おじん0523のヒロ散歩

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2020.11.21
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カテゴリ: 国内旅行
​​​北海道最南端の白神岬から国道228号を北上し松前町へ。

10月19日(月) 11:39
白神岬展望広場
9月から12月は渡り鳥の探鳥ポイントである。北海道から津軽海峡を越えて本州へ向かう渡り
鳥が300種以上も数えられ、日本屈指の渡り鳥の休息地になっている。
トイレも完備していて、ちょっとした観光スポットです。


松前矢越道立自然公園
追分ソーランラインの看板はネットでは上についているのだが、下に取り付けられていた。
国道228号の前方に陣屋覆道





「伊藤整 生誕の地」碑
伊藤 整(いとう せい、1905 ~ 1969 64才没)
本名は伊藤 整(いとう ひとし)
1905年(明治38年)、北海道松前郡炭焼沢村に生まれ、その後、塩谷村(現小樽市)に移住し、北
海道庁立小樽中学校(現潮陵高校)を経て、小樽高等商業高校(現小樽商科大学)を卒業し、小樽市
中学校(長橋中学校)の英語教師に就任。2年後に教師を退職して上京。
詩人として出発するが、小説家・評論家に転じる。
ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」、D.H.ローレンスの「チャタレイ夫人の恋人」を翻訳
紹介。小説「鳴海仙吉」「火の鳥」「若い詩人の肖像」「氾濫」「変容」など、評論「小説の
方法」「日本文壇史」など。
1967年、日本芸術院賞を受賞、翌年、日本芸術院会員に選定される。

地区としてこの地に生誕の碑を設置しました


白神岬展望広場からの松前市街地方面。
美しい海岸景勝と野生鳥獣の生息地である白神岬は、新たなサンクチュアリ(聖域)として注目
されています。また、南に津軽海峡、東に太平洋、西に日本海と三方を海に囲まれていること
からヒヨドリ、ハヤブサ、ムクドリなど、多くの野鳥を目にすることができる。



右側にひょっこり立っているのが「キノコ岩」


栄養たっぷりなカラス


11:51
国道228号沿いの旧松前線の橋桁
荒谷と大沢の間を流れている「ヒジノ下川」にある松前線の橋桁


松前線は、木古内駅で江差線から分岐し、松前郡松前町の松前駅までを結んでいたが、昭和63
年(1988)2月1日に全線廃止となった


12:01
日本百名城の松前城へ行く前に、旅友のKさんが事前に調べていた郷土資料館へ立ち寄る。
松前町 郷土資料館
所在地:北海道松前郡松前町神明30
図書館などと併設した公共施設内にあり、無料で見学することができる。松前の歴史が解説され
ている。特に近世以降、力点を置いて解説しているが、松前氏のみならず、北前船、アイヌの先
史時代、そして松前神楽や松前の自然についても展示を交えながら解説している。
資料館の壁面には「 ​​ ​​ ​​ 平成30年3月8日 国の重要無形民俗文化財指定 松前神楽」


松前町町民憲章
私たちは天守閣のそびえる北海道の古都松前町の町民です。
新生松前町発足二十周年にあたり、先人の業績をたたえるとともに、町永遠の発展と町民のしあ
わせをねがい、みんなが力を合わせてその実現をはかるため、私たちの生活のめあてとしてこの
憲章を定めます。
 一、力を合わせて産業をおこし、豊かな町にしましょう。
 一、自然を愛し、美しい町にしましょう。
 一、若い力を育て、明るい町にしましょう。
 一、先人の遺産をだいじにし、文化のかおり高い町にしましょう。
 一、互に仲よく助け合い、平和な町にしましょう。
昭和49年9月19日制定   金子 鷗亭 書


金子 鷗亭(かねこおうてい)
松前町出身の金子鷗亭(1906~2001年)は、近代詩文書の父と呼ばれた書の大家。

玄関のドアーに
本日、公民館・図書館の休館日です。なお、郷土資料館のみ開館しております。
郷土資料館を見学するので館内へ入る。
  開館時間:9時 ~ 17時(16時30分までに入館)
  開館期間:4月10日 ~ 12月10日・期間中無休/入館料 無料


施設利用の皆様へ
「新しい生活様式」の実施をお願いします。


一階での、新型コロナウイルス対策
入口で機器の前に立ち検温


検温で異状なしで靴を脱ぎ、足でペダルを踏みアルコール消毒。
郷土資料館は二階に


アルコール噴霧スタンド使用方法


2階の松前町郷土資料館入口


2階のロビーには「北前船渡航〇」


松前屛風〈 道指定有形文化財 〉
江戸中期ごろに活躍した松前の画家、小玉貞良の手による宝暦年間の松前城下の半双屏風の全景
です。蝦夷地の交易に活躍した近江商人のひとり、恵比須屋岡田弥三右衛門が描かせたものとい
われています。高さ約1.6m、横約3.7mの屏風に、当時の風俗や盛んな交易の様子などが克明に
描かれています。


郷土資料館内に入る
先史時代からの松前の歴史、暮らしに関する資料を展示。町内各地で発掘された縄文土器等も
紹介している。


大津のむら(想像図)


大津のむら(想像図)
大津遺跡(松前町・江良)は、縄文時代後期(約4,000年前)の遺跡です。
豊かな海と山の幸に恵まれた自然の中で数軒がまとまって村をつくり、人々は、共同で生活して
いました。発見された土器などから、青森県や秋田県と深いつながりのあったことがわかります。


竪穴住居
住居内にはシャケを干し


縄文から続縄文


縄文から続縄文
数千年間つづいた縄文時代は、さらにいくつかの時期に分けられ、地域によって、多様な文化
を生み出していきました。
やがて本州では、米作を土台にした弥生文化へとうつっていきましたが、北海道では、米がつ
くれなかったため、依然として、狩猟生活をつづけていました。
このころの文化を続縄文文化と呼びます。


正面のブース「擦文(さつもん)文化とアイヌ民族」
手前左のブースは「アイヌ民族・社会」
  アイヌ民族は、依然として狩猟・漁労による生活を続けていましたが、もう土器は使わず
  生産用具も本州から手に入れたものを、多く用いるようになっていました。
  しかし和人の勢力はまだ及ばず、民族独自の世界をつくっていました。


擦文文化とアイヌ民族
続縄文文化のあと北海道の文化は、擦文文化へと移っていきました。
この文化は、鉄器を用いるなど本州の新しい文化の影響を強く受けた文化です。この人々は、
アイヌ民族の祖先とも考えられていますが、まだ明確な答はでていません。


甲 冑


駕 籠


この駕籠は華遊山龍雲院から寄贈を受けたもので、僧侶か身分の高い侍の使用したもので4人
で担ぎました。


近江商人の出身地
江戸時代に活躍した近江商人は、全国的には、八幡・五個荘・日野の出身者が非常に多かった 
のですが、松前で活躍した近江商人の大部分は、近江八幡及び薩摩と柳川の出身者でした。


近江商人の交易ルート図
松前交易で活躍した近江商人は、主に、福井県敦賀・小浜の海産問屋と取引を
していたため、松前産物の多くは、両地へ集められ、琵琶湖経由で京都・大坂
などの市場へ送られました。


沖の口役所の絵


沖の口役所
松前藩は、松前・江差・箱館の3港に沖の口役所を置いて、出入りの商品や船・人馬をきびしく
とりしまりました。この絵は、松前沖の口役所で、上陸したばかりの人たちがきびしい取調べを
受けているところです。


北海道指定有形民俗文化財『 求福山山車 胴幕 』


北海道指定有形民俗文化財
「求福山山車の人形その他付属品」
求福山山車 胴 幕
松前城下を代表する山車の一つが求福山高砂山であった。城下の七社祭礼には、このような豪華
な山車が各町内から引き出されたいへんなにぎわいであったという。側面に張られた幕が胴幕で、
孔雀の雌雄をデザインした幕である。オランダ製の赤の羅紗地に金糸・銀系をふんだんに用いた
刺しゅうで、往時の松前の繁栄を象徴するものであり、製作は京都と考えられている。近年、傷
みが激しいため、昭和63年度には道費の補助を得て修復をしている。
                          唐津町内会所蔵


城下のにぎわい
江戸時代の松前は、北海道唯一の城下町として、また本州交易の中心地として、発展し、繁栄
しました。数多くの武士とともに、蝦夷地の富を求めてやってきた商人や船のりたちのむれ・・
・・・・・。そこには、松前特有の文化が花ひらきました。


北前船とは
北前船とは通称 ” 弁財船 ” と呼ばれ、おもに、日本海を舞台に大坂から下関を経由して、松前
交易にたずさわった一枚帆の和船のことです。
また経営のしかたが、荷主などに依頼されて商品を運ぶ運賃船とちがい、船頭が即商人であり、
船頭の意志で、各寄港地で商売をする買積船であったところに大きな特徴がありました。


北前船と、沖口役所の標柱(右側)


《 沖口役所の標柱 》
沖口役所とは、現在の税関のような機能を備えた役所であり、松前、江差、箱館の三港におか
れた。この標柱は松前藩の復領後建てられ、地下から偶然発見されたものである。
  銘 文政癸未歳次建立(文政六年(1823)建立)


正月船
北前船の船主や船頭たちは正月には一年の航海安全、商売繁盛を祈って持ち船の模型を飾った。
この船もそうしたものの一つである。    今 美奈子氏所蔵


奉納船
  荒谷稲荷神社蔵


北前船の航路
北前船の船主には、加賀の大乗寺、橋立、越前の河野、敦賀など、富山、石川、福井、
沿岸諸港の人たちが多く、彼等は、日本海を舞台に、活躍しました。


道指定民俗文化財 求福山の人形とその附属品
扁額は「求福山」


アイヌ民族のたたかい
封建制社会のなかにおかれたアイヌ民族はたえきれない抑圧に、命をかけて戦いました。
そのうち最も大きな戦いは、康正2年(1456) ~ 長禄元年(1457)の道南地方を舞台にしたコシ
ャマインの戦い、寛文9年(1669)日高から石狩までの広い範囲のアイヌ民族がたちあがったシ
ャクシャインの戦い、さらに寛政元年(1789)、クナシリ、根室地方を舞台にした戦いです。
  ・コシャマインのたたかい
  ・シャクシャインのたたかい
  ・クナシリ・メナシのたたかい 


高利をもたらしたアイヌ交易
漁場年間賃金:アイヌ(1 ~ 2両)、和人漁夫(7 ~ 8両)
交易価格:買価格、売価格


アイヌ人口の減少
蝦夷地の開発がすすむにつれ、アイヌの人口は著しく減少していきました。中でも、道南地方
はじめニシンやシャケ漁が発達した西海岸及び根室、国後地方が、最もはなはだしく、ニシン
漁場で有名な小樽、歌棄(うたすつ)、磯谷、寿都(すっつ)などは、明治初年頃には、全滅ない
しは、わずか数人という状態になっていました。
アイヌ人口の推移(北海道:千島・樺太)
  文政5(1822)年   24,339人
  安政元(1854)年   18,805人
  明治6(1873)年   18,644人  


12:16
北方に目をむける幕府
江戸時代の終わりころになると、幕府は、産物の豊かな蝦夷地に、特別な関心をよせました。
ロシアが、蝦夷地周辺に南下したのを機会に、松前氏から領地をとりあげ、蝦夷地を、直轄
してしまいました。



                                           - 続く -​​​





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最終更新日  2020.11.21 03:00:06
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