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2020.11.22
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カテゴリ: 国内旅行
松前町郷土資料館の見学を続ける。

10月19日(月) 12:17
正確になった北海道の地図、本州に移封された松前氏


正確になった北海道の地図
松前藩は、現在の北海道、千島及び樺太南部の広大な土地を領地とし、面積では日本最大の藩
でしたが、その大部分がアイヌ民族の居住地であったために、藩領の地図も江戸中期頃までは、
不正確なものでした。ところが、18世紀末に入って、幕府が北方への関心を示し、蝦夷地の調 
査を行なうようになってから、次第に正確な地図がつくられるようになりました。
左:元禄御国絵図(写) 元禄13年松前藩が幕府に提出した地図。

右:蝦夷国測量図(写) 寛政―文化年間、伊能忠敬・間宮林蔵の調査隊にもとずいて作成したもの


本州に移封された松前氏
寛政11(1799)年、幕府は松前藩から東蝦夷地をとりあげて仮直轄し、さらに享和3(1803)年
には、永久直轄しました。その後、文化4(1807)年には松前氏を福島県の梁川(やながわ)に移
封し、全蝦夷地を直轄してしまいました。これより、以後14年間、松前氏は、梁川藩9,000石
の領主になり ” 松前藩 ” は消えてしまいます。


左:福山館と福山城
  安政元(1854)年の新城完成までの福山城は、正式には館または陣屋と称されました。
  嘉永2(1849)年、松前氏は城主となったため、この時から正式に福山城となりました。
左下:福山城の築城
  幕末になって諸外国船の津軽海峡往来がはげしくなると、幕府は、北方警備のため嘉永2

  後の旧式の城です。
右:3万石の大名
  安政2(1855)年、箱館を含む大部分の領地が、幕府の直轄となり、代って、東北地方に、
  領地をもらったため、この時から松前氏は、3万石の大名になりました。
  左の領地:文政5(1822)年 ~ 安政元(1854)年



箱館戦争
松前は、明治元年11月、榎本武揚の率いる旧幕府軍の攻撃を受け、館城も落城し、
藩主以下津軽へのがれました。
翌年、官軍によって松前は、奪還されましたが2度にわたる兵火のために城下の大
半が焼失してしまいました。城下の人々にとって、戦争は物心両面に大きな傷あと
を残しました。
町内出土の砲弾・弾丸
左:洋式銃の弾丸、右:火縄銃の弾丸


錦切(きんぎれ)
官軍側の兵士が目印のため肩につけたもの


陣羽織
松前藩家臣 駒木根家着用のもの


12:21
《 現在の松前 》
国道が敷設され、護岸工事が行われたことで、往時の海岸線をしのばせるのは小松前川河口付近
のみとなりました。丘の上には次に訪れる日本100名城の「松前城(福山城)」。
郷土資料館も足早に見学、約20数分の滞在で後にしたが、アイヌの一部を知ることができた。


12:33
松前城の無料駐車場へ駐車。
桜の木の手前には、コスモスがきれいに咲いていた


松前町内指定文化財


松前城の多門櫓跡


松前城
所在地:北海道松前郡松前町松城144
松前城は、西蝦夷地福山にあった日本の城。江戸時代、公式には福山城と記されたが、当時から
備後福山城との混同を避けるため松前城とも呼ばれていた。


松前城(福山城 ― 国指定史跡)
今から約700年以前の鎌倉時代から和人が移住し、戦国時代の終り頃には和人政権の拠点となり、
その後、武田信広(松前家始祖)がコシャマインの戦(1457)を平定し、蛎崎家を継ぎ、その子光広
(松前家二世)以降代々福山館ができるまで大館に城を築いていた。五世慶広の時、松前氏に改め、
幕府より蝦夷地における支配権を認められ松前藩が成立。
十七世崇広が徳川幕府から北辺警備の命を受け、高崎藩の市川一学の設計により安政元年(1854)
に日本最後の旧式築城として完成したもので、約76,000平方メートルを有する堂々たる城郭であ
った。特に城内に砲台を構え、一見簡素に見える天守閣も、火器戦争には最もがん丈な意匠構造
で、従来の日本式に西洋式が加味されている点は、全国的にも特異な城である。
その背景には、ロシアの南下など外国船の日本侵略を防ぐ目的があって、松前城は北辺警備の重
大な役割を果たしていた。現在の天守閣は、昭和36年に再建されたものである。   松前町


松前城資料館展示案内
  3階(展望室)  福山城(松前城)古写真パネル
  2階      松本家・アイヌ民族関係資料
  1階      松前藩・松前神楽関係資料
  地下       (北海道命名150年記念) 福山城縄張図・松前奉行所図
入館料  大人 360円  小人 240円
前回、資料館に入っているので今回はスルーした。


松前城は、日本100名城で、平成28年(2016)10月28日(金)に登城捺印している


武田氏略系
源 頼義 八幡太郎義家、新羅三郎義光=三世孫
信義(甲斐武田氏祖)— 信光(安芸武田氏祖)六世孫
信繁(若狭武田氏祖)
甲斐武田は晴信(信玄)より勝頼に及び、安芸武田は光和より光廣に及び、若狭武田は元明に至り
いずれも滅亡せり。


松前城天守閣
国宝だった天守は昭和24年に焼失したため、昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観を復元した
ものを再建。緑色凝灰岩で造られた切込接の低い石垣が見事。
石垣には戊辰戦争のときの弾痕が今も残っている。


重要文化財 福山城(松前城) 本丸御門
本丸脇にある櫓門で、安政元年(1854)に建立。築城時から現存する門は国の重要文化財。
扉に鉄筋を張ってあり、この石垣も本丸同様に美しい。


本丸御門と天守閣


重要文化財福山城(松前城)  本丸御門修理概要等
福山城(松前城)は、松前町福山の台地に築かれた平山城で、近世に築城された北海道唯一の城郭
である。松前家五世慶広が、天正17(1589)年徳山(大館)の居館焼失を機に、慶長5(1600)年福
山の地で築城に着手し、同11(1606)年完成した。
蝦夷地の中心として威容を誇ったこの城は、嘉永3(1850)年幕府の命により取り壊され、高崎藩
士市川一学の縄張りにより、直ちに全面的な改築に着手し、安政元(1854)年完成をみた。
その後十数年を経ずして、明治維新の戦乱により廃墟と化し、さらに明治8(1875)年には、天守
(三重櫓)・本丸御門・同東塀等を残して取り壊された。昭和16年これら三棟は、国宝に指定され
たが、同24年本丸御門を残して他の建物は焼失し指定を解除された。
同25年文化財保護法の施工により、本丸御門は重要文化財に指定された。本丸御門は、昭和24年
屋根葺替部分修理を行っているが、修理後35年を経て、屋根銅板が摩耗し雨漏りが生じるように
なり、また昭和58年の日本海中部地震により、柱の傾斜等が生じたため屋根葺替部分修理を実施
した。実施に当たっては松前町の直轄工事として、設計管理を松前町教育委員会文化財課が担当
した。


石碑には「長尾山椒」の漢文


長尾山椒(秋水)    松前城下作詞
海城寒柝月生潮   かいじょうのかんたくつきうしおよりしょうじ
波際連檣影動揺   はさいのれんしょうかげどうようす
従比五千三百里   これよりごせんさんびゃくり
北辰直下建銅標   ほくしんちょっかどうひょうをたてむ


漢文の解説
松前城下には、寒い夜、夜回りの拍子木の音が響いている。今上がってきた月は、まるで潮の中
から生まれて来たようだ。(松前の港のにぎやかなようす)波打ち際にたくさんつながれている
船のたちならぶ帆柱の影が、しきりと揺れ動いている。(城内や津軽海峡のようす)ところで、
この松前の地から五千三百里の彼方にある北極星の真下(つまり北極点)にここまで我が国だと
いう国境の標を建てたいものだ。


北海道指定有形文化財「旧福山城本丸表御殿玄関」


旧福山城本丸表御殿玄関
慶長11(1606)年に完成した城は当時これを福山館と称していた。しかし、寛永14(1637)年城
中より出火し、多くの建物を焼失、同16年これを修築した。
その際、表御殿には京都伏見城の一部が移されたと伝えられている。明治8年、北海道開拓使の
命令により福山城は取り壊されたが、天守と本丸御門、表御殿は残った。表御殿は松城小学校
として充用され、明治33年新校舎が完成した後もこの玄関だけは小学校正面玄関として、昭和
57年まで利用されてきた。       昭和38年7月26日 指定


城内には、松前藩時代に植えられた桜の古木


本州から渡って来た人々が、遠く離れた江戸や都をなつかんだりして木を植えたことがきっかけ
で、多くの桜がある


津軽海峡を見下ろす
遠く竜飛崎が見え、右側の海上にはうっすらと山が


ズームアップ、白神岬ではうっすらと岩木山見えていたが、より鮮明に


カメラを左に振ると、下北半島方面


松前城前にある、青木郭公の顕彰碑と桜前線本道上陸標準木(ソメイヨシノ)の標柱


松前公園には約250種1万本を数える桜が植栽されており、早咲きから遅咲きまで約1ヵ月にわ
たり順に咲き誇り多くの観光客が訪れる


青木郭公の顕彰碑
北海道暁雲社の主宰で大正年間より昭和初期にかけて、活躍した本道俳句の代表的先生で、
「高潮や城門を吹く花の雲」と刻まれております。


鎌倉翁の顕彰碑


鎌倉翁の顕彰碑
松前桜の育ての親、鎌倉翁の顕彰碑。
鎌倉翁は大正10年頃より約50年間松前の桜を育て、多くの品種を造りあげた方でございます。
昭和43年91歳で亡くなられました。


この辺りの史跡
さくらまつりが開催されるエリア。
松前桜、三大名木の、龍雲院「蝦夷霞桜」、光善寺「血脈桜」、天神坂門「夫婦桜」がある。
他に、桜見本園、新桜見本園、第二公園


天守の手前に蓮池


隅櫓(すみやぐら)跡と、右に、搦手二ノ門


隅櫓(すみやぐら)
この櫓は、東郭にあり、主に東方から侵入する敵を監視する位置にあります。東郭は、内堀を
挟み本丸へ通じる重要な郭で、搦手升形・北郭とともに東方の備えであり、その要となる建物
がこの隅櫓でした。
櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が桁行四間(7.272m)、梁間三間(5.45
4m)であったことが判ります。また、発掘調査を行った結果、出土した土台石の規模が、絵図
寸法と一致することが判明しました。
櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)の二重櫓であったことが、慶
応3(1867)年に撮影された古写真から判ります。


搦手二ノ門


搦手二ノ門下から三ノ丸
中央奥に天神坂門


外堀と砲座
外堀は二ノ丸と三ノ丸の間にあり、三ノ丸には7基の大砲がすえつけられていた。


三ノ丸の左奥にある砲台の台座


左手の馬坂


搦手二ノ門


搦手二ノ門を入り


二重太鼓櫓(にじゅうだいこやぐら)跡


二重太鼓櫓
この櫓は、二ノ丸南東隅にあり、城内三ケ所ある二重櫓のうち、敵の侵入を監視するうえでも最
も重要な位置にあって、海上はもとより海岸線、市街地、三ノ丸と、広範囲を見渡すことが出来
ました。また、平常時にはその名のとおり、太鼓を打ち、時を知らせる役割をし、櫓の西に接し
て『太鼓番居小屋』があり、その管理をしていました。
櫓の規模は、絵図『福山城見分図』から、一階の柱芯間が四間(7.272m)四面であったことが判
ります。また、土台石は発見されませんでしたが、発掘調査で出土した土台下の地業(地下構造)
の規模が、絵図寸法と一致することが判明しました。
櫓の構造は、屋根は銅板葺で、壁は大壁(柱を外部に出さない壁)であったことが、慶応3(1867)
年に撮影された古写真から判ります。


二重太鼓櫓跡から、搦手二ノ門下を望む


12:57
同場所から、天守を望む
桜の木がたくさん植えられており、4月下旬から5月中旬まで桜祭りが開催される。
北海道新幹線の開通で、木古内から訪れる人も多くなったのでは?


日本100名城の松前城(福山城)を約30分の散策で後にする。

                                     - 続く -





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最終更新日  2020.11.23 23:18:22
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