セレンディピティ

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2010/10/16
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倭人のルーツと辰国の歴史を解明するために耶律羽之が撰録した【契丹古伝】は

大変貴重であると思います。従来の古史古伝【宮下文書】【上記】【竹内文書】【秀真】

【先代旧事本紀】と 【契丹古伝】を照合すればオリエント~シルクロード~朝鮮~日本への

東夷諸族の歴史が ほぼ解明できることを考えれば専門家によって再研究していただきたいと

願わずにいられません。

時が経てば、これらの資料はさらに散逸し、手がかりの地名も変更され、

史実は空をつかむように 消えてしまうでしょう。

では、【契丹古伝】とは、どのようなものでしょう。

【契丹古伝】は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の

史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、

幻の渤海史料によって構成されていました。そのため固有名詞の音借表記が契丹音に

よるべきか、渤海音によるべきか同定が困難でしたが、古代日本語による解読を許容

すると推定される部分もあり、 古代においては東アジア全域に共通する言語圏が

存在したことが想定されます。  この【契丹古伝】が世に出た経緯はと云いますと。

日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に

駐屯中の浜名寛祐は、 広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられました。

もとはある古陵墓より出土した秘物であり、 兵禍をおそれて移動したのちに、

同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるといいます。

これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に

成功し、 大正15年に【契丹古伝】(日韓正宗遡源)を発表しました。浜名は漢学者の家に

生まれたこともあり、 漢文には堪能でしたが、この難解な古巻には句読点さえつけることが

できないまま数年が経過しま したが、 たまたま【魏志東夷伝】を読み、馬韓の古語と

上代日本語に共通の語彙があることを発見、 それを緒として【契丹古伝】の解読を試み、

大正十五年、その結果を『日韓正宗溯源』と題して世に問 いました。

【契丹古伝】はスサノオ尊と同定しうる 神祖がコマカケとよばれる天の使い である鶏に 乗って、

聖地・白頭山に降臨したという 神話を核心とし、シウカラ(東大神族)と よばれたその末裔たち

が、 韓・満洲・日本の 3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝えます。

後に東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが 中国大陸に超古代王朝を築いた

先住民であり、契丹王朝もその末裔だったといいます。

【契丹古伝】第4章 神祖族

一族は万方にはびこった。廟をフトヒと云い宮廷をコマヤと云い

国をシウクと云い、一族をシウクシウと云った。いま神祖の子孫は

四方に建国するが、その源はすべて神祖より出ている

アシ族の豊ノ国をトヨアシハラといい、これは平壌から極東にかけて建国した辰国のことです。

また月夜見命はのちの大月氏、小月氏の祖であり、馬韓(マカ)ともいい、瑪珂(マカ)、

靺鞨(マカ)、 渤海(マカ)は、すべて辰国の同族であり

また箕子朝鮮は辰云殷(シウイン)というが、珠申(シウシン)、粛慎(シウシン、ミシハセ)、

朱真(シウシン)は、すべて同族であるといいます。

【辰王国】とは、実はウガヤ王朝のことです。ウガヤフキアエズの【ウ】は聖語で

【カヤ】は【干來】国(朝鮮)のこと。フキアエズは、支配者を示す。即ち【ウガヤフキアエズ】

とは 干來国王のことです。

後に辰国となる干來国は山東の莱夷ともいわれ、犬戎の乱のあと建国されます。

犬戎の乱とは、犬戎はウラルトゥのことで、周(アッシリア)を破ったことをそういいます。

犬戎の乱の敗北後、中国大陸での周(アッシリア)は覇権を失って、周に従っていた韓は亡び

燕もまた衰退しますが、箕子朝鮮は王統を扶余王家から国常立命を養子を入れて、

両族は婚族になって国常立命【スサノオノ命】が即位します。

契丹古伝~第37章

古の辰国の神祖の末裔には、 辰云莫率 がいた。

阿斯牟須(九州東表国) と同族で、その伯父の後裔を 日馬辰云

叔父の後裔を 干霊辰云 といった。

干霊は分かれて 干來 となり、また分かれて 高令(トルコ人・チュルク・高句麗) なった という。

その後はハッキリしないが、牟須から分かれて、殷と姻戚関係にあった

安免辰云(アメシウ・ウガヤ王家) は国を 賁彌辰云(ヒミシウ・ 高令・チュルク に譲った。

この時期は、漢が朝鮮半島を攻略した時期直前、衛満が滅びた前108年の後のことになります。

安免辰云(アメシウ・ウガヤ王家)が【国を 賁彌氏 に譲った】のは、辰が高令を招いて

卒本扶余を譲った後のことですから、前漢末に辰王家を高令が継いだことになります。

これは 箕子朝鮮が衛満の謀で亡びたとき、辰国がハム族であるチュルク族の高令を招いて

卒本扶余の故地を与えて高句麗を建てさせたため、

この高句麗が強大になって辰王家を継いだのです。

契丹古伝 第38章

「のち殷は亡び、その遺民が高句麗となったが、そのいきさつは漢が賄賂を使って匈奴の冒頓

殺させたので、犬戎は再び衰え、久しく辺境に潜んでいた。のちに辰が卒本の地域と?升骨

丸都の領域を提供したので高令族がやって来て高句麗をたてた」

第11章

「汗美須?」に曰く

「神祖(太祖王)は月支国に都し、平壌と名付けて神京とし、ヤチクシウク命に命じて治めさした」

これは、高句麗の太祖王の統治についてのことで、高句麗が辰国の王都に入って

朝鮮・九州・沖縄を支配したことを示すのであって、邪馬壱国 もその支配下にありました。

【上記】には、ウガヤ第43代王の時、アワナギ・クニアケノ命とツラナギ・サイカシノ命が

沖縄を開拓したとあります。この人々は辰国の前王家であるアメニギ氏の末であって、

後、反抗して狗奴国をたて、さらに新羅王家を作る朴・昔・金の三族です。

朴氏はシュメール・アラム系ユダヤの低地文化民族、昔氏はサカ族のサカを表わし

金氏は【宮下文書】に、スサノオノ命の王姓とあって、アラム(犬戎)族のことです。

沖縄神話に牛角鳥人の神子があり、今日でも簪によって身分を分け、これが牛角を表わします。

日本では朝鮮半島南部と九州豊国(東表国)を併合するニギ氏系(アメシウ)の前期王朝の

【天の王朝】が 朝鮮半島の主権を高句麗に渡した後、倭の大乱を経て畿内に侵入し物部王朝を

たてました。






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最終更新日  2010/10/16 06:41:56 PM


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