
カッシート人が ウラルトゥ地方 に侵入する前から、アナトリアには
原ヒッタイト族、カルトヴェリ族、ハヤシャ族などが住んでいました。
ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、
重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。
そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。
このように ウラルトゥ は、当初からミタンニやヒッタイトの フルリ人 、 カッシート人 チュルク人
などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。
カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。
従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。
フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いの
エマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。
BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世が
フルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。
このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服され
ウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。
これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。
フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったよう
で妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので
同習俗、同種族とされる理由です。フルリ人は【旧約聖書】でホリ人として登場します。
フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し
アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますが、 ウル第三王朝~ミタンニ~
ウラルトゥの流れが満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。
もう一つの 南回りのルートは、 シュメール ~ インド ~ ベトナム ~ 満州 という【穢族・サカ族】のルートです。
これが 【安冕あめ】氏 と 【 阿毎あま 】氏 の二系です。
ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが、【ウラルトゥ】とは
【ヴルトラ(蛇)】の意で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみてとれます。
神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。
古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。
しめ縄の原点であり、【史記】の伏犠・女カの神像は共に蛇身人首で、両尾をしめ縄のように
からませています。有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。
【秀真伝ほつまつたえ】を作成した 大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族) は大和三輪山
の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の 新羅王家
あるいは、亀神話のからんだ 金官加羅の金首露王家 と同族的な関わりがありました。
【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの
優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し
首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが
このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。
【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリア
のウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。
セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。
この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。
ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされます
が彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王と
し服していましたがアレキサンダーによってペルシアが滅びた後その一部が扶余を建てました。
ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン
北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため、満州に入って
扶余前期王朝を建てたのです。
倭人社会は サカ族系 の人々に支配された 穢 貊 といわれる人々と考えられます。
このうち 貊族はクメール族 で後に毛人と書かれ
穢族とはツングース族でオロチ・蝦夷 と書かれています。
穢族のオロチ族が【東日流外三郡誌】のアソベ族 で、北朝で中国文化に接触し
後、契丹を亡ぼして 金を建国 し、降って愛新覚羅王家によって 清を建国 した民族です。
ラストエンペラーで知られる愛新覚羅 溥儀は愛新覚羅王家の末です。
この分派、 穢族のオロチ族は、日本へは朝鮮半島東岸から能登半島に上陸したようです。
そして、 貊族のクメール(毛人)がツボケ族です。
クメール(毛人)の 次に日本列島に進入し、彼らを支配したスキタイ・サカ系の民族 は
元々、殷時代、 北狄 と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の
北方を支配しました。 スキタイ・サカ系の民族 は、前800年頃から二分して箕子朝鮮と同盟
する 扶余族 と朝鮮半島を南下して 辰国を建てた人々 とに分裂することになります。
インドでは前12世紀にアーリア族の侵入が終了し中国大陸ではこの頃に周が建国します。
周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、
殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の
国東半島に逃れて、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。
遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地
であったからであり、この人々は ミタンニ族 であると考えます。
殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退した
ため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、 ヒッタイトの王族だった
ミタンニ族 を中心としながら朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触した
らしく、次第に混合文化を形成していったと考えられます。
【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、 王朝の本流であるサカ族系 は後にサンカと
なり傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗るのです。
この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方
農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて
結界を引きました。これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に
於ける農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながります。
【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離して
生活したのです。辰韓の農民は鳥葬を行っていますが、鳥葬のルーツは殷民族といわれる
チベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行った
といわれます。【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり
農民サイドからの蔑視です。後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして
【院地・散所】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆくのです。
遡ることインド十六王朝の時代、バンジャップからマガダに侵入したアーリア族は原住民の
ドラヴィダ族と、しばしば斑状共存を行い、別邑を作りながら侵略支配をしていきました。
モウリア王朝に至る頃には東進するイラン族とシルクロードを支配し、
黒海からドーソンにかけて 青銅文化を伝達したサカ族 との共同文化であったと思われます。
【帝釈天】はインドラ神ですが、元々ヒッタイトのインダナ神をルーツとし、
イラン系の神話とサカ族による初期仏教の説話の混合によります。
このイランとサカの両民族の文化の違いからイラン民族のカースト制を否定しようとする
サカ族のシャカ仏教とジャイナ教が発生します。
サカ族は、BC413年~BC326年までのナンダ王朝とBC321年からBC180年にかけての
モウリア王朝の主要な部族であり、一族から釈迦を輩出しました。
元々、シュメール語で【サング】とは僧をいみする言葉で、インド語では仏僧の集団を
【サンガ】といい、これが日本で【鹿】【坂】となり、坂の者・サンカの語源となります。
【鹿】がサカ族の【サカ】からきた言葉であることは既に学界でも認められていることです。
さて、サカ族とユダヤ族などの非アーリア系を包摂したモウリア王朝は亡んでしまします。
すると、スーダラ出身のカリンガ王朝では、却ってカースト制の強化が増し、バラモンの教義が
復活してしまいます。この後は、インド亜大陸ではカースト制否定の兆しはまったく発生せず、
戦後ガンジーもまた、カースト制を否定しようとして暗殺されるのです。
日本の被差別部落の問題も、こうしたインドのカースト制からきています。
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