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原爆投下後10年後の広島を描いています
1955年の話
当然、自分は生まれていません
でも、自分が存在する、そのまた10年後の広島も同じだったように思います
1965年
幼い自分は、父方の祖父母の家の敷地に建てた家に住んでいました
今は姪が住んでいます
妹も生まれたばかりでした
自分は幼稚園に通い始めたばかりだったと思います
地方新聞社の中国新聞社がまだ、八丁堀の天満屋の横にあった頃です
(今は、本川を挟んで平和公園の向かいに位置します)
その近くの幼稚園に自分は通っていました
カトリックの幼稚園でよく賛美歌を聴かされました
あのころ幼稚園に通えた自分は幸福だったと思います
まだ、貧困の差はあったと思うから...
母方の祖父母も八丁堀の近くの三川町に店を構えていました
二階の洗濯干場が「三丁目の夕日」の工場の上の洗濯干場と同じだったように思えます
あのころはみんな同じような木造の家でした
原爆が投下されて、20年たてば、さすがに町の様子は変わってきています
被爆当時の面影は、原爆ドームを除いて、町の片隅にひっそりと追いやられてしまっていました
でも、自分は覚えています
雨の日、母親に、「雨に濡れないこと」・「必ず傘をさすこと」を注意された事を...
今になって分かりますが、まだ、あのころも、放射能の雨が降ってくることが信じられていたのです
そして、映画「夕凪の街 桜の国」に出てくる原爆スラム
広島市民球場の横、相生橋のところから北にずっと延びていたトタン屋根の長屋
あれは何だったのだろうと幼い頃からずっと思っていました
そして、忘れもしない紙屋町近くのビルの大きな石に刻まれた真っ黒なあと
その頃、すでにアクリルカバーはしてあったと思いますが、「原爆投下の時、そこに人が座っていた時にできた影」と説明にあったと思います
当時、その影は人間が熱によって溶けて張り付いたと言われましたが、DNA鑑定の結果それは無かったようです
閃光によって、影ができてしまうとはどんな光なのでしょうか?
その石は、その影が薄くなって、今、原爆資料館に展示されてあります
戦争を知らない自分でも、これらの事は、貴重な体験だったと思います
1965年当時の映像はもしかしたら、今、僕の母方の祖父の遺品である8ミリフィルムに写っているかもしれません
「夕凪の街 桜の国」の主人公:皆実が亡くなるときにこんなことを言いました
「十年経ったけど、原爆を落とした人は私を見て「やった!またひとり殺せた」とちゃんと思うてくれとる?」
放射能とは、孫子の代まで、人間を苦しめるものなのです
(2007.08.11の手記を利用しました)
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