フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマル
シリア方面のアララクやウガリトから出土しています。
BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世が
フルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。
このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服され
ウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。
これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。
フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで
妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので
同習俗、同種族とされる理由になっています。フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。
フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し
アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますが、 この ウル第三王朝~ミタンニ~
ウラルトゥの流れが満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。
もう一つの南回りのルートは、 シュメール ~ インド ~ ベトナム ~ 満州 という【シャキイ族】のルートです。
これが 【安冕あめ】氏 と 【 阿毎あま 】氏 の二系です。
ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが、【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】
の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみてとれます。
神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。
古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
しめ縄の原点であり、【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のように
からませています。有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。
【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の
蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは
亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。
ウラルトゥとしばしば戦いを交えたのがアッシリアで、シャルマネサル3世や4世が知られますが
彼らは【ウルアトリ、ナイリ】と呼びました。
アッシリアは、セムの2子、アシュルの流れでセム系とされていますが、支配階級は、ハムの子
カナンの子孫、【旧約聖書】では、アララト王国となっています。中東の遊牧民族のなかにあって
農業を主としており、この点シュメール人と同じです。
【ウラルトゥ王国】は、BC9世紀始めにアラメによって建国され、アラメがアッシリアの
シャルマネサル3世によって追放された後、次のシャルドウリシュ1世が国力を回復し
アッシリア軍を撃退、以後、ウラルトゥとアッシリアは何度も交戦しますが
この【天皇家】と【カナン人】の敵対は数千年の歴史を経て今に至るも続くことになります。
【ウルク】もバール信仰で、【ウル】の天神アンに敵対しましたが、もっと遡れば
インドのナーガ族とアーリア人の敵対に端を発します。
【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの
優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し
首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが
このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。
【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアの
ウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。
セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。
この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。
ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされますが
彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし
服していましたが、アレキサンダーによってペルシアが滅びた後、その一部が扶余を建てました。
ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部
のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余前期王朝
を建てたのです。
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