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「ますや」と「あずまや」の間の細い路地を抜けると楠久川には木の橋がかかっていたんだいまはもうまい・・・「ますや」も「あずまや」もやがてどこだったのかもわからなくなってしまうのだろう 「しらうお」なのか「しろうお」なのかいまだにはっきり区別がつかないんだがちいさなしろいさかなにちがいはないいまも村人のだれかたちが季節になると網をこうして仕掛けている姿がみられる 楠久津には路地というか数軒の家々に名前がついていた(後日詳しく書く)そして楠久川の南側の道を「新田(しんでん)」と呼んでいた。その新田の道の南側に本当に狭い土地を祖母がかりて野菜を作っていた。誰からかりた土地なのかも知らない。我が家の畑だと思っていた。とうきび(トウモロコシ)が実ったことだけをはっきりとおぼえている。 実を言うと「楠久川」も「楠久橋」とかいう呼び名になじみがないのだ川なのか海なのかわからないのが楠久川だったし川遊びといってもかなり危険で海水だったから福川内のほうから流れてきてて荒熊稲荷神社の横あたりまではたしかに田舎の川のような景色なのだが山代座のあった橋あたりから先が僕らにとっての川なんだが・・・縄屋の裏に石段があって川までおりていけたがフナムシがたくさんいていっせいに動き出すのが子どもの頃はすこし気味がわるかったんだ・・・ きれいな川ではなかったがまぎれもなくぼくらのふるさとの川にまちがいない資料:楠久川水系
2012.02.17

おめでたいせきにさんかしてきたがしょうじきいってつかれた上々颱風のうたからげんきをもらおう!
2012.02.11

うたは癒さなければ歌とは呼ばない音楽は癒さなければ音楽とは呼ばない
2012.02.10

楠久津に床屋はなかったからおふくろが知り合いの散髪屋さんを家に呼んで土間で髪を切ってもらっていた。まるでおぼっちゃまみたいな環境みたいに受け止められるかもしれないがぼくがひとりっこで気がよわくて家からでていけなかったものだからしかたなく床屋さんに来てもらっていたのだ。貧しい家の暗い土間で髪を切ってもあっていたことをはっきりと記憶している。さて昭和38年頃縄屋の2,3軒先に新しい家が建った。水色のさわやかな色の床屋だった。われわれは「原床屋」と呼んで小学生になるとよくいった。原床屋のおじさんんがお金を受け取る姿を見て「将来はおいも床屋さんになろう!」と心にぼんやりと夢見たことがあった。小学1年生のときの夢が大工さんだったので小学2年生のときの夢は床屋さんだったから原床屋ができたのは昭和38年か37年だったと思う。昭和38年には楠久津に水道ができた年でもあった。わがやにテレビが購入されるのは翌昭和39年の春だった・・・ちなみに原床屋の建物も昨年かおととしになくなった。われわれの記憶のなかにあるのみである・・・
2012.02.03
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