奈良県明日香村の牽牛子塚古墳
が斉明天皇陵とほぼ確定されたといいます。
果たして本当に斉明天皇陵でしょうか?
日本史の【斉明紀】が、実は新羅史だとしたら?
斉明天皇とは新羅王真徳のことだとしたら?
663年8月に白村江の戦いで倭国の水軍は壊滅し、
百済・倭国 は滅亡、唐・新羅連合軍による日本占領がはじまり
壬申の乱までは新羅史だった可能性があります。
新羅の善徳王(632~647)というのは女帝ですが、
和白( 新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体 )の筆頭であった伊食比曇が
唐にそそのかされて、女帝を廃そうとして、廉宗と共謀して王位を狙い、
647年正月に反乱を起こした。このとき、王子の金春秋(のち、新羅30代文武王)と
重臣の金庚信が比曇を誅殺しました。 これを【比曇の乱】というのですが、【日本書紀】では、
女帝の皇極(642~645)のとき、大臣の蘇我入鹿が王位を狙い
645年6月に中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、
実はこれは新羅の【比曇の乱】で、この後、唐制を模倣して法治主義を採用しました。
大化の改新の実体は新羅の事件であった、占領国新羅史を日本書紀に反映させたと思されます。
新羅史では真徳王(647~654)という女帝が立ったのですが、
【日本書紀】では皇極のあと孝徳が立って、そのあと皇極が重祚して
斉明(655~661)となっていますが、そういう事実はなかった・・・・・。
孝徳のモデルは百済の末王義慈王の長男孝ですから、
これは藤原仲麻呂が「日本紀」を改竄したときに追加したもので、
舎人版【日本紀】にはなかったと思われます。
そうすると、原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルも
やはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王でした。
のちにその間に孝徳が入ったということになります。
白村江の敗戦の結果、唐・新羅連合軍により占領下におかれた時期を日本書紀は
【斉明紀】としています。【日本書紀】は、白村江の海戦に於ける倭国水軍の司令官として
【阿曇比羅夫連と阿部引田比羅夫臣】という二人を登場させています。
しかし、阿部氏と荒吐族は、新羅水軍でありました。阿曇水軍は、戦後消えます。
奈良県の飛鳥時代の不思議な石造物や文化財、石人男女像、猿石、二面石、亀石
益田の岩船、酒船石、須弥山石など大和朝廷の史跡に指定していますが、これらは
大和朝廷のものではなく、すべて イ妥国( 秦王国・古代日本ユダヤ王朝 ) の文化遺産でした。
紀元前一世紀、奈良盆地にユダヤ人のコロニーがつくられ、やがて紀元1世紀になると、
委奴国の人々もユダヤ人の文化である銅鐸文化と前方後円墳文化の
拡散に尽力しながら、近畿地方へと到達しました。こうして、【国史】に名が出てくる、
宇治氏・羽田氏・和珥氏・土師氏らが、シメオン族(秦氏)のクニ、
秦王国( 【記紀】でいう大和朝廷・飛鳥王朝 )を大和に建てたのです。
この【秦王国】は、中国の始皇帝の秦がBC206年に滅びた後、その子孫たちが
海を渡って日本へやって来て築いた国です。始皇帝は実は古代ユダヤ民族のシメオン族の
血を汲んで、バクトリア知事であったディオドトスというのがその正体で彼は碧眼で鷲鼻をもつ
男性でした。その西域人の流れを汲んだ人々が日本へ渡来し、シメオン族という
古代ユダヤ人の一部族、その族長が国史でいう大国主命で、彼が九州に上陸して造った
のが委奴国というクニでした。
この委奴国の前に北九州の地にいたのが、ガド族の猿田彦命を中心としたグループの
伊勢国でした。その伊勢国を攻め滅ぼして樹立したのが委奴国でした。
委奴国にいたユダヤ人(シメオン族・レビ族・ルペン族)および苗族らの人々は
急遽、博多から乗船して瀬戸内海を東遷しましたが、その途中、一行のうち500人は
周芳国・徳山湾(旧近江ノ海)に滞留します。そして別行動の本隊、約300人は摂津(大阪湾)
に上陸し、先住していたガド族との間で激しい戦いとなりました。
一時は、ガド族を撃退しており、このことは記紀の神武東征神話にも【ヤタ烏の物語】として
投影されています。この後、 豊ノ国(大分県)から宇佐八幡宮の神霊を奉じ亡命してきた東表国
の人々も合流して【遠石八幡宮】・・・宇佐八幡の分霊を祀る石清水八幡宮・・・ を建てました。
最後にはシメオン族が勝利して奈良に入り、秦氏の一行に参入して【秦王国】が建てられました。
【壬申の乱】は、秦王国(イ妥国)に於ける戦いで、
大友皇子ではなく実は、 東漢氏(レビ族)出身の秦王国最期の天子の指揮を受けた秦王国軍
は、 侵入してきた新羅軍と一ヶ月も勇敢に戦い、 この時、大王家に忠誠心が強かった
蘇我氏の一族は この王と最期まで運命を共にしました が、秦氏およびユダヤ・シメオン族らの
諸部族が 新羅の花郎軍団の統率力を見て、戦いの無意味さを悟り、一斉に寝返って
新羅軍に 降伏したため、王家の軍は孤立して総崩れになったといいます。
これより以降、秦王国の豪族たちは新羅側の軍政に協力していくようになりました。
そのため、 機織部の秦氏のグループは敗北し、雪崩を打って秦王国の分国地・関東地方
へ 逃亡し、やがて彼等は鹿島神宮や静神社の機織部領域付近、蘇我、行徳および
秦野付近など に散居して逼塞したのでした。
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