮に見せてくれる。手前に斜里岳(1545m)、遠くに海別岳(1419m)の勇姿が美しい、その麓に広がるのは一面ジャガイモ畑であり、畑が所々に小山を造っている。 よく見ると収穫しばかりのジャガイモの山である。 折ダンプカーがすれ違う、積荷を見るとこれまたジャガイモである、今収穫の真盛りらしい。 すれ違うトラックや農耕機械もスケールが大きく、荷台から落ちたジャガイモが道の真ん中に転がっていたりして、気分を盛り上げてくれるのである。いつの間にか国道は244から334号線に変わっていた。 「知床国道」と言われる道で、いよいよ「知床半島」へと走ることになる。 海岸の際を走るようになって、斜里町の広大な平野、そしてジャガイモ畑がだんだん狭くなって、ついに山岳地帯に入っていく、 知床の山が迫ってきた感じである。しばらくすると知床の名所の一つの「オシンコシンの滝」に来た。国道からいきなり豪快な滝が流れ落ちている様を見れるのはココぐらいだろう。海岸国道が出来る以前はヒョットすると、この巨大な滝は二段三段構えでいきなり、このオホーツクの海に落ち込んでいたのかも知れない、 こんなことを想像するのも面白い。 滝の上には旧道が通っており、そこから眺めるとオホーツク海を背景に一段とスケールの大きい姿が見れるらしい。この滝は高さ50mあまり、二筋に分かれて落ちる様子から「双美の滝」とも呼ばれるそうである。滝を見物しながら一息入れて、いよいよ「知床」の懐へと出発である。次回からは、世界遺産・「知床」としてチョッと詳細に記載します。.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.15

.右の石碑は、映画『網走番外地』の記念碑日本周遊紀行(58)網走 「番外地と遺跡」網走の番外地と、はたまた「遺跡」です・・、「網走湖」は、北部の網走川を2kmほど経てオホーツク海に注いでいる。この網走湖に近い網走川の畔に、あの有名な「網走刑務所」がある。以前、お上さん(妻)と冬の北海道を訪れた時、雪の中の刑務所を見物した。高倉健の映画ですっかり有名になった網走刑務所も今ではすっかり網走観光の名所になっている感がある。 観光を目的として観光客が刑務所を訪問するというのは、ここ「網走刑務所」だけかもしれない。網走川に架かる鏡橋を渡ると、重厚な赤レンガ造りの正門が出迎える、とは言っても受刑者が出入りする門ではなく、今は観光客用のものであるらしい。 刑務所特有の周りを取り囲む赤レンガの重圧な「塀」は相当な高さがあり一般人は脱獄なんてとても無理だと思われる高さである。 展示会場、販売店には受刑者が製作した木工製品や小物類や民芸品などをて観光客に販売されている。看板には「博物館網走監獄」と記載してあるが、元々は「釧路集治監網走分監」として1890年(明治23年)に設立され、網走、旭川の道路工事を行うために受刑労務者を収容するのに開設されたのが始まりであるという。 大正11年10月に「網走刑務所」と名称が変わった。明治維新以前、北海道は蝦夷地と呼ばれアイヌの人々が住んでいた。 江戸期には和人の定住が始まっているが、本格的に開拓されるようになったのは明治維新後に蝦夷地が北海道と名を改められ、北海道開拓使(現在の道庁・赤レンガ庁舎)が置かれるようになってからである。明治期の日本は、欧米諸国に対抗しようと富国強兵政策を採った。 そして、国の経済を発展させるには、未開の地だった北海道の開拓が必要不可欠と考えられ、更に南下政策をとる帝政ロシアの脅威から国を守るための軍事拠点としても、北海道は重要な場所であった。 しかし、当時の国内の財政は北海道を大規模に開拓する余裕はなかった。 そこで考え出されたのが囚人を北海道開拓の労働力として使うことであった。幕藩体制が天皇制に移行した明治の初め佐賀の乱や西南の役などの反乱が続き、その際に検挙されたいわゆる国賊と呼ばれる政治犯や荒れた世相の中で罪を犯す人々で、国内の監獄には囚人が溢れかえっていた。 その解決策として、内務卿だった伊藤博文は明治12年に太政大臣に提出した伺書の中で、こう述べたという。 『北海道は未開で、しかも広大なところだから重罪犯をここに島流しにして、その労力を拓殖のために大いに利用する。刑期を終えて解放された者は、ここにそのまま永住させればいい』 開拓の第一歩は、人や物資を運ぶための道路を整備することであった。 明治23年、網走刑務所の前身となる「網走囚徒外役所」が作られたのも、札幌-旭川-網走を結ぶ中央道路の開削工事に囚人を動員するためだった。当時の網走は夏場には漁場が開かれていたが、冬は厳しい寒さと流氷に閉ざされる海沿いの小さな集落だった、そこに突如として1300名もの囚人が送り込まれてきたのである。 明治24年、中央道路の建設が開始される。 この道路は物資運搬のための流通道路と同時に、軍用道路しての役割が重視され、ロシアの南下政策に危機感があった政府と軍部は、網走-石北峠間の約180キロ区間を年内に開通させるよう命じた。手付かずの原野を切り開く工事は、険しい地形と「熊」との戦いだったいう。 そして、昼夜を問わない突貫工事はあまりに過酷で、多くの犠牲者を出すことになった。 北海道では炭鉱や硫黄鉱山など、危険な場所で囚人労働が行われていたが、しかし、中央道路工事ほど数多くの犠牲者が出た現場はないという。 囚人たちは命がけで大地を切り開き、今の網走発展の礎となる道路を造ったのであった。その後、過酷な囚人労働は国会で「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきなのか」と追求をうけ明治27年に廃止されたという。 このように網走刑務所は、北海道の開拓を担った記念の碑的建物でもある。過去に遡れば以上のような発端があったが、その後、言われるように重罪犯を収容していた。しかし、現在では初犯をはじめ2~4年刑期の受刑者が収容されているようである。 そして、この刑務所は嘗ては日本で一番脱獄が困難な刑務所だと言われた。明治の脱獄王「西川寅吉」(模範囚として過ごし釈放)や昭和の脱獄王「白鳥由栄」(脱獄に成功)らが収監された。又、施設の劣悪さと凶悪犯が多いというイメージから、映画「網走番外地」シリーズの舞台ともなっていることは周知である。 さらに、終戦前後の時期までは、治安維持法違反などの政治犯(主に、徳田球一や宮本顕治をはじめとする日本共産党の党員など)も収監されていたことがある。その後、なお、映画「網走番外地」シリーズで、所在地が映画の主題になっているが、刑務所の所在地は正しくは網走市三眺地区であり、住居表示では網走市字三眺官有無番地となっていて、やはり番外地なのである。映画「網走番外地」は1965年頃、東映系で劇場公開されたヤクザ映画で、主演高倉健、監督石井輝男のシリーズとして劇場公開された。 ヤクザ映画のハシリになった映画で、大雪原の脱走、トロッコによる追跡劇など主演の「高倉健」が熱演、スターダムに駆け上がった映画でもある。 そして、高倉健唄う「網走番外地」の歌もヒットしている。『網走番外地』 春に 春に追われし 花も散る酒(きす)ひけ酒ひけ 酒暮(きすぐ)れてどうせ俺らの 行く先はその名も 網走番外地テイチクから発売されたこの歌は、高倉健の初レコードで、映画の大ヒットとともに、200万枚を超すベストセラーとなった。 しかし、歌詞に「酒(きす)ひけ」など香具師(やし:縁日・祭礼などの人出の多い所で見世物などを興行し、また粗製の商品などを売ることを業とする者、てきや。)の隠語が使われているため、一時放送禁止になった。「酒(きす)をひく」は「酒を飲む」、「酒暮れる」は「日がな酒を飲む」という意味である。「番外地」からすぐ近く、湖の東側に小高い丘で標高200m余りの「天都山」がある。山頂に展望施設があって、ここからの眺めは360度ですこぶる良い。 能取湖や網走湖を眼下に網走国定公園の全容はもちろん、知床半島と阿寒の山々の大パノラマを一望できる。 何よりもオホーツク海の流氷の景観は圧巻であろう。すぐ北側に「北方民族博物館」がある。北方地域に共通する衣・食・住・精神文化・生業などをテーマにした展示品があり、又、国指定のモヨロ貝塚遺跡からの出土品、による、オホーツク文化を紹介するコーナー等もある。度々記したが北海道、特にオホーツク海沿岸には規模大きな古代遺跡が多い。ここ網走にも国指定史跡の「モヨロ貝塚」(網走市北1条東2丁目)という遺跡がある。この遺跡は網走湖から流れ出る網走川の河口にある巨大遺跡で、大正の初期この砂丘から大量の貝殻層を発見し、これに混じって土器や石器も出土したという。 この器はかっての日本人が使用してた縄文土器類とは全く違ったものであり、更に調べるうちにこれは北方系、つまりシベリヤ・カラフトから渡来した物である事が判明した。 つまり、北海道における「オホーツク文化」の発見であったという。 モヨロ貝塚の発見には、ひとつのドラマがあった。実は、この遺跡を発見したのは学者ではなく、理髪師の米村喜男衛(よねむらきおえ・1892~1981)という人物であった。彼は東京で理髪師をするかたわら、アイヌ文化の研究に没頭する日々を送っていたが、大正2年にアイヌの研究のために網走を訪れた際に放置されたままの貝塚を発見している。 網走川沿いの急な断面に露出した貝殻層の中には、これまで見てきた縄文系の土器とはまったく違う文様の土器が混じり、周辺を歩くと幾つもの竪穴式住居跡があった。 彼は最寄村で発見されたことから、この貝塚を「モヨロ貝塚」と名付け、ここに住んでいた人々をモヨロ人と呼んだ。 今まで見たことも無かった特異な文化を持つ「オホーツク人」(オホーツク文化)の痕跡を見つけた米村は、すぐに網走に移り住むことを決意している。 米村は理髪店を経営する傍ら、モヨロ貝塚の研究と保存に没頭し、そして、店の奥に山積みにされていった出土品は、希望者に公開されるようになる。この出土品の置き場が、昭和11年の北見郷土館(現在の網走郷土博物館)の開館につながっていく。文化財という観念すらない時代に、彼は私財を投じてモヨロ貝塚を研究しながら、収集した3000点以上の考古資料を提供し博物館は開館に至ったという。 次回は、 知床の玄関口・「斜里」.【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】 《山の履歴》「山行履歴」 《スキー履歴》「スキー履歴」 .
2010.02.15
.日本周遊紀行(57)常呂 「カーリングと遺跡とホタテ」ホタテと遺跡とカーリングの町・・、広大な「サロマ湖」の東に面して位置するのが「常呂町」(ところちょう)である。常呂町は、冬季オリンピックの「カーリング」ですっかり全国的に有名になったが、遺跡の宝庫でもある。 又、サロマ湖東岸を中心とした「ホタテ」の水揚げでも全国屈指の地であるそうだ。「「常呂」はホタテと遺跡とカーリングの町です」と町民は誇らしく云うらしい。又々、遺跡のことであるが・・、常呂町には常呂川やライトコロ川水系を中心として、町内のほぼ全域に遺跡が広がるという。 現在のところ、発見された遺跡は128箇所と言われ、町内全体の竪穴住居の数は何と約1万軒、世界一に匹敵するのでは・・といわれる「遺跡の町」である。中でも国の史跡でもある「常呂遺跡(栄浦第二遺跡)」からは、日本最大である2500軒もの竪穴住居が見つかっているという。 現在の常呂町の人口が凡そ5000人であるから、縄文期にはそれをはるかに凌ぐ人々が住んでいたことになる、これは驚くべきことである。常呂町の遺跡の特徴は、日本人類創世といわれる約2万年前の旧石器時代から始まって、縄文、続縄文、擦文とオホーツク文化、アイヌ文化と、あらゆる時代のものがソックリそのまま揃っているという。 北海道の有史以来の人類の歴史が詰まっているのである。 しかも常呂川河口遺跡では16に分かれた地層から発見されているため、造られた遺物の変化が時代の変遷に合わせた如くはっきりと判るという。常呂の遺跡からは、人類継承の文化と文化のつなぎ目を知るうえでの貴重な資料が数多く発見されているといわれる。町名の由来は、アイヌ語の「トー・コロ」(沼のある所)と言うとおり、水域に縁のあるところである。常呂の地域はサロマ、能取湖のほぼ淡水の食域と、オホーツク海の流氷を含めた海の食域、そして、黙っていてもサケ・マス類が常呂川を上って来る川の食域がある。 又、南方の山域、森林帯は野の獣が豊富であり、陸の食域でもある。 古代の生活者・住人にとって、気象条件さえ考慮に入れておけば、これほど住み易い場所はなかったのではないか・・?。 常呂町では、日本有数の規模と内容を誇る遺跡を町づくりの柱の一つとし、展示資料や映像で学ぶことができる施設「ところ遺跡の館」や竪穴住居を復元した「ところ遺跡の森」などで、発掘された遺物の整理・保存する施設、遺物の修復作業として見学できるという。 いずれ、常呂町に行くと北海道の歴史のすべてを目で見ることができるかもしれない。次にお待たせ、常呂町と「カーリング」のこと・・、本年(2006年)早々に、冬季オリンピック・「トリノオリンピック」が開催され、日本チームはフィギアスケートの荒川静香氏の金メダル1個のみ・・と、成績不振のうちに終了した。 (この記録は2007年当初頃に纏めたものです)そうした中、激しい運動のウィンタースポーツの内で、静かで優美な闘志を醸し出す種目がある・・、その「カーリング」が注目された。小野寺、林、本橋、目黒、寺田の各氏のが女子日本代表チームとして健闘したことは周知で、7位とメダル獲得には至らなかったが懸命な姿に大きな反響を巻き起こした。そして小野寺歩、林弓枝、本橋麻里の三選手は常呂町出身なのである。ところで、本格的にカーリングが普及する発端となったのは北海道で、1980年に道庁がカナダから講師を招いて道内市町村に広めたのがはじまりといわ、常呂町の他士別市や占冠村(しむかっぷむら)なども古い歴史を誇っている。 こんな中、常呂町は常呂町=カーリングと言われるほど町をあげてカーリングを奨励、推進し、日本で一番カーリングが盛んな町とされている。 人口が約5000人の常呂町民の内、その6~7割もの人々がカーリング経験者という驚異的数字もある。 しかもこの町には、1988年建設の国内初の屋内カーリング場「常呂町カーリングホール」があり、小学校や中学校の授業の中でもカーリングをやっているとか、そして町内のリーグ戦もあるという。そんな常呂町に縁が深いカーリングが、1998年の長野冬季オリンピックの際に、日本代表として出場し、その時は出場選手の半分である 10人中5人が常呂町出身という比率であった。2002年のソルトレーク冬季オリンピックには、全員常呂町出身のチーム 「シムソンズ」が女子日本代表として出場、一躍有名になった。 その「シムソンズ」をモデルにした映画「シムソンズ」が、2006年2月公開されている。カーリング (curling)と は、氷上で行われるのスポーツの一つで4人ずつ2チームの対抗戦で行われ、目標とする円をめがけて各チームが交互に8回(4人*2投)ずつ石を氷上に滑らせる。 そして、石を円の中心により近づけたチームが得点を得る。これを10回繰り返し、総得点で勝敗を競う。 高度な戦略が必要とされ、その理詰めの試合展開から「氷上のチェス」とも呼ばれる。15世紀にスコットランドで発祥したとされ、当時は底の平らな川石を氷の上に滑らせていたものとされている。ところで、あのストーン、小生を含めた俗人は漬物石にちょうどいいと思うが・・?、実は、すごい高価な物だという、16個セットで100万円以上するとも・・!!。常呂町は、2006年3月5日に北見市、留辺蘂町(るべしべ)、端野町と新設合併し、新しい北見市の一部となった。(住所表記は北見市常呂町)合併後も自治区が設けられ、一定の自治権が認められる形となっているという。次回は、「網走」..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.08
.日本周遊紀行(56)湧別 「廃線と屯田兵」紋別の「道の駅」を出ると間もなく「コムケ湖」、「シブノツナイ湖」のすぐ横を通る。いかにも北海道らしい清々とした地柄であるが、尤も、地図を見るとこの先、巨大な「サロマ湖」、「能取湖」、「網走湖」、「藻琴湖」そして「濤沸湖」とオホーツク海に面していて、同様の風景が展開しているのである。 オホーツク沿岸の国道238を別名「オホーツク国道」ともいい、雄大な道で大草原、原野の広がりは眼の保養になること受け合いである。 この先、これら主要な湖の岸辺を行くようになるが。湧別町、上湧別は概ね湧別川を挟んでいて、ユッタリした家並が広がっている。 「ユウベツ」とはアイヌ語で「鮫の住む川」という意味だそうで、これは昔、湧別川河口から近海にかけて相当数の鮫が生息していたことから、この名で呼ばれていたとも言われている。 北海道の地名・名称が、アイヌ語から発生しているのが大多数有る中、それにしても「鮫が住む川」とは何とも驚きである。湧別は湧別町、上湧別町と二つの行政域に別れ、上湧別町には中湧別という地域もあるようだ。湧別町はオホーツク海沿岸のほぼ中央部に位置し、東に道内で一番大きな湖であるサロマ湖を擁している。それに対し「上湧別町」は内陸地域に位置し、海面、湖面には接していないようで、「鮫の住む川」である湧別川の下流域の全域を有しているようである。昨今の政府号令の「平成の大合併」で湧別町、上湧別そして佐呂間町の合併話が起きたようであるが、今現在は実現していないようである。 「オホーツク国道」・国道238号は、この町域を東西にクランク状に横断しながら佐呂間に至っている。この国道は、湧別町のシンボルロードと言われる道で、愛称を「オホーツク・リラ街道」と称しているようである。 町では、このリラ街道を春先から花を楽しめる道路にしようと、平成11年から道路の両端に、町民の皆さんの手で千本桜の並木や湧別町に昔から自生していた「リラの木」(仏語読み:ライラックのこと)を植え、その間隔に花を植栽して「花いっぱい運動」を展開しているのである。ところで、この「オホーツク・リラ街道」は、JRの跡地に整備されたものという。一昔前はこの地・湧別町には国鉄・名寄本線の支線である名寄線や湧網線が走っていたが、こちらも国鉄再建法の施行により1989年(平成元年)に廃止されたようである。国鉄「名寄本線」は、名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、網走支庁管内の興部町、紋別市を経て上湧別町の中湧別駅に達し、更にサロマ湖、オホーツク海、能取湖等の沿岸を巡って網走市の網走駅に至る「湧網線」が走っていた。 又、遠軽町の遠軽駅より中湧別駅までの「名寄線」も接続していて、云わば湧別町は鉄道の拠点だったのである。当時の表現を借りれば「天塩国・奈与呂ヨリ北見国・網走ニ至ル鉄道」であり、道央とオホーツク海沿岸方面を結ぶ幹線鉄道として建設されたもので、1920年頃(大正9年)に全線開通している。 しかし、現在の「石北本線」が全通すると、名寄線は遠軽を境に幹線鉄道としての役目を石北本線に譲ることとなり、その後、財政事情により名寄本線、湧網線など全線が廃線に追い込まれたようである。一時は第三セクター化して部分存続させる案も浮上したらしいが、全線存続を強く主張したため、結局1989年に全線廃止されたという。 時代の趨勢とはいえ、廃止された特定地方交通線ながら唯一「本線」を名乗っていたし、その鉄道の拠点が一気に無に付してしまう・・、過酷と言えば過酷であったろう。湧別町の近代歴史の始まりは江戸末期(1808年)、滋賀県人が現地の人を使役し、漁業に着手ことにより始まると言われる。 その後、明治27年には高知団体や広島団体が入植するが、中でも、1897年(明治30年) 屯田兵第1次200名が移住し、更に、1898年(明治31年) 屯田兵第2次199名移住してきたことから町としての発展がなされたという。 先にも記したが、「屯田兵」とは明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊のことであり、明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年(1904年)に廃止されている。 日本では、300年続いた徳川幕府が滅び、明治維新が起こり、各地で内乱が起きたが、こちら北海道ではロシアとの間に領土の争いがあり、「北海道を守るべし」として北海道の開拓を兼ねた「屯田兵制度」が生まれたのであった。屯田兵の条件は先ず士族であること、17才から35才までの男子であること、15才から60才までの農業に従事できる家族が二人以上いることなどであった。屯田兵には、3年間、扶助米、塩菜料、必要な農機具などが支給されたが、屯田兵の生活規則は厳しかったという。 屯田兵は家族を連れて入地するのが基本とし、入地前に建てられ用意された「兵屋」なる家と、未開拓の土地とを割り当てられた。 兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られ、当時の一般庶民の住宅よりは良かったという。 生活規則として起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要し、通常の軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援などにも携わったいう。 また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ね、湧別町では、この時リンゴの植え付けに成功していて、リンゴの北限の地であるともいわれる。 町内には現在も、北兵村、南兵村、屯田市街といった屯田兵に因んだ名称が残り、平成17には「屯田兵村と兵屋」と題して、道民が選んだ「北海道遺産」にも認定されている。『屯田兵の詩』 屯田魂、心の中にひそかに眠る飛翔の街、上湧別を遠くに思うとき心揺れ動いたことがある未開の地に鍬を入れ湧別原野に汗が沁みるみんなで拓った(やった)次回は、 あのカーリングの「常呂」です..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)《山のエッセイ》「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」《スキー履歴》・・・「スキー履歴」.
2010.02.07
.日本周遊紀行(55)紋別 「遺跡と遺骸」「遺跡」と「遺骸」という、意外な取り合わせ・・、紋別の市街に入る少し手前に「渚滑川」(しょこつがわ)という清流が流れる。 その渚滑川を挟んで砂丘地帯に約1キロにわたって続く海岸性原生植物の群落が広がる。 ハマナスの群落地として知られ、小さなハス沼を中心にエゾスカシユリ、エゾカンゾウなど50種類ほどの草花が咲く。 そのハス沼の際にオムサロ・ネイチャーハウスがあり原生花園の案内と二階はオホーツク海やオムサロ原生花園の展望室になっている。 この地、冬は流氷見物のメッカと言われ、巨大な圧力で押されて出来た流氷山脈を見るのに絶好地という。 又、国道を挟んで「オムサロ遺跡公園」がある。 そう・・「紋別」は遺跡の街でもある。 市内様々な箇所に50数箇所以上あるといい、その中で代表的なのが「オムサロ遺跡」といわれる。ここの遺跡では、縄文時代からオホーツク文化期、擦文文化期までの様々な遺物が発見され、竪穴式住居跡が見られるという。 オムサロ遺跡は、縄文時代から続縄文時代、オホーツク文化期、擦文時代等の歴史的連鎖性ともいうべき住居跡が200軒以上埋もれきらない状態で残されており、他にも竪穴住居や高床倉庫が復元されている。 一部公園化された園路沿いには、それらの住居跡を見ることができるという。 北海道では有史以前より其々異なった特有の文化が成立したと言われるが、それらの様子を大雑把に観てみると。 数万年前の氷河期の頃にはシベリアから人類が渡り、温暖となってからは本州からも渡来したようで、この頃を「旧石器時代」としている。 その後、本州からの影響もあって土器を中心とした縄文文化が興った。 「縄文時代」は前期、中期、後期、晩期等に分けられるとされ、一万年以上も続いた文化といわれる。縄文晩期の頃、本州以南は多数の渡来人(主に大陸からの帰化人)が移住することで弥生時代(稲作と鉄が主流となる文化)を迎えるが、北海道にまではその弥生文化が伝播せず縄文文化が引き続きつづいた、 この時期を考古学上北海道では「続縄文時代」と呼んでいるようである。 つづいて、縄文とは異なる文様の土器に刻む「擦文時代」となって、これが7世紀頃に始まって12~13世紀ころに終わりを遂げる。 時期は本州の奈良時代と平安時代に当るとされる。 擦文文化は土器を作る際、ヘラや刷毛で擦って作ったので、その名が付いたともいわれる北海道特有の文化である。擦文文化から引き継がれたのがアイヌ文化といわれる。 更に、この文化は和人(本州以南の日本人)との交易によって12世紀ごろには鉄器を用い、狩猟のほかに農業、漁労を営むアイヌ文化に成熟したとされる。アイヌ文化は比較的新しく、その擦文人がアイヌ民族の祖ともいわれる。道内において擦文・アイヌによって擦文時代が営まれていた頃、前記したが、オホーツク海沿岸には海獣狩猟を中心とする北方大陸の文化を持った人々が道内に移住してくる。 「オホーツク文化」と云われる時代であり、シベリヤ・カラフトの北方民族の文化で5世紀から13世紀頃まで続くが・・、同時期の北海道にあった続縄文文化や擦文文化とは異質な文化であったともいう。 その後、和人の影響もあって「アイヌ文化」が成熟した頃、オホーツク文化は忽然と姿を消したといわれる。 これはアイヌ民族と完全に同化したか、或はアイヌに追われたともの考えられるという。尚、全道に成立していた「アイヌ文化」も、江戸初期頃の松前藩が北方の宗谷場所等を開設したのをきっかけに次第に衰退していくことになる。それまでアイヌの自由な漁獲の場であり、恵み豊かな権益であったオホーツク海沿岸やサロマの湖などの各所の魚場は和人等に収奪され、アイヌ人は漁業労働者として駆使されるようになる。 又、和人の影響により生活様式も変化し、特に請負人によるアイヌ人の使役法が過酷を極めたために、男女数の不均衡・結婚機会の減少など人口増加を阻む諸要素が多くなり、アイヌ人を次第に衰亡に追い込む結果となったともいわれる。 紋別でも「金」(ゴールド)が採掘されていた・・?、紋別より遠軽に到る、ほぼ中間地に「鴻之舞」という地区がある。浜頓別におけるウソタン川流域の金採取でも述べたが、ここ紋別市から遠軽町方面に抜ける山間部のルートのその場所では昔、金鉱山が在ってかなりの採掘量を誇ったという。 戦前は東洋一の鉱山と言われた程で、鴻之舞鉱山といって紋別市鴻之舞にあり街としても大いに栄え賑わいをみせたという。 大正4年に発見されて以来、数人の共同所有であった鉱業権を「住友」が買取し整備開発したもので、数十年の長い歴史を有しており、その間戦前から戦後にかけて東洋一の金山として栄えたという。 昭和46年末まで行われ、その総生産量は金 64トン、銀 950トン に達しており、一つの鉱山としては日本最大のものであったともいう。しかし、昭和48年(1973)北の黄金郷として佐渡の金山と並び全国にその名を馳せた鴻之舞金山は資源枯渇のために閉山し、56年間の操業に実質的な歴史に幕を閉じている。 それから歳月が流れ、現在は住んでいる人影もなく実質的な無人の地として大きく様変わりし、そのままの姿で自然に帰りつつあるという。 町の元住人に言わせると「幾年故郷来て見れば咲く花鳴く鳥そよぐ風 ・・」という歌の「故郷の廃家」の歌詞が身にしみると言う。「鴻之舞」の夢のような現実・・!!、それは浜頓別、枝幸に始まった ともいわ、オホーツク海沿岸におけるゴールドラッシュの端緒は、ウソタン川を始めとする砂金掘りの人達がつけたといわれる。明治31年(1898)、堀川泰宗(ほりかわ たいそう・岩手県盛岡出身、北見で砂金山、旅館などを経営し、旧湧別村の村会議員も務めた、柔術の師範で大東流合気柔術を修業した。)の一行が、枝幸、頓別川上流のパンケナイで発見した砂金は、優秀な金田としてオホーツク・ゴールドラッシュの口火を切ることとなり、ウソタン川、ペーチャン川砂金発見の端緒ともなった。最盛期の明治32年頃には、これらの砂金場には5千人以上の砂金掘りが押しかけ、盛んな頃では砂金掘りの作業をする時に体がぶつかりあった状態であったという。 砂金掘り達の収入は、明治32年(1899)に「一人が一日200グラム程度を連日にわたって採取した」と言う記録もあり、当時地元での砂金の値段は1匁(モンメ:3.75g)あたり4円であったから、200グラムで210円ほどの金額になる。 この頃の一人前の大工の賃金が1日80銭、出稼ぎが1日60銭であったというから、それは大変な金額であったということが判る。 噂がうわさを呼び、町全体がゴールド・クレージーとなり、漁夫は海を、農民は田畑を捨てて皆ペーチャンやパンケナイを目指した。 狭い沢の砂金場には、料理屋や飲食店、雑貨店、床屋、風呂屋などがひしめき、熊の出るような山間部に突然集落が形成されたほどで、海岸部にある市街地の人口よりも砂金場の人口のほうが多かったというから、その賑わいは想像に難くない。 そうした砂金狂騒も僅か2、3年の短期間であったという。戦前の日本は、軍国主義で国家の政策は軍事最優先として推し進められていた。 当然のことながら兵員を確保し、増強されたため成人男子はどんどん徴兵され国内の生産活動に従事する人員が欠乏した。そこで、目をつけられたのが中国や朝鮮の人々であり、日本政府は大陸から中国人や朝鮮人を強制連行し、日本国内各地の鉱山や炭鉱、土木作業に従事させた。そして、ここ鴻之舞鉱山も例外ではなかった。以来、鴻之舞も同様に徐々に金の採掘量が低下し、それに比例するかのように人口も減少し、過疎化も急激に進行し、当時の最盛期には1万人以上いた町の人口も昭和40年代頃にはゴーストタウンと化し現在に至っているとのこと。今では、鴻之舞鉱山跡は紋別の「遺骸」となってその姿を晒しているという。次回は、「湧別」..【小生の主な旅のリンク集】《日本周遊紀行・投稿ブログ》GoogleBlog(グーグル・ブログ) FC2ブログ C・掲示板 FC2 H・P gooブログ yahooブログ《旅の紀行・記録集》「旅行履歴」日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)【日本の世界遺産紀行】北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002【山行記】《山の紀行・記録集》「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) .
2010.02.07
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