1

小出川の彼岸花は何度もアップしておりますが、今年は1週間前が見頃であったが、その後の台風25号の襲来等で気になり尋ねてみた。第19回 小出川彼岸花まつり ・2026年9月26日(土) 10:00 ~ 15:00 小雨決行 雨天時順延 ・ところ 小出川沿い 大黒橋 ~ 寒川町青少年広場 3km ・鑑賞期間 9月下旬 ~ 10月上旬頃 ・催 し 式典 (打戻会場)、模擬店、休憩所など ・スタンプラリー開催! 9月26日(土) 9時から15時まで。9月26日(土) 10:15この日も曇り空で今にも雨が降りそうな天気で愛車のノートで出かけた。小出川に架かる小出橋手前に駐車して遠藤会場へ。ここ小出橋から上流側にある遠藤会場へ。両岸に赤い彼岸花が咲いているのだがやはり咲き終わっていた。下流側も咲き終わっていた。富士が見えるポイントだが。まつり期間中の車乗り入れは「進入禁止」に。看板に「お知らせ」 令和8年6月の台風6号による影響で河川堤防の一部が破損しましたので、土のうで復旧 しました」と。後関係者に聞くと「先日の台風25号でも大雨が降りこの辺りの小出川は氾濫した」と。彼岸花は終盤であったが、おまけに小出川の水位上昇で彼岸花も倒れていた。ズームアップ。スタンプ場所「④ 遠藤会場」。テントの下にはかつてのお嬢さん達が大勢待機しておられた。この上流側約200メートル程に大黒橋がある。スタンプ台紙を頂きスタンプを押して頂いた。ここで4カ所のスタンプを終えると粗品は「栗or野菜等」であった。④ 遠藤会場の上流にある大黒橋から下流の追出橋まで約3kmが彼岸花コースになっている。遠藤会場所在地:神奈川県藤沢市遠藤5566会場の一角に奉賛金の貼り出し、「藤沢市観光協会 金拾萬円也」「湘南慶育病院 金三萬円也」「他 金壱萬円也」が多数。柿畑の下が休憩場所に設定されていた。屋台も多く出店していたが現金を持っていなかったので買うこともできず。この方はまつり関係者で「台風25号の雨はすごかった」と。やきいもを100円で販売していたが、auPAYはダメかと聞くが。遠藤会場から小出橋へと下る。小出川沿いの彼岸花は水があふれ無残になっていた。駐車していた小出橋へ戻る。遠藤会場から打戻会場へ移動。打戻会場の臨時駐車場へ車を預け歩いてスタンプをもらいに。大庭獺郷線の打戻根下交差点の西側に設けられており仮設トイレもある。大庭獺郷線を東側へ戻る。路面歩道は先日の台風25号で泥が溜まっていた。神奈中バス「根下(ねした)」。畑の中に打戻会場のテントが見えていた。行き先表示は、次は、堂の前「堂の前 ⇨ 古里団地 ⇨ 綾瀬車庫」と。畑の中に元衆議院議員「あべともこ」と。ポスターには「掲示責任者・衆議院議員・小児科医」とあったが政党は?。畑ではキャベツが成長していた。この辺りの小出川は溢れなかったようだ。ここの会場ではいつも野菜が売られている。スタンプ場所「③ 打戻会場」がある。打戻会場所在地:神奈川県藤沢市打戻3454会場は紅白の幕で囲われ10時から式典があったようだが、来賓は藤沢市のどなたであったか。茅ヶ崎市なら市長だが。スタンプを頂き、小出川の上流側を望むこの辺りの川幅は狭く、大雨で河川敷の葦は押し倒されていた。稲穂には泥の付着は無く難を逃れたようだ。上流側の遊歩道を見る。ロープが張られていた。遊歩道をズームアップ。小出川沿いから打戻会場を見る。そろそろ稲刈りに。打戻会場から駐車場へ戻る途中、小出川沿いを見る。新道橋辺りをズームアップ。大庭獺郷線の北側は傾斜地になっており畑、養豚場が多数ある。サトイモも成長、今年の出来栄えは、雨が多かったので豊作ではと。広場の隅にざる菊が植えられていた。打戻根下交差点この交差点を右折すると「みーとはうすカネコ」がある。養豚場直販の肉店で、豚肉、野菜の他、コロッケやメンチカツを販売している人気店。信号の下に立て看板があり、「宵宮祭・例大祭(九月第三土・日) 延喜式内社 宇都母知神社」とあった。臨時駐車場から小出川の新道橋へ。先週の9月18日(金)には稲刈りをしていた。まだ稲刈りをしていない田には案山子がお守りだがこれだけ長雨になると狩り時が。第2仮設橋北側にスタンプ場が設けられていた。台風25号で水位が上がったようで堤下の草木が倒れていた。スタンプ場所「② 第2仮設橋前」。いつもは近くの慶應大学の生徒がボランティア活動していたがこの日はおじさんが。仮設橋上から上流側の新道橋を望む。同橋から下流側を望む。一週間前は左下の彼岸花群生地は満開であったが。台風の影響か、見頃は過ぎていた。最下流会場の寒川町にある「おおぞう会場」へ移動。おおぞう会場所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田8丁目25-6 寒川青少年広場幟旗には「寒川町観光協会」「大蔵自治会」「スタンプ受付」と。「① おおぞう会場」。受付のテントもあり奉賛金の受付であろうか。寒川町観光協会で4つ目のスタンプを捺印、粗品の花「ペンタス」を頂いた。いつもはこちらの芝生広場が会場なのだが。芝生広場の隅に紅白の彼岸花が咲いていた。小出川 彼岸花群生地小出川沿いの彼岸花(曼殊沙華)は、上流の里山などから大水により球根が流れ込み、古くからこの地域に自生していました。平成15年頃から流域の彼岸花保護団体が相次いで組織され、増殖・保全活動に努めています。開花期(9月中旬頃)には、上流の大黒橋から下流の追出橋まで両岸3キロが紅の帯に染まり、周辺の小山の緑とのコントラストは見事で、絶好の散策コースになっています。 ― みんなで大切に育てましょう ― 〇 小出川護岸清掃にあわせて、彼岸花の育成も手がけ環境保全に努めています。 〇 流域団体と協調して延長3キロを紅の帯に染め、環境資源の育成を目指しています。 〇 毎年9月の下旬の開花にあわせて大会を開催し、来場者を歓迎しています。 〇 彼岸花の球根は路肩に植栽されています。車などで踏みつけないようお願いします。 寒川町・おおぞう彼岸花の会大黒橋から約3キロ下ると川幅も1~2メートルから10メートル以上になっている。このあたりの彼岸花も終盤になっていた。紅白の彼岸花をズームアップ。芝生広場は草が伸びていた。幟旗には「国際ソロプチミスト寒川」と。国際ソロプチミスト寒川のテントで、昼食用にお弁当”ちらしずし”を2個、揚げパンを購入した。広場ではおどりも。11:35 皆さん高齢の方でご苦労様です。婦人会も多くの高齢者の方が野菜等の販売、ジャガイモ、サツマイモを夫々100円で購入。まつり会場スタンプラリー今回頂いた「ペンタス」、右は数年前に頂いたものである。 END
2026.09.27
閲覧総数 26
2

海老名市南地域の本郷地区を散策した。本郷地区は市内南東端に位置し、相模野台地から相模平野にかけて広がる。北部で中河内・上河内・杉久保南、東で綾瀬市吉岡および藤沢市用田、南で藤沢市宮原及び高座郡寒川町倉見、西で門沢橋・中野とそれぞれ隣接している。9月12日(土) 14:15この地域は、住宅地としての側面と、多様な事業所が点在する地域として発展している。工場前のバス停バス利用者が多いようで屋根付きのバス停が長い。富士フイルムビジネスイノベーション 富士フイルムマニュファクチャリング 海老名事業所所在地:神奈川県海老名市本郷2274複合機、プロダクションプリンターおよび関連商品の開発・モノ作り技術の基幹拠点である。門扉に「もみの木門」と。富士フイルムビジネスイノベーション株式会社 富士フイルムマニュファクチャリング株式会社 海老名事業所富士フイルムの工場フェンスに説明板と擬木柱。本郷遺跡この周辺は旧石器時代から江戸時代にかけての遺跡で、工場の建築に伴い、昭和46年から大規模な発掘調査が行われました。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、環濠集落と呼ばれる深い溝で囲まれた集落跡が発見され、小銅鐸を使った祭祀や、管玉などの玉作りが行われていたことがわかりました。奈良・平安時代の遺構としては、掘立柱建物跡、竪穴建物跡、井戸跡などが発見されています。掘立柱建物跡の中には4.4×23m以上もある長大なものや、庇がある特殊なものもあります。墨で文字が書かれた土器も多く出土しており、郡の有力者に関係する集落であった可能性があります。 貴重な発掘調査成果は各時代の生活や政治文化を知る手がかりとなっており、神奈川県内のみならず、全国的にも著名な遺跡です。 海老名市教育委員会 令和4年3月左上 ▲ 小銅鐸 高さ約8㎝ (弥生 ~ 古墳時代) 祭祀に使用されたとみられます。右上 ▲ 製作途中の勾玉や管玉 (古墳時代) 竪穴住居跡から出土しています。左下 ▲ 「あ」と書かれた土器 (平安時代) ひらがなが書かれているものは希少です。右下 ▲ 長大な掘立柱建物跡 (奈良時代) 柱穴が連続して掘られています。擬木柱には「ほ 本郷の遺跡から出た小銅鐸」と。海老名市には「海老名郷土かるた」の歌や解説が書かれた擬木柱(ぎぼくちゅう)が市内各所に設置されている。昭和52年(1977)に作られ現在41基ある。外国からの労働者が多いのか多くの方とすれ違った。駐車場脇に「たけのこ」と書かれた看板。かつては竹林が多かったのか。富士フイルムの正門前から県道22号線(横浜伊勢原線)の本郷神社入口交差点へ戻る。いつも渋滞している横浜伊勢原線である。本郷神社所在地:神奈川県海老名市本郷2257明治7(1874)年3月に、神明社・八幡社(八幡宮)・山王宮・白山社・稲荷社が合祀されて五社宮と称するようになった。その他に、境内神社天満宮がある。大正5(1916)年10月に本郷神社と改称、村社に列せられた。社号標石に「村社本郷神社」と。広い境内の右側に、神楽殿、神輿殿、社殿が建っていた。また境内には海老名市自然緑地保存樹木である3本のケヤキが聳えていた。本殿・拝殿は昭和8(1933)年4月に新築され現在に至る。また、昭和8年10月には白山社・稲荷社が合祀された。鳥居を潜ると右側に境内神社の「本郷天満宮」が鎮座している。天満宮には新しい石燈籠、狛犬が奉納されていた。本郷神社の境内に建つ「ふれあいの家」。ここ本郷地区は2年前にブログアップしており詳細は「寺社史蹟巡り」👈をクリック願います。よって今回は本郷神社は山門からの撮影のみで次の場所へ移動した。境内には子供の遊具施設があり子供連れの方が休んでおられた。本郷神社入口交差点。駐車場は鳥居前に数台のスペースがあった。次に訪れたのは今まで見落としていた「石造宝篋印塔石灯籠」。毎日新聞首都圏センター所在地:神奈川県海老名市本郷2700-1毎日新聞社の首都圏をカバーする印刷工場。新聞の他に商用印刷も可能な新時代の工場である。門前の幟旗に「めだか」と。かつて3月に「舞めだか 春の陣IN神奈川」が開催されていた。門扉に「株式会社高速オフセット 首都圏工場」と。毎日新聞首都圏センターの門前を東へ走ると突き当りに目的地があり道路脇に駐車。ナーサリースクールT&Y本郷所在地:神奈川県海老名市本郷2693平成29年(2017)5月に開園した鉄筋コンクリート造りの保育園である。道路脇に車を停め緩い坂を下る。左側の保育園からは園児の元気な声が聞こえてきた。坂を下ると右側に鳥居と祠が見えていた。Googleマップには載っていないが稲荷社であったか。説明板等が無く詳細は不明である。石造宝篋印塔石灯籠所在地:神奈川県海老名市本郷3067史蹟群は幅一間半、長さ5間程の狭い敷地にあり背面は斜面になっていた。その敷地に釈迦堂、宝篋印塔、石燈籠、記念碑が立っていた。海老名市指定の重要文化財。石造の宝篋印塔は高さ3.19mで承應3(1654)年に建立された。台座の銘文から大阪堺の僧不休をはじめとして摂津住吉、海老名の本郷を中心とした近郷、近在の130人からの援助により建てられたことがわかっていると。記念碑と銘板ステンレス製の銘板に、「海老名市指定重要文化財 常念寺(現在廃寺) 石造宝篋印塔石灯籠 平成5年4月1日指定 海老名市教育委員会」と。記念碑この地に安置されている釈迦立像宝篋印塔石塔篭等の石造物は今から三百四十年程前栄えた常念寺 (通稱お釈迦様) の面影を偲び我々の先祖を語る貴重な遺物です。この度周辺道路の拡幅工事が行われるにあたり、釈迦堂の再建と境内を整備し、この遺物が後世に末永く伝承されることを念じ、記念碑を建立す。 平成三年四月八日 本郷□お釈迦様保存会釈迦堂釈迦堂の中には石仏が三体あった。阿弥陀如来像であったか。こちらの石像には台座に「大日如来」と刻まれていたが。破損したのか首の部分が補修されていた。堂内に貼られていた、「ここに掲示されている和鏡と鉦は、昭和51年5月23日(1976)この地に安置されている 宝篋印塔の下から出土した室町時代のもので、用途としては神(信仰の対象)としての和鏡 装飾宝物としての鉦といわれる貴重な文化財です。この度境内整備を行うにあたり往時を 偲び元の宝篋印塔の基に納めたので模写品として掲額す。 平成3年(1991)5月 お釈迦様保存会」。 高さが3.19mもあるこの宝篋印塔は近年の地震で倒壊しなかったのか。宝篋印塔の後ろに石塔が立っていたが風化して字は判読できなかった。石燈籠石灯籠は、高さ1.65mで建立時期や発起人も宝篋印塔と同じであると。釈迦堂後方から見る。玉垣も整備されていた。14:30石造宝篋印塔石灯籠を後にした。この後空が怪しいのでこの日の目的地である「海老名の案山子」へ向かった。 ー continued ー
2026.09.22
閲覧総数 54
3

最近は毎週金曜日の朝刊と一緒に配布されるタウンニュース茅ヶ崎版の記事内容を参考に愛車のリンちゃんで ”チャリ散歩”をしている。この日は、茅ヶ崎中央公園に『キャンピングカー大集合』と。8月6日(土) 13:30自宅を出る時に妻に「良いのがあったら契約するよ」と伝え出かけるが、決断が10年遅かった。右側は国道1号沿いから茅ヶ崎市民文化会館への歩道橋。タウンニュース 茅ヶ崎版 7月29日(金)号の記事。茅ケ崎市 ”災害時キャンピング車活用” 民間事業者と協定締結市は7月22日、大規模な自然災害が発生した際にキャンピングカーを無償で借り受ける協定を民間の事業者と結んだ。蓄電設備を備えた車両の特性を生かし、停電時でも避難所を訪れた市民が携帯電話やスマートフォンを充電できるようになるという。写真は、上:協定の締結式で覚書を交わす佐藤市長と提供事業視野の青木社長。 下:一例として紹介されたキャンピングカー。市が協定を結んだのは、軽自動車を利用したキャンピングカーを製造・販売しているクルーズカンパニー(藤沢市・青木秀之社長)。市がキャンピングカー事業者と災害協定を結んだことを記念して8月6日(土)・7日(日)に、中央公園で「ちがさきキャンピングカーフェス」が開催される。昼食後暑い最中に訪れたが既に多くの市民が自転車で訪れていた。茅ヶ崎中央公園の石碑所在地:神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎2丁目3-1広々とした芝生スペースのある大型都市公園。ピクニック エリアもあり、季節ごとの屋台やイベントが楽しめる。敷地は約40,000㎡で専用駐車場はない。茅ヶ崎市は2020年11月19日、中央公園のネーミングライツ(命名権)パートナーの優先交渉権者として、市内萩園の第一カッター興業(株)を選定したと発表した。提案されている愛称は「第一カッターきいろ公園」。同社のコーポレートカラーは黄色で、「利用する市民が心を弾ませ、楽しい気分になるコミュニケーションスペースである公園のイメージを色で表現しました」としている。新たな財源確保などを目的に今年9月〜10月に募集。市HPでの周知や意見募集を経て、来年1月にパートナーとして正式決定する。採用されれば市初のネーミングライツ導入施設となる。契約は2021年4月から26年3月までで、年額120万円(税込)。茅ヶ崎中央公園は、「かながわの公園50選」に選ばれた茅ヶ崎市民憩いのスポットである。公園の入口に赤トンボを作曲した山田耕筰に因んだピアノのモニュメント。公園に聳える大樹の下に、キャンピングカー。西側の市民文化会館の方向に黄色のテント。キャンピングカーの展示や相談会に加え、起震車による地震体験。震度は「5」程度であろうか、床に伏せて対応。災害時用トイレの展示コーナー。太陽光パネル、仮設トイレとトイレ用テント小屋。公園内には多くのキャンピングカー。50台近くあったであろうか展示車の配置図がなく反時計回りに見学することに。普通車のワゴン車を改造したキャンピングカー。HIACE SuperLong VeSseL ベッセル・J出展社名:株式会社 ビークル所 在 地 :埼玉県草加市谷塚仲町287上記キャンピングカー「ベッセル・J 価格表」 税込み価格 ● キャンパー特装車ベース 2WD 6AT 2.7ガソリン \5,467,000 4WD 6AT 2.7ガソリン \5,775,000 2WD 6AT 2.8ディーゼル \5,951,000 4WD 6AT 2.8ディーゼル \6,259,000● DXベース 2WD 6AT 2.7ガソリン \5,115,000 4WD 6AT 2.7ガソリン \5,423,000 2WD 6AT 2.8ディーゼル \5,599,000 4WD 6AT 2.8ディーゼル \5,907,000乗車定員/就寝定員:9人/3+3人。車両本体価格 \5,467,000、この展示車の価格は、\5,614,000(諸費用等別途で税込)。我が家の駐車場には少々大きすぎるようだ。次のコーナーにはトレーラータイプ。出展社名:TACOS(タコス)所 在 地 :本社工場 東京都立川市西砂町3丁目-29-6事業内容:キャンピングカーの製作・販売、中古車販売。TACOS製品キャンピングカーのLINE UP。トレーラータイプで先頭部にはオプションで「100Vエアコン \100,000」。ボディーには「現実的 \2,110,000 +税」と。値段は手頃だが移動するのが大変では、自宅の庭に置くのも良いが!。車内で寝る場合は組み立てて対応。出展社名:カトーモーター所 在 地 :新潟県燕市小髙6245-1事業内容:キャンピングカーの製作・販売、中古車販売。車内は豪華な家具調に仕上げており、電子レンジ、冷蔵庫、調理台等がある。車 両 名 :ライラ乗車定員/就寝定員:5~6人/2人。ベース車:ハイエース、排気量:2,000CC、燃料:ガソリン、駆動方式:2WD FR車両本体価格 \5,373,500、この展示車の価格は、\5,593,500(諸費用等別途で税込)。この車も我が家の駐車場には少々大きすぎる。出展社名:有限会社 輪栄プロダクト(リンエイプロダクト)所 在 地 :埼玉県川越市福田1040-4事業内容:キャンピングカーの製作・販売で職人が一台一台丁寧に造り上げます。くるま旅 一般社団法人日本RV協会会員車 両 名 :ファシールバカンチェス プラムL乗車定員/就寝定員:6人/2人。ベース車:ハイエース ロング、排気量:2,000CC、燃料:ガソリン、駆動方式:2WD FR車両本体価格 \5,053,400、この展示車の価格は、\5,454,900(諸費用等別途で税込)。ハイエースがベースのキャンピングカーは大きすぎる。出展社名:有限会社 輪栄プロダクトボデーにはいろんな説明が貼られていたが。入口には新型コロナ対策で消毒が用意されていた。車 両 名 :バカンチェス プルマンD乗車定員/就寝定員:4人/4人。ベース車:ハイエース ロング ハイルーフ、排気量:2,000CC、燃料:ガソリン、駆動方式:2WD FR車両本体価格 \5,635,300、この展示車の価格は、\5,974,100(諸費用等別途で税込)。就寝定員が4人のため2段ベッド。子供を含んだ家族連れ用であろうか。こちらも、出展社は、有限会社 輪栄プロダクト車 両 名 :バカンチェス プライベート乗車定員/就寝定員:6人/3人。ベース車:ハイエース ロング ハイルーフ、排気量:2,000CC、燃料:ガソリン、駆動方式:2WD FR車両本体価格 \5,276,700、この展示車の価格は、\5,615,500(諸費用等別途で税込)。大きなテレビもセットされている。パンフレットは「埼玉・岐阜・大阪・新車製造販売」。展示場の一角では、「えぼしの雫」を販売。茅ヶ崎でとれた魚に、塩だけを加えて発酵させた旨味調味料です。無添加食品ですので、離乳食からエスニックまで幅広く色々な料理にお使い頂けます。キャンピングカーはハイエースから軽自動車タイプへ。ベッドの下には荷物を収納するスペースを確保している。上記キャンピングカーの前に掲げられた、車名:トヨタ ハイエース スーパーロング 現金価格¥715万初年度登録:R4年3月、車検有効期限:R6年3月15日、走行距離:4千km。軽自動車の横にテントを張りアウトドアを楽しむ。廻り込み車内には調理棚が設けられている。ルーフテントタイプのキャンピングカー。ルーフテントをズームアップ。ポルトガル生まれ、世界トップ品質のルーフテント。後方に廻り込む。車の排気量等の確認を忘れたが、普通車であろうか?、仕様を未確認。今まで見た中では一番気に入ったが値段も未確認。右側:コードレスリチウムバッテリーエアコン ゼロブリーズマーク2 販売価格 176,220円左側:ポータブル電子レンジ AC専用版に生まれ変わった 販売価格 39,600円出展社名:株式会社 三島ダイハツ所 在 地 :静岡県駿東郡長泉町下土狩1791-1車のナンバーも「沼津」で一般道を走って来たのであろうか。車内は木製で装飾されており、木製のボックスの上がベッドになっているのであろう。下の写真は、「テーブルをベッド展開手順」。車 両 名 :クオッカ乗車定員/就寝定員:2人/2人。ベース車:ハイゼットトラック パネルバン、排気量:660CC、燃料:ガソリン、駆動方式:4WD パートタイム車両本体価格 \2,898,500、この展示車の価格は、\4,710,140(諸費用等別途で税込)。13:50木製のボックスを主としたキャンピングカー。展示車の価格は、\4,710,140 で車両本体 \2,898,500、差額約180万円が改造費。少々高い感がする。ハイエースタイプは約500~700万円と ー 続く ー
2022.08.12
閲覧総数 643
4

山中一里塚公園から旧東海道(国道1号線)を進む。2/21(金) 12:34山中一里塚公園中央に『櫟野(いちの)観音道(大原道)道標』山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの付近から南西に伸びる道がある。この山道は古くから東海道と神村(甲賀町大字神)櫟野村(甲賀町大字櫟野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道ともよばれていた。当時、道標は東海道との分岐に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。この道標には「いちゐのくわんおん道」、側面には、櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ・・・・・・・山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』 文部大臣 小杉 隆 書 山中一里塚公園にある『鈴鹿馬子唄之碑』馬子の像一里塚緑地に立つ「第二名神」滋賀県起工の地のモニュメント12:36山中一里塚公園を後にする12:39国道1号線沿いの旧東海道を進む道路標識は「道の駅 あいの土山 2km」コミュニティバスが来るコミュニティバス「あいくる EXPRESS」の大河原行き12:42キロポストは東京日本橋から、437km、先に「猪鼻交差点」が見えてくる県道507号線で三重県の湯の山温泉へ、鈴鹿スカイラインへ、17km12:45国道1号線の猪鼻交差点、旧東海道はこの交差点を右に折れ、猪鼻村へ進む石柱は『若宮神社』旧東海道はこの交差点を折れ猪鼻村に入り直ぐ西へ進む12:47猪鼻交差点を曲り100m程で西へ向かう。大きな石碑には『東海道 猪鼻村』甲賀市で置いているのか街道脇に、塩化カルシウムの融雪剤東海道 猪鼻村猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道は賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場(休息所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、53石余「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ俳句の句碑が、淨福寺の門前に残る。また、井上士朗の『幣袋』に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・・」とある。寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は17世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる12:49醫王山淨福寺所在地:滋賀県甲賀市土山町猪鼻 中島淨福寺の山門前にある石碑には、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)が江戸へ向かう途中、猪鼻村立場で休みながら詠んだ歌である『いの花や 早稲のもまるる 山おろし』が刻まれている淨福寺本堂と鐘楼淨福寺は、天正年間(1573~1591)に、僧洞成禅照大禅師が開基し寺号は醫王山、臨済宗東福寺派に属する。本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。薬師如来は十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。淨福寺の御詠歌 「まいりきてめぐみをうけよ淨福の 薬師の利やくあらたなりけり」民家の壁には屋号の「ちょうちん屋」淨福寺を過ぎ街道右側の民家の中に『明治天皇聖蹟碑』同じ庭の手前に『旅籠 中屋跡』猪鼻立場猪鼻集落は東海道土山宿から東へ約3kmの位置にあり、江戸時代には立場として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家・茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。明治元年(1868)の明治天皇御東幸の折、旧暦9月23日に旅籠中屋を御少憩や中食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている近江屋12:57猪鼻村の京側の急な坂を登る12:59数百メートルの急な坂を登り国道1号線と合流国道1号線の向かい側の高台に『金比羅神社』13:00旧東海道(国道1号線)を進むが、この辺りが猪鼻峠であったのだろうか。往時はもっと険しい峠であったと。国道のキロポストは、東京日本橋から437.5km地点13:07峠から約1キロの下りをひたすら歩くと、街道の左側に『蟹塚』の案内板案内板におよその距離がない中、沢へ下りてゆく。この時期、長いものもおらず、蛭(ひる)もいないので安心して歩ける沢を渡ったりして進むと、沢の小高い所に石柱で囲んだ『蟹塚』があった。春から秋にかけての鈴鹿峠は蛭が多いとの情報があったが、今回は安心して歩けたのが幸いであった石柱で囲まれた中に『蟹塚』13:10国道1号線から300メートルほど下ったところにあるが訪れる人がいるのか、説明板があった木の木陰にひっそりと『蟹塚』蟹塚には、名前にちなんだ話が伝えられている。昔、鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村民を苦しめていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものであるといわれている。またこの話には、蟹が盗賊であったり、高僧が武士である場合もあり、街道の名物であった「かにが坂飴」もこの「カニ」伝承を由来として伝えられてきた土山宿にある、東海道伝馬館で購入した「かにが坂飴」 450円。味は・・・・・・であった沢には小魚が泳いでいた13:15蟹塚から国道1号線へ戻り、危険な行為で国道を横切り旧東海道へ国道を横切ると、” ようこそ 「歴史の道 東海道」へ ”ここは、土山町蟹ヶ坂です。これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りします。さきほどの『蟹塚』の案内が描かれていた榎島神社(白川神社の末社)右側の木は、椎の木で樹齢約400年の御神木白川神社御旅所の石柱御神木の横に遊戯施設現在地から「田村神社」への案内板。土山宿へ800m、鈴鹿峠へ4.5km。田村神社は、蟹坂古戦場跡を過ぎ海道橋(1775年架橋の田村永代板橋を復元した橋)へ進む。猪鼻村からこの手の案内板(土山町)で、ステンレスの板にポンチか?で刻んでいるので、光って見ずらいです、申し訳ありません13:19街道沿いに、交通安全の石仏 関宿~土山宿-続く
2020.04.13
閲覧総数 862
5

今回の旅を計画してGoogleマップを見ていて「国定忠治の地蔵」があることを知り是非訪れたいと、帰路は国道406号 (草津街道・信州街道) のルートを選んだ。11月16日(水) 15:20忠治地蔵 (国定忠治刑死場跡)所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町大戸3412国道406号を高崎方面へ南下。道路沿いに大きな木が聳え、石柱が立っていた。石柱には、正面に「國定忠治処刑場跡」側面に「國定忠治慰霊碑入口」と深い彫り。バス停の「忠治地蔵前」。国定忠治は、江戸時代後期の侠客である。「国定」は生地である上野国佐位郡国定村に由来し、本名:長岡忠次郎。 後に博徒となって上州から信州一帯で活動し、「盗区」として一帯を実質支配する。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として、講談・浪曲や映画、新国劇、大衆演劇などの演劇の題材となっている。国道沿いから、国定忠治刑死場跡を見下ろす。国定忠治の刑の執行は有名なはりつけ刑ですが、現在そこには慰霊碑が建てられている。因みに処刑場跡の駐車も見学も無料となっている。国道406号 (草津街道・信州街道) の大戸宿方向を振り返る。道路脇には「山のきのこ 直売所」があったが閉店中であった。國定忠治礫刑場遺跡上州侠客此処に眠る忠治は四十一才の時、関所破りの罪に依り礫の刑に処せられ、今の一番奥の石塔の下に埋められて居るのである。天保七年忠治は二十七才の時に三十余人を連れて大戸の関所を破り反逆の罪となり礫刑された。(注) 当時の刑法の條文からすると、徳川氏制検札宣告文百ヶ条の内第二〇に於て関所を破って山越した者、関所を忍び通った者関所通らず山越した者、又案内者等は其の関所にて礫刑にし女は郷土より追放すとある。秋に二夜三日間晒首とされた。郷土の人々は忠治の冥福を弔って墓碑と地蔵尊建立し (現在は新しく石碑建直した)。尚、処刑に関する当時の準備始末書は、同地大字須賀尾高橋慶重氏及び元大戸郵便局長一場氏宅に保存されて居る。 昭和四十九年十一月忠治刑死場跡に建つ忠治の地蔵尊。旅姿三度笠には程遠い姿であるが。侠客の国定忠治、清水次郎長の名は映画等でよく知っている世代だが今の若者は?。この旅をするまで忠治が関所破りをやって此処で磔刑されたことは知らなかった。磔 (はりつけ):罪人を板や柱などに縛りつけ、槍などを用いて殺す公開処刑の刑罰の こと。磔刑 (たっけい)。ズームアップするが忠治の顔も風化して無残にも。忠治ファンが生け花、お酒を供えていた。忠治処刑場の跡この地を尋ねた俳人等のなかに次に掲げる名句がある。 風花や忠治終焉の薮川原 八束 (東京) 任侠の名やとこしえに松の花 樗雀 (東京) 蜩に「忠治の松」のいわれ聞く 空望 (千葉)小説 新説国定忠治 左保著 (東京)昔からこの地蔵尊におすがりすると脳卒中に掛らないという百五十年記念 忠治史蹟保存会 大運寺浄友会石碑には「侠客 國定忠治慰霊碑」と。國定一家 十二人衆 慰霊碑苔むした石碑には「慰霊碑建立之由来」侠客国定忠治は上州佐波郡国定村に生れ天明の大飢饉に際し近○の民・・・後略 昭和四十三年七月吉日 世話人 群馬高崎 茂木○○ 高橋○○ 富田○○ 埼玉大宮 山本○○ 榛名町○○○○ 大戸 土谷○○忠治処刑場跡を後にする、石柱の裏面には、「昭和五十六年四月 五代目酒梅組内 橋本 実 田渕政治 建之」側面には、「國定忠治慰霊碑入口」次に訪れたのは、ここも帰路に訪れたいと思っていた「小栗上野介ゆかりのお寺 東善寺」。忠治処刑場跡から、国道406号 (草津街道・信州街道) を高崎方面へ南下。15:40曹洞宗 東善寺 (とうぜんじ)所在地:群馬県高崎市倉渕町権田169県史跡指定による小栗上野介忠順(ただまさ)の墓が有ることで知られている。小栗忠順は江戸に生まれた。安政7年(1860)日米通商条約批准のため米国に渡航し帰国して外国奉行となった。以降も陸海軍奉行・江戸町・歩兵・軍艦・勘定などの奉行を歴任する逸材であった。また、横須賀製鉄所建設や兵制改革などに尽くしたが、戊辰戦争では抗戦論を唱えて失脚し、領地である権田村に隠棲していた。しかし、官軍の探索により捕らえられ、滞村64日後の4月6日烏川畔で斬首された。この処刑場跡にも碑が立てられている。国道406号 (草津街道・信州街道) 沿いに建つ、「県指定史跡 小栗上野介忠順の墓」「清酒 小栗上野介の里 本醸造 権田」の看板。国道沿いに駐車場があり車を停め参拝。木柱には「草津街道 信州街道」側面には「左 草津温泉へ 43.9km、小布施へ 96.9km」。寺の門前に建つ「小栗上野介の寺 東善寺」小栗上野介は日本近代化の礎を築いた。ここ東善寺は小栗家五代政信公を中興開基とする曹洞宗のお寺である。上野介一家は、このお寺に二ヶ月あまり仮住まいして、観音山に住居建設を進めた。境内には上野介、又一、殉難の家臣らの墓が並んでいる。墓右脇には黒椿が植えられている。遺品館もあり遺品も見られる小栗上野介ゆかりのお寺である。参道に建つ門碑には「・・・・・」左側にも石灯籠と、門碑。石柱には「曹洞宗 諏訪山 東善寺」と。石像三体が西日を浴びる。石碑には「御手水」と刻まれていた。掲示板に、小栗上野介関係の記事が貼られていた。 • NHK大河ドラマ『青天を衝け!』 小栗忠順役 (武田真治) • 小栗上野介情報 82 対馬事件ー1 • 小栗上野介情報 83 対馬事件ー2 • 3年ぶり 小栗まつり 再開 等々。境内の紅葉が西日を浴びて鮮やかに映えていた。黄葉も負けじと。境内に入り手前に寺務所。拝観受付の札があり、資料館もあったが時間が遅くなるのでスルーした。東善寺の境内に大切に保管されている1本のネジがある。一見なんの変哲もないただのネジだが、その伝来を聞けば、印象は一変すると。本 堂本堂の扁額「東善寺」境内には石祠、右側には妙音碑が建っていた。石像も西日を浴びていた。像の足元には米俵?、手には槌か。本堂左側の庭、松の古木の下に上野介と栗本鋤雲の胸像が並ぶ。小栗上野介源忠順 (ただまさ)(1827~1868) 昭和二十八年九月横須賀市より贈られた胸像 朝倉文夫制作 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製西日を浴びる「上野介 胸像」。小栗上野介の優しそうなお顔今は亡き某先輩を思い出すようなお顔である。栗本鋤雲 (じょうん)栗本鋤雲(じょうん) 瀬兵衛安芸守 (1822~1897)横須賀製鉄所建設の功労者 函館で開拓、病院開設、蝦夷、樺太千島巡視等に功績あり、慶応三年滞欧中にアルプス登山した最初の日本人小栗上野介とともに、幕末の日本近代化に尽力、明治以後報知新聞主筆として活躍、この胸像は鋤雲の門人犬養毅が作らせ御蔵島に蔵置せられる石膏像を原形とする。著「匏庵 (ほうあん) 遺稿」。 昭和三十一年五月六日 元海軍建築局長吉田直殿建贈 ※ 横須賀市博物館前庭の像はこの胸像を複製境内には石祠、いろんな石像、六地蔵が立っていた。県指定史跡 小栗上野介忠順の墓 指 定 昭和二十八年八月二十五日 所在地 高崎市倉渕町権田一六九 東善寺小栗忠順は、徳川譜代の旗本で文政十(1827)年江戸で生まれ、権田村(三七五石)は禄高2,700石(九ヶ村)の領地の一つであった。上野介を称し、安政六(1859)年 三十三歳で井伊大老に抜てきされ豊後守に任官、万延元(1860)年 日米修好通商条約批准書交換の遣米使節として新見豊前守正興、村垣淡路守範正と共に米艦ポーハタン号で渡米。任務を果たし大西洋、インド洋を経て帰国。それより外国、軍艦、江戸町、歩兵、陸軍、勘定の各奉行を歴任、フランスと結び幕府の財政や洋式軍隊の創設など幕政の改革に尽くし、日本産業革命の地横須賀製鉄所(後の海軍工廠)をつくった。明治維新の幕府解散で勘定奉行を免ぜられ、慶応四(1868)年三月一日、権田東善寺に隠棲す。西軍(明治政府軍)がこれを無実の罪で追捕し、閏四月六日、水沼村烏川原にて斬首。時に四十二歳であった。 平成七年十一月 群馬県教育委員会 倉渕町教育委員会この石碑には「吊小栗上州公」と。漢字が刻まれていたが風化して読めなかったが。・・・・・ 啓蒙興産百年○ 何知罪得天○ 従容○死烏川畔 昭和二十九年五月六日 こちらの石碑も「仁義禮智信」、後方には六地蔵。墓参用の水汲み場であったか。六地蔵が並ぶ。家臣の墓(右から)塚越冨三郎 権田出身 小栗夫人を護衛して会津へ行き、慶応四年九月一日耶麻郡高郷村一竿で戦死 二十三歳 一竿に慰霊碑がある。佐藤銀次郎 権田出身 小栗家歩兵の一人、 小栗夫人を護衛して会津へ行き、九月十一日喜多方市熊倉で戦死 二十一歳 熊倉に葬られ墓がある。渡辺太三郎源𠮷享 江戸からの家臣 上野介に従って権田へ移り、西軍により上野介とともに斬首さる 二十歳大井磯十郎 権田出身 小栗家歩兵の一人、西軍により上野介とともに斬首さる荒川(江幡)祐蔵 江戸からの家臣 上野介に従って渡米、権田へ移り西軍により上野介とともに斬首さる 三十六歳 墓石には戒名が刻まれている。皆さん若く一人を除き二十代そこそこ、有望な人材が斬首、戦死に。五人の家臣の奥に「小栗上野介忠順墓 群馬縣指定重要文化財史跡」の木柱。右側に「小栗上野介源忠順」。左側に「小栗又一源忠道(養嗣子)」地元ファン等が多いようで墓の廻りには多くの塔婆が並べられていた。上野介の墓右脇には黒椿が植えられているので鬱蒼としている。小栗上野介 遺愛の椿 小栗上野介が江戸神田駿河台の屋敷が・・・・・・・・・ 五月に黒味がかった赤い八重の名花を咲かせる。小栗上野介源忠順 慶応四年閏四月六日 西軍により無実の罪で村内水沼河原に斬首さる。 四十二歳 ここは供養墓で遺体首級とも上の本墓にあり。上野介の左側に、養嗣子の小栗又一源忠道又一は、上野介の養嗣子で父の命により申し開きをするために官軍に出向いたが、翌7日、主従4人とともに高崎城下で斬首された。15:50小栗又一源忠道の墓石の上には大きな?。 ー 続く ー
2023.01.26
閲覧総数 1341
6

岐阜県の続日本100名城巡りー3大垣公園にある大垣城、神社、大垣の偉人の多くの石碑を散策。4月11日(金) 10:35大垣城東門前から天守を見上げる。城内のサクラは散り葉ザクラに。天守への階段。景観重要建造物 大垣市指定1号 大垣城 景観法に基づき指定された景観上重要な建物です。 令和5年1月13日 大垣市 大垣市指定史跡 大垣城跡大垣城は、牛屋川を天然の外濠にとりいれた要害堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦が繰り広げられたが、戸田家が入城してからは、歴代藩主と共に天下泰平の世を謳歌した。先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。 大垣市教育委員会艮隅櫓の西側に建つ石碑(天守下の北側の土塀)。石碑には、「戸田公入城三百五十年紀念恭賦 ・・・・・ 昭和六十歳乙丑」と。 更に左側に、「戊辰の役顕彰碑 大垣市長 小倉満書」と。裏面の碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は、家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」としている。天守北側の下に立っていた、「菱田海鷗碑」。元治元年7月19日(1864年8月20日)に長州藩勢力が挙兵して禁門の変を起こした際、長州藩家老・福原が大垣藩勢の銃撃で負傷、敗退して帰国するということがあったことから長州藩士は海鷗らの斬首を決定しました。既に6人の首が切られ、海鷗の番になった時下記の歌を詠み助命されたと。菱田海鷗碑海鷗が「将に腹を屠(ほふ)らんとして自らに胎(のこ)す」と詠みました。これが「将屠腹自胎」と題する七絶であると。これを聞いた長州藩の隊長・石部誠中は海鷗の勤王の志を読取り海鷗を救おうと動き、海鷗は斬首を免れたと。裏面には、菱田海鴎先生□抱勤皇之志明治戊辰正月・・・・・(後略)鉄門跡から石段を登ると左側に立っていた石碑。大垣公園内には大垣市の偉人の石碑が多く立っておりその一つである。石碑に「慾斎翁□碑」。飯沼應斎先生□□従二位勲二等伯爵戸田氏・・・・・・・・中略・・・ 明治三十二年三月 従四位理學博士伊藤圭介撰 永坂周二書飯沼慾斎は伊勢国亀山の出身で、12歳の時に母親の実家がある大垣の飯沼家へ移り住んだ。叔父の飯沼長顕は、大垣の俵町で町医者を営み、慾斎はここで家事を手伝いながら漢文学や医学を学んだ。それから間もなく、小野蘭山について本草学を学び、宇田川玄真に入門して蘭学を修めた。玄真が開いた私塾・風雲堂は医学のみならず、化学、科学、自然哲学など幅広い分野で日本の礎を築いた。慾斎は大垣へ帰り、飯沼家を継いで医者となり、美濃地方で初めて人体の解剖を行った。その後、医者を引退して植物研究に打ち込み、日本で初めて顕微鏡を使って細かい植物の解剖図を描き、草の種類1,200、木の種類600を『草木図説』に著し、これが日本で初めての植物図鑑となったと。立札に「鉄門跡」。後方の石垣の上は「辰巳櫓跡」。金森吉次郎の像大垣市出身の明治から昭和にかけての治山治水の功労者で、明治29年(1896)の大洪水時に、大垣輪中堤防委員長として水没した大垣輪中内の人命を救った。県会議員から衆議院議員に進み、政界からも治水対策を推進したと。手に嘆願書を持つ金森吉次郎の銅像。昭和19年に金属供出されたため、昭和29年に市と組合が中心となり像の再建を呼びかけ、市出身の彫刻家・中村輝によって現在の像が制作され、旧台座の上に設置された。台座には、正二位大勲位公爵松方正義題正三位勲一等男爵田健次郎撰 従六位勲五等水谷弓夫書 大正十二年六月竣工 大垣輪中水害豫防組合建之立派なレリーフに、大垣市景観遺産 金森吉次郎の像 第74号 平成29年度指定 この景観は後世に伝承すべき市民共通の財産です。 大垣市大垣城本丸城郭図現在地は下の「南」鉄門。水城と言われるだけに本丸の周りは濠で囲われている。天守の周りには門も多い。大垣城は明治の廃城令で廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れた。こちらの植込みの中にも石碑、贈正五位小原是水□碑・・・・・漢字がびっしりと書かれていた・・・・・ 明治廿三年 藤陰野村□書小原鐵心(1817~1872)は、小原家に生まれ、天保3年(1832)、26歳で家督を継ぎました。小原家は、750石の知行を与えられる大垣藩士で、代々城代を務める家柄でした。大垣藩は度重なる洪水で困窮していましたが、鐵心は西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を積極的に行い、安政2年(1855)に藩の財政を立て直すことに成功しました。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、婿養子の小原忠迪(おはらただし:1842~1910)が幕命により藩兵を率いて新政府軍と戦いましたが、鐵心の説得により藩論を尊王派で統一し、以後の戊辰戦争では新政府軍に加わりました。鐵心はその後、新政府の下で会計局判事兼東京府判事となり、財政確立の仕事を任されるようになりましたと。先の石碑の「菱田海鷗」に関係している。大垣公園内の枝垂れ桜が満開であった。恒久平和之碑石碑には、「恒久平和之碑 シベリア抑留者ダモイ会」と。この恒久平和の碑は1945年中国満州の地において終戦、日本に帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され日本兵約60万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢餓と重労働に苦しみながら約6万人以上異国の土と化した。 明日の命がだれ一人として保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならないと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。 大垣西濃地区ダモイ会(ダモイとは帰る) 「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された平和記念碑建立の志昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満洲地区に居た約60万の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。ラーゲル(収容所)生活では、粗末な服装と僅かな食糧を与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バム鉄道(第2シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保証されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る) 皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望をかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。しかし中には飢餓と酷寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散っていった。その数は6万とも10万ともいわれて居る。今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き、改めて平和の尊さが偲ばれるのである。私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。 1991年(平成3年)8月9日 大垣市・西濃地区ダモイ会 会長 今川順夫今までいろんなところの神社へ行ったがこのような碑は初めて見た。”「国の賠償に代わる労務提供者」として我々は抑留された ” は心に刺さる。濃飛護國神社(のうひごこくじんじゃ)所在地:岐阜県大垣市郭町2丁目55岐阜県(主として西濃・飛騨地方)出身の戦没者1万8,900余柱を祀っている。 この大鳥居は昭和40年8月に西濃運輸株式会社(現・セイノーホールディングス)社長の田口利八氏が寄進されたものである。濃飛護國神社は大垣城の南側に隣接して建っているがこちらへ足を延ばす人は少ない。大垣藩は、会津や桑名と同様に幕府軍として鳥羽伏見を戦い敗れ、忠臣達が奔走して恭順し、新政府軍の許しを得ました。その後の戊辰戦争で、家臣たちは降参兵と侮られないよう、勇敢に闘い54人のサムライが殉死したそうで、藩主戸田氏共は彼らを弔うために大垣招魂社を設立したと伝えられています。その後、飛騨の国の殉死者を合祀し、歴史の浅い岐阜県護国神社とうまく共存し、現在に至っていると。社殿への両脇には多くの石燈籠が奉納されている。右側の狛犬阿形像。左側の狛犬吽形像。奉納された軍馬像であろうか。石燈籠の後方に手水舎。奉納された石燈籠には、明治、大正、昭和とあった。濃飛護國神社を後にし北側へ戻る。石碑には「極天護皇基」と。意味は「天地のある限り天皇が国を統治する基礎をお守りする」であると。大垣城西門かつての縄張り図には存在していませんが1985年に「戸田家入国350年」を記念して建てられた櫓門である。南西の方向から天守を見上げる。大垣城(巨鹿城・糜城)(きょろくじょう・びじょう)大垣城は天文四年(1535)、宮川安定が築城した(明応九年竹腰尚綱の創建とも伝えられる)といわれ、大垣市内を流れる水門川の流れを外堀に利用して築城されました。天守は四層四階建て総塗りごめ様式で、大変優美な城です。慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となり、その後、寛永十二年(1635)、摂津(兵庫県)尼ヶ崎より戸田氏鉄公が入城し、戸田十万石の居城となり、以後明治維新まで続きました。昭和十一年には国宝に指定されましたが、昭和二十年の戦火で惜しくも焼失してしまいました。その後、昭和三十四年に、外観を昔そのままの容姿で再建され、城下町大垣のシンボルとなっています。大垣城(大垣市立図書館蔵)明治初期に南西方向から撮影されたもの。城西広場の周りはピンク色のサクラが満開であった台座に「戸田氏鉄公騎馬像」。奥に「乾隅櫓 (戌亥櫓) 」が建つ。 御衣黄桜であったか。戸田氏鉄公騎馬像美濃大垣藩の初代藩主、戸田氏鉄(とだうじかね)の騎馬像。 1994年(平成6年)3月に大垣城の西に隣接する大垣公園の「城西広場(土の広場)」の東端に建てられた。ズームアップ。大垣公園の北西方向に神社が建っていた。神社前から天守を望む。常葉神社(ときわじんじゃ)所在地:岐阜県大垣市郭町1丁目96大垣城の歴代藩主を祀っている神社である。鳥居の扁額「常葉神社」。社号標石「常葉神社」。境内の東側は車を止めている「パーキング紅葉園 郭町1丁目」。手水舎。石碑には「常葉神社由緒」一、祭神は初め旧大垣藩祖戸田一西公初代藩主氏鉄公で昭和四十一年秋二代藩主 氏信公から十一代氏共公まで合祀した。一、旧藩祖藩主の神徳を仰ぎ旧藩領大垣と周辺町村繁栄感謝竝に祈願のため奉祭 した。一、祭典は毎年十月十日十一日に奉催する。一、旧藩祖歴代藩主合祀を記念してこれを建てる。大垣藩の歴代藩主を祀った常葉神社は、嘉永5年(1852)に、大垣藩の藩祖である戸田一西公を祀って大垣城内に建てられたのがはじまりです。その後、八幡神社境内に移りましたが、濃尾大震災で被災したため、明治35年(1902)に現在地で再建されました。例年10月第2日曜日に開催される十万石まつりは、元来、常葉神社の例祭ですと。常葉神社社殿(写真はネットから)。右側の狛犬阿形像。狛犬の後方の巨木は境内にある御神木で、高さ15m、幹回り3.2mを誇る市内屈指の楠の巨木で、徳吉稲荷神社の横に聳えシンボルとなっている。左側の狛犬吽形像。右奥の石碑には「明治天皇□□」と、歌碑であろうか。常葉神社の南側に「八幡宮」が鎮座。右側には「騎師 永田正方碑」と刻まれた石碑。10:50ここの西側には「大垣大神宮」があったようだが参詣を忘れた。 ー 続く ー
2025.05.22
閲覧総数 278
7

3月頃に旅友のKさんから「以前行った、バスツアーの招待状が来ているので行かないか」とお誘いの連絡があり計画、4/17(水)のツアーに参加した。調べてみると前回は、H29(2017)年12月1日(金)に参加していた。J:COMからの、招待状。招待者は受付時に身分証明書を提示する必要がある。同伴者の参加費は一人\6,460と割安、お料理は「A」のスタンダード。集合:6:30、出発:6:40集合場所:茅ケ崎市市民文化会館前。旅行会社:㈱ステップトラベルパンフレット昼食は「A」:追加無し 「B」:1,620円(税込み) 「C」:2,700円(税込み)訪問場所。①河口湖の桜 ②わさび漬けセンター ③山梨FUJIフルーツパーク ④ファッション工房 ⑤信玄館⑥チューリップパーク(ハーブ庭園)4/17(水) 6:15集合場所の市民文化会館前には既に人だかりが八重桜の桜が満開7:46茅ヶ崎西インタから圏央道を走り、八王子JCTから中央道、河口湖インタへ向かうバスの車内の飾り7:53河口湖インタ手前の車窓からの富士8:10 河口湖へ到着、観光時間は8:40までで30分間。第八回 富士・河口湖さくら祭り期間:2019年4月6日(土)~14日(日)こちらのポスターは「第七回・・・・さくら祭り」とあるが、印刷ミス?会場からの富士と桜青空でないのが残念だが中国人観光客が結婚写真?堤に芝桜が咲きスマホでの撮影今年の桜の開花は、最近の低温で遅れ今が満開サクラと芝桜のコラボもいいゆっくり撮影したいが最近の天気で積雪が多くなっているボートが走り逆さ富士も撮れず満開の桜旅友Kさんも撮影に夢中さくら祭りは終了していたが露天商は営業露出不足で・・・・・・富士をズームアップ8:30出発が8:40のため駐車場へ向かう綾小路きみまろの店がある9:00河口湖から国道137号線(御坂みち)の新御坂トンネルを通り笛吹市へ。中央リニア線の実験線架橋。所在地:山梨県笛吹市御坂町上黒駒この辺りは標高が高いので桃の花が満開山の斜面には、桃の花と菜の花が咲き誇り満開の桃の花9:10山梨FUJIフルーツパーク所在地:山梨県笛吹市御坂町金川原888 tel:055-262-7211営業時間:9:00 ~ 17:00 定休日:年中無休 駐車場:一般・・・約70台三島市の箱根路の登り口にも同じような建物があった今年1月12日(土) 9:00 にオープンしたばかり【いちご狩り予約受付】店先にはイチゴを展示。ツアーのいちご狩り希望者は1200円で姉妹店が、愛知県蒲郡市に「蒲郡オレンジパーク」、三島市に「伊豆フルーツパーク」があり、フルーツ狩り、食事が楽しめる二階にはレストランもある季節により、いちご狩り、メロン狩りが楽しめるもう「令和」のミニ提灯が登場ガラス越しの部屋でバームクーヘンをカットまだ時間が早かったが、たくさんのバスツアーが立ち寄るようだ店内を出るとビニールハウス棟が三島にも同じようなビニールハウスがあったビニールハウスをのぞき見すると段ボールは「らくらく交配」。Kさんからミツバチが入っている段ボール箱で、イチゴ栽培にはミツバチが必須だと水耕栽培ショッピングを終え次の場所へ9:30同じようなバスがあるので乗り間違いをしないようにブログ以外で、デジブックで公開しておりますので訪問していただければ幸いです。「河口湖・甲府バス旅」をクリック願います 甲州わさび漬センターへ
2019.04.24
閲覧総数 2013
8

延べ日数24日目の弥次喜多道中記。間の宿有松を散策。11/23(土) 10:00間の宿有松慶長13年(1608)知多半島から竹田庄九郎ら8名が有松に移住し、茶屋集落を造ったのが間の宿有松の始まりという。有松絞は竹田庄九郎が慶長13年に名古屋城築城工事に参加した際、九州の豊後高田から来ていた人夫の絞り染めの手拭いに、目を付けたことがきっかけとされる。絹布に絞りを施した手拭いを五代将軍・綱吉へ献上し全国に知られた有松めぐりマップ有松の町は、慶長13年(1608)東海道筋に生れた町です。阿久比庄(現在、愛知県知多郡阿久比町)から移住した竹田庄九郎はじめ8名により開かれ、絞りの名産地として発展しました。以来400年以上、特色ある町並みは現在も多く残り、絞りの文化とともに日本の美しさを今日に伝えています間の宿有松旧東海道(県道222号線)を右方向(東)から左方向(西)へ進む旧東海道(県道222号線)有松の東海道沿いの町並は、平成28年(2016)7月に、重要伝統的建造物群保存地区に選定されました絞りLab愛知県絞工業組合の看板有松の町並は電柱・電線がモール化されてすっきりのれんは全て有松の絞り有松には歴史的な街並みとともに、伝統産業の有松絞り、市指定文化財の3輌の山車が今日まで継承されています令和元年5月に有松は日本遺産に認定された。「江戸時代の情緒に触れる絞りの産地 ~ 藍染が風にゆれる町 有松 ~ 」加藤呉服店有松絞りは400年前、糸でくくった木綿を藍などの草木で染めたことにはじまり、絞りの技法は100種類にも及びます。現在、製品は和装にとどまらず、様々な小物やインテリアなど多岐にわたっています。毎年6月第1土・日曜日には「有松絞りまつり」が開催され、東海道が大いに賑わいます手前:有松絞り 橋爪合資会社中央の白:有松山車会館 所在地:愛知県名古屋市緑区有松2338 有松にのこる3輌の山車は江戸期から明治期に製作されたものです。毎年10月第1 日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり 人形をのせた山車が祭囃子とともに東海道を曳き回されます毎年10月第1日曜日には「有松山車まつり(有松天満社秋季大祭)」が盛大に開催され、からくり人形をのせた山車3輌が祭囃子とともに東海道を曳き回されます右側の建物は、「手打ちめん処 寿限無茶屋」いろんなメニューがあり「忘年会」「新年会」の受付郵便受けは「カワセミ」歩道面の案内板有松・鳴海 絞会館所在地:愛知県名古屋市緑区有松30081階は数々の絞り商品の販売コーナー、2階は伝統工芸士のくくり実演と資料展示、職人さんを中心にとらえた有松の紹介映像を見学することができます。営業時間:9:30 ~ 17:00 (実演は16:30まで)休 館 日 :有松絞りまつり前後 3日間・年末年始弥次さんとともに、妻への土産を購入したが、喜んでくれるか?有松・鳴海 絞会館の場所は「旧知多郡有松町役場跡地」有松・鳴海 絞会館 前のこの石碑は?頼 山陽(らいさんよう) 1781~1832名は襄(のぼる)主著『日本外史』は幕末の尊王攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。幕末から明治にかけてもっとも多く読まれた歴史書。(外史とは民間による歴史書の意)伊藤博文、近藤勇の愛読書であったことでも知られる・・・有松・鳴海 絞会館 内の販売品代表的な有松しぼり有松・鳴海 絞会館の向かい側左に位置する案内板は左側:服部家住宅、右側:服部幸平家住宅の倉 とある。漆喰の壁が一部剥がれており手直しが必要服部幸平家住宅の倉服部幸平家は、西隣り(左側)の絞問屋・服部家から分家した家柄であり、かつて屋号を井桁一といった。明治時代中期、分家の隣に譲り受けたこの倉は、切石の土台の上に建てられた木造切妻二階建桟瓦葺で、白漆喰の塗籠造、腰を海鼠壁とし、江戸時代の様相を呈している。服部家住宅と一体をなしている点で、有松の町並み景観上、非常に重要である。昭和62年(1987)、県の有形文化財に指定された服部家住宅(井桁屋)服部家住宅服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、屋号を井桁屋という。屋敷地は、東海道に面して広い間口を有する。中央部に店舗及び居住として利用する二階建の主屋を配し、井戸屋形、店倉、藍倉、門など合わせて11棟の建物が有力な絞問屋の屋敷遺構の典型として、昭和39年(1964)県の有形文化財に指定された。主屋の二階は黒漆喰の塗籠造、屋根両妻に卯達設ける。土蔵は漆喰の塗籠造で、腰は海鼠壁とし、防火対策を行っている。有松を代表する価値ある建築群である㈱JDDC、クリニックも、絞ののれんを出している藍染の絞珍しい看板、舞妓さん、変身祭の時期には貸衣装で変身するのか笑顔からはじまる右側の看板は診療内容:病理診断、病気のよろず相談街道を振り返る、左が「服部家住宅」山与遊歩道(やまよゆうほどう)ー 有松駅と東海道を結ぶ遊歩道 ー平成24年に整備され、西側家屋の元所有者 絞商 山与さんに因んで名づけられた道。かつて東海道にかかっていた中川橋の石柱が残り、これを境に往還と橋東という小字がついていました山予遊歩道入口にある案内柱国登録有形文化財『中濱』は藍と絞の店。所在地:愛知県名古屋市緑区有松2306主屋は明治中期頃建造。当初は絞商の山田与吉郎家の建物であり、平成16年(2004)からは中濱家(中濱商店)の建物として使われています。土蔵の軒先の瓦に「山 ヨ」の印が入っており、山田家が所有していた頃の名残りが感じられます神半家茶房、石窯パン、日本料理「やまと」、ダーシェンカ蔵間の宿 有松の西側10:20旧東海道(県道222号線)と県道237号線が交差する「有松交差点」有松交差点にあった「有松天満社 由緒」有松交差点から旧東海道を振り返る旧東海道(県道222号線)を進む、左下に「天王坂(てんのうざか)」の案内柱天王坂 - 牛頭天王おはします坂道 -かつて坂の途中に、徐疫の神・牛頭天王を祀る津島社があったことに由来します。ここには常夜燈と高札場がありました唐子車(からこしゃ)山車庫唐子車(中町)山車庫ここ中町の山車庫には「唐子車」と呼ばれる山車が格納されている。かつて祭礼に曳行した山車は、祭りが終わると山車庫に解体保管していたが、現在は上山をおろした状態で収容、格納している。平成17年、土地区画整理事業にともない、本来建っていた場所より多少東側(右側)の現在地に新築された。木造で、町並みの景観に配慮された造りとなっている。唐子車は、天保年間(1830~44)に知多内海で造られたものを、明治8年(1875)に中町が購入した。昭和48年(1973)、市の文化財に指定された。毎年10月第1日曜日の「有松天満社秋季大祭」に曳きだされる松柏苑ディサービス 松柏苑中舛竹田荘中舛竹田家は、旧東海道の歴史的な街並みを伝える貴重な建物であり、有松絞りの開祖である竹田庄九郎ゆかりの江戸時代の建物であったと伝えられています。老朽化が進み建物と町並みの存続が危ぶまれる状況の中、保存について検討がなされ所有者である竹田家と地元の方々・名古屋市・事業者・市民の協力で「有松まちなみ保存ファンド募金」を活用し、梁などの材料を活かしつつ、外観は江戸期の様式を再現しました革絞り専門店「くくる」10:26革絞り専門店「くくる」の店先に掲示された案内板【まちの成り立ち】 慶長13年(1608)有松は東海道の鳴海宿と池鯉鮒宿の間に尾張藩によって開かれ ました。東海道を往来する旅人の土産物として絞り染め(有松絞り)が考案され、 以降、有松絞りとともに有松のまちは発展しました。【町並みの特徴】 東海道約800mの区間に沿って、広い間口を持つ絞商の主屋や門・塀が数多く見 られます。また、江戸後期から昭和前期までの様々な時代の建物がみられ、全体 的にゆったりとした印象の町並みとなっています。 鳴海宿~宮宿-続く
2020.01.25
閲覧総数 347
9

宝城坊日向薬師から降り、車で上流の日向渓谷へ向かう。9月28日(月) 11:15日陰道「かながわの古道50選」のひとつで、北向きの土地で日陰になるところから、この名が付けられたといいます。全長約1.5kmほどののどかな道で、初夏には紫陽花、秋には彼岸花と季節の花々を楽しむことができます。こうした日陰道の整備は、20年以上前から地域の人々の手で行われています。鎌倉幕府の事績を記した『吾妻鏡』には、源頼朝が1回、北条政子が2回、日向薬師に参詣したことが記されています。また、頼朝は自身が歯痛に苦しんだ時、代理を参詣させています。そのなかで日陰道は、頼朝が参詣した際に家臣たちが通った道とも、北条政子が通った道ともされていますこれからの紅葉時期も楽しめる日向川細道の坂道を登っていくと突然三重の塔が現れた。誰もがビックリするとの書き込み、日向薬師バス停から歩いて約10分11:16おおやまめぐりルート「ここは浄発願寺」上流側に「石雲寺 0.6km」、下流側に「日向薬師 1.6km」石柱には「一の沢 浄発願寺」浄発願寺の文化財無常山浄発願寺は、上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗弾誓派の寺です。創建は慶長13年(1608)、ひたすらに修行に勤しみ、口にするのは木の実や草だけという木喰の僧、弾誓上人によります。江戸に幕府を開いた徳川家康が上人に深く帰依したことから、寺は代々幕府の手厚い庇護を受け、山岳修行者や各地を行脚する修行僧の行場として栄えました。また、殺人や放火を犯した者以外であればどんな犯罪人も許される駆け込み寺としても有名となりました。明治維新におこった廃仏毀釈運動では激しい弾圧を受け、徳川本家をはじめ、尾張徳川家、藤堂氏、佐竹氏などの大名や、公家の広幡家など、後ろ盾となる信徒をも失い、寺領も減少して衰退の一途をたどりました。しかし、民間の信仰は根強く、陰暦10月に行われる御十夜法要は相模の三大十夜と称され、昭和初年まで盛大に続きました。また、寺が日向川の水源地に鎮座していることから、伊勢原をはじめ平塚や大磯など下流域に住む人々からは雨乞い信仰の寺としても崇められました。昭和13年(1938)の秋、浄発願寺は台風による山津波に見舞われて崩壊状態となり、現在の場所に移転しました。かつての寺跡はここより約1km上流の一ノ沢に「奥ノ院」として残り、そそり立つ崖と生い茂る草々に囲まれて、静かに往時の面影を偲ばせています。伊勢原市指定重要文化財『浄発願寺縁起絵巻 3巻』浄発願寺開山の弾誓上人の誕生から遷化までを絵と仮名まじりの文で描いています。作者は未詳ですが、小田原狩野派画家の筆といわれます。尾張徳川家あたりからの寄進でしょうか。市内に残る絵巻類の中でも特にすぐれた江戸時代の作です。伊勢原市指定重要文化財『六字名号雨乞軸』幅2m、長さ13m。麻布に、浄発願寺中興の祖である四世空誉上人の筆で「南無阿弥陀仏」の六字名号が認められています。言い伝えでは、空誉上人が自らの衣の袖で書いたといわれます。江戸時代中頃の作と考えられます。日向川流域の高森村・石田村・小稲葉村など13ヶ村の名も書かれており、当時の人々の水に対する信仰をうかがわせる資料です石碑には元伊勢原警察署長田中勝五郎氏ガ其ノ職ヲ勇退サレ第二ノ故郷伊勢原町ニ居住サレ世界プロレス界ノ王者故力道山ノ供養ニト此ノ橋桁ヲ寄贈サレタモノデアル 昭和40年7月吉日建立この橋を寄贈されたのか。桜の時期は桜並木も良いと浄発願寺 本堂所在地:神奈川県伊勢原市日向1816人気ドラマ「半沢直樹」の最終回、北大路欣也さんがお墓参りするシーンのロケ地であった本堂の扁額「無常山」「浄発願寺」三重塔と右手前に「地蔵菩薩坐像」手前に桜並木がありその時期も最高では地蔵菩薩坐像三重塔三重塔の木組み匠の技浄発願寺に招いたお釈迦様は、仏教国ビルマ(現ミャンマー連邦共和国)アヴァ王朝時代(1364~1555年)の、1376年に造立された石仏です。長い歳月色々な時代を過されて、令和元年(2019)9月8日、三重塔内にお座りになられました。どうぞお参り下さい。 合掌日向川の流れ11:31桜並木もあり三重塔と桜とのコラボ、紅葉時期も再度訪れたいものです11:34浄発願寺から日向渓谷への途中にある「大友皇子の墓」史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松墓まで歩いて3分と史跡 (伝)大友皇子の陵墓 二代目・不老松日本の第39代天皇で、弘文天皇歩いて登ることにするが11:39途中から草むらになり、山ビルにご注意の看板もあり取りやめる山ビルにご注意を!!草むらや落葉の裏に野生の鹿が運んできた山ビルがいます。吸盤で人の肌について吸血します。特に雨降りの日や地面が湿っているときは活発に活動します。草むらや湿った落葉のそばには近寄らないで下さい。対処法は:山ビルが嫌う、木酢液、食塩水、虫除けスプレーなどを、足元の衣服に 予め塗布しておいてください。専用忌避剤としてヤマビルファイター( イカリ消毒)もあります。吸血されたときは:直ぐに引き離して下さい(ダニのように肌に口が残る心配は有り ません)。かゆくなり血を固まらせないヒルジンを注入されています。 なるべく早く血液と一緒にしぼり出して、バンソウコウなどで止血して ください。危険なウイルスなどは持たないといわれています、後は傷口 を清潔に保てば大丈夫です(伝) 大友皇子之陵石造五重塔でこの墓はレプリカ。実物は近くの石雲寺へ移設されている11:45道路標識← 浄発願寺奥ノ院(約650m)、〈伝〉大友皇子の墓(約550m)・浄発願寺(約530m) →石雲寺718年、諸国行脚の華厳妙瑞法師が紫雲に導かれるままこの地に分け入り、大友皇子の冥福を祈り建立したとされる寺院。1489年、天渓宗恩が曹洞宗の寺として再興し、現在に至る曹洞宗 石雲寺 駐車場所在地:神奈川県伊勢原市日向1767石雲寺縁起寺伝によれば、八世紀初めの養老2年、諸国を行脚していた華厳妙瑞という法師が日向へやって来た。法師が山中の石上に座し瞑想すると、渓谷に紫雲を認め、不思議に思った法師が、河原に降りると周囲三丈(十メートル程)の石の上方に紫雲がたなびいていて、法師は一心に仏・菩薩の名号を唱えたところ、仏・菩薩の御姿が現れたという。里人に尋ねたところ、その昔、壬申の乱で敗れた大友皇子が近江国から逃れ住まわれ、この地で亡くなられ、従者も殉死したという。哀れに思った法師は精舎を建て、皇子の菩薩を弔うこととした。これが石雲寺の草創である。皇子の墓所は当初、遺言により松を植えただけであったが、鎌倉時代になって従者の子孫が石で五重の塔を建てたという。永禄年間、天渓宗恩和尚が曹洞宗として中興開山され、天文12年に北條幻庵から朱印状を拝領した頃、寺院としての基盤が確立したようだ。当初の寺院名は「雨降院」で、後に開創の縁起に因んで「石雲寺」と改められている日本遺産のまち伊勢原 日本遺産の構成文化財 ~ 石雲寺と日向地区の文化財 ~《信仰の地「大山」の生い立ち》大山への信仰は古く、奈良時代には、霊山寺(現・宝城坊。通称・日向薬師)、石雲寺、大山寺が開かれ、平安時代にまとめられた「延喜式神名帳」に記される阿夫利神社や比々多神社、高部屋神社の成立などにより、信仰の地としての姿が整えられていった。※日本遺産は、我が国の文化・伝統を語る ”ストーリー” を文化庁が認定するものです日向地区の文化財位置図①石造五層塔、石雲寺、②〈伝〉大友皇子の墓、③宝城坊、④日陰道、⑤浄発願寺、⑥浄発願寺・奥ノ院、⑦勝五郎地蔵石雲寺山門下紅葉時期も期待できるわたしたちの宗旨は宗 名:曹洞宗(禅宗)です伝 統:曹洞宗はお釈迦さまより歴代の祖師がたによって相続されてきた正伝の仏法です日本開宗:曹洞宗は今から八百年ほど前、鎌倉時代に高祖道元禅師さまが我が国に伝えて、 ゆるぎなき基礎をきずかれ、四代目の太祖瑩山禅師さまが一層盛んになさいまし た。このお二方を両祖大師と申し上げます大 本 山 :福井県の永平寺(高祖道元禅師さま御開山) 横浜市の総持寺(太祖瑩山禅師さま御開山)本 尊:曹洞宗はお釈迦さまをご本尊として仰ぎます本尊唱名:南無釈迦牟尼仏教 義:わたしたちはみな仏の子であり、生まれながらに仏心を具えています。しかし、 それに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみ悩みのもとをつくっています。 ひとたび仏さまに懴悔し帰依するならば、心が落ち着いておのずから生活が調え られて明るくなり社会のお役に立つことを喜び、又、どんな苦難にも耐えて生き 抜こうとする信念が生まれます。そこに生きがいと幸福とを発見するのが曹洞宗 の教えでありますお 経:修証義 般若心経 観音経 寿量品等の諸経典を読誦します伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」石雲寺境内に石造りの五層塔があります。かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。この石塔は壬申の乱(672年)で敗れた大友皇子の墓との伝承があり、通称「大友皇子の墓」と呼ばれていますが、石塔そのものは鎌倉時代末から南北朝時代の初め(14世紀前半)に造られたものと考えられます。・・・・・略・・・・・参道の階段廻りには彼岸花新しく新築された山門山門新築寄進平成30年10月吉日施主 新田堀江家 二十八世 義仙代山門から本堂を見上げる階段を登り本堂へ本堂前から山門を見下ろす石雲寺 本堂本堂の扁額「雨降山」本堂にぶら下がる「梆(ほう)」梆(ほう)ついて「魚鼓(ぎょく)」とも言われ、木魚の原形と言われます。修行道場では、坐禅や寝食の根本道場である「僧堂(そうどう)」の堂内に吊され、食事の時間になると打ち鳴らされ、修行道場全域にいる修行僧は、この音を聞いて僧堂に参集します11:57伊勢原市指定文化財 有形文化財 「日向渕ノ上石造五層塔」この石塔は壬申の乱(672年)で破れた大友皇子の墓との伝承があり、かつては、石雲寺から東へ400mほど下り、御所の入橋を渡った日向川の右岸にありました。文化財指定を受けた後、貴重な層塔の毀損を防ぎ適正に管理するために、令和2年に当地に移設し、旧所在地にはレプリカを設置しました ― 続く ―
2020.10.12
閲覧総数 774
10

自分が生まれた故郷がGoogleマップで見ると更地になっていたので、確認のため十数年ぶりに訪れた。9月21日(土) 8:15かつてはこの狭い道をボンネットトラックが走っていたのを思い出す。田んぼも石垣を積み上げた棚田である。目的地の敷地へ到着、更地になっていた。ここに平屋の家があった。夜寝ていると横を流れる小川の水音が気になった。亡き父が戦地中国から帰国後、亡き母と結婚、この地にしばらく住み私が誕生したと。よって私のルーツはここに。屋敷の下に畑があり祖母が野菜等を作っていた。また棚田では子供の頃よく祖母の田植え、稲刈りを手伝ったものだ。先ほど来た南東方向のバス道を見下ろす。跡継ぎの従弟が私の実家近くに出ているので長い間不在の状態であった。バス道が見える方向をズームアップ。車を止めている辺りに、かつては炭焼きの窯があった。また甘柿の木もあった。南西方向の山には母の実家の墓地がありよくお参りした。田んぼの中の畦道を上ったが、きらいな蛇が出ることもあり嫌な思い出の道である。墓地があった方向をズームアップするが、大きな家が建てられていた。ちょうどおられた隣の方と話をし「ここの墓地は他の場所へ移された」と。また「歳をとると坂が多く墓参りするのも大変です」と。亡き伯父の俳句を想いだす「目を閉じて故郷の畔に佇ちつくす」。伯父も次男坊で故郷を離れ大阪に居を構えられた、その影響で私も田舎を後にした。今年大磯の「六所神社」を参拝したときこの神社の事をお思い出し今回訪れた。母の実家後から数百メートル坂道を上りここへ。右側に「お堂」があった。荒神社(こうじんしゃ)所在地:広島県福山市新市町金丸1409−2子供のころ秋祭りだったか、神楽を見た神社である。だがその頃のこの神社の記憶はない。Googleマップで見ると福山市のこの辺りには「荒神社」が多くみられる。境内には木が一本聳えていた。根元には石燈籠。荒神社荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んだったようである。各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200社)、広島(140社)、島根(120社)、兵庫(110社)、愛媛(65社)、香川(35社)、鳥取(30社)、徳島(30社)、山口(27社)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多いと。社殿の扁額「荒神社」。社号標石には「荒神社」。側面には「皇太子殿下御成婚記念」と。右奥の坂を上ると溜池がありこの辺りの棚田を潤していたが。石碑には「護穀神」と。木の根元には、石燈籠、左側には五輪塔らしきものがあったが説明板はなかった。荒神社の向かい側にはかつては神楽殿があり、その舞台で神楽が行われていた。当時 (小学校低学年ころ) はテレビもなくこの神楽を楽しみにしていた。大磯の六所神社の説明板から、神話「八岐大蛇(やまたのおろち)」を神楽で見たことを思い出し今回訪れるきっかけになった。 その六所神社の説明板には、「高天原より出雲国(現在の島根県)に降り立った素戔嗚尊様は夫婦神足名椎命(あしなづちのみ こと)と手名椎命(てなづちのみこと)とその娘の櫛稲田姫命様に出会いました。彼らは泣いて おり、理由を聞けば八岐大蛇という怪物に娘が食べられてしまうと途方に暮れておりました。 八岐大蛇とは、頭が八つ、目は赤く、身体にはコケやスギが生え、その大きさは八つの谷と 山に渡る巨大な怪物です。そこで素戔嗚尊様は娘を助けるべく作戦を立てました。 八岐大蛇が来る頃に合わせ、お酒を造り、八つの樽に酒を満たしました。そこに現れた八岐 大蛇は、お酒の匂いに誘われ、お酒をたくさん飲んだ挙句、酔って眠ってしまいました。 それを見計らい退治に向かう素戔嗚尊様に、櫛稲田姫命様は少しでもお力になりたいと自ら の御姿を「湯津爪櫛(ゆつつまくし)」という「櫛」(櫛魂) に変えられました。それを素戔嗚 尊様は髪に挿し、櫛稲田姫命様の櫛魂(くしみたま)(強い御力)と共に退治に向かわれました。 大きな力を得た素戔嗚尊様は、八岐大蛇を無事に退治することが出来ました。すると、八岐 大蛇の尾から立派な太刀が出てきます。それが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、別名草 薙剣(くさなぎのつるぎ)ともいわれ、天皇陛下の三種の神器の一つとなります。 無事に八岐大蛇を退治した素戔嗚尊様は、出雲に宮殿を建て、櫛稲田姫命様と結婚されまし た。これが、神話では最初の結婚となります。 その時に素戔嗚尊様は「八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を」とい う歌を詠まれ、妻である櫛稲田姫命様をとても大事にされました。またこの歌が和歌の起源 とされています」と。入口に「花屋集会所」と。道を挟んで「お堂」があった。このような建物は関東ではないのでは。お堂町の出入り口には、病気にかからないようにまじないのお札が柱にくくりつけられています。そこを出るとお堂があります。お堂は町の人たちが協力して建てたもので、中には地蔵菩薩が据えられていて、皆がお祈りにきますと(ネットから)。お堂の中には8基の地蔵菩薩が据えられていた。名が刻まれていたのか未確認。お堂に貼られていた「月見山観音寺・花屋集会所掃除当番表 2024年度以降」。掃除は、毎月各組輪番に行う(但し、総合祭りは、祭り当番組「宮庄屋」が行う。)2024年4月 ~ 2027年3月まで記載されていた。8:30懐かしい荒神社を後にすることに。次の目的地は「満州分村常金丸開拓団追憶之碑」の確認。荒神社からバス道へ下りる。8:35金丸天神社所在地:広島県福山市新市町金丸663社号標石「金丸天神社」。バス道の旧道脇に車を止め参拝。今回の目的は「満州分村常金丸開拓団追憶之碑」の確認であった。母方の祖母が戦時中満州に行っていたので興味があり訪れた。鳥居の左側にその石碑があった。鳥居の扁額「元〇宮」は、「天満宮」か。金丸天神社殿創始は不明である。元は天神山に祀られていたが、貞享四年(1687)に現在地に遷座した。嘉永四年(1851)庄屋馬屋原氏の発起により現在の社殿が再建されたとある。その本殿であるが三間社入母屋造りで千鳥破風が付く。向拝は軒唐破風で、屋根は銅板葺きだが素晴らしい本殿。組物、彫物とも凝ったものが施されていた。本殿正面に掲げられた「天満宮」の額は、祭神である菅原道真の子孫、従二位前中納言菅原為定卿が安政五年(1858)に奉納した。昭和六十二年には遷座三百年を記念し、往古より祀られていた菅原道真公の御神仏を復元することとし、新市町出身の彫刻家、陶山定人(すやまさだと)氏に依頼し氏子中より奉献されたとある。時間がなく高所にあったので階段下で引き返した(写真はネットから)。鳥居の左側へ回り込む。満州分村常金丸開拓団追憶之碑満州分村常金丸開拓団追憶之碑我が国は昭和七年中国東北地区に関東軍として、満州帝国を擁立し、爾来満蒙開拓を重要国策とし、大東亜戦争末期に至るも猶全国から多数の満州移民を企画推進、常金丸村に於ても斯る戦図拡大非常体制下にあって、国及び県の強い○○を受け昭和十八年秋、村内各層の意を賞し満州への分村計画を樹立、村議会は分村予算を補正してこれを議決、直ちに満州分村常金丸開拓団を編成、村議内田正雄を団長に充て、農事・警備・経理の幹部指導員を任命、基幹先遣隊員十六名を採用、渡満訓錬を修えしの昭和十九年正月先遣隊は村社天満宮の分祠を背負い分村旗を翻して酷寒の北満に渡る。この時広島県は第十三次広島県綜合開拓団として常金丸、比婆、西城、佐伯、高田の五個団先遣隊を県庁に於て、壮行激励して送出した。入植現地は満州中央部の吉林省徳恵県岔路口、松花江村一帯の既耕地が収用確保されており、民家を接収して団本部基地とし、先遣隊は住宅建設団用地の配分区割、馬匹の調達、営農資材搬入等入植條件の整備を図り、本隊員、家族を陸続と招致、学校も開き共同耕作による作付の終る頃、兵役のある団員は悉く招集され老幼婦女子で守り守備する、昭和二十年八月突如ソ連軍の侵攻を受け、夢想だにせざりし日本降伏の報に暴徒化した群衆の報復行動は凄まじく、団長は分散していた全員を急遽本部へ終結させ、自衛手段を執るも連日の襲撃に抗し難く窮地に陥り、本部に放火全員自決の寸前、軍部の鎮圧により三名の銃殺犠牲を供して漸く冷静化したが、動乱中被服・食糧を掠奪され孤立し無残にも飢餓に喘ぎ、酷寒に凍え栄養失調、伝染病に倒れる者苦難の逃避行に力尽き果て草むす屍となった、九十八名の殉難者を残し敗残者の如く昭和二十一年秋母村を頼って引揚げたのである。五族協和、王道楽土の日満一体化政策は正鵠を得ず。反って現地民衆を抑圧、侵犯した事実は全く遺憾至極と深く自戒し、併せて国策に殉じた同朋の望郷の念切々たりしを想う時、痛恨哀惜の情絶ち難く、更なる日中友好と永遠なる恒久平和を希求して、満州分村滅亡五十周年に当〇、生存元団員相議り松花江常金丸開拓団殉難の得〇を詳述し、背部に参加者名を刻して追憶の碑とす。 平成七年八月十五日 生存元開拓団員一同撰録 用地提供 山手正則 〇苑施工 小寺一史 境内への道は鳥居をくぐると左側に階段があった。このブログを作成しながら車で行けるので参拝すればよかったと後悔したが。福山市立常金丸小学校 常金丸放課後児童クラブ所在地:広島県福山市新市町大字金丸684かつては「新市町立常金丸小学校」であった。校門には「福山市立 常金丸小学校」と。左側の門柱には校章と村のシンボル菊。放課後児童クラブの目的は、保護者が就労などで昼間家庭にいない児童に、授業の終了後に施設を利用して遊び及び生活の場を提供し、その健全育成を図ることを目的としている。対象児童は市内の小学校に在学又は市内に住所を有する児童。8:40後方の山の中腹に先ほどの「金丸天神社」が鎮座しており石段が見える。校舎をズームアップ。「ありがとう 常金丸」の横断幕、子どもの絵も。 ー 続く ー
2024.10.20
閲覧総数 719
11

今年も早6月、ハナショウブが咲く時期になり久しぶりに綾瀬市にある「蟹ヶ谷公園」へ。併せていつものように周辺にある寺社史蹟を訪れた。6月1日(月) 10:30昼食を欠食して愛車のノートで出かけ、寒川から県道45号線(中原街道)を北上。今日の散策周辺(Googleマップより)。目的地は今年4月初めに訪れた「女坂花桃の道」周辺である。県道45号線(中原街道)と県道43号線(藤沢厚木線)が交差する用田交差点。この交差点は何度も通っているがここに「用田の大山道標」がある。用田の大山道標所在地:神奈川県藤沢市用田交差点隅に大山道標があったが周りにカラフルな看板があり所在が分かりずらかった。史跡だけにこのような看板の設置は規制する必要があるのではと思うが。看板の前に3基の石塔が並んでおりお供え物があった。地元の高齢者はこの存在を知っているのであろうが説明板もなく若者は知らないものに。風化した道標の上に設置されている不動明王。不動明王下の石塔正面には「右大山~」と確認できた。不動明王をズームアップ。正面からは看板が邪魔になり景観を損なっている。右側に回り込み。ここにも「薬 CREATE」が営業。神奈川県を中心にドラッグストア・調剤薬局を展開しており、食料品も扱っているのでよく利用する。不動明王の台座は相当風化している。正面には「右大山~」右側面には「安永四年・・・」が辛うじて確認できたが、将来はどうなるのか。 右側の石板には、発起人が記され、昭和三十五年十月ニ十八日 県道改修工事□□記念」と。また、不動明王の下にある石塔と、左の石塔は相当風化が進んでいるので古い物かと。カラフルな看板に囲まれていて存在が分かりづらい。用田交差点ここの北側にが県道22号線(用田バイパス)がありかつての交通の要衝地である。今でも?。バス停「用田辻」。この先は県道22号線(用田バイパス)の新用田辻交差点。新用田辻交差点の先にある”道祖神”。向かい側にはドッグカフェの「マハロガーデン」がある。比較的新しい「双体道祖神」である。道祖神の後方から県道45号線(中原街道)を見る。子育て地蔵所在地:神奈川県藤沢市用田1571-1子供の成長を祈願して祀られている”子育て地蔵”で、藤沢市内にいくつもある。祠の中には地蔵と千羽鶴が奉納されているのだが。右側の石碑には、「奉納 子育地蔵 講中一同 平成二十九年酉年 春彼岸建立」と。赤頭巾、前掛けをした地蔵。子育地蔵堂前から大山を望む。用田の地層は赤土であったか。後方を東海道新幹線が横切っていた。県道45号線(中原街道)沿いの住宅地の一角に”道祖神”があった。舟形光背の双体道祖神像。風化が相当進み文字の判別は難しいが、右に「宝暦十三〇年」」 左に「九月吉日 伊藤氏」と。連接バスのツインライナーが通過。恐らく”慶応義塾大学湘南藤沢キャンパスへ行くのであろう。東海道新幹線の高架橋。この先を斜め右に入ると「法華山示現寺」があるのだが後立ち寄ることに。バス停「用田神社入口」とは「用田寒川社」のことであろうか。子育地蔵堂前に戻り、次に「護法山寿昌寺」へ参拝することに。農作業中の畑の後方を上り東海道新幹線が通過。畑では家族で野菜を収穫されていた。ズームアップ。立ち止まりこの野菜は何かと撮影していると、農作業中の若い女性が来られたので「この野菜は」と聞くと「カーリーケールで最近スーパーで販売している」と。始めてみた野菜でネットで検索すると、「カーリーケールは、葉がギザギザでくるくると縮れているのが特徴のケールで、見た目 にもインパクトがあります 。一般的なケールに比べて苦味や青臭さが少なく、ほんのり 甘みを感じることもあり、生でも食べやすい品種です。葉が柔らかいため、サラダやス ムージー、炒め物など幅広い料理に使えます」と。収穫は延びて来た葉を取り束ねて出荷すると。立ち話をしている間に次の下り新幹線が通過。新幹線のガードを潜り進むと道路脇の右上の高い場所に道祖神があった。Googleマップには「双体道祖神」と記載されている。草が生い茂るとその存在が分からなくなるので周りはカットされていた。風化が進んだ双体道祖神。巨木が聳える寿昌寺。寿昌寺山門中将姫伝説にも登場する古刹、護法山寿昌寺である。11:00山門前から南側を横切る東海道新幹線を望む。過密ダイヤで5分ごとに通過している。手前には寿昌寺の参詣者用駐車場があった。 ー 続く ー
2026.06.12
閲覧総数 75
12

いまだ新型コロナウイルスがおさまらないコロナ禍で不要不急の自粛要請の中、自分の体力維持も大切であるため3密(密集、密接、密閉)、そして飛沫感染によるリスクの少ない、自転車で鎌倉の古刹の梅鑑賞に訪れた。2月6日(土) 8:30我が家の玄関先の梅は開花前。鎌倉の開花状況が気になるが、天気は最高。電動アシスト自転車の手元標示板のバッテリー残量は 100%、走行可能距離は 54kmで出発今回も旧東海道(国道1号)を走り北鎌倉へ向かう。藤沢市内に入る旧東海道(県道43号線)沿いに、メルシャン藤沢工場ワイン生産は、この藤沢工場によって神奈川県が都道府県で日本一の生産量となっている先日(1/30)訪れた、藤沢七福神の「布袋の養命寺」旧東海道(県道43号線)の湘南高校入口交差点を右折中学通り線を南下、道路沿いの高校のフェンスに、「令和3年(2021)5月1日 おかげさまで創立100周年 湘南高等学校」小田急線の高架藤沢駅北口入口交差点で県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)と合流。県道30号線(戸塚茅ヶ崎線)を左折して東方向へ坂を上り、ここから下ると藤沢橋この道路は正月の大学箱根駅伝のコースである9:02国道467号(町田街道)と合流する藤沢橋藤沢七福神めぐりの時は、ここから南下して江の島へ向かった藤沢橋を直進しこの先の遊行寺交差点を右折して県道302号線を大船方面へ。直進すると遊行寺坂、大学駅伝の復路8区で選手を苦しめる最後の難所の坂である県道302号線(小袋谷藤沢線)を大船方面へ進む9:14坂を上り、この先から鎌倉市へ入り坂を下る。この道は昨年の12月8日(火)に北鎌倉、長谷寺へ行った時も走った道である。ここまで坂道であるが電動アシスト自転車のため楽である9:23坂を下り県道302号線(小袋谷藤沢線)の右側に入り、スマホで確認しながら到着。浄土宗 貞宗寺(ていそうじ)所在地:神奈川県鎌倉市植木656山号は玉縄山で、玉縄山珠光院貞宗寺と称し、境内は梅の名所として知られる。門前に咲く紅梅は見頃に自転車を止め境内へ境内の南側にある「御霊屋」御霊屋の扁額「御霊屋」境内に咲く紅梅白梅はこれから貞宗寺本堂本尊は阿弥陀三尊。開基は貞宗院(西郷局の母、徳川秀忠の祖母)。開山(仏教)は大長寺住職源栄暁誉源栄。棟のとても短い寄棟造(よせむねづくり)で、向拝(こうはい。せり出した屋根)がふっくらした切妻になっており、左右対称でない位置についているのがお屋敷のようでちょっと珍しい本堂の屋根には「徳川氏の家紋 三つ葉葵」本堂の扁額「貞宗寺」ミツマタ貞宗寺を後にするが、梅の開花はこれから本格的になる9:34県道302号線(小袋谷藤沢線)を進み、日比谷花壇大船フラワーセンター所在地:神奈川県鎌倉市岡本1018平成30年(2018)4月1日に「神奈川県立フラワーセンター大船植物園」は、名称を「神奈川県立大船フラワーセンター」に改め、また、ネーミングライツ制度を導入し「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称でリニューアルオープンした入園料:65歳以上は 150円JR東海道本線の山崎跨線橋上から、鎌倉武道館の壁面9:43山崎跨線橋南交差点を左折、県道304号線(腰越大船線)を走り正面に湘南モノレールの橋脚県道304号線の台二丁目交差点この先を右折して県道302号線(小袋谷藤沢線)へ10:00県道302号線(小袋谷藤沢線)を南下、小袋谷交差点から県道21号線(横浜鎌倉線=鎌倉街道)北鎌倉の大本山圓覚寺入口成田エクスプレスの列車10:03曹洞宗 東慶寺(とうけいじ)所在地:神奈川県鎌倉市山ノ内1367梅、桜、紅葉見物に人気の高い季節いずれも人気のある東慶寺。駆け込み寺としての歴史、鈴木大拙を輩出した経歴など知名度抜群の寺である東慶寺(とうけいじ)鎌倉幕府の第八代執権北条時宗の夫人・覚山志道尼が開創。夫から離縁状をもらわない限り、妻からは別れることができなかった時代に、駆け込めば離縁できる女人救済の寺として、開山以来六百年近く縁切りの寺法を引き継いできました。後醍醐天皇の皇女・用堂尼の入寺以後は、松岡御所と称され、寺格の高い尼寺として名を馳せるようになり、室町時代には鎌倉尼五山第二位に列せられていました。明治時代になると寺法に終わりを告げ、釈宗演禅師を中興開山とする臨済宗円覚寺派の禅寺となりました。境内にはウメやハナショウブ、アジサイなど様々な花が植えられ四季を通じて楽しめます。学者や作家の墓が多いことでも有名で、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、高見順、小林秀雄らの墓があります。 ● 宗 派:臨済宗円覚寺派 ● 山号寺号:松岡山東慶総持禅寺(しょうこうざんとうけいそうじぜんじ) ● 建 立:弘安8年(1285) ● 開 山:覚山志道尼(かくざんしどうに) ● 開 基:北条貞時文学案内板「東慶寺」東慶寺は、文学に大変ゆかりの深い寺で、江戸時代より紀行文や川柳に描かれ、明治以後は小説、短歌、俳句など、多数の文学作品に描かれています。また、境内や墓地には文学碑や文人の墓が多いことでも知られていますが、この案内板では、寺内の文学関係碑と文人などの墓を紹介しました。● 文学関係碑(五十音順) 朝比奈宗源漢詩碑・太田水穂歌碑・三枝博音句碑・四賀光子歌碑・釈宗演と佐佐木信綱歌 碑・高見順詩碑・田島絹亮句碑・田島房子歌碑・田村俊子記念碑・徳富蘇峰漢詩碑・中村 汀女句碑・野田大魂句碑・眞杉静枝墓背誌・松下隆章句碑● 文人の墓(「現代日本文学大辞典」明治書院 収録者) 安倍能成(哲学者)・岩波茂雄(岩波書店創業)・太田水穂(歌人)・川田順(歌人)・小林勇(随 筆家)・小林秀雄(文芸評論家)・三枝博音(哲学者)・ささきふさ(小説家)・佐佐木茂索(小 説家)・四賀光子(歌人)・神西清(小説家・翻訳家)・鈴木大拙(仏教学者)・高見順(小説家) ・田村俊子(小説家)・西田幾多郎(哲学者)・野上豊一郎(英文学者)・野上弥生子(小説家) ・眞杉静枝(小説家)・和辻哲郎(哲学者)県道21号線(鎌倉街道)から入り参道を進み階段を上り山門へ山門下にある「夏目漱石参禅百年記念碑」 平成六年十一月九日 漱石忌建立夏目漱石参禅百年記念碑漱石は明治27年(1894)年末より翌年1月10日まで円覚寺内の帰源院(石段の真向いの寺)に止宿し、時の円覚寺管長釈宗演(1859~1919)に参禅した。帰源院には当時帝大の哲学者鈴木貞太郎(後の大拙居士)も参禅中であった。この参禅の体験は「門」にくわしい。18年後の大正元年(1912)9月11日当時この東慶寺に遷住の宗演を再訪した。碑の上段の宗演の書簡と下段の漱石の文は、それを示す書簡の「鹿山に来山」とは瑞鹿山円覚寺に来山して参禅したということ。Zは満鉄総裁中村是公「その顰に倣った」とは「連れション」のこと、ここは文学である。宗演は漱石来参の前年(1892)秋、シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表として出席し禅を英語で説き、後に鈴木大拙渡米しZENが世界に知られるに至る。漱石のこの文中に宗演を「智識」と讃えるとおり、釈宗演は近代仏教界の高僧である。宗演の墓は当山寺墓の奥に在る石段を上り山門へと茅葺の山門江戸時代には街道に面して大門があり、現在の山門は中門で男子禁制の結界だった山門から境内を臨むこの日は拝観料はいらなかったが本堂へと続く細長い道の両側には数十本の見事な梅が咲く姿は圧巻だと!しかしまだ早かった紅梅もまだつぼみ鐘楼を振り返るマンサク(満作)早春の花木 豊年満作 縁起木マンサクは2~3月に葉に先駆けて花が咲く。花にはがく、花弁と雄蕊および仮雄蕊が4個ずつあり雌蕊は2本の花柱を持つ。がくは赤褐色または緑色で円い。花弁は黄色で長さ1.5cmほどの細長いひも状になる白梅もチラホラと咲く10:12本堂前本堂への道脇に、東慶寺では現在、「杜の学校」代表 矢野智徳氏の指導のもと、境内の土壌と水脈環境の改善(大地の再生)に取り組んでおり、あえて雑草や落葉などを放置している箇所がございます。見苦しく映ることもあるかと存じますが、上辺だけ美しい庭園づくりではなく、本当に豊かでたくましい自然環境を作るための処置でありますので、寛大なお心で今後の変化を見守っていただければ幸いです。 ー 続く ー
2021.02.24
閲覧総数 205
13

今日23日は私の誕生日、さて何でお祝いするか?茅ケ崎市の寺社史蹟巡りで、今日は茅ヶ崎市の北部地区、西地区を愛車のリンちゃんで巡った。白峰寺は七福神巡りで既に訪れているが再度訪れた。自宅出発時のバッテリー残量、走行可能距離は、40%、33キロで市内移動には十分な残量。5月11日(水) 13:34茅ケ崎市の北部にある、松風台、みずき地区の新道を北上。この辺りの街路樹は「ハナミズキ」。駒寄川(こまよせがわ)に架かる新駒寄橋から西方向(下流)。この辺りは振興住宅地である。アクセスはJR茅ヶ崎駅までは4.5キロ、最寄り駅の相模線香川駅までは約1.0キロ。またこの辺りは以前相鉄いずみ野線の延伸計画があり、そのために収得された駒寄川流域の土地は2000年代に宅地開発され、新たに「みずき地区」が誕生した。駒寄川の下流側、天気が良ければ富士山が眺望できる。下流は小出川と合流するが平地であるため、ゲリラ豪雨対策で遊水地が設けられている。同橋から上流側を望む。駒寄川は堤にある清水谷(しみずやと)などを水源として、小出川との合流に至るまで約4km流れています。 駒寄の名前は古い時代、上流に馬の牧場(まきば)があったので駒寄とつけられたとも言われていますと。新駒寄橋に隣接して「せせらぎ公園」がある。下流側に「下寺尾官衙(かんが)遺跡群・下寺尾西方遺跡」がある。新駒寄橋から北上し、大岡越前通りとのみずき交差点を右折。東へ100メートルほど進むと「正一位伏見高倉稲荷神社」があるはずだが開発されて見当たらず。大岡越前通りを東に進み振り返る。以前は右側の小高い所に朱色の稲荷神社が建っていたのだが。宅地化された右側は「相模川左岸用水」で北方向。移設されたのか探すが見当たらず、近所の人とも会わず聞けなかったのでいつか聞いてみたい。相模川左岸用水は、昭和5年(1930)から昭和15年の歳月をかけて灌漑用水を完成させた。相模市、座間市、海老名市、寒川町、茅ヶ崎市の703ヘクタールに今も供給されている。用水路の下流側。水田へひかれるのであろうが現在では開発され水田が少なくなっているのだが。この時期水量が多くなっている。以前はこの水を利用して妻の実家も稲作を?相模川左岸用水に沿って坂道を上り、県道47号線(小出中央通り)へ。白峰寺の入口にある食事処の「武さし野」。生憎今日も定休日であった。13:53白峰寺は県道47号線(小出中央通り)沿いにある。坂道を挟んで左に「白峰寺」、右に「下寺尾諏訪神社」。入口に建つ寺号標石「景徳山 白峰寺」。入口に案内板。新しい「祈願町内安全 道祖神」、昭和五十三年二月吉日 川島新吉横には古い「双体神祇道祖神」碑、安永八(1779)年下寺尾諏訪神社所在地:神奈川県茅ケ崎市下寺尾1546-11下寺尾諏訪神社創建年代や由緒は不詳。当社はもともと、曹洞宗白峰寺の東側に鎮座していた。明治時代末期に堤地区の諏訪神社、行谷地区の金山神社、下寺尾の諏訪神社の三社が合祀され、現在の建彦神社となった。合祀以後、旧諏訪神社については白峰寺の一角に神社記念碑が残されるのみとなった。昭和60年(1985)、神輿が制作、完成したことをきっかけに、白峰寺の一角に神輿殿が造られた。さらに平成6年(1994)5月、建彦神社より御霊分けをし、社殿がここに設けられ、再建された。御祭神は建御名方命とされる。社殿の扁額「諏訪神社」社殿の横に「神輿殿」が建つ。神輿殿の扁額「神輿殿」。まだ、しめ飾り(正月?)が飾られていた。下寺尾神輿保存会一緒にみこし、担ごうぜ! 会員募集中境内の隅に「諏訪神社遺跡紀念碑」。下寺尾諏訪神社から桜並木の参道を下る。右側に「隨雲殿」。白峰寺受所入口には参拝用の花が売られていた。下寺尾諏訪神社から下り、西側にある、白峰寺(はくほうじ)所在地:神奈川県茅ケ崎市下寺尾1551白峰寺は犬猫などのペットを葬る寺として知られ、動物愛護協会による動物慰霊祭も行われています。また、小出七福神「 寿老人」のひとつである。境内入り口に案内板があったが塗装がはがれ確認できず、パンフレットから。本堂への途中右上に「隨雲殿」の入り口。左側の「本堂」と「隨雲殿」とは回廊で結ばれており庭には池が拡がっている。本堂右手前に「相州小出七福神 寿老人」の小さな社。本 堂曹洞宗 景徳山 白峰寺。開 基 松平家開 山 峩国(がこく)禅甫和尚創 建 天文13(1544)年本 尊 阿弥陀如来札 所 相州小出七福神(寿老人)札 所 相模国準四国八十八ヶ所第81番現在の本堂は、大正14年に火災により焼失したものに代わり、昭和2年に檀信徒の力添えにより再建されたもの。本堂の濡れ縁にはいつも七福神のスタンプが置かれている。本堂前に「観音堂」「常香炉」。本堂の左側に「地蔵堂」。地蔵をズームアップ。左側に大師堂が建つが今日は扉が閉まっていた。中には「弘法大師坐像」が鎮座。大師堂の右側には、石碑群があり、左には「馬頭観世音」碑。猿田彦太神、庚申塔が建つ。大師堂の左側から墓地へ、参道脇に「萬霊塔」。桜並木であったか参道の両側に墓石が建つ。参道の左側には、大きな墓碑が立つ。碑には「勇勝院忠頭信光居」と。こちらの碑には「故陸軍上等兵 島〇〇之墓」。裏面には、昭和十九年四月二十六日 南方ニテ戦死 二十四歳 施主 島○○参道右側にも墓石が建ち並ぶ。古い墓石には、「陸軍歩兵一等兵 勲八等 島留吉之墓」側面には「明治三十九年十一月十一日 大切自仙居士」明治三十九年は日露戦争での戦死者であろうか。新しい墓石の側面には、陸軍補充兵役主計兵として第三十五師団東部二九三二部隊に入隊大東亜戦争〇従軍昭和十九年二月廿八日西部ニューギニヤ マノクワリ沖にて戦死 行年 二十七歳この墓石には「故 陸軍伍長勲八等神部茂之墓」側面には、「武烈院勲誉忠範居士」現役兵として支那事に従軍功により勲八等に叙せらる昭和十六年十二月大東亜戦争に應召同廿年六月廿六月ビルマ國トングー市東方戦闘中戦死 行年 三十二歳参道を進み本堂裏側(北)に広がる墓地へ。14:11墓地への参道を振り返る。両側に墓石が並んでいたが全て戦死者の墓石。異国の地で散った若者に対して祖国を思い出させるために桜並木にしているのであろうか。現在のロシアによるウクライナ侵攻でも、多くの若者が戦死しているが痛ましい限りである。早い終結を祈るばかりです。 ー 続く ー
2022.05.23
閲覧総数 470
14

真鶴岩地区の散策を続ける。6月10日(金) 11:10如来寺跡所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町岩630帰命山如来寺は、1620年に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったと言われています。古い境内には石窟があり、中には石造りの十王像や菩薩坐像(聖観音像)、地蔵菩薩立像などが安置されており。地獄から天国を表しているのであった。洞窟入口がこの場所。如来寺あと新編相模風土記稿によると、帰命山如来寺は、元和6年(1620年)に建てられ、本尊は石仏の阿弥陀如来であったといわれます。のちに瀧門寺の末寺となり、明治年間に廃寺となりました。古い境内には石窟があり、中に石造の十王像や聖観音像、地蔵菩薩像などが安置されています。これらの造られた時期は明確ではありませんが、享保10年(1725年)の如来寺の財産目録に記されていますから、寺が建てられて間もないころと思われます。洞窟入口に立入禁止と。「崖崩落の危険性があるので、洞窟内には立ち入らないでください。 真鶴町教育委員会」。立入禁止のため洞窟内をズームアップ。手前に「閻魔様」が見えた。写真はネットから、かつて境内であった場所には今なお石窟が残されており、その中には石造の十王像や聖観音像、地蔵菩薩像などが安置されており、真新しい榊や花が添えられて今でも地域の信仰を集めてい るのである。洞窟入口の両側には多くの石塔が建ってる。石塔には「南無阿弥陀佛 寛永十七年七月」と刻まれている。江戸時代の石仏が数多く並ぶ。洞窟の外には数多くの無縁仏が肩を寄せ合い並んでいる。ズームアップすると側面に「享保・・・年十二月」と刻まれている。上の開口部からスマホで撮影。如来寺跡の隣にある「稲荷大明神」の鳥居。アジサイをズームアップ。如来寺跡を後にする。明治時代の廃仏毀釈の犠牲となった真鶴の如来寺岩窟である。岩海岸に弁天島。後方に真鶴ブルーラインの岩大橋が架かる。弁天島に鳥居が建っている。鉄分が多いのか海水が赤く染まっていたが。岩地区(いわちく)「間近で見る熔岩、石と人の歴史」岩地区は、約22~18万年前の火山活動で作られた高台です。岩熔岩グループ、白磯熔岩グループという二つの熔岩グループの間にある低地に集落が形成され、古くから石工の町として栄えてきました。ここでは割れ目(節理)や縞模様(流理構造)が形成された熔岩の崖、噴石丘(火砕丘)の断面を間近で見る事が出来る他、あちこちに歴史ある石造物を見つけることが出来ます。■ 岩地区の石造物 ・宝篋印塔(ほうきょういんとう) 明和4年(1767)に、村民の石材寄付で建設されました。本小松石より柔らかい新小松 石が使われ、細かな細工が施されています。 ・五層塔(ごそうとう) かつて岩地区に「岩松山光西寺」という寺があったことを証明する石造物。慶応3年 (1654)に一石から刻み出されており、岩石工の技術の高さが伺えます。■ 岩海岸(熔岩の崖) 海岸の崖(海食)は岩熔岩グループの堆積物です。爆発的な噴火で出来た噴石丘(火砕丘)を後 から流れてきた熔岩が覆い、熱で鉄分が酸化して赤くなっています。 覆った熔岩には、冷えて固まった時に出来た割れ目(節理)や縞模様(流離構造)が見られます。 ・節理とは 溶岩が冷えて固める時、体積が縮むことによって形成された割れ目 ・流離構造とは 種類や温度の違うマグマが混ざり合って冷えた際に出来る縞模様■ 如来寺跡の洞窟(噴石丘の断面) 噴石丘(火砕丘)をくり抜いて造られた洞窟。赤く酸化した熔岩の中を見る事が出来る珍しい 場所です。洞窟は自然に出来たものを、人が更に掘り進めたと思われます。説明板にミスがみられた:流理構造 or 流離構造 岩漁港何故かここに「湯河原 日帰り温泉」の看板が立つ。11:25岩海岸から帰路につき小田原へ向かうため、国道135号へ上る途中にあった、曹洞宗 瀧門寺所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町岩道路脇に、苔むした大きな「宝篋印塔」と「石仏」が建つ。旅友は2月に参拝しているので車中で待機するとのことで一人で散策。右上には「真鶴町立岩小学校」があったが廃校になっている。道路脇に立つ「奉納大乗妙典六十六部供養」と刻まれた石仏。宝篋印塔基台を含め高さ6.8m、明和四年(1767)に十三世鳳洲了悟和尚 (ほうしゅうりょうごおしょう) が万民の幸せを祈って建立したもの。多くの善男善女の浄財と労力奉仕により、宝篋印塔が建立されたと刻まれている。宝篋印塔は小松石による関東随一の石造物といわれている。小松石は箱根の火山活動によってできた安山岩。真鶴しか採れない石で、鎌倉に幕府を開いた源頼朝も小松石の巨石を運ばせたのだという。旧真鶴町立岩小学校の階段下に立つ「観世音菩薩」碑。正面は瀧門寺への参道、右側の階段を上ると「旧真鶴町立岩小学校」へ。参道左側に多くの苔むした石塔が並ぶ。珍しく飾られていない六地蔵。五層塔と頌徳碑山門に向かって階段下右手にある五層塔は、廃寺となった岩松山光西寺の遺物です。塔身は一つの石からつくり上げられたもので、江戸初期(1654年建立)の彫刻技術水準の高さを示しています。また、参道の左手にある頌徳碑は、東叡山寛永寺(東京・上野)の宝塔造営事業をなしとげた宮石工棟梁三津木徳兵衛の功績をたたえ、天保二年(1831)に建てられたものです。いずれもこの地方の石材業や石材技術を示す貴重な資料です。 真 鶴 町 真鶴町教育委員会左側の石碑には「旅順院忠誉大義居士」、右側は「関東院義誉良雄居士」と。石碑は苔むしており説明も無いのでわかりづらい。左側の碑には「旅順院忠山義道居士」、右側にも刻まれていたが。左側に、「五層塔」と右に「大乗妙典六十六部供養塔」。五層塔五層塔は、万寿冠者を葬った塔で、もとは光西寺(廃寺)にあったものだという。万寿は、土肥遠平の子で、母は伊東祐親の娘・万劫。父は源氏に、母は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。近くの児子神社には、村人によって万寿が祀られたと伝えられている と。参道左手には古くから伝わっているのであろう石仏の姿。山門を見上げ、階段の右側には、「水子・子育地蔵菩薩」の社が建つ。水子・子育地蔵菩薩碑本来「水子」は「すいじ」と読んで、生後間もない赤ちゃんのことを指していたと。江戸時代を含めいわゆる流れてしまったほうの「水子」は多数存在しましたが、特にその魂の行方について心配する風習はなかったのだと。人間の魂はあくまで生まれてから7日たった以降しか宿らないと考えられていたためであると。社の中の「水子・子育地蔵」。水子・子育地蔵菩薩の社の右側に石祠。アジサイに囲まれた五輪塔があったが。階段を上り山門へ。山門から階段下の参道を見下ろす。右側には多くの石塔が並ぶ。山門を入ると右側に茅葺の鐘楼。山門の左側にも苔むした五輪塔、石塔が並ぶ。茅葺き屋根の本堂瀧門寺は、弘法大師の草創と伝えられる寺。山号は久遠山不動院、本尊は阿弥陀如来。1374年(応安7年)、熱海に湯治に行く途中に立ち寄った義堂周信は、詩集『空華集』の中に「遊瀧門寺観瀑布題観音堂壁」という文字を残している。(瀧門寺に遊び瀑布を観、観音堂壁に題す)伝説によると、開山の道禅は、かつて寺の背後にあった瀧に鬼神を感じて一夜にして堂宇を建てたのだという。その後、瀧門寺は周辺の村々に6つの末寺を抱える当地でも有数の寺格寺院の1つであった。山号は瀧門寺背後の山の頂に多宝塔があったところから、また寺号は背後に滝を抱えていたところから名付けられたとされている。伊豆の国市(旧韮山町)の昌渓院を本寺とするが、古い時代は密宗だったと伝えられている。1573年(天正元年)に、林屋(りんおく)という僧によって中興開山され曹洞宗に寺院になった。本堂の右側には、これも茅葺き屋根の寺務所、庫裡。本堂、庫裏、鐘楼は茅葺屋根で 1730年代の建物と考えられていると。内陣を望む。内陣に掲げられた扁額「○○山」。祭壇をズームアップ。本堂前から山門、鐘楼を見下ろす。境内には保育園舎があるので多くの遊具があった。本堂左側に建つ「保育園舎」。境内から階段を下り、五層塔の裏に建つ「慰霊碑」だが字が解読できず。11:35旧真鶴町立岩小学校平成16年(2004)3月に廃校となり、同年4月に「真鶴小学校」と共に「まなづる小学校」として統合された。現在、跡地は「真鶴町立岩ふれあい館」になっている。校庭の隅に石碑、右側の石碑には、「岩 岩 岩の子われら」。中央には校歌「ありがとう 岩小学校」。左にはお馴染みの「二宮金次郎」の像が建つ。校歌「ありがとう 岩小学校」。 ー 続く ー
2022.07.05
閲覧総数 670
15

パレードゴールの東横イン前から折り返し、湘南スターモールを西へ向かう。7月8日(金) 10:38湘南スターモール1。七夕飾りには掲出メーカー名が記載されており、「共同掲出協賛企業」。束ねられた支柱竹には補強用の多くのロープが張られている。湘南スターモール1。このエリアには、特選に選ばれた「片野屋」がある。右は「スルガ銀行」、左は「共同掲出協賛企業」。共同掲出協賛企業が読く。小松製作所、三菱UFJ銀行、フジタ ほか。左は、「共同掲出協賛企業」、右は「平塚市商店街連合会」。平塚市都市提携委員会平塚市との友好都市名が入っている。友好都市の、伊豆市、花巻市、高山市。湘南スターモールも人が多くなる。前方右に「湘南ベルマーレ」。湘南ベルマーレのメンバー写真。ベルマーレもJ1で頑張っているが。掲出は「平塚信用金庫」。大谷翔平人気で今年は2本の七夕飾りがあった。小学生も課外教育の一環で訪れていた。湘南スターモール沿いに、社会福祉法人 進和学園からのメッセージ。「みんな笑がオー!で未来にトライ! 2022年の干支はトラ!」。掲出は「港地区体育振興会」。湘南スターモールの七夕飾りは歩道から竹の支柱を建て飾りを吊り下げている。右側に「平塚市工業会連合会」「神奈中グループ」、左に「平塚市体育振興会」。平塚市工業会連合会の「日本童話」。前方に「特選に選ばれた、片野屋」の七夕飾り。特選の片野屋をズームアップ。4つの舞台の人形が回転していた。10:45紅谷町まちかど広場前に、準特選に選ばれた七夕飾り。11時半からのパレードまでにはまだ時間があるので、紅谷パールロードへ行くことに。紅谷パールロードは湘南スターモールの南側にある。丸印は、「特選 平塚市飲食店有志の会」。紅谷パールロード入口の前に、「Super D'station 平塚駅前店」所在地:神奈川県平塚市紅谷町13-1パチンコ店で、駐車場も平塚駅前最大の800台を無料完備している。北側に道路を挟んで「紅谷町まちかど広場」がある。Super D'station 前から東側に、紅谷パールロード入口。ここの近くに「番町皿屋敷 お菊塚」があるので先に立ち寄ることに。スマホの案内で、紅谷Beロードを西へ向かう。道路はモール化されておりボックスの上にモニュメント。ボックスの壁面に、「地球の丸み」ここに設置した9点の彫刻は作者が地球の上を歩いてみて感じとった心象風景を現代彫刻に表現したものです。 1990年4月 内田 和孝地球の丸みー2地球の丸みー3紅谷Beロードから路地を南に入り「番町皿屋敷 お菊塚」所在地:神奈川県平塚市紅谷町15-22紅谷町公園になっているのだがフェンスに囲まれ工事中であった。公園内をフェンス越しに撮影。怪談で有名な「皿屋敷」の逸話は日本全国に残されていますが、現在の兵庫県姫路市が舞台の「播州皿屋敷」、江戸の番町が舞台の「番町皿屋敷」が特に有名です。ここに眠っていたとされる「お菊さん」という女性はもちろん実在の人物でした。江戸時代、平塚宿の宿役人であった四代目「眞壁源右衛門」の娘でしたが、それと同時に大変な美貌の持ち主として有名な女性であったようです。再度、紅谷Beロードに戻り「地球の丸みー4」。地球の丸みー59点の彫刻があるのだが5点しか確認できなかった。市民プラザ前にはパレードに参加する人が集まる。紅谷Beロードを東へ進み、紅谷パールロードへ向かう。紅谷パールロードの西側入口七夕飾りはここから東の平塚北口に飾られている。紅谷パールロード入口の歩道にはめ込まれたタイル。第70回湘南平塚七夕まつり「七夕飾りデザインコンテスト」作品。左から、「神奈川大学3年 山本浩輔さん」、「平塚市立港小学校6年 森川紗帆さん」 「星槎学園高等部湘南校2年 小林紗都さん」。紅谷パールロードの七夕飾りはアーケード間の横棒から吊り下げられている。掲出は「モスバーガー 平塚パールロード店」。まだ飾り付けを行っていた。 反対側よりズームアップ。源氏物語を描いているようだ。掲出は「マツモトキヨシ 平塚パールロード店」。東側から振り返る。織田信長、武田信玄、徳川家康、豊臣秀吉 の武将が描かれている。掲出は「ゆるり」。紅谷パールロードは企業単独で掲出していた。こちらは3社で掲出「串カツ田中・絹衣・和真」。湘南スターモールの飾りと違ってシンプルに飾り付けができるようだ。掲出は「(有)ケー・オフィス」「(株)谷地工務店」。11:05七夕飾りには「恐竜時代」、掲出は「(株)谷地工務店」。 ー 続く ー
2022.07.13
閲覧総数 37
16

安部御神殿から海岸線の国道331号を北上し、右手に石碑があり車を止める。9月26日(月) 9:10聖火宿泊碑・聖火のあとさき・嘉陽小学校跡所在地:沖縄県名護市嘉陽41この場所は今年4月から放送されたNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」の「山原高校」としてロケ地に使用された。中央に「聖火宿泊碑」1964年の東京オリンピックの聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建築された碑。聖火宿泊碑の右側に石碑。石碑には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火の当地宿泊を記念する」。聖火宿泊碑の左奥にはかつては島にあった「竜宮神」の石碑。案内板が立ち聖火台の歴史や聖火宿泊碑、久志村内の聖火リレー、聖火台前での式典の模様などを写真で紹介していた。History of the olympic torch聖火台の歴史1964(昭和39)年10月10日 第18回オリンビック東京大会が開催された。第18回オリンビック東京大会の聖火は、8月21日に近代オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで採火され、世界11か国を経て、9月7日正午(台風で1日遅れた)に「City of Tokyo」号にて沖縄に到着。翌8日から、沖縄本島一周の聖火リレーが開始され、第1日目の宿泊地として、久志村(現名護市)嘉陽区に一泊した。聖火台は、台座の高さ約90cm、約130cmのヒューム管でできた、円柱の上に直径約1mのシンメーナーべ(大型鍋)の点火台でできている。実は、こにある聖火台の歴史は古く、1958年4月、日本で初めて開催された第3回アジア競技大会の聖火リレーの聖火台として使用され、民政府(現県庁)前にて聖火が灯されたものである。製作者の、森山一成氏の好意により、東京オリンピックの聖火台として、久志村(当時)に寄贈され、嘉陽区民をはじめとする、地域住民の協力により、現在の地に移設された。聖火台として当時の姿を今に伝えるオリンピックレガシーは、第3回アジア競技大会・第18回オリンピック東京大会の聖火を灯し、2020年東京オリンビック・バラリンビック聖火リレーで、3度目の聖火を迎える。聖火宿泊碑(久志村行政による)1964(昭和39)年9月、オリンピック東京大会の聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建設された。宿泊碑の月日が1964年9月7日となっているが、台風で型火の到着が、1日遅れたためである。実際の宿泊の日は9月8日である。聖火の到着前に、宿泊碑の建設を行い、宿泊した当日に除幕式を行った。当時の村民の、聖火宿泊にかける熱意と思いが伝わる。以後、この日を基点として「聖火宿泊記念駅伝・20kmロードレース大会」が毎年開催されている。聖火のあとさきの碑(嘉陽区民による)1965(昭和40)年3月28日除幕式挙行。嘉陽小中学校PTAの記念事業として、PTA会員及び全校区民、区出身者の協力を得て建立された。当時の、嘉陽区民の聖火を迎える感動と興奮、聖火が去った後の虚説感や充実感などが表現されている。道路を挟んだ向かい側に建つ石碑。「聖火のあとさき」 世界を相手に嘉陽が お祭り行事をしたのだから大ごとだ 心の片隅に生えた小さな企が みるみる 聖火が近づくにつれてふくれ上がり ただならぬ様相を呈し とうとう 村人では手におえないものとなった が やっとのこと手綱は放さなかった 昨日も今日も 純粋な聖火到来の希望に 励まされながらも待ちくたびれた挙句 すかさず西の果からギリシャから 御神火は赤橙の光に白い煙を引いて すいすいトクトクと 日の丸の渦波を突走って 海近く森近く オリンピアに似ているという 潮騒の嘉陽の岸辺にランランと燃えた 安堵か神秘か感激か シュンとした 興奮がそこの群集を掩うていた そして聖火の台風一過 嘉陽も人も名残りさびしくさびれた しかし満足と喜びの後味は良く 五輪の池は静かに平和の影を映し 碑文は永く後世に語り告げん聖火台の左手にあった校門には「嘉陽小学校」と。名護市立「嘉陽小学校」(沖縄県名護市嘉陽41)が閉校したのは、2009年3月末のこと。創立以来99年間の歴史を誇った当校。卒業生の数は621名。目の前が美しい海という恵まれた環境に抱かれて、生徒はのびのびと成長することができたようです。当校の歴史上特筆すべき点、それは東京オリンピックの聖火が宿泊した施設であるということ。実際に現地にはその史実を記す記念碑も佇んでいたのであった。現在は自然環境を学べる施設(美ら島自然学校)として引き続き地域にとって大切な場所となっているのだ と。フロート浮きに「ようこそ! 美ら島自然学校へ」と。入口に「本日は休校日です」。 休校日:毎週月曜日、年末年始 ※ ただし、月曜日が祝日等の場合は閉校し、火曜日に振替休校いたします。 通常開校時間:10:00 ~ 17:30 一般財団法人 沖縄美ら島財団 美ら島自然学校月曜日が祝日等の場合は「閉校」とあったが「開校」では?流石沖縄だけに「Today is our regular closing day.」と。平成21年3月31日に創立99年にて閉校し、現在の「美ら島自然学校」に生まれ変わりました。この場所は平成19年に角川映画「サウスバウンド」の撮影地に、平成21年にはTBSドラマ「今日も晴れ。異常なし」のロケ地となった。また、今年4月から放送されたNHK連続テレビ小説「ちむどんどん」の「山原高校」としてロケ地に使用された。このグランドを使用して主人公が走っていた。この情報は「パワースポット@神の島」さんのブログからです。門を入ると、左側の校門に「嘉陽中学校」と。校庭の前からの「嘉陽ビーチ」。東海岸に面した嘉陽集落沿いに続く細長いビーチである。引き潮時には陸続きになるのであろうか。そのビーチに浮かぶ「キョウ」と呼ばれる尖った岩があります。「キョウ」は「嘉陽集落」では古より "聖なる岩" といわれており、海からやって来た神が集落北東にある「ウイグシク(上城)」に訪れる際、この岩で一息つくといわれています。また「アブシバレー」という田畑の害虫を駆除する祭祀の際に「嘉陽ノロ(祝女)」が「キョウ」に渡り、芭蕉(バナナの木)の茎で作った虫舟に害虫を乗せて海の南の方向に流して祈願したと伝わります。「キョウ」にはかつて海の航海安全と豊漁を祈願する「竜宮神」が祀られていが、現在は「美ら島自然学校/旧嘉陽小学校」の校門近くに移動しており「竜宮神」の石碑が海に向けて建立されている と。9:15この日は月曜日で休校であったが関係者が集まっていたが。左は、国道331号だが交通量は少なかった。9:25次に訪れたのは国道331号を北上右折して「天仁屋原遺跡」へ。天仁屋公民館の南東側、神アサギやニガミヤーなどの拝所のある広場の横にある、天仁屋共同売店所在地:沖縄県名護市天仁屋15共同売店とは、村や集落の地域住民の共同出資・共同運営により作られた沖縄特有の売店です。1906年(明治39年)に沖縄本島の北端に近い、奥(おく)という集落で設立された「奥共同店」(おくきょうどうばいてん)が最初で、100年以上の歴史があります と。NHKの朝ドラ「ちむどんどん」でも登場していた「共同売店」。何か購入したかったが残念ながら時間が早くまだ開店前であったのだ。天仁屋原遺跡(てにやばるいせき)」。天仁屋公民館の南東側、神アサギやニガミヤーなどの拝所のある広場は天仁屋の初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁、青花、近世~近代の沖縄製陶器などが採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています。案内板の「天仁屋原遺跡」天仁屋の初期集落跡と考えられており、グスク時代の土器片や中国産の青磁、染付や近世・近代の沖縄産陶器が採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています。 時代:グスク時代 ~ 近代(約900年前 ~ 約70年前)また広場にはバス停があり綺麗な公衆トイレも整備されていた。石鳥居天仁屋御嶽があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれている。バス停「天仁屋」の奥には「神アサギ」があった。神アサギは、集落の守護神を歓待する祭祀の場で、集落を守護する御嶽の近くにあります。御嶽はノロなどの神女以外入ることが許されていないため、人々が集い祭祀に加われるのはこの場所になります。神女たちが御嶽へ遥拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所として使われます。 ここの「神アサギ」の特徴は寄棟の茅葺小屋で、軒が低く中へ入るためには腰をかがめなければ入ることができません。柱は石柱を地中に挿しただけの穴屋【アナヤー】形式で、屋根は扠首(さす)構造でできています。 現在でも「神アサギ」で祭祀が行われていますが、戦後に建てられた建物の多くは、瓦屋根やコンクリート造づくりとなっています。扠首構造とは、逆V字型に寄りかかった2本の材を、水平方向に架けられた材で支えた構造で、沖縄ではこの2本の材を【リン】と呼びます。小屋組みでは、頂部の棟木(屋根の頂部に用いる水平材)部分でこの【リン】を交差させて結ぶことで、小屋内に束が立たず内部を広くとることができます と。天仁屋共同売店を振り返る。次に訪れる「国指定天然記念物 嘉陽層の褶曲」450mと。国道331号沿いにも立っていた案内板。9:32天仁屋原遺跡から坂道を下って行くと、天仁屋ビーチの岩場の手前に案内板。案内地図には「嘉陽層の褶曲」の位置図と写真。旅友を追いかけ右側(東方向)へ進んだが肝心な地層は南側にあったようだ。説明板は日本語と英語で、現在の日本列島の骨格は、3億年ほど前からの地層の付加作用により形成されてきました。沖縄地域も例外ではなく中生代三畳紀以降、おおむね西側から東側に向かって次々と付加作用により発達したことがわかっています。付加作用とは、海洋プレートが海溝で沈み込むとき、その上にある堆積物が大陸プレートの縁に剥ぎ取られてそのまま大陸プレートの一部になることです。天仁屋からバン崎にかけての海岸には、新生代古第三紀始新世(約5400万年前~約3700万年前)の、最も新しい時代に付加された嘉陽層と呼ばれる地層が分布しています。嘉陽層は、当時の海溝付近の深海に堆積したタービダイトと呼ばれる砂岩と泥岩の互層を主体とする地層です。海底地すべりの堆積物よりなる嘉陽層は、さまざまな堆積構造や逆断層が見られ、特に地層の褶曲現象が発達しています。褶曲構造の波長は、砂岩層が厚いほど大きくなる傾向があります。20cm以下の厚さで砂岩層と泥岩層が繰り返すバン崎周辺では、細かな褶曲が見事に発達しています。また、比較的厚さの薄い砂岩層には、深海に棲息する動物によって形成されたと考えられる生痕化石(生物が活動した痕跡)がしばしば観察されます。ここで見られる生痕化石は水深2000mを越える深海底の環境を示すものとされています。このように、嘉陽層には付加作用によって形成された日本列島の成り立ちを示すさまざまな現象が保存されており、極めて重要であることから、平成24年( 2012年) 9月19日に国の天然記念物(地質)に指定されました。国指定天然記念物「名護市嘉陽層の褶曲」を見学されるみなさまへ褶曲のある海岸線はとても崩れやすく、土砂崩れが何度も起きています。見学の際は、崖に近づかす、離れて観察しましよう。 !見学に行く前に確認しましょう! ① 前日と当日の天候 ② 見学時間とその時間帯の潮位 ③ 海上の状況(特にカヤックの場合) 落石注意 CAUTION ④ 海の状況や崩落個所の確認特に②の潮位を確認しておく必要があるようだ!旅友を追い天仁屋ビーチの北東方向へ。絶景をズームアップ。岩肌に穴があったが旅友から「何もない」と言われ引き返す。断層があったが何も変哲が無くこれが「嘉陽層の褶曲」と思いながら。この時はこれが「嘉陽層の褶曲」と思い後にしたのだが。しかしブログを作成していて「嘉陽層の褶曲(バン崎)」は南側にあったようだ。そのバン崎にある「直角曲がり地層」。2枚の写真はネットから引用。9:50天仁屋ビーチから国道331号へ戻り更に北上。名護市から東村(ひがしそん)へ入る。国頭郡東村は、沖縄県の沖縄本島北部に位置し、太平洋に面する村である。 ツツジが村の花とされており、毎年3月にはツツジ祭りが開かれる。山原の自然などで知られ、県内におけるエコツーリズムの草分け的な地域である。2021年7月に国頭村、大宜味村と共に国内5か所目の世界自然遺産に登録された。東村の人口は1,613人(2022年9月1日)、人口密度は、19.7人/k㎡。次に訪れるのは「東村ふれあいヒルギ公園」。9:53国道331号を進み慶佐次大橋を渡り左側に石碑。東村ふれあいヒルギ公園の入口に「天然記念物 慶佐次湾のヒルギ」の石柱。所在地:沖縄県国頭郡東村字慶佐次54-1公園の入口にはシオマネキ(カニ)のシンボル。後方に展望台。観光案内所に「パイナップル」のイラスト。東村はパイナップルの生産量が日本一を誇り、日本で唯一のパイナップル加工場があるのも東村。 沖縄北部中のパイナップルが集められ、缶詰の原料になっている。東村はパイナップル生産に欠かせない3つの条件「酸性の土壌」、「水はけの良い土地」、「高い気温」が揃っている。パイナップル作りに最適な土地として、約180もの農家の方たちが10種類以上のパイナップルを作っている。公園事務所のガラス戸に貼ってあった「外来ヘビ類の目撃情報を集めています」。これらの外来へビは、やんばる三村(大宜味村・東村・国頭村)ではまだ分布していないことになっています。そのため、早期発見・初期防除がとても大切です。【特定外来生物】タイワンハブ 80 ~ 130 cm 中国南部、台湾原産。ハブ酒に用いるため輸入されたものが逃げるなどして、名護市 などで急速に分布を広けている。ハブよリー回り小さいが、気性が荒く攻撃的。うか つに近づくと矢のよう飛びかかってくる。【特定外来生物】タイワンスジオ 180 ~ 270cm 台湾原産。うるま市や沖縄市などで分布を広げている。しっぽの両側の黒いスジが 特徴的でこの名がついている。毒はないが、2mを超える大きなヘビとなリ、ネズ ミや小鳥を好んで食べるため、もともとすんでいた生きものに深刻な影響をおよぼ すと考えられている。よく似た在来ハブ類 ヒメハブ 40 ~ 80 cm 有毒 ハブの半分ほどの体調で長さのわりに胴が太い。カエルが大好物のため、水辺を 好む。動きは鈍くじっとしていることが多い。ニーブヤアー(沖縄方言名) ハブ 130 ~ 240 cm 有毒 体長2mにもなる大型のヘビ。分布域が広く個体数も多い。ネズミを食べるため 人家近くにも生息する。夜行性で昼間見ることは少ない。事務所の方に聞くとハブは夜行性のため朝車を走らせると車にひかれたハブが多いと。花と水とパインの村「沖縄・東村」 観光あんないマップ下段に近場の観光場所が説明されていたが。公園に立つ「国立公園 東村ふれあいヒルギ公園 案内図」「東村ふれあいヒルギ公園」は、熱帯特有の自然を身近に感じられる緑あふれる公園。やんばる国立公園にも指定されている慶佐次湾のそばに造られた公園で、園内には展望台や遊歩道を設置。ドライブの立寄りスポットとしてや、マングローブカヤックツアーを楽しむ人が多く訪れる人気の場所のようであった。慶佐次(げさし、けさし)川の河口に繁茂するヒルギ林(マングローブ)など、熱帯特有の植物が観察できる公園である。なかでも、「ヤエヤマヒルギ」は国の天然記念物にも指定されており、ここが北限の地とされる。やんばる国立公園 慶佐次湾 指定 平成28年9月15日 環境庁慶佐次川の上流を望む。東村ふれあいヒルギ公園からの遊歩道があったが時間の関係もありここで引返す。慶佐次川の河口に繁茂するヒルギ林(マングローブ)。入り組んだヒルギ林(マングローブ)をズームアップ。幹の根本近くから周囲に向かって、多数の弓なりの形状の呼吸根を伸ばしているのだ。この呼吸根は、幹の下部から斜め下に向かって出て、枝分かれしながら泥に入り込むので、見かけはタコノキ類のものに似ている と。東村のマングローブ慶佐次湾のマングローブは沖縄本島では最も広く、本島で見られる4種類のマングローブ植物のうち3種類が見られ、ヤ工ヤマヒルギの北限地であることなどから「慶佐次湾のヒルギ林」として1959年に当時の琉球政府の天然記念物に指定され、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。また、慶佐次湾に多く見られるオヒルギ、メヒルギ、ヤ工ヤマヒルギなどの「ヒルギ」は、1993年に、村政施行70周年を記念して新たなシンボルとして「東村の木」に指定されました。2016年にはやんばる国立公園(慶佐次湾)として指定を受けています。上空から見た慶佐次湾のマングローブ(ヒルギ)林沖縄本島で見られる多くのマングローブ林の中で最も規模が大きく、面積は約10haもあります。マングローブとは海岸をよく見ると、満潮の時は海になり、干潮の時には陸地のようになるところがあります。このような場所のうち、川の河口付近の、真水と海水が混じり合う場所を汽水域と呼んでいます。マングローブとは、熱帯や亜熱帯地方のこのような汽水域に、海水の塩分濃度に耐えられる樹木がたくさん集まってできる林や森のことをいいます。マングローブに棲む生き物たち慶佐次川でみられる貴重な生き物マングローブには、鳥、昆虫、貝、カニ、工ビ、魚などの多くの生き物たちが棲んでいます。9:55「失われつつある慶佐次川の自然」 慶佐次川の上流側にはいろんな生態があるようだ。「慶佐次川の豊かな自然を取り戻そう!」 慶佐次川でできる自然環境再生。この公園にはいろんな生き物がおり一日滞在しても飽きないのでは! ー 続く ー
2022.10.18
閲覧総数 356
17

茅ヶ崎市の4大イベントの一つである「浜降祭」が海の日(7月17日)に開催された。昭和53年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、57年には『かながわのまつり50選』にも選ばれています。浜降祭のはじまり今から170年ほど前の天保9年(1838)、寒川神社の神輿が例年春に行われる国府祭(こうのまち)(大磯町国府本郷)に渡御した帰途、相模川の渡し場で寒川の氏子が争いを起こし、川に落ちて行方不明になってしまいました。その数日後、南湖の網元である孫七さんが漁の最中にこのご神体を発見し、寒川神社に届けたことを契機に、毎年同神社の神輿が、そのお礼のため南湖の浜に赴き、「禊(みそぎ)」をするようになったと言い伝えられています。一方、江戸時代後期に幕府がまとめた『新編相模国風土記稿』によると、鶴嶺八幡宮では、寒川神社のお礼参りよりずっと古い時代から、心身の罪や穢れを清める「みそぎ」の神事を行うため毎年、浜辺への渡御が行われていたとあります。このように両神社の伝承は、古くから語り継がれ、それが後世になって合体して定着し、その後明治9年(1876)にこれまで旧暦の6月29日に行われていた「みそぎ」神事を新暦の7月15日と定め、名称も”浜降祭”と呼ばれるようになりました。また、平成9年(1997)には、例祭日を7月20日に変更しましたが、祝日の改正に伴い平成16年からは7月海の日(第3月曜日)に例祭日が再度変更となりました。過日、茅ヶ崎市博物館へ出向き、「浜降祭」に関する資料を。以下は、博物館内のパネルから。海へのいのり多くの生命を育む海は、我々に限りない恩恵を与えてくれます。相模湾に面する茅ヶ崎の自然環境やくらしは、いつの時代も海と深くかかわってきました。人が活動を始めた頃から行われている漁は、大切なくらしの糧の一つでした。しかしながら、漁は不安定で、時に生命の危険を伴うものでもありました。茅ヶ崎では、人びとは海の恵みに感謝しつつ、時として脅威となる海に抗うのではなく、畏敬の念を抱き、共生する知恵や文化を培ってきました。写真は「浜降祭 ⑤神饌が各社に渡される」。浜降祭 南湖の浜に入場した神輿 (大正時代)。浜降祭 大正時代浜降祭 昭和50年代頃禊をする神輿。浜降祭 神輿道を練り歩く南湖三社の神輿(昭和30年代)。10基近い神輿が神輿道を練り歩いている。南湖 八雲神社の蛇飾り (じゃかざり)。茅ヶ崎の神輿道 (実線)。この地図はかつての神輿道で現在は違うようだ。海岸まで担がれる「渡御」の神社は34社の半数17社で、後1社が行き「渡御」復路「車輌」。御幣参り (ごへいまいり) ~ 南湖だけの浜降祭 ~地図には、(4)大神宮、(5)御霊神社、(2)金毘羅神社、(1)(9)八雲神社、(7)住吉神社。御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~金刀比羅神社を出る御幣参りの御幣宮(ごへいぐう)。早朝、海岸での浜降祭から戻り、八雲神社に納められている白木のお宮の形をした御幣宮(重さ約50㎏)を担いで、決められたルートを巡り祭事を行います。5つの町内から総勢20名ほどが八雲神社に集合し、烏帽子、水干(すいかん)の白装束を着て、御幣宮、太鼓、長持などを担ぎ、南湖を一巡します。御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~御幣参り ~ 南湖だけの浜降祭 ~7月17日(月) 6:10昨夜は旅友の誕生日会で遅くまで飲んだが6時過ぎに起床。右足の状態が心配であったが朝から暑い中愛車のリンちゃんで海岸へ。波が穏やかな茅ヶ崎ヘッドランド。沖には烏帽子岩。サザンビーチの海の家「夏俱楽部」ここの経営者はサザンの桑田佳祐と小中学の同級生であると。サザンが7月に発表した『盆ギリ恋歌』に、「サザンビーチでナンパするならヨシオんとこ(夏俱楽部)でshow!!」と歌われているのが、海の家「夏俱楽部」だ (タウンニュース) から。海の家の前には「菱沼 八王子神社」の看板。日陰で休む担ぎ手。サザンビーチちがさき入口の右側のテントには「本村氏子 八坂会」と。歩くのが辛いのでできるだけ会場近くへ自転車で移動。茅ヶ崎漁港駐車場には「浜降祭広報車」が駐車。駐車場へは交通規制がされているので浜降祭関係者の車であろう。浜降祭参加神社名。茅ヶ崎海岸浜降祭 宮出・復路予定順番神輿が神社を出発する「宮出」は市内では早ければ午前1時から始まり、合同式典は茅ヶ崎西浜海岸で7時から実施される。式典終了後の8時ごろから御輿が一斉に海へと向かう「お発ち」(初輿)が行われ、9時に終了。神輿がみそぎをするのは入場時と式典後の帰路につく前の2回行われる。茅ヶ崎西浜海岸には各神社の幟旗が立っていた。多くの露天商も出店。坂の上は国道134号の西浜小学校入口交差点。同交差点から北側が神輿道の南湖通り。神輿には「下町 住吉神社」の札。住吉神社は海岸から一番近い神社で最後に入ったようだ。茅ヶ崎西浜海岸に作られた竹の鳥居。茅ヶ崎西浜海岸には多くの露天商が出店いい匂いが漂っていた。既にそれぞれの幟旗の前に神輿は鎮座していた。各神輿の前には自由に行けたようだが、足が不自由なため撮影ポイントを探す。6:35警備員が通路を確保していたらその後を国会議員の河野太郎氏がいつものスタイルで登場。少し高い場所を探し、西浜海岸にはまだ数基の神輿が担がれていた。右側の神輿札には「柳島 八幡宮」。多くの人が神輿の傍に。既に鎮座している神輿が並ぶ。柳島 八幡宮の神輿をズームアップ。この日の為に神輿の担ぎ方を練習しているようだ。まだ数台の神輿が担がれ西浜海岸の広場を乱舞。天気が良いとこの方向に富士が見えるのだが、この日は気温が高く霞がかかる。左に「柳島 八幡宮」右側に「下町 住吉神社」の神輿。二社の神輿をズームアップ。担がれて左右に移動。34社の神輿が並ぶ。幟旗が竹に絡みつき見えないのが残念である。右側に「柳島 八幡宮」の神輿も鎮座。6:55各社の神輿が所定の場所に鎮座、いよいよ式典に。 ー 続く ー
2023.08.06
閲覧総数 1063
18

ハマヒルガをを見た後、まだ訪れていない茅ヶ崎の史跡が近くにあったので訪ねることに。5月3日(金) 15:30松尾川排水樋菅 (はいすいひかん)所在地:神奈川県平塚市須賀かつては相模川が湾曲していたので相模川の東側にも平塚市がある。上流の橋は ”トラスコ湘南大橋” 。手前は ”湘南シーサイドゴルフ練習場” 。松尾川の河口は湘南シーサイドゴルフ練習場の南側で相模川と合流している。相模川の堤に取り付けられている銘板。許可番号 京占許第285号 平成8年5月20日占有目的 松尾川付替水路樋門用電源 引込み用電柱及び架線存置専有面積 3㎡ 占用機関 自 平成8年4月1日 至 平成18年3月31日許可を受け 茅ヶ崎市長 根本康明た者の氏名 河川管理者 建設省 京浜工事事務所 既に期間を過ぎているので撤去が必要ではと。施設の上から西を望む。相模川の河口には大きな砂州がある。ここも平塚市の花火大会の撮影ポイントである。湘南シーサイドゴルフ練習場の南側の松尾川河口。樋菅(ひかん)とは、堤内地の雨水や水田の水などが川や水路を流れ、より大きな川に合流する場合、合流する川の水位が洪水などで高くなった時に、その水が堤内地側に逆流しないように設ける施設である。このような施設のなかで、堤防の中にコンクリートの水路を通し、そこにゲート設置する場合、樋門または樋管と呼ぶ。銘板2枚には、松尾川排水樋菅1989年7月管理者 茅ヶ崎市幅 4.5m 高 4.5m 長 28.7m施工 亀井工業K.K.松尾川排水樋菅門扉形 式 鋼製ローラーゲート純径間×扉高 4.50m × 4.62m門 数 1門 扉体重量 9.48 ton設置年月 平成元年7月製 作 若島工業株式会社扉の大きさは、純径間×扉高 4.50m × 4.62m。この先東には柳島水再生センターがあるので迂回しているのでろう。松尾川排水樋菅から東側にある ”柳島水再生センター” を望む。松尾川はフェンス手前を左(北)方向へ曲がっているのであろうか。国道134号に架かる柳島歩道橋上から東を見る。来年7月には、鉄砲道(左直進)と国道134号に挟まれて道の駅「湘南ちがさき」が開業する。北側の柳島スポーツ公園。国道134号沿いにある「ちがさき俱楽部」の前には人の列。ちがさき俱楽部所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1877-3茅ヶ崎で海鮮BBQが食べ放題で楽しめる!。80分 3,850円で種類豊富に取りそろえています!単品メニューもあり、浜焼きコンロで出来たての美味しさを味わえると。駐車場もある。ホタテ、カキも食べれるようでいつか訪れたい。ちがさき俱楽部の先の信号を左折し柳島通りにある「網元料理 あさまる」。網元料理 あさまる所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸18-31人気の海鮮料理店。刺身の盛り合わせ、鯛料理などを提供。店内は飾らない素朴な雰囲気である。何度も訪れているが美味しくリーズナブルで安価である。お薦めはランチ定食。柳島ポンプ場所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島1282-1ここ柳島地区は西に相模川を臨み、北及び北西に沿って小出川が流れ、海岸寄りには松尾川を抱える地勢である。標高も低いことから大雨の際にはいち早く流域の雨水を排出することが求められる。 「柳島ポンプ場」はそのような大雨の災害を未然に防ぐ施設として昭和41年に稼働し、平成19年(2007)の増設を経て、現在排水ポンプ 5台、1,200t/分の能力を持ち、市内では今宿ポンプ場と並ぶ大きさである。柳島通りから ”柳島ポンプ場” 内を望む。柳島ポンプ場内に「柳島閘門 (こうもん)」と刻まれた石碑。閘門は、昭和50年に近代設備のポンプ場が完成して廃止されたため、有志の手によってポンプ場の道路沿いにこの記念碑が建てられた。柳島閘門(こうもん)と柳橋柳島は、相模川・小出川・千ノ川の最下流に位置し、昔から水害と塩害を受けてきました。水害を防ぐために、昭和二年(1927)、湘東耕地整理組合は堤防と同時に柳島閘門という施設を造りました。平時には扉を開き川水を流し、相模川の増水時には自動的に扉を閉じて逆流を防ぎました。これにより、柳島の田畑への被害は少なくなり、人々は安心して暮らすことができるようになりました。昭和五十年(1975)三月、柳島ポンプ場が完成し、柳島閘門は不用になりました。「柳島閘門」の文字は、大正時代の萩園出身で衆議院議員山宮藤吉氏の書です。柳橋は、松尾川に架けられていた橋で今はありません。この場所から東へ百メートルの位置にあり、柳島本村と海岸を結ぶ唯一の大切な橋でした。「柳橋」の文字は柳島の青木林蔵氏(明治十九年生まれ)の書です。柳島閘門と柳橋を後世に伝えようと、有志がそれらの一部をここに残すことにしました。昭和五十四年十一月吉日 柳島自治会 茅ヶ崎郷土会 茅ヶ崎市教育委員会 ちがさき丸ごとふるさと発見博物館願わくばこの説明版をフェンス手前に設置してほしいものだ。敷地内には雨水除塵機が建つ。柳島ポンプ場から東へ進み、突き当りに石柱と説明板。柳橋跡所在地:神奈川県茅ヶ崎市柳島海岸11石柱の裏面には「コンクリート柱○○○○○」と。柳 橋「柳橋」は松尾川に架けられた橋で柳島本村(ほんむら)と海岸を結ぶ唯一の大切な橋でした。「柳橋」の文字は柳島の青木林蔵氏(明治19年生まれ)の書です。柳橋を後世に伝えようと一部をここに残して有ります。 令和四年五月吉日 柳島自治会浜見平団地の南側を流れる松尾川に沿って北東方向へ進む。松尾川は暗渠になっていて流れがわからないが、フェンスに沿って流れているのであろう。鉄砲道と左富士通りが交差する ”浜見平交番前交差点” を振り返る。この水場は松尾川の一部で、南西方向に流れている。右側に「松尾川」と。松尾川沿いに建つ制御盤には「循環設備制御盤」と。上流側の吐き出し部。この辺りは浜見平団地の東側で上流は北に向かっている。制御盤設置辺りからポンプで上流側へ循環しているのであろうか。浜見平団地の東側を流れる松尾川に沿って北方向へ進む。橋の先はオープンになっている。ここまでは暗渠になっていて川の流れがわからない。北側をJR東海道本線が走る ”鳥井戸ガード” 。松尾川はここが最上流部であろうか。鳥井戸ガードの先は千ノ川が流れている。東海道本線 (72) 鳥井戸ガード鳥井戸ガードの北側から振り返る。ガード下には松尾川の暗渠はなかった。右下は ”左富士通り” 。橋りょう名 鳥井戸架道橋位 置 茅ヶ崎 ~ 平塚間 60K297M支 間 12M90塗装年月 2015年8月塗装回数 4回塗塗装種別 下、下、中塗 厚膜型変性エポキシ樹脂系塗料及塗料名 上塗 厚膜型ポリウレタン樹脂塗料塗料メーカ 大日本塗料株式会社施 工 者 建設塗装工業株式会社 16:00鳥井戸架道橋を潜り南側へ。青いフェンス内が松尾川の最上流部であろう。 ー 続く ー
2024.05.30
閲覧総数 977
19

太田道灌は1486(文明18)年7月26日、扇谷上杉定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、風呂に入って出て来たところを暗殺されてしまう。享年55歳。その後、道灌は上糟屋の洞昌院の裏山で荼毘に付され、洞昌院に胴、下糟屋の大慈寺に首が葬られた。洞昌院の胴塚は既に訪れているので今回訪れた。2月16日(日) 15:10大慈寺前から北方向を望む。渋田川の堤にはサクラ並木。渋田川に架かる道灌橋。橋の袂の広場に車を止め散策。道路脇の案内板から道灌橋の上流側に「太田道灌首塚」がある。渋田川の南側に公園化された霊地があり入口に「太田道灌公霊地」の大きな看板。所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋320渋田川の上流側に「小川堰」がある。川底が田畑より低いので堰を作ることにより水位を上げ水を取り入れている。観光めぐり 太田道灌公の墓より伊勢原駅周辺 現在地点より m(メートル) 普 済 寺 300 高部屋神社 300 大 慈 寺 30 咳 止 地 蔵 1,000 耕 雲 寺 1,050 大福寺(大楠)天然記念物 2,000太田道灌公霊地は公園化され広さは30メートル四方あったか。サクラが植えられ奇麗に整備されていた。霊地の南西部の片隅に太田道灌公首塚。玉垣に囲まれた中に小さな墓石があった。首塚にしては意外と小さいものであった。参考に『上糟屋の洞昌院にある「胴墓」』。首塚の横に建つ石碑は読みずらかった。太田道灌の墓 伊勢原市指定史跡 昭和44年2月27日指定太田道灌は、室町幕府の重臣である扇谷上杉氏の家宰です。永享4年(1432)に相模で生まれたといわれ、幼名は鶴千代、元服して資長(すけなが)と名乗りました。道灌は剃髪後の名です。幼少より父道真(資清)の薫陶を受け、康正元年(1455)に家督を嗣ぎ、長禄元年(1457)には26歳で江戸城を築きました。「文武両道の鑑」との誉れ高く、文事では和歌に情熱を傾けてその道に深く通じ、軍事では特に戦略的な才覚に優れて、扇谷上杉氏を守り立てました。しかしその有能さが上杉家宗家の山内上杉顕定に疎まれ、道灌は、顕定の讒言を信じた主君の上杉定正によって暗殺されるという悲劇の主人公となりました。文明18年(1486)7月26日、定正の居館である糟屋館(伊勢原市内。詳しい場所は不明)での出来事です。道灌の墓は、市内ではこの下糟屋の大慈寺と、道灌の遺体を荼毘に付したと伝えられる上糟屋の洞昌院にあります。大慈寺は道灌が鎌倉からこの地に移して再興し、叔父の周厳淑悦禅師を中興開祖としたとされる寺です。現在の本尊である聖観音像も、道灌の持仏であったと伝えられます。墓はいつからか「首塚」と呼び習わされ、宝篋印塔と五輪塔からなる石造の供養塔が祀られています。 平成19年3月 伊勢原市教育委員会 首塚からの霊地。石碑には「記念 太田道灌公 四百五十年祭 昭和十一年七月廿六日建之」と。余談だが「五百年祭」は行われたのか。サクラはソメイヨシノであったか蕾が膨らんでいた。こちらには枝垂桜。開花時も見てみたいものだが。太田道灌公首塚の向かい側のお寺へ行くため渋田川の上流側へ進み振り返る。渋田川の上流側に先程道を間違えた東海大学医学部付属病院。向かい側へ行くため上流側の橋を渡ることに。渋田川の北側から太田道灌公首塚を見る。浄土宗南蓮寺(なんれんじ)所在地:神奈川県伊勢原市下糟屋2234南蓮寺は、南蓮社忍誉(天正13年1585年卒)が開山となり創建、本蓮社法誉(享保9年1724年卒)が中興したという。ご本尊は阿弥陀如来。寺号標石には、「浄土宗 東台山南蓮寺」。徳本上人名号碑が門前にある。また、独特な味のある書体で南無阿弥陀仏ときざまれていると。ネットでは山門がなかったので最近再建されたようだ。山門を入ると右側に手水舎。境内に聳える二本のイチョウの木は途中で切断されていた。新しい六地蔵が並んでいた。本 堂右側に枝垂れ桜があったが、住職から「最近は花付きが悪い」と。本堂の扁額「東臺山」。内陣を望む内陣の扁額には「西光院」と。住職から「当寺は、南蓮寺、東台山、西光院の名があり北だけがない」と。内陣の欄間の彫り物。本堂前に立つ「聖観世音菩薩」。菩薩像の下に猫ちゃんも。台座に「聖観卋音菩薩」と。本堂の左側に立つ板碑に「七代目安田八左衛門之墓」と。伊勢原市内の弓矢の旧家だと。修業像であろうか。掲示板に「余郷さくら」のポスター。横須賀市の住職が知るスノーボード選手で、本堂の内陣には兄余郷隆正のポスターがあった。二人はスノーボードの強化指定選手であると。山門を振り返る。この日は法要があったようで、住職と檀家さんの会話で「浄財の話」が聞えてきた。渋田川に架かる道灌橋に沿って「道灌橋歩道橋」が架かっている。道灌橋の東方向に大慈寺がある。15:35道灌橋から上流のサクラ並木を望む。この後近くにある「高部屋神社」へ向かうことに。 ー 続く ー
2025.03.05
閲覧総数 201
20

雨の妻籠宿を散策。妻籠宿も以前来たことがあるが2、3度目になるか。4月13日(日) 13:55妻籠宿 松代屋 (旅館)所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻807ー1蘭川(あららぎがわ)に面した 1804年創業の簡素な旅館であると。松代屋の玄関先に生けられていた花。当館は昔の旅籠ですので全ての客室は襖で仕切られている。また、テレビのないシンプルな和室に、布団、お茶セット、座卓、座布団を完備。朝食と夕食を提供していると。鴨居に「昭和48年 座頭市 勝新太郎」の撮影風景の写真。玄関先の軒下に「御宿 松代屋」と。下嵯峨屋 (旅館)所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻寺下805松代屋に隣接して南側にある旅籠。右側に「有形文化財下嵯峨屋」と。有形文化財 下嵯峨屋この下嵯峨屋は建造当初長屋であったものの一戸分を昭和四十三年に解体復原したものである。妻籠宿における庶民の住居を代表する、片土間に並列二間取の形式をよくとどめている。 昭和四十九年十一月三日 南木曽町教育委員会雨に濡れたレンギョウ。ズームアップ。この先は「寺下の町並み」。馬籠宿or馬籠峠から妻籠宿に着き雨合羽を脱ぐインバウンド客。この日は雨のためか、喫茶、土産物店があるのだが閉まっている店も。ー 寺下の町並み ー妻籠宿は全国で初めての集落町並み保存に着手し、昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、江戸時代の面影を残すことができました。生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、歴史を生きたまゝ受け継いでいくことです。このようにして一見無人家とも思われる家々でも、人々はくらしているのです。インバウンド客はお子さんがいたので家族であろう。寺下の町並み。日本で最初に宿場保存事業が行われた寺下地区は、妻籠宿保存の原点とも言うべき町並み。馬籠宿への出口でもある。延命地蔵堂文化十年(1813)、光徳寺住職・中外和尚が、地蔵尊像の浮かび上がっている岩を蘭川(あららぎがわ)から運んできて安置したものです。延命地蔵堂の扁額「延命岩」。延命地蔵堂享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、この石の由来は、文化十年(1813)五月十日頃、河中(蘭川の川原)に地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、ここまで運びあげたというものである。この延命岩を別名汗かき地蔵というのは、この石が常にぬれているようにみえることによる。毎年四月二三か二四日にお祭りが行われている。石仏「寒山拾得(かんざんじっとく)」像国内唯一とされる、石仏「寒山拾得」像。石に掘られた双体像は他に類例がない。石仏「寒山拾得」像この石仏は、昭和五十九年の長野県西部大地震で、石段左手の石垣が崩れた際に発見され、不思議な像が彫られているので、道祖神の一種と考え、寺下住民がこの地に祀ってきた。その石垣自体、安政元年の大地震の後に積み直されたもので、それが再び地震で崩れ、石仏が出現したわけで、まことに不思議なことである。この石仏が日本石仏協会の目にとまり、寒山拾得を題材にした「箒と巻物を持った人物による双体像」は、国内唯一つの珍らしい絵柄と分析された。彫ったのは、文政年間にこの像の隣にある「水舟」を手掛けた光徳寺の「中外和尚」と推察される。「寒山」は、唐代の禅僧豊干に師事し、天台山の近くに「拾得」とともに住んだ奇行の僧で、伝説の部分も多いが「寒山詩」や「禅宗の画材」として有名である。石仏の「寒山」が手にする「巻物」は、智慧を意味し文殊菩薩の化身であり、隣の「拾得」が手にする箒は、行動を意味し普賢菩薩の化身と言われている。 平成十九年 九月吉日 寺下区光徳寺下に立つ寺号標石。寺号標石の右側に手水鉢があり「水神」と彫られた小さな石があった。注意書きに「この水は飲めません」と。北側に向かう旧中山道(ツツジ街道)。石垣の上に「豊川稲荷大明神」が鎮座、手前に石碑が立つ。石碑には「明治三十七八年戰役紀念碑」と。豊川稲荷大明神枡形の跡を抜け妻籠宿の北側へ。妻籠を愛する会所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻2159-2会は環境保護団体で、妻籠宿を中心に在郷の集落を含めた地域、ほぼ江戸時代の妻籠村地域の全戸網羅の住民組織です。昭和43年9月に妻籠宿の保存運動を始める時、技術者(学者)と行政と地域住民が三位一体でスクラムを組んで事業を推進するために発足した。左側の階段下には「長野県天然記念物 ↖ つまごのきんもくせい 60M先」と。妻籠を愛する会の建物前から妻籠宿(北側)の上町を望む。雨模様で街道には人影が少なかった。右前は雑貨店の「伊勢屋」。所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻2164-1私の店は古い店で、「符帳」も伝えられています。商品では百草、竹製品等が好評であると。装飾用の和傘が店頭に。妻籠郵便局所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻2197-5局内は通常の郵便業務だけではなく、小さいながら無料で博物館を兼ねている。島崎藤村の『夜明け前』にも開局当時の様子が描かれています。〔土・日・祝休館〕。入口に「妻籠郵便局」「郵便史料館」の看板。「書状集箱」とは現在のポストのことです。はじめは「書状集箱」や「集信函(しゅうしんばこ)」と呼ばれ、江戸時代の目安箱(訴状箱)をかたどっています。妻籠宿の中に立っているポストは創業時の「書状集箱」と同じ形をしています。これは、町並みの景観にあわせ、当時をしのぶために特別につくったものです。全国で唯一の黒いポストとして復原された、最初のものとなります。これに手紙などを入れていただけば、全国へ配達される現役のポストです。書状集箱妻籠郵便局と郵便史料館妻籠郵便局は、明治六年三月妻籠郵便御用取扱所として開設されました。当時の取扱所は、本陣にありました。その後、名称や場所も変わりましたが現在のところに移ったのは、昭和五十四年一月です。この建物は重要伝統的建造物群保存地区町並の景観にあうように出梁造りの形式を用いて造られています。郵便史料館はこの郵便局の中にあり、昭和六十年七月に開館しました。ここは、明治四年新式郵便制度創業時の服装を始め、時代の移り変わりに伴う郵便関係の貴重な資料を展示してあります。 自由にご覧ください。 妻籠郵便局長妻籠宿本陣所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻2190妻籠郵便局の右前に建っており、島崎藤村の母の生家でもあり、最後の当主は藤村の実兄。本陣の建物は、江戸時代後期の絵図をもとに復元されており、当時の建築様式や生活様式を感じることができると。右側には「本陣跡トイレ」が設けられている。妻籠宿本陣妻籠宿の本陣は代々島崎氏が務めました。馬籠の島崎氏とは同族で、幕末にも妻籠から「ぬい」が馬籠の正樹(『夜明け前』の主人公青山半蔵)のもとに嫁ぎました。七人の子供をもうけ、末子が春樹(近代の文豪島崎藤村)でした。藤村の次兄広助は妻籠宿本陣の養子となり最後の当主となりました。その後本陣は取り壊されましたが、平成七年に江戸時代後期の間取図を元に忠実に復原されたのが現在の建物です。冠木門に「妻籠宿御本陣」と。冠木門を入り。立札に、「受付 入館料 大人 300円」と。冠木門の左側に建つ「人馬会所跡 (問屋場)」。人馬会所 (問屋場)宿場には、公用の旅客に人馬を提供するのが第一の仕事でした。妻籠宿には本陣と脇本陣に人馬会所があり、半月交替で勤めました。人馬会所には、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務して、人足の指図や荷物の割振りをしました。人馬会所の道路は広く宿内で最も賑やかなところでした。人馬会所の当時の図。①問屋役 Toiya②人足指役 Ninsokusashi③馬指役 Umasashi④旅の侍 Traveling samurai⑤侍のお供 Samurai ・・・・・ いろんな人形が飾られていた。五月人形の兜も。和 (なごみ)所在地:長野県木曽郡南木曽町中町4701築160年の古民家にオープンした本格的な着物生地の店。看板「柏屋」は屋号であろうか。”和”の北側に隣接して甘味処の「鈴屋」。左側には土蔵、その先に「脇本陣」が建つ。脇本陣奥谷 (林家住宅)所在地:長野県木曽郡南木曽町吾妻2190国の重要文化財。林家は奥谷という屋号にて、江戸時代は庄屋(村役人)や脇本陣を、明治時代には村長を務めた旧家である。主屋は1877年(明治10年)に建てられたもので、それまで伐採が禁止されていた桧がふんだんに使われている。蔵や門及び塀などの附属建築が整っており、木曾地方の近代住宅建築の典型を知るうえで価値があると。 街道沿いの説明板に、南木曽町博物館脇本陣奥谷 (国重要文化財)木曽檜をふんだんに用いて、明治十年に建てられた豪壮な建物です。同十三年には明治天皇の御小休所になりました。島崎藤村の詩「初恋」に詠われたおゆふさんの嫁ぎ先でもあります。常時、係員による案内を行っています。歴史資料館映像や模型を駆使して、木曽の歴史や妻籠宿の保存のあゆみをわかりやすく紹介しています。ここを御覧になれば、妻籠宿への理解がより一層深まります。入口に立つ石柱には「明治天皇妻籠御小休所」と。側面には、「史蹟名勝天然記念物保存□□史蹟 昭和十五年八月文部大臣指定」。街道沿いに立つ石柱に「国重要文化財 林家住宅(脇本陣奥谷)」。平成十三年六月十五日指定。旧中山道から脇本陣へは緩い坂を下る。脇本陣奥谷は代々脇本陣・問屋を勤めた家で、現在の建物は明治10年にそれまで禁制であった桧をふんだんに使い建てられたもので、旧家の堂々たる造りを見ることができます。また脇本陣奥谷では囲炉裏端での昔の生活ぶりなど、生きた歴史を語り部から聞くことができますと。玄関先から旧中山道を見る。脇本陣前から妻籠宿の北側を見ると、傘をさした集団。14:10この先には「妻籠宿高札場跡」があるのだが、この辺りで引き返すことに。 ー 続く ー
2025.07.01
閲覧総数 343
21

大慶寺の西側にある東光寺へ。9月7日(火) 10:15高野山真言宗 東光寺(とうこうじ)所在地:神奈川県鎌倉市寺分1丁目7-6門柱の横に立つ石碑 ● 宗 派:高野山真言宗 ● 山号寺号:天照山薬王院 東光寺 ● 創 建:永享3年(1431年) ● 中興開山:法印霊範 高野山慈眼院の法印霊範が隠居所とした寺と伝わる門柱横に建つ「故陸軍一等卒岩壁瀧次郎氏碑銘開序」。経歴が刻まれていたが判読? 明治28年秋9月十〇五日裏手やぐら内にこの戦死者の家のお墓があるそうだ墓地脇に咲くサルスベリズームアップ境内右奥に、大師堂と本堂聖観世音菩薩像。平成19年(2007)8月建立。門前の蔵のある家の者が30代の若さで亡くなられそれを悲しんで建てられたものであると大師堂手前左に、弘法大師ご修行石像大師堂の扁額「東光寺」まだ新しい「弘法大師ご修行像」。 弘法大師修行石像が立ち、その周囲には、四国八十八ヶ所霊場から勧請した砂が納めてある。また後方に相模国十三番札所の弘法大師坐像である探し大師や庚申塔などがある四国本四国霊場弘法大師様開創の四国八十八ヶ所霊場の各寺院よりお砂を勧請し、修行大師様の四方に納めさせて頂きました。「南無大師遍照金剛」とお唱えしながら、発信の道場 修行の道場 菩提の道場涅槃の道場と、時計廻りにお詣り下さい。そして、本四国八十八ヶ所霊場遍路行と同じ御功徳を頂いて下さい。 南無大師遍照金剛弘法大師ご修行像の廻りを時計方向に廻る。阿波国「発信の道場」 二十三ケ寺土佐国「修行の道場」 十六ケ寺伊予国「菩提の道場」 二十六ケ寺讃岐国「涅槃の道場」 二十三ケ寺本堂左側に、相模国十三番札所の弘法大師坐像である探し大師や水子地蔵、庚申塔などがある。石碑に刻まれている字は???探し物が見つかるという「探し大師」で、相模国十三番札所の弘法大師坐像水子地蔵の後方に、聖観世音菩薩像を寄進された家のお墓本堂裏手の崖にはやぐらが多く残っており、中には8〜10畳程度はある大きなものもある。崖の壁面には、石仏、庚申塔が並ぶ。中には天和2年(1682)銘もある本堂裏のやぐら本堂裏から、六地蔵、墓地六地蔵が並ぶ六地蔵の後方にはサルスベリズームアップ樹齢数百年の古木である10:26大慶寺の南側にある「駒形神社」所在地:神奈川県鎌倉市寺分1丁目10-12かつては、東光寺の管理下にあったといい、古くより、農業の神として崇められ、治承年間、この辺りを領していた大庭景親「天候不順が止むよう祈願した」と伝えられている。大庭景親は、鎌倉権五郎景政を祖とし、景政の開発した大庭霊厨を相伝した武将。治承4年(1180)の源頼朝の挙兵時には、石橋山の戦いで頼朝を破ったが、のちに頼朝に捕らえられ処刑された鳥居を潜り石段を上り境内へ、右に拝殿。祭神は、駒形大神(こまがたおおかみ)ということになっているが、地元では邇々芸命(ににぎのみこと)と伝えられてきた。境内には、1822年(文政5年)に造られた弁財天や、富士信仰の名残の石塔が置かれている南側のやぐら内に、左「弁財天」、右に「稲荷社」やぐら内に1822年(文政5年)に造られたという弁財天稲荷社本 殿江戸時代までは、本尊として千手観音が安置されていたというが、現在は、中国風木造人形七体と木造神馬が安置されている最近はこのような貼り紙も、御参拝の皆様当、駒形神社では防犯のため特定日以外は賽銭箱は設けておりません。何卒ご理解いただき、お参りくださいますようお願い申し上げます。 記賽銭箱設置特定日 祭礼 十月第一土曜日・日曜日 お正月 一月一日 ~ 三日各夕刻まで 以上 駒形神社氏子一同天満宮本殿裏から北側の斜面、拝殿拝殿南側のやぐら南側の尾根に「富士浅間神社の石塔」この右側にけもの道があったが社殿の正面には富士山が見えるのだがこの日は、後方は藤沢市街地湘南モノレールが頻繁に運行駒形神社境内から降り鳥居。このあと、スマホは「御霊神社」にセット。前の道を左折して東光寺方向へ戻る10:40鎌倉市立深沢中学校前の通り由 来この辺りは寺分大工谷といわれていた。鎌倉時代、この付近に建てられた関東十刹の一つであった大慶寺などを修復した工匠が住んでいたと伝えられる。昭和58年2月、住居表示施行により梶原一丁目に編入された。 昭和五十八年二月 鎌倉市10:46道を間違えながらどうにかトウチャコ、「梶原 御霊神社」 — 続く ー
2021.09.19
閲覧総数 165
22

三島大神から萩園通りを南下、次に訪れたのが松尾大神。10月29日(金)にも訪れており二日間の合作です。11月3日(水) 13:51松尾大神(まつおおおかみ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿586国道1号の今宿交差点から萩園通りを北上。ご祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)、総本社は松尾大社(京都市西京区)です鳥居の前に建つ二本の石柱左:祇園天満両社、右:松尾大神鳥居の手前に、樹齢1200年くらいの雌雄同体の大イチョウイチョウの樹の生命力を感じる鳥居の扁額、「松尾大神」参道左側に、手水舎、鐘楼手水舎、鐘楼手水舎鐘 楼梵鐘には「奉納 祇園社」と鋳込まれている反対側には、「奉納 松尾大神」「奉納 天満宮」梵鐘に、「銘曰」前鐘は昭和十八年大東亜戦争のため供出されしが永遠の平和を願い家運栄昌を祈念して再鋳されたものなり 昭和五十七年七月吉日参道の右側、道路沿いに建つ石碑石碑は、「氏子人名」氏子約50名の名前が刻まれている。裏面に廻りこみ、大正十二年九月一日・・・・・ 字は風化して読めず本来はこちらの面が通路側になるのではなかろうか。震災記念碑境内の石燈籠、石碑に掲示されている。萩園通り沿いに建つ、道祖神社殿の前にタブノキが聳える。また、右奥には今宿自治会館が建つ松尾大神社殿拝殿前に石灯籠拝 殿ご祭神:大山咋命(おおやまくいのみこと)ご利益:家内安全、地域安全、事業成功拝殿の彫り物拝殿の扁額、「松尾社」拝殿に貼られた、「祇園天満両社」 学業成就・合格祈願拝殿前から鳥居、鐘楼社殿の左側に建つ、「天満宮」天満宮の前に、右に「天満宮」、左に「祇園社」の石碑が立つ「祇園社」の石碑天満宮の左側に、「慰霊碑」表面には、人名、死亡年月、享年何歳、場所が刻まれている。昭和13年9月 29歳 北支 ~ 昭和22年6月 17歳 ソ連 の英霊23柱を合祀した慰霊碑。北支、中支、ミッドウエー、青島、ビルマ、南方洋上、マーシャル群島、等々。先程訪れた三島大神にも同じような石碑が建っていたが、こちらは今宿地区の慰霊碑裏面には、建碑のことば平和で豊かに生活できる現在の私たちは過去苛烈たる戦争に於て尊い一命をささげられた勇士のあったことを忘れることはできません。ここに日中事変太平洋戦争における殉国諸士の遺勲を仰ぐため自治会員の浄財を集めて慰霊の碑を建立しその英名を刻して感謝の意を表し後世に伝えて永く祭祀の誠をつくそうとするものであります。 昭和四十九年三月 今宿自治会 渡辺三郎 謹書移設された石塔延寶八庚申年と読めるが天満宮横から境内拝殿、本殿社殿の裏に建つ神輿殿境内奥に建つ今宿自治会館今宿自治会館の右前に建つ石碑石碑には、「臺小学校跡」石碑の裏側裏面には「沿革」明治のはじめ越後の藩士の川清茂なる人 今宿に居を構え私塾を開き附近の子弟に読み書きなど教える。明治五年五月 学制頒布により今宿村に成誦学舎萩園村に詳恭学舎が創立される。明治十年十月 前記ニ学舎は統合され校名を臺小学と称す。明治廿四年四月 校名を尋常臺小学校と改称。明治四二年三月 本校と円蔵村の尋常懐島小学校及び浜之郷の高等鶴嶺小学校が合併。 尋常高等鶴嶺小学校となる。 謹書 渡邉三郎 石工 鍛代忠義常顕寺にも「萩園学校跡」の石碑があった 社殿を右側から拝殿横に掲げられていた絵今宿自治会館前から境内を望む 14:03萩園通りから振り返り、イチョウの樹を見上げる道路脇にあった「避難所・避難場所案内」 — 続く ー
2021.11.29
閲覧総数 682
23

岩櫃山を見た後は、吾妻渓谷、八ッ場ダムへ向かうことに。農道から国道145号に戻り郷原交差点を左折、走っていると右側に大きな神代杉を見つけ急遽、ユーターンして神社脇の駐車場に車を停め参拝。11月16日(水) 13:30矢倉の神代杉所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町矢倉矢倉島頭神社の境内入り口にあり、樹齢1400年。中の空洞には樹齢200年の杉がはえており、親子杉とよばれている。鳥居の扁額は「鳥頭宮」国道145号沿いの神社入口に神代杉、根巻鳥居。この神代杉は樹齢1400年。現在周囲9.75m余ありますが、氏子さん達が代々に亘り修復を重ね、今にその姿を伝えています。虚内にある杉は、約200年前に何度か植栽され苦労の末に根付いた木で、一名親子杉とも呼ばれるこの神代杉の名声を天下に広めた由縁です。神代杉の由来そもそも神代杉(一名親子杉とも言う)は、その昔日本武尊御東征のみぎりお手植されたと言い伝えられ、以来幾千歳うつ蒼たる神域を近隣に誇りしが、寛保二年(1742年)草津への旅人一夜をこの大杉の虚にて暖を焚き、その失火により神代杉は半枯の状態になりしとか、その後天明三年(1783年)浅間山噴火による熱泥流は、再びこの神代杉を厄火に包みたり。ときに龍徳寺住職円心和尚は、その焼失の危機を憂慮し神代杉を後世に残さんと余燼のくすぶる中、己が危険を侵し十米の高所より切倒してその祈念を果たし、今の世に往時の面影を残存したると言う。この神代杉は現在周囲九、七五米余あるが、当村の氏子たち代々に亘り修復を重ねて、今にその姿を伝えるものなり。また、虚内にある杉は約二〇〇年前何度か植栽に挑みたるがいずれも枯死したため氏子たち笹原台地の黒土を馬にて運び混土し、杉苗も長尺ものを切株より大空に突出して植えるなど、幾多先人の辛苦により漸くその目的を達し活着したものと言われしが、それより一名親子杉とも呼ばれこの神代杉の名声を天下に広め、今尚誇りを保ち尊ばれるものである。 昭和六十三年十一月 神代杉保存会 吾妻町観光協会 右に掲示する神代杉は国道拡巾工事により移動前の神代杉であります。(枯幹の中に植えられた杉の年輪は二百十六本でありました。) 平成八年五月 吉日 平成七年撮影杉林の参道に立っていた石碑「○○○○碑」。我征清之為○援・・・・・・・・・・中境内と上境内への石段参道。力石も置かれていた。力石の由来力石とは労働を人力に頼らざるを得なかった時代に発生され、力くらべや、体力を養うを目的にした担ぎ石を指す。すべての作業に若者の人々は強い力を重んじ軽軽と運ぶのが誇りであった。岩島地域の力石は丸石で二石組で保存されている。因みに「力石」の大玉が九十八キロ小玉が四十七キロである。力石奉納競技で大玉を担ぎ得る若は名誉と賞賛を得たると知らされる。岩島地区は他に六ヶ所の力石の所在が確認され、形や同数で在るのは岩島地区は麻の栽培で共通点があり庶民の力比べの文化遺産でもある。「力石」は若者が他の地域との交流を有した証であろうし、有形文化財であろう。力石の文献は無くても、素朴な自然であっても、若者が体力を養い親しんだ「力石」は先人と信仰の先史をたずね後世に伝承すべく保存するものである。 神杉の種舞い降りて力石 初蝶の吹きもされし力石 鳥頭神社力石保存会 平成二十年四月 吉日 撰文 小池都史雄狛犬(右側)狛犬(左側)後方に社務所(左)、神楽殿(右奥)。拝 殿 拝殿・本殿覆い屋(写真はネットから)。左側からの拝殿、本殿。彫刻も立派であったのだが・・・。鳥頭神社由緒一、所在地:吾妻郡東吾妻町大字矢倉字宮の脇八九九番地二、祭 神:大穴牟遅神 (大国主命)、宇迦之御魂神、倭健命、建御名方命三、祭 日:春季大祭・4月吉日、秋季大祭・11月吉日、茅の輪祭・7月吉日四、境内地:二,六三六坪五、沿 革 創建年月不詳、伝承によると吾妻七社の一つで建久年中(1190)の建立と伝えられている。 古末武将郷民の信仰が厚く、元享年間(1321)岩櫃城主吾妻太郎行盛が社殿を改修したという。 延文三年(1358)頃京都安居院で編集された「神道集」によると、父が加若和利 母が子持御 前の御子愛東(とのき)宮を祭った神と記されている。 叔父藤原成次は元上野国目代(次官)で、この地に住居し中世は吾妻、西条郷岩下村と称した。 戦国末期は岩櫃城主斉藤氏の庇護を受け、永禄六年(1563)10月斉藤氏滅亡後、同九年海野幸 光同輝幸は武田信玄の吾妻領の郡代となり、天正六年(1578)海野長門守幸光は武田勝頼に忠 誠を顕すため鰐口を奉納したが、享保八年(1723)盗難により現存しない。天正十年(1582) 正月真田昌幸より八貫七百文の寄進を受け社殿を修復、同十八年八月真田信幸沼田入部に際 し三貫五百文の寄進を受けた。沼田真田氏改易の後、貞享三年(1687)検地には境内一反五畝 余、森一反とあり、元禄七年(1694)十一月京都卜部兼連より正一位鳥頭大明神の宣旨を賜っ た。宝暦十一年(1761)本社建替着工、明和元年(1764)九月に完成した。なお宝暦十三年ま で正一位鳥頭大明神と称した。 明治十年七月相殿二座を合祀、同四十年八月境内末社等を合祀した。 撰文 山口武夫 吾妻七社とは児持七社ともいい、児持山大明神・半手木(破敵)大明神・鳥頭大明神・和理 大明神・山代大明神・駒形大明神・白専女大明神の七社を指します。拝殿手前右側に聳える「御神木」の大杉。大杉の幹回りには紙垂、根元には「御神木」の立札。神楽殿例祭には太々神楽が奉納される。神武天皇遥拝所碑の左側に石があり立札があったが?境内裏の斜面に無造作に「末社」。ズームアップ。道祖神も立っていた。境内に聳える「御神木」の大杉。境内の西側に建つ「社務所」「神楽殿」。急遽立ち寄った「矢倉鳥頭神社」だった。13:42吾妻渓谷へ向かって国道145号を進むと前方にJR吾妻線の巨大な鉄道橋。吾妻線第二吾妻川橋梁工事概要 工事延長 431m 3径間連続PC斜版橋 (橋長390m) 単径間PC桁橋 (橋長41m)、橋台 2基、橋脚 2基完 成 2010年2月新しくなる吾妻線JR吾妻線は1945年の開通以来、半世紀以上に及ぶ長い歴史を持っている。渋川駅(群馬県渋川市)から大前駅(同県嬬恋村)間を結ぶ約55.6km の路線である。利根川支流の吾妻川に沿って伸びる沿線には、草津、四万、万座などの名湯が並び、終着の嬬恋村周辺は高原野菜の産地としても知られている。しかし渓谷沿いの地形などから、降雨などで列車の運行が制限されるなどの弱点があった。八ッ場ダム建設に伴って水没する地域は、川原湯温泉駅を含む約6kmである。このため、前後の岩島駅から長野原草津口駅間の線路付替が行われることになった。延長10.4kmのうち約8kmがトンネルになる。これにより降雨、積雪などに対する防災強度の向上による安全、安定輸送の確保が図られるという(情報はネットより)。第二吾妻川橋梁は,岩島駅より上流側の約1.0kmの地点から、曲線半径600mの左曲線を描きながら吾妻川を渡河する橋梁である。単径間PRC桁橋と3径間連続PRC斜版橋で構成された橋長431.0mの中央スパン167.0mは、完成するとPRC斜版橋では国内最長となる。世界的に珍しいという独立4本柱の主塔形状は、地域住民の結束を意味し、みんなで力を合わせて支えるイメージを表現した。また、柱の断面を上下で変化させることで、釣合と安定感を創出していると(情報はネットより)。昼時を過ぎており、道の駅 あがつま峡でそば店を探すことに。13:45道の駅 あがつま峡所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町三島6441道の駅は平成26年(2014) 10月11日にオープンした。施設は年中無休であると。後方の高架橋は国道145号の八ッ場バイパス。吾妻峡温泉天狗の湯営業時間:10:00 ~ 21:00(最終受付 20:30)定 休 日 :毎月第2火曜日入 館 料 :中学生以上 420円(1名様/3時間まで)吾妻峡温泉の玄関口に位置する「天狗の湯」は、自然に囲まれた立地で、源泉かけ流し・体の芯から温まる泉質の良さが魅力の日帰り温泉施設である。道の駅は「あがつまふれあい公園」となっている。八ッ場周辺観光マップ 群馬県東吾妻町・長野原町店先に干し柿が吊るされていた。食べ頃はいつになるのか。昼食でそばを食べによるがうどんしかないとのことで他の場所に。この辺りは吾妻渓谷入口で、紅葉を期待して以前訪れた吾妻渓谷へ向かうことに。その時のブログ「8年前の吾妻渓谷&八ッ場ダム」は後日アップ予定です。道の駅を出発、吾妻川に架かるふれあい大橋を渡り雁ヶ沢交差点を左折して国道145号へ。この観光マップをよく見ておればよかったのだが「関係者以外立入禁止」と(矢印地点)。仕方がなく引き返すことに。国道145号を戻り、雁ヶ沢交差点を左折してループ橋を登り八ッ場バイパス(国道145号)へ。雁ヶ沢トンネル入り口。延長 815m、巾 8.25m、高 4.7m、完成 2008年10月。14:05茂四郎トンネルを出て、そば店を探しに左側の駐車場へ。広い駐車場があったが車はなく。正面の建物は「うどん専科 麦の香り」。そば処だがうどん店も多いようだ!店先をズームアップすると「水曜日 定休日」と。そば処「やんば」所在地:群馬県吾妻郡長野原町川原畑991-6ダム建設にともない移設されたそば店で、手打ちそばが美味しいと。ここで食べることに!店先の駐車場にユニークな「前向き注射でお願いします ♪ 」 の看板。この看板を見て旅友はワクチン接種をしていない高齢者へライン、反応はどうであったのか。こちらには【そばの効果】そばを喰べると、すぐお腹がすくと言われるのはなぜか?それは・・・・そば粉の澱粉には他の穀類より(ジアスターゼ)による消化が非常に早いからです。そばは腹一杯喰べても胃にもたれずに消化吸収されるからです。(タンパク質・カルシウム・カリウム・鉄分) 等多くのミネラルを含んでおります。そばは骨・血液・筋肉を作るのに役立ち、お子様の成長促進に最適です。又、老化を防ぐビタミンEをはじめ血圧を下げる(ルチン葉緑素)が含まれていると言われております。大切なあなた・・・・お子様にも是非、健康の為におそばをお召し上がり下さい。尚、当店のそばは、地元吾妻産の玄そばを自家製粉し、そば粉八つなぎ粉二、の二八そばです。 麦とろ そば処 やんば店先のカエデも白壁とのコラボで映えていた。ダム建設にともない移設されたのであろう、店内は新しい建物であった。店内は広くテーブル、座敷席があり五十人近くが入れるのでは。年配者の方が5,6人で営業されていた。舞茸の天麩羅そば 1,000円 を食しました。昨夜も居酒屋で舞茸の天麩羅を食べたがこの辺りは舞茸の産地なのか美味しかった。他にも麦とろが大好評であると。昼食をとり、令和2年(2020) 3月に完成した八ッ場ダムへ。14:30後方の建物は「うどん専科 麦の香り」。広場にテントがあり「上州名物 焼きまんじゅう」とあったが閉店中?。 ー 続く ー
2023.01.24
閲覧総数 630
24

小田原北條五代祭りパレード開始1時間半前になり、パレード出発地点へ。5月3日(水) 12:05御茶壺曲輪 (おちゃつぼくるわ)御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門渡櫓門、住吉橋を見る。御茶壺曲輪 番所跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡この日は真夏日でパレード見学者は木陰の下に座り込み待機。二の丸観光案内所前には本部救護所(白いテント)が設置されていた。御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。パレードコースは銅門前を出発、この住吉橋を渡る。住吉堀越しに左に銅門渡櫓門、右側に住吉橋。住吉橋前には既に多くの人が待機していた。御茶壺曲輪から馬屋曲輪へ廻る。馬屋曲輪にはテントを張ってパレードを待つ人も。12:10内冠木門 (うちかぶきもん)ここから馬出門へと行きたかったが、既に交通規制 (12時から15時10分頃まで) で行けず。パレードはこの門を潜り馬出門へと行く。この辺りでは、「オープニング演奏、出陣パフォーマンス」。時 間:13:20 ~ 13:25内 容:オープニング演奏出 演:陸上自衛隊第一音楽隊時 間:13:25 ~ 13:30内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会スペシャルパフォーマンスがあるので多くの人が座って待機していた。のぼり旗が並ぶパレードコース。撮影隊も準備中。アームの先端にはカメラ、集音マイク。テレビでも放映されるのであろうか。銅門広場に待機する馬を見る。パレードが出る銅門、住吉橋。撮影準備中のカメラマンも。のぼり旗が雰囲気を盛り上げる。住吉橋の手前には、「出陣パフォーマンスステージ」。時 間:13:15 ~ 13:20内 容:出陣パフォーマン出 演:城主役ゲスト、小田原北條鉄砲衆保存会住吉橋の正面には報道席も準備されていた。他にも授乳施設、本部救護所も設置されていた。12:23馬屋曲輪から戻り小峯橋 (御茶壺橋) を渡りバス専用駐車場、三の丸売店。左側の女性用トイレは長い列をなしていた。藤棚交差点の海側に立っていた、小田原城三の丸 箱根口周辺の遺構国道1号線(東海道)からお茶壷橋にかけての一帯は、江戸時代には小田原城三の丸の出入口の一つである「箱根口」とそれに関連する遺構があった場所です。この付近一帯ではたびたび発掘調査が行われ、戦国時代の堀・建物・水路跡や江戸時代の堀跡など、時代の異なった各種の遺構が発見されました。以降は発掘調査の結果報告で後略。上 段:発掘調査等で明らかにされた箱根口周辺の遺構左中段:正保図(江戸時代前期の箱根口付近)左下段:文久図(江戸時代末期の箱根口付近)右 下:● 現在地三の丸土塁所在地:神奈川県小田原市南町1丁目1-5小田原城の三の丸土塁は幸田口門跡にもあり、ここは箱根口の三の丸土塁である。三の丸土塁で聳えていたであろう切株をズームアップ。三の丸土塁から藤棚交差点を振り返る。右側には市立三の丸小学校の土塀。民家の玄関先で咲いていたバラ。国道1号(旧東海道)の箱根口交差点角に食堂「〇じまや」の暖簾。かます棒ランチ 1000円、あじフライ定食 1200円、かます棒バーガー 700円。他にはデザートも。箱根口ガレージ 報徳広場所在地:神奈川県小田原市南町2丁目1-60国道1号 (旧東海道) 箱根口交差点の南側にある広場である。カフェ・パティスリー・フラワーショップが併設され、敷地内の庭には昔懐かしい素朴な風景が広がります。地元の方の憩いの場として人気のスポットであると。この広場は報徳二宮神社のご祭神で、小田原が生んだ偉人二宮尊徳翁の「報徳思想」の精神と「報徳仕法」の手法を元に、報徳仕法㈱が運営を行い、観光活性化と3世代が集う地域コミュニティの形成を目指すSDGs推進事業として注目されている。また、チンチン電車内ではイベントも開催できる。二宮尊徳少年像と里帰りしたチンチン電車。石碑には「Hakoneーguchi Garage 報徳広場」と。このチンチン電車は昭和10年から昭和31年5月31日まで小田原駅ー板橋駅の国道1号を走った。その後、長崎県の長崎電気軌道に譲渡され、1970年代まで現役車両として活躍した電車が、令和2年小田原ゆかりの路面電車保存会の情熱と600名以上の多くの支援者からのご寄付によってここに設置された。二宮尊徳少年像をズームアップ。報徳二宮神社の境内にある「きんじろうカフェ」の姉妹店。ランチタイムには地場食材などを使ったグリル料理とパティスリーのスイーツがお楽しみいただけます。OPEN 11:00~17:00【ランチタイムMENU】11:00~15:00 *14時迄、ケーキ・お飲物のみでのご利用はできません 【カフェタイムMENU】10:00~11:00・14:00~17:00どれも美味しそうであったが。ういろう所在地:神奈川県小田原市本町1丁目13-17国道1号(旧東海道)沿いに建つ外観はまるで城のような建物で、和菓子と薬局が同居するお店屋さんである。店内にはカフェもある。現在は25代当主で名前は「外郎藤右衛門」さん。三宅裕司が”ふるさと探訪”で訪れている。ういろうの左側の駐車場では、「北条早雲 出陣の図」 ・北条早雲4mの巨大切り絵の展示 ・甲冑着付け体験展示時間:10:00 ~ 16:00 高さ4mの北条早雲の巨大切り絵。北条早雲 出陣の図 百鬼丸先生 作平成二十五年四月 北条五代展で小田原城天守閣に展示された四メートルの北条早雲出陣の図。その製作の折り、和紙を切るために抑えとして一緒に切り抜かれた洋紙の作品。こちらは「甲冑着付け体験」ができる。ういろうの入口に、定 休 日 毎週・水曜、第3・木曜年間休業日 12月31日・1月1日営業時間 10:00 ~ 17:00店内に入るとカフェのメニュー。上生菓子と御抹茶、上生菓子とお茶、上生菓子とコーヒー、ぜんざい、其々770円コーヒー、オレンジジュース、其々440円。奥に薬局店。青色は「第3類医薬品」第3類医薬品とは、第1類・第2類医薬品以外の一般用医薬品。ドリンク剤の「リポビタンDロイヤル」や整腸剤、消化剤などが製品例に挙げられる。第3類医薬品は、薬剤師もしくは登録販売者から購入できる。一般従事者からの購入も、薬剤師や登録販売者の管理・指導の下であれば可能。ネット販売・通信販売が許可されている一般用医薬品であり、販売時の情報提供に関する法的制限(義務)は存在しない。黄色は「第2類医薬品」、右の青色は「第3類医薬品」。第2類医薬品とは、一般用医薬品(OTC医薬品)のうちの一つで、日常生活に支障が出るほどの副作用の恐れがある医薬品。ただし、第1類医薬品に分類されている製品は除く。現在市販されている一般用医薬品のうち、大半が第2類医薬品である。〔製品例〕便秘薬の「コーラック」、胃腸薬の「正露丸」など。以上、ネットより引用。外郎博物館明治18年築の蔵を利用した小さな博物館。初祖・陳延祐より600余年、5代目・定治が当地に移住してから500年、25代にわたり伝統を守り続ける外郎家。 独特の店構えの理由、「ういろう」の名の由来、お菓子と薬の起源、歌舞伎十八番「外郎売」との関係などを、小田原で最も古い商家ゆかりの品々とともに紹介している。入館無料。店内の最奥部にあったようだ。写真はネットより。お土産の「ういろう」売り場。約600年前の室町時代に誕生した“ういろう”の発祥の店といわれる「ういろう」。25代にわたり伝統を守る老舗だ。元来“ういろう”とは外郎(ういろう)家が作る薬を指し、その後接客用に考案された米粉の蒸し菓子を“お菓子のういろう”と呼ぶようになったという。現在も「ういろう」では菓子とともに薬の“ういろう”も製造・販売している。「ういろう」が作る菓子の“ういろう”は、モチモチの食感とさっぱりした上品な甘さが特徴。全5種類の棹もの「ういろう」が販売されている。日本人に愛され続ける銘菓を、いにしえに思いを馳せながら味わいたいと。店内の天上の格子造り。12:40カフェ入口。時間がないので今回はスルーして向かい側の「ちん里う」へ向かうことに。 ー 続く ー
2023.06.29
閲覧総数 343
25

倉見神社の参拝を続ける。8月20日(日) 9:50倉見神社の拝殿前から境内を見る。本 殿本殿は寛保元年(1741)に造営された寒川神社本殿 (寒川町重要文化財指定)を、明治二十八年に移築されたものである。本殿そばには柵があり近寄れない。柵下から本殿を見上げる。倉見神社の後方を東海道新幹線が走る。新幹線を建設時に倉見神社の敷地は建設予定地になったのか。この辺りは約五分位の間隔で新幹線が高速で通過する。JR相模線の倉見駅辺りに新駅の計画がもう何年も前に決定しているのだが。その後の計画はどうなっているのか。社務所からの回廊も寒川神社から譲与され移築されたのか。であれば我が結婚式時にはこの回廊を歩いたのだが。社殿の左側に廻り本殿を見る。本殿の北側は道路を挟み東海道新幹線が走る。防音対策の防音壁も設けられている。新幹線をズームアップ。倉見神社北側の新幹線下の通路。「制限高 1.5M」と低い。背をかがめて歩かないと。第二原倉見Bv (49K325M)東京駅から、49キロ325メートル地点。静かな境内に戻る。9:55寒川神社から譲与され移築された倉見神社の拝殿。今の寒川神社の拝殿とはスケールが違うがどこか懐かしい雰囲気を感じた。この後、もうひとつの寒川神社の神輿殿へ向かう。10:10寒川神社の南東部にある駐車場に駐車、三の鳥居前へ。寒川神社には何度も参拝しており今日は神輿殿を探しに訪れた。寒川神社所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916神池の傍に建つ社号標石「相模國一之宮 國弊中社寒川神社」。寒川神社前交差点の先に建つ「寒川神社参集殿」。三の鳥居と神池橋。石製の太鼓橋の「神池橋」。三の鳥居下から、神池橋を振り返る。寒川神社御祭神 寒川比古命 ( さむかわひこのみこと )・寒川比女命 ( さむかわひめのみこと ) 二柱の神を奉称して寒川大明神と申します。例祭日 九月二十日(九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)由 緒 当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣(天皇より神社に献上 品がされること)の記録があり、神亀四年(727)に社殿建立とも伝わり、1600年以上の歴史 を有しています。 以後、延暦十六年(797)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(846)に 神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。また醍醐天皇の御代に制定されまし た延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心 をなしていました。 中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田 信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地六十二間筋兜(神奈川県指定重要文化財)が奉納される など特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家から の崇敬は極めて篤いものがありました。 明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国弊社制度によって、例祭において 国費から弊帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。 その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和二十年八月十五 日、大東亜戦争の終戦後、同年十二月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃止されま した。昭和二十一年二月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を目的として、 全国の神社及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本庁による包括神社 となっています。 戦後、日本全体の復興とともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努め、全国の崇敬者 からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。社 殿 平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われ ました。境 内 神聖なる神嶽山(かんたけやま)を背に、約一万五千坪を有しており、平成二十一年には御本殿 奥庭の禁足池を「神嶽山神苑」として開苑致しました。 左側の「境内のご案内」に神輿殿の存在がなかった。三の鳥居を潜り石畳の参道を進む。こちらの「境内のご案内」にも神輿殿の存在がなかった。手水舎新型コロナの関係で、感染防止のためまだ柄杓は置かれていなかった。正月には迎春ねぶたが飾られる「神門」。左側には「おみくじ」の縄。御本殿旧拝殿は平成四年(1992)の寒川神社の「平成の御造営」にあたり先程参拝した倉見神社へ譲与され、平成六年(1994)九月に移築された。境内に聳える「御神木」。左側に「神門」、右側に「客殿」があり御祈願受付。境内に植木屋さんがおられたので神輿殿の所在地を尋ねると、「神輿殿はなく祭儀倉庫として神輿・用具を納めており一般者は見れない」と。今年7月17日の浜降祭に参加した時の「一之宮 寒川神社」の神輿。海岸での禊に向かう提灯を掲げた寒川神社の神輿。多くの担ぎ手がいるが、寒川神社へは往復共に「車輌」で移動。御本殿の左側にある「神嶽山神苑」入口。入苑は御本殿にて御祈祷(お祓い)を受けられた方に限られる。以前息子が御本殿で厄払いをした時、入苑券を頂き入ったことがある。神嶽山神苑入苑案内 ■ 期 間 三月上旬 ~ 十二月十三日 ※ 毎週月曜日は休苑(祝祭日は開苑) ■ 時 間 午前九時 ~ 午後四時 ◎ 入苑は御本殿にて御祈祷(お祓い)を受けられた方に限ります。 ◎ 神苑受付にて入苑券をお渡し下さい。 神苑内施設のご案内 ■ 茶屋【和楽亭】 ・季節の菓子と抹茶 (拝服料五百円より思し召し) ・午前九時三十分 ~ 午後三時三十分 (受付は三時終了) ■ 方徳資料館 ・方位信仰に関する資料の展示・公開神嶽山鳥瞰図寒川神社の西側は南北に「流鏑馬」の場所になっている。次に訪れたのはGoogleマップに載っていた「道祖神」。寒川神社の玉垣の一角にあった。所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山3916左右に双体道祖神、中央は?。左側には「寛政五○○○○」と。前の四角の石は?。寒川神社の西側を走る道路脇にある道祖神。ズームアップ。寒川町長選挙ポスター掲示場近くで立候補者の「無所属 杉﨑たかゆき」の応援演説が聞こえた。自民党からの応援で小泉進次郎の応援演説が聞こえてきた。次に訪れたのはこちらもGoogleマップに載っていた「神照寺跡」。道祖神から北上し欅であろうか古木が聳えていた。スマホの案内はここを左折して路地へ。路地を入ると前方に墓地があり「神照寺跡」。神照寺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町宮山墓地だけが残っており説明板等はなかった。墓地の中には古い墓石が多くあった。笠付きの立派な墓塔。古い墓石には「能條・・・」と刻まれた墓石が多かった。神照寺跡から南下、寒川神社の玉垣の一角に道祖神。寒川神社の南門近くにある売店「八福餅八福餅」と。人形奉斎殿駐車場近くにあり、お人形さんを納める場所でお祓いをしていただける。車椅子対応をしている。10:45浜降祭参加の寒川地区の神社6社すべてに参拝した。この後、朝確認した岡田にある「安楽寺」へ参拝することに。 END
2023.08.25
閲覧総数 503
26

大瀬崎の散策を続ける。2月15日(木) 13:30大瀬神社拝殿現在の社殿は火災により昭和十四年(1939)に再建された。拝殿の右側に赤いフンドシが奉納されていた。海上安全を願う人々が赤いフンドシを奉納する風習があり、また漁船の進水式に関連してその漁船の縮尺模型を海上安全と豊漁を祈願して奉納する風習もあった。昭和十四年(1939)の建築であるので匠の技を感じる。至る所に精巧な彫り物が。右側の海老虹梁の彫り物は龍であろうか。拝殿右側の脇障子にも。左側の海老虹梁。右側と同じ彫り物なのか。拝殿左側の脇障子。拝殿にも精巧な彫り物が施されている。拝殿左側に建つ ”御守札授与所” 。社殿は火災により昭和十四年(1939)に再建されたとあったが、その後修復されているのでは。柏槇館古木展示館でこの日はシャッターが下りていた。天気が気になったが ”神池”、”大瀬灯台” へ向かうことに。伊豆七ふしぎの一つ大瀬の神池神池には約三万匹の淡水魚が棲息中!!出札所より神池まで約50m、灯台まで100m。 〃 より神木夫婦びゃくしんまで約150m。 〃 より岬一周約1,000m、ごゆっくりどうぞ。三差路に ”神池” への案内板。パワースポットの神池海から距離が15メートルにもかかわらず、淡水池でありコイやフナなどの淡水魚が多数生息している。表札には「神池」と。池の中には人慣れした鯉が餌を求めて口を開けて待っていたが。餌の自動販売機があったが時間がないのでスルー、鯉さんすみません!。上空からの神池(写真はネットから)。神池の遊歩道脇に社があったが説明板がなく詳細は不詳。池明神(水波之売神)であろうか。大瀬神池此の神池は岬角の末端より内に少々五十米謂はば〇皮に包まる饅頭の如く面積六千六百平方米の霊池にして緑には葦アブラガヤ多数繁茂し鯉・鮒・鯰等の淡水魚数多く群棲す海に近い観念を一変して奥深き山湖を偲ばしめる誠に神池といふ相応しき光景である。海浜僅か五十米に隔つる自然の淡水池を見るは実に奇異と云わざるを得ず、潮の気配聊かもなく伊豆七不思議の一つに数えられ池には池明神(水波之売神)を祀り諸人等の信仰篤く今も尚池及魚に依って種々の心願を掛け若し池に入り魚を害するときは神罰賣面と云われ昔より今に此の不成文の禁を犯したる者か或は死し或は精神喪失その他不虜の危難に遭遇したる実例を云え相誡めて居る。依って今尚池水の深淺底壁の組織の如き実地調査したる人無く伝説によって、この神池は保護されている。岬には神木と云はるゝびゃくしんあり、相並びて不思議のこの池あり、これ等大瀬岬の荘厳と絶勝とを添え敬神上保勝上学術研究上之を永遠に保存するものなり。 大瀬神社鈴木繁伴館跡建武の頃、今より六百四十年前元弘三年鈴木繁伴なる武人(水軍)紀州熊野藤日を出船この地に来り引率の郎党三十余人とともにこゝに立てこもる。観応二年足利直義に属し駿州薩埵山にて敗戦し伊豆江梨の山中に隠れ、其の後貞治六年繁伴関東管領足利氏満に招かれ伊豆・相模領国の船大将を命ぜらる神を尊敬する志篤く神社の破壊したるを見て財を惜まずこれの修理を為しやがて北條早雲に従ひ小田原北條氏と運命を共にしこの地より姿を消している。昔の面影を偲ひこれを永く史積として保存する。 大瀬神社 鈴木繁伴館跡は上記説明板のみでわからなかった。神池の遊歩道から外海への遊歩道は工事中で立入禁止になっていた。神池の北側から南側を振り返る。与謝野鉄幹歌碑所在地:静岡県沼津市西浦江梨 331湾側にある歌碑の前には誰が始めたのか石を積み上げ塔を作っていた。御利益は?。歌碑には『船を捨て 異国の磯のここちして 大樹の栢の 陰を踏むかな』。歌碑の左側に「碑文」。昭和七年国の天然記念物の指定を受けたビャクシン樹林を、翌、昭和八年一月与謝野鉄幹が当地に遊んだ折りこの風景に感動され詩った。 平成五年三月 大瀬神社 氏子一同 建之 大瀬灯台に向けて進む。松の木もあったが枝が根元辺りから。ビャクシン樹林には消火栓も設置されていた。大瀬崎ビャクシン樹林は、古来より有名で「伊豆日記」「豆州志稿」「伊豆志」等の古い文献にも、老大木がたくさんあると特筆されています。また漢字では、百槇・栢心・白心・白身・括とも書かれています。 沼津市教育委員会遊歩道脇に元気な老木が聳えたつ。幹の根元をよく見るといろんな表情があるように見えるが。さて皆さんには?更に進むと玉石に囲まれ石祠と御神木が現れた。御神木大瀬岬一帯に繁茂している壱百三拾本余りのびゃくしん樹が御神木であり、中でもこの巨大なる周囲七米、推定樹令壱千五百年以上、岬随一の大木である、一名夫婦(めおと)びゃくしんが大瀬神社の御神木として、引手力命の分霊をここに祀る。この岬を航海する船人の海上安全と普く諸人等を守護し、湾内住民の崇敬尊信篤き御神木として保護されている。 大瀬神社御神木の根元に”引手力命”の分霊を祀る石祠であろう。御神木を見上げる。13:45外海側にある ”伊豆大瀬埼灯台”。駐車場から途中大瀬神社へ立寄りながらここまで約33分を要した。天気が良ければ対岸に沼津市、富士が見えたのであろうが残念ながらこの日は。ズームアップ伊豆大瀬埼灯台からの外海側の遊歩道は工事中で立入禁止。ビャクシンは陽あたりが良くないと育たないため、林の中では後継樹が育ちません。そこで沼津市では国と県の補助を受け昭和56・57年度に計60本の補植を行い、地元のみなさんとともに大切に育てています。 沼津市教育委員会駿河湾越しに富士市辺りであろうか。伊豆大瀬埼灯台からビャクシン樹林を引き返す。この巨木の一部は枯れたのであろうか、幹が白くなっていた。大瀬海水浴場方向を望む。雨も激しくならず助かる。遊歩道脇にはところどころにベンチが置かれていた。国指定天然記念物 大瀬崎のビャクシン樹林 指定 昭和七年七月二十五日大瀬崎のビャクシン樹林は、ビャクシンの樹林としては日本の最北端に位置するものです。自然のままこのように群生しているところは他に例がなく、現在百三十本が自生しています。しかも、樹齢千年を越すと思われる老樹が多く見られることは、我国では珍しく非常に貴重なものです。この大瀬崎は、天然記念物ビャクシン樹林の指定地となっています。大切なビャクシンを保護するため、次のことを守ってください。 一、ビャクシンの幹や枝にキズをつけたり枝を折ったりしないこと。 一、指定地内で、たき火やキャンプをしないこと。 一、動物や植物を採集しないこと。 一、空カン、空ビンなどのゴミは持ち帰ること。 一、その他、ビャクシンの生育に影響を及ぼすような行為をしないこと。 平成九年二月 沼津市教育委員会ビャクシャクは枯れた後も幻想的な樹形を保っている。ビャクシンの下から第一鳥居を望む。ビャクシャク樹林の中に玉石に囲まれた石碑。石碑には「大正天皇行幸記念之碑 昭和五十四年四月四日 建之」と。大瀬神社参道下へ戻る。駐車料金は1時間まで300円と思いながら引返すが歩く速度が遅くなったと。大瀬海水浴場にはダイバーの姿が。大瀬崎はダイバーのメッカであると。14:10駐車場から大瀬崎の岬方向を振り返る。散策は1時間以内の57分であったので、駐車料金は1時間前で300円であった。食事をとるとその分時間が伸びるがサービスがあるのか。次の目的地は今日最後の「井田の河津桜」。 ー 続く ー
2024.02.27
閲覧総数 326
27

旧相模川橋脚の次は、再度今宿バス停に戻り「日蓮宗上国寺」へ。6月19日(水) 9:25下町屋橋を渡り、今宿バス停へ。右上は新湘南バイパスの茅ヶ崎高架橋。高架橋の先には ”今宿ポンプ場” がある。新湘南バイパスの出口にある茅ヶ崎西インター交差点。いつも立ち寄る ”かつや茅ヶ崎今宿店” の看板。今宿ポンプ場小出川の西側エリアの雨水を集め小出川へ放流するポンプ場であろう。旧東海道(国道1号)の今宿交差点。この交差点を右折し北へ向かう道を、八王子道 (萩園通り) という。国道沿いの歩道を一列になり次の目的地「上国寺」へと向かう。旧東海道(国道1号)沿いにある ”日蓮宗上国寺” である。今日の散策コース(今宿・萩園コース) 距離:3.14km① 旧相模川橋脚 → ② 日蓮宗上国寺 → ③ 信隆寺 → ④ 松尾大神 → ⑤ 萩園辻日枝神社跡 →⑥ 三島大神 → ⑦ 十二天神社今宿村 上国寺(じょうこくじ)日蓮宗の寺院で、本尊は三宝尊(仏・法・僧)である。室町時代の創建とする伝えがあり、村内で東海道沿いに並んでいた上国寺・仏国寺・信隆寺という日蓮宗の三ヶ寺のなかでは古い年代とされている。本尊の日蓮坐像には、永正十一年(1514)の墨書銘がある。拡大図の中央に「上国寺」、左側に「佛国寺」、右側に「八王子道」が描かれている。日蓮宗 上国寺(じょうこくじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿488国道1号(旧東海道)からの参道にはアジサイが植えられ開花し始めていた。国道沿いに立つ掲示板。参道入口に立つ寺号標石には「南無妙法蓮華経 上國寺」と。山門入口に建つ石碑と、説明板。以前来た時は説明板は別の場所にあった。上国寺の木造日蓮坐像 永正十一年(1514)在銘 平成八年十一月 茅ヶ崎市指定重要文化財室町時代の年号銘のある日蓮像です。市内の仏像彫刻の古いものの一つであり、全国に数多い日蓮像のうちでも早い時期に造立されたものとして重要です。本堂にまつられています。像高 三○センチ、袖張 四二センチの大きさです。寄木造りで玉眼嵌入、彩色は後補です。胎内頭部後面に、向かって右から「三月日/永正十一年/作之」と墨書銘があります。 茅ヶ崎市教育委員会◆ 今宿村 上国寺 日蓮坐像 茅ヶ崎市指定重要文化財 (平成8年(1996)指定) 日蓮宗の宗祖・日蓮(1222年~1282年)は、『立正安国論』を著して日本の国難を予言し、 鎌倉や、甲斐国(現在の山梨県)身延山で盛んな布教活動を行なった。神奈川県は全国的にみ ても日蓮宗の寺院が多く、江戸時代の茅ヶ崎市域の寺院のうち約4分の1が日蓮宗の寺院であ った。 本像は、像内の頭部前面に永正11年(1514)の銘があり、戦国時代に造られた像である。昭和 56年(1981)に彩色されているが、面貌表現や、丁寧な衣文の彫り出し、三角にやや尖った両 袖先の造形に、中世の日蓮宗系肖像彫刻の特徴が現れている。同じ今宿で東海道沿いに位置 する信隆寺には永禄7年(1564)銘の、近い萩園の常顕寺には大永7年(1527)銘の日蓮坐像が それぞれ伝わっており、中世まで遡るこの地における日蓮信仰の根強さを示す。 (画像提供 神奈川県立歴史博物館)(ガイドブックより)。こちらの石碑にも「南無妙法蓮華経」と。上国寺本堂本堂は鉄筋コンクリート造りで内陣は高い所に位置している。南北朝時代までに日祐(中山法華経寺三世、応安七年 (1374年) 没) を開山に創建された。本堂から住職がお出迎え。後日訪れたときも住職に丁寧に対応していただきました。博物館担当者からガイドブックでの説明。陽射しが強くこの後本堂へ上がる。本堂の扁額「上国寺」。本堂入口に義援金ボックス日蓮聖人坐像 室町時代・永正11年(1514) 上国寺(茅ヶ崎)茅ヶ崎上国寺の祖師像。生気のあるしっかりとした面貌表現や、丁寧な衣文彫出、三角にやや尖った両袖先の形などから、中世の日蓮宗系肖像彫刻であることがわかる。像内頭部前面に「三月日 永正十一年 作之」の墨書があり造像年が判明する。本堂へ上がり高齢者に優しい椅子が用意されていた。いつもは本堂内陣の中央に置かれている「木造日蓮坐像」だが博物館へ出張中でご不在。ズームアップ。いつもは黄色丸内に「木造日蓮坐像」。いつも本堂内陣にある「木造日蓮坐像」。7月7日まで市博物館で開催されている ”春の特別展 東海道中お寺めぐり” で展示されていた。天井からの豪華な飾り。住職からの説明があり「自分は当寺の43世である」と。住職からは祭壇の仏像の説明があったが・・・。本堂内本堂の隅には浜降祭の写真が掲示されていた。近くにある松尾大神の神輿であろう。本堂から境内を見下ろす。南側には現在は高層ビルの集合住宅になっているがかつては鐘紡の会社があった。住職の説明を聴き上国寺を後にする。暑かったので良い休憩場所になりました。境内から旧東海道(国道1号)へ。山門の右側には「妙厳山 上国寺」、左側には「日蓮宗」と。次の「信隆寺」へ行く前に国道から北側へ入り「仏国寺跡」へ。路地の東側に ”上国寺本堂” 。仏国寺跡とギャーギ婆さん (咳気神)所在地:神奈川県茅ヶ崎市今宿496茅ケ崎には大変に珍しい尊像が3体鎮座しています。いずれも石造りの座像で江戸時代の紀年銘や由緒があります。この尊像にお茶を供えて、それを飲むと風邪や喉の病気を治してくれるといわれています。 誠にありがたい霊験が有ります。ご尊名のギャーキは咳気(ガイキ)から変化したものといわれています。ギャー キ婆さん、ギャーギャー婆さんとも呼ばれ、それ以外の呼び名もあるようですと。ほかの2ヶ所は、”下馬落観音堂跡 芹沢村(旧)”、 ”熊野神社境内 小和田村(旧)” にある。今宿村ギャーギャー婆さんここへは初めて訪れたが、Googleマップには記載されていた。残念ながら案内板はなかった。駐車場の一角にありアジサイが綺麗に咲いていた。地元の方が管理されているのか綺麗に整備されていた。丸彫り像で合掌しています。髪を大きく後ろに束ね、顔はやや摩耗が見られますが衣文は明瞭に残り、丸彫り像にありがちな欠けや割れもなく大切に守られてきました。社に入っています。茅ヶ崎の民話で江戸時代の仏国寺との関係が伝えられていますと。この様なツアーに参加しないと見落とす場所である。9:50私有駐車場にあり国道1号から入れる。明治初めに廃寺となった仏国寺境内と思われる場所で、発掘調査が行われたのであろうか。 ー 続く ー
2024.07.08
閲覧総数 418
28

愛川町立中津小学校の東にある神社を参拝。3月2日(日) 15:30 八坂神社&忠魂塔所在地:神奈川県愛甲郡愛川町中津544辺り境内にはサクラの古木があり奥に忠魂碑が立ち駐車場がないので道路脇に駐車。八坂神社への参道。左奥には神社に隣接して「忠霊塔」が建っている。八坂神社社殿由緒等の説明板がなく詳細は不詳である。境内のサクラの樹は中が空洞になり数本伐採されていた。風等で倒木すると社殿を壊し大きな被害になるので早めの対策が必要。忠霊塔への参道。この敷地には明治期の忠魂碑や慰霊碑が集められており、旧中津村の戦没者慰霊の地となっている。忠魂塔旧中津村 (昭和31年愛川町に編入) 地区における日露戦争以降の戦没者、公傷死者144柱を合祀する忠霊塔である。平成七年八月十五日に戦後五十周年事業として、愛川町遺族会が建立したものであると。西に向かって建っている「忠霊塔」。忠霊塔の下部左右に黒御影石の碑板が取付けられており、戦没者の所属階級と氏名が戦役ごと、戦没順位順に刻されている。下部碑板右側に、「日清戦役(1柱)、日露戦役(5柱)公傷死(1柱)、支那事変(戦歿順位)(11柱)、 大東亞戦争(126柱)」。下部碑板左側に、「大東亞戦争(126柱)の所属階級と氏名 平成七年八月十五日 愛川町戦後五十周年事業 愛川町遺族会」と。 忠魂塔前から八坂神社を見る。神社に比べ忠魂塔前の敷地の方が広い。忠霊塔の左側の樹の下に2基の碑が建っていた。忠魂碑旧中津村における日露戦争戦没者5柱と公傷死者1柱を合祀した忠魂碑。明治39年秋に建立。裏面に合祀者6柱の台石正面に階級偉勲と氏名が刻まれている。因みにこの場所は、戦後に建立された忠霊塔を中心とする慰霊の地となっていることから、この忠魂碑は別の場所から移設されたことが推測される。なお、この忠魂碑の6柱は忠霊塔にも合祀されている。揮毫が乃木大将の「忠魂碑」。忠魂碑は中央で破断のため修復されている。碑には「希典書」と。碑の大きさは、碑高254㎝、幅106㎝、厚さ15㎝。碑裏面には、「明治三十九年秋日建之 陸軍歩兵上等兵勲八等功七級 熊坂榮太郎 陸軍歩兵一等卒勲八等 金子多喜治 陸軍歩兵一等卒勲八等 柳川藤造 陸軍歩兵一等卒勲八等功七級 山田三作 陸軍歩兵一等卒勲八等 荒井保治 合祀 陸軍砲兵一等卒 熊坂正吉 厚木町住 會田平次郎清秀謹鐫」と。この字体の「忠魂碑」が南足柄市の「一ノ堰・ハラネの春めき桜会場」近くにも建っていた。乃木希典大将の意向か、この忠魂碑は各地に建っているのであろう。この写真は、南足柄市の一ノ堰ハラネの春めき桜会場近くにあった「忠魂碑」。忠魂碑の前から境内を見る。サクラの開花時もよさそうだ。忠魂碑の左に立つ碑。碑には、後備陸軍歩兵一等卒矢後吉次郎君碑 子以後備應召属干予隊明治二十八年三月澎湖嶌之役有戦功巳而罹劇疾四月一日 於馬公城病院没矣親戚知友哀其斃干王事醵金建碑使予誌□ 後備歩兵第一聯隊長陸軍歩兵中佐正六位 勲五等岩﨑之紀 功中級と、碑から読み取ったが意味が?。樹の下に肝心な上部がない台座があったが。忠霊塔の横にはヤシの木が「南方戦線」の意味か。サクラも樹齢が百年近くになりそろそろ代替わりになるのであろうか。二井坂子供広場&日吉神社所在地:神奈川県愛甲郡愛川町中津3777中津往還沿いにある子供広場で、遊具施設、二井地区防災備蓄倉庫が設けられている。子供広場の隅に「日吉神社」。日吉神社社殿の左側にも小さな祠、その後方には石塔があった。社殿の扁額「風□」。日吉神社の由来日吉神社の始まりは、「山の神」を祀った小さな祠でした (神社の多くは、昔からその土地にゆかりの深い山や森などの自然を神として祀り、人々の心の拠りどころとなっていることが多い)。八菅山に入って修行する修験者達は、坂本吹上にあった熊野権現を出発して八菅山に向かう古道の途中に祀られていた「山の神」に道中の安全を祈りました。その後、江戸時代になり二井坂の地区も開墾が進むと、この「山の神」を「山王社」としてお堂に祀るようになりました。さらに、江戸時代の終わり頃には「山王社」を現在の場所に移し地区の神社として祀るようになりました。この場所は、松樹山無量院というお堂の境内でした。明治時代になり「山王社」は「日吉神社」と名前を改め、今に至っています。ご神体は、円い鏡で現在は八菅神社の宝物館に納められ、今の建物は昭和四十二年に立て直されたものです。このように、長い年月 二井坂の人々によって守られてきたのです。 平成二十五年三月 日吉神社 氏子 一同 二井地区 自治会この洞の説明はなかった。左側の丸石には字が刻まれていたようだが確認できなかった。移設された石祠、後方には道祖神。社殿の右側に建つ石碑には「□□□□□南先生碑」と。立札には「悟る気になればすずしき心かな」。教育委員会殿、定期的に消えている字は修復してほしいものです。字が彫られていたが「名桑碑」であろうか。碑と説明板の間に名桑の一種「黒春日」が植えられていた。名桑「春日」の里帰り養蚕の際、蚕の餌となる桑の木、この一品種に「春日」という品種があります。明治期、本町で誕生した品種です。 国立中央蚕業試験場の品評会で優勝したこともありました。町内「春日台」地名の由来にもなった木です。昭和初期まで、かつての中津台地は一面、桑の木で覆われていました。養蚕は、農家にとって最大の現金収入の手段でした。その名残りとして、町内には、今でも桑畑が散見されます。しかし、新しい改良品種がほとんどで、春日の□は滅多に□□れなくなりました。往時に□べ□□、隔□の感がいたします。「春日」には、「赤春日」「黒春日」の二種類があります。それぞれ二本ずつが県農業総合研究所より、愛川町に里帰りしました。町では、「黒春日」一本を名桑碑が立っている二井坂子供広場に、「赤春日」一本を春日台の中津第二小学校に、残る赤・黒一本づつを古民家山十邸の庭に植えました。町の歴史を物語る桑の木をぜひ御観賞ください。 平成十四年三月 愛川町教育委員会この説明板も一部字が消えていた。二井坂子供広場で子供達が遊んでいたがこのようなことは言い継がれているのであろうか。この後、近くにある「若宮八幡」へ行くことに。二井坂子供広場から西側の河畔への急坂に石柱が建っていた。石柱には「二井坂」と。側面に、ー にいざか ー小字二井坂の地名由来とされる坂の名。中津小学校南側にある「新坂」と混同されることが多いが別な坂である。二井坂を下ると左側に紅白の梅が満開であった。満開の紅梅をズームアップ。正一位稲荷大明神所在地:神奈川県愛甲郡愛川町中津5894中津往還から二井坂を下り中津川の河畔への途中に鎮座する稲荷大明神である。社殿の前に建つ石碑には、「正一位稲荷大明神□□之事 ・・・・・ 神・・・・・ 大明神・・・・・ ・・・(中略)・・・ 平成元年十二月三十日建之」と。新しい石碑であるが字の彫りが浅いので判読できなかった。左側は昭和二年の「馬頭観世音」、右から二番目には「文化二・・・」と。この後、この三差路を東方向へ進み「若宮八幡」へ。カーナビの案内で小径を進む。前方右側に「八幡宮入口」の案内板を見つける。農道で交通量が少ないので道路脇に車を止め参拝することに。振り返ると逆光の中にロウバイが咲いていた。我が家でも昨年蒔いた種が芽を出しているが開花までには何年?。ズームアップ。15:45ロウバイはかすかな臭いがあるようだが、私の鼻には。 ー 続く ー
2025.04.02
閲覧総数 429
29

少年御郷隊之碑から当時若者が招集された名護小学校校門前へ。9月27日(火) 9:40昭和19年10月 当時17、18才だった少年が防衛召集令により召集され護郷隊(ごきょうたい)を編成しここ名護小学校に誕生した と。名護市立 名護小学校ズームアップすると、「校章」、石碑。石碑には「はばたけ 創立百周年記念碑」と。小学校の右側には「名護市立 名護幼稚園」の門柱。9:42名護小学校から旅友のナビで次の「弘泉寺」を目指して進む。大南公民館交差点の右手前にあった民家。屋根に土嚢が置かれていたのでズームアップ。土嚢はなんのために使用されるのか?セメント瓦だが、国頭村で見た屋根に比べて施工が甘い感じがしたが。9:45真言宗 弘泉寺(こうせんじ)所在地:沖縄県名護市大西3丁目20-1境内は荒れており説明板もなく詳細は不詳。境内には建物が2棟建っていた。境内正面に本堂。石碑には「真言宗 醍醐派北斗山 弘泉寺 昭和五十一丙辰年吉日建立」。本堂の左側にも建物があったが。その前の草むらに大日如来像であろうか。ヤシの木とコウヤマキ(高野槇) ?が聳える。弘泉寺入り口は木が生い茂って荒れていた。9:53弘泉寺の次は大南公民館交差点方向へ戻り、リストアップされていた「道福寺」へ参拝。道福寺(どうふくじ)所在地:沖縄県名護市大西2丁目3-2道福寺は道路に面して建っており、民家のようなお寺であった。道路に面した本堂の扁額「道福寺」ここのお寺も説明板もなく詳細は不詳である。道福寺の駐車場脇にバナナ。バナナの花の開花時期は5月~10月頃で、初めに大きな赤紫色の苞葉が出来ます。徐々に苞葉が開いていき、その内側には赤と黄色の複色のような小さな花を咲かせます。 実の先端に付いている花は、次第にバナナの実へと成長していきます。9:57道福寺から南西方向へ進み「名護市役所」へ。名護市役所は国道58号と県道91号線(本部循環線)に挟まれており大南交差点の先に位置している。この日は「安倍元首相の国葬」であったが半旗の掲揚は無かった。次に訪れるのは近くにある「平和の塔」。10:02カーナビの案内で国道58号の港1丁目交差点を左折、目的地の国道沿いには駐車場がなく。国道58号を左折して名護市役所へ戻る。充電中の車が並んでいた。名護市役所ステーション「カーシェア駐車場 NISSAN e・・シェアモビ」。カーシェア駐車場先の名護市役所の敷地内に立っていた「平和の塔」。所在地:沖縄県名護市港1丁目16-119塔の上部に「平和の塔」と。この塔の由緒等の説明がなく詳細は不詳である。名護市役所は1978年、名護市の顔となる市庁舎の建設にあたって大規模なデザインコンペが行われた。308組ものデザイン案の中からTeam Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)によって手がけられたのが現在の名護市庁舎。沖縄の建物で多く使われる2色のコンクリートブロックが印象的なストライプをつくりだし、周りには植物が生い茂っていた。名護市は2019年3月末から公用車の一部を環境に優しい「カーシェアリング」に転換し、市役所職員と一般利用者との共用をスタートさせた。電気自動車(Electric Vehicle EV)の利用による環境負荷の軽減と公用車の管理経費削減との両立を図るとともに、一人1台という、個人専用車に頼らなくてよい、カーシェアリングの利用を積極的にPRしているとのこと。名護市はカーシェアリング事業者へ駐車場4台分を提供し、平日は市の公用車との併用利用。土日・祝は4台全て一般利用者が24時間利用出来るカーシェアを事業として実施中と。なお、一般の方がカーシェアリング車両を利用するには、日産自動車・日産レンタカーが提供している「Nissan e-シェアモビ」の会員登録が必要 とネットから。名護市役所前に「名護市民憲章碑」私たち名護市民は人間を尊び、すべての人にひろい心と豊かな愛情で接します。自然を愛し、文化財を大切にします。いたわりあって、健康な生活を築きます。きまりを守り、社会を明かるくします。伸びゆく力を育て、未来へ前進します。県道91号線(本部循環線)の大南交差点に名護市役所入口。国道58号の港1丁目交差点を右折し海岸線に沿って西に進むと前方に見えたのが、「タピック スタジアム 名護」。所在地:沖縄県名護市宮里2丁目1球場は21世紀の森公園の一角にあり、プロ野球の北海道日本ハムファイターズが春季キャンプで2月初旬から使用している球場である。この時期の沖縄は雨の日が多く、我々も2月に南の糸満市へ試合で訪れた時も試合は雨で中止になった記憶がある。国道58号から左斜めの国道449号へ進み直ぐに左折して「21世紀の森公園」内へ。公園内の道を進むと左手方向に8の字を横にしたようなモニュメントが現れた。モニュメントにはロープが張られ立入禁止になっていた。とぽいんふぇにてぃ ~所在地:沖縄県名護市宮里2丁目2-1石碑には「とぽいんふぇにてぃ ~」とはトポロジー(位相幾何学・柔らかい幾何学)とインフェニティー(無限)を作者が組み合わせた造語です。モニュメントの前には左右に階段があったようだが。モニュメントをズームアップ。貼り紙があり「危険!たおれるおそれがあります。近よらないでください。名護市管理者」と。21世紀の森公園内の道は一方通行になっており所々に駐車場(無料)がある。21世紀の森ビーチの手前には軒の高い四阿。21世紀の森ビーチブイで囲まれたビーチには子どもたちが天然のプールで楽しんでいた。校外学習であろうか。21世紀の森ビーチの東方向21世紀の森公園は全国各地にあり、ここ名護の「21世紀の森公園」は国道58号沿い、名護市役所前に広がっている。2000年沖縄サミットの報道センターが置かれた場所です。広大な敷地には、体育館や屋内運動場、サッカー場、ラグビー場、相撲場、市民会館、野外ステージ、ビーチなど多彩なスポーツ・文化施設を有しています。特に名護市営球場は、プロ野球・北海道日本ハムファイターズの春期キャンプ地として知られています。外野のすぐ後ろには名護湾が広がり、場外ホームランが海へ飛び込むこともしばしば。夕陽も美しい風情のある球場です。遊歩道の先には、「タピック スタジアム名護」「名護市営第2球場」「イベントドーム」がある。右奥に「イベントドーム」と照明灯が見えた。四阿の傍にはアダンの木。アダンの実はパイナップルに似ている、私には大きな手榴弾だが。旅友から「モンパノキ(紋羽の木)」であろうと。初夏から晩秋にかけて小枝の先端に集合花序を出し淡い緑色の花を咲かせるのだ。まだ何か工事をしているようで公園内にはフェンスが設置されていた。前方に城の如き石垣があり車を駐車場に止める。21世紀の森公園「野外ステージ」平成24年(2012)に、NHKの「こころの旅 とうちゃこ」で火野正平も訪れた場所である。逆方向から名護湾を見下ろす。野外ステージでは、ライブ等が行われているようだ(写真はネットから)。PEACE像野外ステージの近くにあり訪れるリストに載っていたがスルー(写真はネットから)。21世紀の森公園の廻りを一周し再度「タピック スタジアム名護」横の狭い道路脇へ駐車して、大瀬原龍神へ。振り返ると21世紀の森ビーチ。大瀬原龍神所在地:沖縄県名護市宮里大瀬原龍神は海に囲まれた沖縄では、古くから自然の力を敬い、自然の恵みに対して感謝することを大切にしてきました。そのため、海や水の守り神である龍神様を敬い、沖縄の各地の数多くの場所に、龍神様を祀った拝所が作られているのだ。ネットで調べると大瀬原龍神廻りには猫がいっぱいいると。我々が訪れた時も黒猫の子供が4、5匹いた。野良猫に餌を与えている女性の姿もあった。この方と話をするとコロナ禍でリモートワークが可能になり東京世田谷から移住したと。「物価も安く環境も良いのでどうですか」と言われたが「年齢制限があるのでは」と。傍に立てられていた看板には、「捨て猫の末路を知っていますか?」「動物を 殺す 傷つける 捨てる 世話を怠ることは犯罪です。」と。ここにもアダンの木が。タピック スタジアム名護傍に、ゲートボール会場。21世紀の森公園はじっくりしたい空間であったが大瀬原龍神を後にし次の目的地へ移動。 ー 続く ー
2022.10.28
閲覧総数 1465
30

門沢駅前から、本郷から門沢橋にぬける大山道でかつて「柏尾道」といわれた道を逆走し本郷地区を巡った。9月12日(土) 14:00JR相模線を渡り柏尾道の東側へ。県道46号線(産業道路)の門沢橋六丁目交差点。居合坂下交差点2年前の令和6年3月18日(月)には愛車のリンちゃんで巡った場所であるが、見落としている所があるので今回は愛車のノートで巡った。家を出た頃は晴れていたがいつの間にか曇り空になっていた。居合坂下、前方右に説明板が立っていた。《柏尾通り大山道》この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、お参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を離れ、この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほぼ同じ道筋をなしています。 平成5年3月 海老名市教育委員会かつての ”柏尾通り大山道” の風景であろう。居合坂 (いあいざか)坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。「居合」は村共有の入会地でが転訛したものともいわれていますが、由来ははっきりとしていません。急な坂ではないが曲がりくねって見通しは悪い。交通量は多かった。馬頭観世音(No49/堂内)所在地:神奈川県海老名市本郷1240-3道路脇の民家の敷地内?に祠が建っていた。気にしていないと見落とす祠である。民家のブロック塀の中に鎮座している。大山街道柏尾道沿いに立つ光背型の馬頭観世音で、花が供えられていた。保存状態が極めて良く、右側には「馬頭観世音菩薩為二」左側には「明和二(1765年)酉四月十八日」の銘文もはっきりと読めた。馬頭観世音前から「柏尾道」の東方向を望む。この先に交差点がある。居合公民館東側交差点スマホの案内はここを左折と。延命寺所在地:神奈川県海老名市本郷2198説明板はなかったが、延命寺(地蔵堂)は、現在地蔵堂しか残されていませんが、江戸期には寺号を有する庵室だったと。道路脇に建つ延命寺でスマホを見ながら歩いていないと見落とす。堂内の地蔵の台座には「地蔵尊」とあり、塔婆には「南無大師遍照金剛」とあった。祠の扁額「延命寺」。地蔵尊をズームアップ。車で通り抜け道路脇に駐車して参詣した。道祖神所在地:神奈川県海老名市本郷2198-1延命寺の北側数十メートルにあった道祖神で民家の垣根の間にあった。最初この前に駐車したがスマホの案内を見ていなかったので見落とした目立たない道祖神。道祖神の知識がないと「これは何」と思われる存在であろう。文字道祖神で周りには壊れた塔があった。道祖神前から南側の「居合公民館東側交差点」を振り返る。次に向かったのはGoogleマップに載っている「祠」。祠先ほどの道祖神から北東方向に数十メートルに位置している。鳥居がありすぐに分かった。朱色の鳥居があったので存在が分かったが。ここにも由来等の説明板がなく詳細は不詳である。鳥居の前には石材があったが。祠の近くにポツンと道祖神らしきものが立っていた。祠の近くにあった石塔。石塔には「馬頭観世音」と刻まれていた。かつてこの辺りで馬が死んだのであろう、動物愛護?か。本郷の大山不動と二十三夜塔所在地:神奈川県海老名市本郷2263この辺りの東側には富士フィルム関係の工場があり工場建設で開発されたようだ。大山街道柏尾道沿いにあり祠も新しい。石像も補修を重ねているようで、地域から大切にされているのが判る。ここからは大山が望めると。東側の後方には富士フィルムの駐車場が広がっていた。かつては野ざらしになっていたが現在は祠の中に2基の塔が立っている。これも富士フィルムの工場建設で新築されたのであろうか。祠の中には左に「不動明王坐像」右に「二十三夜塔」が祀ってある。不動明王坐像大山道(柏尾道)の曲がり角にありここを左折して北上。本郷の大山道標所在地:神奈川県海老名市本郷2290-1三差路に立っていたが大山道(柏尾道)は右or左どちらか。三差路に多くの石塔が立っていた。右側の道から撮影、座像がこちらを向いているのでこちら側が大山道(柏尾道)であろうか。大山道の石塔、道祖神が並んでいた。道標には「此方 大山道」、右側面には「西国 秩父坂東供〇寶塔」と。地蔵の頭が新しいものになっていた。古い地蔵は風化したのであろうか頭部分だけが新しいものに。今まで各地で地蔵を見てきたがこのような補修は見たことがない、これも地域の方々の信仰心の篤さか。裏側?の左側の道から撮影 (かつての写真から)、右側の道標には、「此方 こくふんし ほしのや 江戸新道」と書かれていた。また「ほしのや」とは座間の星谷寺(しょうこくじ)の「星の谷観音」であると。左側の坐像の台座には「延享四丁卯歳六月吉祥日」と。香港酒楼所在地:神奈川県海老名市本郷2290-1三差路に建つ中華料理店で、駐車場も2カ所ある人気の店であると。右側が大山道(柏尾道)ですぐ右側に「本郷の大山道標」がある。14:15香港酒楼前から北側を見ると県道22号線(横浜伊勢原線)の本郷神社入口交差点が見えた。 ー continued ー
2026.09.21
閲覧総数 40
31

ホテル周りを朝散歩後、9時にホテルを出発して長春市内の観光へ。長春は吉林省の省都で伊通河の河畔に位置する。北国春城、塞北春城と称されるだけあって、冬は寒いが夏はとても過ごしやすい。1800年に清朝政府が長春庁をおいたのが町の始まりで、1932年には満州国(中国では偽満州国という)の首都がここになり新京という名前になった。6/21(金) 9:18偽政府駐満州大使館『汪偽政府駐偽満洲国大使館旧址』のプレート9:27偽政府駐満州大使館の近くに『偽满皇宫博物院』入口偽满皇宮博物院の正門。長春におけるメインの観光地、偽満皇宮博物院を見学した正門と、入ると左側に『御膳房』『東御花園』への入口門が正面に、門の右手に石碑王家の紋章が刻まれた門を入るとすぐの所に「偽満州国皇宮」とかかれた石碑正門を振り返るここはラストエンペラー愛覚覚羅(アイシンカグラ)溥儀(フギ)が1932年から1945年まで 過ごした宮殿。ここはもともとは塩の専売公社だったところを仮宮殿として使用したもの。ゆくゆくは地質宮に立派な新宮殿を建てようとしていたようだが新宮殿が完成する前に太平洋戦争が開戦し、宮殿建築にまわす資金が充当できず建設がとまったまま終戦してしまったとライラックの漢字名『紫丁香』偽満皇宮博物院 配置案内図『東御花園』、『御用防空洞』、『建国神廟』案内図。東御花園左は『同徳殿』東御苑(Royal East Garden)東御苑は、1938年に造られたものである。日本の園芸家佐藤倉の設計で、中国北方の風格と日本の風格がひとつに融合した御苑であり、敷地面積が約1万平方メートルであり、偽満州国皇宮の中の一番大きい御苑である。御苑の中は動と静が相補い、一歩進むごとにその景色が変わり、石道が迂回し、木と石垣が入れ混じり、築山と川も相和し、鳥が林の中で囀る。福貴人李玉琴が時々遊び楽しみに来る東御花園の噴水天照大神防空壕天照大神防空壕は1940年に、「天照大神」を供える「建国神廟」と同じ時期に造られたものである。鉄筋コンクリート造りであり、豪の中に「天照大神」の厨子を置いていた。偽満州国の末期に、空襲に見舞われるたびには、祭祀官は「天照大神」を壕の中に運んで、空襲を避ける『建国神廟』の遺跡は礎石部分のみ残っていた建国神廟の遺跡「建国神廟」は、日本式の木造の神社であり、1940年に建てられたものである。「唯神の道」を核心とした思想支配を強化するために、同年7月、日本関東軍は溥儀を訪日させ、日本肇国の祖先とされる「天照大神」を偽満州国の「建国元神」として供え、さらにそれを信仰し祭祀することを、東北人民に強制するように意を授けた。1945年8月11日夜、溥儀が皇宮を逃げ出した際に、関東軍の放火で焼かれ、今は礎石だけ残っている境内に横たわっていた石碑類東御花園の散策路を進んでいくと、東御花園地下にある防空壕の入口東御花園にあるプール溥儀は西洋文化の影響を受けて、偽満州国皇居の中にプールを設けた。これは「龍体」を外に現わすべからざる清朝の掟を一部始終に守った溥儀にとって、未曽有な行為だと言える。それにしても溥儀はプールに入って泳いだことがない。ただ、たまにプールの隅で光を浴びたり、他の人が水の中に泳いで遊ぶことを見ただけである道徳殿へ入る。一階の一番奥にあったのが『日本間』。日満の関係を表すために日本式の部屋を作っのだと日本と ”一徳一心”、”日満離れられぬ” の関係を表すために、同徳殿の中にわざと日本民族の伝統的様式の部屋を設けて、日本間と言われた。溥儀がここで ”帝室御用挂” である吉岡安直と会見し日本料理をしたことがある道徳殿の1階中央廊下赤い絨毯がピアノ室左奥の隅にピアノ奥の屏風をズームアップ溥儀は北京故宮にいたとき、もうピアノ曲が弾けるようになった。同徳殿が落成した後、わざわざピアノ室を設置した。溥儀はたまにここでピアノ曲を弾いて溥儀皇帝としておこっても言えざる憂鬱と不満を当たり散らしていたビリヤード室(台球間)ビリヤード好きな溥儀が宮廷の学生とビリヤードをやって時間をつぶした。 学生たちはわざと負けを認め溥儀の機嫌を取ったと南側の廊下には暖房用のスチーム中国間部屋の中に置かれたすべてのものが中国伝統風の硬質家具で、装飾も中国の特色をもっているので中国間と言われた。溥儀はここで休憩し、また「皇族」たち、清朝旧人と会見した便見室溥儀の写真便見室は非公式会見の場所である。日偽高級官吏、地位のある来賓が叩拝間で溥儀を朝見した後、この便見室に入って溥儀と相談することができた。溥儀はここで定期的に日本関東軍司令官と会見し、偽満州国、国務総理大臣張景恵以下の各部の大臣の陳述を聴取していた同徳殿 映画ホール。溥儀がときどき家族と日本の侵略戦争を美化した映画をみたのだと同徳殿も政治色・関東軍の匂いのする建物である。 ここは映画「The Last Emperor」の舞踏シーンなどで使われたホール。 甘粕元大尉役で坂本龍一が出演しているのだ映画が上映されるようであったが、残念ながら現地ガイドから次の場所に行くと映画ホールの天井のシャンデリア叩拝間叩拝間は参拝室とも言われて、溥儀が執務し日偽官吏を召見し来賓と会見し朝賀を受けた場所だが、正式に使用されなかった。重要な祝日の時、溥儀はここで家族、「皇族」たち及び身近な人のお礼を受けたところである広 間 溥儀が祝日や誕生日に官使から祝福を受けた場所。 映画ラストエンペラーにも使われたと広間に『道徳殿保護修繕紀實開幕式』の垂れ幕広間は日本語で、すなわちホールの意味である。溥儀は祝日と誕生日の時に日満と偽満の官吏からの朝賀を受けた場所としてのみ利用した。太平洋戦争勃発後、溥儀は日本と偽満州政府によって行われた金属献納運動を支持することを表すために、金属製の宮燈四つ、献納して日本の引き起こした侵略戦争を支援した10:10広間の天井に、純金が用いられ、1つ1トンにも及ぶ豪華なシャンデリアが4つ 中国・東北の旅ー続く
2019.07.27
閲覧総数 1130
32

竜野西サービスエリアで「備中高松城」へのルートを確認して、山陽自動車道を進む。8/9(金) 13:37山陽自動車道の岡山JCTまで1km。備中高松城は左側の岡山自動車道の「総社」方面へここを左側の岡山自動車道へ岡山自動車道の「岡山総社」インタへ岡山空港へも行けるインタ13:40岡山総社料金所車の走行距離は自宅から681kmを示していたインタを出て、左折して国道180号線の岡山方面へ進む。いろんな名所の案内板があり、右折すると日本100名城の「鬼ノ城」もある13:48JR吉備線の「備中高松駅」吉備線は岡山駅から総社駅をつなぐ線である駅前の案内板「まほろばの里」13:52備中高松駅から踏切を渡り「高松城跡」へ所在地:岡山県岡山市北区高松558-2高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名である。駐車場に車を留めて散策城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。スタンプ設置所:高松城址公園資料館(右奥の建物)続日本100名城の「No.171 備中高松城」。城地種類:平城(沼城) 築城年代:16世紀後半か 築城者:石川氏勇将清水宗治が守るも、水攻めで開城三の丸跡三の丸は、城の南口の要所にあたり、川舟を並べて舟橋をかけ城外と結ばれていたと伝えられる。発掘調査では、堀や井戸などが見つかった高松城址公園資料館内のジオラマ羽柴秀吉の参謀、黒田官兵衛が進言した水攻めの布陣近辺の写真高松城址公園の蓮池の遊歩道本丸跡を望む蓮が数輪咲いていた本丸跡天正10年(1582)の戦いの後も城は改修を受けながら維持され、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後は徳川氏の旗本が本丸に陣屋を構えた清水長左衛門宗治公 首塚羽柴秀吉本陣からの水攻めの状況図本丸跡からの蓮池宗治蓮昭和57年に岡山市が歴史公園造成計画によって沼の復元をしたと。蓮は、沼の復元によって自然に生えたものであります14:13高松城址公園を後にする14:41国道180号線を走り、伯備線の総社駅を過ぎ。ここ溝口交差点を左折して国道486号線、吉備路へ。15:03吉備路の国道486号線を走る、前方は、井原線の高架下を通り抜け高梁川へ高梁川を渡り、昨年7月の西日本豪雨被害のあった真備町を走りぬける。15:14道路標識で、旧山陽道「矢掛宿」の案内板があり立ち寄る。所在地:岡山県小田郡矢掛町矢掛 山陽道旧山陽道の町並み旧山陽道 一里塚跡一里塚とは一里毎の目印として道路の両脇に土を盛って、木を植えた所をいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所となりました。現在、矢掛町内には3ケ所の一里塚跡が確認できます。東は東三成の真備町境にあり、道路の拡張工事と共に松の木が伐採された。中央の一里塚は旧矢掛宿内の東町の一里塚で、南北とも黒松で、北側の松は明治16年頃に積雪で倒れ、南側は昭和16年に、省営バス路線工事のため伐採された。西の浅海の毎戸の西端にありましたやがけ おすいマンホール大名行列のイラストか?旧矢掛脇本陣 高草家住宅高草家の祖は因幡国(鳥取県)の守護山名氏と伝えられており、戦国時代に同国高草郡鹿野城から戦乱を逃れて矢掛の七日町に住したのがはじまりとされている。屋号を東平田屋といい、宝暦8年(1758)に現在地に居を構え、代々金融業を営んで財をなした。寛政10年頃から廣瀬藩の掛屋(会計方)を務め、さらに・・・・・・・・右側に、旧矢掛脇本陣 高草家住宅の説明板人通りが少ない旧山陽道旧山陽道江戸時代の後期、勤皇の獅子(高杉晋作、桂小五郎等々)もここを歩いたのか所々に古い住宅がある旧矢掛本陣 石井家住宅入館料:大人 400円旧矢掛本陣 石井家住宅石井家は江戸時代初期(1620年頃)、この地に居を構え、中期以後は代々大庄屋を務めるかたわら、本陣を兼ねた旧家で、元禄頃からは酒造業を営んで繁栄したという。・・・・中略・・・・・、現在の建物は、昭和61年から平成3年にかけて、大規模な修理を行い、現在に至っている主屋は、街道側から「店棟」、「台所棟」、台所棟の西方に「居室棟」がそれぞれ棟を違えてつづき、中央に中坪(坪庭)がある15:24ランチ後で支度中の、創作料理「寶来」一路、国道486号線の吉備路を走り井原方面へ。国道486号線から313号線に入り「嫁いらず観音院」の標識を見つけ、訪れることに。国道を左折して、数キロの所に位置する。15:52嫁いらず観音院の本堂所在地:岡山県井原市大江町1036もう数十年前に亡き母、妻と共に訪れたことがある「嫁いらず観音院」当山は行基菩薩が開山なされて以来、1200有余年の法燈を守ってまいりました。以来、ご参拝の信者の方々に佛法の教化育生のため、儀式行事をかさねてまいりましたが、本来の宗教活動を更におしはかるため法人化を申請していましたが、昭和57年12月1日認可されました。・・・・・・・弘法大師像この日の参拝者はいなかったが、広い駐車場があった本堂前から下の池周りを望むと、釣りを楽しむ人がここでもカップルが本堂前から駐車場のちの世を 思えばまいる 嫁いらず いだかせたまえ なむ観世音嫁いらず観音院のいわれ前略・・・・・・。以後千数百年参拝者は絶えることなく、とくに年老いた人たちがいつまでも健康で幸福な生涯を全うし、嫁の手を煩わすこともないという霊験があり嫁不要(よめいらず)の観音様といわれております。縁日に当たる春と秋の彼岸の中日(春分・秋分の日)、毎月17日の月例祭、一般平日にも、中国四国はもとより広く全国からお詣りがあります15:57釣りをする人たちに別れを告げ後にする16:05井原鉄道の井原線「井原駅」岡山県総社市の伯備線の総社駅から、広島県福山市神辺町の福塩線の神辺駅に至る、第三セクター井原鉄道で、駅数:15駅、路線総延長:41.7kmの鉄道路線。吉備路に沿って走っている昨年の西日本豪雨被害で今年は4年ぶりに赤字になると!なお、JRが発行する青春18きっぷでは乗車できないこのあと、国道313号線を福山方面へ走り、17時前に実家へ到着した。ここまでの走行距離は、自宅から754km、茨木からは264km。 広島への旅ー続く
2019.09.01
閲覧総数 179
33

今日も昨日に引き続いて二川宿から御油宿を目指す。なお、今日が延べ21回目の弥次喜多道中である。明治天皇は明治元年(1868)9月20日に、岩倉具視らを従え、東京へ行幸のため京都を出発して、10月13日に東京に到着した。所要日数は23日であったと。9/26(木) 6:27ホテルで朝食本来は6:30であったが早めにオープンしてくれた6:37早々に朝食を終え、前日乗り遅れた6:48に乗るべく豊橋駅へ急ぐ。昨日 33,000歩歩き今日の体調が心配であったがJR豊橋駅二階へのエスカレーター前に「きつね?」近距離きっぷ運賃表二川駅まで一駅で 200円6:55上り興津行きの電車に乗車、豊橋から一駅のJR二川駅へ到着二川駅の東京方面、隣接して走る東海道新幹線6:58JR二川駅前に降り立つ。服装は昨日と同じショートパンツ、上着は一枚であったが、朝はひんやりして気持ちが良かった。旧東海道(県道404号線)は、二川駅前交差点を左折して吉田宿へ向かう7:04旧東海道(県道404号線)と県道3号線が交差する「火打坂交差点」旧東海道は右のバスの方向だが「岩屋観音」へ立ち寄るので左方向へ進む立岩街道沿いの「ヤマナカ二川店」所在地:愛知県豊橋市大岩町久保田9-1食品、衣料品、日用品、薬品、¥100ショップから軽食までそろっている。このようなモールが郊外にあるとますます街道の店はさびれる立岩街道7:10立岩街道から東海道岩屋山古道の緩い坂道へこの辺りは「岩屋緑地休憩所」所在地:愛知県豊橋市大岩町火打坂東海道岩屋山古道の緩い坂道で岩屋観音へ向かう桜並木で、早朝からの散歩をする人とすれ違う右に岩屋観音の石柱、山の上に展望台(岩屋山)があり散歩コースになっている岩屋山の展望台写真はネットから引用7:12緩い坂道の右側に「玉糸の元祖 小渕志ち 銅像」小渕志ち(1847~1929)の銅像群馬県で糸繰り技術を身に着けた小渕志ちが、たまたま豊橋二川町に宿泊した折り、この地の人々に製糸の技術を教え、そのまま住みつき明治18年(1885)製糸工場を起こした。その後、玉糸製糸の技術を工夫し、明治25年(1892)から製糸専業の「糸徳製糸工場」へと転換した。これが機となって、この地方が製糸地帯として大きな発展をみることとなった。明治21年(1888)には大林宇吉が志ちの工場で玉糸繰糸の伝習を受けた工女6名を雇って座繰玉糸の工場を起こし、明治34年(1901)には、大林宇吉等の尽力により、三遠玉糸製造同業組合(現三州玉糸共同組合)が設立された7:15岩屋観音下の駐車場行基菩薩開創 岩屋観音所在地:愛知県豊橋市大岩町火打坂境内に咲くハギの花岩屋観音は伝承によると天平2年(730)行基が1尺2寸の千手観音を刻んで岩穴に安置したのが始まり。その後堂内に祀られた。現在の岩屋観音堂は文政8年(1825)の再建。観音堂脇の岩山頂上に聖観音像がある。宝暦4年(1754)幕府から、吉田大橋の架け替え工事を請け負った江戸下谷の大工茂平と善右衛門があまりの難工事に困り果て、7日間この岩屋観音堂に参籠し架橋成就を祈願した。橋は無事完成したので、下谷講中が明和2年(1765)山頂に建立した。像は大戦で供出されたが、当時の台座に昭和25年(1950)観音像を再建した鯖弘法大師と右に弘法堂弘法堂鐘 楼観音堂脇の岩山頂上に聖観音像聖観音像大戦で供出されたが昭和25年(1950)に再建された。東海道線、東海道新幹線の車窓から山の上に見えると境内に鎮座する石仏岩屋観音堂と右に岩屋岩屋観音堂堂の天井岩屋観音堂江戸時代には、街道を行き交う人々から多くの信仰を集め、ことに備前岡山藩主池田綱政はこの観音を崇敬し、元禄から宝永(1688~1710)にかけて、観音経・黄金燈籠・絵馬などを寄進しました。山上に立つ聖観音像は、・・・・・・・・・岩 屋岩屋観音堂から南方面。当堂を詠んだ和歌、俳句は多く、香川景樹、古市木朶等の歌俳は有名であり、また歌川広重の東海道写生画の中に、当山を描いたものが数点あります。当堂は古来より真言宗の寺院でありましたが、明治維新後は大岩寺の境外仏堂となっていますとよはしの巨木・名木100選「岩屋堂のスギ」幹周:403cm、高さ:24.1m、枝張り:15.5m×10.8m、推定樹齢:300年以上 弘法堂・鐘楼鯖弘法大師鯖大師(八坂八浜)遍路の始まりに海辺を巡ることだったといいます。波打ち際を歩くのですが、波がよせて通れない場所は、山越えの道を行きます。急坂をよじ登りまた下りて浜辺を歩いた。それが八坂八浜というところです。鯖大師に向かう道で、お大師さんが馬の背に乗せた塩鯖を運ぶ馬方に鯖を一つくれないかと頼みました。馬方はことわってさっさと行ってしまいます。ところが馬引きが坂まで来た所で、馬が腹痛を起こして歩かなくなってしまいます。弱り果てた馬方がお大師さんに薬をくれと頼みました。お大師さんのお加持の奇蹟で馬に飲ませたところたちまちなおってしまいました7:26岩屋観音堂への石段の下から聖観音像7:30国道一号線を歩き吉田宿へ向かう。しばらく名勝地がないのでひたすら歩くことに 二川宿から御油宿-続く
2019.10.20
閲覧総数 490
34

国道136号線を南下して南伊豆町日野の菜の花畑へ。2/12(水) 12:14目的地は国道136号線の日野交差点の角に位置する元気な百姓達の菜の花畑 南伊豆町所在地:静岡県賀茂郡南伊豆町湊307第22回 みなみの桜と菜の花まつり開催期間:2月10日(月) ~ 3月10日(火)会場前の、ファミリーマート南伊豆日野店に車を止める。車を下りると、甘い菜の花の香りが迎えてくれた昨年も来たが、今年はここも中国人観光客が少ない国道136号線沿いのファミリーマート南伊豆日野店。左側へ進むと道の駅「下加茂温泉 湯の花」まで1.8km菜の花の中にヒマワリ同色のヒマワリだが着物姿の女性が二人本人に断って撮影させていただく。着物は貸衣装ではなく本人のものであると菜の花の香りが漂うがミツバチが少ない愛犬を連れ記念写真を先程の女性二人鯉名川(こいながわ)の桜の開花はまだ。河津桜でないのか蕾は硬い、桜とのコラボがいいのだがこちらのステージでも愛犬を連れ若い子達が自動で撮影12:30国道136号線の日野交差点。駐車させてもらったのでファミリーマートで昼食を買う。ここで下田市のペリーロードへ折り返す13:00了仙寺の駐車場へ到着了仙寺から、ペリーロードを歩き開国記念碑へ駐車場から「了仙寺境内」へ所在地:静岡県下田市三丁目12-12ペリーロードの終点であるが、逆に歩くことにする了仙寺本堂国指定史跡『法順山 了仙寺 日蓮宗』寛永12年(1635)創建、開山 日朝第二代下田奉行今村伝四郎正長が開基大檀那として創建。初代奉行父彦兵衛重長の跡を継いだ伝四郎は、江戸への上り下りの廻船の検問を行った御番所の整備、検問の補助にあたった廻船問屋の創設、下田の町を波浪から守った武ヶ浜波除の築造等下田繁栄の基礎を築いた名奉行として知られる。本堂南側の墓域の一郭に江戸時代前期の優れた五輪塔三基がある。第二代下田奉行今村伝四郎正長・第四代伝三郎正成・第五代彦兵衛正信の今村家三代の墓である(下田市指定史跡)。並んでいる小さな墓は伝四郎正長の妻の墓と伝えられている嘉永7年(安政元年-1854)3月、神奈川において日米和親条約が締結されて下田が開港場となると、ペリー艦隊は次々と入港してきた。ここ了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、同年5月に日本側全権林大学頭等とペリーとの間に和親条約付録下田条約が当寺において調印された。これにより、了仙寺は玉泉寺と共に米人休息所となった。当寺で、日本最初の洋楽のコンサートが行われた本堂内に掲げられた絵。安政元年(1854)ペリー提督黒船陸戦隊調練の図 黒船従軍画家 ハイネ筆原画はアメリカ海軍兵学校所蔵。石版画は了仙寺所蔵。写真は了仙寺所蔵の石版画の複製。調練終了後、ペリーと林大学頭全権との間で日米下田条約が締結された。図中の本堂は現存、庫裡鐘楼は安政の大津波によって消失した本堂の扁額御朱印を頂く合間に小僧と記念写真境内の梅の花本堂から山門を了仙寺調練の図旅友が御朱印を頂く了仙寺の2種類了仙寺山門山門の扁額「法順山」山門を出て参道を南側へ参道の右側に「黒船ミュージアム」ガラス面に、購買の方法はパントマイムである。品物を指差して、How much ? と聞く。店主はハウマッチ~という言葉を繰り返して、暗算をし、我々の目の前に片手か両手の指を立てる。指一つが百キャッシュで、1ドルは千二百キャッシュである。 スポルディング日本遠征記13:14今回の目的地の『ペリーロード』へ。ペリーロードは、ペリー艦隊が下田に上陸し、300人の部下を引き連れ了仙寺まで行進した約400メートルの道のり。今でも石倉やなまこ壁の町並みが残る風情のある川沿いの小径下田市のマンホールのデザインはアメリカ艦隊?振り返る:ペリーロードを進みこの先の橋を渡ると了仙寺へ。この橋を渡り左側の路地へ入り階段を上り『長楽寺』へ橋のたもとの案内板13:17日露条約調印所・日米条約批准交換所『長楽寺』所在地:静岡県下田市三丁目13-19 ナマコ壁に囲まれた鐘楼。参道左側の高台にあった梵鐘は良く響き、江戸時代から「時の鐘」として下田港に停泊中の船舶や町民に親しまれていたが、戦時中に供出された。現在の鐘楼と梵鐘は昭和51年に再建された本堂前の境内真言宗 大浦山長楽寺 本堂市指定史跡『大浦山 長楽寺 真言宗』弘治元年(1555)中興開山尊有により再興安政元年(1854)12月、当寺において日本全権筒井政憲・川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの数回におよぶ交渉の結果、日露和親条約(日露通好条約)が締結された。これによって国境が定まり、択捉島と得撫島の間に境界を置き、択捉・国後・歯舞・色丹は日本領に、得撫島以北の千島列島はロシアに属し、樺太については日露両国人の雑居を認めることになった。また、同2年(1855)1月、米国使節アダムス中佐と日本側応接掛井戸対島守等の間で、先に締結された日米和親条約批准書の交換が当寺において行われた。なお、伊豆横道三十三観音の第二十三番であった宝光院が廃寺となり、聖観音立像は当寺に移され、厨子に安置されているロウバイ境内に咲いていた???鐘楼、後方に寝姿山境内の隅に「日魯通好条約」署名150年 記念植樹北方四島在住ロシア人訪問団 平成17年4月24日手前の桜の木 南伊豆の日帰りドライブー続く
2020.02.28
閲覧総数 393
35

成就院で”なんじゃもんじゃ”を見た帰りに、大山街道(田村通り大山道)の一部を走る。旧東海道の大山道の起点「四ツ谷不動尊(田村通り大山道入口)」ここからの田村通りは大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に木造で設置された後、昭和35年に大改修された。所在地:神奈川県藤沢市城南1丁目1四谷不動(大山道標)東海道と大山道が交差する四谷辻に建てられていた道標で、大山不動尊の下、正面に「大山道」、両側面に「これより大山みち」とあります。延宝4年(1676)に江戸横山町の講中が建てたものです。堂外の道標が初代のもので、万治4年(1661)に江戸浅草蔵前の講中によって建てられたものです。江戸時代を通じて、江戸町人の大山参詣が盛んでした。四谷辻には多くの茶屋が立ち並び参詣客を誘いました。今でも7月1日の大山開きには、四谷町内会の年中行事として、辻堂元町の宝珠寺の住職のもと護摩供養が行われています。 平成5年2月 藤沢市教育委員会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4月23日(金) 11:18県道404号線(小出県道)の高田交差点を左側に入り県道44号線を東へ進む。この通りは県道44号線の伊勢原藤沢線(田村通り大山道)であるが狭い。前方は「熊野神社」の森熊野神社(くまのじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目10-44茅ヶ崎市高田の鎮守社で、大岡忠相の父が徳川将軍から拝領された地で熊野大神が奉られています。現在の社殿は昭和2年に建てられたものです。敷地内には日枝神社(山王社)があります拝殿の扁額「熊〇社」拝殿右側にある稲荷神社由 緒元和3年森武右エ門が一族狼徒を連 高田に土着をし屋敷内に京都伏見稲荷大神系の秦野大泉に鎮座する白笹稲荷神社の分霊を勧進建立をしたの始です。その後、同屋敷内に紀州熊野本宮を分霊し熊野神社を建立をして、その機会に同屋敷を分割をして熊野神社境内社として現在に至ている。当然今の社殿は当時の物とはちがいます。森家を始め高田人々の篤い信仰を受けて、大切に保存されています。 令和三年初午 森 久雄謹書正一位○○稲荷大神白笹稲荷大神高田総鎮守 熊野神社高田の鎮守熊野神社は、万治元年(1658)に高田村の領主大岡氏が紀伊国熊野本宮より遷祀された神社で、熊野大神が奉祀されております。慶長8年(1603)に大岡兵蔵(忠吉公)が、高田村のうちで160余石を徳川将軍より賜わり、爾夜、明治維新に至るまでその子孫の采地であったのです。熊野神社を創建されたのは大岡隼人(忠高公)で、越前守忠相公の父君にあたる方です。現在の社殿は、勿論当時の建物ではなく、昭和2年に高田総氏子によって新築されたものです拝殿の左に「日枝神社」当社は、享保5年(1720)に大岡氏が、近江国東坂本の山王大権現を分祀された神社で、祭神は大山昨命であります。昔の社殿は、山王山と稱する丘陵上に建てられていて、そこは青々と松が茂り、高田耕地を眼下に見下す景勝の地でありましたが、後に、熊野神社境内に移されたものです。現在の社殿は、昭和47年に新築された建物です日枝神社の扁額「山王社」拝殿と右に神輿殿拝殿の右奥には、庚申塔、地神塔、太白金星大金神田村通り大山道沿いには数基の墓石一番手前は「元禄十四年七月 吉日」と熊野神社から大山街道を東へ進み直ぐ右側にあるお寺街道沿いの石柱には「日蓮宗 本在寺」日蓮宗 本在寺(ほんざいでら)所在地:神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7-38立派な山門手前に駐車場がありここへ駐輪して境内へ山門を入ると正面に本堂本尊は十界曼荼羅本尊本堂の扁額「○○山」本堂前から山門山門左に立つ、日蓮聖人之像本在寺前から大山街道を振り返る。街道正面に熊野神社街道を進むと「赤羽根六地蔵堂」所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根毛糸の帽子を被り一、地獄道、二、餓鬼道、三、畜生道、四、修羅道、五、人道、六、天道広場に「大山街道句碑」添田唖蝉坊、杉﨑鳥花句「春風や いそがぬ人の そでを吹く」「密会の かなしみを泣く 蛍かな」 添田唖蝉坊は、明治大正期の演歌師で名は平吉。神奈川県大磯の生まれで一時茅ヶ崎に住んだ赤羽根六地蔵堂から大山街道(田村通り大山道)の西方向を望む。昔は天気が良いと富士山が見えたのであろう大山街道(田村通り大山道)を東へ進み「神明大神の参道入口」右側は「水越家の長屋門」大山道が通る赤羽根の神明大神の参道前には、樹齢400年以上と思われる大ケヤキがあります。この部分の道幅は約3.6メートルあり、天保12年(1841)にまとめられた『新編相模国風土記稿』にある「道幅約2間」に一致しています。かつての大山道を偲ぶことができる貴重な場所です。しかし根元は車等で疲れてきているようだが養生は?水越家の長屋門神明大神社 一之鳥居所在地:神奈川県茅ヶ崎市赤羽根468大山街道(田村通り大山道)に建つ鳥居、神明大神へはここから参道を約200メートルほど進む参道には杉林があるが近くに住宅ができ徐々に伐採右側に鐘楼鐘 楼梵鐘の下には鉄柵で安全確保鐘楼、一之鳥居を振り返るここまで自転車で来る高架橋の向こうに神明大神新湘南バイパスが境内を横切るように建設されたため、下にも道路があり歩道橋を渡り境内へ。昭和63年(1988)3月に完成した神明歩道橋神明歩道橋の上から東方向を望む。この辺りには20年以上前に惜しまれて閉店した、カラフルな田代ラーメンの店舗が残っている。また、下の一般道には参宮橋があるとのことで次回確認したいものです後日確認した、20年以上前に惜しまれて閉店したカラフルな田代ラーメンの店舗であろうか。外から見るとライトが点いていたが。昔、現横浜ベイスターズの田代内野手が経営した店神明大神の二之鳥居手水舎と拝殿鶴嶺八幡宮が兼務、神職不在の神社拝殿の右側に神輿殿 境内が広い赤羽根神明大神 掲示板祭 事一月 元旦祭七月 浜降祭(海の日)九月 例大祭(第三日曜日)神明大神社 一之鳥居と大ケヤキ道路が狭いので大型車は進入禁止になっている県道44号線(田村通り大山道)県道44号線(伊勢原藤沢線:田村通り大山道)の室田小学校正門交差点大山街道(田村通り大山道)から南へ200メートルほど入りバス道へ道祖神昭和三十三年正月十四日 室田部落講中八王子神社(室田)の鳥居所在地:神奈川県茅ヶ崎市室田1丁目13-35鳥居の扁額「八王子神社」八王子神社拝殿奥に神輿殿拝殿の左の脇障子には龍の彫り物拝殿の右の脇障子拝殿から鳥居を見下ろす県道44号線(田村通り大山道)に戻り街道脇に「松林村役場跡」県道44号線(伊勢原藤沢線:田村通り大山道)を東へ進む。左上は新湘南バイパスの高架かつては数件のスナックが経営していたが、現在は一軒のみ。この辺りは、茅ヶ崎市菱沼1丁目ジャーマンアイリスが咲いていた END
2021.05.13
閲覧総数 2924
36

茅ヶ崎市観光協会から、ゆかりの地MAPに記載されている、「御霊神社」を訪れることに。2月24日(木) 14:15スマホの案内で国道1号を西に向かい、南湖入口交差点を左折して「南湖通り」を南下するとJR東海道本線の「最乗寺踏切」。東京から、59K731M 茅ヶ崎市十間坂2-614:25南湖通りから右側(西方向)へ入りくねくねと住宅街を進む。茅ヶ崎の南側の住宅街は迷路のようになっている。御霊神社(ごりょうじんじゃ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-10鳥居の前に、神社の石柱と赤いポストが建つ。鳥居から社殿への参道脇に、「地神塔(じじんとう)」。鳥井戸御霊神社の地神塔(じじんとう)昔、村人が鳥井戸御霊神社の参道に、この地神塔を据えたものと思われる。地神塔とは、死者の供養や自分の極楽往生を願って建てられた石塔である。作成は室町時代末期に造られた供養塔と思われる。神仏習合の時代の時である。その時は西運寺が御霊神社の別当寺であった時代でありました。我々、後世の人々がすべての人が幸に暮らせる様に、この地神塔を管理して参ります。令和三年六月 鳥井戸御霊神社 総代 加藤秀美鳥居をくぐり進むと小さな社殿。御霊神社の由緒御祭神 鎌倉権五郎平景政御祭神 九郎半官 源義経御霊信仰とは、厄災の発生や非業の死を遂げた人の怨霊を鎮めて、人々の平穏と繁栄を実現しようとする信仰である。御霊神社の創建年代は不詳であるが、古くより御霊山西運寺の領有地に毘沙門堂があったが、その後幾多の変遷を経て現御霊神社になったものである。言い伝えによれば、治承年間(1177~1182年)にこの地方一帯を治めていた懐島権守平景能が此の毘沙門堂に鎌倉権五郎景政の霊を祀った。建久九年(1198)鎌倉幕府初代将軍源頼朝一行が、相模川の橋供養の帰路、非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊が現れ、驚きの余り落馬しそれが原因で翌年死去したとされている。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を此の毘沙門堂に合祀したとも伝えられている。後年永く信仰の場になっていた当神社も、明治初年の神仏分離に際し御霊山西運寺より独立し現在に至っている。現社屋は昭和四年再建したものである。社殿前には「御霊神社 神社総代 加藤秀美」さんの説明板が並ぶ。拝殿の扁額「御霊神社」。社殿の前に植樹された「西行桜」。西行桜「ねがはくは 花のもとにて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行」・ 西行法師の辞世の歌として特に有名な歌です。・ 西行法師はこよなく桜を愛した歌人でありました。・ この御霊神社の桜の木を「西行桜」と命名致しました。・ 「西行桜」が参拝者の皆様をお守りいたします。令和三年 正月相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美イチョウの木は上部を伐採されている。社殿の右前に孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)の「御神木 イチョウ」。「御神木 イチョウ」・ 御霊神社の境内のイチョウの木は太平洋戦争(突入 S16年8月終戦S20年8月15日) 時、国より苗木が下賜され、境内に植えられたものです。・ 平成28年、幹樹が空洞化したため伐採いたしました。・ そして親木の側より孫生(ひこばえ=切り株から出た芽)が誕生し、元気に成長いた しております。・ このイチョウの木は子孫繁栄の証として、非常に縁起よい木と親しまれ、御霊神社 のパワースポットになっております。・ 孫生(ひこばえ)の成長は鎌倉の鶴岡八幡宮のヒコバエ・イチョウと同じ成長をとげ ております。・ このイチョウの木に触れるだけで、幸福が宿ります。・ ご参拝者の皆様が幸わせになりますように。 令和四年正月 神社総代 加藤秀美砥上が原(とがみがはら)・ 鎌倉時代 相模川から藤沢の曳地川の間は砥上が原と呼ばれる寂しい砂地の荒部で ありました。・ 当時はこのあたりは鹿も多く生息致しておりました。・ 西行法師が鎌倉へ旅する途中砥上が原で次の歌を詠んでいます。 「芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて 砥上が原に 牝鹿鳴く里」 意味としては「薮を覆うクズの陰に牝鹿を隠し、淋しい砥上が原に牝鹿の求愛の 鳴き声が響いているよ。」の意味になろう。・ 鳥井戸御霊神社は砥上が原の中央に位置する所へ堂宇を建立され、毘沙門天立像が 祀られました。その当時は毘沙門堂と呼称され、鎌倉権五郎景政公が大庭景能によ ってこの社に祀られてから御霊神社と呼ばれるようになったとおもわれます。・ この歴史・由緒ある鳥井戸御霊神社が皆様方をお守しております。相州 南湖 鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美御霊神社の狛犬うずくまった姿勢の獅子に似た一対の像は、御霊神社の狛犬です。魔よけために神殿の前に置かれています。御霊神社を守護すると共に参拝者の皆様も御守りいたしております。皆様が平和に暮らせますように・・・。鳥井戸御霊神社 神社総代 加藤秀美口をあいている方が阿形。口をとじている方が吽形。大庭景義はなぜ自分の祖先の鎌倉権五郎景正を鳥井戸の御霊神社に祀ったのか?まず考えられることは、鎌倉時代には既に現在の社の場所に毘沙門天のお堂があり、近郊では広く知られていたと思われます。当時、毘沙門天は武人たちの信仰が篤かった。毘沙門天は武神として武士一般に信仰されており、このことは北条時政や和田義盛に、いずれも仏師・運慶が造立した毘沙門天があったことで明らかである。・ 北の国、越後の上杉謙信は自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」を旗印とした。・ 和田義盛は、誇り高い鎌倉武士で源頼朝から御家人を統括する侍所の長官に任じられ、強い 権力を得た。北条時政が奈良の運慶に阿弥陀三尊像の彫刻を頼んだと聞くや、義盛も競うように依頼した。これが現在の浄楽寺(横須賀市) ※1 にある阿弥陀如来坐像、観音菩薩、勢至菩薩、不動明王、毘沙門天の立像で、いずれも力強い群像である。大庭景義は祖先の鎌倉権五郎景正をここに祀ったのは、毘沙門天のお堂だからと思われる。そして、西運寺が室町時代末期にこの毘沙門堂の北側に創建され、北側である理由は毘沙門天(多聞天) ※2 は北方を守る北方守護の神として信仰され、戦勝祈願や現生利益を求めて人気が高い守護神であったためである。西運寺の本尊ー阿弥陀如来を守護する役目であると思われる。※1 浄楽寺(横須賀市) 住宅街にある小さな寺だが、和田義盛が創立した寺であり、本尊の阿弥陀三尊像及び脇侍 仏毘沙門天、不動明王の両立像は運慶の作で、国の重要文化財に指定されている。※2 毘沙門天 四天王(持国天・広目天・増長天・多聞天)のうち北方を守る多聞天は特に独立して単独で 祀られることがあり、その場合は多聞天の梵名から「毘沙門天」という。御霊神社の左側にある「稲荷社」の「御霊稲荷」。御霊稲荷扁額は「御霊稲荷」。御霊神社の西側から社殿を望む。廻りには民家が迫る。御霊神社の北側に隣接する西運寺へ。浄土宗 西運寺(さいうんじ)所在地:神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9-34本堂の前に手入れが行き届いた立派な松。本堂の扁額「西運寺」本堂前に「地蔵菩薩」。本堂の左側に観音堂。観音堂の扁額「観音堂」。観音堂の前に、絵馬が無料「ご自由にどうぞ」と。無料と言っても浄財は・・・、小銭がなく諦める。観音堂の左側に無縁仏の墓石が並ぶ。後方はJR東海道本線。 六地蔵が並ぶ。民家の間に山門。寺標の石碑には「御霊山浄土宗 西運寺」。山門の扁額「御霊山」。樹齢 百年以上の松。松の下の石碑には「南無阿弥陀仏 西運寺旅行会」。年輪を感じさせる幹。 ー 続く ー
2022.02.26
閲覧総数 839
37

車を道路脇に止め、岩地区観光MAPに載っていた「兒子神社」を参拝。6月10日(金) 10:40兒子(ちご)神社入口所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町岩653参道入口に「兒子神社」の石柱、坂の途中に鳥居がありその先が階段になっていた。民宿の女将さんと談笑しながら、兒子神社は近いかと聞き参拝することに。坂道を上り、鳥居の右側にあった「忠魂碑」と「護國塔碑」。感謝の碑平成七年八月十五日は終戦五十周年になります。平和日本の礎となりました英霊諸兄の尊い生命を捧げ、祖国を守り日本再建の基をつくってくれました。この功績が永く輝き続けるよう関係者一同多数の協力者と感謝の碑を建立し遺族の方々の幸せと郷土の繁栄を祈ります。 平成八年八月十五日忠魂碑 元帥 公爵山縣有朋書一の鳥居から階段を上り振り返り真鶴ブルーラインの岩大橋を望む。二の鳥居の先には、森に囲まれた社殿。二の鳥居を潜ると右側に「御大典記念事業完成碑」。碑には、自然に恵まれた岩の氏神として、御鎮座以来人々の篤い心と、力の結集をいただき、期に望み御造営、改修等を実施してまいりましたが、昭和八年、御社殿の改築時に完成した石段も永き歳月により「ゆがみ」を生じ、修復を願う人達の要望により、御大典記念事業として着手したところ特志ある六百余名の御協力により、無事完成をみるに至り、関係者一同にとり喜びにたえません。また、この記念事業に合せ、心ある篤志家より、大前に本小松石による、春日燈籠壱対の奉納もあり、深く感謝いたす次第です。この計画の完成により、神域の威容を高めたことは勿論でありますが、今回の計画に奉賛された人達の家業の安全隆昌と、家族の健康を偏えに祈念するものです。 平成二年十一月十二日 兒子神社 宮司 平井義行 兒子神社 役員一同 手水舎手水舎の手前に「さざれ石」。さざれ石 北海道沙流川産碝石(さざれいし)とは本来小石のことですが、「古今和歌集」に「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむす迄」 とあるように次第に大きくなって巌になると信じられてまいりました。氏子皆様がたが千代に八千代に共に栄えこの「さざれ石」のように大きく発展されることを祈って奉納されたものです。境内の左側に碑が二つ建つ。左側の「兒子神社」碑。御祭神 文徳天皇の皇子 惟喬親王(これたかしんのう)とその御子神例 祭 七月十四日 十五日に近い土曜 日曜由 緒 延喜年間(十世紀初)の創立と伝えられるが、天保年間大災のため社殿を 焼失し、古記録等はこの時に失った。 御子神は親王の御後を慕ってきた従者二人を従え二才になられた若宮を 擁して当所にこられたが 若宮 病を得て夭逝されたので 御父と伴に奉斎 したと伝えられ、以後 子供の流行病の厄除けの参拝が多くみられた。 古来、岩地区の人達の生産と生活の守り神として信仰されている。右側の「神輿舎建設記念」碑。 碑には「御輿舎建設基金寄附者御芳名」が刻まれていた。拝殿を望む。拝殿の前には、石灯籠、狛犬が建つ。右側の狛犬 阿形像 昭和8年生まれの陶器製狛犬であると。左側の狛犬 吽形像。拝 殿1180年(治承4年)8月28日、土肥実平の手引きによって岩海岸にたどり着いた源頼朝一行が安房へ向けて船出しようとしたときのこと。実平の子遠平が「子の万寿に会ってから・・・」と言い出した。万寿の母は、頼朝に敵対した伊東祐親の次女・万劫。内通を疑った実平は、遠平を下船させたのだという。その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追うが、子の万寿には会う事はできなかった。遠平の船が出た後に駆けつけた万寿は、父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだという。それを憐れんだ村人は万寿を児子神社に祀ったのだと伝えられている。拝殿の扁額「兒子神社」。拝殿前から境内を見る。右側に、倉庫、神輿殿が建つ。大きな流造の「本殿」。真鶴町の兒子神社は、延喜年間の創建と伝えられる古社。1180年(治承4年)、石橋山の戦いで平氏に敗れた源頼朝が船出したという岩海岸を見下ろす高台に建てられた社。祭 神:惟喬親王之御子神(これたかしんのうのみこがみ)。社殿の裏側に立つ三の鳥居?本殿の右奥で裏門手前にあった手水場の「手洗鉢」。手洗鉢には「右三つ巴」紋、「法輪」紋、「卍(まんじ)」紋が刻まれている。重要文化財指定 名 称 岩村中奉納 手洗鉢 数量 1上記のものは、真鶴町文化財保護条例に基づき重要文化財(有形文化財)に指定する。 平成18年4月1日 真鶴町教育委員会境内に聳えるイチョウの木。境内社「龍宮神(りゅうぐうじん)」。鳥居には「龍宮神」。新設された「社殿」。竜宮伝説は、浦島太郎に始まった訳ではなく、それ以前から海の神様としての龍神信仰に基づくもので海の中に竜宮があり、海の神様である竜神が住んでいるとの伝承は古代から続いているもの。海を生業の場としている漁業者は、竜神様が頼みの綱であり、それをお祭りした竜宮様、竜神様が全国の漁村にあるのだと。社殿前から見おろす。11:03兒子神社の入口に建つ、民宿「さざ波」所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町岩491先程の女将さんが二階から「どうでしたか」と。帰宅後ネットで調べると「さざ波」は旬の地元の魚介類を提供する、昔ながらのこぢんまりした民宿であると。女将さんからは釣り客ではなく一般客が主であるとのことで、後日いつの日か宿泊したいと。11:06兒子神社から東方向へ歩き、住宅に囲まれたひっそりとしたところに朱色の鳥居を見つける。津島神社所在地:神奈川県足柄下郡真鶴町岩709-1通称は「お天王さま」と呼ばれていると。津島神社祭 神 素戔之男命(スサノオノミコト)勧 請 寛文四年八月(1664年)御神徳 疫病・厄災難除け由 緒 当社は疫病・厄災除けの神として、寛文四年(1664年)に勧請されて以降、「津島神社」は 岩のお天王さんと呼ばれ永く地域の方々に信仰され崇敬を集めておりますが、長年の風雨 などによる損傷が激しくなってまいりました。 その為、令和ヘの御代替わりの御大典事業として鳥居の復元を筆頭に境内地の整備を行い、 愛知県津島市神明町に鎮座する「津島神社」の御本社より「分御霊」を再び勧請してまい りました。 今後とも地域の皆様の守り神として広く信仰されます事を御祈念いたします。石段左側に、歴史を感じさせる石碑群。海に近く長年の風雨にさらされ、損傷が激しくなっていたのであった。石段を登ると、一段高い所に石祠が3基、石灯籠が1基。地盤も傾斜していた。中央に石祠が2基。説明がなく詳細は不詳。津島神社から岩地区の民家を見下ろす。鳥居は鉄骨で造られていた。11:10津島神社から海側へ進み直ぐ角に、「正一位 稲荷大明神」と書かれた幟が立つ。如来寺跡手前に「正一位 稲荷大明神」。 ー 続く ー
2022.07.04
閲覧総数 950
38

妻からの連絡がないので常楽寺の後、スマホのGoogleマップに「行ってみたい」で事前に登録していたまだ訪れていない大船の寺社へ行くことに。 3月24日(金) 11:20鎌倉街道(県道21号線)の砂押橋交差点。車はこの近くのコンビニで買い物後車を停め散策開始。砂押橋交差点から砂押川を上流へ向かう。鎌倉市大船地域東側に位置する河川で、称名寺(今泉不動)のある大平山北西斜面の谷戸(今泉5丁目)と、散在ガ池(鎌倉湖)のある谷戸(今泉台7丁目)を水源とする。今泉・今泉台・岩瀬・大船地区を抜けて北西に流れ、大船駅地下を潜って柏尾川まで続く。水位は低いが規模に見合わぬ大きさの鯉も生息している。砂押川の途中には、川の横に桜が植えられている所があり、一部散歩道の砂押川プロムナードも整備されている。植えられている桜はソメイヨシノ、カンヒザクラ、早咲きの玉縄桜などが植えられている。江ノ電バスのバス停「下関」。スマホの目的地を「稲荷社」にして砂押川を上流へ向かう。砂押川沿いに咲く満開のソメイヨシノ。桜は「岩瀬あゆ公園」に咲いていた。岩瀬下関防災公園所在地:神奈川県鎌倉市岩瀬1517-1岩瀬あゆ公園の道路を挟んだ向かい側にある公園で、昭和50年代から土地所有者のご好意により鎌倉市が借地し青少年広場として地元に親しまれている「いわせ下関青少年広場」は、鎌倉市が用地を取得し「岩瀬下関防災公園」として整備し、平成27年4月1日に開園された。岩瀬下関防災公園脇に咲いていた「アカバナマンサク(赤花満作)」。アカバナマンサク (赤花満作)。岩瀬あゆ公園のソメイヨシノ。岩瀬下関防災公園から上流へ向かい、右前方の山肌に稲荷社の赤い鳥居と社を見つける。上岩瀬橋を渡り稲荷社へ向かうが行き止まりになり引き返し下流側を振り返る。欄干には「上岩瀬橋」と。上岩瀬橋の上流にある、上ノ谷戸橋。上ノ谷戸橋を渡り稲荷社へ進む。上ノ谷戸橋の欄干に「砂押川」と。上ノ谷戸橋を渡ると右側の山肌に鳥居を見つける。稲荷社所在地:神奈川県鎌倉市岩瀬916稲荷社をズームアップするが社は見えず。稲荷社へは鉄製の階段が設置されていたが最下段部が壊れていた。狭い平地には朱色の鳥居と社が佇んでいた。社の左側には石祠があり新しい小さな狐が奉納されていた。稲荷社から岩瀬の谷戸を見下ろす。稲荷社を下り道路脇にツバキが咲いていた。花が首ごと落ちているのでツバキ。ツバキをズームアップ。稲荷社の次の目的地は「木舟大明神」をスマホにセット。バス道に出て砂押川沿いを下り江ノ電バスの「上岩瀬」バス停。民家の庭先にソメイヨシノ、ほうきももが咲いていた。岩瀬下関防災公園前にあった「災害時の避難場所」。岩瀬下関防災公園の奥にある「鎌倉市消防団第8分団」。ここの奥に西念寺がある。道路脇に案内板。この辺りは既に参拝しておりその時のブログは「鎌倉の深沢・大船地区」をクリック願います。スマホの案内で進み。緩い坂を上り突き当りで振り返る。右側に階段を発見登ることに。道路から数十メートル上ると木舟大明神。入口に「龍神 オカミノ神」と書かれた木柱。所在地:神奈川県鎌倉市岩瀬岩瀬山西念寺から今泉方面に向かった山裾にある「木舟大明神」は、鎌倉時代に岩瀬を治めた岩瀬与一太郎を祀った祠といわれている。「木舟」は「貴船」とも書かれる。木舟大明神の前にはお酒、水が供えられていた。地元の方が清掃しているのかほうきも置かれていた。1180年(治承4年)、鎌倉入りした源頼朝は、富士川の戦いで平家に勝利し、続いて常陸の佐竹の征伐を行った。その折に捕らえられた者の中に、「佐竹は源氏であるのに何故滅ぼすのだ。力を合わせて平氏を討つべきではないのか」と抗議した者がいた。頼朝はその勇気に免じてその者を許し、「岩瀬与一太郎」という名を授けて御家人にとりたてた。そして、与一太郎は鎌倉に屋敷を建て、その一帯を治めていたという。そこが鎌倉郡岩瀬郷であり、岩瀬という地名の起こりであるといわれている。更に落ち葉が積もった山道を登る。高台から見おろすと、西念寺の屋根が確認できた。山肌には野菜が植えられていた。このような畑の光景は我が田舎を思い出し懐かしい。浄土宗 西念寺所在地:神奈川県鎌倉市岩瀬1527境内に「岩瀬保育園」があるのでいつも閉ざされている門扉。門柱には「浄土宗 西念寺」と。西念寺の本堂は鉄筋コンクリート造りになっている。桜は満開に。言えば境内へ入れるのであろうが。12:15栗田湯&栗田湯コインランドリー所在地:神奈川県鎌倉市岩瀬1丁目5-23ここは、妻からの電話があり大船駅へ向かう途中にあった懐かしい場所である。50数年前にここから砂押川沿いを大船駅へ向かった道であるのだ。栗田湯から振り返り岩瀬住宅前交差点。独身寮はこの交差点を左に入ったところにあったが今は散り壊されて新興住宅地になっている。栗田湯辺りから下流が「砂押川プロムナード」になっている。砂押川プロムナードは桜並木の遊歩道で、地域の人々の通勤通学、散歩などに利用され、市街地の中の貴重な憩いの空間で、大船の桜の名所にもなっている。砂押川の両側を散策できるようだ。ソメイヨシノをズームアップ。バックに黄色のカタバミが咲く。ズームアップ。桜の幹をビニールシートで養生しているが。後方は鎌倉女子大学 大船キャンパスの駐車場。松竹離山通りの資生堂前交差点。ここの桜も満開。ここを左折して大船駅へ。松竹離山通りの松竹前交差点。現在、松竹大船撮影所があったことを示すものは、「松竹通り」という通りの名前と、イトーヨーカ堂大船店すぐ近くのここ「松竹前」という交差点名、及びバス停名だけである。ここを右折して松竹通りを大船駅へ向かい、妻をピックアップして帰路についた。12:25栄区笠間町交差点を左折して原宿交差点へ向かう。13:35妻が買いたいものがあるとのことで辻堂駅前の「テラスモール湘南店」へ立ち寄る。館内に「田川哲郎の充電させてもらえませんか?」のバイクが展示されていた。 既に「横浜 → 湘南 → 平塚」を走ったと。14:00増田屋所在地:神奈川県茅ヶ崎市松林1丁目8-29遅い昼食をとるためソバ屋へ立ち寄る。店は旧東海道 (国道1号) 沿いにある。店頭に立っていたメニュー。営業時間 11:00 ~ 15:00(LO 14:30) 17:00 ~ 20:30(LO 20:00)私は「鴨汁せいろ」をオーダー。妻は「天せいろ」をオーダー。 END
2023.04.10
閲覧総数 365
39

荒れた ”朝日観音堂” の散策を続ける。3月21日(木) 12:15朝日観音堂の西側墓地から。右側の木は開花前のソメイヨシノ。ボケが綺麗に咲いていた。春先の花「ボケ」。朝日観音堂の本堂を背景に、本堂の頂きには箱棟。収蔵庫は自治会長さんに事前に予約すると中を拝観できると。葺替えのための募金のお願いはなかったが、次回来た時は本堂の葺替えは終了しているか。次の目的地は近くにある「若宮八幡宮」へ。カーナビの案内で丘陵地を上る。畑の中に石碑があったが字は風化して読めなかったが道祖神であろうか。カーナビの案内で狭い道路を上る。目的地を通り過ぎたので路肩に駐車。廻りはミカン畑でのどか。上って来た丘陵地にはミカン畑が広がっていた。アサヒビールの神奈川工場の敷地もこのような場所に開発されたと。丘の上にソメイヨシノの木が聳えていた。農道から階段を上ると新しい社殿が建っていた。若宮八幡宮所在地:南足柄市怒田長尾天神社・若宮八幡宮合殿の創建年代等は不詳ながら、長尾天神社が若宮八幡宮社地に遷され合殿で祀られている。社殿の扁額は「若宮八幡宮」。境内に建つ石碑には、「寄附 若宮八幡宮参道○○ 一式 永田組社長 永田〇雄殿」と。境内の左奥には新しい石祠も。境内の斜面には春の味覚 ”ふきのとう” が花びらいていた。頂こうかと思ったが遅かったようだ。境内の右奥に石碑。木の根元に新しい「文字道祖神」。道祖神には「昭和四十六年一月吉日再建 若宮講中」と。丘の上の「若宮八幡宮」を振り返る。若宮八幡宮の後、事前に調べていた「平等寺」を見落としていたので ”朝日観音堂” へ戻る。朝日観音堂の東側にある「平等寺」の山門は閉ざされていた。山門には「東寺真言宗 朝日観音 平等寺」と。東寺真言宗寺院 平等寺の概要平等寺は南谷山奥蔵院と号す。平等寺は、尊觀(延慶2年1309年寂)が嘉元2年(1304)に開山、明治維新まで朝日観音堂や長尾天神社、若宮八幡神社などを擁していたと。山門は閉ざされていたが現在はどうなっているのか。山門前から朝日観音堂を見る。12:50平等寺から次の目的地「南足柄球場」方向へ北上。昼食時を過ぎ店らしきものがありこの先で車を停め引返す。道路脇に石灯籠、石碑があり坂道を上るが何もなく折り返す。石碑には「堅牢地神尊」と彫られていた。来た道を戻り三差路に石碑が建っていた。近寄ってみるが字は確認できなかった。喜加久堂菓子舗所在地:神奈川県南足柄市怒田1458肝心な店へ戻るが店は閉まっていた。店先にはいい香りが漂っていたのだが。窓に貼られていた貼り紙には、<閉店のお知らせ>平素より ”きかく堂スウィート” をご利用いただきありがとうございました。誠に勝手ながら、当店は3月31日を持ちまして閉店することとなりました。開店以来のご愛顧、誠にありがとうございました。 店主13:00何も買えず”喜加久堂”から北上。道路脇に立派なお寺があり参拝することに。坂を上ると境内の駐車場へ行けるのだが道路脇の駐車場へ車を停める。臨済宗珠明寺 (しゅめいじ)所在地:神奈川県南足柄市怒田1528珠明寺動物霊苑としても知られているお寺である。参道下に多くの石仏が並んでいた。階段の参道右側に並ぶ石仏群。左側の石碑。左側は「萬霊寺」、右側には「臨済宗円覚寺派 月光山珠明寺」と。13:00参道から見下ろす。 ー 続く ー
2024.04.05
閲覧総数 111
40

ここも今年知り訪れたいと思っていた「旧大山豆腐山北工場裏のジャカランダ」である。6月7日(金) 12:05県道74号線(小田原山北線)の新大口橋を渡り山北町へ入り道路脇に車を停める。アーチ橋の下流側に「大口橋」とあったが。上流側には「酒匂川」と。新大口橋のセンター辺りから南足柄市になる。道路脇に車を停め、ジャカランダが咲いていたので見下ろす。枝先をズームアップ。更にズームアップ。枝先につぼみがあり満開までにはまだ早いようだ。酒匂川の河川敷に車があったので下りることに。下り口がわからず探すことに。新大口橋の手前に下流側に進む県道721号線(東山北停車場線)があったので左折。県道721号線(東山北停車場線)を進むと左側に広場があり石碑群。石仏群所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸770−4点在していた石仏が開発により集められたのであろう。一番背の高い石仏。どれも苔むして字は読みとれなかった。補強された石碑には「水神」と。暴れ川の酒匂川から住民を守るために祀られたのであろう。説明板が立っていなかったので詳細は不詳。石仏の後方から酒匂川の下流を望む。石仏前から更に県道721号線を進むと「神奈川県柑橘果工㈱」入口の看板。神奈川県柑橘果工㈱所在地:神奈川県足柄上郡山北町岸716清涼飲料製造業主としてアルコールを含まない飲料でサイダー、ラムネ、炭酸水、ジュース、シロップなどの清涼飲料及びし好飲料を製造している。いつも高台から見下ろしている工場である。工場入口道路脇に「地蔵堂」があった。お堂に入った地蔵。県道721号線をここまで来たが河川敷への入口が見つからなかったので折り返すことに。折り返す途中車窓右側に石碑。大きな石に字が刻まれていたが?。石碑には「?神」と。新大口橋に戻る。橋の上流側にジャカランダの木が聳える。県道74号線(小田原山北線)に戻り、三菱ガス化学㈱山北工場の向かい側にある旧大山豆腐脇を入る未舗装の道路があり左折。左側には三菱ガス化学のグランド。旧大山豆腐山北工場裏のジャカランダ所在地:神奈川県足柄上郡山北町旧大山豆腐山北工場裏旧大山豆腐脇を通り河川敷へと下りた。左側の建物は旧大山豆腐山北工場。上流側から新大口橋を見上げる。ジャカランダは青紫色の花を咲かせるのが特徴で「世界三大花木」としても知られる。かつて工場に勤務していた元従業員の石田貢さん(88)らが2000年に植えたのが始まりだと。上流側の入口を望むが案内板はなかった。酒匂川の旧大山豆腐側の堤に植えられているジャカランダは十数本あったか。熱海のジャカランダには何度も訪れているが、ここまでの大木にはなっていない。熱海のジャカランダは「四年連続熱海のジャカランダ」👈 をクリック願います。ジャカランダの幹にぶら下げられていた説明板。【世界三大花木】 (ノウゼンカツラ科)ジャカランダ (オーストラリア)産 植えつけ 平成12年 (2000) 6月26日写真が貼られていた。植えつけ時の写真であろうか。夕日に染まるジャカランダの花お花の見頃は目安で石田6月20日前後の一週間6月13日 → 6月20日 → 6月27日花期間は7月10日ごろまで咲いています。お花見きて下さい。 石田この日は6月7日でまだ咲き始めであろうか。枝先の花をズームアップ。花の間に茶色の種子らしきものが。花の間に茶色の種子がぶら下がる。種子をズームアップ。5.0センチほどの大きさであったか。枝先の花をズームアップ。まだこれから咲くつぼみも多い。枝先にはまだ多くのつぼみがある。新大口橋下から酒匂川の下流側を望む。右側の森は文命堤、大口広場。正面の松田山の頂上には ”チェックメイト・カントリークラブ” がありいつも見下ろしている。ジャカランダは常緑高木で、自生地では高さ15mに育つのでこれがマックスか。新大口橋下から旧大山豆腐の工場を見上げる。満開時にはどのような光景になるのであろうか。酒匂川はこの辺りで左方向へ大きく曲がっている。まだ花が少ないのであろうか。枝先に咲く花をズームアップ。ジャカランダはノウゼンカツラ科だけに、花が長さ5センチぐらいのラッパの形をしている。ラッパ状の花をズームアップ。隠れたジャカランダの名所で地元の方達が訪れておられた。来ておられる方に聴くと「綺麗でいつも来ています」と。高齢の女性達がグループで。12:25女性達は草むらに入り花柄を探しておられた。お花見の見頃は6月20日以降とのことで再度訪れたい。 ー 続く ー
2024.06.29
閲覧総数 807
41

原子力発電所PR館の見学後、更に北上して「尻屋崎」へ。10月21日(火) 12:50国道338号のこの交差点を右折して「尻屋崎・尻労(Shitsukari)」方面の県道248号線へ。尻労(しっかり)と珍しい地名であるが、尻労漁港があり東京などの中央市場では名前を知られていると。県道248号線の山間部を走り、この先を左折して県道172号線を「尻屋崎」方面へ。観光案内板には「⇦ 恐山霊場 38km、尻屋崎 13km」と。県道脇によく見かけたこの小屋は「ごみ収集ステーション」。県道172号線から県道6号線(むつ尻屋崎線)へ合流して右折、津軽海峡沿いを東方面へ走る。曇っていたが対岸には北海道が見えていたので停車。13:10津軽海峡夕日が見える展望所所在地:青森県下北郡東通村尻屋八峠2-4北東方向の県道下にある尻屋岬港は、セメントの原料である石灰石の搬出港である。尻屋岬港の灯台港は下北半島の東北端に突き出た尻屋崎西側に位置し、付近海域は潮流が速く、しかも岩礁地帯で濃霧の発生も多いことから避難港として整備が始められたと。北側の津軽海峡の対岸には北海道が見えていた。更に北海道の東側をズームアップ。北海道の恵山をズームアップ。南西の方向には「岩屋漁港」。岩屋漁港の西遠方には今夜の宿泊地大間がある。この後、尻屋埼灯台➪恐山➪大間と移動するが、既にこの日は約900キロ走っている。県道6号線(むつ尻屋崎線)を尻屋崎へ向かうと前方に大きな施設が。この先を左折すると「尻屋岬港」へ。石灰石・セメントの搬出のほかに石炭等の関連物資の搬入も盛んであり、県内地方港湾の中では取扱貨物量が第一位となっていると。日鉄鉱業 尻屋鉱業所所在地:青森県下北郡東通村尻屋八峠2-61背後の山には約3億トンを超える豊富な石灰石が埋蔵されていると。県道の頭上を搬出コンベアが横切る。工場内を多くのコンベアが繋がって石灰石を搬出。13:15尻屋崎ビジターハウス所在地:青森県下北郡東通村尻屋ケシ子山37-20尻屋崎の入口にあるレストハウス的な施設でトイレも併設している。ビジターハウスの前に「尻屋崎エリア」の観光案内板。木柱に「歓迎 ようこそ東通村へ 東通村観光協会」。ここにも「クマ出没 (ツキノワグマ) 注意!」の看板、周りに人がいないので怖い。下北最古の岩石がつくる岬と文化 ・下北最古の化石 ・寒立馬(かんだちめ) ・灯台の土台をなす閃緑岩 ・尻労岩壁 ・海上交通を支える尻屋埼灯台 ・立ち寄ってみよう!おすすめの施設 尻屋埼灯台 野牛川レストハウス尻屋崎灯台 東ゲートカーナビの案内では灯台へはこの道を行くのだが、ゲートがありシステムが分からず県道6号線を南方向へ進んだ。尻屋崎ビジターハウスから県道6号線(むつ尻屋崎線)を南下、県道の左側に学校らしき建物があり立ち寄った。この先には尻屋漁港がある。東通村立尻屋小学校所在地:青森県下北郡東通村尻屋石倉辺り木造の近代的な3棟の建物が建っていた。 校門代わりの木柱が左右に立っていた。右側の木柱には「東通村立尻屋小学校」と。左側の木柱には「愛と寒立馬の里」と刻まれていた。建物は近代的な木造建築の体育館。建物に人の気配がなかったので校舎前へ駐車。尻屋地区は津軽海峡と太平洋に囲まれ、校舎周辺は自然が豊かで漁業の盛んな地域である。尻屋小学校の沿革 1875年(明治8年) 創立 1964年(昭和39年)全校児童 79名 1987年(昭和62年)全校児童 64名 1999年(平成11年)校舎新築 2000年(平成12年)屋内体育館新築 2009年(平成21年)東通小学校への統合に伴い閉校、最後の児童は12名本州最北東端に位置する小学校だったが、児童数減少により閉校となった。正面玄関灯台は実物ではなく学校のシンボルとして建てられ、精巧に造られており時計塔になっている。定期的に管理されているのであろうか。校章をズームアップ。校章の下には「東通村立尻屋小学校」と。この広い校庭を全校児童 79~12名がかけまわっていたのだ。校舎や体育館は1999、2000年(平成12年)に新築されまだ新しくので、別の目的で使われることを祈るが。この過疎化時代には用途が・・・。11月6日(木)のNHK「あさイチ」を見ていて修学旅行生を受け入れるのも一考ではと。六ヶ所村、東通村には生徒への「原子力」に対する認識の教材が多く、また自然が多く人が多い都市部よりいいのでは、ボランティア活動への教育もと思うが。体育館の裏側に神社が建っていた。神社前から、南方向の体育館を見る。人の気配がしないので怖い。東通村のマンホール蓋「寒立馬と能舞の里」の文字がある。能舞は500年ほど前に修験者が伝えたとある。「尻屋埼灯台」は東北最初の灯台で、日本の灯台50選のひとつ。灯台の手前に描かれているのは「寒立馬」。寒立馬とその生息地は青森県の天然記念物に指定されている。神社扁額、由来もなく詳細は不明。尻屋崎ビジターハウスへ戻る。尻屋崎ビジターハウスの周りに広がる牧草地には寒立馬という馬が放牧されています。寒立馬は、寒気と粗食に耐え持久力に富む農用馬として重用されてきましたが、時代の移り変わりと共に激減。しかし、その後の保護政策により現在は30頭ほどに回復しています。尻屋崎周辺が閉鎖される1月~3月は、アタカと呼ばれる放牧地で毎日を過ごすと。寒立馬をズームアップ。東通村の海岸地帯には、南部藩政時代から田名部馬と呼ばれる比較的小柄で寒気と粗食に耐え、持久力に富んだ馬が「四季置付」と称し周年放牧されていました。これらは、南部馬を祖とし、藩政時代から明治、大正、昭和に亘って主として軍用馬として外来種との交配によって改良されてきた田名部馬であり、なかでも、尻屋地区ではこの田名部馬をブルトン種と交配することにより独自の農用馬(肉用馬)として改良したと。県道6号線(むつ尻屋崎線)を振り返る。尻屋崎ビジターハウスの入口に、寒立馬(かんだちめ) 越冬放牧地 『アタカ』案内図1970年(昭和45年)に尻屋小中学校の岩佐勉校長が年頭の書き初め会で、「東雲に勇みいななく寒立馬 筑紫が原の嵐ものかは」と詠んで以来、「寒立馬」と呼ぶようになったと。室内に入りトイレを借りたが土足禁止になっていた。ログハウス風の施設で中は尻屋崎のいろいろな風景を写真で展示、寒立馬の解説がある。休憩スペースも合ったが無人であった。ちょうどゲストハウスを訪れたがおられ、ゲートを入って行かれたのでシステムが分かり続くことに。またパトロール中の車も来て尋ねた。13:35スピードを落としゲートに近づくと自動でバーが上がると。但し、作動時間は「7:00~16:45の間作動」。雨が降ってきた。 ー 続く ー
2025.11.09
閲覧総数 1081
42

10/26(金) 品川宿の鈴ヶ森刑場跡から川崎宿へ向かう。もうこの辺りで約15,000歩歩いた。12:21 国道15号線沿いにある「しながわ水族館」入り口12:24 日本橋から12km地点12:25 国道15号線「大森海岸駅前陸橋」陸橋を渡り反対側へ12:33 磐井神社延喜式の神名帳に記載されているため、延喜年間(901~923)には存在していたと考えられる神社式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。「三代実録」によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された「延喜式」の神名帳に記載されている。別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば江戸時代には、徳川家の将軍も参拝したことが記されている磐井の井戸この位置はもと神社の境内であったが、国道の拡幅により境域がせばめられたため社前歩道上に遺存されることに。土地の人々は、この井戸水を飲むと、心正しければ清水、心邪ならば塩水という伝説を昔から伝えている磐井神社本殿樹齢何年?のイチョウの木鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群鈴石を打つと鈴のような音がしたことから「鈴ヶ森」の地名の由来となったと江戸文人石碑群ここでも旅友が御朱印を頂く磐井神社狛犬磐井神社狛犬(こまちゃん)境内にある・・・・・12:41 お堀では亀が甲羅干し、頭を出しているが12:47 平和島入口、国道15号線を横切り旧東海道へ12:52 国道15号線から美原通りへ入り振り返る石柱は、旧東海道「三原通り」だが、パンフレットでは「美原通り」歩道に設置された石の上に埋め込まれたタイル大森を進むのに、目を引いたタイル美原通り品川宿と川崎宿の中間に位置したこのあたりは、旅人の休憩のために設けられた「間の宿(アイノシュク)」として賑わい、麦わら細工などが土産物として売られていた12:54 美原不動尊真言宗醍醐派の小さな寺院で昭和25年に建立された比較的新しい寺院。境内には生長地蔵菩薩、堂内には18体の仏像が安置されている海苔干しタイルの絵図は上記のもの以外にも、色々なパターンがある。描かれているのは、大森の特産である海苔の生産過程と、郷土玩具である麦わら細工だと。旧東海道、大森本町ミハラ通り北商会近年、商店街では看板や提灯、浮世絵の描かれたシャッターなどを整備し、江戸の街並みを演出しているこの付近は、三原と美原の表記が混在している。三原の方は字である南原・中原・北原を合わせて三原ということで、美原は三原を美称したものだとか旧東海道の道幅を保存して江戸の街並みを演出している13:02 環七美原通り、正面右に老舗「海苔の松尾」、ビル一棟?寛文9年(1669)創業の「海苔の松尾」国道15号線に並行した旧東海道中原と南原の境東海道の名残である美原(三原)通りは、旧大森村の小字である北原・中原・南原の「三原」を通ることから名付けられた13:07 大森ふるさとの浜辺公園案内図13:08 海松山 德淨寺大田区大森東1丁目に位置する、浄土真宗本願寺派寺院德淨寺本堂:本尊は、阿弥陀如来厳正寺第十一世祐惠上人が寛永4年(1627)四ツ谷に創建、第三代教傳(厳正寺第十三世)が元禄年間(1688~1704)に当地へ移転、德淨寺の初世となった13:10 旧東海道(美原通り)昭和2年(1927)、東海道は拡幅改修され第一京浜国道(15号線)が完成した。そのため往時の幅員を比較的よく残しているのは、この美原通りと六郷地区の一部だけとなった街中を流れる内川立会川に比べて水は透明度がありきれい13:11 内川のあらましかっては、自然豊かな川でコイ・フナ・ナマズといった魚や、トンボやコガネムシなどの昆虫、川岸にはイチジクなどもあり、子供たちの遊び場としても人気の高い場所であった。大正6年以降、新田橋から内川橋まで現在のように直線に改修されてからは、海苔船が行き来するように大森を流れる内川に架かる「内川橋」内川橋は、羽田道(するがや通り)の起点である羽田道羽田道は、美原にあるこの橋と羽田の弁天橋を結ぶ約5kmの道で羽田の弁天様にお参りに行く人や、魚介や野菜を運ぶ道として栄えた大森と海苔江戸時代に海苔の養殖がおこなわれ、浅瀬の広がる大森周辺は大きな産地として発展した。この地で作られた海苔は「御膳海苔」として将軍家などにも納められた今でも海苔問屋が多くある13:16 旧東海道を歩き13:30 京浜急行「梅屋敷駅」入口13:37 聖蹟蒲田梅屋敷公園「蚊に刺されないように気をつけましょう」と張り紙が梅屋敷の由来山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地3000坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木100本をはじめとしてかきつばたなどの花々を植え東海道の休み茶屋を開いたことに始まる左の高架は京浜急行明治天皇と梅屋敷梅屋敷は、明治元年(1868)から明治30年(1897)の間に天皇の九度の行幸があったコムラサキも咲き梅屋敷内には、いろんな歌碑が猫も草むらで昼寝山本久蔵の句碑蒲田とあやめ蒲田はかって「あやめ」がまちのシンボルであった、一方平成28年4月に山形県長井市と「災害時における相互応援に関する協定」を締結し、長井市も「あやめ」がまちのシンボルになっていることから、長井古種である「あやめ」を植栽した昔、梅屋敷山本家のの門の横に自然石の里程標の石碑があった復元された里程標の石碑「距日本橋三里十八丁」蒲田村山本屋13:45 六郷土手へ向かう 東海道53次ー3 東海道53次ー続く
2018.11.17
閲覧総数 259
43

『ozin0523さんのブログ』にアクセス、ありがとうございます。このブログは『わたしの旅行:国内&海外』 ①日々の出来事 ②ヒロ散歩 ③国内旅行 ④海外旅行 等を中心とした備忘録を兼ねた、今年二年目になる毎日のブログです。感想等を書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から気楽に、ご感想、ご意見、ご質問等を書き込み頂ければ幸いです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11/27(火) ~ 29(木)までの箱根の旅を終えて帰路に着く11/29(木) 10:27園内の案内は既に'18/12/6にブログ「紅葉と苔庭の箱根美術館」で公開しておりますので、あわせて訪問願えれば幸いです強羅駅と早雲山駅を結ぶ箱根登山鉄道のケーブルカー(鋼索鉄道)このケーブルカーは駅が6駅あり生活路線になっている強羅駅からのケーブルカーで約5分「公園上駅」で下車して美術館へ早雲山駅へ、ケーブルカーの沿線は紅葉真っ盛り10:30約一時間の鑑賞で箱根美術館を出る。箱根美術館の庭園は決して広くはないが、手入れが行き届き四季折々が楽しめるのでまた来たいものです10:56昨日ここから登った、旧街道入り口の三枚橋県道732号線を畑宿方面へ10:58国道一号線を帰るが、この先を右折すると「一夜城歴史公園」この先を左折すると、西湘バイパス、小田原厚木道路平日で時間も早いので渋滞もなく11:00有料道路に入らず「鈴廣かまぼこの里」へ向かう11:10国道一号線を挟んで、小田原宿お食事処「千世倭樓」、茶房「しゃぎ」箱根駅伝の小田原中継所鈴廣かまぼこの里の前には「箱根百年水」かまぼこづくりに欠かすことのできない「水」は、箱根山系に降った雨が100年以上もの歳月を掛け、自然によってろ過された清冽な伏流水であると鈴車(スズグルマ)と水舟(ミズフネ)水舟は、岐阜県郡上八幡の暮らしの景色として広く知られているが、その郡上八幡で船大工を営む田尻浩さんに依頼して造った。材は、油分を多く含むために舟に使われてきた槙です。水口から流れる水を飲用とし、上段の水は口をすすぎ、下段の水で手などを洗う水舟の水口からペットポトルに水をもらう11:22鈴廣かまぼこの里の店内いつも試食して、お土産を買う11:30箱根登山鉄道との立体交差「上板橋」旧東海道は、ここを左折して小田原城方面へ11:50国道一号線を走り国府津駅前を過ぎ、ちょうど昼時になり昼食をとることに駐車場に車を止め「のんき亭」に入るのんき亭の昨年度の人気5位「アジフライ定食」をオーダー12:20昼食を終え12:25右折して西湘バイパス「橘インタ」へここからだと無料区間になる一路茅ヶ崎方面へ12:27二宮・秦野方面出口12:30大磯東、大磯港出口12:36国道134号線を走り、江の島・茅ヶ崎方面へこの先から箱根駅伝のコースになる12:37新湘南バイパス、東名高速道路の渋滞情報12:37トラスコ湘南大橋へ12:39昨年オープンした「柳島スポーツ公園」サッカー、陸上競技が行えるグラウンド12:43正月には沿道に多くの駅伝ファンが詰めかける国道134号線の「第一中学校入口」交差点12:45国道134号線の「菱沼海岸」交差点を左折してラチエン通りへ12:47狭い「ラチエン通り」を北上してKさんとお別れ12:53JR東海道線「異人館踏切」このあと私を送って頂き、Nさん宅経由で運転のNさんの自宅へNさん、車と運転ありがとうございました。次回もよろしくお願いします 二泊三日の箱根の旅-END
2019.01.16
閲覧総数 260
44

引き続き旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を草津宿へ向けて歩く。3/22(日) 9:16街道左側に『真宗大谷派 東護山 乘圓寺』所在地:滋賀県栗東市岡368山門をズームアップ、門が閉ざされていたためスルー9:20街道右側に大きな石柱正面に「京いせや跡」、側面に「東海道間の宿岡村 菜飯田楽京いせや西岡忠兵衛屋敷」名代 田楽茶屋「京伊勢屋跡」東海道を往来する旅人の休憩所として、江戸幕府によって立場茶屋が置かれた。ここで供された食事は地元産の食材を使った菜飯と田楽で独特の風味を有し東海道の名物となった。田楽茶屋は、立場であった元伊勢屋(岡野屋)と、この京伊勢屋(西岡家)、古志(じ)ま屋(寺田屋)の三軒を言い、すべてが岡の地に店を構えた。当家には当時からの藤棚がある更に街道を進むと左側に石柱建物は『ヤマキ酒店』舊跡 人吉藩主吉良候 御対面所跡 山本家石柱の下には「栗東の花 きんせんか」人吉藩主は誰と対面したのか?9:21ヤマキ酒店所在地:滋賀県栗東市岡349往時、目川立場で田楽とセットで出されていたお酒「菊の水」ヤマキ酒店の先に『 健康サロン ” 足湯 ” 』草津本陣は、ここを右方向へ進む岡ほっこりマップ金勝川はこの先で草津川と合流するこれからの草津本陣への道平成25年に移築された『膳所城大手門』から南方向を望む伝 膳所城大手門明治の廃藩置県で城の建物は膳所藩領の村に移築された。この門は膳所藩領だった栗東市林の長徳寺へ移築されていたが、今般建替えられ、同じ膳所藩領の当地へ移築したものである。膳所藩領の村へ移築された城門の例は、膳所の膳所神社や矢橋の鞭崎神社が知られている。移築にあっては、主要部材は現状のまま使用した。屋根は長徳寺への移築寺に寺院用に改装されていたことが判明したため一部を復元した。併せて耐震補強を施した膳所城大手門前の芭蕉句碑「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」 元禄4年重陽芭蕉「田楽で芭蕉も飲んだ菊の水」 沙弥 隨縁9:24旧東海道を振り返り、ほっこり庵を後にする。右に「ほっこり庵」、中央に足湯めがわ田楽 由来目川立場を担ったのが屋号を「伊勢屋」とした岡野五左衛門家である。伊勢屋は精進料理を味付けで工夫して商品化に成功し、「めがわ田楽」として売り出した。主食=菜飯、副食=田楽、お酒=菊の水の三点セットである。「安くて・美味しくて・腹持ちがよい」と大評判になり、商品名の「めがわ田楽」は全国へ波及していった。京都・大阪・江戸にも「めがわ田楽」の店が営業していると「江戸総鹿子大全」や「守貞漫稿」等に記録されている。岡でも伊勢屋一軒では旅人を賄い切れず、寺田家の「こじまや」や西岡家の「京いせや」が続いて店を開いている。往時のグイ呑み茶碗や看板が多く残され、繁昌の様子を今に伝えている9:26旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を北西方面へ進み草津宿へ。前方の高架橋は東海道新幹線東海道新幹線の高架橋は「草津川 B 」で東京から、454km419m73琵琶湖から6.99km地点?現在の草津川は付け替えられてここより西側を流れている左側に旧草津川の土手9:30消火栓の横に石柱が建つ傍示石『従是東?領』(岡境界)旧東海道を振り返る右側に『史蹟 老牛馬養生所址』所在地:滋賀県栗東市小柿10丁目7史蹟 老牛馬養生所跡栗太郡志等に「この施設は和迩村榎の庄屋岸岡長右衛門が湖西和迩村の牛馬で老廃牛馬の打はぎをしている様子を見て、その残酷さに驚き、これから老牛馬であっても息のある間は打はぎすることを止めるようと呼びかけ、天保12年4月当地が東海、中山両道を集約する草津宿の近くであることから、ここに老牛馬の余生を静かに過ごさせる養生所を設立、県下の老牛馬を広く収容された」と記されているこの関係から栗東市にトレーニングセンターがあるのか東海道 小柿村 高札場「大谷」の屋号旧東海道を進む東海道 小柿村 天秤棒「棒喜(ぼうき)」の屋号。荷物担ぎの天秤棒の商いをしていたのか9:34栗東市から草津市へ入る旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を進む左側に石碑があり、「 → 東海道 草津宿へ 」矢印の方向から旧東海道はこの坂を登るのであったのか石柱には「わが町のシンボル いろはモミジ 1986年9月制定」草津の名木「イロハモミジ」樹 高:9m、樹幹周囲:200cm、推定樹齢:150年以上旧東海道の草津川を渡り伊勢路に至る堤防を下った現県道草津・六地蔵線との合流点にあり、少なくとも明治、大正、昭和の激動期をじっと見つめてきた木に違いないと思われます。百有余年、風雪に鍛えた太い幹、左右に広く伸びた枝張り、それにふさわしい樹高はモミジの王者の風格があります。春の芽ぶきの萌黄、夏の深緑、真っ赤に燃えるような秋の紅葉、冬は裸木に雪化粧の清らかさ四季折々の美しさには道ゆく人も足を留めます旧東海道(県道116号線=六地蔵草津線)を進み国道1号線に弥次さんは既に歩道橋の上を進む、大津まで17km国道1号線の大路三丁目交差点9:38大路三丁目交差点の歩道橋から、大津・京方面旧東海道はこの橋を渡るのであろうかと同歩道橋から、江戸方面この先は、草津駅口交差点で左方向に進むとJR草津駅歩道橋を渡り、大路三丁目交差点新しくできた旧東海道の『草津宿橋』草津宿橋は2019年3月竣工草津川隧道(下り)を撤去後、新しい草津宿橋を建設したようだ9:42大路三丁目交差点から国道1号線を京方面へ進み振り返る9:45道を間違え裏道へ入る『神宮寺』所在地:滋賀県草津市169:47旧東海道に戻り『草津宿江戸口見附 横町道標』所在地:滋賀県草津市草津1丁目15-23草津宿の江戸方の入口でありました草津川の堤上建つ火袋付石造道標です。総高は約3.9mを測り、日野の豪商中井氏の寄進によって文化13年(1816)3月に建てられました。 竿には「右金勝寺志がらき道」 「左東海道いせ道」とそれぞれの行き先を刻んでいます。なお、道標はかつて道を挟んで北側にありました 石部宿~大津宿-続く
2020.05.20
閲覧総数 910
45

亀田半島の国道278号を進み今日のドライブも終盤に。10月20日(火) 13:27前方に函館山が見えてくる国道278号の道路脇に車を止め函館山をズームアップ。次の目的地「続日本100名城 志苔館」を目指す対岸の下北半島も間近に。手前の護岸の上には多くのカモメが羽を休めていた13:36カーナビの案内で車を進め、空港緑地志海苔ふれあい広場「中央広場案内図」ここの北側に函館空港がある。続日本100名城の志苔館は駐車場がないため、ここへ止めて行けばよかったのだが車を移動。史跡志苔館跡は平成29年(2017)3月に、公益社団法人日本城郭協会から「続日本100名城」に認定された13:40志苔館(しのりだて)下の狭い道路脇に車を止める。志苔館 和人 殉難御霊 阿伊務帳魂御霊 慰霊碑志苔館 和人 殉難御霊 阿伊務帳魂御霊 慰霊碑由 緒 下北半島 津軽方面に於いて南北朝の戦いに敗れたる南朝方の武士達 道南に館を築きて ありしが、康正2年(1456)志苔館付近にて阿伊務(あいぬ)の蜂起あり 翌長禄元年 館は 攻め落とされ その後再び永正9年(1512)戦いあり 館は陥落し廃館となった。 ここに コシャマインの戦いにおいて亡くなりし館主 和人御霊 阿伊務御霊 双方を同 一座にお祭りしたものであります。祭 神 小林良景命 小林良定命 他 和人殉難御霊 阿伊務帳魂御霊 例 大 祭 七月二十二日 昭和45年9月 落成 石崎地主海神社社務所御祭神小林氏によって築かれたとされる道南十二館のひとつ史跡 志苔館跡の保存について志苔館が廃館になった十六世紀中期以降、館跡がどのように使用されていたかは不明ですが、明治時代にはかなり荒廃が進んでいたようです。このため、地元の人達の手により保存の努力がなされ、そのことは郭内に残されている記念碑からもうかがい知ることができます。大正時代には、北海道庁による調査が行われ、保存状態が良好なことから、昭和9年に史跡に指定され、昭和52年には指定地周辺部も追加指定を受けています。函館市では、史跡の保存と活用を図るため、国・道の補助を受けて、昭和51年度から「史跡志苔館跡土地買上事業」を実施して指定地の公有化を進めるとともに、昭和58年度から62年度にかけて、「史跡志苔館跡環境整備事業」を実施しました。この環境整備事業により、郭内外の遺構確認発掘調査を実施し、志苔館が構築された当時の様子を明らかにするとともに、調査結果に基づいて遺構の復原・整備を実施しました。また、あずまや等の施設を設置し、この館跡を歴史学習の場や市民の憩いの場として広く利用していただくよう整備してまいりました。この館跡を私たちの手で保存し、後世に伝え残していくため、次のことを守ってください。 一、土塁等に登らないこと。 一、木の枝を折ったり、芝生をいためたりしないこと。 一、自転車、バイク、自動車等を乗り入れないこと。 一、火気を使用しないこと。 一、ゴミは捨てないで持ちかえること。 函館市教育委員会石柱は「史跡 志苔館(しのりだて)跡」所在地:北海道函館市志海苔町志苔館は国道278号から少し入った北側の丘陵上に築かれている史跡 志苔館跡 昭和 9年8月 9日 史跡指定 昭和52年4月27日 史跡追加指定志苔館跡は、函館市の中心部から約9キロメートル離れた標高25メートル程の海岸段丘南部に位置している。西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2~4メートル、幅10~15メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。郭内は、東西70~80メートル、南北50~65メートルで、約4,100平方メートルの広さがある。また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。この記述によれば、康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。 函館市・文部科学省北側上空からの空撮(スタンプ帳から)土塁で囲まれた主郭部北寄りに建物跡が平面表示されているのが見える。志苔館の南側下にある、志海苔漁港、間を国道278号が走る土塁との間に二重壕が掘られている。後方は、南方向の津軽海峡郭外遺構:開口部の変遷、壕の変遷郭外には、主に外敵からの防御を目的とした壕、土塁、門、柵の他、橋、土橋等が配されている。壕は、土塁外側の四方に巡らされている。館の開口部に当たる西側には、二重の壕が掘られ、北、東、南側は自然の沢を利用して壕としている。発掘調査の結果、館を構築した当時は西側に外柵を設け、その中央の門を通過し、薬研(やげん)の二重壕に架けられた橋を渡り、さらに門を通過して郭内に入る構造であったことがわかった。その後、郭外は郭内とともに造り替えられていった。外柵は埋められて土塁が築かれ、郭内側の壕も薬研から箱薬研へ、また橋も土橋へと移行した。ここには、館の構築当時の姿を、できるだけ復原するとともに、その後に構築された土塁、土橋等も保護・保存し、館の変遷がわかるようにしている。館の開口部に当たる西側には、二重の壕が掘られている。14世紀末頃、蝦夷代官として北海道へ進出した津軽安東氏が、渡島半島の海岸沿いに築いた拠点(道南十二館)の一つで、安東氏の家臣小林氏の築城とされる。長禄元年(1457)のコシャマインの戦い、永正9年(1512)のショヤコウジ兄弟の戦いなど、アイヌと和人(本州以南に住む人々)との抗争では激しい攻撃を受け、志苔館も二度にわたって陥落した。西は旧志海苔川、東は沢、南は海に面した丘陵上に築かれており眺望がよい。四方に土塁と空堀を巡らせた単郭台形の縄張で、計7棟分の建物跡が確認されている南東方向には、津軽海峡を挟んで下北半島が見える。志苔館下には、志海苔漁港、国道278号が走る。1968年、志苔館跡近くの道路拡張工事の際に、大甕3個に詰められた93種38万枚以上の古銭が発見されました。古銭が入れられた大甕がいずれも14世紀後半頃に属するものであることから、これらの古銭は14世紀後半から末頃に埋設されたものと考えられます。埋設された理由としては、備蓄説や祭祀説がありますが、いずれも定説にはなっていません。出土銭としては国内最大級の量で、2003年に国の重要文化財に指定され、現在は市立函館博物館で常設展示されています土塁を入り郭内へ志苔館の北側には函館空港の管制塔郭内遺構郭内は、東西70~80メートル、南北50~65メートルで、約4,100平方メートルの広さがある。北東方向を望む、北側には函館空港の滑走路がある郭内遺構郭内には、主に14世紀末から15世紀にかけて存在していたと考えられる建物、柵、堀、井戸などの遺構が発見されている。建物跡は7棟分発見されているが、柱と柱の間の寸法の違いから大きく三つの時代に分類することができる。建築時期からみて、14世紀末から15世紀初頭頃と推定される柱間寸法7尺(約2.12m)以上のものと、15世紀中頃と推定される柱間寸法6.5尺(約1.97m)のものが掘立柱の建物である。16世紀以降と推定される柱間寸法6尺(約1.82m)のものは礎石を使用していることが明らかとなっている。また建物跡の周囲には、囲いや敷地割を目的とした柵と塀の跡が発見されている。当初は柵が設置され、後に塀へ変わって行ったものと考えられる。これらの変遷を想定すると、右図のようになる。 郭内遺構変遷想定図出土遺物発掘調査による出土遺物には、陶磁器類、金属製品、石製品、木製品等の遺物がある。陶磁器類は、舶載陶磁器(中国製陶磁器)と国産陶器に区分され、個数にして76点出土している。舶載陶磁器は青磁、白磁、鉄釉(てつゆ)、国産陶器は瀬戸、越前、珠洲(すず)、かわらけ等がある。金属製品は、古銭22点、銅製品18点、鉄製品279点が出土している。石製品は、硯・砥石が8点、木製品は、井戸枠、箸、曲物、桶の一部等が出土している遺構表示発掘調査により、さまざまな遺構が検出されたが、調査終了後、埋め戻し、保存をしている。ここには、志苔館が築かれた初期の頃と推定される14世紀末から15世紀初頭(南北朝時代から室町時代初期)の門、建物、柵、井戸の遺構を表示している。入り口部分には、門とともに、郭内を防御するかたちで柵が設けられている。西側から中央部分にかけては、長軸約20m、短軸約11mの掘立柱建物(桁行7間、梁間5間で四面に庇を持つ。柱間寸法は7尺以上)が、2棟並び、周囲には柵が設置されている。東側には柵で囲まれた建物、それに用途は不明だが建物のものと思われる柱が配列している。北側の隅には、井戸がある史跡 志苔館跡平面図郭内の左から、掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、柱穴跡・建物跡・井戸跡井戸跡遠くに函館山が見える井戸跡発掘調査により、地表下約4mのところから木製の井戸枠が発見されている。郭内に存在した唯一の井戸である。この木製の井戸枠は、四隅に置いた柱を桟でつなぎ、柱と柱の間に縦板をならべた「方形隅柱横桟式」と呼ばれるものである。この井戸は、形式的に見て、また本州の発見例と比較して、おおよそ室町時代頃に造られたものと考えられる。井戸の中からは、箸、曲物、桶の一部、銅銭等が発見されている。ここには、発見された井戸枠と同じ構造のものを地表に復原し、表示している建物跡発掘調査によりさまざまな遺構が検出され、調査終了後埋め戻し、保存をしている遺構表示門 跡門跡から津軽海峡を望む右がスタンプが置かれている「あずまや」、左奥はトイレ志苔館の西側下は民家スタンプが置かれている、志苔館四阿(あずまや)スタンプは昼夜置かれている志苔館は続日本100名城の一番目で「No.101 志苔館」スタンプ捺印は、26/100 を征服13:52志苔館の西側にある、トイレとあずまや。約15分の滞在で、志苔館を後にする14:23志苔館から国道278号を走り函館市内に入り、五稜郭へ向かう。車窓からの五稜郭タワー五稜郭タワーは、平成18年(2006)に旧タワーの隣に新タワーを建設4月1日開業。創業は、昭和39年(1964)12月1日。高さ 107m(避雷針高)、98m(全高)14:35五稜郭タワー近くの駐車場に車を止め五稜郭へ進む。公園の紅葉が進んでいた観光案内板14:36五稜郭タワー内の観光案内、カウンター所在地:北海道函館市五稜郭町43-9土産物店があり、新型コロナウイルスの関係で人出を気にしていたが、大勢の日本人観光客が訪れていた。また、日本100名城のスタンプ置き場がある日本100名城の五稜郭には、2016年10月27日(木)に登城している五稜郭タワーチケットカウンター。営業時間(年中無休) 4月21日 ~ 10月20日 8:00 ~ 19:00 10月21日 ~ 4月20日 9:00 ~ 18:00 「五稜星の夢」開催期間中(12月~2月) 9:00 ~ 19:00展望料金:大人 ¥840、中・高校生 ¥630、小学生 ¥420エレベーター乗り場。展望デッキからは、函館の山並みや足元の五稜郭が見られる。エレベーター:30人乗り×2基、所要時間 約30秒以下三枚の写真は、前回訪れた時の写真です(2016年10月29日撮影)五稜郭タワー展望台からの五稜郭全景五稜郭の春は桜とともにやってくる。大正時代から植えられたソメイヨシノなど約1,600本が咲き乱れる。また、秋には紅葉が広がる紅葉の始まった五稜郭の二の橋辺りタワー展望台から西方向の函館山五稜郭タワーの1階にある「土方歳三像」と大砲土方歳三 手植えの矢竹東京・日野市にある土方歳三の生家「土方歳三資料館」から1985年に株分け・寄贈いただいた「矢竹」です。「矢竹」は節が小さく節と節の間が長いために矢を作るのに適しており、いざ という時のために武士が庭に植えたとされています。まだ幼い土方歳三が、「われ壮年、武人となって名を天下に挙げん」と侍になって、将来、世に出ることを誓い、自ら庭先に植えたと伝えられています「五稜郭に立つ 土方歳三」天保6年(1835)、武州多摩の豪農の家に生まれた土方歳三は、文久3年(1863)幕府が募集した浪士隊に近藤勇らと参加し、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる。京都で新選組を結成、「池田屋事件」などの討幕派浪士に対する徹底した取締まりと同時に「鬼の副長」として、新選組隊士を厳しく統率し恐れられた。鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いでの敗北、さらに新選組局長であり盟友である近藤勇が処刑された後も、宇都宮、会津と戦い続け、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に仙台で合流し蝦夷地に渡った。ここ五稜郭を本拠地とした旧幕府軍による暫定政権、いわゆる「蝦夷共和国」では、陸軍奉行並・箱館市中取締の要職を務めた。箱館での土方は「人に慕われることは、あたかも赤ん坊が母親を慕うかのようだ」と伝えられるほど温厚で、明治2年(1869)春からの新政府軍による攻撃に際しては、自ら最前線で兵を励まし奮戦し、押し寄せる敵を撃退した五稜郭に立つ 土方歳三高さ 像本体 約220cm(等身の約1.2倍) 材質 像本体 青銅(ブロンズ彫像) 台 座 約103cm 台 座 黒御影石この像は、旧幕府軍が蝦夷地から一時的に新政府の勢力を駆使し、暫定政権を樹立した明治元年12月15日、戦場から凱旋した土方歳三が、乗馬用の鞭を片手に五稜郭に降り立った姿を再現したもので、函館出身の彫刻家、小寺眞知子さんの作品です。制作者 小寺眞知子氏(1950~2012)プロフィール 北海道教育大学美術科彫塑課程卒業。1980年にイタリアへ渡り、・・・(略)・・・土方歳三は、明治2年5月11日、新政府軍の総攻撃により孤立した友軍を援護するために出撃したが、一本木関門で銃撃を受け35年の生涯を閉じた。この美形から今でも若い女性から人気がある土方歳三である14:39五稜郭タワーの外に立つ「箱館戦争供養塔」 - 続く -
2020.12.06
閲覧総数 478
46

妙本寺のノウゼンカズラを見た後、南側にある常栄寺別名ぼたもち寺へ。7月12日(月) 9:37常栄寺(ぼたもち寺)所在地:神奈川県鎌倉市大町1丁目12-11山門には「ぼたもち寺」日蓮聖人 降誕800年 令和3年2月16日山門を入り正面に本堂参道両側は草が生い茂る常栄寺(じょうえいじ)(ぼたもち寺)幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、龍ノ口の刑場(藤沢市・龍口寺)へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが、ぼたもち寺の由来です。日蓮は処刑を奇跡によってまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。厄除けの「首つなぎぼたもち」といわれ、終日にぎわいます。こじんまりとした境内にはあふれるように草花が植えられています。 ● 宗 派:日蓮宗 ● 山号寺号:慧雲山常栄寺 (えうんざん) ● 建 立:慶長11年 (1606) ● 開 山:日詔 (にっしょう) ● 開 基:日祐法尼 (にちゆうほうに)写真は、ぼたもち供養、「日蓮聖人龍の口法難ご絵伝」よりハギの花のつぼみ本堂右手前に、日蓮宗 常栄寺の寺務所常栄寺から小町大路を南下、正面に材木座海岸9:48光明寺 総門所在地:神奈川県鎌倉市材木座6丁目17-19 鎌倉市指定の文化財に指定されている総門から山門を望むこの間が広い駐車場になっておりトイレもある総門前の、浄土宗大本山 光明寺 案内図行事案内観蓮会 七月二十四日・二十五日令和6年 法然上人 浄土宗 開宗850年浄土宗大本山 光明寺山門山門前には、『大勧進、国の重要文化財 大殿 令和の大改修』自転車の手元標示板のバッテリー残量は 60%、走行可能距離は 49km山門の左側に駐輪して境内へ進む光明寺(こうみょうじ)材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第四代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。 ● 宗 派:浄土宗 ● 山号寺号:天照山蓮華院光明寺 ● 創 建:寛元元年 (1243) ● 開 山:然阿良忠上人 (ねんなりょうちゅう) ● 開 基:北条経時写真は、本堂前のサクラ山門(三門)弘化4年(1847)に再建された鎌倉に現存する最大の山門です。建築は和様と唐様の折衷様式で、江戸時代後期の重厚な風格を備えています。「天照山」の扁額は永享8年(1436)の裏書のある後花園天皇の御宸筆です。楼上には次の諸尊が安置されています。 釈迦三尊 四天王像 十六羅漢像 (いずれも江戸時代後期作のすぐれたお像です。) 大本山 光明寺観蓮会のポスター令和3年7月24日(土)・25日(日)24日【浄土蓮想】 ※観蓮会特別公演 16:30~ 記主庭園にて(雨天堂内) 井上公平(和楽器奏者)ライブ ほか 入場料 2,000円25日【献灯会】 法要 18:00 紙灯篭に供養の霊位をお書きし、灯火の中で懇ろにお勧めいたします。 灯篭回向 一霊 2,000円「浄土蓮想」「聞香体験」寺務所にて事前予約受付中です!以前は山門を入ると直ぐに工事用のフェンスがあったが。本堂前の境内には古木のサクラが咲く本堂左側に、開山堂左に鐘楼、右に山門開山堂には開山をはじめ歴代法主の御影を祀っている。現在本堂(大殿)は修理工事で令和2年2月より大殿(本堂)にお祀りしていた阿弥陀如来および諸尊像は、開山堂でご参拝頂けますと開山堂当寺開山良忠上人(記主禅師)の尊像および歴代の法主(住職)を祀る御堂です。開山の良忠上人は、浄土宗の第三祖(宗祖法然上人から三代目)として関東にお念仏の教えを弘められました。上人は島根県那賀郡に生まれ各地で修行と修学を積み正嘉2年(1258)の頃鎌倉に入り、幕府第四代執権北条経時公の帰依を受けて、この寺を開かれました。学徳を備えた高僧で、すぐれた僧侶を育てました。また多くの書物を著し、今日の浄土宗の基盤を為るという大きな働きをされ、この功績を称えて没後、伏見天皇から記主禅師の諡号を贈られました。毎年七月六日のご命日には開山法要を勤めています。 大本山 光明寺 善導塚浄土念仏の高祖である中国唐代の善導大師像は、法然上人が偏依して浄土宗を開いた方です本堂は解体修復のためフェンスで覆われ。 警備人の方に聞くと完成は令和6年の6月30日とのこと。法然上人 浄土宗 開宗850年が令和6年のためそれに合わせているのか開山堂の前から回廊へ上がり、記主庭園(池)の後方に「大聖閣(たいしょうかく)」光明寺の庭園は浄土宗庭園で記主庭園とも呼ばれている。蓮池には、夏になれば優雅な色を持って開花。七月には観蓮会(有料)が開かれ蓮を眼前に抹茶を頂きながら静かな時の流れを感じることが出来る記主庭園(池)、大聖閣庭園内に聳える大聖閣は宗祖法然上人800年大御忌を期して建てられた。お堂の二階には阿弥陀三尊が安置され、回廊よりその尊顔を拝すことが出来る蓮池にハスが咲き誇るズームアップオニユリも咲く既に咲き終わったハスもまだこれからのつぼみもあるが今年は開花が早いので、約10日後の7月24日(土)・25日(日)に観蓮会があるようだが、花の見頃は終わっているのではなかろうか今を盛りのハスも紅白のハスズームアップ開山堂から本堂への回廊。現在は工事中で本堂へは進入禁止。観蓮会にはこの辺りでお茶を頂くのであろうか記主庭園(池)にハスが生い茂る大聖閣の二階をズームアップ扁額は「大聖閣」開山堂前に大きな蘇鉄開山堂から降り境内へ本堂手前右側に「繁栄稲荷大明神」繁栄稲荷大明神当寺開山良忠上人は、この地に当寺を開くまでしばらく佐介ヶ谷に住まわれていました。この時上人は子狐を助けたことがありました。すると夢に親狐が現れ、お礼とともに薬種袋を残していったということです。鎌倉に悪病が流行した折、上人はこの時の夢のお告げに従って、薬種を蒔くと、三日の内に成長し、この薬草を服すると薬効顕れ、病魔はたちまちに退散したということです。のちに稲荷大明神として当寺に勧請し病魔退散、豊漁満般、家業繁栄を祈念しています。 大本山 光明寺大連高等商業學校之碑?星浦會会慰霊之碑 地平はろかに 光明寺第百拾世藤吉慈海書石碑には、校章と「地平はろかに」石碑の裏に「建立の記」地平はろかに〇は、大連高商校歌の冒頭の一節である。母校は昭和12年4月、大陸経済戦士の養成を目指し、遼東半島の一角、大連市光明台上に建学され、20年9月20日、第二次世界大戦の敗北により、その幕を閉じた。恩師及び1,300人の同窓は星浦會を結成し、機関誌「地平」を発行し、校舎は消え去っても士魂と商才の校是を中心に活溌に活動しつ〇ある。この度、光明寺と光明台の「光明」の結縁をいただき、この地に校碑を建て、かねて戦陣に、或は病魔に斃れた物故同窓の慰霊の地と定めた。碑下に恩師及び同窓全員の氏名を埋め、その志を明らかにし、以って関係者一同の留魂の地となす。 平成三年三月三十一日 星浦會社の中に「延命地蔵尊」「網引地蔵尊」、右側に「慰霊塔」慰霊塔塔の右側に砲弾が置かれていた境内の右奥(南側)本堂はフェンスで覆い解体中。この広場は?広場の奥に建つ観光案内観光案内があるが立入禁止鐘楼、山門を望むかまくらと三浦半島の古木・名木50選の「クロガネモチ」と鐘楼かまくらと三浦半島の古木・名木50選 クロガネモチ(モチノキ科) (財)かながわトラストみどり財団 三浦半島地区推進協議会鐘楼を見上げる10:30高倉健さんの墓標山門を入ると右側に「高倉健さんの墓碑」。平成29年(2017)に鎌倉の材木座の光明寺に高倉健の墓碑が建てられたとのこと。高倉健は、鎌倉幕府執権北条一族の苅田式部大夫篤時という武将の一族なのだとかで、生前は北条氏の菩提寺宝戒寺への供物を欠かさなかったそうで鎌倉とは縁が深いと。11月10日が高倉健の命日。今年で5回目ということになるらしい — 続く ー
2021.08.17
閲覧総数 183
47

九州の旅四日目も陽が沈む。臼杵公園内には、文学碑・顕彰碑・歌碑・句碑等が多く建っていた。11月17日(水) 16:59二の丸居館庭園跡臼杵護国神社境内は、延宝3年(1675)に城主居館が移された場所です。 現在、地上遺構は全く見当たりませんが、わずかにその庭園の一部が、残されています。臼杵護国神社御祭神は稲葉良通ならびに歴代藩主と國家公共につくした人の神霊をお祀りしています。明治10年西南の役で戦死した臼杵藩士43名の御霊をお祀りするため、明治11年6月に招魂社が創建されました。後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られています。稲葉神社は稲葉家の祖、稲葉良通公(一鉄)を祭神として明治12年11月に創建された以後、歴代の15藩主も祀られています。昭和35年4月には、稲葉神社と招魂社を合併して社名を臼杵護国神社と改称され、御祭神は2000柱になります。臼杵護国神社は区切りがなくどこまでが境内なのか、よくわからない。右手前に、海軍中將軍医総監 河村豊州が奉納した砲弾がある。砲 弾 記 念 明治二十八年九月十七日 敬献 海軍中將軍医総監 河村豊州臼杵藩士として代々医業を業とする。河村三達(太順)と白須豊子の二男として、嘉永二年(1849)一月二十六日生まる。荘田氏及び白須両氏更に日田咸宜園等の塾にて漢籍を学ぶ。明治初年藩命により鹿児島にて同藩の学校に入り洋学を修め次で医学校に移り、英人教師ウィリス氏に就き医学を研究した。 明治八年 海軍中軍医となる 明治十年 西南戦役に功あり、海軍大軍医となり勲五等を受く 明治十五年 朝鮮事変に旗艦「金剛」に乗り同地に派遣さる 明治二十七年 軍医長として旗艦「松島」に乗り黄海海戦にて名誉の重傷を受く 明治二十八年 功四級金鵄勲章を賜わり九月十七日招魂社に砲弾と台座を奉納する (現在の砲弾は実物大レプリカ) 明治三十五年 従四位一等に叙せられ、予備役となる 退役後 貴族院議員 宮内省の要職を断り 北海道開拓に尽力する 昭和八年(1933) 十一月八日 八十五歳にて永眠 青山墓園に眠る 河村 豊 献納 神楽殿に掲げられていた扁額「稲葉神社」。左側には、陸軍歩兵中尉 平井富蔵が奉納した模造品の砲弾。顕彰 砲弾記念碑 明治二十九年四月奉納 陸軍歩兵中尉 平井富蔵 清國威海衛戦利品 威海衛の要塞砲 口径 二十三・四糎 弾の長さ 八十四糎 黄海海戦 明治二十七年九月十七日 威海衛占領 明治二十八年二月十二日 講和条約(下関条約) 明治二十八年四月 砲弾は昭和二十年終戦後地下に埋没されたが現在その場所不明 現砲弾は模造品 岡部鉄夫稲葉神社神楽殿臼杵市指定有形文化財 臼杵護国神社神楽殿 右を臼杵市指定有形文化財に指定する 平成二十年六月三十日 臼杵市教育委員会 明治四十二年十月 稲葉神社神楽殿及び神門を増築する臼杵護国神社の西方向だが、区切りがなくどこまでが境内なのか?。奉納された石灯籠が建ち並ぶ。大東亜戦争全般作戦図臼杵護国神社には、稲葉氏のほか後に事変や戦争で亡くなった御柱が祭神として祀られているので境内には、大東亜戦争関係の戦死者の名前も。大東亜戦争(第二次世界大戦) 硫黄島の玉砕 臼杵の人で死亡場所硫黄島と確認された人昭和二十年三月十七日、栗林中将は大本営に決別電を発した後みずから先頭に立っての攻撃にあたり、次の訓示を述べた。「いま日本は戦いに敗れたといえども、日本の国民は諸君の忠君愛国の精神に燃え諸君の霊に対し涙し黙祷を捧げる日がいつか来るであろう。安じて諸君は国に殉ずべし」硫黄島にて戦死せられた二万一千の英霊に対し後世の日本人が涙して感謝の誠を捧げることを固く信じていたのである。大本営に決別電 国の為重き勤めを果たし得て矢弾尽き果て散るぞ悲しき 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又七度生まれて矛を執らむぞ 醜草(しろくさ)の島に蔓るその時の皇国の行く手を一途に思ふ平成六年二月初めて硫黄島の土を踏んだ天皇はこう詠った 精魂込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき 「散るぞ悲しき」梯久美子より大東亜戦争(第二次世界大戦)馬締安正命馬締安正命は、大正十五年一月十九日馬締兵市、チョの三男として臼杵市大字戸室に出生。市浜尋常小学校臼杵高等小学校を卒えて昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学。引続き熊谷陸軍飛行学校第十四期少年飛行兵として修学、昭和十九年七月同校卒業。台湾第八飛行師団所属誠百十四飛行隊特別攻撃隊員として訓練を受く。昭和二十年四月二日沖縄慶良間列島西側海域において未艦船群に体当り攻撃敢行戦死を遂げる。同日陸軍少尉に昇進正八位勲六等功四級を賜る。 遺 書実父 馬締兵市様 皇国危難の時新任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す国のため何か惜しからん。 死して甲斐ある命なりせば家の内ご一同様増産にお励み下さい。 ご健康をお祈りします。実兄 馬締中尉殿 弟も栄ある任務が下りました。報国の秋来る嬉しく任務に服す。兄上弟はお先に失礼いたし ます。兄上には初志を貫徹して下さい。初志貫徹せば満足に感じます。先に弟は亡母のとこ ろに行きます。 臼杵市久保馬締家にある「石碑文」より武功抜群木梨鷹一(たかいち)海軍少将の戦死鷹一は、明治35年3月7日 臼杵町野田753番地で生誕した。大正9年臼杵中学から、当時受験競争率最高30倍に達したと言われる海軍兵学校に進学(海兵51期生)、大正12年卒業。昭和5年航海学校航海学生(大尉)となり同6年に卒業後、潜水艦航海長になったが、同12年11月海軍少佐となり、同15年3月潜水学校甲種学生を命ぜられた。卒業時には、成績優秀により恩賜の銀時計(各種学校首席卒業者に天皇が与える銀製の時計)を拝受している。太平洋戦争勃発するや、潜水艦長として各海洋に進出し転戦偉功を奏す。伊号19潜水艦長として、昭和17年9月15日ソロモン海峡で敵機動部隊を捕捉し、魚雷6本を発射うち5本命中で敵空母ワスプを撃沈、戦艦ノースカロライナ、駆逐艦オブライエンを大破させた。昭和18年11月には、重大な使命を負いドイツへ向かった。インド洋上で補給船から補給を受け、昭和19年3月11日フランスのロリアンに入港。そこで、新兵器操作技術の習得のほか、ジェット機の設計図等新世代兵器設計資料を受取った。その時の軍服には、ヒトラーから贈られた二級鉄十字勲章が輝いていた。87日を経て、7月12日シンガポールに入港。空輸可能な設計資料は、巌谷技術中佐が取りまとめ空路帰国。7月26日にバシー海峡で米潜水艦と遭遇、鷹一の乗った艦は魚雷を受けて沈没した。この旨が上聞に達し、生前の殊勲を嘉せられ二階級特進海軍少将に任ぜられた。行年43歳。 「近代臼杵人物辞典」より木梨鷹一さんは、戦記の中にもよく出てくる、有名な潜水艦長である。会所櫓跡の石垣会所櫓跡会所櫓跡から陽の沈んだ西の山を望む。海添(かいぞえ)地区会所櫓跡から東側にある、臼杵護国神社を振り返る。東の空を見上げると、満月前の月がのぼる。大門櫓を出て正面に畳櫓二の丸西側下に、時鐘櫓跡(ときかねやぐらあと)があり、鐘楼が建つ。時鐘櫓跡稲葉氏入城後に造られた時報施設です。元禄14年(1701)に時鐘櫓が二王座に移されるまで鐘が置かれ、臼杵城下に鐘で時を報せていました。この櫓を造る直前の整地層からは、十字架を刻む軒瓦が出土しています。この時報櫓の鐘は「原山時鐘(はらやまときかね)」といいます。鐘に刻まれた銘によると、元禄十三年(1700)に鋳造されたとあります。その後、寛政二年(1790)に改鋳され、江戸末期までは原山時鐘堂(二王座)で時を告げていたものと記録に残っています。明治六年(1873年頃)の臼杵城廃城後、この「原山時鐘」が臼杵城跡畳櫓横へ移され、その後も昭和末期まで、鐘の音を聞くことができました。しかし、いつの頃からか鐘の撞き手がなくなり、「鐘の音」は途絶えたままとなっていました。平成二十年(2008)臼杵城跡西ノ丸鐙坂の土塀復元に際し、この鐘は畳櫓横から約百四十年ぶりに、ここ時鐘櫓跡に置かれたが、鐘の音が復活することはありませんでした。そこで、平成二十二年(2010)六月、臼杵ロータリークラブは、創立五〇周年記念事業として、鐘の音を復活するため、「時報楼」の整備を行いました。遠い元禄の昔から、うすき市民の思い出に刻まれつづけた鐘の音を感じていただければ幸いです。時鐘櫓跡から、南側にある「畳櫓」を望む。陽が沈み点灯された、臼杵市観光交流プラザを見下ろす。夕闇生えるピンクの花。明日の天気もよさそうだ。鐙坂を下り、壁面には穴跡があり石で塞いでいたが、防空壕跡か?古橋から内堀、カモの巣箱。内堀にカモが泳ぎまわる。うすき市のおすいマンホール蓋西暦1600年に臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号と市の木 カボスのデザイン。下縁右に「うすい3」の文字が入っており、汚水用も含め「1」~「3」の数字や「B」等の文字が用途を示す文字の後に付加されている。臼杵城跡の西側にある、大手門公園。17:16大手門公園前の交差点から畳櫓、大門櫓を見上げる。畳櫓、大門櫓をズームアップ。臼杵市観光協会前の交差点。吉丸一昌像大手門公園に立つこの像は、「早春賦」を作詞した吉丸一昌。畳櫓、大門櫓をバックに吉丸一昌は明治六年(1873年) 大分県北海部郡海添村(臼杵市海添)の下級士族の家に生まれた。小学校尋常科から小学校高等科卒業までの成績は非常に優秀で、1889年大分中学(現大分県立大分上野丘高等学校)に入学、1894年に卒業した。臼杵学校、大分中学校(上野丘高校)を卒業後、第五高等学校(熊本大学)へ進学。ここで教授夏目漱石と出会う。その後、東京帝国大学(東京大学)国文科へ進む。修養塾、下谷中等夜学校(東京都台東区)を開設し、貧しい青少年の生活支援と教育活動を終生行う。卒業後、東京府立第三中学校(両国高校)の教諭を務め、芥川龍之介を教える。明治41年東京音楽学校(現京芸大)教授に招かれ、文部省から唱歌の編さん委員に任命される。 明治45年新作唱歌全10集を発表。この中に吉丸の作詞した「早春賦」(作曲 中田章)「故郷を離るゝ歌」が収録されている。1916年(大正5年)42歳の若さで他界した。 没後100年を記念して 2016年記。夫人の実家に吉丸一昌記念館があり、当時の遺品や楽譜などゆかりの品々が展示されている。吉丸一昌先生の生いたち 出生 明治六年九月十五日 臼杵市海添(現在) 学業 臼杵尋常高等小学校 ~ 大分中学校 ~ 第五高等学校 ~ 東京帝国大学国文科 明治三十四年七月卒業 職歴 東京府立第三中学校教諭 東京音楽学校(現東京芸大)教授 大正五年三月七日逝去(四十二才)先生は、性質極めて磊落、常に故郷を愛し、苦しい生活の中にも向学の志を抱いた苦学生の為に、修養塾を作り修学の便を与えられ、又「成功の華は墓前に咲く」を信条とし、日常の訓戒とされていた。文部省唱歌の編集委員でもあったが、自らも編集し、新作唱歌十冊を刊行した。我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の暁鐘を鳴らされた。 「早春賦」は春を待ちわびる心であり「故郷を離るる歌」と双璧をなす傑作で、広く愛唱されている歌である。先生が、こよなく故郷を愛されたように、我々もとこしえに先生の功績を称え、郷土の限りない誇りとして顕彰するものである。 昭和五十五年四月二十日 臼杵ロータリークラブ。早春賦 吉丸一昌 作詞 中田章 作曲 春は名のみの 風の寒さや 谷のうぐいす 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てずこの歌は、倍賞千恵子、由紀さおり姉妹、三輪明宏、芹洋子、さだまさしをはじめ、最近の若手では三山ひろし等多くの歌手が唄っている。17:26畳櫓の上に月が載る。カメラの設定を変更して撮影。17:30臼杵城を後にし、カーナビを今夜の宿泊ホテル「ホテル日航大分オアシスタワー」にセット。18:11カーナビはホテルの到着予定は、18:33、残り距離 11kmと。18:18道路は退社時間帯で渋滞。18:44途中ホテルの到着予定は、18:33 であったが渋滞が激しく遅れる。19:50ホテルへ到着後、ホテル紹介の駐車場を探すが一方通行が多く時間を要した。ホテル日航大分オアシスタワー所在地:大分県大分市高砂町2丁目48受付では検温、消毒とコロナ感染対策を徹底していた。大分県と言えば別府だが・・・・・。部屋はツインルーム温泉もなく部屋の風呂に入り、宴会も部屋食で。途中ローソンでつまみを追加で購入、旧友からいただいた昨夜の残りの鶏をつまみに最後の夜を楽しんだ。今日は、宮崎から大分まで一般道を走り北上したが走行距離は 216kmであった。歩行数は延岡城、佐伯城、臼杵城と歩きまわったので 17,000歩。 4日目END ー 5日目へ続く ー
2022.01.22
閲覧総数 580
48

小出彼岸花会場を後にし、相模川左岸用水路沿いを家路につく。9月17日(土) 15:15追出橋(おんだしばし)手前から、小出川の上流側を望む。ここから上流の大黒橋までの3kmが彼岸花コースになっている。小出川に架かる追出橋下流側の巨大な管は神奈川県企業庁寒川浄水場からの水道用管。相模川の寒川取水堰で取水された上水道用の水が横浜市の小雀浄水場へ送水されている。この下流側の寒川町青少年広場に彼岸花会場の「おおぞう会場」がある。水管橋の銘板横浜市水道局「小出川水管橋」昭和44年11月竣工三菱重工業株式会社横浜造船所小出川に架かる追出橋(おんだしばし)右下は大蔵サイフォンからの余剰水を小出川へ放流するための水路。小出川の下流側を望む。立札には「この先遊水地掘削工事のため河川敷が全面通行止めとなります」」と。下流側は平地が多いのでゲリラ豪雨対策を行っているようだ。期間 令和4年8月30日から令和5年1月31日まで。正面に、追出地蔵右側のフェンス内は相模川左岸用水路。追出地蔵から右へ折れ相模川左岸用水路沿いを南下。相模川左岸用水路のトンネル。この用水路の水は我が家近くへ来るので親しみを感じる。かつては田植えもした。トンネルの出口側。更に水路沿いを南下、フェンス外から下流側を望むが草も延び管理も大変。同場所から上流側を望む、先程のトンネルはこの上流側にある。小出中央通りに出ると左上の丘に稲荷社。数日前に車で通った時、氏子さんたちが草刈りをしていた。小出中央通りの西側寒川方向を望む。坂を下ると小出川に架かる「一ツ橋」があり寒川町に入る。丘の上に鳥居、社殿が建つ。所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾1116-1辺り社殿前には榊も供えられていた。社殿の扁額には「十二尊天神社」。社殿前から南西方向を見下ろすが天気が良ければ正面に富士山が見える。小出中央通りの小出方向。この後は見落としていた「下寺尾の文字道祖神(石垣内)」をスマホにセット。スマホの案内で進むが道祖神は見つからず。民家の石塀の中に傾いた鳥居と、社殿を見つける。石塀越しに撮影するが個人宅用の稲荷社であったのか。肝心な「下寺尾の文字道祖神(石垣内)」は見つからず尋ねるにも人がいなく諦める。野菜、めだか直売所「義里めだか」所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾676左側が野菜の直売所だが既に完売になっていた。右側は扉付きの小屋でめだかの販売。最近は「めだかブーム」で品種改良され500種類ぐらいいると。めだかブームで高いものでは100万円とか、数万円の品種もあると。ここの ”めだか” はワンカップ 500円であったが。盗難の心配も。大岡越前通りへ出て東へ進む。真宗大谷派 宗泉寺所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾2085我が実家の宗派だが・・・・・、質素なお寺である。ネットで見ると、京都東本願寺を本山とする茅ヶ崎で唯一の真宗大谷派の寺院です。御葬儀・御法要・御法事で主にお伺いしている場所は茅ヶ崎市・藤沢市・寒川町・平塚市ですと。宗泉寺の東には新設の茅ヶ崎市博物館がある。大岡越前通り沿いに咲くコスモス。交通量が少なく安全なスリーハンドレッドクラブの間を選択。両側はコースで静かな空間である。丘陵地から下り住宅街へ入り辻に、墓地と道祖神。下赤羽根の道祖神所在地:神奈川県茅ヶ崎市下赤羽根69道祖神文化三年寅正月十四日(1806)年 建立 (双体像)両神が握手をしている文化文政年間(1803 ~ 1830)第百十九代光格天皇 百二十代仁孝天皇 徳川十一代家斉の時代は、町民文化の花開いた時代です。当時、活躍をしていた文化人には、葛飾北斎、安藤広重、谷文晁、丸山応挙、鶴屋南北、十返舎一九、滝沢馬琴、式亭三馬、小林一茶 などがいます。 平成十八年一月十四日(2006年)建立二百年を記念して 氏子中 小池定夫 安齋英雄 角田忠雄 角田忠弘 水越一直 角田泰治 山口洋子 安齋克彦 角田信康 角田一三 角田清司 順不同 双体道祖神下赤羽根の道祖神から南に数十メートルにある稲荷社。南側には新湘南バイパスの高架。以前は真っ直ぐ南へ行けたのであろうが新湘南バイパスの完成で寸断。東側を走る小出県道の赤羽根交差点へ迂回。高架下から稲荷社を見る。正面は扉で閉ざされていて社殿前には入れず。説明板も無く詳細は不詳。西側に廻り込み、かつては2本の大木が聳えていたようだが。小出県道の赤羽根交差点を渡り西へ進み、相模川左岸用水路の南側水路へ。新湘南バイパスの下を潜りここから水路になっている。振り返ると新湘南バイパスの高架下。新湘南バイパスの上流側は暗渠になっている(以前撮影した写真2枚)。この南北に走る水道路の下を相模川左岸用水路が流れている。香川小学校通りとの交差点から南方向を望む。高架は新湘南バイパス。水道路を振り返り北方向を望む。東西を「香川小学校通り」が走る。新湘南バイパスの南側に戻り、大山道の東方向。相模川左岸用水路は田村通り大山道へぶつかり、南側には民家があるのでここから暗渠を東へ。小出県道の高田交差点を通り抜け南側に赤羽根川。この辺りの相模川左岸用水路はどうなっているのか?。 16:10小出県道の東側に「山下の道」がある。山下の道は、高田一丁目から室田小学校の南まで現在は暗渠になっている、相模川左岸用水路に沿った道である。ガードレールの右側が通路になっておりその下を相模川左岸用水路がある。山下の道沿いに茅ヶ崎市消防団第15分団の車庫。帰宅時のバッテリー残量、走行可能距離は、30%、22kmであった。 END
2022.10.10
閲覧総数 614
49

雨の上信越自動車道から関越自動車道へ。5月14日(日) 15:05上信越自動車道の山間部を抜ける。上信越自動車道の藤岡PAまで3km。関越自動車道の上里SAで休憩することに。藤岡PAからの出口。北関東自動車道、関越自動車道の案内。前方は北陸・上越新幹線の高架橋。藤岡JCTまで1km。右側からの関越自動車道と合流。神流川に架かる神流川橋を渡り埼玉県へ。15:15神流川橋を渡ると直ぐにある上里SA。上里SAでは雨が強かったがお土産を購入。多くの観光客が買い物をしていた。上里SAでお土産を購入して早々に出発。雨が強く焦点が窓の水滴に、道路標識は赤文字で渋滞しているようだ。16:05いつものように花園IC辺りから東松山ICまで渋滞。圏央道の鶴ヶ島JCTまで10km。所要時間が赤文字で渋滞。渋滞情報。ようやく鶴ヶ島JCTまで1km。関越自動車道の練馬方面は渋滞。16:25鶴ヶ島JCTへ到着。ここまで帰って来ると後1時間ほどで到着。圏央道に入る。16:35圏央道の狭山PA所在地:埼玉県狭山市笹井2482-3狭山パーキングエリアは、埼玉県狭山市笹井にある、首都圏中央連絡自動車道のパーキングエリア。2008年7月18日にオープンした、圏央道初のパーキングエリア。 当PAは内回り・外回りともにカーブの中にあるため、本線車道上への加速車線に余裕がないと。ここでも雨が激しく降っていた。最後の休憩であったので車内のゴミを処理。最後のお土産を購入したが「狭山茶そば」が美味しかった。17:05八王子JCTまで3km。八王子JCTを過ぎ、高尾山トンネル。高尾山出口まで1km。17:14小倉山トンネル入り口トンネル内で事故発生の情報が入り渋滞、大事故でないことを祈る。小倉山トンネル2014年6月28日の相模原愛川IC → 高尾山IC間の開通と同時に供用を開始した。全長2.1km。小倉山トンネルは急な上り坂と下り坂があるトンネルであるため、サグによる渋滞が予想されている。このため、トンネルの手前に「速度低下注意」と書かれた注意喚起の看板が掲げられているほか、下り坂から上り坂に変化する部分には速度上昇を喚起する電光表示板が設置されている。小倉山トンネルは事故多発でこれからの運転には要注意である!後方から救急車のサイレン後日ネットで調べると。5月14日に圏央道の相模原IC → 相模原愛川IC間の小倉山トンネルで、レスキュー車のサイレンが鳴り響く玉突き事故が発生。渋滞は高尾山まで達し、渋滞状態となっていますと。ノロノロ運転で進むと前方にボンネットを上げた故障車。ボンネットを上げた故障車。バイクも。救急車が到着していた。救急車の前に事故車が数台。数台の追突事故であろうか。17:27ようやくトンネルを抜ける。全長2.1kmの小倉山トンネルを約15分で抜けることができた。パトカーが来たら通行止めに!激しい雨の中を寒川へ向かって南下。圏央厚木出口。名古屋方面は新東名もご利用できます。東名海老名JCTまで5km、新東名海老名南JCTまで7km。海老名出口まで2.2km。この辺りには東京へのアクセスが良いので倉庫が多い。東名、圏央道茅ヶ崎への案内。目的地まで近くなったが雨が激しく、到着時の雨が気になる。左方向は東名東京方面。雨が激しくワイパーが追いつかず。新東名海老名南JCT手前。圏央道寒川北IC出口。17:50レンタカーは満タン返しの為、倉見のガソリンスタンドで軽油を満タン。17:55日鉱の駐車場へ到着したが大雨。今回の走行距離は660kmであった。運転の佐藤さんご苦労様でした。帰宅が中途半端になったので途中「かつや」に立ち寄り夕食を取り19時に帰宅した。 END
2023.07.24
閲覧総数 361
50

浜降祭参加の寒川地区の神社を巡るため寒川町へ。8月12日(土) 15:05諏訪神社から更に県道47号線(小出中央通り)を西へ進み茅ヶ崎市から寒川町へ。左側には「湘南公園墓地 茅ヶ崎第二霊園 正面入口」の看板。小出川に架かる一ツ橋。一ツ橋上から上流を望む。川面のシラサギをズームアップ。小出川の下流側を望む。左上には「湘南公園墓地茅ヶ崎霊園」が広がる。川沿いにはサクラ並木が続く。一ツ橋の親柱には「ひとつばし」と。県道47号線(小出中央通り)から北側に入り新興住宅地へ。湘南東送水管 小出川水管橋所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田8丁目 辺り看板には、「ご協力をお願いします「護岸の整備を行っています」。 令和5年8月31日まで 時間帯 8:00 ~ 17:00 一級河川小出川河川改修(護岸工)工事(その1)」。小出川もこの辺りの川幅は十数メートルあるが、左側の上流方向は数百メートルで川幅が5メートル程になり秋の彼岸花の散策路になる。水管橋を見上げる。銘板には、湘南東送水管 小出川水管橋しゅん功 昭和43年4月21日口 径 鋼管 1,500mm圣 間 全長 28.4m企 業 者 神奈川県企業庁水道局施 行 者 司建設 ㈱ 東京支店口径が1,500mmの水管橋。どこの浄水場へ送水されるのか?この後、スマホの目的地を「菅谷神社」にセット。県道47号線(小出中央通り)を西へ進み、スマホの案内で途中右折して坂を登る。坂の上にGoogleマップに載っていた「塔の塚」。緩い坂を登りきると説明板が立っていた。塔の塚 (とうのつか)所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目4塔の塚はフェンスに囲まれ立入禁止に、この場所は寒川町の最高地点であると。塔の塚 (とうのつか) 寒川町指定重要文化財第十号 昭和五十五年十一月一日指定平成十三年・十九年に行われた発掘調査で、中世に造営された塚であることが明らかになりましたが、築造の目的などはわかっていません。地域では、江戸時代に観護寺(安楽寺末、明治三十七年一九〇四年廃寺)の僧が入定した塚と伝えられ、入定塚の別名があります。また、塚の頂に建っていた塔が日光に反射して、相模湾の魚が捕れなくなるので南湖(茅ヶ崎市)の魚売りが倒しに来たとの伝承もあります。 寒川町教育委員会 寒川町のマンホール。町の花水仙をデザイン。下部に「さむかわ」「おすい」の文字が入った汚水管マンホール蓋寒川町で一番高いところだけあって、かつてここからは南湖が見えたのであろう。スマホの案内で進み途中に、中原街道の東側にある県営住宅「寒川もくせいハイツ」の石柱。岡田遺跡所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田7丁目1岡田遺跡は寒川もくせいハイツの敷地内にあり現在は「越公園」で埋め戻されているようだ。寒川もくせいハイツの敷地内にある「越公園」。日本て最大級 ! ? 縄文時杙の巨大集落 ー 岡田遣跡 ーこの岡田もくせいハイツの足下に、縄文時代に多くの人々が暮らしていた村がありました。それも、日本でも最大級の縄文時代の村と知ったら、みなさんどう思いますか?昭和57年、県営岡田団地の立て替えと共に、発掘調査がはじまり平成元年まで延べ8年にわたり行われました。その結果、縄文時代中期(今から約4000年~5000年前ごろ)の巨大な集落址が発見されました。確認された住居の数は、実に500軒を上回るものでした。しかし確認された500軒をこす住居址も、遺跡全体からすれば、1/2から1/3ほどで、全体の住居の数は、1000軒~1500軒を推定することができ、全国的にみても、縄文時代の住居址としては最大級の遺跡だと言うことができるでしょう。住居の他にも、お墓であると思われる、墓壙(ぼこう)(円形、又は楕円形に掘られた穴)や埋甕(うめがめ)(甕を土中に埋めたもの)等も発見されました。遺跡からは、土器や石器といったものもたくさん発見され、矢じりなどの狩りに使う道具や、魚を取るときに使った網のおもりと思われる、石錘(せきすい)や土錘(どすい)といったものなども多く出土しました。また、弥生時代後期(3~4世紀ごろ)の住居址や方形周溝墓なども同遺跡からは確認がされています。現在、これらの土器や石器、住居のレプリカ等は寒川町文化財学習センター(一之宮小学校内)で見ることができます。 平成12年3月 寒川町教育委員会上段:第7次調査区全景中段:調査風景下段:出土土器県営寒川もくせいハイツは、28号棟はあるようで3階建の建物。こちら側は古いようで2階建、庭先の草も生い茂る。折しも寒川町長立候補者の選挙カー、「町長を1年務めると退職金は1,500万円で私は町の税状況を考えると受領しない」と。「4年務めると×4」だと。投票日は8月27日スマホの案内で廻り込み正面に鳥居。菅谷神社所在地:神奈川県高座郡寒川町岡田4丁目20-39浜降祭に参加する寒川地区6社のひとつで6番目の神社である。鳥居の左側には、「初宮詣・交通安全・厄除・家内安全・商売繁昌 他の祈祷 地鎮祭・上棟祭・竣工祭・住居清祓 御奉仕致します 菅谷神社」。 社号標石「菅谷神社」。鳥居を潜ると左側に手水舎。右側に、社務所。楠の下に「天の宮合祀百周年紀念碑」。社殿の前の境内中央に「縁結びの木・梛(なぎ)」が2本。境内の右側には「神楽殿」とその奥に「神輿殿」。天保神輿 (てんぽうみこし) 寒川町指定重要文化財第七号 昭和五十四年十ニ月十五日指定天保九年(一八三八)国府祭(こうのまち)の帰路、馬入で馬入の若衆と喧嘩となり川に流され、茅ヶ埼南湖(なんご)の浜で孫七にひろわれた元寒川神社の神輿を改装したものです。 平成三十年三月 寒川町教育委員会 今年7月17日の浜降祭に参加した菅谷神社の神輿。縁結びの木・梛が社殿前中央に2本。梛の葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っているが、実は針葉樹。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びている。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったと。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。紙垂でつながれた梛(なぎ)。梛(なぎ)は御神木であろうか。右側の狛犬。新型コロナも第5類になり狛犬もマスクを外す。左側の狛犬。記念碑當神社はもと神明宮(通称天宮)と称し岡田小谷大蔵の鎮守として往昔よりこの地に鎮座せらる明治四十ニ年七月二十三日各部落内の五社を合祀して社号を菅谷神社と改む 今年偶々合祀並に社号改称 五十年記念大祭を執行するに当りこれが由緒の堙滅せんことを虞れ茲に往時に於ける各社の鎮座地等を刻み以てこれを後昆に伝う鎮座地 社 号 御祭神 例祭日 岡 田 神明宮 天照大神 七月二十三日 小 谷 稲荷社 倉稲魂命 十月十一日 大 蔵 諏訪神社 建御名方神 八月二十七日 西岡田 八坂神社 素盞嗚命 七月十五日 東岡田 東守権現社 天忍穂耳命 九月九日 岡 田 日枝神社 大山咋命 九月二十九日 大 蔵 第六天神社 大蔵総鎮守大蔵山王社裏面には、「昭和三十三年七月二十三日建之 菅谷神社氏子中 宮司竹内武雄撰並書」と。内陣を見る。内陣に掲げられている扁額「菅谷神社」。拝殿前から東方向を望む。神輿殿の右奥には「石碑・石像群」。庚申塔は5基?あったが、風化、損傷が大きいものが多く残念な状態に。一体だけ衣装を着ていた。菅谷神社境内から「越公園」を見る。岡田遺跡の発掘跡は埋め戻され公園になっている。木立の中に本殿が建つ。15:40社殿横から南方向の鳥居を望む。 ー 続く ー
2023.08.17
閲覧総数 395

