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こんにちは、尾関です。今日の春日井はものすごい秋晴れ!もんのすごい、秋晴れです!さて、今日のテーマは「ことばの反対側を見る」です。最近のぼくは、ことばというものを、ちょっと疑って、ナナメに見ています。たしかにことばには力がある。ことばで人を傷つけることも、励ますこともできる。だから、ことばは大切。けれども、やっぱりことばはことばでしかない。言葉それ自体は、たんなる記号なんです。ぼくは「いい言葉」が好きで、そういう名言とかが書いてある本をよく読みます。ちょっとした名言マニアです。しかし名言マニアほど、非力なものはない。他人の名言をどれだけ口にしても、それは自分のことばではないから、どこか響かない。どことなく空虚なにおいがする。ことばは、こころの反対側をあらわしていることがよくある。死ぬことが怖い人ほど、「いつ死んでもいい」と言う。お金が欲しくてたまらない人ほど、「人生の価値はお金じゃない」と言う。カノジョが欲しくてたまらなくなると、「今は、そういう時期じゃない」と言う。マイナス思考の人ほど、「もっとプラスに考えようよ」と言う。もちろん、すべてがそうだというわけじゃない。思ったことを素直に口に出せる人もいる。しかし多くの人は、自分のこころまでもあざむいてしまって、まったく正反対のことを口走ったりする。しかもまた、それがけっこう良いこと言ってたりするんですね。有名な宮本武蔵の名言に、「我、事において後悔せず」があるけれども、それを「武蔵は後悔ばかりしていたに違いない」と分析していた人がいた(誰だったかな・・・)。さもありなん、という話だ。その意味で、ぼくは斎藤一人さんも多くのコンプレックスを抱えていると見ている。こんなことを言っちゃあ、一人さんファンに怒られるかもしれないけれど、完璧な人間なんていない。それにコンプレックスを持っていようといまいと、ぼくが一人さんファンであることは変わらない。ただ、尊崇の対象を冷静に見たいのです。カミサマ扱いするのは、ぼくの趣味ではありません。まぁ、いわゆる「成功者」なんて、ほとんどは元々コンプレックスの塊だと思うのです。それを良い具合に社会に活かすことができたのが「成功者」。これを見た「成功者」が、「俺にはコンプレックスなんてない!」と怒ってきたら、それがまさにコンプレックスということです。なんか話がズレてきてしまいましたが、ことばを裏側を読むことが大事なんじゃないかなーというお話です。ぼくらはつい、「偉い人」のことばを鵜呑みにしてしまう部分があるからね。「偉い人」はときに、「ぼくは○○したから偉い人になれた。 きみは××だから偉くないんだ。こう変わりたまえ」ということを言ったり、そういう本を書いたりする。けれども、そのことばは単なるコンプレックスの裏返しだったりする。だから、他人の話(お説教)は半分マジメに聞いて、半分は右から左へすすーっと流すことが大事だな、と思う今日この頃です。ことばの裏側。たまにのぞいてみるのはいかがでしょうか。=========================春日井市高蔵寺の整体院「空」の公式HP予約受付中! 0568-51-2354詳細は↓こちら↓をクリック!自然治癒力を120%引き出すブログ フォロー/友達申請大歓迎です!!ポチっと押していただけると、めちゃ嬉しいです!!
2011年09月23日
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美しい花、というのはありません。花は美しいのです。ただただ自然に、ふつうに、淡々と咲いている花は美しいのです。花は「わたし、きれいでしょう?」という顔をしていない。花は「もっと、きれいになりたい」とも言わない。花は、ただそこにある、ということが美しい。どうにかなんとかしてやろうという意志がないから美しい。花は理屈でなく美しい。花は、そこに無意味に咲いていることが美しい。そんなふうにはなれないけれど、そんなふうなあり方を目指してみたいと思ったりする。
2010年12月21日
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【前回までのあらすじ】魅力的な言葉で幸せを引き寄せる!良い言葉はよい仲間を運んできてくれます。よい仲間は幸福をもたらしてくれます。だから魅力ある言葉を使うことが大事。でも、嫌なことが多くて、「よい言葉」なんか言う余裕のない人はどうすればいいの?========================幸せになれる人となれない人の「決定的な違い」ってなんだか分かりますか?それは、「幸せそうかどうか」ということです。幸せそうな人は幸せになります。不幸せそうな人は、不幸せになります。これはとっても大事なことです。幸運のある人はもっと幸運になる幸運に恵まれます。不運な人はもっと不運になってしまうほど不運です。なぜ、そんなに不公平になってしまうのか。それはカミサマが無情だからですね。情がないんです。良いことをした人には良いことを起こし、悪いことをした人には悪いことを起こす。それがカミサマです。だからある意味で、世の中は公平です。嫌なことばかり起きるから「よい言葉」も出ないと考えているとしたら、大間違いです。「良いことが起きたら良い言葉も言えるのに」というのは勘違いであります。前回書きましたが、「人生は潜在意識が注文したものがそのまま出てくる」のです。そば屋で「ざるそばください」と注文すると、ざるそばが出てきます。それを、ざるそばが出てきてから、「ざるそばください」って言ったらおかしいですよね(笑)それと同じで、良いことが起こって欲しかったら、良い言葉で注文すればいいだけなのです。嫌なことが多いときほど、意識的に「よい言葉」を発するのです。行動の90%は無意識のうちに、つまりクセによって行われています。悪い結果がもたらされているということは行動のクセ、考え方のクセが間違っている、ということです。逆に言えばそれは、「無意識(クセ)を変えるチャンス」なのです。うまくいっている物事をわざわざ変える必要はありません。そのままおごらないように波に乗ればいいだけです。けれども、うまくいっていないときは、何かを変えたほうが良いのです。「悪い結果」というのを、「変革へのチャンス」「気づきの機会」と捉えてしまうのです。捉え方を変える試練なのです。どうやって捉え方を変えるかといえば、それが「ことばの魔法」なんですね。「ことばの魔法」ではどんどんプラスの言葉を使っていくのですが、ただ闇雲に使えばいいというものでもないのです。カラダがつらいときに、どれだけ「絶好調」と言ってみてもやはりつらいのです。お金がないのに「俺は金持ちだ」と思い込もうとしても、無理な話です。モテない人が、「俺はモテる」と嘘の自慢をしたところで、なおさらモテなくなるだけです。そうじゃないんです。大切なのは発想の転換なんです。「ことばの魔法」の本質はそこにあります。じゃあ、どうやって発想を転換していくのか。そのためには、「あること」をすればいいだけなんです。というか「あること」を上手く使えばいいんです。「あること」はみなさん、毎日とめどなくやっています。しかしそのやり方を意識的に使っている人は少ない。やり方はとってもカンタンです。そんな方法を知りたくないですか?「あること」のうまい使い方とは・・・<続く>
2010年11月03日
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こんばんは、尾関です。昨日の夕飯はカレーでした。旨かったです。あぐらをかいている脚の上にネコが乗ってくる季節になりましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?========================さて、今日のお題は「魅力的な「言葉遣い」で幸せを引き寄せる」前回、言葉遣いで人間を観察するテクニックをお話しましたが、今日はそれをもっと有効活用するお話です。「はじめに言葉ありき」と言いますが、言葉というのはほんとうに思った以上に大事なものなんです。「そば屋にいって、『とろろそばが食べたい!』って思っても、『山菜そばください』って言ってしまったら、山菜そばがでてくる。人生も、言葉で注文したものがもらえるんだよ。だから思っていることよりも口にすることが大事なんだ」というような話が、斉藤一人さんの本に載っていました。面白いですよね。ぼくの考えでは、人は「言葉遣い」で自分の仲間を見つけます。この人は自分の仲間かな?違うかな?と考える時に、人間は「言葉遣い」というものをとても重視しているのです。類は友を呼ぶ、「類友の法則」がありますが、原理はそれだと思うんですね。「同じ言葉遣い」の人が集まってくる。だから良い言葉遣いをしたほうがいいんです。良い言葉で良い仲間を引き寄せる。それが縁ですね。良い仲間(縁)がハッピーを引き寄せます。それが運です。ハッピーな気持ちになると、心が落ち着きます。それが安です。その流れに感謝したくなる。それが恩です。そういった結果を得るために、良い言葉を発する。それが因です。これこそが尾関流「幸せのあいうえお」です。安・因・運・縁・恩。覚えておくと、きっと役に立ちます。で、こういうことを言っていると、「はぁ?」と思う人は去っていき、「面白い!」と思ってくれる人は、仲間になってくれます。つまり周りに言葉を発することで、自然と「仲間」と「それ以外の人」により分けられてくるという仕組みです。そのせいか、ぼくは昔からかなり人に恵まれています。周りにスゴイ人がたくさんいて、いつも学ばせてもらっています。ほんとうにありがたいことですね。一時期「自分探し」とか言うのが流行りましたが、もしいまだにそんなことに迷走している人がいたら、「自分の言葉」を探してみるとよいです。自分に気づくことは、自分の言葉に気づくことです。行動の9割は無意識的です。1割が意識的に行われます。言葉を発するということは行動のひとつですから、言葉の90%は、無意識に発せられます。無意識的というのは、カンタンにいえば「クセ」です。ですから「自分の言葉のクセ」に気がつけばいいわけです。何はなくとも、良い言葉、良い言葉を使っていく。その「よい言葉」に引き寄せられる。人もモノも幸運も、引き寄せられる。それは「魅力」があるからです。魅力とは引力です。引き寄せる力です。魅力ある言葉を使ったほうが絶対トクなんです。誰も損をしないし、しかも全部タダ!やらなきゃソンソン!!え?そんなに「良い言葉ばかり言ってられない?」「嫌な事だって人生にはあるし・・・」そんなことでお悩みのあなたに、実はとっておきの解決法があるんです。それは・・・<続く>
2010年11月01日
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むかしむかし、あるところに、嘘つきな少年がおりました。少年は、毎日のように嘘をついて街中を走り回っていました。実は嘘つき少年は、とても貧しい家庭に生まれたのです。食べ物にすら困る日が多く、育ち盛りの少年はいつもお腹をすかしていました。そこで少年が考えたのが、嘘をつくということでした。彼の作戦は、相手にたいして嘘を言って、相手をおだてよい気分にさせて、魚や肉を安く分けてもらおうというものです。「おばちゃん、今日もキレイだね!」「お兄さん、いつもカッコイイね!」少年は心にもないおべんちゃらを口から出まかせにベラベラと言いました。意外にもこの作戦は奏功し、安く食べ物を手に入れることができるようになり、少年は食うに困らなくなってきました。ところが、それを徐々に続けていると、徐々に効果が薄れてきました。はじめは嘘のホメ言葉に喜んでいた人も、だんだんと、その言葉に慣れてしまったのです。そこで少年はまた考えました。「もっと、相手を喜ばせるにはどうしたらいいだろう?」少年がやったことは、観察でした。「細かく観察して、他の人が見ていないところを褒めてみよう」と考えたのです。結果は大当たりでした。「おばちゃん、今日は髪型がステキだね! それに靴も新調したんだね。似合ってるよ」「お兄さん、ネクタイのセンスがいいね。 カラーコーディネートがさすがだよ」少年は、相手を観察して、「言ってもらいたい言葉」を言うと、かならず相手の顔がニヤける、ということを発見しました。そしてそのとき、かならず得をする取引ができるのです。それからというもの、少年は観察を徹底的に磨き、そして「褒める」ということを実践していきました。すると不思議なことが起こったのです。はじめは「心にもない」おべんちゃらだったのですが、いつのまにか周りのみんながよい人に見えてきたのです。少年は観察を続け、「褒め言葉」をいつも探していました。それがいつの日にか「相手の長所ばかりを観る訓練」になっていたのです。いつしか少年は、街の人たちからいろんな相談事を受けるようになっていました。「あの子と話すと、明るくなれる。」「彼の言葉には力がある。」「少年がなんでも解決してくれる」と街中で評判になり、少年はそれを仕事にしました。もちろん相談所は毎日大忙しで、少年はとっても豊かになったのだそうです。おしまい。
2010年10月31日
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人は言葉を変えるだけで、幸せになれます。なぜならモノゴトは捉え方しだいで変わるからです。そしてモノゴトを捉えるのは、言葉という道具だからです。「はじめに言葉ありき」とキリストも言っていますね。しかし「言葉遣いを変える」と言っても、どう変えていいのか分かりませんね。今日は、そのコツをお教えいたしましょう。それは「良いことは大きく、悪いことは小さく言う」ということです。それが幸せになる言葉遣いのコツです。それでは前回の記事をもとに解説を始めます。「仕事で失敗した」というのを「俺は仕事ができない」というのは不幸になる言葉遣いです。ある仕事を失敗しただけで、次が成功するかまた失敗するかは誰にも分かりません。しかしひとつの仕事を失敗しただけで「俺はできない」と思い込んでしまうと、その思い込みによって、次も失敗します。なぜなら自分のことを「できない人」だと捉えてしまったからです。逆に仕事がうまくいった場合は「今回はうまくいった」などど謙虚にならず、「俺はできる男だ。天才だ」と思い込んでしまいます。そうすると、自然と次回も成功します。たとえ次回に失敗してしまっても、「俺はできる男だ」という思い込みがあるので、「一度失敗してしまっただけだ」と思えるのです。これが「良いことを大き言う」です。たったひとつの成功を、抽象化してしまい、「今後もうまくいくに違いない!」と思い込む。要するに、「自他の都合のいいような思い込みを生み出す言葉遣いをしなさい」ということなのです。ジャンケンで負けたくらいで、「私、運が悪いから」という人もいますね。完全に言葉に負けています。自分をいじめすぎです。ひどすぎます。「私、運が悪いから」なんて誰も得しないことを言っていたら、どうやったって良い運がめぐってくるわけないでしょう。失敗したら「今回は、運が悪かった」と今回だけに限定してしまう。それが「悪いことは小さく言う」です。都合の悪いことだけ、具体化してしまい、「今だけ」「今回だけ」と限定してしまうのです。「今回は」と言うと、「全体的には運がいい」ということが潜在意識に刷り込まれます。そうやって「良いことは大きく、悪いことは小さく」捉えるということを続けていくと、かなりラクになってきます。「全体的によくって、たまに失敗もするよね」という構造を自分に刷り込んでいく。そうしたら、どんどん幸福になってきます。そもそも、幸せというのは思い込みです。だからこそ、幸せな人はいつでも幸せで、不幸な人はいつでも不幸なのです。「幸せになりたい」なんて言ってる人は、早く幸せになればいいんです。人は誰でも、自分の力で幸せになれます。むしろ自分の力でしか、幸せになれません。ちなみに幸せになる言葉遣いは子育てや、部下指導にも使えます。褒めるときは大きく言う。「お前はできる子だ」「お前は天才だ」「キミは優秀な部下だ」叱るときは小さく言う。「さっき陰口を言ったのはいけない」「今日、ウソをついたことを謝りなさい」「今回のあの判断はミスだったな」こうすると「全体的には良い」というイメージが相手の潜在意識に刷り込まれる。そうすると逆に、具体的な叱責が響くようになる。これが逆転すると、おかしなことになる。「お前はダメな子だ」「お前はバカだ」「キミはできない奴だ」「今日、皿洗いしてくれたのは嬉しい」「100点取ったの。エライね」「今回の納品は、うまくいったんだね」このような褒め方叱り方をすると、「全体的にはダメだが、ある具体的な事柄はよい」という印象を相手に与える。そうすると、相手はその具体的な行動しかしなくなる。それはその具体的な行動によってでしか、自分は認められないと捉えてしまうからだ。これが、言葉の怖さなんです。言葉ひとつで、世界は変わってしまうんです。ぼくが見る限りでは、多くの人は言葉の怖さを知らない。知らなくて偶然うまくいっている人もいるけれども、「言葉のヒミツ」を知らないばかりに、無駄に苦労している人も多い。(まあその苦労も後には役立ちますが・・・)言葉には、まだまだヒミツが隠されているんです。言葉を変えてください。そして自分の言葉に気づいてください。相手を思いやっているつもりで、相手を追い込んでいる人はたくさんいます。それは言葉の怖さを知らないからです。「優しいふりしたバカ」はいちばんの悪魔だと、ぼくは思うんです。言葉は単なる道具です。その道具で自分や他人の首を絞めることもできます。しかし、言葉という道具を使って、自分も他人をも活かすことができるんです。あなたは、言葉をどう使いますか?
2010年07月24日
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お前はお前のままでいいだって何も悪くないんだからお前はお前のままで ここにいていいだってお前はすばらしい存在なのだから今まで居場所がなかったかもしれないね今まで人の目ばかり気にしたかもしれないね自分を責めて、自分を傷つけたかもしれないずっと「ごめんなさい」って言い続けてきたかもしれないでももう、そんな自分を捨ててもいいんだよ間違ってもいないのに、謝らなくていいんだよお前はお前のままになれお前はお前のままですばらしいから
2010年07月04日
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かなしいよけれど 前に進もう流れる涙ぬぐって 立ち止まることもあるでしょう振り返ることもあるでしょうそれでもいいけれど 前に進もうさみしいよけれど 前に進もう孤独を背負ってさみしさをゆるして仲間に心ひらいて前に進もう前に進むしかないんだからすなおに前に進めばいいんだよ時間という名の動く歩道に乗ってみんなあの世にむかって進んでくかなしいよさみしいよそれでも前に進むしかないんだよ怖くたっていいブルブルふるえたっていいだけど すくんだ足で勇気ふりしぼって 前に進もう動く歩道の上を 自分の足であるこう前に進めば たのしいよ死ぬまでは生きてるんだからたのしんで 前に進めば いいんだよね前に進めば いいんだよね
2010年06月20日
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ゆるしあえたときにはすでに遅くにぎりしめた手からするりと戻らない時が流れる人はなぜ、ゆるすべき時ににくみ、愛すべき時に恨み、そして悔いるのだろう人はなぜ、ゆるしあい、愛し合える時間が限られていることに気付かないのだろうゆるすには 遅すぎた かなしみの季節
2010年06月14日
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あたらしい朝はくるしずかで怖い暗闇も一歩踏み出せば、光が差し込むはじまりはおわりおわりははじまりあたらしい朝あなたらしい朝いや、そこ韻を踏まなくてもいいから。ぼくらは毎朝 生まれ変わる臨めば変化は訪れる分かる人何が起きたか察してください今日が最期の日そして今日が最初の日「いま」を見て、「ここ」に生きるあたらしい朝あなたらしい朝いやいや、そこ韻ふまなくていいから。
2010年03月26日
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つらいときは泣いてもいいよ我慢しないでなみだ流してもいいんだよわけも分からないのにぽろぽろとぽろぽろと涙ながれることもあるでしょうあなたのなみだは うつくしいおもいであなたのなみだは これからの糧あなたのなみだは つよさのあかしあなたのなみだは ひとのやさしさそのなみだのひとつぶをたいせつに たいせつにしてくださいきっとそのなみだにすくわれる人がいるでしょうきっとそのなみだに涙するひとがいるでしょう気のすむまで 泣いてくださいそのなみだが 虹に変わるまで
2010年03月25日
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風は気圧の高いところから低いところへと流れ込む。密度の高いところから低いところへ。それが、風だ。
2010年03月02日
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ぼくはおんなじなやみをぐるぐるしている気がするなあ何が変わったというのだろうまたおんなじことのくりかえしおんなじことのくりかえしだ!傷つく人がいる傷つけられる人がいる幸せという名の花が咲いては散り、散っては咲き、まるで意味のないダンスのようにぼくらをもてあそぶきっとそれでいいんだろうけどそれでいいんだろうけど
2010年01月25日
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「あなたを幸せにしたい」そんな言葉をよく聞きます。GLAYの「HOWEVER」にもそんな歌詞がありますね。ただ、何度も聞いていると「幸せにしたいってどういうこと?」と思えてきます。「幸せにしたい」あまりにも抽象的であいまいな言葉。なんとなく愛のメッセージ。けれどそれって、ほんとうに相手を幸せにする言葉なのかな?「幸せにしたい」と言われたほうは、「はい、幸せにしてください」と言うでしょう。けれども、「幸せにしてください」なんて他人にお願いしているようでは、けっして幸せにはなれないという矛盾がここにあるのです。そもそも幸せはじぶんの心で見つけ、じぶんで決めるもの。「幸せにしてほしい」と願うのも「幸せにしてあげる」と願うのも傲慢というものです。また「幸せにしたい」=「今は幸せではない」ということを暗に示しています。言葉というのは大事なものでいて、えてして言い訳にも使われがちです。とくに「~したい」と頻繁に言っているのは「本当はやりたくない」という場合が多い。「ダイエットしたい」「英語を話せるようになりたい」常日頃からそう口にしていて、まじめに取り組んでいる人をほとんど見たことがありません。なぜなら、本当にそう思っている人は「~したい」という前に、もう実行しているからです。「幸せにしたい」なんて能書きを垂れているヒマがあったら、さっそく幸せにしてあげればいいじゃないですか。お金がなくたって、時間がなくたって、何かしら工夫することはできるはずです。それをしないで怠慢な気持ちでいるときに「気持ちはあるんだが」という意味で「幸せにしたい」なんて甘い文句を言っているのでは?しかし本当に甘いのはセリフではなくてあなたの考え方なのです。気持ちは気持ちのままでは伝わらないものです。カタチだけでも伝わらないけれども、カタチにしないと伝わらないときもあるのです。「幸せにしたい」あなたなら、その気持ちをどう伝えますか?↓↓1%でも反省したらクリック!!
2009年11月22日
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2匹の蚊がいました。1匹は欲張りな蚊。もう1匹は、遠慮がちな蚊です。2匹とも、にんげんの血を吸って生きています。欲張りな蚊はいつも、満腹になるまでにんげんの血を吸っていました。「食事」の時間が長くなればなるほど、にんげんに殺されてしまう確率が高くなってしまうのですが、欲張りな蚊は「どうせいつか死ぬのだから、飲めるだけ飲みたい」と言って、危険を顧みず、にんげんの血をがぶがぶ飲んでいました。いっぽう遠慮がちな蚊は、いつも控えめで、にんげんの血を吸うにしても腹八分でやめていました。「満腹になると動きも遅くなるから、 なおさらにんげんに殺されやすくなる。 食事時間を短くして、身軽に動いたほうが合理的だ」と言っていました。あるとき、欲張りな蚊がいつものように「食事」をしていたのですが、にんげんに気づかれてしまいました。ぺチン!ぺチン!と容赦なくにんげんの手が襲ってきます。しかし満腹になっていた欲張りな蚊は動きが遅くてどうにもなりません。ついには、「ぷちん。」とつぶされてしまいました。一巻の終わりです。それを見ていた遠慮がちな蚊は、おそれおののいて、なんとか物陰に隠れようとしました。しかしすぐに、にんげんに見つかってしまいました。遠慮がちな蚊は必死で逃げ回りましたが、結局「ぷちん。」とやられてしまいました。欲張りな蚊からは、たくさんのにんげんの血が流れていたそうです。遠慮がちな蚊からは、それよりちょっとすくなめの血が、流れたということです。おしまい。さて、あなたはこの物語からどんなことを学びますか?↓「なんかモヤモヤする」という人はクリック!
2009年11月14日
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★連続記事です。2つ前から読んでくださいね!★「分離法」とは、「自分の気持ち」にほんのすこし言葉をプラスアルファすることで、感情を根本から変えてしまう方法なのでした。では例をあげて説明していきます。「俺はダメだ」に「今日の」という言葉をくっつけてみます。すると・・・「今日の俺はダメだ」になります。そのままの意味で考えると、大して変わっていないように思えますが、実はぜんぜん違っているのです。なぜなら「今日の俺はダメだ」という言葉には「今日はダメだけど、明日はいいかもしれない」という意味が含まれているからです。この「意味が含まれている」というのがポイントで、はっきりと言葉にされることよりも「含まれている意味」のほうが、ココロとカラダに沁みこむのです。他の例を見てみましょう。「ぼくは最低の人間だ」には「さっきの」と「った」をつけてみましょう。「さっきのぼくは最低だった」これは言外に「今のぼくは最低ではない」という意味が含まれます。「だった」というのは完了形ですからね。もう済んだことなのです。同様に「あたしはミスばかりする」(直らない感じ)→「最近のあたしはミスばかりする」(今日から変えていける)「ぜったいに無理。できない!」(永久にできないイメージ)→「ぜったいに無理に思える。今はできない」(事実ではなく、思い込みと知る。のちのちできそう)「私は心が弱い」(私=心が弱い人間)→「私には心が弱い部分がある」(弱い部分も強い部分もある)というように言葉をプラスすることによって、捉え方じたいを変えてしまいます。なぜそれを「分離法」と呼ぶかというと、たとえば「今の自分」と「未来の自分」「弱い部分」と「強い部分」というように「ひとつのもの」と思い込んでいたものを細かく分離するのでそう呼ばれます。「分離法」はあいまいに勘違いしている事がらを「具体化」する技術なのです。そもそも「落ち込む」というのはひとつのことを集中して考えすぎてしまうことから起きる現象です。自分の嫌な部分に目がいってしまって、そこから離れないだけなのです。しかし「嫌な部分」は嫌な「部分」なのであって、決してあなたそのものではありません。つらいとき、落ち込んだとき、「プチうつ」なとき・・・。ぜひ「分離法」でことばの力を使って、元気を取り戻してくださいね。ではでは。 <了>↓「分離法」をやってみたくなったら、クリック!
2009年11月10日
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★連続記事です。前回記事から読んでくださいね!★「うつ」な気分を3秒で吹っ飛ばす画期的方法、「分離法」。はたして、その詳しいやり方とは!まずは、「分離法」を行うまえに、お願いがあります。それは「いまの状況を変えようとしないこと」です。「えー、今が苦しいんだから、今の状況を変えたいんだよ!」と思う方がいるかもしれません。しかし、よーく考えてみてください。落ち込んでしまうときというのは、たいてい一瞬です。2年くらいかけて徐々に落ち込む、というのはあまり聞きませんね。それよりは、□何かひどくショックなことが起きた。□ひどく厳しいことを言われた。□見てはいけないものを見てしまった。□隠していたものがバレてしまった。そういう出来事があった瞬間に、ガーンと落ち込んでしまったはずなのです。「状況」が一瞬にして変わったわけではない。「頭の中」が一瞬にして変わっただけなのです。つまり、「状況は変わっていないのに、じぶん自身の見方や捉え方が変わったせいで落ち込んでしまった」のです。そのことをきちんと認識する必要があります。ですから画期的な「分離法」を行うにしても「状況(環境・他人)を変えようとするのではなく、 じぶん自身の考え方・捉え方を変える」ということをしっかりと肝に銘じてください。それでは、本題に入ります。「分離法」とは、「自分の気持ち」にほんのすこし言葉をプラスアルファすることで、感情を根本から変えてしまう方法です。たとえば・・・ <次回記事に続く> ↓「気になって仕方がない」人はクリック!↓
2009年11月10日
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※連続記事です。何個か前の「花の匂い~」から読んでください。「人は見た目が9割」みたいな本がすこし前に売れましたが、「外見」というのは本当に大事なのです。ぼくのいう「外見」とは、もちろん容貌・服装・髪型なども含みますが、それ以上に「言葉・身体(姿勢)・行動」など、とにかく「外に出すもの」すべてを言います。さて、では本題に入りましょう。「なぜ、心の問題なのに外見を変えるとよいのか?」答えは・・・「カンタンだから」です。難しいことをするのは難しいのです。それなら、カンタンなことからはじめたほうがいいですよね。押入れの中を掃除するより、机の上を整理整頓するほうがカンタンでしょう?マイナス思考な性格を、プラス思考にするのは難しい。けれど、「もうダメだ」という言葉を「これからだ」という言葉に変えるのはカンタンなのです。言葉を変えるだけでいいんです。こころは後からついてきます。まず「今、できること」から始めてみる。千里の道も一歩より、ということです。ぼくたちは、二歩目から踏み出すことはできません。かならず「はじめの一歩」があるはずです。その一歩目をできるだけ「カンタンなもの」にすること。そうしないと一歩目が踏み出せません。たとえばコンビニの店員に「ありがとう」と言うようにするとか、靴をそろえるとか、本を1冊読むとか、トイレ掃除をしてみるとか、「自分はダメだなあ」と思っても絶対に口にしないとか、誰でもできるような、ほんとに小さなことから始めるのです。いつまで経っても変わらない人というのはカンタンなはじめの一歩さえ踏み出さない、そういう特徴があるのです。まずはやってみる。まずは小さく変えてみる。とくに「言葉」が大事です。かのキリストが「口に入れるものよりも、口から出すものに気をつけなさい」と言ったと何かで読みました。つまり食べ物以上に、じぶんが発する言葉に細心の注意を払いなさい、ということです。多くの人は、他人の言葉には敏感ですが、自分の言葉には無頓着です。つまり「もうイヤだ・もうダメだ」とか「〇〇のせいで!」とか「どうせ〇〇だから~」ということを無意識に言ってしまっているのです。そうすると、それが気づかないうちに潜在的な意識に刷り込まれてしまい、まるでそれが事実であるかのように思えてきて、それでまた損をしてしまうのです。「外見」には言葉・行動・姿勢などがあると言いましたが、やはりいちばんカンタンで変えやすいのは「言葉」です。言葉から変えていく。「いい言葉」で「マイナスの自分」をだましていく。それがいちばんカンタンな「はじめの一歩」なのです。↓「なるほど!」と思ったらカチッとクリックお願いします!やたらと連続した記事になってしまいましたが、お楽しみいただけましたでしょうか?ではでは、また。
2009年11月03日
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何よりも大切なのに、ほとんど大切にされることがないのは、ことば。ことばというのは、考え方そのもの。発することばで、その「モノゴト」の意味が決まる。つまり、よく言われるとおり、「もう半分しか残っていない」と捉えるか「まだ半分も残っている」と捉えるかの違い。それは完全にことばから来る。どんなかなしい出来事にも、小さな喜びの焔が灯っています。そこに焦点を当てていく。「いいこと」を探していく。それは砂金やダイヤモンドを探すようなものだと何かの本で読みました。つまり掘っても掘っても、「砂ばかりしかでない」のか「ほんのすこしだけど、砂金を見つけた」のでは大違いなのです。たとえば砂金を見つけたのでも、「ちょっとしかない」と不平・不満を漏らす人もいます。ことばはあまりに無意識に使われすぎて、それがマイナスの言葉か、プラスの言葉かということをあまり気にしている人はいません。ぼくは、ことばに気をつけているつもりですが、それでもぱっとマイナスの言葉が出てしまうことがあります。ぼくの実感では、半分以上の人はことばで損しています。そんなこと言わなければいいのに、ということを口にして、損をしているのです。それがとてももったいなく感じる。もっと「いい言葉」を使えばよくなるのに。そう思うことが多々あります。これは斎藤一人さんが言っていることですが、人の気持ちがあったかくなることば、ほっとする言葉を口にする。そうしたら、周りもじぶんもいい気分になるのです。ことばを、大切にしたほうがきっと良いことが起こります。
2009年06月24日
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母よわたしの大地なる 母よわたしが虚空を飛びまわるときあなたは急かず急かさず何を言わず 見守ってくれるたとい心が焦れるときもそんなことはおくびにも出さず「あなたを信じるわ」といっていつでも わらっているあなたはわたしに何も求めないあなたはわたしにありったけの愛をはたいてそれでいて何をも もらおうとはしないあなたはわたしを変えようとはしない「あなたはあなたでいいんだよ」といっていつでも わたしをゆるしてくれた母よあなたはわたしの誇りですあなたから生れあなたに育てられたそれがわたしの何よりの誇りです「おかあさんがおかあさんでよかったよ」どうやってこの恩を返せばいいのだろうあなたはきっと何も要らないと言うでしょうでもわたしには差し上げたいものがあるのです今年はカーネーションの1本すら贈れなくてごめんねせめて この詩を おくります
2009年05月11日
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まさか「しゃびしゃび」が名古屋弁だとはね・・・!ぜんぜん知らなかったよ。じゃあカレーが水っぽいときなんて言うのさ?やかんが「ちんちん」というのも、通じないのだね。あやうくセクハラだよ・・・。「放課になる前に机をつって掃除する。」とか名古屋人しか分からないんだよね。ケッタマシーンは有名らしい。ひどく疲れると「でらえれー」って言うよね?模造紙なんて知らん。でっかい紙はB紙というんです。えびふりゃあなんて言わねえよ。とにかく「しゃびしゃび」が通じないのはでらビビったでかんわ。
2009年02月04日
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はっきり言って、ぼくはブログを書きすぎだと思う。それは自分で分かっています。ときには朝5時に起きてブログ書いているなんて、どんな中毒だと思いますが、しかし書かないことには、どうにも生きていかれないのです。これはブログじゃなくてもいいんです。ぼくは15歳くらいから7,8年ですが、ノートに日記をつけていました。それから文章を書くのが好きになったんですね。大学時代には旅行記やエッセイを書いてみたこともあります。ブログをはじめてからは、ほぼ毎日と言っていいほど、記事をアップしてきました。そのブログももう5年目です。無理に続けているわけじゃないんです。書きたいことがあふれてくるので、仕方なくそれを書いているのです。カッコよくいえば、「表現の欲求」とか言うんでしょうか。読書量は普通の人より多いので、つまりインプットがかなりあるので、アウトプットしていかないと、「情報の便秘」になってしまうのです。だから書いている。書かずにはいられないのです。この感覚、分かってくれる人は少ないでしょうけど、分かってくれなくてもかまいません。ただそれも「言いたかっただけ」なのです。この思いをいつか本にしたいなあと思っています。そんなことを考えています。
2009年01月21日
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言葉には できない愛しいという 言葉にしてしまうにはあまりにも もったいない 気持ちつらいという 言葉にしてしまうにはあまりにも おもい過去もある嬉しいという 言葉にしてしまえばそれは それだけになってしまうかなしいという 言葉なんかで片付けてほしくない言葉はせかいを切り取るからかならず なにかをそぎ落としてしまうぼくの おもいを そのまま伝えたいからほんとうは 言葉には したくないのですぼくの まるごとの 世界をあなたに 伝えたいのに
2008年10月03日
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だいちを うみをやまを かわを そらをあまねくてらす たいようはいつもいつでも ひかりかがやきおとろえることがないたといくもにかくれようともたといよるにさらわれようともたいよう それじたいは かがやきつづけるなにもいわずに かがやきつづけるだれがひかげをつくろうともだれがひかりをさえぎろうともなにもいわずに かがやきつづけるたいようは なにものにも影響されないなのに たいようはなにもかもに影響をあたえるあまりにも偉大な たいようぽっかりと屹立したそのそんざいは孤独ををこえてこどくということばをわすれてしまったのだてにふれるほど とおいそんざいたいようああ うつくしきもの
2008年09月03日
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もしもことばのない世界があったならぼくらはどうやって生きていくのだろうことばがあるからことばに惑わされることばは丁寧にあつかわないと機嫌をそこねることばでは 伝わらないことばは 自分勝手だことばを聞くことは相手を感じることそのものだことばを聞くことはじぶんをなくす作業だことばを聞くことは くるしみだだがことばを聞くことは時としてかぎりないよろこびになるそれはまるで砂漠の中にダイヤモンドを見つけるようなあてどのない旅路になるだろうだがぼくらはその道を歩いていくしかないそれしか ないのだ
2008年06月15日
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とてつもなく静かにつぶやいてみる あなた とこころなしか かろやかに口ずさんでみる きみと獰猛なやさしさのもとで 呼んでみる おまえとそれはそこはかとなくいとおしい 呼び名なのだ
2008年03月10日
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あるブログで素敵な詩を見つけたので載せてみます。「好きな人」好きな人に、会いたいです。
2008年02月06日
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いい生き方ってなんだろう。ぼくはそんなつまらないことを考える。ごちゃごちゃ考えないで、一所懸命やればいい。そんな人もいるだろう。でも何を一緒懸命に?いい生き方ってなんだろう?正解なんてないってのが正解なのかもしれないね。だけどその事実を、いかに身体で実感するのか、が大事なんだ。自分に正直になるということ。自分じしんに素直になるということ。それをジャマしているのは、きっと煩悩や邪念だ。しかし「ほんとうにやりたいこと」と煩悩・邪念は何が違うのかなあ。例のマズローに言わせれば、煩悩と邪念は第1・2段階で、「ほんとうにやりたいこと」はいわゆる「自己実現」の段階なのかな?いい生き方ってなんだろう?答えはどこにもないんだよね。きっとぼくが持ってるんだよね。「正しい生き方じゃなくて、気持ちよい生き方をさがす」そんな言葉を聞いてみたって、実感がなかったらダメなんだよ。環境には不満ないよ。なにも悪いことないもんなあ。けれどなんだか自分がふがいないんだ。誰かに誉めてもらいたいのかなあ。いい生き方をぼくはしてるのかなあ?
2008年02月05日
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ああ ぼくらにはなんど失敗してもいいのだなあどれだけ失敗してもいいのだという思いが失敗というものをなくしてしまうまちがえることは あたりまえのことだからまちがえることは ただしい道なのだまちがえないということはまちがっているあかしなのだおそれることはないただ 神の思し召しのままに安らげよ魂よ 身体よ導かれるままにいのちが それを捨てたときにまったく生かされるようにゆだねた身体は 底からかがやきだす人生をにんげんを思い通りに動かそうとするななすがままに大きなものの流れに身をゆだねよ信じるのだいや信じるしかないのだわたしはどうでもいいわたしを捨ててしまえわたしよりも大切なものがあるわたしは限りなく透明になりたいわたしはかぎりなく透明になりたい
2008年01月27日
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ああ あなたの かなしみがかぞくという名の 大地に木漏れ陽のように 滴るああ あなたの さみしさが孤独という終末をこえて森の涙のように きこえる生きてくるのは 大変だったでしょうここまでくるのは 大変だったでしょうぼくの あい知らぬところで いろいろな苦労があったでしょうわかってあげられなくて ごめんねぼくの いのちが まだなかったからあなたと あなたと あなたと そしてあなたでそして ぼくがここにいるぼくにできることは なにかなあ?ひきつがれた いのちをたいせつにして先祖代々の血を洗うことはできるのかなあ?ああ あなたの かなしみがああ あなたの さみしさが愛し合うひとびとが流す汗のようにじわりじわりとにじむときぼくのいのちが 緋色にかがやきだすのです
2008年01月22日
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おまえにぼくの大嫌いな「約束」をあげよううそをつくのが嫌いだから約束はなるべくしたくない守れない約束なら しないほうがいい未来はいつも白紙でなにがおこるかわからない決めておかないほうが ラクなこともあるけれど ぼくはおまえに「約束」をあげようあの日 覚悟を決めたからあとは この道を歩くだけだ
2007年11月08日
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言葉は発せられる瞬間にはもう力を失っている。言葉は生まれる瞬間がいちばん強烈なのだ。言葉が生まれるときを観察せよ!そこにあなたがある。そこに世界が生まれる。言葉がうまれた事後に、なにかしらの努力をしてもムダだ。言葉がうまれる瞬間に最大の集中をそそぐのだ。しかしほんとうは、ことばなど生まれない方がいい。世界は崩壊した瞬間にひとつになる。NO BOARDERカップヌードル。
2007年10月07日
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ぼくが「キミ」といえばおまえのことなんだよぼくがいう「あなた」もおまえのことなんだよYou、英語で呼んでみてもねそれはおまえをさす二人称は目の前にいる人に使うそれはきまっていない「誰か」だけどぼくが「おまえ」と歌えば、それはおまえのことなんだよそれってすばらしいことだとおもわないか
2007年10月03日
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息をしてみようときに立ち止まり空をあおいでゆっくりとすずやかにそして あたたかな 息をときに逃げ出そうおそろしい出来事からおぞましい人間から眠れない夜からキリキリいたむ胃腸からそして立ち向かおうまぎれもないじぶんじしんにウソや大義のないじぶんじしんにはだかのままの じぶんじしんにみずからの命のともしびがこの世から消えゆく瞬間を想像しよう「大切なもの」はどこにある?「大切なもの」はここにある後生大事にかくまってるくだらない名誉やちっぽけな財産やこざかしい知恵やどうでもいいプライド忘れてるもの失ったものなくしたもの捨ててしまったもの息をしてみようすずやかにたおやかにしなやかにゆるぎなくゆたかな息をおびえないでおそれないであせらないでゆるやかに空のように海のように大地のようにはるかなるとこしえのあてどない息を忘れてみよう小さなことは忘れてみよう忘れたらきっと 思い出す捨てたらきっととりもどす「大切なもの」を
2007年10月01日
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おまえと過ごす時間はいつも ゆっくりと流れるおまえがそばにいるときは時がはやく流れるけれどもどこかがゆったりとしていて時を忘れて 未来を忘れて今がいまになりぼくはそこに存在するおまえは何も考えていないけれども ぼくよりたぶんかしこいあたま悪いやつって何にも考えてないんじゃないつまらないことばかりかんがえてるんだぼくはときおり未来に住んでいるあんたバカねと「ここ」に引き戻してくれるのがおまえそんなことをいちいち言葉にはしないけれどもおまえはあせることはないんだよと教えてくれるぼくはぼくのことを心配しあまりに心配をしないおまえのことをも心配するなにもかもが正反対でたまには納得いかないときもあるけどねでもおまえのおかげで人生100倍ゆたかになったと思ってんだ過去に生きるよりは未来に生きたほうが良いけれども未来に生きるよりも今に生きることがなによりも大切なことなんだぼくの「いま」と おまえの「いま」がかさなり合うことだけでいとおしく くるおしく時間が流れるんだよ
2007年09月29日
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ぼくらが持っているものぼくらはぼくらじしんではなくみずからが「所有するもの」を自慢しようとする叔父さんが会社社長だとかお母さんが美人だとか弟が有名大学に合格しただとかいいクルマといい家を持っているだとか息子が女にモテるとか貯金の額が8ケタ以上とかじぶんじしんではなく「価値のある」と一般に言われているものにじぶんが関係している、という事実について誇りをもつそうしてだれかを見下したりバカにしたりしてじぶんの「価値」があがったような錯覚をおこすのだそしてそれに「しあわせ」などと名づけたりするぼくのちかくにいる人が「価値」のある人でもぼくの「価値」には何の関係もない着の身着のままで 生まれたままの姿で要らんもん全部捨てたときぼくらが誇れるものってなんだろう想像してみようことばもともだちも家族もないまっくらな「死」の世界を 目前にしてぼくらの寄る辺となるのはなんだろうぼくらはきっとだれかに「所有物」を自慢したことを恥じるのではないだろうかだれかをバカにして笑ったことを悔いるのではないだろうかそしてだれかを愛し たいせつにしたことを 誇りにおもいだれかに愛され だいじにされたことを 懐かしくおもうのではないだろうかきっと思い出すのは じぶんの笑顔じゃなくて だれかの笑顔なんだろうなにをもとめているのだろうどうして要らないものをほしがって くるしんでいるんだろう思い出してみよう裸のじぶんをきのみきのままのじぶんを何にも持っていないし何にも要らない生まれたままのじぶんを
2007年09月21日
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夕方がおりてきてひなびた定食屋の豚汁をずすりとひとくちふくんだときそのくちのすきまからきみのなまえが ほろりとこぼれたねえきみのなまえが ほろりとこぼれたんだよ豆腐サラダの豆腐がくずれないようにもういちど きみのなまえを よんでみたそして三つ葉をほうばったそれからごはんをかきこんで豚汁を飲み干したらもう月のキレイな夜でしたきみのなまえが ぼくからこぼれおちないように今夜は口は閉じて ねようかな
2007年09月20日
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「わたし」が「わたし」を語るとき「わたし」はかならずウソをつく。なぜなら「わたし」は「だれか」によって規定され、「わたし」はかならず「だれか」のあとに存在する。「わたし」が「わたし」を理解したとき、そこにかならずズレが生まれる。「いま、21時36分52秒だよ!」と叫んだ瞬間、21時36分54秒になっている。「わたし」は正確な時間を語ることができない。ぼくらが話す「ことば」は色んな意味で、ものすごく遅いのだ。「ことば」はいつまでも遊びなのだ。「ことば」は海よりも深くて面白いけれど、あくまでも遊びなのだ。「ことば」に真剣になると、頭が狂ってしまう。「ことば」は無限なのだ。「ことば」は永遠に現実になりえないが、しかし現実につよい影響をあたえる。ことばは、「だれかの」世界だからである。ことばは、「だれかひとりの」世界なのである。理解はかならず誤解なのだ。そして誤解はかならず真実である。「わたし」が「わたし」を知ったとき、ひとりの「わたし」が死んでいる。「わたし」は知られた瞬間に死ぬのである。そしてまた「だれか」を知ったとき、ぼくらは誰かを殺すのだ。知ってはならない。分かってはならない。あなたは初めてスイカをみた。あなたはスイカを切った。すると赤い部分が出てきた。そして云うだろう。「中身はこうなっていたということが分かった」と。しかし、ほんとのスイカはまるごと丸いのである。外からは赤い部分が見えなくて、ミドリとクロの縞々になっているのが、普通の状態なのである。ぼくらはスイカを切ったとたんに安心してしまう。中身が赤いということを知り、安心してしまう。食べたら甘くておいしいということを知り安心してしまう。種は食べられないと知り、安心してしまう。あなたはスイカを見たのが2度目である。あなたは「スイカ。わたしは知っている」と云うだろう。あなたはそれを切れば中に赤くて甘くておいしい実が入っていると思い込むだろう。そしてあなたはスイカを切る。そして「無知の」みんなに言いふらすだろう。「ほら、赤くて甘くておいしいでしょう?種は食べられないわよ」と。あなたはスイカを見たのが3度目である。あなたはスイカを「知っている」と思い込んでいる。そしてメロンを食べた。そのスイカの実が黄色いとも知らずに。ぼくらは永遠に無知なのだ。そして永遠に無知でなければならない。知らないという方法を持たねばならない。知らないということは、畏怖することである。「わたし」は「わたし」を知らないということ。つまり「わたし」が「わたし」を尊敬すること。経験は、半分が役に立つ。そして半分が足を引っ張る。経験は諸刃の剣である。同様に、知も諸刃の剣である。わたしが知の技法におぼれるとき、わたしはまるごとの叡智に復讐されるだろう。「知る」の対義語は「待つ」である。「わたし」は「わたし」を待つことだけができるのだ。
2007年09月17日
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出来合いの幸せを ぼくにゆずらないでください社会が幸せだと名づけた何かをぼくに押し付けないで下さい幸せという名前の既製品を一生懸命になってさがさないで下さいつくられた幸福は 世界中のどこにも落ちていません完成された幸せを あがめないでください幸せの象(かたち)に嵌め込まれることを幸せと呼ばないで下さいとんでもない何かを手に入れようとして大切ななにかが指の隙間からこぼれおちていくことに気づいてください今がここにあることのとてつもない幸せをゆっくりと味わってみてください
2007年08月30日
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ぼくは「日本語でかんがえる」ということが大事だと思っているんです。日本語、というか和語ですね。なるべく漢字を使わないような言葉で考えるということです。たとえば「関係する」というのは「かかわる」「生命」というのは「いのち」というふうに、できるだけ漢語を和語に置き換える。そしてその言葉をゆっくりと味わっていくと、こう、言葉がほどけてくるわけです。そのとき言葉は愛になる。ぼくは言葉の本質は愛だと思ってるんですね。愛ってなんだよと言われるとはたと困るのですが、たぶん愛は「いま」にしかないのです。愛には時間がない。永遠の愛ということはありえません。なぜなら愛という瞬間が永遠だからです。って、ここまで書いてきて思いましたが「愛」というのも漢語ですよね。和語にしたら何なんだろう。仮説ですが、「いま」というのがいちばん適当な気がします。「いま、ここ」でもいいですが、相田みつをさんのパクリみたいになりますからね。ここにあるのは今だけだ。とてもカンタンな文言ですが、身体で実感している人は少ないのではないでしょうか。「分かっている」と思った時点で永遠に分からなくなります。身体を開いて、世界に耳をかたむけること。それが聞くという行為だと思います。そういうと愛は聴くことだともいえるでしょう。なんだか何が言いたいのかわからなくなりました。
2007年08月10日
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「いらっしゃい」じゃなく「おかえり」といって迎えようとドアにむかって駆けだした そのときまるで決まっていたみたいに きみは「ただいま」と言った夢みる少女じゃないけれど赤い糸を信じたくなった 夏なあ おまえ千の夜をこえたら俺と一緒にしあわせになってみないか
2007年07月26日
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愛はかなしみ愛はやさしさ愛はひとつになること愛は絶対愛ははかなさ愛は孤独愛は距離愛は憎しみ愛は犠牲愛は思いやり愛は献身愛は失うこと愛は捧げること愛は観察愛はゆるすこと愛は争うこと愛はつつむこと愛は選ばないこと愛は考えないこと愛はエロス愛は何もしないこと愛は偏在するがゆえに、どこにも存在しない愛は・・・
2007年07月19日
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ことばは、なくなるために存在する。
2007年07月13日
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そんなに計算せんでええ頭つかいすぎたらバカになるそんなに計算せんでええこざかしいことが なによりも愚かみんな悪気はないんだよお前を傷つける気はないんだよ偶然を恨んでどうしようというのだテクニックで生きようとするななにかを分かった気になるな意地悪な人は捨ておけ見下す人はほおっておけこざかしいやつほど 嗤いたがる笑わせておけ勝手に計算させておけバカにさせておけおてんと様はちゃーんと見とる空の上から いっつも見とる神様は ぜったいにお前を嗤ったりしない神様は やさしく見守ってくれとるだから まっすぐ生きてみぃもっと 正直に生きてみぃ むずかしいことは なーんも要らんのんじゃ勝とうとせんでええ負けたってええいんや 負けるしかないんじゃ神様の前ではなみんな誰しも 神様には勝つことができんのんじゃだから こざかしい計算だけはやめんしゃいこころ大の字にして寝っころがっとりゃいいんじゃこころ大の字にして寝っころがっとりゃいいんじゃ
2007年07月07日
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ことばを捨てなければならない。ことばは捨てれば捨てるほど、その意味が鮮明になる。ことばこそが、「そのものまるごと」を殺してしまうのだ。暑い。夏だ。というか梅雨だ。蒸し暑いよ。はい、じゃあここで「あつい」ということばをなくしてみましょう。そしたら、どんな「感想」が出てくるでしょうか。なんか汗ばんでくる。ベタベタする。息苦しい感じさえする。扇風機つけたい。クーラーつけたい。つめたいお茶飲みたい。アイス食べたい。まだまだあるとは思いますが、主なものはこんなところでしょうか。つまり上に書いたようことが、ぼくらが「あつい」と言っているときの「正体」だったのです。ぼくらは以上のような「感じ」を総合して「あつい」と言っているわけです。だから、同じ「あつい」でも実はいろんな「あつい」があるんですが、まあそこまではやってられないので、とりあえず「あつい」にまとめとこか、というのが「ことば」ということです。ぼくらはことばにとらわれがちです。あることばを聞くと、それに対応する対象があると思い込んでしまいます。それは「好き」ということばにとらわれて、まるで「好き」という感情というもの、が存在するような錯覚におちいってしまうようなものです。このあたりはちょっとむずかしいので、今日はこのへんまでにしておきましょう。とにかく、一度「ことば」を消してみてください。「明日も仕事だ」の「仕事」ということばがないとしたら?「あいつむかつく」の「むかつく」がないとしたら?「俺はダメ人間だ」の「ダメ人間」ということばがないとしたら?「わたしのカレはやさしいの♪」の「やさしい」ということばがないとしたら?こういう実験をしていくと、自分がなにをどうとらえているのかが分かってきます。ぜひやってみてください。
2007年06月28日
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会いたいと 思ったときに すなおに会いたいと 言えばいいものをなにかしら たとえばわたしは会いたくない というようなセリフとかいまは会えない というようなあたりまえの 事実までがそぞろおそろしく それがゆえに ためらいそこから ゆがみ 何時のまにやら会いたい というきもちはなぜ会ってくれないのだなぜ会いたいといってくれないのだという不可思議な いかりに変わったりして その傲慢は 自分でも 承知しているのだがいかようにも止めることはかなわずこの ふがいなき こころを嘆いたりして自由にせよと云われても 到底 わたしは自由にはなれずよりかかろうよりかかれよとわたしの「意見」とは まったき対極なる自由をうばいあうような 状態をもとめるこの ままならぬ こころよ 会いたいどうしても 会いたいのに
2007年06月07日
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言葉というのはまるで人間のように関係性のなかに他とのかかわりとの中に生きるのであってつまり言葉というのは存在しないということがその意義なのであってもっと言えば文脈がないかぎりその言葉をとらえることはできないわけで相手の文脈でなく自分の文脈ばかりを利用しているとぜったいに他人の話を聞くことはできずそれがわからなければやみくもに相手の単語単語に反発するだけになるたとえば「あきらめることはあきらめないことだ」とぼくが言ったとしてこの文言を見た「瞬間」にまったくどんな思考もせずに矛盾してるなんて叫ぶのであればそれはまったく文脈というのを知らないのが露呈してしまう対話は数学ではないのだ
2007年05月29日
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あいするひとよあなたをしあわせにしようとしてすこしのくるしみも あたえまいとしてわたしが わたしでないだれかになっていたことにあなたはくるしんでいたわたしでないだれかはとてもおおきく 寛大で りっぱなひとでしたしかし それはわたしではなかったそして あなたはくるしんだわたしはあなたのためにわたしをすてたあなたをひとりじめしたいがためにひとりのこされることをおそれるがゆえにああ、おろかなるわたしはまず おろかなるわたしをゆるそうわたしはこのままで ここにいていいのだとさかしき知慧をもとうともおさなき感情をいだこうともそう すこし世間とずれていようともわたしはわたしのままでここに ゆっくりと ゆたかにそしてちっぽけに存在してもいいのだとそれから わたしは あなたをゆるそうもしか あなたが わたしをあいそうともたとえ あなたが わたしをきらおうともそのことにはかかわらずわたしは あなたが あなたのままでそっと おだやかに そしてむじゃきに存在してほしいと おもういま わたしはほこりをもって こころからありがとうと あなたにつたえたい
2007年05月28日
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たいようが かがやいているそらが あおくくもが しろくくさきは わかく もえる国道をはしる くるまがひかりを反射して かがやいて はたらいてそれだけで うれしいそれだけで よろこばしい初夏の かぜそれだけで いいじゃないのって おもえてくるないものより あるものをかぞえるそんな生き方 できたらいいなってそんな生き方 してみたいなっておもったりする
2007年05月24日
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ひとつの花がさいたときふたりのあいだにはみっつめのいのちが やどりよっつのおもいでをつむいだらいつつの夜をこえむっつの朝をむかえるななつのケンカのあとにはやっつの仲直りがあってここのつのくちづけをとわに きみに贈ろう
2007年05月09日
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