セレンディピティ

セレンディピティ

2010/09/23
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カテゴリ: カテゴリ未分類
そこに行けば どんな夢も
   叶うと言うよ
   誰も皆 行きたがるが
   はるかな世界
   その国の名はガンダーラ
   どこかにあるユートピア
   どうしたら行けるのだろう
   教えて欲しい
   In Gandhara,Gandhara,
   they say it was in India
   Gandhara,Gandhara
   愛の国ガンダーラ

  生きることの 苦しみさえ
  消えると言うよ
  旅立った 人はいるが
  あまりにも遠い
  自由なそのガンダーラ
  素晴らしいユートピア
  心の中に生きる
  幻なのか
  In Gandhara,Gandhara,
  they say it was in India
  Gandhara,Gandhara
  愛の国ガンダーラ


仏教遺跡、ヒンドゥー・クシュ山脈の端にあるバーミヤーンの谷は、インドと西アジアを結ぶ

交易路として栄え、古代から砂漠のオアシスとして知られた緑豊かな渓谷でした。

バーミヤン渓谷には男像、女像と呼ばれる西と東の大仏様があり土地の人々は

2体の仏像を父・母と呼んでいました。

バーミヤーンの仏教文化は繁栄をきわめ、200年後の630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れた

時にも大仏は金色に光り輝き、周囲の壁には仏画が色鮮やかに描かれていたといいます。

しかし、偶像崇拝を否定するイスラム原理主義勢力【タリバン】によって爆破されてしまった

ことは記憶に新しく、胸の痛い事件でした。

玄奘三蔵はここを訪れたあとインドに向かったといいます。

ヒンドゥークシュ山脈は北の中央アジアに向かうアム・ダリアと南のインドに向かうインダス河

の分水嶺でもあり、ここをインド古道と呼ばれた文化・交易の路が通じていました。

此処は、かつて、いにしえのの倭王たちが支配したイスラム化以前の西域でもありました。

バビロニアのイシン王国が滅びた時、その一族は東に逃れました。

タクラマカン砂漠の北部、イッシク・クル湖からクチャを経て、カラシャール、トルファンに

かけての地帯が箕子(シン王の従兄)またはシウ殷の故地でした。

砂漠の南部、ホータンからチェルチェンを経てロプ湖畔の楼蘭に至る地帯が

辰国=ウガヤ王朝の故地になります。

扶余は、その西方のアラル海とアム河・シル河、両河に挟まれた原野地帯に建国し

王家は昔姓でサカ族の王を称し、王号を【シウスサカ】といいました。

後に、西域諸族は北部に元、 南部に契丹を建てることになりますが

元は狼と大鹿、 契丹は馬と牛の部族であって、そのルーツは扶余と箕子朝鮮に遡ります。

契丹は満州から内蒙古を支配していましたが金に敗れ、その王族はジンギスカンに従いました。

ヒンドゥークシュ山中に源を発し中央アジアのアラル海に注ぐアム・ダリア大河流域には

かつてバクトリア王国が存在していました。この国はBC4世紀後半のアレキサンダー大王の

東方遠征に伴ってつくられたギリシア人の植民国家でした。

アレキサンダーの死後はセレウコス朝(シリア)、マウリア朝(インド)

アルサケス朝パルティア(イラン)などの手に委ねられましたが、最後はBC145年頃、北方から

侵入してきた遊牧騎馬民族のスキタイ(サカ)によって滅ぼされました。

このスキタイ(サカ)は、かつて中国西北部の河西回廊から敦煌にかけて勇躍していた

月氏(大月氏)のことですが、後にガンダーラからインドへと進出した

クシャン族であったとも言われています。

そのクシャン族がタリバンによって破壊されたバーミアンの大石仏を造営したのです。

そして、この人々が日本に渡来した蘇我氏と思われます。

アソカ王の説話は、彼らサカ族の扶余人が、コータンを支配するアメニギ氏(アッカドの末裔)系の

月氏を憚って、サマルカンド南方のバクトリアに建国した事実を示します。

コータンはクスタナとも云われ、三蔵法師玄奘の【大唐西域記】に美しい描写で記されます。

【この国は砂磧が大半だが、五穀によろしく果物も豊かである。毛織物、細毛織物を産出し

職人は美しい織物を織ることができる。またこの地方は白玉や黒玉が多い。

気候も温和で、人々は礼儀を知り、学を尊び、音楽が好きであり、風儀も正しく、他の胡人とは

異なっている。文字、法律はインドのあり方に従い・・・王は勇武で、仏法を重んじ・・・・・】

マルコ・ポーロも【東方見聞録】にオアシスの町と記します。

【崑崙山脈から発した川はカラ・カシュ河(白玉河)、ユルン・カシュ河(黒玉河)が合わさって

コータン・ダリアとなる。コータンは、この二つの河の合わさった河のオアシスに発達した町であり

この河からとれる玉が、いわゆるコータンの玉であり、崑崙の玉であった。玉には軟玉と硬玉とが

あったが、軟玉が珍重された。それは古代からで、玉は天地の精、陽精の至純なるものと

考えられ、多くの徳があるとされていた。天子は白玉を、公侯は玄玉を、大夫は蒼玉を

帯びなければならなかった。天子の冠にも、刀の鞘にもそれは飾られていた。ところが、

この玉たるやどこから入って来るのか、正しくは誰にも分からなかったのである・・・・・。

これらの玉は多く、異民族の貿易商人の手を経てもたらされた。それは東北の異族のときも

あれば西南のチベット族、タングート、ウィグル族でもあった。これらの商人たちは上質の玉は

みな崑崙の玉と呼んだ・・・・・。】






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最終更新日  2010/09/23 12:57:28 PM


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