旅行記 クライストチャーチ '18.09月 0
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「名前はカチューシャ!」「せっかくだから、大女帝のエカテリーナから名前を戴きましょう。呼び方は、エカテリーナの愛称であるカチューシャ!」母が体調を崩さなければ、実はもう一匹 ポメラニアンを買う予定でした。愛犬ヨンサマとクリスにお嫁さんを、と思ってのこと。一匹のメス犬を二匹のオスで、、、というのはどうかな~と思いつつ、さすがにメス犬もニ匹というのは・・・。以前、ヨンサマを買ったブリーダーさんに、「お宅で戴いたポメラニアンがとてもお利口さんで可愛いので、この子の子供を作るための相手を探して欲しい。」と頼んだことがあります。「その子がメスなら相手もすぐ見つかるけれど、オス犬の相手を探すとなれば、その子がチャンピオン犬でなければ、なかなか難しいですよ。」そこで、自分でメス犬も飼っちゃおう!と思い立ったのです。残念なことに、その話はお流れになってしまいましたが、、、。* * *『カチューシャ』といえば、あの名曲。カチューシャという娘が、川の岸辺で、兵役に出て行った恋人を思って歌う姿を描いたあの歌曲。あの曲を歌う10歳のトルマチェフ姉妹があまりにも可愛らしかったので、ヨンサマとクリスのお嫁さんには是非カチューシャという名前を、、、な~んて思ったのでした。^^日本ではロシア民謡と親しまれている『カチューシャ』ですが、本当はソビエト時代の流行り歌です。1941年6月に独ソ戦が始まると、戦場の兵士に広く愛されて歌われるようになり、代表的な戦時流行歌として定着しました。戦後になると、国民が団結した戦時下に流行した誰もが知っている歌として、共産主義を褒め称えるという政治的な意味合いを付加されて歌われるようになりました。 (Wikipediaによる)エカテリーナだと堅苦しく聞こえますが、カチューシャという響きのおかげでかなり印象も異なります。健気な娘をイメージするには、気の強いの女帝を連想させるエカテリーナと呼ぶよりも、カチューシャの方がお似合いですもの。すっかりロシアに浸ってしまった私は、早速 ロシアを思い出させる音楽を購入することにしました。実は、この『カチューシャ』が入ったCDが欲しかったのですが、同い年のよしみで(笑)、ロシアのヴァイオリニストであるアナスタシア・チェボタリョーワのアルバムを一枚買いました。1972年生まれのアナスタシアは、現在ではこの世代のヴァイオリニストとして世界最高峰の一人とする評価を得ているようですが、ソ連社会主義体制の下で国家による英才教育を受けた事が災いし、ソ連崩壊後の一時期、ロシア国内において「旧体制側の人間」とのレッテルを張られ、不当な評価を受けていたそうです。(同) ソ連崩壊、、、あの当時、私はその数ヶ月前に起こった ゴルバチョフ大統領の軟禁(ソ連8月クーデター)に対するショックが大きく、崩壊当時の様子までは詳しく覚えておりません。ただ、その地に生きるアナスタシアにとって、ようやく大人として花開こうとする18、9歳のアナスタシアにとって、その出来事は彼女の音楽人生だけでなく、奏でる音色そのものにも大きな影響を与えたのでしょうね。美しい容姿から放たれるその音色からは、独特で複雑な哀愁が漂ってくるようです。女性ならではの柔らかな響きの奥に潜む物悲しい響きが胸をえぐってくるようです。それが多くの涙を飲みこんできた、哀しい歴史を無言で見つめてきたモスクワの表情をそのまま表しているようで、帰国後しばらくは、この一枚にどっぷりハマっておりました。このアルバムの題名になっている『モスクワの思い出』という曲は、作曲家ヘンリク・ヴィェニャフスキが、1850年代に大流行していたロシア民謡の『赤いサラファン』と別の民謡のメロディを用いて編曲したもの。懐かしさを感じさせるその美しい旋律、ソ連とロシアという同じ国であって全く違う両方の国と時代を生きてきたアナスタシアが奏でることで、そこにもう一つ趣きが加わるような気がします。(You Tube)私は彼女のCDで初めて『赤いサラファン』を知りましたが、この音楽は戦後間もない頃に日本でも随分と歌われていたようですね。合唱部に所属していた私の母も、このメロディが流れた途端、日本語訳のこの歌を口ずさみます。歌詞の内容は、「お母さん、赤いサラファン(婚礼衣装)なんて縫わないで。まだ結婚なんてしたくないもの!」という娘に対し、「小鳥のように歌って過ごす、蝶のように花から花へと飛び交うような、そんな日々もいつかは色褪せ、楽しい遊びだって退屈になってくるものよ。お母さんだって、若い頃は貴方と同じだったのよ。」と諭す、娘を思う母親の気持ちが込められたもの。この歳になっても気ままに生きている私には耳の痛い内容なのですが(笑)、旋律だけを聴いていると優しい愛情に包まれているような、そんな気分になれるのです。ソビエトを思い起こさせる『カチューシャ』と、ロシアの原風景を感じさせる『赤いサラファン』。私がモスクワを思い浮かべる時、これらの音楽はなくてはならない存在です。
2010.09.19
「私、5月にモスクワへ行って来たの。」その一言がやっとでした。コンサートの後、購入したDVDのケースにサインをして貰いながら、私はアレクセイ・バルショフ氏に話しかけました。胸の高鳴りを抑えることに必死で、伝えたいことを英語に訳すこともままならない私。アレクセイはそんな私の顔をじっと見つめながら、私の台詞を待ってくれました。一目でロシア好きの私を見てとったのか、彼は素敵な笑顔で「じゃぁ、次回は是非ともペテルブルクへ!」と握手とともに答えました。それからどれくらいドキドキが続いたでしょうか。思い出すたびに鼓動は速まって、頬が赤くなるのを感じました。もしかして、私、今、恋してる?!* * *私が恋したのは、アレクセイただ一人ではありません。ロシアからやって来た4人組みのアンサンブル、『 テレム・カルテット(TEREM QUARTET)』。随分と前のことになりましたが、7月4日、母と二人で西宮市にある兵庫県立芸術文化センターへ彼らのコンサートを聴きに行きました。~ 今、ロシアのみならず、ヨーロッパでも比類ない音楽で人々をひきつけるアンサンブル「テレム・カルテット」。ロシア人が「ロシアの宝」と胸を張る、サンクトペテルブルク出身の、結成24年目のそのベテラン・アンサンブルは、プーチンはもちろん、ローマ法王やチャールズ皇太子の御前演奏に、世界でも指折りの一流アーティストとの共演など、その活動は幅広い。ドムラ、バヤン、バラライカとロシア独自の民族楽器を使いながら、インターナショナルなそしてジャンルを超えた音楽!それであってロシアの響きが根底にある何ともユニークな世界。基本はジャンルを超えた楽しい音楽!民族楽器のアンサンブルであり民族アンサンブルではない音楽!民族楽器というこれまででは限定された音楽しか演奏できないとされてきたものを、彼らの高い演奏技術とアレンジ力で、民族楽器の枠をこえ、様々なジャンルの音楽を創り出す。それは、“ロシアの楽器から、インターナショナルな音楽へ”を意味している。「もともとロシア人は今までも外国の新しい文化を取り入れ、それを自国のものにしてきた。その考え方に基づき、テレムの音楽はインターナショナルであり、ロシアの音楽である。」「テレム」とはロシアの伝統的木造の家を意味。「一つ屋根の下にたくさんの人が楽しく一緒に生きる」ことにテレム・カルテットの願いがある。~バッハの音楽から始まった そのコンサートは、最初こそ真面目(?)にクラシックやロシア民謡を演奏していたものの、場が和むのを読みとりながら、次第に遊び心を加速させ、誰もが知ってる「猫ふんじゃった」や日本の歌謡曲である「恋のバカンス」など、彼ら色にアレンジして、ところどころにロシア色を覗かせて、ユーモアいっぱい、気が付けば、観客の誰しもが彼らの虜になっていました。ロシアの民族楽器をまじまじと目にしたのも初めての私は、物珍しさと彼らのパフォーマンスのどちらにも釘付けになり、このコンサートが永遠に終わりませんように・・・、知らず知らずにそう祈っておりました。(笑)小ホールで開催されたおかげで、演奏者と観客の距離が今まで体験したこともないほど近く、演奏者一人一人からも私達観客の表情や感情の移り変わりが手に取るように分かっていたことと思います。会場が一体となり、笑いの渦に巻かれながら、彼らもますます熱く乗ってきたのだと思います。オーケストラのコントラバスに匹敵する巨大な弦楽器 "バラライカ" の弦が一本、切れてしまう勢いでした。これは実際に聴いて戴かなければ、その興奮は伝わりませんね。(You Tube)「また来いよ~!」 隣りに座る男性が大声で叫びました。ホント、ホント、また来て下さいね~! (左から、アレクセイ・バルショフ氏、ミハイル・ジューゼ氏、アンドレイ・スミルノフ氏、アンドレイ・コンスタンチーノフ氏)4人の最年長で、曲のアレンジをされているのがアンドレイ・スミルノフ氏。確か1932年生まれだったと記憶しています。 ということは、今年で78歳?彼はロシアのボタン式クロマティック・アコーディオン "バヤン" を演奏しながら、彼らの音楽をリードしていきます。「IL DIVO」ならば、バリトンのカルロスのように、彼らのサウンドを導き、その主軸になっているような存在。(笑)ツルっとした禿げた頭が 河童のお皿みたいで可愛くて、彼の個性をも現わしているように思えました。^^サイン会では、そのアンドレイ・スミルノフ氏を先頭に年齢順に並んでいたと思います。離れた場所からは、 人の良いユニークな "おじいさん" にしか見えていなかったアンドレイ・スミルノフ氏ですが、すぐ目の前で見てみると、肌はピカピカ艶があり、その優しい眼差しは甘ささえも漂わせておりました。くらぁ~。 私、78歳に恋したかも~。(爆!)彼だけではありません。 一人一人と握手を交わす度、頬が赤くなるのを感じました。そして、最後の最後で勇気を振り絞ってアレクセイに声を掛けたというわけです。(*^^*)私、ペテルブルク出身の男性に弱いのかな?愛する(?)プーチン氏もサンクトペテルブルク出身です。(笑)
2010.09.05
3ヶ月もに亘って綴ってきたモスクワ旅行記。少しでもモスクワの雰囲気を感じて戴けたら、重いロシアのイメージを変えられたらと、そう願いつつ進めてきました。例え戦争の歴史を知らなくても、ロシア = 卑怯者 という方程式は日本人の中に根強くあるように思います。一度植え付けられた感情は、そう簡単には消し去ることはできませんが、それでもロシアってこんなに魅力的なんだよ!、面白い国なんだよ!って伝えたかったのです。そう言いつつ、失敗談ばかりになってしまいましたけど、、、。(苦笑)*今年頭、私はハンガリーを訪れたことで、鉄のカーテンの向こう側にあった東欧諸国の苦しみを知ろうとするいい機会となりました。まして、ハンガリー動乱やメルボルンの流血戦(水球)を描いた映画 『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』 を見た暁には、「ソヴィエト、許せ~ん!!」なんて偉そうに思ったりなんかして。(笑)そんな私でも、これほどロシアの魅力に気付くことができたのは、名画 『忘れえぬ女(ひと)』 だけではありませんでした。それは可愛らしいネギ坊主頭の教会でも、クレムリンにあるダイヤモンドでも、圧倒される軍事パレードでも、プーチン首相の鋭い眼光(笑)だけでもありません。何気なく言葉を交わしたロシアの人々の温かみある笑顔が、一番 私の心を溶かしてくれたのだと思います。^^確かに、街中を歩くロシア人の表情は、どうしても硬く冷たく感じます。事実、冷た~い!!って思った人も何人かいますけど、けれど、一声かければ、ぱぁ~っと向日葵でも咲いたような笑顔を見せてくれる人、はにかみながらも優しく微笑んでくれる人、そんな出会いに恵まれました。私が嫌っていたロシア(ソヴィエト)とは、ただロシアという名を被った国家に過ぎなく、そこに生きる人々とは全く異なっていたのでした。思えば、帝政ロシア時代においても、ソヴィエト時代においても、その国家に苦しめられたのは何も諸外国ばかりではありません。最も辛い思いをさせられていたのは、その国家の下敷きとなったロシア人だったのだと気付きました。そして、その厳しい時代を乗り越えて、逞しく強く生きるロシア人達は本当に美しいと思いました。旅した国は友達の国であって、すでに他人ではありません。ロシアの末永い幸せを心から願っております。^^ 長らく このモスクワ旅行記にお付き合い下さいまして、まことに有難うございました。あと少し、番外編を残して、終了したいと思います。* * * * * * *◆5月2日(日)15:00 冷たい風が吹き荒れる中、ヘルシンキ到着19:00 モスクワ(シェレメチェヴォ空港)着20:30 ひたすら待たされた入国審査を終え、一路 ホテルへ21:45 イズマイロヴォホテル チェックイン◆5月3日(月)6:50 ホテル出発8:00頃 ヤロスラーフスキー駅到着8:43 モスクワ発10:10 セルギエフ・ポサード着10:30~10:50 小さな食堂にてピロシキを食べる10:50~12:45 世界遺産『トロイツェ・セルギエフ大修道院』観光12:45~13:30 セルギエフ・ポサード散策13:30 セルギエフ・ポサード発15:00 モスクワ着 16:00 レストラン『グラブリ』で遅めの昼食(バイキング形式)17:00 一旦、ホテルへ戻る18:00~ モスクワ川水上バスに乗る為、雀が丘船着き場へ向かう20:00 乗船21:00~23:10 遊覧船にて『モスクワ川クルーズ』23:50 ホテル着◆5月4日(火)7:30 ホテル出発8:00~9:00 レストラン『カフェ・プーシキン』にて朝食(カプチーノ&特製目玉焼き)9:30~10:30 国立歴史博物館前にあるマネージナヤ広場より『赤の広場』へ向かうが入場禁止(10:00 航空ショー)10:30~13:00 世界遺産『クレムリン』見学 ・トロイツカヤ塔 ・クレムリン大会宮殿(外観) ・十二使徒教会(外観) ・アルハンゲリスキー大聖堂 ・ブラゴヴェッシェンスキー大聖堂 ・ウスペンスキー大聖堂 ・イワン大帝の鐘楼(外観) ・大砲の皇帝・鐘の皇帝 ・大クレムリン宮殿(外観) ・『ダイヤモンド庫』13:00~13:30 クレムリン周辺散策14:00~16:30 トレチャコフ美術館(名画『忘れえぬ女』との再会)17:00~19:30 再び『赤の広場』に挑戦19:30~20:30 グム百貨店のカフェで一服(パイナップルジュース)&ブログ更新(笑)20:30~21:30 戦勝記念軍事パレードの予行演習の見学22:00 ホテル着◆5月5日(水)5:30 地下鉄の始発に乗る為、パルチザンスカヤ駅へ向かう6:00 懲りもせず、再々度『赤の広場』を目指す6:00~6:45 『赤の広場』と『聖ワシーリー寺院(外観)』の観光!!!(涙)7:00~8:00 レストラン『カフェ・プーシキン』にて朝食(パイナップルジュース&パンケーキ&カプチーノ)&読書(アンナ・カレーニナ)8:45 ホテルをチェックアウトし、空港へ10:30 空港着(大パニック!(><))12:50 モスクワ発17:20 ヘルシンキ発 関空へ
2010.08.08
名画「忘れえぬ女(ひと)」が日本へやって来る!しかも、私が最も好きな街・広島へやって来る!!昨夏、国立トレチャコフ美術館展の広告を新聞で見つけた時、私は思わず歓声をあげ 手を叩きました。それについて、詳しくは過去('09.09.26) の日記に記していますので、ここで改めることはしませんが、その展覧会からの帰り道、気がつけば瞼にあの絵の女性がチラついて、その名の通り 私にとっても「忘れえぬ女(ひと)」となりました。そして、「いつの日か、もう一度 あの絵に会いにロシアへ行きたいなって思うの。」 そう冗談交じりに話していました。*あの絵に再び会うこと。それが、今回の旅の一番の目的でした。この絵が本来あるべき空気の中で彼女と対面したかったから。気高く美しく、どこか寂しげな一人の女性。まるで自分の人生を、否 暗雲たちこめた世の中の流れを憂いているかのような瞳。時代は19世紀後半。 まさに激動の時代を彼女の瞳は映してきたのだと思います。うっすら涙を浮かべているかに見える あの瞳が忘れられなくて、その絵に導かれて、まさか自分の足でモスクワの地を踏むことになろうとは、半年前の私は全く想像もしていませんでした。ですが、それくらい あの絵に私は魅了されたのです。その絵は、国立トレチャコフ美術館 2階の一室に、その他多くの名作とともに並べられています。広島で見た彼女は、彼女がその展覧会のメインということもあり、一枚だけ特別扱いの展示方法がされていました。けれど本場トレチャコフ美術館は、この絵に勝るとも劣らぬ名作で、それこそロシア美術の傑作たちで溢れていますので、彼女だけ特別、、、ということはありませんでした。だからでしょうが、、彼女の持つ高慢さよりも、むしろあどけなさの方が強く表に現れており、手が届かない上流階級の貴婦人というより、まるで妹のような親しみやすさを感じました。きっと日本に居た時の彼女は、私がロシアに居た時と同じように背筋を伸ばし緊張しており、ロシアに帰国して それが解けてしまったのでしょうね~。^^彼女を見つけた瞬間、不思議とずっとこの場所で彼女が私を待っていてくれたように思えました。なんとなく口をモゴモゴさせているように見え、日本に滞在した時のよそよそしく気取った(?)彼女ではなく、ふるさとの空気に包まれている安心感から、少しお喋りになっていたのだと思います。「言いたいことがあるのなら、なんでもいいから言ってごらん。」周りに人がいないことを確認して、私はこっそり彼女に耳打ちしました。(笑)もちろん絵画の中の彼女ですから、本当に口を開くわけはありませんけど、ですが本当に目の前に実在する人物のように、私には彼女の中の生命力が伝わってきたのです。1時間くらい彼女を独占したでしょうか、、、。素晴らしい作品の中に埋もれた彼女に気付かずに、多くの見物客は勿体なくも素通りしていきました。おかげで 誰にも気兼ねすることなく、思う存分 彼女と心の対話ができたものと自負しております。「もう行くね。」けれど、やはり振り返らずにはいられません。次の部屋に移っても、まだ後ろ髪を引かれるような気がして、再び彼女の前へ戻ってしまいます。「帰れないじゃない。。。」困った顔で、私は彼女に言いました。彼女の口元は、やはりモゴモゴ動いているように思えるのです。それを何度か繰り返した後、私は意を決して立ち去ることにしました。それほど彼女に心を奪われたような、あの場所に心を置き忘れたような、、、そんな錯覚を今でも感じています。 この絵のことは、以前 あるブログ友達さんが日記で紹介して下さったことで初めて知りました。その時は、「いつか本物を間近で見たいな~。」程度の思いだったのですが、まさか これほど私に影響をもたらす絵になろうとは思いもしませんでした。いや、これほど強く私に語りかける絵がこの世に存在することすら想像もしていませんでした。私をロシアへ呼ぶほど、彼女の波動は強いのです。そして、それこそロシアという大国も、この絵に負けないほど強烈な印象を私に残しました。そして、実際にロシアの地に立ちこの絵を前にすると、この絵の表情も空気感も まさにロシアを表しているな~と感じます。画家クラムスコイは、単なる一人の女性ではなく、時代や国そのものを彼女を通して描いたのでしょうね。もしも この先、なんらかの形でロシアを思い続けるならば、この絵が、この絵を紹介してくださった Mさんが、私の人生を変えたことになります。大袈裟な言い方かもしれませんが、それくらい今回の旅は忘れられないものとなりました。純粋に、ロシア好き~!ってことにはなりませんでしたけど。(笑)*トレチャコフ美術館には、正教会に見られるイコン画の大傑作から 繊細な写実をもって表現された近世のロシア美術、印象派などの影響が感じられる近代の作品、そしてカンディンスキーに代表される抽象画にいたるまで、奥深く幅広く名画を楽しむことができます。そのコレクションは13万点にも及ぶそうです。ロシアの美術館といえば、西洋画を多く揃えたサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館が筆頭に上がってしまいますが、純粋なロシア美術をめいいっぱい堪能したい方には、このトレチャコフ美術館をお勧め致します。
2010.08.01
*モスクワ グム百貨店のマネキン。【'10.05.04】ここまで意地になったのは、たぶん相手がロシアだったから。そして、そのロシアの象徴とも言える「赤の広場」と「聖ワシーリー寺院」だったからに他なりません。むふふ、私はロシアに勝ったんだ!!!時計の針は6時40分。モスクワ観光も残すところ2時間となりました。そこで、どうしても もう一度 行きたいと思っていた「カフェ・プーシキン」へ意気揚々と向かいます。手にはトルストイの「アンナ・カレーニナ」を持って。洗練されたボーイ達も その重厚で壮麗な内装も、カフェ・プーシキンは昨日と同様に私を出迎えてくれました。私はといえば、この先の予定は飛行機で帰国・・・だけでしたので、服装も化粧もかなりの手抜きです。ここへ来る時は、自分の名誉にかけても身なりをピシッとしなくちゃ~、なんて ちょっぴり反省。。。(笑)俯きかげんで、「パイナップルジュースを1杯下さい。」とまずは注文しました。前日にグム百貨店で飲んだパイナップルジュースの美味しさが忘れられなくて、ここでも頼んでみたのでした。早朝のカフェは人も少なく、静かで穏やかな空間が漂っています。本をめくる指も、思いの外 進みます。そんな居心地の良い夢の時間がいつまでも続いてくれれば嬉しいのですが、、、あら、もう8時だわ!「Check please!」慌てて勘定を済ませた私は、余韻に浸ることなく、半ば駆け足でカフェ・プーシキンを後にしました。バタバタと地下鉄を乗り継いで、ホテルに着いたのが8時35分。25階へとゆっくり上るエレベーターにイライラさせられながら、なんとか約束の8時50分までにチェックアウトを完了させました。* 迎えの車の中には、戦勝キャンペーンで配られる「ゲオルギーのリボン」が飾られています。*「ゲオルギーのリボン」とは、黒とオレンジ色のストライプ模様で、帝政時代の聖ゲオルギー勲章及びソ連時代の栄光勲章の綬を模したもの。2005年の戦勝60周年から、これを身に付けて戦勝記念を祝おうという運動が始められました。ホテルから空港まで約1時間の道のり。3日前 初めて目にしたモスクワの街は、どんよりと灰色の雲が空を覆い、それに合わせたかのような侘しい廃墟が続いている、、、それは肌をまとう湿度感こそ違えども、北京やバンコクの裏町にも通じるものを感じました。しかし、帰国を前にした私の心には そんなモスクワはどこにもありません。ぬけるような青空がどこまでも続き、廃墟に見えた無数のビルは その一つ一つに表情があります。こんなに色鮮やかな街だったかな、、、?それくらい、最初の印象とは正反対の姿でモスクワは 私を見送ってくれたのです。* * * * * * * ただ、、、変わらないことといえば、永遠に改善されない渋滞でしょうか・・・。余裕な表情で車窓の景色を楽しんでいた私も、段々と不安が募ってきました。私は何度も何度も時計に目をやりました。ドライバーさんも焦りを隠せず、少しイラついているのが分かります。前へ前へ、少しの隙間があればきわどいほど狭い場所にも割り込んでいきます。けれど、時間がない・・・。 ドライバーさんは振り返り、首を横に振っています。とにかく急いで!!!脳裏には、入国時のあの恐ろしいほど長くかかった入国審査がよぎりました。出国審査にはどれほどの時間を要するのだろうか、、、私は自分の顔から血の気が引くのを感じました。時間がない!早く!!! 急いで!!!!!1時間の道のりが、渋滞の為にすでに40分もオーバーしています。空港に到着した私はドライバーへのお礼もそこそこ、一目散にフィンランド航空のカウンターを目指しました。すでに時は遅し??? そこはもぬけの殻。大声で呼んでも誰も出て来る気配はありません。サーーー。 私の顔からは全ての血が引ききってしまいました。「どうかしたの?」へなへなと地べたに座りこみそうになる寸前、一人の男性が声を掛けてくれました。「私、ヘルシンキまで行きたいんだけど、、、もうチェックインは終わってしまったの?!」きっと私は涙を浮かべていたんだと思います。「とにかく落ち着いて。 チェックインなら、あのゲートの向こうでできるはずだから。」見も知らぬ男性のその一言に、不安か安堵か分からない感情が私を一気に襲いかかり、思わず わーっと泣き出しそうになりました。彼にきちんと「ありがとう」と言えたかどうかさえ覚えていませんが、とにかく彼の指すゲートへと小走りで向かいます。「私、ヘルシンキへ行きたいの! まだ大丈夫よね!!!」ゲートには二人の女性が座っていました。ところが、一人が「もう遅いわよ。」と首を横に振ったように見えたのです!これに乗り遅れたら、帰国は明日以降になるってこと?それとも航空会社を変更させるとか?もし予定通り帰れなければ、職場に秘密で来た旅行なのに、どんな言い訳をすればいいのだろう。いや、それよりビザはどうなるのだろう。頭の中では答えのない問いかけがグルグルと駆け巡ります。バンッ! 私は目の前の机を大きく叩き、叫びました。 「お願い! 助けて!!!(><)」とにかく、予定通りにフィンランド航空に乗せてくれなきゃ困るのよ!それでも、表情を一つも変えることのないロシア人係官。「じゃぁ、通れば~。」って感じで、冷たく突き放されてしまったのです。。。*この瞬間、私は大パニックに陥ってはいるものの、少し冷静さを取り戻します。というのも、思いっきりバンッ!と机を叩いたことが功を成してか、ふと我に返ることができたのです。ぷはっ!(≧∇≦)/無表情の係官が口にした「later」を、なんと「too late」に聞き間違えた私!(爆!)いや、それは聞き間違いなんかじゃなくて、はなっから大幅に遅れたと思い込んでいた私は、相手がどんな単語を使っても、同じく「too late」と聞こえていたことでしょう。(恥)実は、出発時刻を私は1時間早く勘違いしていたのでした。(^^;旅行会社のMさんは、モスクワの大渋滞を想定してか、ピックアップの時間を あらかじめ2時間前に手配してくれていたのでした。渋滞でイラついていたドライバーが慌てていたと感じたのも、私の勝手な思い込みからでした。ということは、まだ時間に余裕があるということ。フィンランド航空のカウンターに人がいなかったのは、時間が早すぎた、、、ということだったのです。いやぁ~、さすが私だわ!たぶん、緊張に緊張を重ねたモスクワ滞在で、私はいつになく すっからかんになってしまっていたのでしょうね~。思いこみで冷静さを失っていたんでしょうね~。「ロシアに勝った!」な~んて思い上がりが、 最後の最後で、逆にロシアからしっぺ返しを食らわされてしまいました。(爆)
2010.07.28
かくして私は、大人しくホテルへ帰りました。明朝8時50分にホテルを発ち、そのまま空港へと向かいます。これで モスクワとはしばしの別れです。僅か2日間であったにも関わらず、様々な表情を見せてくれた私のモスクワ。「赤の広場」は最後まで私を受け入れてくれなかったけれど、貴重な場面は心にしっかりと刻みました。・・・。けれど、本当に これで日本へ帰っていいの?耳元でプーチンが、、、もとい(笑)、 心の中で もう一人の自分が囁きます。このまま諦めて帰っても後悔しない?いいえ! "最後まで諦めない"っていうのが、私の旅の鉄則じゃない!!* * *5月5日、午前5時半。始発に乗る為、地下鉄 パルチザンスカヤ駅に立つ私がいました。昨晩 遅くまでパレードに参加した軍人達は、きっと夜を徹してお酒に溺れていたことでしょう。ということは、早朝なら広場へ入ることも叶うかもしれない。まずは先日、無情にも鉄格子で私を拒んだ ヴァスクレセンスキー門へと向かいます。はい、closed ☆はい、そんなことは はなっから覚悟しておりました。続いて グム百貨店側から広場を目指します。 * * * * * * * ・・・。(●д●)まだ やってる・・・。(ToT) 早朝6時の「赤の広場」です。まだ行進の練習を行っていました。広場に面した場所には変わらず柵が設けられており、数人の警官が監視を行っております。やる気のなさは感じられるものの、広場に入場しようとする者を一人一人チェックしているのです。クレムリンへと向かう政府関係者のみ通行可能。なかなか相手も手強いわ。さらに私は進み、少しでも聖ワシーリー寺院に近づける場所まで移動しました。そこにも やはり警官が・・・。(T_T) ところが、、、、、・・・ずれている!決して、警官の鬘ではありませんよ~。(笑)10メートルくらいでしょうか、進入禁止の柵がほんの少しだけ中へずれていたのです!!!一歩、私は「赤の広場」へ足を踏み入れました。一歩、また一歩。。。今、私は「赤の広場」に立っている!ここに こうして立てることに これほどの苦労を要するとは思わなかったけれど、確かに私は立っている!!!この場所でかつてどれほどの血が流れていようと、今はそんなことなど関係ないのです。ここに立っていることに意味があるように思えました。そして、どうしても見たかった「聖ワシーリー寺院」を間近で見上げながら、沸々と湧き上がる達成感を感じていました。たった これだけで私の全てが満たされたのです。最後まで諦めないで良かった! 私はロシアに勝ったんだ!(笑)朝陽に照らされた聖ワシーリー寺院とクレムリン城壁を瞼に焼き付け、もう一度 ここへ来ることを誓った私は、きっと余裕の微笑みをたたえていたに違いありません。
2010.07.24
クレムリン周辺ではパラソルの下、数々の露店が立ち並び、小学生らしき子供達が大はしゃぎでアイスクリームを食べていました。やたら喉の渇きを覚えた私は、それを横目に、ノンガスのミネラルウォーターを1本、一気に飲み干しました。その後、トレチャコフ美術館へと向かったのですが、話を少し先へと進めます。* * * * * * *一度は仕方がないと諦めた 『赤の広場』。ですが、そろそろ開放してくれたっていいじゃない!淡い期待を抱きつつ、再びそれを目指しました。この季節、午後9時過ぎに日没を迎えるモスクワの空は、午後5時を回ったくらいでは、まだまだ真昼のような明るさです。今度はグム百貨店側から挑戦してみよう!"美しい広場"の意味を持つ 『赤の広場』は、クレムリン城壁と国立博物館、誰もがお馴染みの聖ワシーリー寺院、そしてモスクワ最大の百貨店・グムによって囲まれています。 けれど、そちらも 赤の広場に面したところは全て柵で仕切られており、何人もの警官が無愛想な顔で見張りを行っていました。私は広場に通ずる道という道 全てを巡ってみたものの、その徹底した警備にうんざり肩を落とすしかありませんでした。どうしても、中へは入れさせないということね。。。そうやって、私が何度も何度も広場侵入を試みようとしていた その頃、決して入場できない広場周辺に、ひとり、また一人とモスクワ市民が集まって来ました。これから、また何かが始まるということ?柵の向こうの広場全体を見渡すには、『赤の広場』は広すぎました。実際、この広場に立ったことがある人は、意外と狭い印象を持つことと思いますが、警官に囲まれ、思うように行動できなかった その時の私には、悔しいほど広く感じたのでした。それでも、少しでも広場の様子を伺おうと、私はグム百貨店へと入ります。百貨店の窓からなら、その全体像が見れるかも、と思ったのです。 ところが、ソヴィエト時代には十貨店と皮肉られていたその内部も、現在は 私では到底 手の届かない高価なブランドショップで埋め尽くされていました。しかも、肝心の広場に面したショップほど高級品を扱っており、私は窓辺に近付くどころか 店内に足を踏み入れることすらできません。悔しさを噛みしめながら 再び 外へ出てみると、すでに目の前には見物客でいっぱい。これから何が行われるというのだろう。。。ここで何かが始まることは確かでしたが、そんなことよりも、私ったらカフェ・プーシキンでの朝食の後、昼間のミネラルウォーター以外 な~んにも口にしていないわ!ってことに気が付きました。(笑)疲れもピークに達していましたし、もう一度 グム店内に戻り、カフェでいっぷく。この時 飲んだ、フレッシュなパイナップルジュースほど美味しく感じたものはありません。一瞬のうちに、緊張と疲れから私を解放してくれたのです。外のざわつきを一切感じることなく、しばしカフェで寛いでいたものの、「もう閉店ですから、、、。」との一言で席を立ちました。時計の針は、すでに午後8時半を回っていました。グム百貨店前の人だかりはいっそう大きく膨らんでいました。見れば、広場には軍人さんの集団が次から次へと登場してきます。鼓笛隊のような集団もありました。労働者らしくヘルメット頭の集団も見られます。その後をベレー帽姿の部隊が続きます。立派な軍服姿のエリート達も現れてきました。軍事パレード?ここにプーチン首相とメドベージェフ大統領が揃えば完璧だわ!!(笑)どう表現すればいいでしょうか。ソヴィエト連邦が崩壊して すでに20年。そのソヴィエトのまさかの復活のような物々しい場面が、今ここで展開されているのです。以前の日記にも書きましたが、この時、私は対独との戦勝記念日については全く知りませんでした。分かることは、第二次世界大戦に関する何らかの記念すべき行事であるということ。これが、(たぶん)戦勝記念の軍事パレードの予行演習だとは想像もできるはずがありません。戦車も姿を現しました。 ミサイルも登場です。『赤の広場』は、今や 一万人を超す軍関係者で溢れ返っております。まさか、私を歓迎してのパレードじゃあるまいし。。。( ̄▽  ̄)くぅ~~~。(><) これじゃぁ、私が 『赤の広場』に入る隙間もないじゃな~い。私が感じたところでは、軍事パレードは まだまだ延々と続くよう。暗くなる前には帰らなくちゃ、、、 一度にこれだけの軍人が 地下鉄へ押し寄せて来ては堪らない!(笑)物騒だけれど、異常に気になる広場を後にして、それでも まだ 『赤の広場』にこだわる心をなだめながら、午後9時半、私はその場を立ち去ることにしたのです。 *こちらは2005年、60周年記念式典の映像ですが、雰囲気だけでも伝わるでしょうか…。小泉元首相も、ほんの一瞬 映っております。^^ (You Tube)
2010.07.20
これが、5日後の戦勝記念日当日(5月9日)ならば、中国の胡錦濤国家主席やドイツのメルケル首相など各国首脳も来訪され、もっとピリピリとした空気に包まれていたことでしょう。さすがに その日だけは、クレムリンにおける一般観光客の入場は禁じられたのでは?、と思います。*ここクレムリンでは、世界一広大な面積を誇るロシアらしく、数々の「1番!」を見ることが出来ます。まず、こちらは1568年に鋳造された大砲で、口径 89cm、重さ40t の「大砲の皇帝」。当時は世界最大を誇っていました。実際に使用されることはなかったそうですが、近くで見ると かなりの迫力があります。そして、こちらが 重さ200tの「鐘の皇帝」。 高さ 約6m の世界最大の鐘です。1737年のクレムリン火災の消火の際、鋳造中だった この鐘は、かけられた水に冷やされ亀裂が入り、一部が欠けてしまいました。そのかけらだけで 11.5t もあるのだとか。。。(メインは男の子!・笑)この八角形の鐘楼は、16世紀初頭に建立されたもの。その名は、「イワン大帝の鐘楼」。81m の高さで、24個の鐘を持ち、17~19世紀 モスクワで最も高い建物でした。これ以上の高さのものを造らせなかった、と言う方が正しいでしょうか。 *様々な意味において ロシアの凄さを噛みしめながら、私はプラプラと クレムリン内の庭園を散歩しました。赤や黄色のチューリップの花達が、同じ背丈でちょうど見頃を迎えており、愛きょうある姿で揺れています。^^ここはロシアの中枢としてだけでなく、モスクワ市民の憩いの場でもあるのでしょうか。そういえば、、、数年前にロシアを旅した 親友M子がこんなことを言ってたっけ。。。今にもポツポツときそうな薄曇りの空を見上げながら、私はM子の言葉を思い出していました。「4年前はね、ロシア人達はまだ自由に慣れていなくて、自由を謳歌している僅か一握りの人達が、何だか特別に見えてたの。」「そうそう picchuちゃん、ロシアって国はね、国家をあげて行う行事の日は、お天気さえも操ってしまう国なのよ。空にミサイルを打ち上げて、雨雲さえも散らしてしまうんだって。中止とか延期とか、そういう考えははなっからないみたいよ。^^」そんな話を聞いた時、まさか そんなことまで…って半信半疑で聞いてたけれど、この国なら それもあり得るかも。まだまだ紆余曲折しながらも、すっかり自由に馴染んだ彼らは、これからどう歩んでいくのだろうか、、、。不思議な大国、あらゆる面で明らかに敵わぬ相手を前に、今後 日本はロシアに対してどう向き合っていくのだろうか、、、。ホントだぁ~、もうロシアに対する古い固定概念は捨てるべきよね~。ロシア政府だけを見るんじゃなくて、個人的に私もロシアの国と人を相手にお付き合いできたらどんなに勉強になるだろう。実はかなり面白い国と見た!(笑)この日のクレムリンでの昼下がり、独特の緊張感と、圧倒的な芸術の全てに酔ってしまった私は、昼食を取ることもすっかり忘れ、美しく咲くチューリップの花々を眺めながら、頭の中で まとまりのないことをグルグル思い巡らせておりました。あ、あの女性(ひと)、なんてスタイルがいいんでしょう。 思わず、パシャリ!(*^^*) * * * * * * *◆ちょっと気になる(?)今日のニュース◆[モスクワ 16日 ロイター]サッカーのワールドカップ(W杯)南アフリカ大会で勝敗予想を的中させ人気者となったドイツのタコ「パウル」が、ロシアの次期大統領を予想したことが分かった。16日付のコムソモリスカヤ・プラウダ紙によると、記者がドイツ西部オーバーハウゼンの水族館にいるパウルを訪れ、それぞれプーチン首相とメドベージェフ大統領の名前を書いた2枚の紙を見せたところ、パウルが一方を触手で指したという。ただ、その結果は大統領選挙が行われる2012年まで公表しないとしている。 ・・・ ほんまかいな。(笑)
2010.07.16
私は そこを訪れるまで、クレムリンといえば、、旧ソヴィエト政府の核をなした場所くらいにしか思っていませんでした。そして、ソヴィエト崩壊後も そのまま ここにロシア大統領官邸、大統領府が置かれている、と、まぁ その程度。(笑)ピピッ!!歩道を外れ、物珍しそうにウロチョロしている私を指さし、強面の警官が遠くから「ピピッ」と笛を鳴らしました。え? 私のこと???(汗)この日の観光客は比較的少なかったけれど、それでも多くの人の前で指をさされるのは結構 恥ずかしものです。警官の怪訝そうな顔つきも嫌な感じですし、、、。ここでは安易に行動してはならない、思う以上に緊張感漂う特別な場所なのです。まして今日(5月4日)は、メドベージェフ大統領もいらっしゃるようで、改めてロシアの中枢なんだ!と気付かされました。こちらが、その「大統領府」です。「ピピッ!」 ふふ。^^ 笛を鳴らされるのは、私だけじゃないみたい。* * *大聖堂を一通り観終わった私が、次に向かった先は、「武器庫」。名前こそ物騒な雰囲気がしますけど、ここに戦利品やロマノフ家の宝物が飽きるほど展示されているのだとか。エカテリーナ2世の戴冠式のドレスとか、歴代皇帝が戴冠式に使った「モノマフの王冠」、イヴァン雷帝の玉座に、宮廷馬車なども見たいよね~。そうそう、精緻な細工と仕掛けで有名な「インペリアル・イースター・エッグ」は必見よね~。胸をときめかせ、けれど もう歩道からは外れません!途中、どなたか要人を乗せた立派な車が、私のすぐ目の前を横切っていきましたが、どうせ プーチン首相ではないでしょうから、ふんっ!て感じで、無視してやりました。(笑)さて、武器庫らしき場所に到着です。武器庫は 毎日、決められた時間(10:00、12:00、14:30、16:30)の4回しか入場できません。確かな時間は覚えていませんが、たぶん12時少し前だったように思います。地下へと続く狭い石段を降りて行くと、入口付近に数人の観光客が待っていました。顔をあげると、セキュリティチェックをしているお兄さんが私に手招きをします。「この下にクロークがあるから、手荷物を預けて来るように!」「は~い。。。」 きっとカメラ類がダメなのでしょう。しぶしぶ階下に降り、クロークの前まで行くも、何だか気持ちが萎えてしまった私。面倒くさいな~。 結局 荷物を預けることなく、先程の検査場に戻りました。「預けて来るようにと言ったじゃないか!」 係員のお兄さん、眉間に皺が寄ってます。「う~~~。」 だって、信用できないんだもん!ほんの少し沈黙が続いた後、「まぁ、いいだろう。」と、そのお兄さんは許してくれました。けれど、今度は 傍にいたもう一人のお姉さんに、「手荷物を見せて!」と呼び止められます。「これは何?!」 キッと私を睨みつけます。鞄の中を覗くと、一番上にカメラ付き携帯電話が堂々と姿を見せているではありませんか!あち゛ゃ~。( ̄□ ̄;)!!慌てた私は、どう説明しようかとパニックになりながら、「これは、Japanese ・・・」「もう いいわ!」きっと私なんて相手にもされなかったということでしょう。 あっさり 中へと通してくれたのでした。^^*中に入ってみると、、、、、何かが違う!????真っ暗な部屋に 少し目が慣れてくると、楽しみにしていた宝物はそこにはなく、眩いばかりの金とダイヤモンドが「これでもか!」というくらい無限の輝きを放ちながら 並んでいました。もしや~?もしや、ここは「武器庫」ではなく「ダイヤモンド庫」~~~???後で知ったことですが、偶然 私が足を踏み入れたこの場所は、帝政ロシア時代の秘宝の山とも呼べましょうか!一生分のダイヤモンド運を使い果たしたかと思うほど、それはそれは目が眩むような宝石達で埋め尽くされていたのです。本来なら、セキュリティチェックもそう簡単ではなかったはず!カメラを没収されることなく、堂々と手荷物持参で容易に入場できた私は、かなり運が良かったのだと思います。「ダイヤモンド庫」は「武器庫」に併設されており、別途料金が必要とのこと。「武器庫」のチケットはトロイツカヤ塔のチケット売り場でも購入できますが、「ダイヤモンド庫」のチケットは、武器庫の入り口でしか購入できません。そして、実は カメラ・携帯電話・傘さえも持ち込み不可と書かれてありました。元来、私は宝石類には全く興味がありません。というのも、自分が宝石とは不釣り合いであることを百も承知だからです。そんな私が、ガラスにへばり付くようにダイヤモンドから目が離せず、息をするのも忘れて、輝きの中に吸いこまれていきました。この世のものとは思えない煌びやかさと誉れ高き美しさ、そして、これまで何人(なんびと)をも狂わせてきたであろう その妖しくも眩い魔性の輝き。これは本当に現実なのだろうか、、、。私はこれから、何を基準に生きていけばいいのだろうか、、、。全てを狂わせてさえ、それでもなお 魅せられるその輝き。何故に太古の昔から 人はこの輝きを追い求め、果ては全てを滅ぼすに至ったか、それを初めて感じられたように思います。 ここには、かの有名な『オルロフ・ダイヤ』もあります。世界で4番目に大きな そのダイヤ、ご存知の方も多いかと思いますが、あえて少しだけ説明を…。最初にこのダイヤを所有したのはムガール帝国の王子でした。当時は、500カラットもあったと言われる巨大ダイヤモンド!王子はそのダイヤをヒンドゥー教の寺院に寄贈し、「かの石に触れるものに災いあれ」と言い残したそうです。さて、時代は下り、あるフランス兵が そのダイヤを盗み出してから、王子の呪いの言葉通り、盗んだ者はもちろんのこと、それに関わる者を次々と不幸が襲います。すでに買い手がつかなくなった そんな不吉なダイヤを手にしたのが、エカテリーナ2世の愛人であったオルロフ公爵でした。オルロフは、疎遠になりつつあった彼女とよりを戻す為、これをプレゼントしたのだそうです。こうして、この美しき不吉なダイヤはロシアの地に招かれました。エカテリーナ2世は、190カラットのこのダイヤを愛用の王笏に取りつけて、大事に扱ったそうですが、オルロフの方は、結局 すでに用なしで、ポイされちゃったようですね。(苦笑)* * *ここで私の受容範囲を大きく上回ってしまいました。これ以上の宝物を一度に目にすることは、私の小さな頭と心では到底無理な話です。どうやっても、私の中にこれ以上のものを収める隙間はないでしょう。いや、無理やりに押し込めようとしてしまったら、この感動が「普通」の出会いになってしまう。ですから 私は、敢えて この先にある「武器庫」へ向かうことはしませんでした。
2010.07.12
雪景色なら、なお一層 美しいに違いない。クレムリンに入場し、共産党大会などに使用する為、ソヴィエト時代に建てられた直線的で現代的な建築物「クレムリン大会宮殿」を通り過ぎ、それとは対照的に、丸みを帯びた 歴史ある様々な寺院によって囲まれた「ソボールナヤ広場」に立った時、そのギャップと、その想像以上の美しさに言葉を失いました。眩しいネギ坊主の王冠をいくつも頭に戴いて、それら白亜の殿堂は、威厳に満ちた姿で私を出迎えてくれたのです。<十二使徒教会>では、ガイドブックを片手に、ほんの少しだけ ご案内致しましょう。^^<ウスペンスキー大聖堂 (1475~1479年)>ロシア正教の府主教会として、ここで歴代皇帝の戴冠式や総主教の任命式が行われていました。現在でも、ロシア連邦大統領就任式でロシア正教会による祝福が行われるそうです。<ブラゴヴェッシェンスキー大聖堂 (1484~1489年)>皇帝、皇后の私的な参拝、礼拝所として使用された聖堂であり、16世紀半ばの火災の後、イワン雷帝によって修復されました。雷帝との異称を持つイワン4世は、54年の生涯において、7回も結婚しました。(8回という説も)4度目の結婚の時、すでに教会での礼拝に参加する権利を失った雷帝のため、ここに専用の階段付き玄関が設置されたのだとか。^^;処刑や拷問が好きだった雷帝ではありますが、礼拝や巡礼を好んだ敬虔な一面もあったと言われています。<アルハンゲリスキー大聖堂 (1505~1509年)>ロシア全土を統一したイワン大帝の死を目前に、大聖堂兼皇帝廟として建設が開始されました。イコン画で覆われた薄暗く冷たいこの内部には、処狭しと多くの棺が並べられ、ここに歴代皇帝とその家族54名が安置されています。セルギエフ・ポサードの地下納骨堂と同じく、ここでも多くのロシア人達が胸に十字を切り、棺に口づけをしていました。新型インフルエンザ流行時には、ここは避けるべきかな、、、な~んて思ったりして。(笑)それでも、壁一面に描かれた 数々のイコン画の迫力と、沈黙を守り 堂々と横たわる歴代皇帝を前にして、人を惹きつける妖しくも美しいその魔力に、私もすっかり魅了されてしまったようです。国境を越え、時代を越えて、私は歴代皇帝に招かれたような錯覚に陥りました。不思議とここだけ時が止まり、ダリの描いた時計のように、ぐにゃぁ~~~と 過去も現在も未来も歪んだ形で入り混じっているような、このまま進めば霊界の入り口へと繋がっていくような、言葉では決して言い表せない 恐いほど静かで冷たい空気が私の肌を包ました。はっ! もしかして私の電話が鳴ってる?歴代皇帝の手招きにより霊界へ入る一歩手前で、私は現界に引き戻されました。バッグの底から携帯電話が鳴り続けていたのです。一瞬、出ようか出まいか迷いましたが、今回の旅行は職場に内緒のことですし、しかも ちょうど昨年度の決算期真っ只中であった為、もしも上司からの電話なら一大事だと、恐る恐る携帯を手にしました。国外では着信履歴が表示されない為、一体 誰からの電話か分からなかったのです。「はい。」「もしもし、、、もしもし?」 電話の向こうから小さな声がひたすら「もしもし」を繰り返しています。「もしもし。」私も答えます。「もしもし? もしもし?」電波は届いているものの、その声はとても遠くて お互い言葉が通じません。「もし、、、」 プツッ。 ツーツー・・・。切れちゃったから、まぁ いっか・・・。ですが、やっぱり気になって、アルハンゲリスキー大聖堂を出て、聖堂の石段に腰をおろし、家に電話を掛けてみました。「あら、どうしたの?」と母。「何か変わったことない? 私に電話とか なかった?」「ええ、今のところ 変わったことはないわよ。」「あっそ。 なら、いいの。 じゃぁね。」安心した私は、とにかく手短に、少しでも早く電話を切りました。というのも、通話料の高さを恐れた為。(笑)「あの電話はモスクワのクレムリンからだったのよ!」帰国後、少々 鼻息を荒くしながら、母に自慢(?)しました。^^そして、先日 au から請求明細書が届きました。受信した「もしもし」を3回と、私から掛けた電話の僅か30秒。これだけで、450円も掛かるんですねぇ~。(T_T)高くついたその電話、ですが 私を霊界から連れ戻してくれたのも事実です。(笑) * * * * * * *こちらは2007年に東京と大阪で開催された「ロシア皇帝の至宝展」から拝借しました、ウスペンスキー大聖堂内の写真です。
2010.07.08
かつて偉大な軍人であっただろう その団体は、クレムリン内にある「無名戦士の墓」に敬意を示し、祈りを捧げていました。もちろん、その様子を遠くから眺めることで精いっぱい、近付くことは絶対に許されません。やはり第二次世界大戦に関する行事が行われているのだ、、、悲しくも、分かることはそれだけでした。ここには、対独戦におけるモスクワの防衛戦で散っていった多くの無名戦士が祀られているのです。墓標には、「あなたの名前は知られていないが、あなたの偉業は不死身である。」そう刻まれているそうです。「1941 - 母国の為に倒れた人達へ - 1945」*こちらは、モスクワ・クレムリンではなく、セルギエフ・ポサードの無名戦士の墓。きっとロシアのあちこちで、このような記念墓地を見かけることがあるでしょう。 写真右手前に写っているのは、月桂樹の枝を表現した聖火台。広島の平和公園で燃え続けている平和の灯とは、その意味だけでなく 漂う空気からして全く違います。無名戦士の墓から、多くの元軍人さんらが現役兵を先頭に出て来ました。テレビ局の取材は続きます。もしかしたら、興味津々な表情で その周りをしつこくウロついていた私の姿は、カットされることがなければ、その日のモスクワのニュースに流れていたかもしれません。(笑)「まさか、クレムリンにも入れないってことはないわよね?」私と同じように、この様子をずっと見つめていた 大学生と思われる一人の男の子に声を掛けました。「いや、たぶん今日は入れないと思うよ。」 その白い肌が、一層 彼をクールに見せます。「え゛~~~! なんで、なんでぇぇぇ~?! o(T□T)o」「なんでって、今日は・・・・・。」ゴォ~~~! 背後から響く騒音に、彼の言葉は掻き消されました。何、何、なんなのよぉ~!!(><)振り向くと、超低空飛行で戦闘機が頭をかすめていきました。今度は何~???何十機もの飛行機が、次から次へと赤の広場の方角へ、建物すれすれで飛んで行くのです。その向こうの様子は全く見えませんので、その戦闘機がどこまで飛んでいったのかは不明です。過去に、山口県岩国市の米軍基地でも航空ショーを見たことがありますが、そんなもの全く比にもならない大規模な演出。まして、市内中心部をこれほど低く飛ぶなんて、どれほどの腕前のパイロットでありましょう!はっ! 写真 撮らなくちゃ!時はすでに遅し、、、ぽか~んと しばらく呆気にとられていたせいで、数えきれない戦闘機が何度も何度も頭上を通り過ぎたにも関わらず、こんなお粗末なものしか撮れなくて、非常に残念です。(T_T)はぁ~、凄かった。いやはや、今にも戦闘機に足元から掬われるのかと思ったわ。凄いよ!凄いよ! 戦争はいけないことだけど、これは正にショーだ、芸術だ!と高鳴る胸を鎮めることにやっとでした。(笑)クレムリン、もしも休みでもいいじゃない! 赤の広場がなんだっていうの!改めて出直したらいいじゃない!なんだか気分がすっとして、なるようにしかならないわ!って、呆気らかんと微笑む余裕の私がそこにいました。 目の前に広がる 美しいモスクワの今を感じよう!こんなにも、モスクワは今 輝いてる! この場所に立てたことが大切なのであって、この空気を吸うことが素晴らしいのであって、それが私の旅の原点なのだと気付きました。「もしかして、今日 開いてます?」観光客にとってクレムリンへの唯一の入場門、トロイツカヤ塔の傍にあるチケット売り場で尋ねてみました。「ええ、開いてますよ。」小さなこだわりを捨てたら、意外と物事は上手く流れるのかもしれませんね。^^ 気分もすっかり転換され、清々しくクレムリンへと向かいます。さぁ、ここがロシアの中枢、ロシアの全てを司る場所。なんだか訳も分からず、ロシア万歳という気分でした。(笑)*今の世界情勢を考えて、冷静さを取り戻せば、こんな私の気持ちはちょっと危ないかも~って思いますけど、、、。^^;そして、緊張と高揚をうまく操り、気持ちを高めさせる空気づくりも怖いほど上手です。
2010.07.04
「27日夜、来月9日の対ドイツ戦勝記念日に行われるロシアの軍事パレードの予行演習が行われた。」これは4月28日付けの産経新聞の記事によるものですが、どうも予行演習は27日だけではなかったのでは、、、???と思われます。* * * * * * * 明けて5月4日。カフェ・プーシキンでゆったりと朝食を取った後、私は「赤の広場」を目指しました。さすがはモスクワの中心たる場所です。その日は平日にも関わらず、多くの人々が慌しく交差していました。この先に「赤の広場」があり、そしてお馴染み「聖ワシーリー寺院」が見えてくるはず!高鳴る鼓動を感じながら、「国立歴史博物館」を背に堂々と立つ銅像を見上げました。 これ誰?無知な私は、一瞬 レーニンかスターリンだろう、と思いましたが、そんなわけはありません。(^^;こちらは、ソヴィエト時代の軍人及び政治家であった「ゲオルギー・ジューコフ」という人物です。第二次世界大戦において活躍し、その後も政治に大きく関与した彼は、ソヴィエトで最も人気の政治家の一人であったようです。1945年の対独戦勝パレードにおいて、ジューコフは行進する将兵を馬上より閲兵する栄誉を与えられました。当初、スターリン自ら閲兵を行なうつもりだったようですが、リハーサルで馬から振り落とされ、ジューコフを呼んでこの役を譲ったのだとか。(笑)ちなみに、ソ連軍の北海道上陸作戦に反対してくれたのもジューコフでした。実は1945年8月22日の時点まで、北海道上陸作戦の準備がされていた、、、ということを、私は今回 初めて知りました。像の前では、胸に数えきれないほどの勲章をぶらさげた軍人らしき人物を真ん中に、記念撮影が行われていました。またかぁ…。 まず、私はそう思いました。例えば、ローマの"コロッセオ"やブダペストの"漁夫の砦"などのように、コスチュームに身を包んだ人物達と 観光の記念に写真を撮っているのだろう、、、てっきりそう思ったのです。もちろん、写真の後はお支払いが待っています。(笑)軍人というのがロシアらしいなぁ~、、、根拠もなくそう思いました。そんな人の輪を潜りながら、「赤の広場」に入るべく、私は勇み足で歩を進めました。「ダメです、入れません!(キッパリ!)」目の前に立つ軍服姿の美女が、手でバツを描きました。え~~~??? どうして~???ニヤッとした表情を浮かべ、首を横に振る軍服の美女。「入れません!」そこで私は、博物館を挟んで反対側のヴァスクレセンスキー門から入ることを試みました。え゛~~~????!(ToT)大きな門扉によって、そちらも固く閉ざされておりました。鉄格子の向こうに、小さく聖ワシーリー寺院が見え、、、、そうで、よく見えない!(><)お願いだぁ~、入らせてくれぇぇぇ~!! o(T□T)oはるばるモスクワまで来て、「赤の広場」に入れないなんてぇ~!!!楽しみにしていた聖ワシーリー寺院を間近で見れないなんてぇ~~~!!!うそでしょう!! これじゃぁ、何の為にモスクワまで来たというのか…。(><。)。。私は囚人のごとく、その非情な門扉を何度も何度も揺すりました。(苦笑)他の観光客も、恨めしそうに門の向こうの「赤の広場」を見つめます。きっと私と同じ気持ちなのでしょう。。。近くでマトリョーシカを売る露店のお姉さんに尋ねてみました。「今日は赤の広場に入れないの? 何時になったら入れるの?」「残念ねぇ~、今日は入れないのよ。 今日だけじゃなくて、毎日ダメね。」うそつきっ! 毎日「赤の広場」に入れないなんて、そんな馬鹿げたことがあるものですか!ところが、嘘ではなかったんですよね~。。。その時はそう思ったのですが、いつになく気合の入った戦勝65周年記念式典を前に、事実 モスクワの至るところに「偉大な勝利」などと書かれた無数の巨大看板や垂れ幕が掲げられ、記念日の数週間前から、市の中心部では幾度と通行止めやリハーサルが繰り返されていたそうです。なんでなのよ~、誰かきちんと教えてちょ~だぁ~い!!(T□T)/半べそかきつつ、もう一度 ジューコフ像の前に戻りました。すると、胸に沢山の勲章をさげた人物達が、わんさと集まっているではありませんか?TV局の取材に応えている模様です。え? 観光記念ではなかったの???んんん~?冷静に辺りを見回すと、そこらじゅうに「65」の数字と、「1945 - 2010」と記された幕が、、、。そこには戦争を思わせる写真が何枚も連なっていました。1945、、、これは第二次世界大戦における何らかの行事に違いない。しかし、その時、、、、、世界史を全く知らない私では、それが対独戦の戦勝記念だとは全く想像もできませんでした。とにかく、目の前に並ぶ老齢の彼らは、戦争において国に貢献した人物ということなんだ。ということは、意外な有名人もこの中にいるかもしれない???誰か詳しく日本語で説明してくれぇ~~~!!!(><)完全に壊れてしまったpicchukoです。(笑)* * *有名人がいるかも~~~と思って撮った写真です。 って、誰ですか?この人達?(笑)
2010.06.30
さて、随分と話が逸れてしまいましたが、5月3日、セルギエフ・ポサードよりモスクワへ戻った私は、遅めの昼食を取りに レストラン「グラブリ」を訪れました。そこは200種類以上ものメニューが、バイキング形式で並ぶカジュアルレストラン。お味はモスクワ市長のお墨付きというだけあって、どれもこれもハズレなし。美味しそうな品々とあまりの空腹に、思わず沢山 取り過ぎてしまった私は、ここで予想以上に時間を費やしてしまいました。その後、一旦 荷物を置きに イズマイロボホテルまで戻り、さて、これからどうしよう、、、。机の上に置かれた小さな古い扇風機をカタカタ回しながら、ガイドブックをペラペラめくりました。『モスクワ川クルーズ』そうだった、そうだった!市内を湾曲して流れるモスクワ川からの風景は、また違ったモスクワの魅力を教えてくれると、以前 ロシア語講座で紹介されていたのでした。市内には何箇所か水上バスの停泊所があり、20~30分間隔で運航されるという便利さ。"雀が丘船着き場からウスチンスキー橋付近がベストコース"ということで、まずは地下鉄で雀が丘船着き場の最寄り駅「ヴァラビヨーヴィ・ゴールィ駅」を目指しました。余談ですが、この駅は3月末にモスクワ地下鉄テロが発生した「パルク・クリトゥーリ駅」から3つ目の駅です。ヴァラビヨーヴィ・ゴールィ駅に20時頃到着しました。小雨の中、行き交う船を眺めながら、もしやあれが最終バスかも、、、と不安になってきました。 どうかまだ間に合いますように。。。「これ、クレムリンまで行きます?」「ええ、行くわよ。料金は400ルーブルね。」 慌てて駆け込んだ船が、実は水上バスではなく、モスクワの夜景を楽しむ遊覧船だと気付いたのは、デッキに立つ私にメニューが配られてからのことです。21時過ぎに船は出航しました。 静かに優しく滑るように船は進みます。段々と街に灯りが灯ってきました。40分程進んだ頃、左手に「救世主キリスト大聖堂」が見えてきました。こちらもロシア正教会の中心地のひとつです。 河岸に建つこの大聖堂は、祖国戦争(ナポレオンによるロシア遠征)の戦没者を慰霊するために、計画から44年もの年月を経て、1833年に完成しました。といっても、現在の大聖堂はソ連崩壊後の1997年に新生ロシアの象徴として、当時の姿を忠実に再現したもの。当初の建物は、1913年にスターリンによって爆破されたからです。それは、この地にソヴィエト宮殿を建設しようというスターリンの思惑からなのですが、結局は、大聖堂跡地から地下水が吹き出し、宮殿建設は頓挫することになりました。人々は、この地下水をキリストの涙だと噂したのだそうです。その後 再建までの間は、巨大な温水プールがこの場所にあったのだとか。。。船の中では、激しいダンスミュージックが流されていました。ギラギラ眩しく、赤や緑のライトが回ります。けれど私はこの白亜の建物を目の前にして、不思議と切なく胸が締め付けられ、思わず涙がこぼれそうになりました。夜に浮かぶ大聖堂は威厳に満ち、そして哀しい歴史をそのまま物語ってくれています。そして、そのうち見えてくるのが、ロシアの中枢「クレムリン」! その先には、ぼぉっと聖ワシーリー聖堂も見えて来ました。明日、その場所に立つ! それはまるで戦いを挑むように、先ほどの切なさを吹き飛ばし、熱い思いが湧きあがってきました。そろそろ降ろしてくれるのかな~。クレムリンが遥か後ろに遠ざかっていきます。私、赤の広場で降ろしてもらいたいんだけど…。船は進みます。 停まる様子はこれっぽっちもありません。あれれ?すると 目の前には、スターリン・ゴシック様式(スターリン時代、威厳を強調した象徴性の強いモニュメントとして、国家に承認された建築様式)の一つである「芸術家アパート」が聳える姿が見えてきました。スターリンは、モスクワを"世界の規範的な首都"にするべく、このような荘厳な高層ビルを市内に 7つ建てたのです。 私はネギ坊主頭の方が好きだなぁ~。そんなことを思いながら、どこが停泊所なのだろう、、、と探しておりました。* * *ところが、船はこの芸術家アパートの手前にあるウスチンスキー橋を潜ってUターンし、そのままどこにも停まることなく、もと来た川をもう一度 下って行くのです。うそっ! このまま戻るの?その時、時計の針は すでに午後10時を回っていました。ということは、雀が丘の船着き場に着く頃には23時を優に過ぎることでしょう。え゛~! そこからホテルまでは随分と遠いのにぃ~!!(><)そんな夜遅くに地下鉄に乗らなければならないなんて、、、。予想外の出来事に少々焦りました。 やはり夜中の地下鉄はダメでしょう、ダメでしょう。。。それから残りのクルーズは、その後のことで頭がいっぱい。 感傷に浸る場合ではありません。夜中に地下鉄はどう考えてもダメでしょう。ですが、地下鉄を使う以外、ホテルに帰る術は他にないのです。(><)「どう? 十分に楽しめた?」ちょっぴり素敵なスタッフのお兄さんの言葉もいいかげんに、船が岸に着くや否や、私は急いで飛び降りました。船着き場から地下鉄駅までの道のりだって真っ暗です。ところどころに釣りをしている男性を見かけました。 それが余計に恐い!小走りで駅に向かい、地下鉄駅に到着するも、やはりホームには私一人だけで、、、。あぁ、ホテルへは途中で路線を乗り換えなければならないのだった、、、。ここで乗り間違えだなんて、ホント洒落にもなりません。 最終時刻も迫っているのですから。*焦る心を抑えながら、無事に真夜中の地下鉄を乗りこなし、ホテルに着いたのは、もうすぐ次の日を迎える午後11時50分のことでした。
2010.06.26
たぶん、背伸びしたい年頃だったのだと思うのです。高校生だった私は、学校の図書室で一冊の詩集を手にしました。『プーシキン詩集(岩波文庫)』和訳のどことなく古めかしい響きと、独特の侘しい空気感が、センチメンタルな気分に浸りたい年頃の私の心に居心地の良さを感じさせたのだと思います。詩集に興味を持ったのは母の影響からです。「母さんね、高校時代は よく授業中に先生の目を盗んで、色んな詩集を書き写してたのよ。たとえば、ゲーテとかハイネとか、そうそうヘッセも好きだった、、、。」当時、私の周りでは銀色夏生さんの詩が結構 人気だったと思います。ですが、たぶん その頃から天邪鬼だった私には、それではどこか物足りなく、だからといってゲーテやハイネでは何かしら違ったのです。プーシキン、、、ちょっと変わった名前よねぇ~。ロシア人とも知らず、しかもゲーテに引けをとらない偉大な詩人だとも思わず、ただ その白く広大な大地を思わせる うら悲しい世界を開くことが好きでした。プーシキンがどこの国のいつの時代の人かなんて、そんなことはどうでもよかったのです。図書室の貸し出しカードには、『プーシキン詩集』だけ私の名前で大賑わい。(笑)それは国語の先生にも目に留まるほどの羅列でした。*彼がロシア人だったとは、一昨年の秋、ツルゲーネフの『はつ恋』を読んで気付きました。そして、実はロシアを代表するほど有名な人物だったとは、今回 モスクワを訪れたことによって初めて知りました。というのも、ドストエフスキーが「我々は皆、プーシキンから出た、彼の末裔である。」と表現するほど、ロシア人にとって偉大なる詩人であり劇作家だったのです。帰国後 調べてみると、「はじめて作品のなかに積極的に口語を取り入れ、独自の語りの文体を作り上げて近代文章語を確立し、後代のロシア文学に影響を与えた。」とWikipediaにあるように、古典的なロシア詩の詩作規準を確立し、ヨーロッパ文学の模倣にすぎなかったロシア文学を真に国民的な文学に高めたのだとか。だから、トルストイやツルゲーネフといった日本でも有名な作家達の作品の至るところに、プーシキンの詩が引用されているのですね。また 彼の死後、その多くの作品が、ロシアの作曲家によってオペラ化されたそうです。*それほどロシアの文学界に影響を与えたプーシキンの肖像画が、「トレチャコフ美術館」にもありました。数あるプーシキンの肖像画の中で、プーシキン自身がとても気に入り、後に買い取ったという、オレスト・ギプレンスキー作 『詩人プーシキンの肖像画』 は、美術館の多々ある作品の中でも なぜかしら目を引く一枚です。 「まるで鏡の中の自分を見ているようだ。」 そんなプーシキンの言葉ではありませんが、「まるで生きたプーシキンが、ちょっぴり気取ったポーズで目の前に座っている」そんな感じかな。^^口を開けば、今にも素敵な詩の一節でも飛び出してきそうな、ごく自然のプーシキンがそこに存在していました。ちょっと色黒なところと、クルクルと巻いた髪の毛は、エチオピア人だった彼の曾祖父さんの血筋でしょうか。ロシア近代文学の父に、実はアフリカの血が流れているっていうのも面白いですよね。そして、若くして決闘によって 儚くもその生涯に幕を下ろしたところなど、まさに劇作家を地で行くような情熱的な人。それでも素朴さを忘れない、そんな彼の一瞬の表情が この絵に現れているようで、もの凄く親しみやすさを感じました。私もこの絵、大好きです。^^*彼の作品の持つ、本来の美しい韻の響きや表現力の巧みさは、原語でなければ掴み取れないといいます。ロシアではこれほど有名な彼の作品が、世界に殆ど影響を残さなかったのは、まさにその翻訳が非常に難しいからだと言われています。ということは、やはりそこにもロシア語という大きな壁が、、、。(T_T)プーシキンとの再会は、私にとって ロシア語との新たな出会いになりそうです?!って、それは絶対にあり得ませんけど。。。(苦笑)
2010.06.22
「たとえば このわたしが決闘を申し込んだとしよう」そんな独りごとを続けながら、決闘申し込みの後で過ごす一晩のこと、自分に向けられるピストルのことをありありと思い浮かべたカレーニンは、ぎくりと身を震わせて、自分がけっして そんなまねをしないだろうと悟ったのだった。 『アンナ・カレーニナ(光文社 古典新訳文庫)』 第2巻 P.117これは、アンナによって、ヴロンスキーとの関係を打ち明けられた夫 カレーニンが、その後 どう振る舞うべきかを思い悩んでいる場面を抜き出したものです。「仮にわたしがあの男に決闘を申し込んだとしよう。そうして決闘の作法を教わり」彼は考えを進めた。「決闘の場に立たされて、引き金を引き」 彼は目をつぶりながら そう自分に語った。「そして相手を殺したとしよう」・・・文中において、カレーニンは次のように繰り返します。「間違いなく わが国の社会はいまだにひどく野蛮だから、決闘を好意的に見る人間はきわめて多数にのぼる。だが決闘をして どんな結果が得られるというのだ? たとえば このわたしが決闘を申し込んだとしよう・・・」* 事実、ロシアには、このように愛人との「決闘」において尊い命を失った文学者がいるのです。その名は、アレクサンドル・セルゲーヴィチ・プーシキン。ロシア近代文学の祖とも言われる、国民的詩人です。それは、美貌の妻 ナターリアがニコライ1世の愛人であるかのような噂を流されたのがきっかけでした。噂を流したのはオランダ大使のヘッケルン男爵。その養子であり、ナターリアに執拗に言い寄っていたフランス人のダンテスにプーシキンが決闘を申し込んだのは1837年のこと。夕闇が迫る中、銃弾を浴びた詩人は、2日後 自宅の書斎で静かに息を引き取ったそうです。僅か37歳という若さで。 * * * * * * *ロシア文学と聞けば 少し重苦しく感じてしまいがちですが、それを手にする場所を選べば、それは趣きある魅力ある世界へと様変わりします。そんな素敵な場所をご紹介致しましょう。それは、前述のプーシキンにちなんだ高級レストラン「カフェ・プーシキン」です。彼の生誕200年を記念して、1999年にオープンしました。プーシキン広場から徒歩2分程度で、ピンク色した可愛らしい外観が見えてきます。 入口にはドアマンが立っており、二重扉の向こうには、さりげなくドアを引く 若く洗練されたボーイの姿がありました。店内は帝政ロシア時代を彷彿させる重厚な内装で、背後には誰もが知るクラシックのピアノ小曲が流されており、なんとも言えぬいい雰囲気。そうそう、3階にはオーナーのコレクションである古書を陳列した書棚があるのだとか。そちらは正午以降でないと入れないということでしたので、朝食に訪ねた私は1階の窓際の席に腰を降ろしました。落ち着いた気品ある趣きは、私がこれまで訪れたカフェ&レストランの中では最高級。とりわけ人数(ひとかず)の少ない時間帯でしたので、まるでその空間を一人占めしている気分です。^^古新聞をモチーフにしたメニューには、軽く朝食といっても 選びきれないほどの料理が並びます。さすがはモスクワを代表するレストランだけあって、お値段もかなり高めです。カプチーノとパンケーキ、、、あ、パイナップルジュースも頼みましたっけ、、、それだけで945ルーブルもしました。1ルーブルを単純に4円と計算して、田舎者の私にはちょっとビックリなお値段ですよね。カプチーノにはプーシキンの頭文字が書かれており、小さなマカロンが付いてきます。 そして、こちらは 簡単に言えば「目玉焼き」!(笑)玉子の上にジャガイモ、トマト、マッシュルームなどが乗せられて、それをぐるっとソーセージで囲んでいます。 お味の方は、どれもこれも見た目以上に美味でした!あまりにも素敵な場所でしたので、僅かなモスクワ滞在中、二度ほど足を運びました。モスクワに住んでいるのなら、毎日でも通いたいくらい、そんな私好みの優雅な時間が流れています。それは、ウィーンの高級カフェでさえ味わうことができなかった至極の時間。いつの日か「プーシキン詩集」片手に、もう一度 この場所を訪ねる私がいるでしょう。
2010.06.18
不覚にも、風邪をひいてしまいました。暑いのに寒い、喉の痛みと鼻水に苦しめられ、そして気付くのです。あぁ、私は毎年 この時期になると、必ずといっていいほど 風邪をひいてるなって。先日、沢山の本を買い込んでしまいました。それも"ロシア"に関するものばかり、、、書店の方も驚くほどのその量は、買った本人である私をも途方に暮れさせているのです。(笑)今年の3月から読み始めた 『アンナ・カレーニナ』 を未だ全巻読破できていない状態で、この積み上げられた本をどうするのか。読む気は十分にあるものの、微熱でじわじわ溶けてしまいそうな私の身体がブレーキをかけているこの頃です。* * * * * * *正直、『アンナ・カレーニナ』 という本は、単なる不倫話だと高をくくっておりました。ソフィー・マルソー主演の映画を観た後でさえ、その美しさは絶賛しつつも、まだその奥に無限に広がるドラマを感じ取ることができませんでした。ところが、実際に単行本を手にしてみると、これを熟読できれば 当時のロシア全てを語れるほどのものがぎっしり詰まっているのではないだろうか、、、と驚きに近いものを感じました。ご存知、トルストイの代表作 『アンナ・カレーニナ』 は、人妻であるアンナと青年将校ヴロンスキーとの不倫愛、そして 地主貴族であるリョービンと公爵家の末娘キティとの穏やかな愛を交互に描き進んでいきます。確かに、人妻ゆえに醸し出す媚態のアンナが次第に余裕を失い、自分を失い、壊れていく様は物語の主軸になるのかもしれませんが、まるで自身の語り部のように綴られたリョービンの堅実さによって、ややもすれば浮足立ちそうな話の流れをしっかりと固め、アンナとは対照的にさえ思えるキティの健気な明るさが、長い冬の雲間から射し込む柔らかな光のように読む者をひととき救ってくれます。そして、リョービンの目を通して 自身が体験した当時のロシアにおける農地経営、そして 革命へと向かうロシア社会の様々な側面の描きようは、歴史を知る上でも非常に勉強になるものです。と偉そうに言いつつも、未だ4巻中3巻の半ばをウロウロしている私に、この物語の続きは、もっと激しく強烈な印象を叩きつけてくれることでしょう。(^^;なんてったって、かのドストエフスキーに「文学作品として完璧なものである。現代ヨーロッパ文学のなかには比肩するものがない」と言わしめさせた作品なのですから…!あ、個人的には、リョービンとキティがお互いの思いを確認し合う場面が一番好きです。^^* * *自分には到底及ばないと思っていたロシア文学の面白さが感じられるようになったこれを機に、思い切って 同じくトルストイの代表作である 『復活』 を購入しました。それは、若い貴族とかつて恋人だった女の贖罪と魂の救済を描き、それを通じて社会の偽善を告発するといったもので、帝政ロシアにおける裁判、教会、行政などの不合理を大胆に摘発し、権力の非人間的行為へ激しく抗議したトルストイの力作です。その 『復活』 の中で、「聖書を勝手に解釈したり正教を冒涜した」として、トルストイはロシア正教会から破門の宣告を受け、現在に至るまでその破門は取り消されていないのだとか。せっかくの縁でロシア正教との繋がりを得た今の私にとって、そこのところが最も興味深いです。* * *そして、もう一冊をご紹介。それは、ジェイ・パリーニ(米国人)作、『終着駅 ~トルストイの死の謎~』 です。こちらも すでに映画化されており、この秋に日本でも公開されます。*「うさぎの春子さん」、貴重な情報をありがとうございました!(*^^*)主演は、映画 『クイーン』 でエリザベス女王を演じた ヘレン・ミレン。世界三大悪妻とされるトルストイの妻ソフィヤが、彼女によってどう映し出されているのか、、、。また、トルストイ役に クリストファー・プラマー。こちらは、映画『サウンド・オブ・ミュージック』 のトラップ大佐でお馴染みですよね。^^~ 1910年11月、トルストイは旅の途次、寒村の駅長官舎で息絶えた。82歳の文豪を流浪へと駆りたてたものは何だったのか。最晩年の謎にみちた日々を、トルストイ夫妻、娘、高弟、秘書、主治医、それぞれの視点から浮かびあがらせる。回想のなかで明かされる、放蕩無頼の青春時代、情愛あふれる新婚の日々…高まる名声とともに信奉者が集いはじめると、作家と妻ソフィヤのあいだに断絶が生まれ、それは死の際までトルストイを苛みつづけた。実在する多くの記録をもとに、ありうべき手記を創作し、新しい文学の誕生を告げるドキュメント・ノヴェルの傑作。 ~次回はそんなロシア文学の似合う、モスクワの素敵なカフェ&レストランをご紹介致します。^^
2010.06.14
まずはじめに、前回の日記を訂正致します。セルギエフ・ポサードで2010年5月3日に行われた行事とは、正教における「主の昇天日」に関するものではなく、第14代総主教・ピーメン1世(在位:1971年6月3日~1990年5月3日)がお亡くなりになって20年目の儀式だったようです。その追悼の儀式は現(第16代)・総主教をはじめ、ロシア正教の多くの大主教達 列席のもと行われました。(納骨堂入口にて)ピーメン1世の棺は、修道院内にあるウスペンスキー大聖堂の地下納骨堂にあります。あの日、地下納骨堂の狭い入口を目指して、一斉に信徒の渦が押し寄せました。私のちょうど目の前にはかなり高齢であろうお婆さんがいらっしゃって、その渦に巻かれたら間違いなく転倒してしまう。その時の私は、熱狂的な信徒達からお婆さんを守るため、できる限り彼女の後ろに立って、それを防ぐのに必死でした。なんなんだ!この狂った人々は!!!今なら、何故に信徒達が狂人のごとく 納骨堂を目指したのか、なんとなくですが 理解することができそうです。 * * * * * * * 先ほど、ブログ仲間の「とらのこどもさん」が面白いお話を教えてくださったので、ここに紹介致します。2009年1月22日付け、JBpress(日本ビジネスプラス)の記事です。「2008年12月5日にロシア正教会総主教・アレクシー2世が亡くなった。後継者は今年(2009年)1月27日から29日まで開催される全国教会総会において、秘密投票で選ばれる。即位式は2月1日に行われる予定だ。秘密投票は2回行われる。だが、その結果はもう明らかである。次期総主教になるのは、12月6日から総主教代行になったキリル大主教だろう。その確率はほぼ100%と言ってもよい。誰もがそう思っていた。ロシア正教の規約では、総主教の選挙はできるだけ一般のロシア正教徒に参加してもらうことが望ましいとしている。今回は時代の流れに沿って、ウェブで投票をやろうということになった。ロシア教会だけではなく他の教会も、教会を宣伝し、若くて新しい信者を引き集めるためにネットを積極的に使っている。ロシア正教会は、ロシア総主教の選挙に当たって特別のサイトを設置した。そのサイトには、次期総主教の資格がある34名の大主教と77名の府主教の候補の写真が載っている。写真の下のボタンをクリックすると、その候補に1票が入るという仕組みだ。要するにネット上の人気投票である。最初は予想通り、キリル大主教がリードしていた。しかし1月13日に突然、候補者の列のはるか後方に掲載されていた東京の大主教、ダニイル主代郁夫(ぬしろ・いくお)が77%以上を集め、キリル候補の人気をはるかに上回って、トップになってしまったのである。ダニイルは日本教会を代表する主教だ。ロシア正教会では大騒ぎになり、サイトの管理者はダニイル大主教の写真の下に「投票数を恣意的に上げるハッカー攻撃があった」と書き付けた。15日までにダニイル大主教への投票をマニュアルで削除したりしていたが、また大量の投票があり、70%台へと支持率が上がってきた。そこで16日にはダニイル候補の支持率を削除し、票数だけを残して掲載した。同時に、キリル候補の支持率は、一気に10倍の58%(1万5269票)へと押し上げられた(修正された)。しかし、ダニイル候補の獲得票数は2万3799票と、キリル候補を追い越したままだった。ダニイル大主教の写真は削除されないだろう。その必要はない。必要なのは、ロシア文化の中核をなすロシア正教の総主教選挙で、どうして日本人候補の人気が突出して高いのかを解明することである。ただのいたずらなのか、その背景には何かが隠れているのか。現実的には日本人がロシア正教総主教になるのは夢のような話であり、まずあり得ない。だが、理論的には可能であり、可能性がまったくのゼロとは言えない。ロシア正教の決まりによると、総主教になれる候補は、神学大学を卒業していること、教会の教主(大主教または府主教)であり、教区経営経験があり、40歳以上であること、とされている。人種の規定はない。ダニイル大主教はこれらの条件を完璧に満たす候補であり、日本でもロシアでも、信者を含めて教会関係者からの評判は高い。ただし、1月13日まで、彼のことを知っていたロシア人は多くはなかった。この事件を解明しようとするロシアのマスコミは、"若い日本アニメのファンがロシアに大勢いることが原因だ" と主張している。毎日、ネットサーフィンしている彼らが東京のダニイル大主教の写真を見つけ、こぞって票を入れたのだろうという分析だ。」これにはロシア正教会も大慌てしたでしょうね~。(^m^)ですが、日本人を総主教に就けることは、ロシア正教会の名誉に掛けても譲れなかったことでしょう。ローマ教皇を決めるカトリックの「コンクラーヴェ」もそうですが、トップの座を選出するのには、いつも何かしらあるのでしょうね。*とらのこどもさん、とても興味深いお話をどうもありがとうございました。^^
2010.06.10
2010年5月3日。この日、ロシア正教における特別な日であったに違いありません。お恥ずかしいことに、私はロシアを訪れるその日まで、正教がキリスト教であることすら知りませんでした。壁に描かれたイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)のイコン(聖像)を見て、「そうだったのか!」と知る始末。(苦笑)正教会において、西方教会諸派における復活祭(イースター)に当たるものが「復活大祭(パスハ)」であり、それが正教会最大の祝祭日であること、その他 降誕祭(クリスマス)など、十二大祭が行われること、現行の太陽暦・グレゴリオ暦ではなく ユリウス歴を用いる為、西方の教会とは祝祭日が異なることが多いなど、少なくとも基本中の基本は勉強してくるのだった、、、と、後悔しても後の祭りです。これまで西側諸国において数々の大聖堂へ足を運んだにも関わらず、キリスト教であることさえ知らなかったロシア正教会で、この上なくその無知加減を腹立たしく感じ、これまでになくキリスト教の重みを肌に感じました。総主教・キリル1世の掛け声に合わせ、大声で唱える信徒達。日曜日でもないのに、一体何の騒ぎなの?信徒達は一体、何と唱えてるの?なぜ、総主教が現れたの?帰国後 色々調べてみて、"たぶん" その日は復活大祭から40日目にあたる『主の昇天祭』の関連行事だったのではないか、、、と分かってきました。それは十二大祭のひとつであり、正教会ではこの日をもって復活祭期の終わりとするため、教会暦上の大きな節目のひとつでもあると書かれてあります。また 信徒達の掛け声は、復活祭期の間に主教と信徒、又は信徒同士で交わす挨拶「ハリストス復活!」「実に復活!」であったと想像できます。*キリル1世は、まず金色屋根のトロイツキー聖堂にて祈りを捧げ、その次に向かった先がウスペンスキー大聖堂の地下。この地下納骨所には、20世紀における何人かのロシア正教会の総主教らが眠っているのです。私はまるで信徒のように、彼の後をついて回りました。ですから、私が初めてロシア正教に足を踏み入れた場所が、トロイツキー聖堂(写真)となります。トロイツェ・セルギエフ大修道院の中でも最も古い建物で、1423年に建てられました。その内部のイコン画は、中世ロシア、モスクワにおける最も重要なイコン画家アンドレイ・ルブリョフによって描かれています。一歩進むや、その狭く薄暗い厳かな内部と 迫り来るイコン画に、私は息を呑みました。長い信徒の行列に、ぼんやり灯された蝋燭の光、美しく響く"パスハの讃詞"と呼ばれる聖歌の調べ。人々は恭しく胸に十字を切り、イコンに口づけをする。一瞬、妖しくも見えるその情景も、まるで目の前にハリストスが現れたかのような喜びを内に秘めた人々の表情に、ロシア正教に対して野蛮な印象を持っていた私は、驚きを隠しきれませんでした。イコンに口づけするその姿からは美しさすら感じます。私も大きな柱にもたれかかり、頭にスカーフを被せ、信徒達の祈りの姿を真似てみたものの、やはりそれは嘘っぽい。(笑)仕方なく、私流に手を合わせ、ウスペンスキー大聖堂の地下へ移りました。その地下納骨堂では、それまで恭しく謙っていた信徒達が熱狂者へと豹変☆満足に息もできないほどもみくちゃにされた私は、押し合いへしあい「我先に!!!」という彼らの姿に、別の意味で驚かされました。それは、そこで静かに眠っている歴代の総主教様もビックリして目を覚ましてしまいそうな勢いです。(笑)不思議な縁で、訪れる予定でなかったこの地を旅し、偶然にもその場所がロシア正教の聖地であり、その日がなんらかの特別な日であったこと。そして、総主教様のお出ましに居合わせた この偶然。それは、神様が私を正教へと導くべく、何かのお示しであったのかもしれません?(笑)ですが、神様! 私にロシア語は絶対 無理ですぅ~。(><)(日本正教会には興味ありませんので、あしからず…。)*写真は、トロイツキー聖堂とは対照的に、煌びやかな内部に圧倒されたセルギエフ教会(聖セルギイの食堂)です。
2010.06.10
「クレムリン」といえば、まずモスクワのそれを頭に浮かべる方が多いでしょうが、もともとロシア語で「城壁」を意味するクレムリンは、中世ロシアの多くの都の中心部に備えられていたのだとか。ここ『トロイツェ・セルギエフ大修道院』も、同じくクレムリンで囲まれております。その中に、金色の星型の入ったブルーの屋根を持つ「ウスペンスキー大聖堂」(写真)をはじめ、金色の屋根が眩しい「トロイツキー聖堂」他いくつもの教会、そして神学校、僧坊、宮殿、病院などがあり、ロシア最大の修道院として、またロシア正教において最も重要な修道院のひとつとして、常に多くの信者で賑わって(ごった返して)おります。その為か、ここの修道院長は、ロシア正教の長たる"モスクワおよび全ロシアの総主教"が務めることになっています。実務はセルギエフ・ポサード駐在の院長代理が行うそうです。 呑気にカメラを構える私とは対照的に、多くの信者達が 正面入口からトロイツキー聖堂に向かってずら~っと並び始めました。何? 何かあるの?図々しくも列に割り込み、これから現れるであろう その偉大なる人物を私も待つことにしました。周囲の女性信者達は、頭にスカーフをかけ、恭しく手を合わせて入口を覗き込み、観光客と思われる者達は、カメラを掲げ、同じく入口を向いて待機しています。熱狂者に備えてか、はたまた怪しい人物に備えてか、目の前には多くの護衛兵がキツい表情で立っています。そこで、私が大学時代に親しかった三谷君という友達によく似た兵隊さんが目に入りました。あらー、久しぶり!って感じで、ちゃっかり彼の隣りに立ちました。(^m^)「(ねぇねぇ、三谷く~ん!) 一体 これから 誰が来るっていうのぉ~?」と、すっかり友達気分で慣れ慣れしく声を掛けてみるものの、、、もちろん、彼は三谷君でもなければ日本人でもなく、今 自分が遂行しなければならない任務に超真剣です。彼はギッと私を睨みつけました。それでも私は全く怯みません。「ねぇ、誰が来るのか教えてよ~!^^」ですが結局、何度も睨まれ無視されて、これ以上 しつこくすると 今にも監禁されそうでしたので、仕方なく、彼の隣りで静かに待つことと相成りました。(笑)*一瞬、辺りがざわめき立ちました。誰? 誰? やっぱりプーチン首相なの???私も必死に背伸びしてみるものの、多くの信者にもまれて 何が何やら分かりません。三谷君は相変わらず無表情で任務を遂行しております。^^そのうちに、黒い服に身を包んだ修道士達を先頭に、厳かなる列が目の前に現れました。深々と頭を下げる人々に混じって、私は必死で頭をあげてキョロキョロ辺りを見回しました。グラッ!前へ前へとのめり込む信者の波に押されて、私の身体が前方へと押し出されてしまいます。ガシッ!!!これほど強く掴まれたことがないほど、勢いよく力強く、護衛兵の手によって 私の肩が抑え込まれました。ひぃ~~~! ここで捕まえられては堪らない。(><)ドキドキしつつも何事もなく、ホッと一息ついた頃、、、現れたのです、現れたのです!!!レニングラード(現サンクトペテルブル)生まれのウラジーミル様が!!!緑色の特別な衣装に身を包み、頭には十字架の付いた白いクーコリを頂いて、、、。("クーコリ"とは、正教会における最上位格の修道士によって着用される帽子のこと)そうです。 目の前に現れたのは、ロシア正教のモスクワおよび全ロシアの現・総主教、キリル1世。1946年11月、レニングラードにて生を受け、 2009年2月1日、正式にモスクワ総主教としてご着座あそばされました。本名、ウラジーミル・ミハイロヴィチ・グンヂャエフ。正しく、レニングラード生まれのウラジーミル様です。(笑) 私が待ち焦がれていたウラジーミル様は、レニングラード生まれのウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン様。誰もが知る第2代ロシア連邦大統領なのでありまして、、、。(T_T)総主教といえば、カトリックでいうローマ法王に値するお方。そのような有難いお方のお出ましに、本来なら感謝しなければいけないところ、思いっきり落胆してしまったpicchukoなのでありました。* * * * * * *余談ではありますが、ロシア革命の主導者、かの初代ソビエト連邦共産党最高指導者 レーニン氏の名前も、ウラジーミル。ロシアには、ウラジーミルという名の人物は、掃いて捨てるほど(失礼…^^;)存在します。ロシア人の名前の種類は日本よりも随分と少なく、ですから ウラジーミルさんとか、ニコライさん、セルゲイさんなどが わんさといるわけです。そこで(?)、ロシア人の発想はなかなかユニークでして、名前と姓の間に父称を入れ、"ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン" のプーチン首相の場合でしたら、"プーチン家のウラジーミルさんの息子のウラジーミル君"となるのだそう。プーチン首相はお父さんの名前もウラジーミルなのね。(^^)また、名前にはそれぞれ愛称が決まっており、ウラジーミルなら「ヴァロージャ」が一般的。部下などが、敬意を表す場合には、「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ」と呼び、英語の「Mr.」に当たる「ガスパジン」を用いて、「ガスパジン・プーチン」と呼ぶのはよそよそしい言い回しになるので、ロシア人同士ではまず使われないのだとか。そして、ロシアで人気のロシア大統領ブランドウォッカ「プーチンカ」は、"プーチンちゃん"となるようです。(爆!)
2010.06.06
「これからどこへ行くつもり?」バッセーリさんの言葉に、修道院までの道しるべを探さなくちゃと気付きました。 駅から修道院までは1kmばかり。 徒歩15分と書かれてあります。ガイドブックの写真を見せながら、「ここへ行こうと思ってる。」そう日本語で答えました。^^「道順は分かってる?」「一人で大丈夫?」「タクシーを拾う方が早いかなぁ~。」「ちょっとついておいで。」そんなことを言ってるであろうことは、例えロシア語でもなんとなく分かります。私の返事を待たずして、彼は一人勝手に納得し、ドンドン先へと進みだしました。ちょ、ちょっとぉ~、私にも考える時間をちょうだいよ~!!><慌てて、後を追いました。彼が向かった先はタクシー乗り場。背の高いロシア人のドライバー集団は、ちょっと独特の迫力があります。煙草をふかしながら、一人のお兄さんがバッセーリさんと何やらブツブツ。私達を運転手のお兄さん達が取り囲みます。「チッ、もう少しマシなヤツはいねぇのかよぉ~。」…(わが妄想・笑)もしかして、私 売られる~???(><)意味が分からずビクビクしている私に、バッセーリさんはロシア語で説明を始めました。だからぁ~、私はロシア語が分からないって、さっきから何度も言ってるじゃない!!説明が終わると、又もドライバーとの交渉再開。そして、再び振り返り、私に説明するという繰り返し。傍から見ると、きっと彼がロシア人と私の間に入って通訳をしているように見えるでしょうが、、、彼はずばり! ロシア語しか喋っておりません!(爆!)超真面目な顔で私を説き伏せる(?)バッセーリさん。私は彼の肩に手を置いて、何度も首を横に振りました。「だから、分かんないんだって!」とうとうバッセーリさんとドライバーとの間で交渉が成立したらしく、私のシベリア送りが決定したようです。(T_T)ドライバーのお兄さん、指で「15」と示します。15ルーブル? ってことは、日本円だと大体60円くらい?私はそんなに安いのか?そんなにわけないだろう!って感じで首を振りつつ「150だよ。」とお兄さん。それでも 私の値打ちはせいぜい600円ということか、、、。(ToT)と、冗談はさておき、それが妥当なタクシー料金かどうか分からないまま、私は車に乗り込みました。信じられるのは、バッセーリさんの心強い頷きだけです。(^^;*ほんの1時間半ばかりの貴重な出会いに手を振って、目指すはシベリア、、、(笑)ではなく、世界遺産の『トロイツェ・セルギエフ大修道院』。 こちらの大修道院内部には、数々の教会だけでなく モスクワ宗教大学と神学校も置かれており、聖書片手に黒い服で身を包んだ若き美しい神学生と出会えます♪ロシア正教の中心地のひとつでもあり、きっと厳かな空気が流れていることでしょう。多くの信者達が恭しく祈りを捧げる姿が、私の頭の中で膨らみます。(あれれ? 何気にピース?・笑)ところが、到着早々 何やら慌ただしい雰囲気で、、、?警備も厳重になってきて、、、???まっ、まさかぁ~~~!!!まさか、プーチン首相のお出ましか?!念ずれば、必ずや夢は叶うと言いますものぉ~~~!(*^^*)
2010.06.02
「落としましたよ。」すっかり動転していた私は、ピラピラの切符がホームを舞っていたことさえ気付いていませんでした。危ない、危ない、、、あんなに苦労して手に入れたのに、、、。^^;切符売り場の窓口で、あらかじめ乗り場を確認していたおかげで、ヤロスラヴリ行きの列車を見つけることは簡単でした。ですが、完全に自信を失った私です。車内の路線図を何度も何度も確認しなければ、落ち着いて座ってなんていられません。「ここに座ったら?」目の前をウロチョロする私を見かねてか、ある おじさんが声を掛けてきました。「あのぉ~、私、セルギエフ・ポサードへ行きたいんだけど・・・。」「それなら 大丈夫だよ。^^ 僕もそこで降りるんだ。」その言葉に安堵した私は、彼の隣りに腰をおろしました。それと同時に、列車もモスクワを出発しました。彼はベラルーシ出身だと喋りはじめます。* 実は、私がベラルーシという国の存在を知ったのは、つい数週間前のことでした。ポーランド大統領機墜落のニュースで話題になった"カティンの森"が、ベラルーシにほど近い場所だったから、頭の中ですぐに思い浮かべることが出来たのです。恥ずかしいことに、それまで 旧ソヴィエト圏で知っていた国といえば、「ウクライナ」「ウズベキスタン」「カザフスタン」とバルト三国くらい。複雑な国だけど、もっともっと勉強しなくちゃ失礼よねー。(^^;「君は? う~んと、中国人だろ。」はい、はい、、、海外ではよく中国人や韓国人に間違えられますよ。。。(トホッ。)「いいえ、私は日本人。」(キッパリッ!!)* * *少し緊張感がほどけてきた私に、ちょっぴり眠気が襲ってきました。ベラルーシのおじさんに もたれ掛かりながら、気持ち良く列車の揺れに身を任せていました。すると 突然 目の前の扉が開き、一人の男性が車両の入り口に立ち、何やら大声で説明を始めたのです。時刻表らしきものを掲げながら、、、。へぇ~、列車の中で時刻表を売ってくれるんだ。一つ 買っておこうかしら、、、帰りの時間も分からないし、、、。私が慌てて鞄に手をやるのを見て、「ああいうのは放っておくに限るんだよ。」 おじさんは私にそう耳打ちしたのでした。それもそのはず。 列車の中を、色んな物売りが 入れ替わり立ち替わり 次々と現れてくるのです。中には 田畑の肥料までもが登場し、その光景が大変物珍しかった私は、それを無視する多くのロシア人とは反対に、興味津々で彼らを眺めておりました。* * *「ちょっと貸してごらん。」「え?」 物売りをじ~っと観察していた私は、思わずおじさんを振り返りました。「これ、面白そうだ。^^」私が手にしていたのは、、『旅の指さし会話帳』。日常会話や旅に必要な例文が沢山載っており、それぞれの場面に合った挿絵とともに、直接見せながら会話できるという、とても便利な一冊です。すでに持っていたオーストリア編とハンガリー編が結構 良かったので、ロシア語編も準備していたのでした。表紙には、「ぶっつけ本番で会話ができる! その国の本当の姿にふれられる!」との謳い文句が、日本語とロシア語の両方で書かれてあります。おじさんはそれに大喜びで、私の手から本を奪い取りました。おじさんは英語があまり得意ではないようですし、私も英語は嫌いです。(^o ^)この一冊で会話できるのなら、こんな楽ちんなことはありません。(笑)改めて、「Oчень лриятно.(はじめまして。)」「Как вас зoвут?(あなたのお名前は?)」「Meня зoвут Picchuko.(私はPicchukoと申します。」「A,вы?(で、あなたは?)」 「Meня oвут Bасичiии.(僕の名前はバッセーリ。)」「Радс вами лознакомиться.(あなたと知り合えて嬉しいです。)^^」 (注:↑のロシア語はかなり適当です。・笑)と まぁ最初は上手くいっていました。ところが、それもすぐに行き詰まり、、、バッセーリさんはペラペラ ページをめくっては、話したい会話の例文がないことに首を振りました。即席のぶっつけ本番では、そう簡単にはいかないようです。(苦笑)それでも、少し間をあけては 何度も何度も挑戦する バッセーリさん。ロシア語が思うように通じなくても、悪戦苦闘しつつも私にロシア語で話し掛けて来ます。私はといえば、どうせ通じない者同士なら、わざわざ英語を使う必要もないかぁ~と、分からない問いかけには、「ごめんなさーーーい。分かんないの。(><)」普通に日本語!で答えていました。それでも彼は懲りることなく、最後までロシア語を繰り返しておりました。その辛抱強さには脱帽です。(笑)「あ、次の駅がセルギエフ・ポサードだね。」 私は日本語、彼はロシア語でお互い確認し合うと、もう一度 この出会いを喜びあい、記念に写真を撮らせてもらいました。^^「こうやって、人差し指と中指だけを立てらせて~、、、。」無理やり"ピース"させて撮った写真が、この一枚です。(爆) (ちょっと人相は怪しい(?)けれど、とても親切なおじさんでした。^^)
2010.05.29
「あのぉ~、鉄道駅へはどちらから行けばいいのですか?」私は駅員さんらしき人に尋ねました。「◎×&$$Д・・・。(^^)/」あら あなた、意外と(?)愛想がいいのね、、、でも私はロシア語が分からないの。。。「スーズダリ」へは、「ウラジーミル」という街で鉄道からバスへと乗り換えます。その「ウラジーミル」へ行く為には、まず鉄道駅の「ヤロスラーフスキー駅」もしくは、「クルスク駅」を目指さなければなりません。クルスク駅へは、ホテルの最寄り駅から地下鉄で同じ路線、5つ目のクールスカヤ、ヤロスラーフスキー駅へは、クールスカヤで環状線に乗り換えて1つ目、カムサモーリスカヤで下車となります。普通なら近くのクルスク駅を選ぶのでしょうけど、ヤロスラーフスキー駅の最寄りであるカムサモーリスカヤこそが 私が最も見たかった地下鉄駅だったことで、この小旅行の出発点はヤロスラーフスキーに決定です。それは、シベリア鉄道が発着する駅としても有名です。日本の都会ほどではないにしろ、やはり地下鉄駅の出口は数ヶ所ありました。ここで無駄に歩きたくないし、鉄道駅の時刻表すら持っていなかった私ですから こんなところで無駄に時間を使いたくありません。そこで、目の前の駅員さんに尋ねてみた、、、というわけです。何度か英語で話し掛けてみるも、彼にはさっぱり通じる様子もなく、、、面倒くさくなった私は大声で「ヤロスラーフスキー!」とだけ叫びました。「あ、ヤロスラーフスキー駅ね。 それならあっちだよ。(たぶん そう言った、、、と思います。)」と、彼は後ろを指さしました。そうか、ロシアでは単語で叫ぶのがポイントか!(笑)これでウラジーミルまでは楽勝だ!(*^^*)*カムサモーリスカヤ駅にさよならして、私は鉄道駅へと急ぎました。ロシアの鉄道駅の面白いところは、出発地ではなく終着地の地名が駅名になっていることです。私が向かった「ヤロスラーフスキー駅」とは、「ヤロスラヴリ」という名の街への列車が出る駅ということ。サンクトペテルブルク行きの列車は「レニングラーツキー(サンクトペテルブルクの旧名)駅」から、ベラルーシ行きが出るのは「ベラルースキー駅」というわけ。ですから、モスクワには「モスコフスキー(モスクワ)駅」はないのです。この逆転の発想が優秀な人材を生むのかしらね?(笑)と、ここで 一瞬 歩が止まります。地下鉄カムサモーリスカヤ駅の目の前には、様々な方面の鉄道駅があちこちに見られます。「レニングラード駅」もここが最寄りとなりますし、タタールスタン共和国の首都カザンへ向かう「カザン駅」もここから出発します。いきなり、どれが「ヤロスラーフスキー駅」か分からない!全て他力本願の私は、難しいキリル文字を解読(?)する気なんて これっぽっちもありません。(笑)「すみませ~ん! ヤロスラーフスキー駅はどれですか?」「ヤ・ロ・ス・ラー・フ・ス・キー!!!」私は何人もに尋ねました。無視する人もあれば、簡単に指で示してくれた人もいます。私の手元には、「ウラジーミルへの往復切符を下さい。」とロシア語で書いた紙切れがあるだけです。それで十分だと思っていた私は、その文章だけはあらかじめ用意していたのです。しかし、そもそも駅からして迷うなんて・・・。それらしき駅を見つけ、訳の分からない時刻表を眺めながら、それでも まだしつこく周りの人達に聞いていると、アラブ系???と思われる髭の濃いおじさんが「ここだよ。ここだよ。^^」と教えてくれました。駅の中には沢山の窓口。どこでもいいや、、、と一つの窓口で紙を見せると、係員のおばさんに「ウラジーミル行きのチケットはもっと奥へ行ってちょうだい。」と突き返されてしまいました。奥・・・といったって、どこ???振り返ると、そのおばさんがず~っと奥を指さしています。「奥といったら奥なの!」って、そう言ってるのが表情と動作から窺えます。キョロキョロしながら、私は奥の窓口へ。そこで先ほどの紙切れを見せると、「%#&&☆××・・・?」 あぁ~~~ん、返ってくるのは超早口のロシア語、、、疑問文ということだけは分かるものの、あなたの質問事項が分かりましぇ~ん。(><)結局、相手にされず、私はただの阿呆のように「ウラジーミル」「ウラジーミル」とその名だけを繰り返し繰り返し、色んな窓口を覗きました。その殆どが無視か、返事があってもやはり早口のロシア語なのです。(><)「Oh,my ウラジ~ミルゥ~~~!!!」 すでに私は街名ではなく、愛しのプーチン首相(ウラジーミル・プーチン)に縋る思いでその名を繰り返しました。うっそぉ~~~~~!! 切符が買えない! こんな簡単なことで躓くなんて、、、そのショックの大きさといったら、今でも表現しようがありません。(苦笑)なかば投げやりの気持ちで駅を出て、また別の行き先であろう窓口を覗きました。モスクワでこんなに困るのなら、ウラジーミルからのバスの乗り換えは大丈夫だろうか、、いや、もし成功してスーズダリまで行けたとしても、無事に帰りの便に乗れるかどうか、、、すっかり弱気になってしまった私が その窓口で発した言葉が、「セルギエフ・ポサードまで往復チケット一枚、、、。」でした。そうです、ロシアの原風景が広がるという「スーズダリ」への旅は、ここであっさり根尽きたのでした。(T_T)ロシア正教の中心地として栄えた「セルギエフ・ポサード」は、モスクワ北東近郊一帯に広がる中世の面影を残す古い街並み「黄金の環」の中で、最もモスクワに近い街です。片道3~4時間も掛かるウラジーミルやスーズダリよりも随分と近く、たった1時間半で辿り着くことができます。予想以上に出発が遅れたこともあり、行き先を変更した方が無難でしょう。ロシアでは、外国人観光客にさほど自由はありません。"無難と妥協"、これは私が旅する上で一番嫌いな選択方法なのに、ロシアの壁は私には高過ぎたようです。(悲)「ДШБФ××・・・?」 あぁ、ここでもやっぱりロシア語かぁ~。ところが それまでの人達とは全く違って、途方に暮れている私を前に、その窓口のおばさんは、気持ちの良い笑顔で「ちょっと待っててね。^^」と何やらペンを走らせていきます。「これを持って、18番窓口へ行きなさい。」 (たぶん)そう言って、背後に聳えるヤロスラーフスキー駅を示しました。 18番窓口には若いお姉さん。英語が喋れる貴重なそのお姉さんは、親切に「今からだと、8時43分発の列車があるからね。」と笑顔で教えてくれました。この時の嬉しさといったら、たぶん 幼い子供が初めてのお遣いをやり遂げた気分と似ていたことでしょう。(笑)とにかく、これで列車に乗れる~!!レシートを貰って、彼女の指す方に進もうとした時、ふとチケットは?と気付きました。もう一度 戻って尋ねてみると、そのレシートらしき紙切れがチケットだと言うのです。ちょっと信じ難かったけれど、バーコードの部分を改札口の機械に挿すことで難なくOK。 ここまで来れば、もう大丈夫! 次回は、ここからシベリア鉄道でウラジオストックへ行こう!!9297km、およそ一週間の鉄道の旅も悪くはないよね!(o^ー^o)実は、セルギエフ・ポサードの地図を持っていない、世界遺産「トロイツィ・セルギエフ大修道院」への道順だって分からない、、、そんなことにさえ気付いていない その時の私は、"列車に乗れる~~~!"という単純な喜びと達成感でいっぱいだったのです。(笑)
2010.05.25
ヨーロッパの歌の祭典 「Eurovision Song Contest」・・・それは、参加国が自国をのぞく他の国を採点した結果で その年の優勝国が決まるという音楽コンテスト。1956年から毎年開催されており、現在では公式サイトによりインターネットでも中継されている超人気番組ですので、ご存知の方も多いことでしょう。そして、2003年からは ジュニア版「Junior Eurovision Song Contest」が登場しました。先日、ロシア民謡の中でも最も有名な曲『カチューシャ』を「You Tube」で検索して、その2006年優勝アーティストの『The Tolmachevy Twins(トルマチェフ姉妹)』の映像を見つけました。3年前の2007年5月9日。「赤の広場」における 大祖国戦争(対独戦)の戦勝記念日コンサートで、当時10歳の可愛い二人が、大観衆を前に堂々と「カチューシャ」を熱唱しております。一瞬、容姿と声のギャップに驚きましたが、その見事な歌唱力に私もファンになってしまいました。(*^^*)戦勝記念日の興奮も同時に感じて戴けると思いますので、宜しければ こちらの画像をどうぞ!(You Tube:Sisters Tolmachevy,Katyusha)*1997年生まれの彼女達は、僅か4歳で歌を始め、初ステージの際には会場の多くが「音楽が彼女たちを呼んでいる」、そう感じたといいます。2006年、ルーマニアの首都ブカレストで開催された「Junior Eurovision Song Contest」では、200組の強豪の中を勝ち抜き、2位のベラルーシ国に25票の大差をつけて圧勝しました。その時に歌ったのは「Vesna」、ロシア語で「春」を意味します。(You Tube:Sisters Tolmachevy,Vesna)いつの日か、プーチン首相と一緒に、ロシアで彼女達のライヴを観られますように!(笑) (Wikipedia:The Tolmachevy Twins)
2010.05.21
旅行記を続ける前に、今の気持ちを少し綴っておきたいと思います。モスクワから帰国して後、いつになく気持ちが高ぶっており、あの場所で見た多くのことを、それこそ小さな小さな出来事さえも書き残しておきたいのに、いつも以上に満足のいく文章になりません。書きなおしても、何度 書きなおしてみても、何かが違う。ますます文章に歯切れがなくなり、行き詰ってしまう。。。違う、違う、、、全然 違う!!決して 好きな場所ではなかったけれど、これほどまで魂を抜かれた旅はありませんでした。今、私がモスクワにいないことも、今、私のいないモスクワに普通の時間が流れていることも、ごく当たり前のことが、何故だか不思議に思えてしまう。モスクワを発ち ヘルシンキに降り立った私は、あまりの安堵に足はガクガクで思うように歩けず、ペンを持つ手も震えて満足に文字も書けない状態でした。それほど緊張の連続で、あれ以上 一人でモスクワに滞在することは到底 無理な話だったでしょう。65周年の戦勝記念日を数日後に控え、街全体が独特の緊張感と高揚に包まれていたからです。それなのに、帰国後早々から モスクワへ行きたい、モスクワへ帰りたい、、という思いが日に日に強まり、そのせいで、余計に旅の記録を上手く表せないでいます。旅が与えてくれるものは、旅の数だけ無限にあるのですね。改めて、縁というものを深く感じる今日この頃です。<5月5日、モスクワより出題した問題の答え>2. モスクワの象徴である「赤の広場」に立つ。 ・・・でした。* * * * * * * 気分転換に、淡路島までドライブに行って来ました。讃岐の可愛い山々を抜け、鳴門の渦潮を横目に海を越え、片道2時間あまりのドライブです。明石海峡大橋にほど近い、天気の良い日は大阪湾まで見渡せる場所に、「あわじ花さじき」というお花畑があります。今はポピーが花盛り。 一面、ポピーのお花でいっぱいです。^^ 少し離れた場所では牛が放牧され、その のほほ~んとした景色に心がほぐされていきました。こちら、甲子園球場の約4倍もの広い敷地に、春は菜の花、夏にはブルーサルビア、秋はコスモスが まるで絨毯のように山の斜面を覆うそうですよ。
2010.05.21
もう数年前のことになりますが、私の毎朝の楽しみが、NHK教育(TV)の語学講座でした。もちろん、語学の勉強の為ではありません。(^^;番組後半で紹介される それぞれの観光名所、そして流行の音楽や話題の映画など、新たな感動と旅先を探して、とりわけ古代遺跡が豊富で、未知との遭遇が多いアラビア語圏の映像がお気に入りでした。ある土曜日、30分早くTVを点けると、そこにはロシア語講座が流れていました。ロシアには興味ないけどなぁ~と思いつつ 目にした、数分間という僅かな時間に凝縮されたモスクワの魅力が、何故か他のどの国の風景よりも私の心に残りました。その時は、まさか自分がモスクワの地を踏むだなんて、夢にも思っていませんでした。ですが、きっと その時から私とモスクワとは何かの縁で結ばれていたのでしょう。^^*さて、スーズダリへ向けての小旅行を前に、 少しモスクワの地下鉄についてご紹介したいと思います。モスクワの地下鉄駅構内が世界で最も美しいことは、私はロシア語講座で初めて知ったことでした。そして、モスクワ行きが決まった時、それを見ることが楽しみの一つでもありました。^^まるで宮殿のような、美術館のような、豪華で芸術に富んだ壁画や天井画の数々。初めて訪れる人の 一体 誰がそこを駅構内だと思うでしょうか…。それは、社会主義国であったソヴィエト時代の名残りであり、社会主義リアリズム(社会主義を称賛し、革命国家が勝利に向かって進んでいる現状を平易に描き、人民を思想的に固め、教育する目的を持った芸術。(Wikipediaによる。))の様式に沿って、豪華な装飾が施されているのだとか。そして、"かつて要人の核シェルターの役割をするために造られた" とのうわさもあるほど、地下深くに広がっています。けれど、実際に目にした地下鉄のそれは、そんな重苦しいものではなくて、大理石に囲まれた広い空間とお洒落なデザインのシャンデリアによって、豪華に贅沢に、だけど少し翳りのある 一昔前の雰囲気に、まるでトルストイの時代にでも遡った気分になれるのです。では、そんなお洒落な場面を、皆さんにもほんの一部分だけお届けしますね!ただし、駅構内の写真撮影は原則禁止されておりますので、(エスカレーターを降りると監視員がいて、そこら中に警官がウロウロしています。><)記念に購入した ポストカードからの拝借です。<環状線カムサモーリスカヤ駅> <3号線アルバーツカヤ駅> <環状線キエフスカヤ駅><8号線アヴィアマトールナヤ駅> <環状線タガンスカヤ駅> <3号線プローシャチ・レヴァリューツィイ駅・革命志士の像>すっご~い!!@@ と、思わず口をポカ~ンと開けて見入っていると、ギュ~ンと思わず耳を塞ぎたくなる騒音を引き連れて、猛スピードで列車が入って来ます。2、3分に一本の割合で走っていますので、煩過ぎて じっくり壁画や彫刻を見て回る、、、ということはちょっぴり難しいようです。^^;ワルツでも流れれば、今にも舞踏会が始まりそうなのに、実際は、列車の騒音と振動、そして豪華な装飾など目もくれずに超現実を生きる大勢のモスクワ市民でごった返しておりました。(笑)*路線は非常に分かりやすく、ロシア語標記しかなされていないにも関わらず、他のどの国や街の地下鉄よりも簡単に乗りこなすことが出来ます。東京や大阪では迷子になり、ソウルでは慣れるまでに目イボができるほど公共機関が苦手な私でさえも、モスクワだけは大丈夫でした!!!市内に路線が3本だけというブダペストほど単純ではありませんが、放射線と環状線を巧く組み合わせて、ほぼ市内を網羅しているので、どこへ行くにもこの上なく便利です。営業時間(?)は早朝5時半から深夜1時過ぎまで。 料金は一回につき26ルーブル。 日本円にして、単純に80円くらい。料金については、常に変動しているようですので、その都度 ご確認を! *一つだけ残念だったことがあります。それは、ブダペストと同じく "地球の裏側まで潜るのだろうか…(笑)"、と思うほど長~い長~~~いエスカレーターです。4ヶ月ほど前に訪れたブダペストの地下鉄では、エスカレーターのスピードは日本の2倍以上は優にあったと思われます。あまりの速さに、その上を歩く人は一人もいません。大きく下から風にあおられて、あわや吹き飛ばされそうになった あの感覚がまだしっかり残っていたせいでしょうか、モスクワは「ごく普通」の速さに感じました。(それでも、日本のスピードのつもりで乗り降りすると危険です。)モスクワのエスカレーターはかなりのスピードだと聞いており、そのジェットコースター並み(?)の速さは、モスクワこそが本場かも?と期待していた分、それを裏切られた気分になったのです。*あっ、忘れてはなりません!このモスクワ地下鉄で、私は生まれて初めて「スリ」に遭遇したのです!!!私がポケットに手を入れようとした その時に、偶然 犯人の手と接触し、幸いにも未遂に終わりましたけど、、、。隣りになったおばさんも、「あなた、危なかったわね~!」と目をまん丸にしていましたっけ。うぅ~~~、やっぱり油断は禁物のようです。(><)*そして、もっと忘れてはならないのが、地下鉄で出会った若い何人もの青年達。^^どの青年も、自分より年配の方が列車に乗ってくると、スッとその席を立ち、相手に席を譲ります。それは相手がお年寄りに限ったことではなく、自分よりも明らかに年上である人が目の前に立つと、当然のごとく席を譲るのです。おぉ! ロシアの未来は明るいな!(^^)/ って、なんだか嬉しくなりました。そうそう、プーチン首相を20歳くらい若くして背を高くしたような、私好みの男性を見かけたのも地下鉄でした。(*^^*)美しき青きモスクワ地下鉄を、今日も沢山のモスクワ市民が目まぐるしく行き来していることでしょう。私の時計は未だモスクワ時間のまま、今でも時々、ふっと時空を飛んだような、モスクワの地下鉄に立っている自分を感じます。。。
2010.05.17
ピカッ!25階の大きな窓の外を、見事なまでに縦に稲光が走りました。中心部から少し外れにあるホテルだからなのか、大国の首都とは思えないほど夜のネオンも少なく、余計に稲光の眩しさが強調されます。奇しいその光は、怖いというより不思議な魅力でモスクワの空を照らし、私はその美しさにしばし見惚れていました。30分ほど賑わせた雷が去り、静けさを取り戻した部屋の中、、、あ、明日の朝は早いんだった!*実は、今回も直観だけでモスクワ行きを決め、航空券とホテルを手配してから気付いたこと。行きたいと思う殆どの場所が、月曜日と火曜日が休館なのでした。そして、私のモスクワ滞在がちょうどその曜日の2日間。(><)そこで、モスクワ市内の観光は「赤の広場」と「クレムリン」、「国立トレチャコフ美術館」に絞ることにしたのです。トレチャコフ美術館は月曜日が休館ということで、まず第一日目はモスクワ郊外に点在する古い都を訪れようと、行程を頭の中に描きました。*モスクワ北東部には、「黄金の環」と呼ばれる地域があります。11~15世紀に建てられた古い都を線で繋ぐと、まるで首飾りのように大きな円を描いて環状になるのです。私はそのいくつかの町の中で、ロシアの原風景を求めて「スーズダリ」という古都を目指そうと思い付きました。そこへ行くには、モスクワから3時間ほど列車に揺られ、まずは「ウラジーミル」という そちらも「黄金の環」の一つに数えられる町へ行かなければなりません。あらっ、「ウラジーミル」だなんて、愛しのプーチン氏と同じ名前じゃないの!(*^^*)そこで(?!)、そのウラジーミルを少し観光して(笑)、それからバスに乗り換えて1時間弱、目標のスーズダリに向かおうと計画を立てました。少し遠いけど、日中の長いこの季節ですもの。 ちょっとした冒険もいい刺激になるかな~って思ったのです。^^*5月3日、早朝7時前。 私はホテルを出発しました。モスクワでの宿泊先である「イズマイロヴォ・ヴェガ ホテル」は、イズマイロヴォ・グループの6ブロックからなるホテル群のひとつ。合計5000室にも及ぶ規模で、その数はギネスブックに載ったほどなのだとか!ホテルはロシア外務省に登録されている現地旅行社にほぼお任せになるので、たぶんここに泊まる旅行者は多いことでしょう。「メトロの駅へはどう行けばいいのですか?」 ホテル近辺の詳しい地図を持っていない私は、そうフロントで尋ねました。ウラジーミルへの列車に乗る為には、一度 地下鉄に乗って、ヤロスラーフスキー駅、もしくはクルスク駅まで行かなければなりません。「え~と、まず右に曲がって、もう一回右に曲がって、少し下ったところだよ。」ふむふむ、右へ二回ね、、、。何気なく玄関を出て、建ち並ぶイズマイロヴォ ホテル群を見上げながら、その広い敷地の真ん中で、、、はて? 最初に曲がる右ってどこなのだろう、、、、、???「モスクワ」という場所にすでに舞い上がっていた私は、肝心の部分を聞き忘れてしまいました。右? 右?? 右~??? そこで、道行く人に尋ねることにしました。ですが、どの人も冷たそう。(><)冷たいというか、表情がキツいというか、、、。なかなか話し掛ける勇気が出ません。どこかに優しそうな人はいないかしら、、、。慌ただしい月曜の朝だから、皆さん お顔が険しいの??? とにかく誰かに声を掛けなくちゃ! ということで、一人の若いお姉さんを呼びとめました。「すみません、メトロに乗りたいのですが、、、。」「メトロ?」一瞬、相手のムッとした表情にたじろいだものの、ここで負けてはいけません!!「あっちよ!」 彼女の指す方を振り向くと、丸いドーム状の建物がありました。きっと あそこがメトロの駅ね。 詳しく聞く勇気まではなかった私は、一人で勝手に納得しました。そのお姉さんと共に信号を渡り、私はまっすぐドームを目指します。早足のお姉さんはすでに遥か先でしたが、チラッと振り向き、私を探しているようでした。私が「あれね。^^」と、ヘラヘラ愛想笑いしながら ドームを指さすと、「違うわよ! こっちよ!!!」と、相変わらず不貞腐れた表情で、その先にある薄い黄色の建物を示しました。彼女は私が全く分かっていないことに気付いていたのでしょうね。ちょっと怖そうなお姉さんでしたが、私がメトロに辿り着くまで、ちゃんと見届けてくれたのです。人を見かけで判断しちゃダメですね、、、。(笑)本来なら、ホテルから徒歩2分で地下鉄駅に辿り着けるものを、ここまで来るのに すでに30分近くも経過。。。果たして、私はスーズダリまで行けるのでしょうか???(^^;* * *モスクワの地下鉄駅入り口は、赤い「M」のマークが目印で、建物は主に薄黄色をしています。こちらは参考までに、「ボリショイ劇場」やマルクス像のある「革命広場」への最寄り駅、「チアトラーリナヤ駅」の入り口です。
2010.05.13
6日の朝8時半、定刻より20分程早く 関西空港に到着。相変わらずの超特急ではあったものの、選ばれたかのような中身の濃い(?)今回の旅は、日本の地を踏むことにより、ここに無事 終了致しました。そして、これまでになく張り詰めていた緊張の糸が、帰国後 数日を経てプツッと切れ、今の私は完全に すっからかんとなっております。(笑)* 「モスクワ」は、たった2日間とは思えないほど、様々な表情を私に見せてくれました。ただ、あまりに無知なまま飛び込んでしまったせいで、この目で見た出来事の一切を明らかにするためには、今から調べていかなければならないことでいっぱいです。分からないことは、例え強面の警官にだって質問しちゃう私ですが、そこは さすがのロシアですもの!キッと睨まれるか、無視されるか、もしくは ちんぷんかんぷんのロシア語を怒涛のごとくに浴びせかけられるか、、、疑問は全て想像の中で膨らんでいきました。(笑)実は帰国したこれからが、私とロシアとの本当の出会いになるのかもしれません。それでは、いつになくパニックだらけの旅の思い出とともに、しばし私のロシア日記にお付き合い下さいませ。^^* * * * * * *足元が掬われそうなほど 強風が吹き荒れていたヘルシンキを発って およそ1時間半。モスクワのシェレメチェヴォ空港に降り立ちました。 そこは噂通りに薄暗く、陰鬱な雰囲気に包まれていました。ちょうど大韓航空便と同時になったせいか、入国審査場には韓国人の長い列ができていました。何も分からない私は、その多くの韓国人に混じって一番端の列に並びました。この入国審査に相当な時間が掛かることは十分に承知していましたから、ある程度は覚悟しておりました。私の後ろに並んだ 気品ある韓国人夫婦と少し会話を交わしながら、さぁ、長い待ち時間の始まりです。20分近く経過した頃でしょうか、、、。途中で標識と係員が代わり、何やら前方がゴタゴタしている様子です。「どうやら この列は観光でやって来た我々とは違う、特別なビザを持つ人が並ぶようだ。」モスクワで暮らしている弟さんを訪ねて来たという そのご夫婦と共に、私も隣りの列へ移りました。そこで日本語が少しだけ喋れるという気さくな韓国人男性と一緒になり、韓国語・日本語・英語を混ぜながらの簡単で楽しい4人の会話に、気が付けば 1時間が過ぎておりました。「なかなか順番がこないわねぇ~。。。」午後7時に着陸して、すでに時計の針は8時を優に回っています。僅か数mほど先に審査場があるというのに、遅々として前へ進まないのです。さすがに皆さん、少しイラつき始めました。そんな時、国籍不明のある男性が、「俺はトランジットだけだから…。」と私達に話しかけてきました。「ここは出口。 トランジットだけならこの列じゃないよ。」親切にも、韓国人男性は何度も詳しく英語で教えてあげました。それなのに、、、「いやいや、×○×○○*$#&○・・・。」 アジア人など相手ではない、、、そんな嫌な態度で私達の前に割り込んできたのです。ちょっ!!! 「チャッカマン!!!(ちょっと待ってよ!)」 思わず 私は韓国語で叫びました!もちろん、ずるい その男に韓国語が通じるなんて思っていません。ただでさえ長い待ち時間でイライラしている上に、図々しく割り込んできた男のせいで、皆さん ムッとさせられたのです。ですが その私の一言で、韓国人の皆さんに笑顔が戻り、嫌な空気が和んだことは大成功だったかなって思っています。(笑)結局、1時間半近く待たされて、私の番になりました。ピクリとも動かぬ無表情の係官。 パスポートの写真と私をチラッと見比べ、ビザと出入国カードを確認、入国スタンプを押す。そこで聞かれたことは、「あなたのフライトナンバーは?」の一言だけでした。たったこれだけに1時間半。(><)これが噂のロシア入国審査かぁ~。薄暗くなった空を見上げながら、第一関門突破に胸をなでおろしました。そこから車を1時間ほど飛ばし、ホテルに入ったのが午後10時前。25階の部屋で荷物を降ろし、ホッと一息ついた その時、、、、 いきなり空には稲光が走り、大きな雷の音が轟きました。ひとしきりモスクワ上空を賑わせた雷。それは、きっと私のモスクワ入りに対し、かのイヴァン雷帝による歓迎のファンファーレだったに違いありません。^^*<イヴァン雷帝>イヴァン4世。(1530~1584年)3歳でモスクワ大公に即位し、弱冠16歳にして正式にツァーリ(皇帝)の称号を名乗る。恐怖政治を敷いて反対派を弾圧し、「雷帝」として恐れられた。「赤の広場」にひときわ目立つ、ロシア一有名なねぎ坊主頭の建築物「聖ワシーリー寺院」は、このイヴァン雷帝によって建てられました。
2010.05.09
*ロシア正教の聖地として栄えてきた街、「セルギエフ・ポサード」にある世界遺産「トロイツィ・セルギエフ大修道院」。【'10.05.03】この写真を、日本にいる何人かの親しい方達に送りました。 「これはプーチンとの新居でしょうか。 玉ねぎの色使いにこだわりを感じます。(●^ー^●)」今回、職場には極秘で進めてきたモスクワ旅行。 ですが、2人の仲良しさんにだけは こっそり話してしまいました。 ↑の台詞は、愛を込めて(?) ロシアから日本へ送ったメールへの、同僚 K君からの返事です。(笑)* * * * * * * モスクワ滞在も、残すところ 後15時間となりました。未だ 拘束もされず、テロにも遭わず、「赤の広場」に面した「グム(国営百貨店の略)」のカフェで、無事に一息ついています。(o^-^o)モスクワは、私がこれまで見て来た世界の全ての要素が入り交じった街でした。その上で、現在の急成長の中においてさえ、旧ソビエトの栄光を決して忘れることなく "強いロシア"にこだわり続ける、不思議で独特な街でした。「モスクワが好きですか?」と聞かれたら、私は答えが出せないでしょう。けれど、「picchuko とモスクワとの相性は?」と聞かれると、それは かなり良いものだと感じます。そう言いつつ、ここまでくるのに、言葉では表わせない緊張感、焦り、疑問、戸惑いが次々と私を襲いました。だからこそ味わえた達成感も、いつになく大きなものがありました。ロシアから頂いた宿題も沢山あります。 帰国後もしばらくは、私の心はモスクワの中にあるでしょう。*今回の旅において、簡単な 6つの目標を掲げていました。 1. 国立トレチャコフ美術館にて、トラムスコイの「忘れえぬ女(ひと)」を観る。 2. モスクワの象徴である「赤の広場」に立つ。3. プーチン首相のマトリョーシカを買う。(笑)4. お洒落なカフェで、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」を読む。 5. ロシアらしい毛皮の帽子を買う。6. モスクワの地下鉄を乗りこなす。 さて、ここで問題です。(笑)実はまだ、この中に達成できていない目標が 1つだけあります。 さぁ、それは何でしょうか?(^^) 皆様、ご心配ありがとうございます。とりあえず、現在のところは無事でいますので。^^モスクワ時間 '10.05.04 PM8:00
2010.05.05
これから香川を出発します。 明日の朝 9時までに関空入りする為には、私の住む町からの始発列車では間に合わないからです。(-_-) そこで、今晩のうちに関空へ行くことを決心しました。 そうです!関空のベンチで夜を明かすというわけです。(爆) 実は 過去においても、二度程 夜中の関空を体験しており、どこで枕と毛布を借りればよいのか、何時頃 係員さんからパスポートチェックを受けるのか、夜中の大きな掃除機の騒音も、 すでに全て熟知しております。ヾ(^_^) 私の旅行の中で最も心に残っている '07年7月のザルツブルク行きも、大型台風の影響のせいで 急遽 関空で泊まりました。ですから、私にとって ベンチでの寝苦しい夜は良い旅への関所のようなものかな?!(笑) おぉっと!そうこう言っている間に、瀬戸大橋線の快速マリンライナーへの乗り換え駅に到着しました。 脱!四国!!脱!日本!!! それでは元気いっぱい 行って参ります♪ 皆様も素晴らしいGWをお過ごし下さいませ。 * 写真は、4月26日に6歳を迎えた、私の愛犬 "ヨンサマ" です。(^^) * * * * * * * こう書いたものの、自分がそう若くないことを悟り、そして どうも自分が女性であるらしい(?)ことに気づいた私は、 関空のラウンジで夜を明かしました。(笑) 個室だと6時間で3000円。ベンチだと、枕と毛布つきでただなのに、、、。 ですが、思う以上に 快適に過ごせたので 満足しています。(^^)
2010.05.01
全面的に正常化しつつある欧州の空。モスクワ上空は大丈夫として、それでも私が利用するフィンランド航空はまだまだ怪しい雲行き。ヘルシンキ経由が吉と出るか 凶と出るか、今の段階において、それらは「全て神のみぞ知る!」といった具合です。「ねぇ、プーチン! こっちむ~いて!」なんて冗談を言えるのも今のうちかもしれません。(爆)*そのモスクワ行きですが、実は、お正月のブダペストより帰国して2週間後には航空券を予約しており、1/20 にはすでに発券済みでした。そして、2月頭にホテルの手配完了。そう、私の旅は全て『思い立ったが吉日 !!』なのです。(笑)ブダペストの余韻に浸りながら、その先のものを探していた私には、不思議とロシアしか思い浮かびませんでした。ハンガリーを知っていく上で、旧ソ連に対する感情は悪化こそすれ 決してプラスになることはなかったけれど、それでもモスクワ以外 考えられませんでした。いや、だからこそロシアの中でも人気の高いサンクトペテルブルクではなく、旧ソ連の象徴でもあるモスクワでなければならなかったのでしょう。そして、一度 旧共産圏に一人足を踏み入れたことで、不安が一気に吹き飛んだこともロシア行きを後押しした理由の一つでした。ところが、やはりロシアはハンガリーとは全く異なっていました。そう簡単に「picchukoちゃん、 いらっしゃ~い!!」という国ではなかったのです。(><)*いつも以上に早く航空券を手配したのも、ビザ取得にかなりの日数を要するからでした。旅行会社のMさんの、「GW出発ですので、ビザ取得後では飛行機の席が取れないケースも多いため、先に航空券を予約された方がいいですよ。」このアドバイスがあったから。その上、 ロシアの場合は全ての滞在ホテル予約確認書と、ロシア外務省に登録されている現地旅行会社からの入国許可証がないとビザを取得できないという面倒さもありました。まぁ、トランジットでさえビザが必要なケースがあるくらいですから、滞在となればそれくらいは仕方ないですよね。(^^;ですから、殆どのロシアへの日本人旅行者はツアーを利用されるのです。滞在都市、ホテル、移動手段、旅の全行程なんて、初めて行く何も知らない国のこと、ツアーならば全てお任せできますもの。「picchuちゃん、ロシアで個人旅行っていうのはもの凄く大変よ。モスクワに友達がいる人でさえ、わざわざツアーに参加して、そのうち1日だけモスクワで友達に会う為に自由行動させて貰ったくらいだもの。」と、これは一昨年の夏、両親とツアーでロシア旅行に参加した親友M子から教えてもらっていたことでした。ロシアでは、未だ異国人は決められた日程とコースに従うことを求められます。私のお得意(?)とする、旅先での急な予定変更は非常に難しいのです。ですから、念のために私は、滞在先をモスクワ以外に2ヶ所ほど 郊外の町も申請時に記入しました。ただ、列車の手配はその時の都合に合わせて現地で、、、と思っているのですが、それは実際に可能なのでしょうか、、、???しかも申請時に書いた街が一体どこだったのか、難しいロシアの文字に気を取られ、すっかり忘れてしまいました~。(爆!)あぁ~、ロシアで怪しい者として監禁されないように注意しなくちゃいけませんね。(^^;そうやって、少しだけ面倒くささを感じながらも 2月下旬に申請していたロシアビザ、私の手元に届いたのは4月に入ってからのことでした。*さて、モスクワ着が19時、発が13時ということで、この時期のモスクワは日中の時間が長いのですから、空港-ホテル間くらいは自分で何とかしようと思っていました。ところが、先日 ビジネスマン向けの本を読んでいて、「シェレメチェヴォ空港からモスクワ市内に公共手段を使って移動するのは難しいので、あらかじめ車を手配するのが望ましい。」とあるではありませんか!一瞬 冷や汗を掻きつつ、慌ててMさんに市内までの送迎サービスをお願いした次第です。そして、その空港こそロシア最大の難所であり、薄暗い施設、効率の悪い手続き、係官の横柄な対応は何度出会っても心地よいものではないとのこと。確かに、提出要の税関申告書や出入国記録カードを見ただけでも、すでにロシア語の文字に目眩を起こしそうです。(笑)『思い立ったが吉日 !!』果たして、これは超異質な(?)ロシアでも通用することなのか?「ロシアが私を呼んでいるぅ~!!」なんて偉そうに言いながらも、知れば知るほど不安が募り、「もしや今回の決断は失敗~?」なんてっ!ですが、「どんなハプニングに出会えるのだろう!!!」とワクワクしているのも事実です。^^ただ、そのハプニングが後で笑える愉快なものでありますように、、、 それだけは真面目に神様に祈っておこうと思います。(笑)
2010.04.23
「アイスランドで火山が噴火?」最初にその記事の見出しを見つけた時、それは遠い世界の果ての出来事で、さして興味も持たず、そのニュースを詳しく読もうとすらしませんでした。まさか火山灰の影響がここまで大きくなってくるとは、、、。空港閉鎖が少しずつ解除されてきたといっても、いつまで噴火が続くのでしょうか。単なる火山の噴火だと、私は桜島程度を想像していただけに、まさかここまで世界に影響を及ぼすとは思ってもいませんでした。いつもお世話になっている旅行会社のMさんからメールが届きました。「連日報道されておりますので ご心配されていらっしゃるかと思いますが、火山の件で4/15以降 ほとんどのヨーロッパ便が欠航となっている状態です。現時点では出発の前日に欠航かどうかが決定するようになっており、picchuko様ご出発の日にちは現時点では特に何も連絡はきておりません。ですが、今後の状況によっては影響が出る場合もございます。今のところ、航空会社次第ということになってしまいますが、随時連絡が入り次第 ご連絡致します。」お願い、神様!(><)例え 帰国便が飛ばなくとも、それでも私はモスクワへ行きたいの!!!例え シベリア鉄道で大陸横断とまでなっても、どうしても私はロシアへ行きたいの!!!と、本来なら神頼みさえしそうなほどなのに、不思議と今の私はこの噴火についてのロシア行きの影響を殆ど気にしておりません。(笑)今回、これまでになくモスクワ行きを期待しており、珍しくロシアについて勉強を始めた私です。読書が大の苦手である私が、ロシア文学の最高傑作の一つであるトルストイの 『アンナ・カレーニナ』を毎日 コツコツと読んでいますし、現在のロシアを知る為に、ビジネスマン向けの本まで購入しました。モスクワで生まれ、ソ連時代とその崩壊後の大混乱、そして現在の急成長を体験されている経済学者の本も読み始めました。(私は今後 ロシアと貿易でも始めるのか???・笑)相変わらず私のプーチン熱は冷めることなく、新聞などで「プーチン首相」「ロシア首相」の文字を見つける度にドキドキときめいているのも事実です。(爆)万が一、今回のモスクワ行きが流れてしまっても、私とロシアは深い縁で結ばれている、、、根拠は全くないのですが、そう勝手に信じています。ですから、時が来れば 必ずロシアの方からきっと私を呼ぶでしょう。(笑)もしも このGWにモスクワの地を踏めないとすれば、それは私にとって 今がその時期ではないだけなのだと、そう素直に受け止められそうです。*ですからMさん、どうか心配なさらないでね。 いつもありがとうございます。^^* * * * * * *先日(4/17 )、興味深い記事を四国新聞の「一日一言」で見つけました。(朝日新聞の「天声人語」の部分です。)~ 標高こそ800メートル以上あるが、周辺が盛り上がっていて、240メートルほどにしか見えない貧相な山。後に世界史に刻まれる出来事は、その山の火山灰が遠因だったとの説がある。1783年、アイスランドのラキ山が噴火した。溶けた氷河の洪水や溶岩の被害も小さくなかったが、それ以上に悲劇を生んだのは火山灰。牧草を枯らして家畜を餓死させ、日照量を減らして農作物に打撃を与えた。噴火後の最初の冬、9千人以上の命を奪った火山灰は国外に及び、フランスでは穀物の不作と高騰をもたらす。パンが値上がるたびに人々は不満を募らせ、暴動を起こした。その果てがあのフランス革命というのである。(以下、略。)~この文章は、この先 昨今の思わしくない日本の政治経済への皮肉へと繋がっていくのですが、私はそれよりも、マリー・アントワネットとルイ16世の悲運さを感じていました。あぁ、彼女以上に贅沢をしてきた者も過去に沢山いたでしょうに、、、。これは一説に過ぎませんが、ギロチン台に上る彼女の姿が哀れでなりません。(><)いや、フランス革命ごときではない!!随分と昔に見た、あるTV番組を思い出しました。それは、一つの「恐竜絶滅説」。現在では巨大隕石の地球への衝突によるものが定説になりつつありますが、大噴火の火山灰による太陽光の遮断と、地球規模による天候異変説も根強いものがあります。職場で、同僚のI石氏にこの話をしました。「怖いよねぇ~、火山灰。 恐竜が絶滅した理由に火山灰の影響があるかもって話だよ。」「ふ~ん。」゛コイツ、又もいつものごとく 変なことを言い出したぞ!" とでも言いたそうに、半ば呆れ顔でI石氏は答えました。「ねぇねぇ、今回の火山灰の影響で、例えば人類が絶滅したとして、もしも私一人が生き残ったらどうしよう!!!」彼はチラッと私を横目で見て、「知ってる? ゴキブリは原爆でも死なないんだってさ。」「それ、どういう意味よ!!!」(注意:ゴキブリの話はI石氏のうろ覚えで、確かなことではないそうです。苦笑)* 原爆については軽々しく発言するべきものではないことは十分に分かっておりますが、これはたわいのない会話ですのでお許しくださいませ。
2010.04.19
「嫌だよ、テロが起こるような国なんて!」それは、2002年3月22日の朝のこと。古代インカの空中都市「マチュ・ピチュ」旅行を終えて、ニュージーランドの玄関口オークランド空港から、クライストチャーチにいる わが親友・きょんさんに電話を掛けました。「ペルー、めっちゃ良かったよぉ~!! 南米って怖いイメージがあったけど、私ひとりでだって大丈夫なくらい安全だったよ!きょんさんも行ってみなよぉ~♪」興奮しきりで そう喋り出した私の言葉を、彼女はピシャリと遮ったのです。「picchuko、知らないの? さっき、ペルーの首都リマで爆弾テロがあったってニュースで言ってたもの。そんな危険な国、私は絶対に嫌だよ!」「へっ?」まさにそれは私にとっては寝耳に水でした。以前も書きましたが、私のペルー旅行は、NZからアルゼンチン(ブエノスアイレス)とチリ(サンティアゴ)を経由して、ペルーの首都リマに入り、そこから古代都市クスコへ飛ぶ、、、といった行程でした。3/19 にクスコを経った復路では、トランジットの気の遠くなる待ち時間を含め、片道だけで50時間以上という長旅。9時間待ちというリマ空港では、その殆どが夜だったこともあり、私は空港を出ることはありませんでした。私がリマを去ったのは、確か 3/20 未明のことだったと思います。その2002年3月20日。首都リマにある米国大使館向かいのショッピングセンター駐車場で、センデロ・ルミノソが仕掛けた自動車爆弾が爆発し、10人が死亡、30人以上が負傷するという事件が発生したのです。それは、3日後に控えたブッシュ米大統領(当時)のペルー訪問を抗議してのものでした。私がリマを離れて、僅か数時間後の出来事です。ですから私は、運良くテロの被害を受けなかったですし、テロがあった事実さえ知る由もありませんでした。例えその時、私がリマに残っていたとしても、きっと空港内にいたはずですから、テロと遭遇することはなかったでしょう。けれど、その直後からリマ空港は一時 閉鎖という事態になりました。もしも私の出発時間が少し遅かったなら、誰も頼る人のないペルーの真ん中で、途方に暮れて一人泣いていたことでしょう。泣く、、、それだけでなく、その後をどう対応すれば良いのか、間違いなく当時の私では見当もつかなかったことと思います。世界では今も至るところでテロが発生し、多くの死傷者を出す哀しいニュースが飛び交います。きっと、私達の耳に入らない事件も無数存在していることでしょう。* * *さて、個人旅行では面倒だと言われるロシアビザを、今回 無事に取得することができました。はい! ブダペストの次はロシアの首都モスクワを旅したいと思います。* さすがは Belgische_Pralinesさん、灰色ウサギさん、大当たりです!^^多くの皆さんを魅了するエルミタージュ美術館のあるサンクトペテルブルクは、私の愛する(?)ウラジーミル・プーチン氏の故郷です。ですが、今回もいつも通りの直感で、『今の私には間違いなくモスクワだ!』と決めました。(笑)出発はGW真っ只中の5/2、帰国は5/6の午前という、相変わらずの超特急の旅。職場には内緒のこと、6日の午後からは真面目に出勤したいと思っております。(無事に帰国できれば…。^^;)ただ、私の身体も本調子ではありませんし、3月末から母も体調を崩してしまい、昨年のGW同様、直前でお流れになってしまう可能性も無きにしもあらず。まして、先日のモスクワ地下鉄爆破テロの実行犯であるチェチェンのウマロフ司令官は、「今後もロシア領内でテロが起きるだろう。」と予告しています。原因は、「プーチン政権の北カフカス政策への報復である。」とありますが、もっと根深いものがあるはずですので、これについては 今後 少し勉強したいと思っております。以前、テロのせいでロンドン行きを考え直したこともある私ですが、今回の私は、それでもロシアに行こうと思います。そして、これも何かの知らせでしょうか。今朝、私はプーチン首相とお会いする夢を見ました。^^これが現実となるならば、それは私がテロの被害者にでもならなければ不可能でしょうけど、なんとなくロシアに、そしてプーチン氏に不思議と縁を感じるのです。(ロシア行きはブログでのみ公表し、それ以外は例え親友に対しても、敢えて知らせるつもりはありません。一人で南米へ渡ったあの時のような、余計な心配をかけたくないからです。^^)
2010.04.03
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