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5月24日は、お釈迦さまの誕生日でした。『お釈迦様の来られた日』と言って、韓国では祭日です。 韓国に仏教が伝来してから1600余年。仏教徒が専らを称えて来た節日が陰暦8日(4月 8日)でした。今でも、韓国では=チョパリル=『初八日』と呼んで盛大な行事を行います。お寺や家中に火を燈し、蓮の花の提灯を飾り、家内安全、泰平を祈願するのは、今も昔も変わらぬ習慣です。家から遠く離れた山寺は初七日夜に明かりを燈し、都市近郊のお寺では陰暦8日の夜に燈をつけます。昔は提燈行列をするのが 4月陰暦8日を祝う行事とされていました。朝鮮半島で、新羅と高麗に根付いた仏教は”国教”として国全体の文化、因習として定着しました。そんな意味もあっって4月の陰暦8日は仏教の節目でもあります。李朝鮮時代、儒教が国教となり、山の中に寺院が追いやられ、為政者によって迫害されますが、多くの庶民の手助けによって400年以上の間、細々と、仏教と寺院は守られてきました。こんな”ねじれ現象”が今日の様に変則的な釈迦誕生日になってしまった由縁でもあります。現に、近年、祭日となったといえ、多くの仏教国ですら釈迦の誕生日が統一してないことを受け、韓国でもこの日の名称が公式的に決まったことがありません。”4月初八日、 釈迦生誕日、仏誕節、 仏誕日、釈迦誕生節(釈誕節)、尊降誕節”などと未だに混乱してるのが実情です。釈迦誕生は、その時、龍が天から飛来して、香湯をそそいだという故事に基づくものですが、本来は旧暦で行われるものですが、日本では近年は新暦で、又は、それに近い日曜日に行われることが多くなってきています。これは余談ですが、韓国で法定祝日となっったのは、クリスチャンが急速に社会全体に増え、クリスマスが法定祝日となっていることから、一つの宗教だけを特別扱いしないための配慮であったといわれています。今年も、「釈迦誕生日」に、648人の囚人が恩赦により仮釈放されるほど韓国では大切な日でもあります。記事 2007/05/24 Updatedソウル中心部にある曹渓寺など、全国各地のお寺では、釈迦の誕生を祝う法要が行われました。盧武鉉大統領は釈迦誕生日に合わせて国民にメッセージを送り、「韓国の歴史の中で、仏教は国難を克服し、国の発展に大きく寄与してきた。これからも先進韓国を作り上げるため力を合わせよう」と呼びかけました。また、北韓の仏教の総本山とされる平壌市の広法寺でも、釈迦の誕生を祝う法要が行われ、曹渓寺と広法寺では、南北の仏教界が共同で採択した祈願文が朗読されました。一方、ソウルの城北区にある慶国寺では、仏教のほか、キリスト教などほかの宗教の合唱団も参加して、釈迦の誕生を祝うイベントが繰り広げられました。 「釈迦誕生日」を迎え、23日午前10時模範受刑者648人が特別仮釈放される。法務部は収容生活がまじめで、出所後再犯の可能性がないことが認められる受刑者たちを仮釈放対象として選定したと明らかにした。今回の仮釈放対象者には、毎月定期仮釈放に含まれない10年以上の長期受刑者48人と、収容生活が困難であることが判断される高齢者と患者など老弱受刑者74人が含まれた。『仏教関係HPからの抜粋』この3つの日を「三仏忌」といい、具体的には次の3つです 4月 8日 釈尊降誕会(ごうたんえ=誕生の日)12月 8日 釈尊成道会(じょうどうえ=悟りを開いた日) 2月15日 釈尊涅槃会(ねはんえ=入滅された日)ところが、この日付で降誕会の行事を行う国は日本・韓国・朝鮮・中国など大乗仏教の国の一部であります。これは、例えば釈尊降誕の日を、『ブッダチャリタ(Buddhacarita)』(=『仏所行讃』)の「4月8日」をそのまま太陽暦に当てはめてしまっていてこの月日したとか、その程度の理由だと思われます。ちなみに、ヴェサック月(太陽暦の5月付近)を元に降誕会を ヴェサック月の第8日成道会を ヴェサック月の満月の日涅槃会を ヴェサック月の満月の日とする資料もあり、スリランカなどの上座部仏教国のように、ヴェサック月の旧暦15日(満月の日)に三仏忌(降誕・成道・涅槃会)を一度に行ったりする国もあります。そこで、各国の祝祭日を元に、釈尊降誕の日がいつなのかを調べてみました。ヴェサック月の日付は太陽暦に直すと毎年変化しますのでご了承ください。昨年の月日を基にしています。タイ 6月2日 仏誕節 Wisakha Bucha Day バングラデシュ 5月3日 仏誕祭 Buddha Purnima (月齢により変わる) 香港 5月26日 仏誕 The Buddha's Birthday インド 5月4日 釈迦誕生日 Buddha Pournima インドネシア 6月3日 釈迦記念日 Libur Hari Raya Waisak 韓国 5月26日 釈迦誕生日 Budda's Birthday マレーシア 5月3日 釈迦誕生日 Wesak Day スリランカ 5月4日 5月5日 ヴェサック満月祭 Vesak Full Moon Poya Day ヴェサック第二日 Day Following Vesak Full
2007.05.25
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安倍ー岸 信介、麻生ー吉田 茂=つまりは、孫より祖父が犯罪的である。 安倍、麻生の祖父は改憲論者 『祖父の血』(佐高 信) (1)『現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。』 (2)『大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。』 (3)『さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな部分を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。』 この3項目は石原慎太郎の発言ではない。敗戦まもない1949年に、時の首相、吉田茂がGHQ最高司令官のマッカーサー宛てに出した、在日韓国・朝鮮人の母国送還を求める書簡である。『朝日新聞』論説主幹の若宮啓文が『和解とナショナリズム』(朝日新聞社)に書くように「驚くような差別と偏見に満ちた書簡」であり、さすがにGHQも受け入れなかった。 そもそも吉田が朝鮮に対する植民地支配について何の疑問も持っていなかったことを、若宮は次のエピソードで示す。 韓国の駐日大使を経て外相になった金東祚は、日韓条約締結の翌年に吉田と会い、吉田から、「奉天総領事のころ、しばしば朝鮮を訪れたが、朝鮮総督府がいかに善政を施しているか、総督の口からいろいろと話を聞いていた。なのに韓国はなぜこれほど日本を嫌い、反日だ反日だというのか」と言われる。 金は即座に、「アメリカの占領下で苦労した吉田さんとも思えない言葉だ」 と切り返したが、吉田はピンとこない様子だったという。 現外相、麻生太郎の『創氏改名は「朝鮮の人が望んだ」』という発言は、この祖父の血をまっすぐに受け継いでいる。政敵、石橋湛山の公職追放に関わった吉田は、まっとうなリベラルとは言えない。岸信介の孫の安倍晋三も問題だが、つまりは孫より祖父が犯罪的なのである。。 週刊金曜日 ウソ発見誌より
2007.05.23
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http://search.daum.net/cgi-bin/nsp/search.cgi?nil_profile=g&nil_Search=sugtop&sw=tot&q=5.18+%B9%CE%C1%D6%C8%AD+%BF%EE%B5%BF1961年5月16日、 軍事クーデターを通して権力を掌握した朴正煕軍事独裁政権は己の権力を正当化するために経済成長に邁進し、幾たびの民主化運動に対し”反共”を旗印に、何度となくスパイ事件を捏造し、強権弾圧で国内世論を押さえていました。そんな中での低賃金政策は経済成長のための必須条件。維新憲法と緊急措置は民主化運動勢力を圧殺して政権を維持づるための手段でした。それにもかかわらず、民主化運動は耐えることなく、全国的に広がっていました。そして、その力の政権は遂に限界に到逹し、朴正煕軍事独裁政権は 1979年 10月 26日朴正煕大統領自身の腹心である金載圭中央情報部長の銃弾によって幕を閉じました。しかし朴正煕政権の時代から軍部内で自身の勢力を蓄えてきた全斗換を主軸にした新軍部は、民主化過程の過渡期に乗じて自分たちの集権シナリオを準備して、どんどん政権中枢に上り詰めて行きました。12月12日、軍事反乱によって権力を掌握した後,当時噴出していた全国民の民主化熱望を抑えるためには民主化運動勢力と野党の力抑え込むのにあらゆる謀略を練ります。そのターゲットになったのが全羅道=光州だったのです。民主化運動が活発に展開されて来た所で野党の力が最も強く、大衆の絶対的支持を受けていた金大中(キム・デジュン)の政治的故郷がここ、全羅道光州だったのも大きな要因のひとつです。 全羅道光州は1970年代朴正煕軍え事独裁時代から、その”身代わり”りだったとされるぐらいに、政敵である金大中の政治的地盤であるのと、韓国社会の地域対立の象徴的な差別構造から、国内的には徹底的に疏外され、経済では立ち後れていました。しかし全羅道地方は国と民族の将来のために命を賭けて闘って来た民主闘士の故郷でもありました。最新鋭の機甲部隊を投入して無差別殺戮を行った全斗換新軍部勢力の虐殺蛮行に対して一歩も退かないで市民全体が一丸となって抵抗した歴史の事実は精神的側面、社会経済的な側面からみても、ごく当たり前の出来事だったかもしれません。結果として、軍の鎮圧によって5・18民衆抗争は学生、市民の多くの犠牲をもたらしましたが、その後の、韓国における1987年の民主化に大きな影響を与えたのは周知の事実です。ちなみに、当時、政府の転覆を狙ったとして、このデモの首謀者としてでっち上げられ、裁判で死刑宣告を受けた金大中氏は国外退去を引き換えに刑の免除を受け、後日、政権のトップである大統領になったのは「奇跡の大統領」としてあまりのも有名です。そして、その後の良心的な民主運動家や市民運動によって殺戮魔『全斗換一党』を歴史の審判台に立てることでこの5月18日を光州民主化抗争といして、正当性を韓国のみならず、全世界に知らしめた記念すべき日となりました。
2007.05.18
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たった1時間半の距離を走るのに『100年/半』かかった。 京義線で南側列車がトラソン駅を出発し、北に向かう途中、軍事境界線の通門を開けて走る歴史的な瞬間 今日、朝鮮半島の南北を隔ててる38度線の軍事境界線を56年ぶりに鉄路が結ばれました。記念すべき56年ぶりの往来です。日本のニュースでも流れていますが、韓国のニュースでは、『たった1時間半の距離を走るのに100年/半』がかかった、と皮肉って報じてました。しかし一方、年老いた北から越南してきた人々(韓国では失郷民といい全人口の10分の1に相当します。)を思えば、喜んでばかりはいられません。 韓国政府内の支持姿勢に対する甘さに国民の批判もあり、たった1回の試験運行の為に、 8000万ドル相当の軽工業資材物資と米を北朝鮮に援助(上納?)しなければならない.あまりにも大きい試験運行費用だとも思えます。 イムジン河を渡る統一列車 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42722034.html ここまでして北朝鮮を助けなければならないか?助けてもらう北朝鮮は横柄な態度に終始し、援助する側の韓国は回りの事情を察して事の成功だけに奔走する始末。あまりにも荒唐な取引関係だと言えるかも知れません。・・・と思うのは私だけでしょうか? 朝鮮戦争前夜の冬の京義線それでも、朝鮮戦争から56年ぶりに結ばれた鉄路を使って大量の人と物資、文化が行き来する日が来ることを願いつつ、「平和への第一歩」が歩みだした事実を素直に喜ぼうと思います。
2007.05.17
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今日は4.19民主革命=サイルグ)1960年に韓国で起こった李政権打倒の日です。 4.19民主革命(サイルグ)韓国は戦後、朝鮮戦争を経験し、そして建国の父と言われた李承晩政権の、不正、腐敗選挙を国民自らの力で打倒した歴史を持っています。そして常にその先頭には学生がいました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう記載されていました。四月革命とは、1960年4月に起きた民衆デモにより当時第四代韓国大統領の座にあった李承晩が下野した事件。最も大規模なデモが発生した日が4月19日であったことから、4.19革命、4.19(サイルグ)とも言う。目次 [非表示]1 四月革命にまで至る経過 2 1960年の大統領選 3 馬山暴動と4月19日の蜂起 4 註 [編集] 四月革命にまで至る経過1960年3月に行われた大統領選挙の焦点は当時既にかなりの高齢(85歳)であった李承晩の後継問題にあった。1956年の選挙では、与党民主党の大統領候補・申翼煕が遊説中急逝し大統領は与党の李承晩候補が棚ボタ勝利となったものの、副大統領選挙については弔い票などを集め約20万票差で野党・民主党の張勉候補に奪われ、政権内に与野党が共存するねじれ現象がおきた。そのため李承晩は自由党の政権継続を確固たるものとすべく、大統領権限の強化と張勉副大統領への干渉・進歩党事件など民衆運動の弾圧を行い、独裁色を強めた。[編集] 1960年の大統領選1960年3月15日に予定されていた大統領選挙では、李承晩大統領は側近の李起鵬[1]を副大統領候補に擁して選挙戦に臨んだ。一方で野党・民主党も趙炳玉と張勉を正副大統領に擁して選挙戦を戦ったが、大統領選中に趙炳玉が死去[2]、李承晩の4選は半ば確実となった。しかし、副大統領には張が優勢なまま選挙戦が進み、前回大統領選同様に与野党で正副大統領を分け合う事態が再来し兼ねなかった。このため政府・与党は官僚機構や御用組織・暴力団まで動員して全力を尽くし不正選挙を行い、李起鵬を当選させるまでこぎつけた[3]。[編集] 馬山暴動と4月19日の蜂起3月15日の選挙当日、慶尚南道馬山(マサン)で、学生と市民が大統領選の無効を主張して暴動を起こした。この暴動は鎮圧されるものの、4月11日に暴動に参加して行方不明になっていた学生が変死体で発見され[4]、反政府機運が高まった。4月19日に至り全国各地で数十万人もの学生や市民が李承晩退陣を要求して示威行動に出る事態となり、これに対し李政権はソウル・釜山・大邱・光州で戒厳令を布告、デモ隊への発砲で死者183人・負傷者6,259人を出す事態になった。それでも事態は収拾することなく4月24日には李起鵬が当選辞退を表明し事態を乗り切ろうとするものの、翌4月25日に全国27大学の教授400余名が連名で辞職要求のデモ隊に加わり李承晩・李起鵬の自宅を包囲。4月26日には李大統領が辞任を表明、後事を許政首相に託してハワイへと亡命した。李起鵬は一家心中[5]という悲惨な結果となった。この革命の後、許内閣による過渡政権を経て、同年6月15日に議院内閣制を採った第二共和国憲法の成立を見る。
2007.04.19
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日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 日本の堤岩里虐殺隠ぺいを立証する朝鮮軍司令官の日記発見 中央日報1919年3.1独立運動後の4月15日、日本憲兵が京畿道華城(キョンギド・ファソン)堤岩里(ジェアムリ)住民28人を集団虐殺した事件を軍首脳部が徹底的に操作・隠ぺいした事実が、当時韓半島に駐屯した日本軍最高指揮官である朝鮮軍司令官の日記で確認された。 当時司令官だった宇都宮太郎大将(1861-1922)は堤岩里虐殺直後の18日付の日記で、「幹部との会議で(住民が)抵抗したため殺りくしたものとし、(日本軍の)虐殺・放火などは認めないことに決め、夜12時に散会した」と記録したと、朝日新聞が28日報じた。 宇都宮は日記に「堤岩里で日本軍が約30人余の住民を教会に閉じ込めて虐殺・放火した」とし「事実を事実として処分すれば簡単だが、虐殺・放火を自認することになり、帝国(日本)の立場は甚しく不利益になる」と記した。 19日付の日記には、虐殺事件に関与した日本軍中尉に対し「鎮圧方法に適当でない点があり、30日間の重謹慎を命ずることに決心した」と書かれている。 問題の中尉に30日間の謹慎処分が下されたと、同紙は明らかにした。 宇都宮は独立運動が始まると、日本政府の武断統治(軍隊や警察などの武力による強圧統治)を批判し、「朝鮮人の怨嗟動揺は自然」と日記で指摘した。 また3.1運動は「キリスト教徒、民族宗教の天道教徒、学生らが主導し、外国人宣教師が後援して蜂起したもので、根が深い」と評価した。しかし抵抗が次第に激しくなると、宇都宮は「もはや姑息な鎮圧手段では到底効果を上げることはできない」とし、朝鮮総督に軍動員の承認を受けて鎮圧に乗り出したと、同紙は伝えた。 その後、宇都宮は”文化政治”(親日派育成・利用政策)導入を主張し、朝鮮人の民族運動家、宗教指導者らと会い、懐柔作業を繰り広げたことが分かった。 翌年5月には日本陸軍大臣に書簡を送り「今後は朝鮮に日本式の‘府県制’や自治を認める‘自治植民地’を作らなければならない」と提案した事実も明らかになった。 滋賀県立大の姜徳相(カン・ドクサン)名誉教授(朝鮮近・現代史)は「3.1独立運動当時の代表的な流血鎮圧である堤岩里事件の隠ぺい過程と民族運動家に対する日本の懐柔工作記録が明らかになったのは初めて」とし「従来の研究で確認されていない部分を埋める近代史の1級史料だ」と評価した。 宇都宮の日記は孫が保管していたもので、来月以降に岩波書店から刊行される予定だ。 東京=金玄基(キム・ヒョンギ)特派員 luckyman@joongang.co.kr
2007.03.02
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今日は 3・1節=サミルジョル 祖国の独立を願って… 今日 3月1日、韓国では祭日にあたります。3・1節=サミルチョル)は、1919年3月1日、日本の植民地支配に抵抗して、市民たちが韓国独立を願って行った「3・1独立運動」をたたえた祝日です。1949年に祝日に制定され、現在は韓国の4大祝日のひとつにもなっています。★4大祝日:3・1節/制憲節=憲法記念日(7月17日)/光復節=解放記念日(8月15日)/開天節=建国記念日(10月3日) 当時、民衆の間で歌われた歌がります。踏みにじられた民族の哀しい運命を花にたとえ歌とした、「ポンソンファ(鳳仙花)」という歌曲です。日本でも加藤時子が1970年代後半に訳詞で歌ってヒットしたした歌です。怨みや憎しみでない「恨」に染められたその旋律は、聞く人の胸を打つ。この歌は、当時の民心を率直に表しているといえるます。表だって批判できない植民地統治とそれに対する民衆の抵抗を軒の下に咲くホウセンカの花に託した歌で、今も歌い継がれる名曲です。http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/11/14/20051114000011.htmlhttp://tab.search.daum.net/dsa/search?w=musictab&m=track_song_more&q=%BA%C0%BC%B1%C8%AD%20%C0%BD%BE%C7%20%B3%EB%B7%A1%20%B5%E8%B1%E2&page=2&lpp=10&SortType=3 2P目の一番下が歌曲、一番上が歌謡曲です。1P目の笛の音は心の染みます。是非時間があれば聞いてみて、当時の民衆の思いに心を巡らせて見てくだされば幸いです。♪鳳仙花♪♪垣根の下に立つ 鳳仙花よ おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 長く長い夏の日に 美しい花になる時 可愛い 乙女達が おまえを 喜び迎え たわむれたろう いつの間にか 夏は去り 秋風が そよそよと吹き 美しい花房を 無惨にも 冒したから 花は散り 萎れてしまった おまえの姿が みすぼらしく もの哀しい 北風と冷たい風雪に おまえの姿かたちが無くなってしまっても 平和な夢を見る おまえの魂は むかしながらのゆえに 麗らかな春の風に 生まれ変わることを 願ってやまない _________________________________________三・一独立運動とは 1910年、「日韓併合」により、世界地図から「韓国」の文字が消えていった。 それから10年たった1919年3月1日、市民たちは日本の支配に抵抗し、全世界に朝鮮民族の自主独立を宣言し、平和デモを開始した。まず、正午にパゴダ公園(現在のタプコル公園)で独立宣言書が読まれ、一斉にデモが始まっていった。 武器を持たず、人々はただ「大韓民国独立万歳!」と叫んだ。そこにはあらゆる階層の人達がいた。大学生、女子高生、主婦、そして6歳にも満たない少年が父親と一緒に…。密かに作っておいた太極旗をその手に振りかざし、デモは全国に広がっていったのである。一方、独立運動に恐れを抱いた日本は武力行使をもって、すさまじいまでの弾圧を行なっていった。日本軍の弾圧により、多くの人が無差別に殺害された。この運動で命を落とした人数は7509名と記録されている。 参加者 死者 負傷者 朴殷植調べ 203万人 7509人 15961人 朝鮮総督府発表 106万人 553人 1409人 憲兵・警察官 8人 158人 韓国のジャンヌ・ダルク 柳寛順(ユ・グァンスン) 3.1運動は、この人抜きでは語れないというほど象徴的な人物、柳寛順。彼女は3.1運動が始まると在学していた梨花学堂でデモを行い、学校が休校になると故郷の天安(チョナン)に戻り万歳運動を指揮した。この時日本憲兵の発砲により父母が死亡、自身は西大門刑務所に移され、獄死した。17歳の若さだった。1962年に建国勲章を与えられている。 現在でも、3.1運動の発祥地となったタプコル公園では、運動の様子を描いたレリーフ、運動の中心になった人々の銅像や記念碑などを見ることができる。また、柳寛順をはじめとする独立運動家が投獄された西大門刑務所も歴史館として一般公開されている。 【参考資料】三・一独立運動 1919年3月1日を期して始められた朝鮮近代史上最大の反日独立運動。南・北朝鮮では今日でもこの日を記念日として重視している。第1次世界大戦以後、民族運動や革命運動が世界的な高まりを示したが、朝鮮でも独立を達成しようとする動きが一段と活発になった。1918年秋、中国東北部、シベリア方面に移住していた朝鮮人は、ロシアの革命派に協力して日本のシベリア出兵軍と戦っていた。同じころ、アメリカや上海で活動していた安昌浩、呂運亨、金奎植らのグループは、パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し、朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。さらに、朝鮮内では天道教、キリスト教、学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。初め別々に進められていたこれらの運動は、1919年に入ると相互に連絡がつけられた。1月22日に死去した前国王高宗は日本のさしがねで毒殺されたという禾がとびかい、2月8日には在日留学生が東京で独立宣言書を発表するにおよんで、独立運動促進の気運が急速に盛り上がった。最終的な運動方針は2月の末になって決められた。(1)ソウルのパゴダ公園で独立を宣言し、朝鮮全土で独立宣言書を配布すること、(2)日本政府および貴族院・衆議院あてに朝鮮併合は無意味であり即刻独立を認めるべきであるという通告文を送り、アメリカ大統領ウィルソンと講和会議各国委員には朝鮮独立を支援するよう請願書を送ること、がその要点であった。独立宣言書は崔南善が起草し、これに天道教の孫秉熙(そんへいき)、キリスト教の李昇薫、仏教の韓竜雲など計33名の〈民族代表〉が署名した。ひそかに印刷された2万1000枚の独立宣言書が宗教者や学生たちによって全国に運ばれた(各地ではこれを元にした別の宣言書が作成されたこともあった)。こうした大がかりな準備が〈水も漏らさぬ〉と豪語した日本の官憲の眼をぬすんで成功裡に進められた。 3月1日、運動はまずソウル、平壌、大邱、開城などの主要都市で始められた。ソウルではパゴダ公園に集まった学生たちが正午の鐘を合図に行動を開始した。彼らは独立宣言書の朗読を終えると太極旗(大韓帝国時代の国旗)をうちふり〈独立万歳〉を高唱しながら街頭に出た。これはたちまち数万の群衆が参加する大規模なデモとなった。それ以後各地の運動は大衆の集まりやすい市のたつ日に合わせて行われ、3月中ごろからは朝鮮全土が反日独立運動のるつぼと化した。わけても農村部の運動が激しかった。1918年に終了した朝鮮土地調査事業によって、朝鮮の農村は日本人地主や親日的な地主たちが支配するところとなった。また、大戦中に日本の工業の成長を支えるために綿花や桑苗の作付強制がなされ、朝鮮米が大量に持ち出された。農民たちが面事務所(村役場)を襲い、土地台帳や作物の供出簿を焼きすてたのはそのためであった。ところが、日本の支配層はこの運動を徹底的に弾圧した。憲兵・警察のほかに正規軍をも投入した鎮圧作戦によって、水原の堤岩里事件(4月15日29名虐殺、近辺の死者は1000名を越した)、天安事件(4月1日並川市場でデモ隊20名射殺、〈朝鮮のジャンヌ・ダルク〉柳寛順が逮捕され獄死)、定州事件(3月8日デモ隊、市民120名余を無差別殺戮、民族代表李昇薫らの家宅破壊さる)などが相ついで引き起こされた。 この運動は多くの犠牲者を出して終わったが、その影響は大きかった。世界大戦の戦勝国に対する闘いとして、同年のインドの非暴力運動(4月)や中国の五・四運動(5月)の先がけとなり、また、日本の植民地支配者には深刻な打撃を与えた。学校教師が帯剣して授業することや憲兵警察制度は廃止せざるをえなくなった。制限つきではあったが、朝鮮人は集会・結社の自由や言論の自由をかち取った(翌年《東亜日報》《朝鮮日報》などが発刊)。朝鮮総督の長谷川好道は更迭されて斎藤実が第3代総督となった。斎藤は、非妥協的民族主義者を除外して自治派などの妥協的民族主義者をとりこむという朝鮮民族の分断を策して〈文化政治〉を唱えたが、三・一運動を経験した朝鮮人はさまざまな組織を作って頑強にこれと闘った。労働運動、農民、女性、青年などの運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動は、三・一運動をその出発点として本格的に展開されることになった。国外では4月10日、多くの独立運動家たちが集まって、上海で大韓民国臨時政府が組織された。それは亡命政府ではあれ、朝鮮最初の共和政体の登場を意味するものであった。なお、柳宗悦などごく一部の日本知識人は三・一運動の本質を理解したが、多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動とみるなど無理解であった。(馬渕 貞利)平凡社大百科より
2007.03.01
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世界の街角から MYCOMより第3回ソウルでのある会合 =河内孝 2007/2/26= ソウルの街をさっそうと歩く女性達は、訪れる度に美しくなる。もともと日本人よりスタイルが良い。加えてファッションとお化粧には惜しまずに投資する。この数年はそれに、「ブランド志向」が加わった。ただこのところのウオン高、円安でレートは1円70ウオン台。私達は長い間、1円100ウオンに慣れていたから財布が三割がた薄くなった感じだ。これは日本人旅行者にとって有難くない。そのソウルで昨年暮れ面白い会合を持った。「一週間後に中国共産党の幹部が休暇でソウルに行く。ついては是非、韓国野党ハンナラ党の幹部を紹介して欲しい」と言う話が飛び込んできたのだ。「野党の外交責任者」という注文に関心を引かれた。中国も支持率が10%以下に落ち込んだノムヒョン政権の状態を見て、今年暮れの大統領選挙をにらみ政権交代の可能性を感じているのだろう。そのときどのような変化が韓国外交政策に起こるのか、を瀬踏みしたいのだろう、と思った。旧友に頼み、ハンナラ党党首のパククネさん(朴元大統領の令嬢)の側近の一人を紹介してもらった。偶然ながら、我々の会合の二日後、パククネ党首が北京を訪れる予定であることは、ソウルに入ってから知った。お互い都合の良いタイミングだったようで感謝されたのは、面映かった。零下4度に冷え込みキムチチゲが旨くなる一夜、会合の場所は、ぐっとくだけた「全羅道郷土料理屋」を選んだ。毎日新聞が提携している朝鮮日報幹部が良く使うソウル市内の「高級居酒屋」で、上海出身の幹部は焼肉より海鮮料理を好むと思ったからだ。こういう時にいつも思い知らされるのだが、中国人も韓国人も、「個人的な意見」と断りつつも率直に思いもたけをぶちまける。日本人は、えてして、「そちら様のご意見は?」とやってしまう。これでは相手が、「なんだ、お前は自分の考えはないのか」と馬鹿にして自分の言い分を長々と開陳するのを聞かされる羽目となる。同様に、欧米を含めて日本からの賓客に会った外国指導者がいつも漏らす不満の一つは、「役人の書いた作文を長々と読むなら役人と話した方がよい。時間の無駄になる」という点だ。のっけから焼酎をがぶがぶやったこの席では、そんな心配は全くなかった。ハンナラ党の幹部がこう口火を切った。「中国が(北朝鮮が崩壊して)資本主義国と国境を接する事態を避けたいという気持ちは分かる。だから我々が政権を取ったら、仮に金正日体制が崩壊しても共産主義北朝鮮と平和共存する。見通しうる将来まで共産主義北朝鮮の存在を認める」。率直な発言に中国共産党幹部は、驚きを隠せないようだった。しかしこの段階では本音を見せない。「北朝鮮は独立国であり、われわれの友好国である。国の将来について内政干渉するつもりはない」。私は意地悪くこう言った。「私から見れば今の状態は中国にとって決して悪くないのではないか。北を説得できるのは中国だけだ。6カ国協議のお座敷を提供できるのも中国だけだ。"核実験を怒っている"などと伝えられているが本当はまんざらでもないのでは」。これには共産党幹部が本音で反発した。「我々が持っている北への影響力がさほど強くないことを認めるのは、あまり嬉しくはないのだ。状況をもて遊ぶなどとんでもないことだ」。そして興味深いエピソードを紹介してくれた。一昨年、金正日が中国政府の勧めで上海を訪れたとき、北朝鮮側は、「100%の安全保障」を求めたと言うのだ。あまりくどいので、「中国に滞在する限り120%の安全を保証する。しかし我々の領域外のことは責任を持てない」と答えたらやっと来た、と笑った。彼はその先のことは言わなかったが同席した全員が中国の帰途、特別列車が北朝鮮内に入った直後、なぞの大爆発事故があったことを知っていた。彼は、このエピソードを紹介することで何が言いたかったのだろうか。推理(1) 金正日と軍部の関係が必ずしも良くない(あんな火薬量を調達して爆破させられるのは軍しかない)ことを示唆した。推理(2) 中国もいつでも「事故を起こすぐらいのことは出来る」ことを示唆した。本音は見えない。しかし、私はこの話を聞いた瞬間、満州事件の遠因となったとなった日本軍部による列車爆破、張作霖事件を思い出した。彼らは少なくともあの当時と同じような緊張感のなかで様々な駆け引きを続けているのだ。ひるがえって日本。拉致問題の非人道性を訴えるのは当然だ。しかし、これが進まないと核も何も話し合わない、という安倍政権のスタンスは、こうしたしたたかな連中には通じないだろうな、と思った。ちなみに韓国の友人のアドバイスは、「三方一両損」だった。米国は、「ならず者扱い」を控え話し合いに入る(入ったようだ)。韓国は北に過剰な期待を持たせる太陽政策を改める。そして日本は、拉致問題の解決を主張しながらも核問題などについも話しあう姿勢を見せる。これは、今の世論の雰囲気では不可能だろうか。
2007.02.26
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東アジア2000年の歴史地図 日本・韓国・北朝鮮・中国の関係を考える上で、ある程度の歴史の知識があれば、今起こっている問題がわかりやすくなることがあります。 東アジア2000年の歴史地図のソフトがあります。日本・中国・朝鮮半島にどのような国があったのかが一目で判る便利なソフトです。このソフトのおもしろいところは、国の盛衰がアニメで表示されるところです。時代によって国が広くなったり狭くなったりする様子がわかります。 Vectorで無料配布されています。 歴史地図2000 2.0http://www.vector.co.jp/soft/win95/edu/se372457.html たとえば、韓国と中国の間で問題となっている「高句麗問題」がなぜ起こるのかが、このソフトでわかるのでないでしょうか。日本の弥生時代に存在した高句麗は現在の中国・北朝鮮・韓国にまたがる国家であったことが、このソフトでわかります。
2007.02.25
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韓国映画の輸出が急減した。 韓流映画、海外で「寒流」 中央日報 2007/01/19 2005年7599万ドルだった韓国映画の海外輸出規模は昨年2451万ドルで、およそ68%も減った。前年度の3分の1にも達していない。 映画振興委員会(以下映振委)が18日、こうした内容の「2006年韓国映画産業決算」資料を発表した。これによると昨年の韓国映画輸出本数は208作品。2005年の202作品に比べ大きな違いはない。 問題は輸出単価だった。1編当たりの輸出価格が2005年は37万6000ドルだが、昨年は11万7000ドルに落ち込んだ。タイを除いたすべての国で輸出額が減った。特に日本への輸出が82.2%の減少率を記録した。これはこれまで日本で公開された韓国映画が続々興行に失敗しており、ある低度予測されたことだ。 映振委は「韓流スターたちのチケットパワーに対する期待感とこれによる高価輸出、両国取引の慣行の違いから発生する対立、公開規模と上映方法の合理性などがこれまで公に挙論されてきた問題」と指摘している。 一方、国内市場で韓国映画のシェアは上がった。ソウル地域基準で60.3%に達した。映振委が統計を出し始めた1999年以来、最高値だ。韓国映画制作本数も大きく増えた。2006年に作られた韓国映画は計110本。前年より26.4%も増えた。このうち108本が公開された。これら映画の1本当たりの制作費は40.2億ウォン。このうち制作費10億ウォン未満の低予算映画を除いた商業映画(83編)の平均制作費は51.1億ウォンと集計された。2005年の48.8億ウォンより4.7%(2.3億ウォン)増加している。 李后男(イ・フナム)記者
2007.02.24
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英国人から見た韓国 「文化になじむのは苦労したが……」 自己中心主義が少ない生き方 英国人から見た韓国 「文化になじむのは苦労したが……」 こういう光景は、韓国ではよく見かける(写真はイメージ、ロイター) 私が英国にいたころ、地理上で想像できるのは、東はロシアまで。バイカル湖のすぐ手前で止まっていた。中国は物語に出てくる場所で、韓国と言えば地図で見つけられないほどだった。なので、ソウルで暮らすことになるとはまったく思っていなかった。私にとって外国旅行と言えば、イタリアやフランス、スペインに行くことであり、世界の反対側にではなかった。 2005年8月に韓国へ到着したとき、私は観光客の中でも、特に「やる気のない」訪問者の1人だったかもしれない。しかし、私には来なくてはならない理由があった。それは私のパートナーが韓国人だからだ。本当はパリやマドリードに行きたかったが、ボーイフレンドに会わないなんて、考えられないことだったのだ。 当初の予定では1年間の滞在で、それ以上は長くならないはずだった。しかし、ボーイフレンドの故郷が好きになってしまい、もっと長くいたくなった(こういうケースはよくあることだが)。 個人的なもしくは仕事などの理由で外国に住むようになった場合、その文化そのものへの興味、あるいは「旅行したい気持ち」が盛り上がってやってきた場合に比べて、適応がやや難しいのではないだろうか。 私は韓国の歴史や韓国語に興味を持ってソウルにやってきた、若い米国人たちが書いたブログを読んだ。同じ思いを持つことができなかった。その代わり、強いホームシックになってしまった。雨と泥にまみれた、英国の田舎道について考えてばかりいた。 英国にいたころ、私は「韓国の生活に絶対に適応できないよ。韓国での暮らしはあなたには異質すぎる」と言われていた。私もそう思ったが、かつては奇妙で受け入れられないと思ったことが、今では心地よく、なじみあるものに思える。個人主義でプライバシーが重要視される英国と比べて、韓国ではグループとしての幸せがはるかに大きな重要性を持つ。 韓国では、結婚式や葬式、自分の子供たちの誕生パーティーに職場の全同僚を呼ぶことは、ごく当たり前のことだ。韓国の結婚式では、花嫁や花婿の上司が、カップルが誓いを立てる直前、短いスピーチをするのが珍しくはない。英国人からすると、非常に奇妙な習慣に思える。 ランチタイムになると、職場の同僚たちは一緒に昼ごはんを食べる。全員が同じもの食べ、同じものを飲む。仕事が終わったら、グループとしての連帯感を維持するために、週に1~2回、食事や飲みに出掛ける。「韓国では、同僚は友人や隣人のようなものだよ」とボーイフレンドの同僚が教えてくれた。 私はこうした習慣を、かつては奇妙で窒息しそうだと感じたものだ。英国でも同僚同士で付き合いはする。実際、多くの人が工場や会社で結婚相手を見つけたり、友人になったりする。しかし、英国は韓国のような儒教を中心とする国ではないし、仕事仲間を家族に近い存在として扱う考え方はない。 2006年、私がオーマイニュースで働きだしたとき、このような「韓国式」のやり方が、私の心配事だった。幸いにも、思いやりのある上司が米国のスタッフのように家で勤務することを許可してくれ、文化の違いを気にしないで仕事をすることができた。 私は、ボーイフレンドが働く会社に、自分のコンピューターを頻繁に持っていき、そこで働く。これができるのも、同僚に対して韓国人が英国人よりも打ち解けた態度で接するからだ。もし英国で、誰かが韓国人のガールフレンドを職場に連れてきたら、同僚たちはとても変な表情をして、厳しいコメントが出るだろう。私は、ボーイフレンドの職場で、人がどのように意思疎通をするのかを見て、韓国の会社生活の良い面を次第に認識するようになった。 韓国では、職場では誰も「孤独」を感じることはない。1人でいることを感じることはできると思うが、それは決して「孤独」ではない。結婚式や子供の誕生パーティーが開かれるたびに、会社の同僚たちがゲストとして参加し、パーティーはにぎやかで、幸せな場となる。 英国では働く仲間同士が、ときとして互いをよく知らないこともあり、親族を亡くした場合などこれを隠すので、さまざまな感情障害が起きる。韓国では、同僚たちが葬式に参加するので、隠すのは難しい。 私は、同僚たちに対する忠誠心や団結力を高めるために、週に2回飲みに出掛ける必要はないと思う。でも、ボーイフレンドの会社の同僚たちを見ると、これが本当に役立っていることが理解できる。 私は韓国に「閉ざされた心」でやってきた。共同体主義よりも個人主義が優れている、と確信していた。この国は、私がここで説明した以上のたくさんの生き方があることを教えてくれた。グループの幸福に価値を置くことには、大きくプラスに作用すること、自己中心主義を少なくした生き方などを学んだ。 私はもうすぐ30歳。個人の空間やプライバシーを大切にする英国人の考え方や、何を食べるかくらいは自分で決めるが、譲歩もできると思っている。クレア・ジョージ 2007-02-16 (オーマイニュース英語版から〔2月1日掲載〕)
2007.02.20
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新年快楽:恭喜發財!
2007.02.18
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「韓国の東海岸(日本海)江原道(38度線付近)の東江川のヨンウオル(寧月)の風景」 これから、チョッとユニークな風景画像をご紹介しますこれは川面のある湖畔の風景ですが、一年にたった一日だけ、太陽光線のある特定の角度であたった時だけに写る風景ですチョッと首を左側に傾けて見てみてください何か特別なシーンが見えましたか?では更に画像を縦にしてみます...信じがたい不思議な光景...現象です... 転載元: ドバイで商売 -Personal version この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46913344.html
2007.02.16
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慰安婦:米下院聴聞会で韓国人とオランダ人女性が証言へ http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46806610.html 2007/02/09 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 米国下院で今月15日に開催される日本軍従軍慰安婦をめぐる聴聞会に、元従軍慰安婦の白人女性が元従軍慰安婦の韓国人女性二人とともに証人として出席する。米議会で従軍慰安婦の聴聞会が開催されるのは今回が初めてで、これは、最近日系3世のマイク・ホンダ議員が提出した従軍慰安婦関連の決議案に基づく内容の一環という。今回の聴聞会は、下院外交委員会傘下のアジア太平洋小委員会が主催する。 同聴聞会に出席するオランダ人のヤン・ルフ・オヘルネ(85)さんは、太平洋戦争当時インドネシアのジャワ島に住んでいたが、日本軍によって家族とともに従軍慰安婦として連行された。当時19歳だったオヘルネさんは、日本軍からさまざまな恥辱を受け、何度も暴行に遭いながらも生き残り、戦後は慰安婦だったという事実を隠して結婚した。 オヘルネさんが初めて過去について語ったのは、1992年に日本の東京で開かれた国際戦争犯罪聴聞会のときだった。理由は、従軍慰安婦の韓国人女性がテレビを通じて懸命に訴えている姿を見て勇気を得たからだという。 白人女性として初めて従軍慰安婦問題を告発したオヘルネさんはそれ以降、『50年間の沈黙』という本を書いたほか、世界各国で開かれた従軍慰安婦関連の聴聞会や告発行事などを通じて日本の過去の行為を暴露し、反省と謝罪を求めてきた。 今回の聴聞会では、韓国人の元慰安婦イ・ヨンスさん、キム・グンジャさんとともに、決議案を提出したホンダ議員、ワシントン従軍慰安婦対策協議会のソ・オクチャ会長、アジア政策ポイントのミンディ・コトゥラー所長らも証言台に立つ。 米議会には従軍慰安婦関連の決議案がすでに何度も提出されており、昨年は下院常任委で可決されたものの、これを阻止しようとする日本のロビー活動により本会議での採決が霧散していた。 ところが、今回は、従軍慰安婦問題に積極的な民主党のナンシー・ペロシ氏が下院議長を務めるほか、アジア太平洋小委のエニ・ファレオマベング委員長の支持も得ているため、これまでとは違って可決される可能性が高いとの見方が強まっている。 これに対し日本は、同決議案の可決を阻むために元下院議長を交渉役として雇うなど、大々的なロビー活動を展開しているという。ワシントン=許容範(ホ・ヨンボム)特派員
2007.02.12
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合言葉は《ノー!ハプサ/合祀は嫌》 共に進もう!共生のアジアへ 修正 削除 移動 合言葉はノー!ハプサ!共に進もう!共生のアジアへ [AML 11987]より転載2月26日に韓国人遺族が靖国神社に対し、「合祀取消」訴訟を提訴します!=== 提訴行動、報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集いへの参加をお願いします! ===昨年8月15日に靖国神社参拝を強行した小泉前首相は、韓国・中国などアジアからの批判に対して「心の問題だ」と言い放ちました。しかし、戦時中は日本軍人として最前線に動員され命を落としながら、戦後は「外国人」としてすべての援護事業から排除される一方、侵略者と一緒に靖国神社に勝手に合祀されている韓国人遺族の引き裂かれた「心の問題」はどうなるのでしょう。これを無視し、踏みにじることが許されるのでしょう。「合祀したのは靖国神社」「国の靖国神社への情報提供は通常の照会事務」と切り捨てた東京地裁。ドキュメンタリー映画「あんにょん・サヨナラ」の主人公でもある李煕子(イ・ヒジャ)さんをはじめとした在韓軍人軍属裁判原告を中心に遺族らは新たに原告団を作り、靖国神社に対して霊璽簿からの犠牲者の氏名の削除等、合祀の取消を求めて、2月26日に東京地裁に提訴します。靖国神社の合祀問題は日本のゆがんだ戦後処理の象徴であり、日本人自身の問題です。私たちは「ノー!ハプサ」(ハプサは合祀の韓国語読み)を日韓共通の合言葉に、「支援」ではなく、ともに進み、この問題を解決したいと思います。韓国人遺族とともに2月26日の提訴行動を取り組みましょう。そして、報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集いに参加してください。:26日当日のスケジュール1時 東京地方裁判所前集合 デモンストレーション後に提訴4時 記者会見(司法記者クラブ)6時 報告集会&「ノー!ハプサ」結成の集い 豊島区民センター・音楽室 ◆サルプリ ◆提訴報告(弁護団) ◆原告の訴え ◆「ノー!ハプサ」結成宣言 参加費:1000円(学生500円)☆スタッフ募集中です!韓国語翻訳、通訳、イベント企画、 ホームページ作成、宣伝など手伝って!☆裁判提訴のためのカンパをお願いします! 郵便振替口座 00270-3-133157 ノー!ハプサ「ノー!ハプサ」結成準備会連絡先:090-9204-7607(山本) 090-2466-5184(矢野) e-mail:nohapsa@yahoo.co.jp 在韓軍人軍属裁判を支援する会 古川 雅基メール:gun2@r9.dion.ne.jpGUNGUNのHP:http://www.gun-gun.jpあんにょん・サヨナラHP:http://www.annyongsayonara.net/ブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/annyongsayonara/
2007.02.11
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〔日韓で歴史副読本〕 教員ら10年かけ製作、来月出版 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46694693.html 中日新聞2007/02/09【ソウル=福田要】日本と韓国の歴史認識の溝を埋めようと、両国の歴史研究者や教員が10年がかりで製作した高校生向けの副読本が3月1日、日韓で同時出版される。先史から現代までを網羅した交流史を共通の教材とする試みは前例がなく注目を集めそうだ。 出版されるのは「日韓歴史共通教材 日韓交流の歴史」。東京学芸大とソウル市立大の研究者を中心に36人が執筆を分担したが、すべての内容について徹底的に討論して修正を重ね、共通の歴史認識に基づく一つの文章に練り上げた。両論併記も、あえて避けた。 例えば、豊臣秀吉の朝鮮出兵について、韓国側から「責任を秀吉一人に負わせるのは疑問」との指摘が出て、名称は「日本の朝鮮侵略」に。 1910年の日韓併合については、それまでの経過を詳述。合法、非合法の評価は避けた。また、戦前の朝鮮半島での日本人を加害者、侵略者という視点だけで描かず、貴重な建造物の保護を主張した民芸運動の柳宗悦らの活躍も紹介。韓国の歴史教科書で触れる機会が少なかった在日韓国人や市民運動にもページをさいた。一般書籍としても市販される。 企画当初から製作に携わるソウル市立大の鄭在貞(チョン・ジェジョン)教授(55)は「これまでの両国教科書とは違う内容になった。2つの国が事実に基づいて一緒に歴史を語り、書くことができるという実例を、嫌韓論や反日論を唱える人々に示したい」と話している。
2007.02.09
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東京の在日朝鮮人留学生らが起草/3.1運動に影響 独立宣言を起草した留学生と2.8独立宣言書2.8独立宣言とは、1919年2月8日、東京の在日朝鮮人留学生たちによってなされた朝鮮独立宣言のことです。 宣言書には、日本の朝鮮植民地支配の不当性と民族自決の要求が掲げられており、もし日本がこの要求に応じないならば、わが民族は日本に対して永遠の血戦を宣言するという堅い決意が表明されていました。 言論活動に限定されていた留学生運動が直接的な独立運動へと発展した契機は、米大統領ウィルソンの民族自決14ヵ条原則の発表と、これに刺激を受けた在米同胞代表が独立を提訴するためパリ平和会議に派遣されることになったという記事でした。 これに素早く反応した学生たちは19年1月6日、新年雄弁大会の場で、今が独立運動を進める適当な時機であると判断して「朝鮮青年独立団」を結成、独立宣言大会の準備にかかります。独立宣言書を早稲田大学学生だった李光洙が起草し、独立団の委員であった宋継白が宣言書を携えて朝鮮本土に伝え、運動資金を集めてきます。この資金を使って「独立宣言書」と「民族大会召集請願書」が印刷されます。 2月8日午前、独立団の委員たちはこれらの印刷物を国会議員、各大臣、各国大使、公使に郵送します。午後には東京神田のYMCA会館においておよそ400人の男女留学生が集まり、大会が開催されました。開催が宣言され学生たちの演説の後、白寛洙が独立宣言書を感動のあまり声を震わせながら読み上げました。すると参加者は激しい興奮に包まれ、会場には拍手と「大韓独立万歳」の喚声が鳴り響きました。しかしこの大会は、その場を監視していた警官の弾圧にあい、多くの学生が検挙され幕を閉じます。 2・8独立宣言は本国の学生や民衆に大きな刺激を与え、その直後に起こった3・1独立運動に大きな影響を及ぼしました。
2007.02.08
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■韓国フィールド・ワーク(3)~元「慰安婦」の証言を聞いて~ 以下の報告文は、~日本軍「慰安婦」歴史館にて~という記事の続きになります。まずは↓の記事を順にお読みいただければと思います。■韓国フィールド・ワーク(1)~「ナヌムの家」を訪ねて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html ■韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44601992.html <補足事項>この記事では、日本軍「慰安婦」が存在したのは事実か否か、何万人存在したのかといった論争を取り扱うわけではありません。あくまでも、一学生の私が、「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと対話をしたという経験を報告することが目的です。その点をご理解いただければ幸いです。~(2)のつづき~「ナヌムの家」にある日本軍「慰安婦」歴史館を見学したあと、私たちはハルモニの証言を聞くことになりました。※「ナヌムの家」で暮らすハルモニの多くは、絵を描いて暮らしています。なぜなら、彼女たちは学校で教育を受けることができなかったので、(元「慰安婦」の就学率は8%程度)未だにハングルを使えないからです。つまり、絵を描くという行為が、ハルモニたちにとって、大切な告白の手段であるわけです。私たちは、ブン・ピルギさん(81歳)の体験談を聞くことができました。 (歴史研究員の村山一平さんが、通訳&解説をおこなってくれました。)>ブン・プルギさんの略歴故郷は韓国の慶尚道で、15歳のときに強制連行された。1992年から証言活動を始め、ドイツやアメリカ等でも証言をされている。◎ブン・ピルギさんの証言 ※メモ書きのため、箇条書きをお許し下さい。以下は、ブン・ハルモニの証言です。◇釜山に居た私は、15のとき、強制連行されました。釜山から汽車に乗せられ、ソウル、北朝鮮を通って、満州まで連れて行かれました。もちろん、このときは、連れて来られた場所がどこなのかもわからず、このまま故郷に帰ることができないかもしれないと、涙が出てきました。◇吉林省の慰安所では、女性の泣き声が幾たびも聞こえてきました。初めての夜、私は軍人に、どのようにやれば良いのか、方法を聞きました。◇2人の軍人が来れば、2枚というように、相手した分だけの紙が増えていきます。この紙が多い女性は、軍人からの評価が高く、逆に少ないと、叩かれました。※ブンハルモニの話は続いた。落ち着いた様子で、静かな口調で話していた。(でもどことなく悲しげな目だったのが、今でも忘れられない)◇私は、戦争はどうしても防がないといけないと思います。なぜって? 男は戦争によって連れて行かれるし、女も私のように・・・・・。戦争があって無事に済んだ人はいないのです。国がたとえ美化しても・・・。◇日本の学生には、よく深く聞いてほしい。戦争は絶対にしない方が良い。戦争によっていいことはひとつもない。私たちは戦争をしてくれと頼んだわけではなかった。植民地にされていたので、仕方なく戦争に巻き込まれた。戦争のため朝鮮総督府から作物を奪われ、たくさんの苦労をしました。◇慰安所では、軍人に、ペチカ(ストーブ)で熱せられた棒で、わきの下を突かれました。わきの下には今もそのときの火傷の痕が残っています。日本人は残酷なことをした。朝鮮人を滅ぼそうとした。◇慰安所の中には、故郷の知人がいたけれど、何も話せませんでした。知人だったけれども、お互い知らないふりをしていました。話そうとしても、恥ずかしくて話しができなかったのです。◇小泉首相は、私たちを殴って、首相を辞めていきました。日本人の性格は変なのではないかと思いました。私たちをスパイ扱いする日本政府には、ひどいという思いしか残りません。もちろん、あなた方のような一般市民には、ひどいという思いはありませんよ。◇日本政府はなぜ謝らないのですか?しっかり清算すべきだと思います。私たちはまだ解放されていないのですから。安倍首相には、心を広くもった上で、対処してほしいと心から願っています。※ブンハルモニの証言は以上でした。81歳とご高齢だということもあり、あまり長く話せないということです。そして何より、当時の辛く重い過去を思い出し、それを大勢の前で話すことは、相当な気力と体力を要するということでした。こうやって証言するという行為は、まさに身を削ることなんだと痛感しました。◎学生とハルモニとの対話※今回はハルモニと直接対話する機会をいただけました。>学生Q,男の人が怖くて、人を愛せなくなったりしませんか?>ハルモニA,私は、慰安所から逃げ出して、歩いて帰って来ました。今でも、男性が3人くらい集まって話しているだけでも恐怖を覚えます。慰安所のことを思い出すから・・・。慰安所のことは、92年までずっと隠してきました。頭の隅に追いやって・・・。それでも、どんなに忘れようとしても、忘れられないのです。>学生Q,まだ何も言えずに苦しんでいる元「慰安婦」の人たちのことを、どう思いますか?>ハルモニA,言えない人たちはたくさんいると思う。私は、テレビで告白している人を見たとき、少しだけ気が楽になった。けれども日本政府には、早く謝罪してほしい。日本政府は、私たちのことを早く死んでほしいと思っている。心に釘がある。私たちの悲しい気持ちは、いったい、だれがわかってくれるのだろうか。>学生Q、ナヌムの家での生活はどうですか?ナヌム=分かち合いという意味ですが、何を分かち合えましたか?>ハルモニA,生活に関しては、テレビを見たりして、ずっと中にいます。クルマがないと外に出られないし、仕事をしていないので、つまらないです。けれども、学生が来るといつも楽しいです。マッコリなどを飲みたいですね。>学生Q,慰安婦の存在を知らない日本の若者も多いのですが、それに対してどう思われますか?>ハルモニA,歴史をもっと教えた方が良いと思う。けれども政府は教えたがらないと思うけど・・・。>歴史研究員の村山さん→ブン・ハルモニは、92年に証言をして以来、ずっと一人でアパートで暮らしていました。日本軍に有毒な注射を打たれたせいで、子どもを産めない体になっています。アパートで一人暮らしをしているときは、昼に話した証言を、夜になって思い出して、一人で寝れなくなったそうです。そして、夢の中で慰安所のことを思い出して、何度も金縛りにあったそうです。それが原因で体調を崩され、ナヌムの家に来ることになりました。<転載される方へ>転載は基本的に自由です。転載の際は、ひと言コメントいただけると幸いです。こちらの記事は、下の記事の続きとなっておりますので、転載される際は、順番にご注意ください。■韓国フィールド・ワーク(1)~「ナヌムの家」を訪ねて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html ■韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44601992.html
2007.01.29
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韓国フィールド・ワーク(2)~日本軍「慰安婦」歴史館にて~ 以下の報告文は、~「ナヌムの家」を訪ねて~という記事の続きになります。まずは↓の記事をお読みいただければと思います。http://blogs.yahoo.co.jp/olivia_elton_john_denver_70s/44542792.html <補足事項>この記事では、日本軍「慰安婦」が存在したのは事実か否か、何万人存在したのかといった論争を取り扱うわけではありません。あくまでも、一学生の私が、「ナヌムの家」を訪れ、ハルモニたちと対話をしたという経験を報告することが目的です。その点をご理解いただければ幸いです。~(1)のつづき~ビデオを見終わった私たちは、歴史研究員の村上さんの案内で、「ナヌムの家」にある日本軍「慰安婦」歴史館を見学しました。◎日本軍「慰安婦」の存在はどのようにして明らかになったのか?1991年8月14日、金学順(キム・ハクスン)ハルモニが、韓国で初めて、元「慰安婦」であると証言したことにより、慰安婦の存在が明らかになりました。(それまでは、元「慰安婦」たちは、戦後50年近くもの間、性奴隷の事実を、親戚や友人にすら隠して暮らしてきたのです。)これをきっかけに、元「慰安婦」のハルモニたち(といっても一部ですが)は、証言を始めました。そして、水曜デモと呼ばれる集会で、日本政府に謝罪と補償を求めていくことになります。※なお、「ナヌムの家」のハルモニたちの間では、「従軍慰安婦」という呼び名も、「性奴隷」という用語も、決して使用されません。ハルモニたちの多くは、「強制的に連れて行かれた」と証言しています。従軍カメラマンや従軍記者のように、自発的に軍に従ったのではないハルモニたちに対して、「従軍慰安婦」と私たちが呼ぶ行為は、はたして適切なのでしょうか。ハルモニたちの視点に立てば、問題のある行為でしょう。さらに、国連などで使用されている「性奴隷(Sexual Slave)」という用語も、日本軍「慰安婦」の本質をよく表している言葉ではありますが、ハルモニたちからすれば、「奴隷」という言葉は、非常に屈辱的な言葉なので、「ナヌムの家」では使われていないそうです。◎ハルモニたちはどのようにして「慰安婦」にされたのか?※下記は、歴史研究員の村上さんの案内のメモ書きを、文章化したものです。1930年代、日中戦争下の日本軍は、抗日勢力の掃討作戦(三光作戦)を展開します。この作戦では、食糧や物資は現地調達(視点を変えれば略奪行為)され、その結果、日本軍による強姦事件が多発しました。そこで軍部は、(1)強姦事件を防ぐ、(2)反日感情を抑える、(3)性病を防ぐ といった理由から慰安所の建設に乗り出します。(なお、当時の日本では、性売買は合法化されており、慰安婦は日本国内にも多数いました。もちろん日本人の慰安婦も多数存在したわけです。これは当時の日本で、貧しい女性に対する性的搾取が、当然のように行なわれていたということでもあります。)しかしながら、戦線の慰安所には、朝鮮人女性が多く連れて行かれています。それはいったいどうしてなのでしょうか? 朝鮮人女性が多く連行されたのには、以下のような背景があったと分析されています。1,朝鮮は日本の植民地であるため。<男性は労働力、女性は性奴隷としての役割を強いられた。>2,日本軍にとって、戦線の慰安所に日本人慰安婦を派遣することは不都合だから。<国や故郷の女・子どもを守るために戦っている(と思わされている)軍人たちにとって、日本人女性が「慰安婦」として目の前に現われることは、士気や戦争の正当性を弱める行為になってしまうから。>3,日本帝国主義の収奪政策のため、植民地の朝鮮では、生活困窮者が増加したため。<生活困窮者の増加とともに、借金の変わりに若い女性が多く売られるようになった。これにより民間仲介業者の増加をもたらし、「慰安婦」の供給に拍車をかけることになる。>◎慰安婦はどこまで連行されたのか?(日本国内から東ティモールまで)日本軍「慰安婦」歴史館には、大きな地図パネルがあります。そこには、日本軍「慰安所」が存在した地点が印されていました。その分布図には、日本国内、沖縄、台湾、中国(ハルピンから海南島まで)、タイ、ミャンマー、マレーシア、インドネシア、フィリピン、そしてパプア・ニューギニアや東ティモールまで日本軍「慰安所」が存在していたと示されていました。特に、沖縄や中国内陸部には慰安所が集中しています。日本軍の敗走により、慰安婦は現地に置き去りにされたケースも多々あります。さらに軍による慰安所のみならず、企業によって運営された慰安所も存在し、日本軍の文書によると、こうした慰安所は、「軍人倶楽部」「軍人娯楽所」と呼ばれ、さらには「衛生的公衆便所」と呼ばれることもあったそうです。朝鮮人慰安婦は、日本軍の兵士から「鮮ピー」(差別語)と呼ばれ、同じ慰安婦でも、日本人女性とは区別され、さらに過酷な差別を受けたそうです。◎「慰安所」はどのように運営されたのか? 慰安所の運営形態には、軍直営慰安所と軍指定慰安所があります。中でも軍指定慰安所には、軍が作った慰安所のみならず、民間売春施設を指定して経営は民間にまかせ、監督と統制は軍が行なう慰安所もあります。※近年ではよく、日本軍は、軍として慰安所を運営したわけではないし、民間業者が勝手にやったことであるので、日本政府には一切責任はないという論調を見かけますが、その根拠として、軍指定慰安所を取り上げている場合が多いのです。◎「慰安所」での慰安婦女性たちの生活は? それでは実際、慰安婦女性たちにとって「慰安所」での生活はどのようなものだったのでしょうか? そして、軍人たちは、どのように「慰安所」を利用していたのでしょうか?歴史館の中には、「突撃一番」と名付けられたコンドームが展示されています【写真2番目】日本軍兵士はコンドームをサックと呼び、この「突撃一番」と呼ばれるサックが多く使われたそうです。さらに、性病の蔓延に敏感だった軍部は、慰安婦女性に対し、性病検査を頻繁に行い、検査後には「可」「不可」などのように成績を付けた名札を、慰安所の部屋の入り口に貼り付けたそうです。(高官軍人が、できるだけ清潔な女性を選べるようにするための目安として)【写真3番目】のような部屋で、慰安婦女性たちは、一日に多いときは40人から50人の兵士の相手をしたそうです。ハルモニの証言によれば、初潮を迎えていない若い女性などは、ベッドの傍に置いてある たらい に血をふき取って捨てていたそうです。度重なるレイプによって、下半身が動かなくなったり、妊娠をしたことにより、中絶手術を無理やり受けさせられた女性も数多くいたようです。さらに、思うように性行為をできなくなった女性には、刀で指を切られたり、中には殺されてしまった人もいたそうです。金福童(キム・ポクトン)ハルモニは、一日中、兵士の相手をさせられ、足を開いたままで閉じられなくなり、カエルのような姿になっていたと証言しています。このような過酷な状況に置かれた日本軍「慰安婦」は、20代の女性のみならず、ぼくよりも若い、14歳から19歳という10代の少女も多かったのです。■次回は、実際にハルモニと対話をしたときの、聞き取りメモを掲載する予定です。■事実関係については、以下の資料を参考にしました。<参考文献>ナヌムの家歴史館後援会-編 『ナヌムの家歴史館ハンドブック』 柏書房 2002年 URL: http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46321153.html 転載元: ★風の旅人ブログ~息ある限り、希望を抱く~
2007.01.27
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もし、私が嫌韓なら? 今日は在日問題を揶揄する嫌韓の人たちにヒントになればと思います。何かにつけて、「国家」の問題を「在日」の問題として、論理を摩り替えて話すのが一般的な「在日」パッシングのパターンだと思います。それについて、「おかしいんじゃない?」と反論されて久しいと思うんですが、他の方法で攻撃する努力をしてるんでしょうか~。もし私が嫌韓なら「偏った事実の積み重ねを繰り返して、不毛の論争をするよりかは、たまには、実の有る論戦を挑んで見ませんか?この点について、少しは深く、自論を展開するぐらい見識を持って攻撃したらいいんじゃないかな?「「在日論」とか、ありふれた出版物のコピー、嫌韓サイトにある「雛書き」文書を写しただけの質問、攻撃には飽きてしまった。」ってのが、私の思いです。「朝鮮学校の嫌がらせ」を自作自演と書きなぐってた保守の代表と言って、はばからない人は、どんな生き方をしてきて、どんな人物なんでしょうか?自作自演と言う根拠もまゆつばなら、その人物の「人格」が見えないのもどんなもんでしょうか?話を元に。損得、だけで「在日を語ろうとするから、ダメじゃないかな?何処の世界にも「見えるモノ」にしか関心が無い人はいます。在日社会も同じです。金融、パチンコ等々、、、が代表格として言われていますね。そんなの、派手で目立つだけ、政府、マスコミの絶好のターゲットだからだけですよ。全体に占める比率は別として・・・、多いとしましましょう。そんなことは、どうでもいい話ですが・・・。(私に対して、その人たちがお金をくれるんでもなし。)その歴史的背景を語らずして、その現象面だけを見て攻撃してくるのも、どうかと思います。(内容の乏しい本の受け売りだから?それでも、「よくまとまった本だ」と評価する保守の代表と自負する人がいましたっけ?)「在日特権」とか言い出してる背景に、「自分達はこんなに質素に暮らしてるのに、あいつらだけが、贅沢してる」のねたみでしょうね。私は、そんな、「ねたみ」と言う比較概念を持たないから、気にならないんですがね。このに国に住むなら「日本人特権」の方がトータルで考えれば、はるかに有利でしょう?目に見えるモノにしか関心が無い人に私自身、興味がありません。「在日論」を読み、在日に偏見を持つようになったって人は案外、「まじめ」か「世間知らず」な人なんでしょうね。私は色眼鏡でしか社会を見ないから、本を参考にはしますが、それによって人に対して偏見を持ったりはしません。もし叶うなら、そんな人は「在日論」等で書かれてる、損得、利害から離れて、一時でいいから、自分が「在日」だったら?と考えて見ればどうでしょうか。在日に対する新たな攻撃方法が見出せるかもしれませんよ。「在日」、と言うより、人には損得だけではない、理屈抜きで守らねばならない、変えたくない「何か」ってあるはずです。そのために、帰化出来ても、しないで、「在日」で居続ける人が、圧倒的に多いのが根本にある事実を認識すべきでしょう。これだけ多くの在日が60年以上も外国籍で住み続ける理由は「在日特権」があるからじゃないんです。もう一度、しっかりと焦点を見定めて攻撃してください。それを判らずして、理解できずに、「事実の積み重ね」と言って、ごく一部分の利害受けた人を、あたかも在日社会全体であるかの様に述べて書かれた、「在日論」等の本を必死で読んで「在日=悪」の図式を作り上げて攻撃して見ても、何の意味もありません。(何度も繰り返しますが)、今の在日パッシングは、「一部の利権や損得だけで走り回る人には効果があるかもし知れませんが(こんな人は又、こんな何のお金にもならないブログなんか覗きません。)、絶対多数の真面目に暮らす「在日」には何の意味もありません。私が嫌韓なら「もっと効果のある」攻撃をしますね~。在日の人にも、納得させられる、そんな戒めをしてあげたら。と願っています。
2007.01.23
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■韓国フィールド・ワーク(1)~「ナヌムの家」を訪れて~ ◎日本軍慰安婦問題に関するフィールド・ワーク私は06年10月25日から28日にかけて、韓国のソウルに日本軍慰安婦問題についてのフィールド・ワークに出かけました。きっかけは大学の社会学とジェンダー論の講義でした。講義担当の先生が、日本軍慰安婦問題について研究されており、今回はフィールド・ワークに他大学の学生と同行させていただきました。◎今回の報告文を掲載するに当たってYahoo!ブログでお世話になっている、まったけ様や、ファピー様には、以前から報告文を書きますと伝えていたのですが、今の今まで、なかなか決心が着きませんでした。韓国でのフィールド・ワークは「衝撃と反省の連続」で、未熟な私には、受け入れるまでに時間がかかったからです。そしてこれは、自分自身の弱さへの反省でもあるのですが、こうしたブログへ掲載することへの「恐れ」や「怖さ」がありました。正直に申しまして、自分自身の心のどこかにも、日本軍慰安婦問題という重い現実から目を逸らしたいという「臭いものには蓋」的な姿勢があったと反省しています。また、どうして私自身に、日本軍慰安婦問題を他者に伝えることに対して、このような「恐」や逃げの姿勢が無意識のうちに生まれたのか。についてですが、それはやはり、現在のネット言論にみる極論の蔓延りや「祭り」の実態、そして一部ユーザーによる中傷や誹謗といった行為を、幼かった中学生以来、幾度となく目の当たりにしてきたからだと思います。自己完成され、強い信念を持って活動されている大人と違い、未熟な思春期の私は、知らず知らずのうちにそのような「恐怖」に、囚われていたのかもしれないと感じています。けれども、二十歳になった今、社会に関わっていくひとりの人間として、これ以上、自己弁護をして、逃げ続けて良いのだろうか。そしてstarさんのブログに書かれてある、ひと言メッセージ(「平和の対極にあるのは戦争ではない。無関心である。」)を見る度に、自分がこのまま見てみぬふりを続けることは、平和を目指す人間として、あるまじき行為ではないのだろうか。と罪悪感を感じるようになりました。以下に掲載する日本軍慰安婦のフィールド・ワーク記事は、政治的イデオロギーや思想に関わりなく、性暴力の犠牲となったハルモニ(ハングルで「おばあさん」という意)たちと直接対話した一学生として、そして自己反省の下で書いた報告文です。日本軍慰安婦問題について、様々な立場の意見や相違があるという事実は、基本的に私は認識しています。ですから、報告文を書くにあたってそれに関しての私の主義や偏見といったものは、極力排除するように努めました。ソウル郊外のナムヌの家で、ハルモニと出会い、対話をした、という経験談を報告するまでです。◎「ナヌムの家」を訪ねてソウルからバスで1時間弱、京畿道広州市。まわりは小高い山に囲まれ、畑や田んぼ、そして犬の鳴き声が聞こえる昭和の日本の原風景を思い出させる、そんな静かな場所に「ナヌムの家」はあった。※「ナヌムの家」という名前を始めて聞いた方もいらっしゃると思います。「ナヌムの家」とは、元「従軍慰安婦」として名乗り出た女性たちが共同生活を営んでいる場所です。敷地内には98年に、世界ではじめての軍「慰安婦」の歴史を検証し、記憶するミュージアムである『日本軍「慰安婦」歴史館』がオープンしました。詳細については下記のWebサイトをご覧下さい。 http://www.nanum.org/jap/「ナヌムの家」に着いた私たちは、歴史館研究員の村山さんの案内を受けました。(ちなみに村山さんは吉見義明氏の知り合いで、東ティモールでの性暴力に関する研究もされている方です。)村山さんはまず、「ナヌム」の意味は、分かち合いだということをお話され、「ナヌムの家」歴史館を創設するに至った経緯を説明して下さいました。それによると、95年のいわゆる歴史教科書問題を発端に、日本と韓国の市民団体、そしてハルモニたちから、歴史館を作る機運が高まり、広州市の助成金を受けて、歴史館の開設に至ったこと。またかつては、230人いたハルモニも(告白した方のみ)、現在では120人足らずになっており、言わずに亡くなった被害者は、はるかにもっといるだろう、ということでした。続いて私たちは、カン徳景(カン・ドクキュン)ハルモニの生涯を描いたビデオを見ました。カン徳景(カン・ドクキュン)ハルモニは、1997年に68歳で亡くなられた元「慰安婦」。戦時中は、日本の富山県で、強制労働に従事させられ、日本軍の慰安場では、何度も強姦に遭ったそうです。戦後は、絵などを描く一方で、証言活動を多くされたハルモニです。ビデオでは、在韓日本大使館の前で、カン・ドクキュンハルモニが、ジョーン・バエズ(アメリカのフォーク歌手)の「勝利を我等に」という歌を歌っているシーンが、未だに印象に残って忘れられませんでした。(つづく)■次回は、近日中に、歴史館の展示から学んだ、慰安婦の生活や実態、そして性売買の合法化についての報告文を掲載します。さらにその次は、実際にハルモニと対話をしたので、その聞き取りメモ書きを掲載する予定です。■事実関係については、以下の資料を参考にしました。<参考文献>ナヌムの家歴史館後援会-編 『ナヌムの家歴史館ハンドブック』 柏書房 2002年 転載元: ★風の旅人Blog~四国の「みち」から世界が変わる~ http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/46275439.html
2007.01.20
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2、(韓国人留学生の投稿より)・・ こんな見方も・・・ (出来る限り直訳)私の留学生活も、いつのまにか 5年の歳月が経ちました。こんな私も、この日本の社会に慣れてしまったのかも知れません。イラクで自分の子供が、テロ犯に捕まって首を切られて惨殺死体で亡くなったにも拘らず、その被害者の親はテレビで記者を前にして「国民皆さんに自分の息子の勝手な行動につきまして、ご心配をおかけして申し訳ありません。」という決まりきったコメントを一言一句間違うことなく、繰り返しインタビューに応じる姿を見て、初めのうちは「本当に、この日本と言う国は分かる様で、判らない国だな。」と、どうにもその行動方式や感情表現のパターンが私たちとは違う部分が多いという違和感を感じていた私ですが、いつのまにか月日が経つにつれて慣れるようになってしまった。(率直言って、先ほどの事件の顛末については、ちょっと恐ろしいという気がしますが)帰国した時、仁川国際空港の空港リムジンバスの職員のおじさんたちの横柄な態度、「こんな軽い荷物は手に持って乗ってください。」と私に大声で差指する姿(笑。 そんな光景に「アー、やっと韓国に帰ったんだ。」と思ったもんです。私を乗せたタクシーの運転手が、渋滞した車と、割り込もうとする車に切れて、「この野○何だ!チクショー」と言いながら独り大声で悪口を言う、その感情を顕にする顔、顔、顔、、私にとっては、親切だけど、お客さんを乗せてニコリともせず、黙黙と運転する日本のタクシー運転手のおじさんたちより、荒っぽいけど、何でも話せて感情を顕にする韓国の運転手が面白く思えます。そうです.. やっぱりこの国で長い間暮して来た私達だけが分かる、その荒々しい私たちの姿の中で見えてくる姿が、むしろ正直な互いの感情表現、そしてそこで見えてくる、お互いの粘っこい情の数々。こんな私たちの文化の長所は・・・。しかし短い期間しか滞在しない旅行だけでは、この国を訪れる外国人には誤解を招くこともあるのは事実です。日常生活の中で、「ありがとう」と、言う表現をしないない私たちの姿は、(全て心で伝わる事で韓国人特有のテレパシーでお互いの感情を交流しあってきたからでしょうか?)外国人から見れば、私たちは、よほど無骨で無愛想な人々と言う印象を持ってるのかもしれませんね?しかし本当に直さなくちゃいけないと思うことは(この事は”情”だと言う様な弁解の余地が無い。.)韓国の郵便局員の不親切だろう。オフィスレディーたちの気の強さや、客の多さで、仕事がこなせず、ストレスがたまって怒りっぽくなるのも私は理解しています。韓国で暮らしてた頃は、私も客として、そんな事ぐらいで気を悪くしたことはありません。しかし、日本で暮らして、久し振り帰国して、韓国の郵便局に行けば、「こんな私でさえも、腹が立ったり、かっかしたりします。こういう時は「客が多いから腹が立つ」と言うよりかは、とか間に.. 日本式の”虚礼”が必要ではないでしょうか? 上辺だけでも、でお客さん前で”笑み”を見せて”虚礼”でお客さんに対して親切にすることが・・・
2007.01.18
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【コラム】女たちの韓日関係 朝鮮日報 2006/10/23 今夏(2006年)、韓国で水害が起きた時、ソウル本社から記事を書くよう指示を受けた。「韓国はちょっとたくさん雨が降るとすぐに水害が起きるが、日本ではどうなのか記事にしろ」ということだった。東京にいる韓国メディアの特派員たちは「日本はうまくやっているのに、韓国はどうなんだ?」というパターンに慣れている。1960年代に韓国メディアの特派員たちが初めて東京へ来た時から、こうした記事を書いてきたそうだ。 原稿用紙10枚程度の記事を送った。ところが翌日の新聞に記事がない。「注文しておいて、こんなことがあるのか」と、内心うら悲しかったが、その日の午後に胸をなでおろした。日本にも大雨が降り水害が起きた。記者生活15年にして、苦労して書いた記事がボツになったのを喜んだのは、非常に珍しいケースだ。 反対のケースもある。歴史・領土問題が起きた時だ。罵り言葉こそ使わないものの、「野望」「侵略」「忘却」「妄言」など頭の中にある強い表現を総動員して記事を書く。このように激しい表現が飛び交うのを記者たちも好んではいないが、自らそれを合理化したところで「国民感情」には逆らえない。だから日本は、ある時には「師」のように、またある時には「悪党」のように描かれる。もちろん、その中には反感や競争心理のような、日本に対するとても複雑な韓国の感情が渦巻いている。 韓国の政権はこの感情を「外交カード」として度々利用する。国民の反発を武器に、日本に圧力を加えるのだ。昨年の靖国神社参拝騒動の際もそうだった。韓日首脳会談を中止したのだから、並みの強さの圧力ではない。しかし振り返ってみるとその間、実際には韓日関係にまったく違った世界が開かれていたことに気づく。 首脳会談を中止した前半(2006年)に日本を訪問した韓国人は100万人を越えた。急増の勢いを見せている。反日感情があったというが、昨年前半も2004年に比べ増えていた。よく見てみると、韓国の「日本ラッシュ」は女性が主導していることが分かる。一昨年にピークを迎えた日本女性の「韓流ブーム現象」が、逆に韓国で起きているのではと思うほどの急増ぶりだ。 12月から始まる「年末バーゲンセー ル」を前に、今、東京のブランドショップ各店は韓国からのショッピング客に期待をかけているという。30万ウォン(約3万7000円)の格安ツアーで真夜中に東京に到着し、100万ウォン(約12万4000円)分のブランド品を買いあさる。ソウルに戻る韓国のショッピング客の情熱は、日本の「韓流オバサマ」顔負けだ。これまで彼女たちにとって起きた変化といえば首脳会談の中止ではなく、100円=1000ウォン台だった円・ウォンレートが700ウォン台へとウォン高になったことだけだ。 日本の外交関係筋は「韓国政府の靖国カードは失敗した」と見ている。このカードが民間交流に悪影響を及ぼした中国と違い、韓国は政府と国民が別々の行動を取ったからだ。このため日本政府が中国との外交関係修復のほうに力を注いだのは逆説的だ。では、戦列を乱した韓国女性に問題があるのだろうか? 「歴史問題の渦中にショッピングをした」と後ろ指を差されなければならないのだろうか? とんでもない。韓日関係は歴史ではなく現実、政治ではなく経済の面で、より早く進歩しているという事実を証明しているだけに過ぎない。韓国の「ショッピングおばさま」も、日本の「韓流オバサマ」も同じだ。女性の韓日関係だ。今や韓国は、日本に対し一喜一憂する時期でも、中国式の歴史カード外交を真似する時期でもない。それだから交流の方向はとても多様化し、民間レベルの韓日関係も非常に成熟している。 東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
2007.01.16
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日本では今年はイノシシの年ですが、韓国では豚年と言います。今年は特に黄金の豚の年と言い、50回に1度廻ってくる年です。600年ぶりに廻って来た嬉しい年なんですよ~*^。^*古くから神聖な動物の象徴として豚は、災いの無い平和と健康 そして財物を象徴する動物です。神話では神通力を持った動物、祭儀の犠牲とし捧げる吉祥で財産を興す。福の根源、家の財神を象徴する.我が国(韓国)は昔から家々ごとに豚を必ずといってもよいほどに豚を飼っていたし、豚の夢を見れば運のすばらしい夢を見たと喜んだ商売する人々は店に豚が子豚数匹に乳をあげる写真をかけて置き商売繁盛を願いった。新年初豚の日[上亥日]にお店の門を開ければ(新年始めの商売)一年の間商売がうまく行くという言い伝えもある。このように人々は昔から豚を富と福の象徴であり、豚が現れる夢を財産と幸運の象徴と思ってきた多くの人々が、豚との関わりが何かと開運と財運がついてくると信じているのは、この為なのである。追伸:今年(黄金の豚の年)に生まれる子は一生お金に困らない運の持ち主になるとか・・・・ 韓国ではベビーブームになりそうですよぉ。 転載元: 韓国大邱にて...
2007.01.12
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差別とハンセン病 ハンセン病と朝鮮と言う二重の差別 朝鮮半島のハンセン病医院、ソロッド(小鹿島)病院1910年、日本による植民地から6年後、 朝鮮半島で一番古く、そして今も韓国一の規模を誇る国立ハンセン病々院、ソロッド(小鹿島)が全羅南道のコソン郡にある。8年前、韓国の衛星放送から、韓国の五木ひろし「ナフンナ(羅勲児)のソロッド・コンサート」が番組で放映されていた。何気なく、見てた私、その数分後に、自分の無能さに頭をハンマーで叩かれた思いがした。1、韓国の演歌を”トロット”と言います。私はこの”トロット”と、ハンセン病施設がある島の”ソロット”を知らずに、錯覚していた。2、韓国のトップスターが”慰問”コンサートをこうして大々的に毎年、してる事すら知らなかった。3、韓国のハンセン病の歴史や実態を何一つ、知らなかったし、それどころか知ろうとしていなかった。この事実にも、日本との歴史的な繋がりがあります。詳細については語れませんが、一応、概略だけでも書いて見ます。 1916年、日本人が小鹿島を尋ねて来て今収容所一帯の家屋と土地を買収する話を住民たちに切り出す。しかし先祖代々伝われた土地を住民が素直に出すわけはずがなく、交渉は暗礁に乗り上げてしまう。両方は身振りと筆談などで数日妥協を試みたがお互いは少しも譲歩をなかったまま数日が流れる。結局には日本側の、ありとあらゆる懐柔と説得、そして強制手段によって一部住民たちが家屋と土地を手放して土地を去るようになる。こうして、小鹿島慈恵医院は 、1916年 2月 24日付け朝鮮総督府令第7号によって設立され、同年 7月 10日付けで有川院長を初代院長に任命する事で今日の小鹿島の歴史が始まる。 院生たちの労働と受難 面会の境界線 有川院長は赴任後、直ちに仮建物に慈恵医院と言う看板をかけてすでに朝鮮総督府で作られた設計図によって建築工事を進めてゆく。治療院、職員官舎、事務本館、礼拝堂、兵舎、風呂場、炊事場などを竣工させて、1917年 5月 17日には開院式を行ない、この日から今日まで約90年に及ぶ小鹿島のハンセン氏病患者の苦難の歴史が始まる。すべての生活様式を日本式で強要する初代、花井院長初代院長の有川は各地域で召集されて来た患者たちを男女に分けそれぞれ収容、問題は、日常のずべての生活様式を日本式に強要した事だ。着て来た韓服を皆、脱がせて日本の着物に着替えさせ、食器やおかずまで日本食に変えてしまいます。韓国の食事をしてた人間が、ある日を境に、突然、ご飯と沢庵のみの食事を強要されたのだ。有川院長の方針は規制と原則。夕方 8時になると通行止めで隣りの房にも行くことができず、就寝前には必ず、入院点呼が実施され、毎月暗誦しなければならない 27項目の心得の第 1項には「この医院は天皇陛下の大きなお心による寄付により設立しされ、治療費はもちろん衣食住に至るまで、その他一切、日本国政府によって支給される。入院患者はいつも、この恩を忘れてはならない」を繰り返し繰り返し暗誦させらる。あまりにも厳格な統制に耐えてかねた患者たちがちょっと目こぼしをして欲しいと再三建議したが院長は一蹴してしまって、個人の自由すら与えない規則生活を強要した。在任 5年 11ヶ月続いた有川氏の後を引き継いだのが 1921年 6月 23日付けで第2代院長に赴任した花井 善吉氏だ。.日本式様式を変える二代目、花井院長しかし,6000人の入所者と200人の職員の信望を得て、人権の人、韓国ハンセン病のシュバイツアと言われた、花井院長は在任10年で殉職という無念の死を遂げる。彼の彰徳碑(顕彰碑)が、今も慈恵医院のそばに建てられている。花井院長の人徳と威徳を後世まで称えようというものだ。花井院長の在任第一声は「今までの、日本式生活様式を廃止する!」だった。この言葉に院生たちは歓喜した。花井院長は患者たちに対して、両親の様に対して少しでも患者たちの生活環境を良くしようと全国を奔走した。「患者に少しでも多く食べさせ、着飾っってもらい、親切に接すれば、彼らは優しい羊になる。万が一にでも院生に対して凶暴な対応をしたり、殴るものがいれば、理由のいかんを問わず罷兔措置をとる」と断言した。部下の職員に対しては、このように厳格に訓戒して職員と患者間の融和に最善をつくした。たと些細な事にも情熱を注ぎ、数多くのエピソードの積み重ねで患者たちの信頼と愛を勝ち取った。公務でソウルを行って帰るときには、必ず飴を束で買って来て「私は何時も食べてるから、君逹が気になって、これをれを買って来たから、父さんの贈り物と思い、皆で美味しく分けて食べなさい」と分け与えてくれたと、院生達が感激の涙を流したりしたと伝えれれている。ある日、天皇から菊のご紋の入ったお菓子を下賜を受け、一人で食べることができないと知るや、それを粉に戻して大きいお菓子を作って多くの患者に、すべて等しく分けたといわれています。花井の制度改善の一部を取り上げて見てみよう。実家との通信を自由に許可する(それまでは、一切の音信を許されなかった)家族との面会を自由に許容(感染と外部への流言の遮断を口実に院外者との一切の面会を禁止されていた)治療中でも用事があれば本家訪問許容(院外はおろか、入所すれば、一生、家族とは今生の別れとされていた)すべての患者各種信仰の自由(院生はキリスト信教しか許されなかった)90年に及ぶ、朝鮮半島のハンセン病医院の歴史や背景を安易に語る気は無い、ここで日本のハンセン病と同じ施策が朝鮮半島でも行われた事実と、その背景に、日本による植民地政策が二重に重なった事を上辺だけですが知ってもらえればと思っています。しかし、その中で、韓国のハンセン病のシュバイツアと言われ、尊敬され、献身的な治療の中、過労で殉死した日本人、花井院長の存在を知ってもらえれば思います。小鹿島病院生活資料館 http://www.eonet.ne.jp/~yokati/siryoukan/sorokuto%20siryousitu.htm小鹿島病院公式HP(韓国語)http://www.sorokdo.go.kr/「朝鮮ハンセン病史 日本植民地下の小鹿島」滝尾英二著 未来社(日本)
2007.01.09
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まったけ日記196ー韓国歴史教科書ってホンマかい?(1)ーの続編です。この記事にある地図はトラックバック先である「韓国を紹介するブログ」で発見したものである。このブログの著者は、韓国の国定歴史教科書に記載されているものと紹介していた。A氏(韓国・ソウルの大学で韓国政治を研究する傍ら日本語講師) この地図は、どっかの「捏ズン」がつくったんちゃうかなあ? 『これが本当の三国時代』っちゅうタイトル自体、怪しすぎるよ。要は、この色のついてる所全部が、わが民族のものとか狂ったことを言うとる連中がおるわけやね。 ノ・ムヒョンなら、本気で信じるかもしれんけどな(笑)。まあ、壇君が本当にいたことになっとるぐらいやからね。韓国では。 神話でも何でも、自分の都合よく解釈するのはよくあることやね。 日本の右翼なんかまだまだ歴史捏造では韓国のレベルには程遠いんとちゃう。もちろん、いまのところ北に比べたら南はまだまだやけど…。http://enjoyjapan.naver.com/tbbs/read.php?board_id=pmilitary&nid=18809 これが大元かなあ?韓日翻訳掲示板やけどな。 反応としては、なにしょうもないこと言うとんねん!っちゅうのが多いな。結構、ネタとしてあげた可能性はありそうやね。あるいは、元のサイトがすでに閉鎖されたっちゅう可能性もあるけどな。 ちなみに…、http://boom.naver.com/SubSectionMain.nhn?iFrame=BoardRead&categoryId=1&articleNum=20061218134903013http://boom.naver.com/SubSectionMain.nhn?iFrame=BoardRead&categoryId=1&articleNum=20060920164406893 ここでも地図を紹介しとるね。「ばかうけユーモア」としてやけどね。 ところが問題なのは、こいつは本気で言うとるね。確信犯やね。他にも狂ったことをよくもまあ書いとるらしい。いちいち読んではおらんけどね。高句麗は古代大陸の支配者だったとか本気で信じとるみたいやね。http://blog.daum.net/link59/10373087http://blog.naver.com/kbbc11?Redirect=Log&logNo=100021730675 中には、こんなもんを取り上げて、アメリカ人も高句麗が古代大陸の支配者だったと認めたとか言うとる輩もおるけどな、この地図の出所ってシュミレーションゲームの付録やぞ。話にならん。 ちなみに、韓国の問題は、こういう連中がネット右翼ではなくネット左翼やっちゅうことやね。韓国の右翼は、ここまではアホちゃうよ。韓国で最近民族主義をあおっとるのは左翼やからね。韓国では民族主義そのものに対する批判勢力は極端に弱いしな。そこが日本よりはるかに病理の根が深いわけやね。 韓国の進歩勢力も日本の右翼も、ベクトルの方向が違うだけで基本的にはにたもの同士やからね。それをきちんと理解した上で、双方に対して同じように批判していかないとな。B氏日本海沿岸諸国間の貿易促進の研究家。主に国連開発計画の図們江開発計画(中国・北朝鮮・ロシア)を研究 この地図についても、捏造であることも直感で感じていました。 落合信彦や矢追純一レベルの『とんでも本』と思っていました。まあ、韓国のリヴィジョニストが私的に作った出鱈目な地図を日本人のリヴィジョニスト(ネット右翼)が「スクープ!」と、取り上げると言うような(笑)。 例えば、ナチス=ドイツの残党が南極大陸でUFOを製造していると主張するカナダのネオ=ナチである「エルンスト=ツィンデル」が書いたパンフレットを基に、落合信彦が『20世紀最後の真実』を書いたのとよく似ています。(西岡昌紀のホロコースト捏造説も多分、そうだろうと思う。) 但し、好意的に解釈して古代朝鮮半島の各勢力が日本・中国・台湾の外交関係を記すものかとの疑念もありました。まあ、日本の世界史歴史地図帳で戦後の東西ドイツの連合国占領地域が米・英・仏・ソの本土と同じカラーで示されたようなものです。 しかし、仮に教材としても台湾、海南島や日本列島の地形が滅茶苦茶です。また、日本の都市名も「三国時代」或は「現代」にも則っていないでしょう。(例えば、奈良がない!)こんな稚拙な地図を教科書に掲載するとはおもえないでしょ? ただ、仮にこの地図が韓国のネット=ナショナリストが作成したものとして、日本人がブログに掲載して、多くの日本人が驚いているようですね。 韓国のネット=ナショナリストが作成したものを、日本人のネット右翼が利用したというところでしょうか(笑)。 しかし、噂には聞いていましたが、ネット右翼いうものは馬鹿馬鹿しいね。 君もこんな馬鹿なブログを相手にするより、本来の研究にエネルギーを費やしたほうがいいのじゃないのかい。まさか、第2の大槻義彦教授になるつもりか(笑)。前編・まったけ日記196ー韓国歴史教科書ってホンマかい?(1)ーhttp://blogs.yahoo.co.jp/f4_ttm/26375994.htmlシュミレーション・ゲームソフトの付録である地図を韓国国定歴史教科書の歴史地図と「捏造」することはレベルが低いf^_^アナタの「オチアイ」指数は?☆元ネタ☆『がんば韓国を行く』「日本の歴史認識は間違っている!!(2006/9/18(月) 午前 11:47 )」 http://blogs.yahoo.co.jp/cyappi55/19828058.html 京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html
2007.01.04
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この記事にある地図はトラックバック先である「韓国を紹介するブログ」で発見したものである。このブログの著者は、韓国の教科書に記載されているものと紹介していた。 僕は、明石書店から邦訳・出版されている韓国国定歴史教科書は必ず読み、韓国人の友人から国定歴史教科書を見せてもらったこともある。 しかし、このような地図や資料は全くみたことがない。 そこで、現在、韓国・ソウルの大学で日本語講師をしながら韓国政治を研究している人物(A)及び韓国語のマスターはしていないものの、対日本海沿岸諸国外交をテーマとする研究者(B)に意見照会してした。 しかし、二人とも多忙な為、数カ月後の今日に至り、ようやく意見が出揃った。A氏(韓国・ソウルの大学で韓国政治を研究する傍ら日本語講師) これは明らかに韓国の教科書ちゃうね。北朝鮮の教科書ちゃうかなあ? 北朝鮮では、1998年から世界四大文明に加えて「大同江文明」も学校で教えるようになったらしいな。上の画像の地図1番を見ると、丸が5つあるやろ。一番右がそれやね。 それから地図3番は、ピョンヤンが半島の中心になってるわけやね。民族の歴史はピョンヤンから始まり、正統性は北にあるっちゅうこっちゃ。すべての歴史は政治で決まるからなあ。 ちなみに北の歴史では、統一新羅は外部勢力(唐)をバックにして、同族の国を滅亡させた反民族的行為っちゅうことになっとるそうで。唐=アメリカ、新羅=韓国っちゅうことを言いたいらしいね。B氏日本海沿岸諸国間の貿易促進の研究家。主に国連開発計画の図們江開発計画(中国・北朝鮮・ロシア)を研究 この図は本当に歴史教科書であるならば、おそらく北朝鮮のものという可能性が高いと思います。しかし、残念ながら日本では北朝鮮の歴史教科書は「革命歴史」しか邦訳されていません。 その邦訳本を読む限りにおいて、全くといっていいほど、正確な資料となる図又は写真を使用していないので、北朝鮮の歴史教科書と断言できません。 現代考古学においては『四大文明』が否定されて、その時代には朝鮮半島及び日本も含めて少なくとも20乃至30以上の文明が存在していたというのが常識です。 しかし、『四大文明』に固執する北朝鮮(或は、可能性は低いが韓国の「とんでも本」)が『四大文明』との比較史として「大同江文明」の関係を示すものかと思われます。 (まったけ註)B氏は考古学を趣味とする。明日に続きます。☆元ネタ☆『がんば韓国を行く』「日本の歴史認識は間違っている!!http://blogs.yahoo.co.jp/cyappi55/19828058.html 今日の独り言なお、A氏は埼玉県出身で、B氏は京都府出身である。文章がテレコやんか~! 京都亀岡国際秘宝館・本館 http://www.geocities.jp/f4_ttm/index.html 転載元: 『京都亀岡国際秘宝館』館長のまったけ日記
2007.01.03
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皆さん、来年が良い年でありますようにお祈りしています! 年末になって風邪でテンションが下がってしまいました。本格的にブログを始めて5.5ヶ月がたちました。半年も?と思うべきなのか、たった半年、と思うべきなんでしょうか。気軽に始めたブログが自分の日々の生活の中に、これほど大きなウエートを占めるインパクトのある出来事になろうとは思っても見ませんでした。十数年ぶりにnetで出合った人たちとオフで出会ったり、直接、会ったりして、多くの事を学びました。何気なくスタートしたブログでしたが、自分の根本にある"人間、在日”という部分で、喜怒哀楽を素直に表現でき、普段、何を考え、思っているか、己自身を一番良く知ることも出来ました。まだまだ、色んな人と会って見たいと思う欲が沸いてきました。韓国に行って会いたい人、地方の方々、欲を言えば切がありません。それよりも前に、風邪のため(言い訳)、まだ、賀状も出せてないのが現実ですが・・・。今日も、大阪の花園ラグビー場に「高校サッカーの東京大会の代表父兄で来た」と友人から電話が入り、昼からは風邪を無視して出てきました。 皆さん、来年が良い年でありますようにお祈りしています。 色々お世話になりました。来年も宜しく!!追記生放送 「BSまるごと大全集 日本のフォーク&ロック大全集」今日放送のNHK番組、どなたか録画してませんか~
2006.12.30
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家に帰ってくると、海の香り~~~♪今日のメニューは「ウロクメウンタン」!「ウロクメウンタン」とは、クロソイ(魚の名前)をから~く煮たチゲのようなものです。ウロクはお義母さまがくださったとのこと、いつもありがとうございます。ぺこり。で、食べたら。おいし~。でもめちゃから~い。治りかけの口内炎にしみるなぁ。あとは、これも頂いてきたキングクラブ、そう「タラバガニ」!!!多分(爆)。カニ、あまりにもご無沙汰過ぎて・・・。しかも食べかけを家に持ち帰ったため、全体像は把握できず・・・。でも、すんごい美味しかったぁ~、何年ぶりのカニかいな。ふふふ。と、大満足の晩御飯でした。チゲ用の豚肉も下さったらしいので、明日はキムチチゲだわ、うふ。こう寒いとキムチチゲ、毎日でも食べたいもんです。やっぱり韓国人の妻・・・。 転載元: ソウルでのつぶやきごと
2006.12.26
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昨年2005年の世界の総移民(移動)人口は1億9千100万人、世界人口の3%だったそうです。そのうち30-40%は違法移民と推定されています。主な移民先はアメリカ 3千5百万人ヨーロッパ 730万人フランス 630万人イギリス 400万人サウジアラビア 530万人カタール・UAE 合わせて全人口の60%は外国人労働者主な移民出国元は中国 3千5百万人インド 2千万人フィリピン 8百万人 全人口の10%『移民』は一般的に、「過剰人口・高い失業率・生活水準の低い国」から、「少子化社会・低人口・高生活水準国」へ流れる傾向が見られます。ヨーロッパでは、イギリス人の60%は外国へ移住したいと望んでいると言われますが、主な理由は気候の悪さとも言われます。ヨーロッパ連合諸国内では、ポーランドなど経済成長率の低い国から、イギリス、北欧、イタリア等への労働移動が激しく、社会問題化しつつあります。 例えば、同じ技能の労働でイギリスではポーランドの5倍の賃金になると言われています。ロンドンで働くフィリピン人の医者は、自国での給料の12倍を得ることができます。事実上、フィリピン経済は在外労働力の仕送りによって成り立っているとまで言われているくらいです。一方、湾岸アラブ諸国の様に、天然資源に恵まれながらも自国の労働人口が極端に少ない場合、外国からの輸入労働力に依存せざるを得ず、アジア・アフリカ・ロシア・中東欧の流出労働人口を吸収しています。度々触れてきましたが、UAE、特にドバイは総人口の80%は外国人と言う、ある種不自然、不均衡、更には高リスクでさえある現実があります。砂漠の国土で、石油以外の何ものも生み出さない国土と過酷な自然風土。 そんな土地に住み続けれなければならない人々の苦悩は、四季と自然に恵まれ、豊かな水と温暖な気候、富裕な土地がどんな作物も植物も生み出してくれる様な土地に住む人々には、到底想像だにできないことでしょう。自分の生まれ育った土地が食物を作り出してくれて、その土地で一生を静かに暮らすことができる条件が整っている、そんな土地に住んでいられる人々は恵まれていますね。年間に2億人近い人々は、自分の住む場所を離れ、多くの場合家族を背後に残して外国へ働きに出なければならないのが世界の現状です。 ワタシは『出稼ぎ』と言う表現は嫌いです。 『稼ぎに出かける』と言うレベルではなく、生き延びるための命懸けのギャンブルの様なものだからです。何の保障もないけれども、自国で貧窮し、果ては飢えるかも知れない情況よりも、明らかに仕事を提供してくれる外国へ出かけて行くことに賭ける決断をもって家族を残して出立する人々が世界にはこんなに多いのです。ドバイには全世界185カ国以上の国々から多くの人々が働きに来ています。 最も近いお隣の二カ国の人々とさえもお付き合いが上手ではない日本社会、日本人...毎日の仕事場で会う人々は数カ国の外国人、通りがかりに聞こえてくる人々の話は何ヶ国語もの外国語...街を歩いている人々の服装は様々な民族衣装...それがドバイの街の風景です。 労働移民を世界中から受け入れることでしか生き延びられないドバイの弱点は、同時にその魅力でも強みでもある様に展開していった知恵も手腕も持っています。日本が『勝ち組負け組み』発想に興奮している時、ドバイはウィンウィン シチュエーション=『勝ち組勝ち組』情況を造り出す解決策を生み出していたのでした。画像は一部 ガルフ ニューズからお借りしました。 転載元: ドバイで商売 -Personal version
2006.12.22
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「あとがき(P.226)」から 韓国語がわかれば本当の日本が見えてきます。ハッケヨイノコッタのような相撲用語は韓国語の赤ちゃん用語であるとか、売る、買う、幾ら、なんぼのような商売用語は物々交換時代の韓国語と同じであるとか、いじめ、威張る、いびきのように「イ」が付く言葉は口と関係する言葉であるということが簡単にわかります。 また、日本のお祭り用語と侘び寂びの心の本当の意味を繙くことができ、いろいろな視点と角度で日本文化にメスを入れることができます。 同時に着物とお召し物がどう違うか、色紙、折り紙、千代紙がどう違うか等、似通った言葉の違いがわかります。橋と箸、蕎麦と傍のように同音異語の本当の謂れを解き明かすこともできます。もっと面白いのは自らを指す私、わたくし、わちき等の一人称が相手を誘惑する言葉であったり、放送禁止用語である男女の生殖器の呼び方が地方固有の方言でなく、生殖器の違う部位と場所を表しているということもわかります。 以外に面白いのは、お父、お母とか兄、兄貴、姉、姉御などの家族関係の呼称が成長過程で変化する男女の生殖器の形を指しているということです。これらは立派な日本語でありながらも本当は韓国語で解き明かすことができます。普通には考えられない大変興味深い話だと思います。このように私にとっては日本語と韓国語の同じ音は同じ意味を表しているように聞こえてきます。それはお互いの言語を同じレベルで同じ言語として見るからです。ねッ、面白いでしょ!筆者はもとより言語学者でもなければ文科省担当官でもありません。広島の韓国家庭料理店のおじさんで、チャンゴ奏者で、通訳だそうです。本を読み始めると、日本人や韓国・朝鮮人である以前の先祖たちの同じ人としての営みが伝わってきます。漢字をはじめ、さまざまな知識や暮らし方法が半島を往来する人々ともに、ここにやって来たことや、国という枠組みが今とは違い、もっと牧歌的で分け隔てはなかったんじゃないかと想像の翼が広がりました。現在、国を隔てて争おうとする人々がいる一方で、分断の経験を融合の知恵にかえようとする人々もいます。悠久の歴史に裏付けられた言葉の成り立ちと同時に、筆者自身の体験が紡ぎだす英知をビンビン感じました。楽しく愉快+爽快な久方ぶりの逸品です。 転載元: ■とってもあいごー●
2006.12.10
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朝鮮通信使を通じて見た韓日関係史 【新刊】ソン・スンチョル『朝鮮通信使、日本と通じる』(東アジア) 1392年から1811年まで、計28回にわたって日本に派遣された朝鮮通信使を素材にし、韓日関係史を振り返る本です。1748年、対馬が朝鮮通信使の宿泊する地域に送った「朝鮮人が好む食べ物」という文書の内容によれば、「大体の魚を好むが、塩漬けした魚は好まない。熱い料理を嫌い、ほどよい温かさの料理を好む。鶴、コイ、亀のようなものは、以前と異なり、現在は好む人もいる」と当時の文献を参考に書かれています。 著者は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592‐98年)以降の通信使を接待する費用について、幕府の1年間の予算に匹敵する額だったと指摘し、それは朝鮮通信使が釜山を出発し、再び釜山に戻るまでの往復の費用をすべて日本側が負担したためだと書いています。こうした多大な出費をしてまでも日本が朝鮮通信使を盛大に接待したのは、幕府の力を誇示し、朝鮮が報復のために日本を侵略する恐れをなくそうとする意図が多分に働いていたためだと推察しています。 著者は「最近冷え込んでいる韓日関係については、≪通信≫というキーワードで振り返りながら、友好交隣が必要な理由を明らかにしようと思い、この本を書いた」と語っっています。 しかし、朝鮮日報の、慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者は下記の様なコメントを伝えています。 「日本に人質として連れていかれた訥祇王の弟・未斯欣を倭国から逃がし、自分は殺された朴堤上(パク・チェサン)や、三韓統一の大業を成し遂げつつも「死んでも倭兵から国を守る」と語り、龍になったという文武王の伝説からも分かるように、倭に対する韓国の伝統的な「観念」がそうたやすくも変わるのだろうか。」
2006.12.08
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姜 尚中氏が女性に人気があるのは、あの「甘い声」・・・・ 李鉉雨氏は「多弁高声」の時代に惜しむように話す。東京大学大学院情報学環教授である在日2世の姜 尚中氏が女性に人気があるのは、あの「甘い声」にあるといわれています。そこでこの【声】について 少し調べて見ました。「韓国では一番人気のあるFM-DJ李鉉雨氏についての調べたコラムがありました。題は、李鉉雨氏は「多弁高声」の時代に言葉を選んで惜しむように話す。」でした。日本語に訳してまとめてみました。 必ず必要な単語を必要な時にだけ使うため、精製されてさわ やかな印象を与える。一般人の多くは「その~」「あの~」のように、不必要な単語をよく使うが、李鉉雨はインタビューに もこうした単語を使わない。 考える必要のあるところでは、なんの声も出さない。それで彼の言葉には短いポーズがところどころあるが、流れを邪魔するほどではない。また、焦るとき、退屈なとき、嬉しいとき、悲しいとき、感激を受けたとき、彼の話すスピードはほとんど変わらない。 彼は遅くて多少「じれったい」言葉の展開で、聞き手の関心を集中させるとともに、次の言葉を待たせる。こうした期待心理が形成されれば、たいした話でなくても笑いが出る。「水曜芸術舞台」で、李鉉雨氏が「はい。(2~3秒間の沈黙)次はですね」と言うだけでも、爆笑があることもこうした原理。李鉉雨氏の話し方を遡れば、「李鍾煥(イ・ジョンファン、ラジオDJ)」の系譜に属する。ゆっくり、どもるが、低くて太い声で心のこもったまじめな感じを与える。上手な腕前(?)で、どもるように話すこと。スムーズで正確な表現が脚光を浴びる現実で逆イメージの衝撃を与える。 ●音声の秘密 多くの人が、李鉉雨の声の高さを「低音」と思うが、専門家たちは「中音の中の中音」と断定した。専門家たちは「李鉉雨氏の 声は低いトーンではないが、『低めに』近付いて楽な感じを与える」と分析した。その理由は何か。秘訣は「音量(音量・声の大きさ)」の調節だ。 李鉉雨氏は音量が豊かな方だが、その音量4分の1だけを使うことに分析された。音量が節制された声は個人的で情感を与える 。日本のNHKアナウンサーの鈴木健二氏が言うのは、「半音声説」によれば、人々は自分の音量の50%で話すが、25%で音量を下げれば、聞き手に一番説得力と親近感のある状態になるという。李鉉雨が多くの人を相手に話しても、視聴者は「自分だけに話している」ような錯覚に陷る可能性が、それほど高くなるということだ。 また、李鉉雨氏の声は多情多感であることが調査で分かった。声が他人にどれほど親しみと情感ありげに聞こえるかを測定する装備「声の情感モニター」(Voice Feeling Monitor)を最近開発した、崇実(スンシル)大学の斐明振氏(ペ・ミョンジン)教授が、今年の春に放送されたSBSラジオ「李鉉雨氏のミュージックライブ」最初10分の声を分析した。 その結果、李鉉雨氏の音声情感度は61.2%で、一般人の平均(50%)を大きく上回った。3~4秒で短く声を切って分析した「瞬間情感度」は70%を上回ったりした。言葉のトーンに変化が多くて、リズムに乗って話しているという証拠だ。 李鉉雨氏は、成長期の一部(高校)を米国で通った。英語で話すように、音節ごとに舌に力を込めて話す彼の発音方式は、無味乾燥な韓国語の発音にイントネーションとリズムを加えたという分析もある。
2006.12.07
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2006/11/29付けの朝日新聞大阪版にあった友人の記事です。「タチソ」とは、高槻の「タ」、地下の「チ」、倉庫の「ソ」をあわせてつけた旧陸軍の暗号で、アジア太平洋戦争末期に日本各地に計画された地下倉庫・工場の一つです。工事開始後、戦況の変化により、軍用機製造企業・川崎航空機の戦闘機のエンジンをつくる工場として転用されました。高槻市成合地区は、JR高槻駅の東北、はるか丹波まで連なっている山並みの麓の、こじんまりとした盆地です。村の北のはずれ、西檜尾川の左右の山腹に、「タチソ」は計画されました。 軍の秘密工事ということで、敗戦の日から2~3日の間に資料が焼かれ、高槻市にも工事計画の全体を示す文書はなく、工事に参加した朝鮮人労働者の数など、この工事の全容はいまもって明らかにできていません。現在残された資料としては、米軍爆撃調査団の報告書などがあります。 1944年9月、成合の村の地主25人が中部軍将校から土地の供出を命令されました。市の助役や職員も立ち会いました。谷あいの村である成合は田畑も少なく、農家にとってこれを供出することは大変な犠牲でしたが、「国家のため」の言葉には逆らえず、坪当たり3銭の賃貸料で判を押さされ、成合に軍隊がやってくることになりました。工事には、学徒動員された男女学生、各村々から義勇隊として集められた農民、地元の小学生も携わりましたが、ダイナマイトによる掘削などの危険な作業は、労務動員された朝鮮人労働者が行いました。 塚崎 昌之 大阪府の淀川以北の戦前の朝野人史の解明は非常に遅れている。1980年代から、戦時中の高槻地下倉庫(タチソ)の研究が行われてきているが、未だに施設の全容すら明らかではない。 北摂といっても、現在の東淀川区、淀川区、西淀川区の大阪市部と郡部にわけて考える必要がある。市部は、比較的早くから工業化が進んだ地域である。それに対して郡部は、農村部が中心であり、1920年代から住宅開発は進んだが、工場開発が進んだのは、日中戦争が本格化した時期である。1905年~1939年(戦時労務動員前)市部・・・1910年代後半より、神崎川周辺の晒工場・染色工場、淡路付近のメリヤスなどの繊維関係工場周辺を中心に朝鮮人の集住地域ができた。この地域は、現在にも引き淋がれている。郡部…1920年代から、郊外住宅開発、また、神戸・大阪・京都をつなぐ交通の要地としての鉄道・道路整備、淀川に流れ込む諸河川の改修工事に多くの朝鮮人労働者が使役された。しかし、「土工」の流動牲は高く、そのまま定住した人達は少数であった。 また、北摂は1923年に小作争議が勃発し、全国的にも最も盛んなところであった。1924年の日農北摂聯合会第2回大会議案書の中に、朝鮮人が小作人に代わる労働力として使われていたことをにおわす記述がある。これが本当に使われているとなると、今までの通説より、早い時期になるという指摘を受けた。今後の裏付けが必要である。1939年~(戦時労務動員期、強制動員) 大阪に戦時労務動員の朝鮮人が導入されたのは時期が遅く、1942年段階である。大阪では、名簿が2事業所238人分しか公表されていないため、証言に頼ることがはとんどである。市部・・・1942年段階から、西淀川区の海岸地域の製鉄関係の工場に多くの朝鮮人が動員されたが、その後は、府下で44年末の13,258人という数字だけで実態はほとんどわからない。郡部‥この時期に広い敷地を求め、多くの工場が北摂に移転するようになり、それに伴い、朝鮮人労働者も使用されていく。それとともに、本土防衛期の1944年後半段階から、非常に多くの地下軍事施設が建設されていくことが、この北摂の特色であろう。現在のところ、20数箇所を数えることができる。国内陸上物資の最大の集散基地であった吹田操車場に近かったこと、大阪市内の工場群から、最も近い丘陵地であったことなどが理由にあげられよう。ただし、この労働者は坂本悠一氏も指摘するように、一部を除き、徴用逃れや「逃亡」の「自由労務者」が多かったようである。大阪平野とその周辺の旧軍用トンネル http://www.geo-yokoi.co.jp/Kuudou/Tikakuudou.htm 地下トンネルは高槻だけではなかった この時期、地下軍事工場がつくられたのは高槻だけではありませんでした。成合の土地が接収される2ヶ月前、1944年の7月7日、マリアナ諸島のサイパンが陥落し、守備隊3万人と住民1万人が戦死または自決しました。日本全土への空襲の危機が迫ったのです。これに備えるため、全国に地下軍事施設をつくることが、7月18日の東条英機内閣最後の閣議であわただしく決められました。 この全国的な大工事の担当を命じられたのは、国鉄の技術陣でした。鉄道のトンネルをたくさん掘った豊富な経験と、掘削に必要な機械器具を数多く持っていたからです。編成は、熱海中央施設部と、関門トンネルを受け持っていた下関施設部の二つが中心になり、これに岐阜と信濃川の地方施設部が加わって、四つの地下建設隊がつくられました。高槻には岐阜地方施設部の技術者が来ました。当初計画された地下工事の主なもの長野県松代 40,000平米 (皇居・大本営・政府機関用)東京都浅川 37,000平米 (中島飛行機工場用)群馬県薮塚 33,000平米 (中島飛行機工場用)愛知県楽田 20,000平米 (三菱航空機工場用)大阪府高槻 17,000平米 (拡張計画後27,900平米 中部軍司令部・川崎航空機工場用)福岡県山家 12,000平米 (西武軍司令部用)※高槻に近いところでは、燃料弾薬貯蔵庫として吹田市山田(現在の万博公園内) に約20カ所、茨木市中穂積の丘陵に10~15カ所などが掘られた。戦前・戦中の北摂と朝鮮人~吹田・茨木を中心として~
2006.12.01
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↑すいません ↑規則.規則韓国人が見た、日本ですが、外国の人が「日本は公務員国家?即答できない、規則規則、すぐ、上司と相談、」って揶揄されますが、慣れてしまって、これが”普通”文化!って思ってる自分がそこにいるかも? 臨機応変が通用しない「規則の国」日本 2006/11/25 19:00 朝鮮日報/朝鮮日報JNS 電話料金の領収証を紛失した。本社に料金を請求するには、領収証がなければならない。電話会社のKDDIに「領収証の再発行はできるか」と問い合わせた。すると「できない」という返事が返ってきた。「なぜ?」と聞くと、「領収証は金融会社が発行するもので、顧客に保管責任がある」と言う。 「領収証がだめなら、証明書でもいいから発行してほしい」と言った。料金を支払ったという証明書だ。するとまた「できない」と言う。証明書を発行する制度がないというのだ。かっと頭に血が上った。「わたしはあなたの会社が販売するサービスを購入した消費者だ。お金を支払ったということは、今あなたが見ているコンピューター画面にも出ている。証明できるはずのことをどうして証明できないのか」。向こうは日本特有の「申し訳ありません…」という言葉を繰り返すものの、結局「できない」と返事する。 「できない」と言われるたびに、こちらも語調が荒くなった。かっとなって「マニュアルだけ見ていないで、上司と相談でもして答えなさい」と、大声を上げた。すると「あとで連絡する」と言って向こうが電話を切った。10分後、電話が来た。「お客さま…今回だけ…1回だけ証明書を発行いたします」。当たり前なことを特典でも与えるかのように話す。再び頭に血が上った。「何で“今回だけ”なんだ?」と問い詰めた。向こうは「神経を逆なでしてしまった」と思ったのか、返事をせずにそのまま言葉を続けたが、その続けた言葉がわたしを爆発させた。 「お客さま…3週間後に証明書が届く予定です」「3週間…? ハンコ一つ押すのに3週間だって?」「手続き上、そうなります」「何の手続きですか?」「会社の手続きです」。この意味のない攻防を何度か繰り返すうちに、声が震え始めた。「ちょっと聞きなさい。あなたの会社はサービスを売る会社でしょう。通信サービスを! 何ですべてのことを会社中心に考えるんですか!?」。電話の向こうでため息が聞こえた。「まったく“たちの悪い相手”に当たったもんだ」という愚痴にも似たため息が。 「また電話する」と向こうが電話をいったん切った。そして3分後に電話が来た。「1週間後に届く予定です」。もう1度問い詰めるのも嫌だったし、1週間ならそれほど遅くもない。「分かった」と電話を切った。向こうも気分を害したのか、「失礼しました」とか「申し訳ありませんでした」とか「ありがとうございました」とかいう、日本のサービス企業が常日ごろ連発しているお決まりのあいさつ言葉もなかった。無愛想この上ない。 初めてこちらに引っ越して来て、駐車場を借りたときのことだ。車高が規定より2センチ高いという理由で、月2万円も高く、家から遠い隅の方の場所をあてがわれた。「日本は規則を守る先進国だから」と思い、承諾した。ところが、わが家の目の前の2万円安い駐車場に、わたしの車とまったく同じ車が駐車しているのを見た。「こんなことがあっていいのか」と抗議したが、1カ月間音さたがなかった。それで今度は言い方を変えた。「あなたたちの規則は外国人だけが守るのか」と。すると、すぐに家の前の駐車場に駐車できるようになった。 日本の友達に「こういうとき、君たちはどう対処するんだ?」と聞いてみた。すると「どぎつい性格の人でない限り、多分たいていのことは我慢するだろう」と言う。この言葉には、「韓国人のように、ちょっとしたことですぐに腹を立てるようなことはしない」というニュアンスも含まれている。日本は「規則の国」と言われる。話にならない規則だらけだ。しかし日本では、声を荒らげる消費者も、消費者団体もあまり目にしない。日本のサービス業の従業員は親切で優しい。ところが、日本のサービス業は「三流」との定評もある。消費者がモノを言わないからだ。 今も2万円高い駐車場に誰かの車が留まっている。日本は人が良すぎれば損をする国だ。どの国でも消費者はどぎつい性格であるべきだ。 東京=鮮于鉦(ソンウ・ジョン)特派員
2006.11.30
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《朝鮮日報》 東京特派員から李百万氏へ 東京移住のススメ ノ ムヒョン政権の失策からはじまった、ソウル江南地区を中心とした土地、建物の急激なバブル高騰に苦しむ庶民の痛烈な皮肉記事である。朝鮮日報/朝鮮日報JNS 記事: 2006/11/17【コラム】東京特派員から李百万氏へ:東京移住のススメ どう考えても李百万(イ・ベクマン)大統領府広報首席(不動産転売問題などにより14日に辞意を表明した)は東京に 引っ越した方がよさそうだ。江南の住民に「実はカネがあるくせによくも庶民のふりをしてきた」と非難されるくらいなら、いっそ思い切って国を後にしたほうがよいのではないか。 まずは自身が江南(カンナム)に持っている55坪(約180平方メートル)のマンションを20億ウォンで処分することだ。 自ら「模範」を示せば、李百万氏の言うように「不動産政策の確実な成功」も可能となるだろう。 20億ウォンを日本円に両替すると約2億5000万円になる。この金を持って引っ越しの準備をするのだ。先進国だからといって、生活の水準が維持できないなどという心配は無用だ。 まずソウルの江南区に相当する東京港区にマンションを購入するのだ。偶然にも日本語読みでは発音が江南と同じ になる港区の再開発地域、港南に専用面積 145平方メートルの物件が出ている。李百万氏が住んでいたマンションと同じような広さで、昨年1月に竣工した新築マンションだ。このマンションの価格は 1億2980万円。ソウルと東京で同じ ような条件の物件を購入しても、東京のほうが1億2020万円安いのだ。 この時から李百万氏の人生はさらに余裕のあるものとなる。今度は江南の富裕層に一番よく売れている「レクサス」の 最高級モデルを買って乗り回そう。韓国の平凡なサラリーマンには望むべくもない販売価格1億3000万ウォン(約1625万円)の車だ。その高級車も東京では965万円で買える。オプションを減らせば770万円でも買える。 ついでに軽井沢に別荘を買ってもいい。軽井沢は日本有数の別荘地だ。ソニーの創業者、井深大氏もここの別荘で余生を送った。軽井沢で今売りに出されている敷地151坪(約500平方メートル)、建坪40坪(約130平方メートル)の別荘の値段は3200万円だ。 それから東京にほど近い千葉の立派なゴルフ場の会員権を100万円で購入するのも悪くない。 こうして港区のマンション、レクサスの最高級モデル、軽井沢の別荘、ゴルフ場の会員券を購入しても、ソウル江南のマンションを売った代金から7755万円のお釣りが来る。後は余ったカネを使って生活すればいい。 2004 年に日本の総務省が「夫婦が老後に余裕のある生活をするために必要な額」を調べている。それによると一月37万9000円あれば暮らせるという。李百万氏は余ったカネで先進国に17年も余裕を持って生活することができる。家を担保に融資を受ければ、その後も20年くらいは心配なく暮らせる。 ニュージーランドやオーストラリア、カナダのように「孤独な生活」となる心配もない。目的はともかく、与野党の国会議員はもちろん、大統領選挙の候補まで、頻繁に東京を訪れる。彼らが来れば、時には韓国のクラブが密集した赤坂で「派手な宴会」も行われる。いくら赤っ恥をかいて引退したとはいえ、大統領府の広報首席まで務めた人物を邪険に扱いはしないだろう。 鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員
2006.11.28
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国と国籍と彼女と私 ともあれ彼女と私はわりと気の合う方ですぐに仲よくなった。でもある程度親しくなると韓国の友達とは違う変な距離感を感じた。親しくなってもふとした瞬間に一線をひかれてる感じを受けた。 私は心の中で「この人は韓国人でもやっぱり日本育ちだから日本人みたいな感覚なのだろうなあ。やっぱりなにか違う」と思った。そんな彼女に変化が訪れた。何がきっかけなのかはわからないが猛烈に韓国にのめり込んでいった。以前は和食が好きだった彼女が韓国食を好み、韓国人の友人が増え、話し方や行動までがだんだん韓国人みたいになってきた。彼女のだんなは日本人で彼女にたまに問いかけるそうだ。「なんで日本育ちの君がどうしてそんな韓国人みたいに振る舞うの?」私も全く同感だった。その反面バリバリの韓国人であるはずの私は最近彼女に「日本人みたいになってきたね」といわれるようになってきた。私はそうかな?とあまり深く考えてなかったが韓国に帰って久々に韓国の友だちを会うとみんなも口をそろえて同じ言葉をいう。初めは外見の事を言っているのかなと思った。だがそれは外見だけでなく日本に住む年を重ねるごとに考え方や行動もだんだん日本人チック(?)になってきてるそうだ。真相を確かめたくて日本の友だちに聞いてみたら私はやっぱり日本人とは違うらしい。私はどっち付かずの人間になってしまったのだろうか..? 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.27
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国と国籍と彼女と私 私はほとんどの教育を韓国で受けている。私が学生時代を過ごしていた80年から90年代はまだ冷戦時代の真っ只中でソ連やアメリカや西ドイツ東ドイツがいがみ合っていた。韓国と北朝鮮も同じであり、当時の韓国の一番の敵は赤である北朝鮮だった。私たちは共産主義がどういう思想で北朝鮮がどういう国か知る前に徹底した反共教育で育てられた。毎年6月25日が近づいてくると反共の映画を学校で上映されてみんなでみたり、反共ポスターや作文を書いてた。私も義務的にポスターを描いてよくわけもわからず賞をもらったことがある。同じ民族でも北朝鮮も北朝鮮人も憎むべき対象であり、とても恐ろしいものだった。でもその事を疑問に思い始めたのは大人になって日本に来てからだった。町で買い物をしてると白と黒の韓服(チマジョゴリ)をきた女の子達と遭遇した。韓国でもなかなか見られないそのモノクロの韓服をきた女の子達の姿は強い威圧感と印象をあたえた。私はその謎の子達の正体を知りたく知人に聞いてみた。するとそれは北朝鮮学校に通ってる子達だというのだ。私はかなりのショックを受けた。近くて一番遠い国である北朝鮮は恐れの対象であり、その国の子達を日本の町で遭遇するなんて考えても見なかった。馬鹿な話だが北朝鮮人は北朝鮮だけにいると思ってた。 転載元: 小さい韓国と日本
2006.11.26
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【2006年最高の流行語は「テンジャン女」】 中央日報 今年のインターネットを熱くした最高の流行語は《テンジャン女》であることが調査で分かった。 検索ポータルのヤフーコリアは今年1-10月、ネチズンが最も頻繁に入力した検索語のうち、 新しく登場した新造語と流行語10語を選定し、23日発表した。 1位になった 「テンジャン女」高級コーヒーを飲み、名品バッグを持ちながら、金持ちの男性を探す女性の日課を描写した「テンジャン女の一日」というオンライン掲示文から始まった。 これを擁護する女性と非難する男性が《性対決》に近いオンライン論争が繰り広げ、 アンチテンジャン女サイトにはテンジャン女を育てるゲームまでが登場した。2位はドイツワールドカップ(W杯)前に映画俳優キム・スロが披露した「コクジジョムダンス」で、 W杯公式応援ダンスになるほど人気を集めた。3位は、テレビ番組で額をたたく動作で笑いを誘った「マッパギ」4位には、漫画家コ・ビョンギュ氏の2コマ漫画「朝三暮四」が入った。5位は芸能人のおかしな表情をとらえた写真「芸能人の屈辱シリーズ」、 6位は今年10月にわいせつ物流布の疑いで立件されたキム某容疑者を別称「キム・ボンジャ」だった。7位は、W杯決勝戦でフランスのサッカー選手ジダンがマテラッツィに頭突きしたのを、李乙容(イ・ウルヨン)が試合中に中国選手の後頭部を殴った「乙容打」にちなんで名づけた「ジダン打」で、8位はSBS(ソウル放送)「ギャグ夜」の人気コーナー「サモニム(奥様)」、9位は芸能人の顔を合成する《合成遊び》だった。10位は今年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)大会で「向う30年間、日本に勝てないと思わせる」と言った野球選手イチローの妄言だ。新造語と流行語を含めて今年ネチズンが最も頻繁に検索欄に入力した言葉は「ロト(宝くじ)」だった。 また「メープルストーリー」「カートライダー」「リネー ジュ」など10代向けのオンラインゲームが上位に入った。 映画俳優は「イ・ジ ュンギ」、歌手は「スーパージュニア」、テレビドラマは「宮」、スポーツ選手で は「朴智星(パク・チソン)」を検索したネチズンが多かった。 金元培(キム・ウォンベ)記者 onebye@joongang.co.kr
2006.11.24
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ハングル外国人に、「私、ヒラガナ少し話せますよ」と言われたら、「???」と思うだろう。「ハングル話せますよ」もまったく同じである。ハングル、とは朝鮮半島で使われている表音文字のこと。日本でいえばヒラガナ・カタカナにあたるから、「ハングルで書く」とは言っても、「ハングルで話す」のはおかしい。ところが、かなり多くの日本人は、ハングル=韓国語、の意味で使用している。これはたぶん、NHKのせいだ。80年代初め、NHKではじめて隣国の言葉の講座を開く際、名称でもめたらしい。分断以前の言葉なら、【朝鮮語】ですむのだが、南北に分かれて数十年経った今では、「朝鮮語」というと北朝鮮で使われている言葉とも解される。かといって、「韓国語」では片手落ち、とも考えたのだろう。 韓国で使われている言葉と北朝鮮で使われている言葉は、社会の異質性などを反映し、 今では相当な違いが出て来ている。 韓国のTVのニュースなどでは、北朝鮮の人が話している時、字幕を流す。苦肉の策で、NHKでは「ハングル講座」と決定。実際はここでは、現代韓国語を扱ったから、ハングル=韓国語という図式が、日本人の頭の中で出来上がってしまったわけだ。韓国の人たちは、よく【ウリマル・我々のことば】という言葉を使う。日本での【やまとことば】にあたるニュアンスだ。この【ウリマル】が、北朝鮮と韓国で使われている言葉の総称になるわけだが、外国人が「ウリ(我々)」というのは、これもまたおかしいわけで、NHKの講座も、やっぱり未だ「ハングル講座」のようだ。 転載元: いつでも韓国
2006.11.23
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尹東柱 http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/42491978.html と、金素月(1902~1934、韓国・朝鮮)の詩は全世界のKOREANのみならず、日本や中国にも多くのファンがいます。金素月は、日本の島崎藤村にあたると言ってもいいでしょう。 金素月の詩は”コスモスゆれて”のサイトでみれます。http://hw001.gate01.com/myongsuk-k/yellow.html 文学作品の訳の難しさを書いてるサイトを良くみかけます。以前、上田敏がフランスの詩を『海潮音』で見事なまでに日本語に訳しました。しかし、それは文学に傾倒し、その基礎知識と感受性、そして何よりも、その作家の心を知らないと読者には伝わってこないものです。以前、韓国の抵抗詩人、金 芝河の出獄後の書物を知人の女性が翻訳しましたが、さっぱり解らず、いったい何を言いたいの?って思いで原本を読まざるをえませんでした。そうしてやっと作者の意図が理解できました。よく言われることですが、「通訳や翻訳の世界では言葉を訳す”通訳馬鹿”はいらないんだ、文化を通訳する通訳が必要だ」と。金素月の詩をと通して、その翻訳のごく一部の紹介と、文学作品訳の難しさを取り上げてみました。 忘れ得ず 金 素月 (キム ソウオル)忘れ得ず思い出すでしょう それなりに一生をお過ごしなさい 生きていれば忘れる日もあるでしょう 忘れ得ず思い出すでしょう それなりに歳月をお過ごしなさい 忘れられなくもたまには忘れられるでしょう しかしまたこうなのです 「恋しくていちずに忘れ得ないのに どうしたら想いが消えるのでしょう」 (「つつじの花」より) 林 容澤 訳 (イム・ヨンテク) 同じ詩でも訳でこんなに違いが出ます。引き続き、同じ詩の金 素雲訳。 忘れねばこそ 金 素月わすれねばこそ こゝろもくるふ、 ならば一生を(ひとよ)をたゞ生きなされ 生きりゃ わすれる日もござる。 わすれねばこそ おもひはつのる、 ならば月日を ただ経(ふ)りなされ たまにやおもはぬ日もござる。 したが はてさて こればつかりは、 --しんじつ恋しいこゝろのひとを 束の間ぢやとて どうわすれよう。 金 素雲 訳 言い訳:プロでもこれだけの違いがあるんです。普段の私の幼稚な翻訳をお許し下さい~~。≪Nov 16, 2006 KBSワールドより≫今日の主人公は、歌謡曲にもなってしまったという有名な詩「つつじの花」を書いた詩人金素月です 金素月は1902年、今は北韓になっている平安北道で 生れました。ここは中国との国境に近いため、韓国の中でも最も早く西洋の文明が流入してきた地域の1つです。 その為ここからは、金素月の他にも多くの文化人がでています。 また金素月が産まれた村は、同じ公州金氏の一族100所帯余りが集まってくらす村でした。 そしてその中で素月は一族の長男の息子、つまり跡取り息子だったわけです。ただ幼い頃父が日本人の暴漢に襲われ重傷を負い、その後の一生を精神を患って過ごした事は、素月の人生にも暗い影を投げおとしました。 病んだ父の代わりに素月を教育した祖父は彼を民族教育の盛んな五山中学に進学させます。そしてここで素月は彼の文学的な先生である詩人・金億と出会い、詩を書き始めます。 1922年に発表された詩「つつじの花」で彼は一躍脚光を集め、 1925年には同名の唯一の詩集「つつじの花」が刊行されます。 しかしそれまででした。彼は33歳で、自らその命を絶ってしまいます。妻:あなた どこに行ってきたんです? 素月: 墓参りに行ってきた。街で酒を買ってきた、今夜は酒盛りだ!! 妻 :まあそれは、それは。そうですね、度重なる事業の失敗、あなたも辛いですよね今日はパーっと2人でやりましょう。 妻:あなたー 私もう飲めませんは。もうウイッ、焼酎が ウイッ、頭のてっぺんまで一杯! (ぐーぐー) 素月: 妻よ、酔って寝てしまったか。ふがいな亭主のせいで苦労をかけるな。私はもう人生につかれてしまった。思えば私の人生は挫折の連続だった。父は暴漢に襲われ気がおかしくなり、せっかくの留学も関東大震災のために途中で放棄し、結婚して始めた東亜日報の販売店の仕事もすぐにだめになってしまった。もういい、これ以上生きていて何になろう。街で買ってきたこの阿片で私の人生に終わりを告げるのだ。金素月の人生も日本による植民地支配の影があったと言う現実です。追記11/18http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&p=2 yahooブログで同一の記事を載せています。金素月の詩と歌を味わいたくて書いたつもりが、訳のわからないnet右翼?が場の空気すら読めずに詩の情緒を壊して喜んでるみたいです。ここに韓国の有名な詩人、韓 龍雲の≪ニムの沈黙≫から一節を追記します。氏は僧侶で民族主義者、その反国精神と詩は韓国の三大詩人とも言われるほどです。"ニム"とは”様”と言う意味ですが、又、次の機会に紹介します。 誹 謗世間には誹謗も多いし ねたみも少なくありません。あなたに誹謗とねたみの牙が向けられようと お気になさらぬように。誹謗好きの連中は 太陽に黒点があることさえ もっけの幸いと思うもんです。あなたには 誹謗することがないその点を誹謗するかもしれません。
2006.11.17
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【カザフスタンの旧首都 アルマティでも有名なバザール(青空市場)、通称グリーンマーケット。コリョサラムも多く、ニンニク入りの朝鮮味噌やキムチを売っています。特に朝鮮味噌は、とてつもなく美味く、鍋のスープに、味付けにと大活躍しました。もちろん、そのまま舐めても十分酒の肴になるスグレ物です。今度中央アジアに行くときは、少しまとめた量を買い込もうかとまで考えています。】中央アジアに多数の朝鮮人が強制移住させられてきたことは、既に何度か触れてきました。彼らは、第二次世界大戦前後に日本軍のスパイ容疑などで、朝鮮半島やロシア沿海州から連れてこられた人々です。その数は、20万人とも30万人とも言われていますが、正確な数は誰にも分からないそうです。シベリアに抑留された日本人数は、一般に約60万人と呼ばれていますから、少なく見積もっても実に3倍以上です。現在は、40万人ほどが主にウズベキスタン、カザフスタン、キルギスで生活しています。さて、強制移住の理由である日本軍のスパイ容疑ですが、根拠のない濡れ衣でした。では、何故強引に彼らを中央アジアに連れてきたのか?答えは、簡単です。当時のソビエト政府が喉から手が出るほど欲しかった労働力確保のためでした。ドイツとの戦争で2000万人と空前の人的損害を出したソビエトでは、多数の働き手を失いました。そのため、荒廃した国土の立て直しのために、戦死したソビエト人の代わりとなる補充労働力が必要だったのです。(日本人のシベリア抑留も同様の理由です。)中央アジア、キルギスの北隣の国、カザフスタンの旧首都アルマティで、そんな朝鮮人の末裔にあったことがあります。グリーンマーケットと言われるアルマティ有数のバザール(青空市場)の片隅でキムチを売っていた青年でした。彼は、ロシア圏の人にしては珍しく、簡単なものですが、英語を話しました。親の店を手伝いながら、大学で英語を学んでいると言いました。彼は、冗談かと思うほどの安い代金でガイドなどもしてくれるなど、随分世話を焼いてくれました。興味深かったのは、彼が、自分のことを『コリョサラム』と呼んだことです。『朝鮮人』を意味するロシア語の『カリースキー』、英語の『コリアン』じゃないのか?と聞くと、心なしか誇らしげに、『ノー ノー アイム コリョサラム!』と言いました。この時は、彼の言うことがさっぱり分かりませんでした。そして、日本に帰国し、文献を読んで『コリョサラム』の意味を知ったのでした。『コリョサラム』とは、『高麗人』の意味なのだそうです。彼らが、自らを『朝鮮人』でなく『高麗人』と呼ぶことは、その苦難の歴史と運命を考えればよく分かります。強制移住で中央アジアに来た朝鮮人(後の『コリョサラム』)は、とんでもない苦難を押し付けられます。何日も家畜が乗る様な貨車に押し込められた挙句、石ころや草原だけの荒野に着のみ着のまま放り出されました。そして、農耕器具さえもろくに渡されないまま、『来年までに〇〇を〇〇トン収穫せよ!』なんてムチャなことをソビエト政府にいきなり言われたのです。収穫目標に達しなければ、努力が足らんと言うことで、重い刑罰や処刑が待っていました。すぐに慣れない土地での辛い開墾が始まりました。新生活のための家作りなどする余裕もありません。洞穴を家代わりに、岩や石を家具や農機具代わりにする人が続出する有様でした。僕もアルマティの郊外で、『コリョサラム』が住んでいたと言われる洞穴を見たことがあります。石器時代と何ら変わらぬただの洞穴に20世紀も人が住んでいたことに、驚いた記憶があります。農地として全く整備されていなかった中央アジアでの開墾は、想像を絶する作業だったはずです。しかし、厳しい自然や悪条件に悪戦苦闘しつつ、彼らは、目標を達成していきました。その血のにじむ様な努力は、次第に周囲に認められていきます。真面目さと努力ぶりでソビエト人を驚かせたシベリア抑留の日本人と合わせ、『東の連中(日本人と朝鮮人)は奇跡を起こす。』とまで言われました。この記憶は、今も中央アジアに生きています。この地域では、『日本人と朝鮮人の作るものにヘンなものはない。』と言う人は多いです。人気の日本製電化製品や車を買うお金がない人は、その代わりとして韓国製品を購入する人が少なくありません。かつての親分筋であるロシア製品の購入優先順位は、笑ってしまうぐらい低いです。家内も『朝鮮人は、アクラートナ(正確)で信頼できる人が多い。』と言います。(ちなみに家内がキルギス時代勤務した会社のオーナーは韓国人、そして、社長は、『コリョサラム』です。ぜひ一度お会いしてお話を聞きたいと考えています。)こんな感じで、優秀な人々と言うことで、中央アジアに定着した『コリョサラム』。しかし、彼らには、帰るべき祖国、約束の大地はありません。世界には、独立を求める民族が数多くいますが、『コリョサラム』には、その独立を求める土地さえないのです。ソビエトが崩壊し、移動制限が解除されたから、自由に行き来できるし、帰国できるんじゃないの?あるいは、そう思われるかもしれません。しかし、北朝鮮は、あの有様ですし、韓国とは、経済格差がありすぎます。一方、朝鮮半島だけでなく、当時朝鮮人が数多く住んでいたロシアの沿海州から来た人もいます。これらの人々も状況はあまり変わりません。最近のロシアは好景気で沿海州でも物価がスゴイ勢いで上がっており、経済格差が生まれつつあります。それに、同じロシア圏とは言え、慣れない沿海州に今更帰っても、新たに生活を始めるのは楽ではありません。結局、好む好まざるに関わらず、生活の基盤が出来た中央アジアに住み続ける人が多いのです。今年、ウクライナで元日本兵が見つかり、60年ぶりの里帰りを果たした方がいました。この方も、結局生活基盤が出来たウクライナに帰りました。『ウクライナなんて帰らずに日本にいりゃいいのに』と言う人がいましたが、『コリョサラム』が生活基盤が出来上がった中央アジアに住まざるを得ない理由と同じでしょう。さて、永住の地に選んだ中央アジアでも、早々簡単には行きません。『ここは、俺たち中央アジア人の土地だ。朝鮮人がエラそうにするな!』現地の人々とケンカになると、こんな心ない言葉を投げかけられることもあるそうです。韓国人でもなく、北朝鮮人でもない。朝鮮人でもないし、中央アジア人ですらない『コリョサラム』。母なる祖国を持たず、苦労して生活基盤を作った地でもヨソ者であることを意識せざるを得ない人々。それだけに、彼らは、国でなく、民族に誇りを持って自らを『コリョサラム』と呼ぶのかもしれません。彼らの前途は、必ずしも希望に溢れてはいません。まだまだ苦難は続きます。それでも、独自の誇りを持ちながら、これからもユーラシアの大地にたくましく生きていくのでしょう。 転載元: シルクロードから嫁が来た!!
2006.11.09
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夫婦別姓法案成立にむけて活動する妻より以下のコメントと関連記事の紹介をうけました。fwapyさんのブログ記事『拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道』http://blogs.yahoo.co.jp/fwapy7777/43640250.htmlに関して登場した「日本会議」をしっているかとといあわせたところ、以下の回答がとどきました。「掲題の件、もちろん知っています。憲法改正、教育基本法改正、靖国公式参拝、「つくる会」の教科書は夫婦別姓法案反対と一蓮托生だから、私はどれもきな臭いと思っているのです。http://www.h2.dion.ne.jp/~kyokasho/0_conb07.htm#shukyouあと、「キリストの幕屋」とか「生長の家」なんかも、自民党の議員の一部とからんでいて、別姓法案が提出されそうになると、人海戦術でFAXや電話を送ったり、その豊富な資金にものをいわせて、本を作ったりしていたようです。右翼系の新興宗教はほとんど自民党の支持基盤だという人もいます。おとなしく、まじめに生きている市民は尊重されず、このような暴力団まがいの団体が尊重される日本が、美しい国なんてちゃんちゃらおかしい。だから、国旗掲揚も、国家斉唱も、国を愛する心も、市民が市民のために行う行為なら、本当は重要なはずなのだけど、こういう人たちに利用されるような気がして、なんか嫌な、きな臭い感じがしてしまうのです。」掲載したURLの記事は2003年の掲載記事ですのでけっしてあたらしいものではありませんが、日本会議の全容をしることができるとおもいます。 転載元: 頭の中の本箱
2006.11.08
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拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道 拉致被害者と暴力団の関係 しらじらしい「北朝鮮が日本参加拒否」報道 マスコミ報道の字面だけ見ると日本政府が頑張っているような印象を与えるが、とんでもない猿芝居である。この際拉致問題についてはっきり白黒をつけておいた方がいいだろう。 拉致被害者関連組織の多くは暴力団関係者によって構成されている事実を国民のどれくらいが知っているか?まずは参考文献を見てみよう。北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AB%E6%8B%89%E8%87%B4%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%82%92%E6%95%91%E5%87%BA%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E5%85%A8%E5%9B%BD%E5%8D%94%E8%AD%B0%E4%BC%9A北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(きたちょうせんにらちされたにほんじんをきゅうしゅつするためのぜんこくきょうぎかい)、通称「救う会」は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人の拉致被害者のために結成して、日本政府に解決を求めている市民団体である。1998年4月より活動を開始した。アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュと面会する横田早紀江と拓也北朝鮮の工作員らによる日本の拉致被害者を救済するために結成された。基本的には、拉致された人の親族や友人らにより結成されているが、国民の関心も高いため、与野党の国会議員や大学教授等の有識者、朝鮮半島関連の研究者など多方面に亘り多数参加している。会長=佐藤勝巳(現代コリア研究所(旧・日本朝鮮研究所)長) 常任副会長=西岡力(同所・元主任研究員) 副会長=藤野義昭、島田洋一 事務局長=平田隆太郎 ちなみに、新潟「救う会」の会長は、住吉会系右翼団体「日本青年社」の現役幹部・水野孝吉である。住吉会は北朝鮮と麻薬・銃器の密輸を行っている。日本会議http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0「日本会議」とはhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%c6%fc%cb%dc%b2%f1%b5%c4 「日本会議」とは、会長は三好達(元最高裁長官)、全国9ブロック47都道府県になんらかの組織をもつ、日本最大の保守系組織である。2002年9月以来、「10万人ネットワーク」(設立5周年事業リーフレット)を目指して活動を続けている。また、これに協力する「日本会議国会議員懇談会」(現在242人、会長・麻生太郎衆議院議員)を持ち、国会と地方議会に強い影響力がある。1997年、「日本を守る国民会議」(運営委員長・黛敏郎)と「日本を守る会」が組織統合して結成されたもので、機関誌『日本の息吹』を毎月発行してきた。 「日本会議」は、1.憲法改正 2.教育基本法改正 3.靖国公式参拝の定着 4.夫婦別姓法案反対 5.より良い教科書を子供たちに 6.日本会議の主張の発信、の6大スローガンを掲げて活動している。「日本会議国会議員懇談会」会長:麻生太郎(総務大臣) 会長代行:中川昭一(経産大臣) 副会長:谷垣禎一(財務大臣) 副幹事長:小池百合子(環境大臣)副幹事長:安倍晋三(前自民党幹事長)小野清子(国家公安委員会委員長)石破茂(前防衛庁長官)「民間教育臨調」と「日本会議」 「民間教育臨調」の副会長は5人のうち4人までを「日本会議」の役員が占め、同会に大きな影響力をもつ体制が作られている。「日本会議」の役員77人のうち、「民間教育臨調」に名を連ねている者は30人にも達する。名前を加えていない47人のうち25人は宗教団体役員であり、4人が「軍恩連盟?」日本遺族会」「日本郷友連盟」「英霊にこたえる会」など旧軍・自衛隊関係団体の役員、そして会長・事務総長の2人である。「日本会議」の四割近い(39%)役員を「民間教育臨調」に送り込みながら、明らかにそれと分かる会長・事務総長、および3分の1以上を占める宗教団体および旧軍関係者等を表に出さない工夫と努力がなされている。日本青年社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%9D%92%E5%B9%B4%E7%A4%BE日本青年社 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%c6%fc%cb%dc%c0%c4%c7%af%bc%d2住吉会と安倍は岸が笹川や児玉誉士夫と組んでいた頃からの関係を継承している。住吉会にとって北朝鮮との密貿易パイプは重要な資金源である。まさにマッチポンプである。ブッシュが北朝鮮の脅威を利用してボロミサイルを法外な値段で売りつけているおこぼれに与るように、麻薬や拳銃で姑息なシノギをしているのである。ちなみに金正日は見返りに偽ドルの発行許可をブッシュから貰い、中共でばらまいている。ここまで来ると被害者の会も本当に被害者なのかと勘ぐりたくなる。こんな連中の力を借りなければ解決策を模索できなかったのかと考えると同情するが、事実を知れば知るほど一般国民は見放してしまうだろう。まだマスコミ報道を鵜呑みにしているおめでたい国民が多数を占めているからいいようなものの、インターネットをちょっと検索するだけでも事実は簡単に知れるのである。 政府がインターネットの言論統制に躍起になっているのも宜なるかなである。本ブログも来年あたりはイギリスのブログを借りて英語で発信しなければならない事態になっているかも知れない。「日本会議」に名を連ねている国賊連中の名前はよく覚えておいた方がいいだろう。「この方々のどこが国賊だ? 立派な愛国者ではないか」という人は暴力団員にでもなってください。[6カ国協議]北朝鮮が日本参加を拒否 拉致逮捕状に反発かhttp://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2671637/detail 《憂国ニュースより転載》
2006.11.05
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【はるか90年前に「友情と韓流」 朝鮮をこよなく愛した柳宗悦】最初に柳 宗悦が残した言葉の一説です。(昨今の嫌韓の人たちに捧げる言葉?)「私は想う、或国の者が他国を理解する最も深い道は科学や政治上の知識ではなく宗教や芸術的な内面の理解であると思う。言い換えれば経済や法律の知識が我々を他の国の心へ導くのではなくして、純な愛情に基く理解が最も深くその国を内より味わしめるのであると考えている。」「我々日本人が今、朝鮮人の立場にいると仮定してみたい。恐らく義憤好きな我々日本人こそ最も多く暴動を企てる仲間であろう。中略」李朝工藝から民藝運動へ柳は、李朝陶磁に惹かれ、李朝の工芸品の美しさに引き込まれていきますが、これらの作品はみな無名の工人によって造られた物であることを思い、民族の工藝の伝統は日本にもあると着想し、日本の工芸へと、自身の目をむけていきます。後に木喰仏(もくじきぶつ)を見出し、それを探し求める旅は、同時に日本民芸運動への旅ともなり、1936年(昭和11年)10/24の「日本民芸館開館」へと繋がっていくことになるのです。大正10年雑誌《白樺》1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用(「これは骨董ではない」晶文社より)「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」 柳は消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとしてほしかったのでしょう。名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美は宿ると記してます。 柳宗悦(1889~1961)は日本民芸運動の創始者、日本民藝館の開設者です。20歳の時、神田の骨董店ではじめて朝鮮白磁を見て、その芸術の優秀さ、美に魅せられ、72歳でこの世を去るまでの生涯を、朝鮮を愛しつづけた日本の良心を代表する数少ない知識人の一人であります。 陶磁器をはじめ朝鮮の芸術品を愛した彼はその作者である朝鮮人、朝鮮民族を尊敬し、朝鮮を限りなく愛した。幾度となく夫人を伴って朝鮮を訪問した彼は「朝鮮に住みたい」とまで講演会で述べています。柳はただ朝鮮をこよなく愛しただけではなく、多くの著作と芸術品収集等の活動によって朝鮮と日本の関係史に多くの業績を残しました。その業績を大別して書いて見ます。一、柳は日本の朝鮮支配、植民地化は不当であると反対し、正義の言論を行ないました。そして朝鮮民族を抹殺する同化政策を徹頭徹尾批判しました。 1919年(大正8年)、朝鮮全土で朝鮮人民の3・1独立運動が起きます。「独立万歳」を叫ぶ平和的なデモですが、日本は軍隊まで動員して苛酷な弾圧をおこないました。しかし独立運動は、ソウルのパゴダ公園を中心に、朝鮮全土に広がりました。この時、軍による弾圧によって死者は韓国全土で約6,670人、負傷者は14,600人、投獄された者、52,730人にのぼったといわれています。日本の侵略と暴虐行為にたいし、日本の一般大衆はもちろん、知識人も沈黙していました。「黙している事が私には一つの罪と思えた」という柳は、当時の「読売新聞」に論文『朝鮮人を想う』を発表して、日本の罪行を告発しました。「先ず彼等から奪ったものは軍隊であり、我々から送ったものは彼等のでない我々の軍隊であった。我々は先ず永遠の独立を彼等に不可能ならしめる固定した方法をとった。」 「日本は不幸にも刃を加え罵りを与えた。之が果たして相互の理解を生み、協力を果たし、結合を可能にするだろうか。否、朝鮮の全民が骨身に感じる所は限りない怨恨である、反抗である、憎悪である、分離である。独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう。」 柳はその後の論文「朝鮮とその芸術」で朝鮮は独立すべきであり、日本の同化政策は間違いであると次のように批判します。 「2つの国にある不自然な関係が正される日のくることを切にねがっている。正に日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとっての恥辱の恥辱である。」 「朝鮮固有の美や心の自由は他のものによって犯されてはならぬ。否、永遠に犯されるものではない真の一致は同化から来るものではない。個性と個性との相互の尊敬に於いてのみ結ばれる一があるのみである…」 柳のこのような発言は日本の官憲から睨まれることになり、私服刑事が家の周辺をうろつき、終戦の日まで常に監視されます。二、朝鮮の芸術品の美を発見して、その優秀さを賞賛するだけでなく、ひろく内外に紹介した。 当時、多くの日本の知識人は朝鮮の芸術は中国の模倣であるといわれていました。それにたいして柳は、 「朝鮮の美は固有であり独特であって、決してそれを犯す事は出来ぬ。疑いもなく何人の模倣をも又は追随をもゆるさぬ自律の美である。只朝鮮の内なる心を経由してのみあり得る美である。私は朝鮮の名誉の為にもこれ等のことを明晰にしたい。」(『朝鮮の友に贈る書』) 「日本が国宝として世界に誇り…国宝の国宝とよばれねばならぬもの殆ど凡ては、実に朝鮮の民族によって作られたのではないか…正等に言えば朝鮮の国宝とこそよばれねばならぬ。」(『朝鮮の美術』) 柳はそのあかしとして法隆寺の「百済観音」、「玉虫厨子」、広隆寺の「弥勒菩薩」をあげ、奈良正倉院に伝蔵されている古作品の「大部分は恐らく朝鮮から伝来したものであろう。」推古の黄金時代の日本は「朝鮮の美で飾られていた」といい、朝鮮の芸術は「世界の最高の栄冠を戴く」と賞賛もしています。三、に光化門を総督府の破壊から守り、散逸していた朝鮮の美術品を募集して「朝鮮民族美術館」を開設して、これを保存しました。 柳は景福宮の前に立つ歴史的建造物である光化門を総督府が破壊する計画を知り、抗議文「失われんとする一朝鮮建築のために」を書いて内外に訴えた。これが功を奏して、光化門は破壊を免れ、移転保存されることになったといわれています。1922年「改造」9月号に『失われんとする朝鮮建築の為に』と題する文章引用「一つの芸術の失われんとする運命に対する追惜と、王宮の正門であるあの壮大な光化門が取り壊されることについて、東洋古建築の破壊に対して胸を締め付けられる想いを感じている」と、嘆く柳宗悦の文章でありました。 柳はまた、陶磁器、仏像、木工品、民画、民芸品等の貴重な芸術品が朝鮮から散逸していることに心を痛め、私財を投じてこれ等の芸術品を集め、当時朝鮮林業試験所に技師として勤めていた淺川巧の協力を受けて、1924年ソウルに「朝鮮民族美術館」を開設します。総督府は「朝鮮」という文字を看板から抜くように迫っりますが、柳は最後まで抵抗して、「朝鮮」と言う言葉を守ります。柳が集めた芸術品は現在、韓国国立博物館に保管されています。また、柳はこの経験を生かして、日本に民芸運動をおこし、12年後の1936年東京に日本民藝館を開設します。今も、一室には朝鮮の芸術品が常時陳列されています。 第四に21回にわたり朝鮮を訪問し、多数の朝鮮人と接触して文化交流、心の交流を行ないます。以下は1921/5/5の東亜日報の記事には「朝鮮人を本当の心で愛する人は東洋大学教授の柳宗悦である。また豊かな、円熟した技芸を持つ…柳兼子氏はその夫人である。…朝鮮の友である彼らは、朝鮮を愛し、朝鮮の美術を愛するので…民族の命が流れる古代美術品が朝鮮から流失することを誰よりも惜しく思って、朝鮮民族美術館をたてた。」と記されています。 大正10年雑誌「白樺」1月号の「朝鮮民族美術館設立趣意書」の一節を引用より。ポジャギ 《これは骨董ではない》晶文社より「私は先ずここに民芸芸術としての朝鮮の味ひのにじみ出た作品を蒐集しようと思ふ。如何なる意味に於いても、私はこの美術館に於いて,人々に朝鮮の美を伝えたい。そうしてそこに現れる民族の人情を目前に呼び起こしたい。それのみならず、私は之が消えようとする民族芸術の消えない持続と新たな復活との動因になる事を希(ねが)ふ。」 消えようとしている李朝(1392年から1910年)の工藝の美しさを、喧伝して、それを朝鮮民族の誇りとして、名も無い職人たちの造った、用のための工芸品には、それが美を追求したものでない故の、美しさがあり、無心でつくられた道具たちには、すべてに美はやどる。この美に反応する心の韻律をもち、豊かな共鳴の心を持つならば、あらゆるものに宿る美を感ずる事ができる。柳の朝鮮観にはもちろん、「独立のために革命をしてはならない」等の思想的な限界もみられますが、当時、植民地となった、まさに暗黒の時代であった朝鮮にあって「民族」を否定され、日本の暴虐に訴えることもできなかった朝鮮人にかわって、柳が勇気ある正義の発言をしたことや、朝鮮の芸術品の優秀さ、美を発見し、世界に紹介したこと、朝鮮人と心からの交流をしたことなどは、彼の思想的限界をはるかに超える立派な行動とし、高く評価されるべきでしょう。 今も尚、蔑視、偏見、差別がいまだ残っている日本の中で人間としての誇りと自覚をもって生きるためには、民族文化を理解し、異国の民や文化に敬念と情愛をもって接してくれた柳のような日本の友は、依然として今日も貴重な存在であると思います。《柳宗悦の文化賞授与》1957.11(67歳) 文化功労賞 1960.1(71歳) 朝日文化賞 1984 (没 後)韓国政府より宝冠文化勲章 [編集] 著作手仕事の日本(岩波文庫) 南無阿弥陀仏(岩波文庫)茶と美(講談社文庫)民芸四十年(岩波文庫)工芸への道(講談社文庫) 美の法門(岩波文庫) 柳宗悦茶道論集(岩波文庫)柳宗悦妙好人論集(岩波文庫)柳宗悦随筆集(岩波文庫)工芸文化(岩波文庫) 蒐集物語(中公文庫)朝鮮を想う(筑摩書房) 柳宗悦全集(筑摩書房) [編集] 外部リンク日本民藝館 http://www.mingeikan.or.jp/index.html
2006.11.03
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金 一(リング名:大木 金太郎)氏 逝去 頭ヅキの大木 金太郎、その人のレスラーとしての人柄、韓国での国民的人気は有名ですが、朝鮮戦争前夜の韓国のおいて軍事裁判にかけられ、死刑求刑の直前まで行き、後日、日本への密航と、彼も又、歴史の中で風の花の様にさまよった一人です。中央日報 2006/10/26【頭突きの元プロレスラー、大木金太郎さんが死去】1960~70年代に必殺技の頭突きで鳴らした往年の有名プロレスラー、大木金太郎(おおき・きんたろう、本名:金一=キム・イル)さんが26日正午、ソウル市ノ原区下溪洞(ノウォング・ハゲドン)の乙支(ウルジ)病院で死去した。77歳だった。主治医を務めた乙支病院のチェ・ジェウン教授は「頭突きの後遺症や糖尿病、高血圧、慢性心不全などで闘病生活を続けていたが、同正午17分亡くなった」と伝えた。直接の死因は心不全。心臓疾患による高血圧や糖尿病などを併発し、入院生活が続いていたが、25日から危篤状態に陥っていた。全羅南道(チョンラナムド)の高興郡(コフングンン)出身。金一はいつ韓国から日本に渡り、力道山道場に入門したのか 金一自身によれば、1957年に密航し、捕まって大村収容所に1年いた。そのときに力道山に手紙を出し、それがきっかけとなって釈放され、力道山道場に入門。58年12月にデビューを果たした。また、韓国のウェブサイトには、1956年密航、57年入門、と記載したものもある。他方、日本のプロレス本を見ると、さまざまな説があり、定説がない。密航と入門の時期はグレーゾーンだ。 1. 60年4月に日本プロレス入りしたジャイアント馬場の自伝によれば、大木 金太郎は1年先輩とある。つまり、大木は59年の入門ということになる。 2. ベースボール・マガジン社編「日本プロレス全史」(ベースボールマガジン社、1995年)は、59年4月に日本へ密航したと記載している(65ページ)。 3. 力道山の連れ合いであった田中敬子の著作『夫・力道山の慟哭』(双葉社、2003年)186ページには、「1958年、25歳で日本に密入国し拘束される。拘置所から力道山に手紙を出し、身元引受人になってもらってリキ道場に入門する」とある。 4. 東京スポーツ新聞のプロレス担当記者だった原康史は次のように記している。「この“力道山道場”には前年〔1959年--引用注〕暮れに韓国から来日して入門した大木金太郎(本名=金一=キム・イル=当時27歳)……」(原康史『激録 力道山 第3巻』東京スポーツ新聞社、102ページ) 以下の記事は 辛淑玉さんの 大木 金太郎物語からの抜粋記事です。生死の分かれ目1948年10月20日、金一の故郷である居金島と同じ朝鮮半島南岸に位置する麗水に駐屯していた国防軍第14連隊の一部が、「人民解放」を掲げて反乱を起こした。 日本からの解放後、48年8月に大韓民国が成立し、それを追うように9月には朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮半島に二つの国家が誕生し、南北分断が決定的となった。 それに先立つ同年4月3日、済州島で民衆が立ち上がった。南の単独政府樹立に反対するというスローガンを掲げていた。軍と警察が合同で鎮圧しようとしたが失敗。韓国政府は第14連隊の兵力約三千人を済州島へ送るという決定を下した。世に言う「四・三事件」である。済州島での殺戮は、軍事政権下では長い間隠蔽されたままとなった。 済州島派兵予定日の前日である10月19日、金智会・李起鐘・朴基岩などに率いられた第14連隊の反乱軍約千人は夜明け前に麗水の主要官公署を掌握、「人民解放」を叫び、北朝鮮の旗を掲揚した。その後、約四万人の群衆が動員された。一週間後、反乱軍は国軍によって鎮圧され、一部が智異山に逃れた。 第14連隊には金一の友人8人がいた。彼らは反乱の後、故郷に立ち寄っている。その時、金一は彼らに食事を出した。 韓国でも在日社会でも、「ご飯食べましたか」は挨拶である。客人に対して食事を振舞うのは当たり前のことなのである。今でも、人が尋ねてきたのに食事も出さずに帰したとなると、信じられないと言われるほどである。 しかし、そのことが問題となった。 食事を出したことを理由に、国家反逆者の烙印を押され、連行されたのだ。 事件鎮圧後、金一は「主導者」とみなされ、罪状は友人をだまして第14連隊に送ったこととされた。そして、光州まで連行された金一は、殴り殺されるとはどういうことかがわかるほど殴られた。 軍事裁判で検事が金一に尋ねた。 「お前はなぜ南朝鮮労働党に加入したのか」 金一は答えた。 「南労党とは何ですか。私は知りません」 「おい、お前はここに署名までしたじゃないか」 「私は南労党が何なのか知りません」 堂々巡りが繰り広げられた。 と、その時、検事の帽子が床に落ちた。 金一は無意識のうちに立ち上がり、帽子を拾った。 パンパンと帽子の埃を払い、元の場所に戻した。 理由などない。 落ちた帽子を拾って元の場所に置く。それは金一の性格そのままである。 自分に対してひどいことをした人であろうとなかろうと、誰に対しても礼をもって対応する。 検事は金一の顔をじっと見つめていた。 そして書類に何かを書き込んだ。 それが生死の分かれ目だった。 金一は釈放された。 一緒に連行された人々のうち、彼以外はすべて死刑になった。 次女金スンヒのインタビュー記事(1970年8月12日付韓国誌『週刊女性』) 「一年のうちせいぜい二ヶ月ほどしか家族と一緒にいない父ですが、一緒にいるときは私たちに対して限りなく情が溢れ、家庭的な父です。私たちが取り散らかしたものをいつも手でこまめに片付けてくれるのです。娘たちが恥ずかしがるほどのこまごまとしたものまで、微笑みながら隅々を探して回るのです。私はあまり外に出ないので服が少なく、簡素なほうです。それで、三日ほど同じ服を着て過ごしていると、『お前は女なのに一体なぜそんな格好なのか』と怒られることもあります。 米国のようなところに行くと、帽子や鞄のようなものを買って送ってくれます。『米国の女性たちは帽子やカバンを愛用する。このごろはこうしたことが流行しているようだよ』という手紙まで一緒に送ってくれるのです。この前、テキサスのほうに試合をしに行ったときは、つばのとても長い、大きな帽子を贈ってくれました。『最近テキサスで流行しているので、お前も一度被ってみろ』という手紙も一緒です。それでとても笑いました。」 大木 金太郎 物語り13] 「珍島犬の思い出」麗水順天事件で首謀者とされ、生死の境目を越えた。容疑は晴れたものの、朝鮮戦争が終わった後も、金一は要注意人物としてマークされ続けた。麗順事件のときに連行された経験があることが、軍事政権下で疑いの目で見られる要素となった。金一は、連行されては釈放される、の繰り返しだった。そのため、子どもたちは進学でも大変苦労した。貼られたレッテルは、長い間、家族をも苦しめたのだ。暇があれば新聞に目を通す金一の姿は、多くの人の印象に残っている。ある日、週刊プロレスの編集長(当時)だった井上が、現代の社会について書いてほしいと申し込んできた。金一は、『社会には二つの波がある…』など、独自の理論で現代社会を分析した内容を書いた。誰かが代筆をするのかと思っていた者もいたが、若者にアドバイスをするイルの姿は、リングの上の「頭突きの金太郎」とは、一味も二味も違っていた。金一記念館の前には、珍島犬の碑がある。「珍島犬の思い出」は、金一が自ら語った文章があるので、それをそのまま紹介したい。(全訳)『私の幼いとき、山河を遊び回っていた忠実な私の友、珍島犬よ!日本軍の軍用防寒服を作るという理由で死の橋へ引かれていったその姿が、長い歳月のたった今も、私の脳裏を離れません。日本の巡査の強圧に勝てず、私はその首に縄をかけて日本の巡査に渡し、ずっと泣きました。私の友、珍島犬は、日本の巡査に引かれ、犬を殺す橋のほうへ向かいながら、こちらを何度も振り返り、ついに見えなくなりました。しかし一時間後、脱出して私の元へ舞い戻って飛び回り、私は嬉しくて胸に抱きかかえました。私は、友達の珍島犬の首に縄をかけて死の道へ送りましたが、珍島犬は私を永遠の主人と思っていました。じゃれ付くその姿が今も目に浮かびます。人間には互いに裏切り憎み合う者がいても、忠犬は主人を裏切らずに最後まで仕えるという昔の言葉が、今更ながら、私たちに多くの教訓を与えてくれます。日本の巡査に引かれていく私の友、珍島犬を眺めるだけで最後まで世話をしてやれなかったあの日のことは、今も、とめどなく泣きたくなる私とわが民族すべての恨や悲哀として残っています。あのとき、あの時代、悲鳴を上げながら行った私の友、いや、われわれすべての友、珍島犬の悲しい涙を思い、二度とこの地で、草一株、犬一匹も外国勢力の犠牲にならないよう望みます。私たちの過ちを許してくれるよう今も願いつつ、この小さな碑石を珍島犬に捧げます。1994年10月3日 前NWAインターナショナル・ヘビー級世界チャンピオン 金一』金一は、力道山を生涯尊敬する師と仰いだのと同じように、目上の人に礼を尽くした。ソウルにいる間は、どんなに夜遅く帰宅しても必ず母(ソンチョジャ氏)がいる部屋に行き、あいさつをした。母も息子のあいさつを聞いてから就寝した。 1965年、朝鮮半島全体が日照りの厳しい年だったとき、農村の灌漑地域に揚水機50台を密かに寄贈し、1978年には、生活が困難な人々のために救援用ラーメン200箱(当時の価格で約50万ウォン相当)を江南区庁に寄付した。引退後の闘病生活中には、ファンから送られてきた浄財の一部を「自分よりも不遇な隣人のために使ってくれ」と差し出した。 だからこそ、10年前、死刑宣告を受けたある死刑囚が、「死ぬ前に金一を助けたい」と刑務所で少しずつ貯めた100万ウォンを送ってきたのだ。 感動した金一は、「この金は受けとれない」と受け取りを拒み、反対にバザーなどで入ってきた200万ウォンを死刑囚たちと視覚障害者にカンパした。 寄付や支援のカンパは数え切れない。 どれだけ寄付をしたか、もう本人にも分からないほどだ。 信義を大事にすること。人を信じること。それが金一の人生での大きな危機を何度も救ってきたからだ。
2006.10.27
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韓国の新聞からのパロディー風刺#02 2006年10月16日 京郷新聞掲載
2006.10.21
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痛烈な皮肉、、面白いんで時折、載せます。《20061017ソウル新聞》
2006.10.19
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朝鮮はニワトリ、中国は豚? 漫画に見る日本帝国主義 【新刊】韓相一、ハン・ジョンソン著『日本、漫画で帝国を描く』(一潮閣) 豊臣「おや、伊藤公ではありませんか。意外に早くこちらへ来られましたね。貴公の胸に生じた傷は何よりも貴重な勲章です」 伊藤「偶然起きた事件のため、こんなに早くあの世へ来ることにはなりましたが、300年前貴公が初めて見せた意志を、今日ようやく成し遂げました」 これは1910年11月、日本の時事漫画雑誌『東京パック』に掲載された漫画の内容だ。「あの世で会った両雄の握手」という題名の絵で、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を起こした豊臣秀吉が初代韓国統監・伊藤博文との出会いを喜び、握手しながら韓国併合を祝っている場面だ。その左下には安重根に狙撃された伊藤の血が韓半島(朝鮮半島)を赤く染め、日本領土となっていく絵が添えられている。この漫画を通じ、日本国民は伊藤の血が韓国併合の土台となり、秀吉以来追求してきた歴史的課業が完遂されたと考えるようになった。 近代西欧文明をいち早く受け入れた日本は、19世紀末に帝国主義へと進出し、時事風刺漫画を通じて帝国建設の正当性を広く訴えようとした。そして、文章よりも素早く様々な意味を伝えられる漫画は読者たちを一挙にとりこにしていった。同時期に創刊された『The Japan Punch』、『団団珍聞(まるまるちんぶん)』などの時事漫画雑誌や『時事新報』、『大阪朝日新聞』などの新聞は時事漫画を通じて朝鮮と中国を「野蛮」に、日本を「文明」として描き、国民の積極的な参加を導き出した。朝鮮は時事漫画の中でしばしばニワトリにたとえて描かれた。1905年乙巳条約が締結されると、『東京パック』はかごに閉じ込められたニワトリに日本人の主人がエサを与える漫画を掲載した。さらに『団団珍聞』にはニワトリ1羽を巡り、穏健派の伊藤博文と強硬派の桂太郎がどのように料理するかをめぐり言い争う絵が掲載された。 このように漫画の中の朝鮮はだだをこねる幼子や、か弱い女性のように、常に保護されるべき対象として描かれていた。また、中国は豚として登場し、汚く醜い存在として描かれた。一方、日本は昇る太陽または精かんで活気に満ちた軍人の姿で登場した。こうした漫画を通じ、日本国民は「アジアを文明の世界に導く日本」という認識を内面化しつつ、帝国建設に進む道に自ら喜んで献身した。 このように漫画を通じて日本帝国主義を分析した『日本、漫画で帝国を描く』の著者は実の親子だ。父の韓相一(ハン・サンイル)国民大教授は日本政治を専攻した政治学者であり、娘のハン・ジョンソン博士は日本文化史を専攻した歴史学者だ。2000年に父の方から一緒に本を書いてみないかと提案し、6年越しで実を結んだ。 この本は朝鮮の開国から日清戦争と日露戦争、韓国併合、そして最近出版された『嫌韓流』まで、日本の漫画を通じて見た「視線の政治」を整理している。ハン・ジョンソン氏は「今日の日本の漫画は、過去の時事漫画が作り出した隣国をわい曲するイメージを再び呼び起こし、日本帝国建設への参加を促している」と語った。
2006.10.15
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存在していること自体が危険な...韓半島 12年前、1994年にも、北朝鮮と韓国が一触即発の状況になったことがある。 「お宅はもうラーメン買った?」が主婦たちの挨拶の言葉だった。大型スーパーの陳列棚が、ラーメン売り場の部分だけがらんと空いていた。もともと我が家の上空は航空機の通り道らしく、普段でも旅客機の姿をよく見かけるのだが、あの頃は特に、低空を行き交う飛行物体(たぶん軍用機やヘリコプター)が急増して、爆音のために、日課の昼寝にかなり支障をきたしたものだ。最終的には米国のカーター元大統領が北朝鮮を訪問し、なんとか危機を逃れたが、現在の状況はあの頃以上に、さまざまな危険の要素で満ちている。だいたい、30-40代では、核実験が経済や環境に及ぼす悪影響を憂えており、それ以上の世代は北の金正日と「太陽政策・包容政策」をとってきた金大中・盧武鉉を呪い、10-20代は比較的無関心なのだそうだ。一部の若い北朝鮮信奉者たちは、核実験を容認・歓迎し →逆の立場の、北の体制を敵視する人たちは、韓国も核武装すべきだなどと言い出す始末。 → どっちもどっちなのである。今回、まだラーメンやブタンガスの買占めが起きていない理由について、その間の北朝鮮に対する包容政策による「安保不感症」のせいだとか、言われているけれども、実際のところは、韓国に住んでいる限り「すでに逃げ場は存在しない」ことを悟った大多数の庶民の、大いなる【諦め】が最大の原因だと思う。 転載元:いつでも韓国
2006.10.14
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