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マイケル・ジャクソンの人生を描いた映画「Michael/マイケル」が去年の公開なのに今なをヒット続けてるってスゴイですね。主演のジャファー・ジャクソンはマイケルの実の甥で、彼の叔父を彷彿とさせるパフォーマンスが評判ですが、それだったらマイケル本人のビデオがたくさん残ってるのだからそっち観ればと思うのですが...それでは興行が成立しないか。どっちにしても劇中の「スリラー」歌唱シーンを記録フイルムに頼らず、自ら演技したのは立派ですね。この「スリラー(Thriller)」は「世界で最も売れたアルバム」とギネス記録に認定されてる大ヒット作ですが、これをプロデュースしたのがクインシー・ジョーンズ。例の1985年にアメリカを代表する多数のトップスターが結集して録音され、世界的な大ヒットとなった「ウィ・アー・ザ・ワールド」をプロデュースした人物です。そのクインシー・ジョーンズが一昨年亡くなってしまいましたね。91歳だから大往生と云えるのですが、グラミー賞を28回も受賞するなど音楽界の巨匠でした。雑誌タイムによる「最も影響力のある20世紀のジャズミュージシャン」にも選ばれています。彼は「夜の大捜査線」や「マッケンナの黄金」「ゲッタウェイ」などの映画音楽、「鬼警部アイアンサイド」などTVドラマのテーマ曲まで作曲してて、まさに世界一の音楽プロデューサーでした。クインシー・ジョーンズが1980年にタッグを組んで「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」を大ヒットさせたのがジャズギタリストで歌手のジョージ・ベンソンです。私は古くからジョージ・ベンソンのファンで、彼のLPレコードも5枚所有してます。まさに洗練されたフュージョン・サウンドそのもの。それではジョージ・ベンソンの「ギヴ・ミー・ザ・ナイト(Give Me The Night)」をお楽しみいただきましょうか。George Benson - Give Me The Night (Official Music Video)
Sep 25, 2026
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連休最終日と云っても年中休日の私には関係ないですが、昨日は大阪・梅田に行ってみました。毎度のことながら目的あってのことではありません。ただブラブラ。とにかく梅田界隈はここ数年で大きく変わったので、地元民の私でさえ知らないとこが多い。そう云えばグランフロント大阪って一度も足運んだことなかったっけ。と云うことで行ってみました。ちょうどお昼時ちょっと前だったので、グランフロント大阪南館7Fのレストラン街を散策すると店名はバーとなってるけど料理メニュー豊富なお店を見つけました。スペイン料理を提供するお店で、「Bar Espanol LA BODEGA(バル エスパニョール ラ ボデガ)」。まさにお酒と小皿料理を気軽に楽しめるバルと云うことです。サスガ梅田やなぁ。こんなん梅田に出ないと見つからない。快適なテラス席まであって、昨日のさわやかな気候だと云うことなし。だったのですが...テラス席どころか館内の席も予約で満杯。結局、カウンター席に案内されました。お客は毎度のことで、オジンは私ひとりだけ。みなさん若者ばかりと外国人さんが2組でした。お料理、先ずは「タコのガリシア風」スペイン北西部のガリシア地方を代表する伝統的なタコ料理で、タコをぶつ切りにして塩やエクストラバージン・オリーブオイル、パプリカパウダーをかけた料理です。土台はホクホクのじゃがいも。ここのタコのガリシア風は美味かったなぁ。次は定番「海老のアヒージョ」。これだけではチョト寂しい。それでハモンセラーノとイベリミ豚サラミの盛り合わせも。ワイン、1杯目はファミリア・バルデレナ・ティントG。2杯目と3杯目はマルリナ・ティントGって、これ昼間の食べ方ぢゃないですよね(笑)マルリナ・ティントGは柔らかくてとても飲みやすい。お値段しめて6,500円は良心的な価格設定ぢゃないですか。食べ終えてエスカレーターで階下に降りていくとノースフェースのお店が目にとまった。アカンアカン、もう衣類買いすぎやんか!でもチョコットだけなら...で、結局フードつきのパーカーを買ってしまった。やれやれと思いつつ、ノースフェースを後にすると、こんどは大好きな「カンタベリー(CANTERBURY)」のショップが。カンタベリーはニュージーランドのラグビーウェアブランドで、日本代表のもここが手掛けてます。こりゃあ覗いてみないワケには...ってことで、ここでもウィンドジャケットを買ってしまった。もう帰るよ~地下鉄西梅田まで急いで...と思ったら、途中の阪神百貨店地階で「大ワイン祭」やってた。庶民的なデパートってイメージ強い阪神百貨店ですが、ワインのストックはピカ一なんです。で、ついイタリアの赤ワインをかってしまった。「ロッソ・デイ・モンタルチーノDOC」トスカーナの名門ワイナリー「バンフィ」が造った赤ワインです。非常にフレッシュな果実味で口当たりもなめらか。好きなワインなんです。これは昨日の夕飯。帰り道エキマルシェ大阪クロストにタイ人のオバチャンがやってるテイクアウトのタイ料理屋があって、よく利用するのですが、そこで買ってきた「パッ・ガパオ・ガイ(ひき肉のバジル炒め)」と「ガイ・ヤーン(タイ風焼き鳥)」そして「タイ風鶏の唐揚げ」です。
Sep 24, 2026
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アメリカ南西部とメキシコの砂漠地帯で生活する鳥がいます。都市部でも普通によく見かける鳥で、いってみれば日本のスズメやカラスみたいな存在です。名前は「オオミチバシリ(Geococcyx californianus)」、ラテン語の名前は「カリフォルニアの大地のカッコウ」って意味で、カッコウの仲間です。この鳥は"ヘビキラー"としても知られて、ヘビさんの天敵です。このオオミチバシリは別名の方が有名です。別名は「ロードランナー」。名前の由来はカッコウの仲間ですから、と~ぜん飛べるのですが、飛ぶより走ってる時間の方が長い。走るんです! それもとほうもなく速い!ロードランナーを主人公にしたワーナー・ブラザースのアニメシリーズ「コヨーテとロード・ランナー」があって、ここでは狡猾で常に空腹のコヨーテがロード・ランナーを食べようと画策するドタバタコメディなんですが、いつもロード・ランナーに出し抜かれて目的達せず。このアニメ、実は絵空事ぢゃなくて、実際にコヨーテのそばにワザと近づいていっては、コヨーテに追いかけさせて弄ぶ姿がしばしば見られてます。コヨーテに追われても一定のペースで走り続け、しかも相手に見える距離を保ちながら、あと一歩のところで追いつけない状態を作りだします。さらにコヨーテが近づきかけた瞬間にさっと進行方向を変えることもある。何度も痛い目にあったコヨーテは「どうせ捕まらない」と学習し、しだいにロードランナーにちょっかいを出さなくなってくのです。●コヨーテに追われるロードランナーのYouTube 動画ですが、ショート動画なので楽天でシェアできないのでこの文字列をクリックしてください●ロードランナーが早く走るので、アメリカのニューメキシコ州最大都市アルバカーキと州都サンタフェを結ぶ通勤鉄道「ニューメキシコ・レイルランナー・エキスプレス」では、機関車にロードランナーの頭が、客車にその羽が大きく描かれてシンボルマークになってます。ロードランナーの実際の走る速度は時速32km と云われており、鳥としては驚異的なスピードですが、コヨーテは最高時速64km で走ることができロードランナーに追いつけるハズです。にもかかわらず捕まらないのは、ロードランナーが巧妙にコースを変えたり、ヤバクなったら飛んでコヨーテをかわしてるからのようです。カッコウ族の中で最大の鳥ロードランナーのご飯はネズミなどのげっ歯類から、トカゲ、小型哺乳類、コウモリ、鳥、昆虫などの他 雑食性なので、動物性タンパク質が見当たらない場合は種子や果物で済ませます。さらに小さなガラガラヘビさえも襲います。生き物を食べるときは、飲み込む前に柔らかくするために岩や地面に叩きつけます。ガラガラヘビも同様の殴り方でやっつけた後、一度に全部ではなく、ある程度の長さずつ食べて消化し、残りはロードランナーの口からぶら下がっていることがよくあります。世界最強クラスの凶暴なオオスズメバチさえも、ロードランナーが現れるまで自分たちが食物連鎖の頂点にいると考えていましたが、ロードランナーにあっけなく殺られてしまいます。しかもロードランナーは水分を完全に食事から得ていて、水を飲まずに一生を過ごすことができ、例え水を飲まなくても寿命が縮まることはありません。ロードランナーの住む砂漠の日中の気温は摂氏40℃を超えることもあり、その時間帯ではなく朝と夕方に狩りをします。日中の灼熱の暑さが夜間の極寒に変わると、ロードランナーは一種の冬眠状態に入ります。つまり代謝が遅くなり、体を温めようとしてより多くのエネルギーを消費するのではなく、より低い体温でエネルギーを節約できるようにしてます。逆に、ロードランナーの体には熱を吸収する黒い斑点があり、早朝の暖かさを吸収して再び走行温度に戻すことができるのですね。
Dec 9, 2025
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1989年に公開されたアメリカ映画「ブラック・レイン」の主舞台は大阪と神戸でした。主演はマイケル・ダグラスと高倉健。もうずいぶん古い映画ですが、この映画でアメリカの刑事マイケル・ダグラスが、大阪府警の警部補 高倉健の自宅を訪ねるシーンがあるのですね。この高倉健の自宅は、私が住んでる大阪南港のポートタウンにある別のマンションで撮影されました。ご覧になった方はご承知ですが、「ブラック・レイン」全編を通じて最も存在感を出したのは、凶暴なヤクザ役を演じた松田優作です。松田の力演を評価したハリウッドは、次回作にショーン・コネリーが監督して、ロバート・デ・ニーロが主演する作品のオファーを出しましたが、「ブラック・レイン」撮影中には松田優作はすでにガンに侵されてたのですね。映画撮影が始まる前に、自宅トイレで倒れ東京の病院に緊急入院し、自分が膀胱ガンに侵されてることを知ります。ところが松田は延命治療を拒み、「ブラック・レイン」の撮影に挑んだのですね。そればかりかラストのクライマックスシーンで松田とマイケル・ダグラスによる壮絶なバイクチェイスシーンが登場しますが、この撮影を松田はスタント無しで演じきったのです。結局、松田は1989年9月の映画公開時には作品を観ないまま、同年11月6日に息を引き取りました。この作品には懐かしい大阪の風景が多数登場します。今でも現存する道頓堀や大阪の北、淀川に接する繁華街「十三(じゅうそう)」の栄町商店街などから...今は取り壊されて跡形もない心斎橋の石造りの欄干で有名な歩道橋、その名も「心斎橋」。昔の梅田 阪急百貨店前のコンコースだったり。この映画は外国映画によく登場する「おかしな日本」像はほとんど登場しません。出演陣も大多数が日本人俳優でしたしね。刑事部長を演じてた神山繁やヤクザのドンを演じてた若山富三郎と云った大物俳優から、松田優作の手下を演じてたガッツ石松まで。ところが映画公開当時、気づいてなかった役者さんがいたのですね。ひとりは松田優作の手下を演じてた國村隼です。あのNHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」で主人公 田辺聖子の夫・徳永健次郎(カモカのおっちゃん)役を演じた役者です。「ブラック・レイン」の顔が後の國村隼とは違う形相してます。もっと意外だったのがこの人です。映画公開当時、全く気づきませんでした。樹木希林の旦那にして、日本ロックの首領(ドン)を自称してた内田裕也です。「ブラック・レイン」での内田裕也の役どころは松田優作の子分。アメリカで逮捕されて日本に護送されてきた松田優作をニセ警官に扮した内田裕也に騙されて、まんまんとマイケル・ダグラスから奪還する役なんですね。いゃあ~このときの内田裕也には全く気づきませんでした。
Sep 24, 2025
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かつて大阪に「南海ホークス」と云うパ・リーグ球団がありました。今でこそ世間では大阪人=阪神ファンと思われてますが、その当時はセは阪神、パは南海ホークスと相場決まってたものです。その南海ホークスも巡りめぐって今は「福岡ソフトバンクホークス」。戦前の南海ホークス本拠地は南海電車の高野山に向かう高野線の「白鷺駅」と云うなんとも辺鄙なところにある「中百舌鳥(なかもず)球場」と云うところでした。しかし、あまりに不便なところで、中百舌鳥での試合は観客が入らないことが多かったようです。結局、戦後にはここで1戦もおこなわれることがありませんでした。ところで、みなさんは「M資金」と云う言葉をご存じでしょうか。佐藤浩市主演で、香取慎吾が謎の人物を演じた映画「人類資金」の元ネタになったお話しです。太平洋戦争終戦時の混乱期に、大量の貴金属やダイヤモンドなどの宝石類を含む軍需物資が保管されていた「日銀地下金庫」にGHQの部隊が調査、押収に訪れた際に、彼らによる隠匿があったとされた秘密資金のことです。それが現在に至るも極秘に運用されていると噂されてるのですが、真相はまったくわかりません。問題の日銀地下金庫に踏み込んだとされるGHQ経済科学局の局長が"マーカット少将"でした。それで件の軍需物資を彼の頭文字をとって「M資金」と云うのですね。そのマーカットが、1948年の戦後第3回日本職業野球リーグで南海ホークスが優勝した際に、南海球団の松浦社長に「ホームタウン、ホームグラウンドはどこか?」と問うたのです。実はマーカットは無類の野球好きで、GHQ経済科学局長時代には米国野球協会日本支部長を務めていたほどです。そしたら松浦は「大阪府が本拠であるが、自前のグラウンドがないので甲子園(兵庫県西宮市)を使わせていただいている」と答えました。マーカットは自前のグラウンドを建設してもいいと提案。そこで、これまで公式戦を開催したことのなかった大阪市に目をつけて、大阪南部最大の繁華街である南海難波駅の南口に面した旧専売局の工場跡地に建設したのが通称「ナンバ球場」。正式な名前は「大阪スタヂアム」と云います。ところで池田勇人大蔵大臣ら日本側の要人がマーカットと面会するとき、マーカットの機嫌がよくない時は通訳のキャピー原田中尉がさりげなくマーカットに野球の話を振り、場を温めておくという段取りが行われていました。キャピー原田と云うのはマーカットの副官です。1941年の真珠湾攻撃を知ってアメリカ陸軍に志願し、陸軍情報外国語学校に入学しました。終戦後は池田勇人とマーカットとの国家予算など重要な交渉の通訳を担当した人です。それとともにキャピー原田は甲子園球場の接収解除やサンフランシスコ・シールズと日本プロ野球の親善試合の実現に貢献した日本野球の戦後復興に尽力した人物です。大阪スタヂアムと同じ、大阪を拠点とする「大陽ロビンス(今の横浜DeNAベイスターズの元祖)」も北区玉江橋の関西相撲協会の所有地を買収して建設候補地にあげていました。ところが、その案に西宮市をフランチャイズとする「大阪タイガース(現:阪神タイガース)」や「阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)」が「ターミナルの梅田に近く、客を奪われる」ことを恐れて反対したのです。大阪タイガース(阪神)と阪急ブレーブス(阪急)は、南海による難波球場建設は支持しました。そこで大陽ロビンスのオーナーだった田村駒治郎が「南海が1年以内に建設できなければ自分の手で球場を作る」と主張したため、南海は1年以内に大阪スタヂアムを完成できるよう工事を進めざるを得なくなったのです。そうして大阪スタヂアムは工期わずか8ヶ月の突貫工事で1950年に完成。戦災後の復興期にあり、まだ粗末なバラックばかりがひしめき合ってた大阪市内の中心部で鉄筋コンクリート造りの大規模建築として完成したこの球場は、当時「昭和の大阪城」と称えられました。しかし、大阪スタヂアムの土地はとにかく狭かった。その狭い敷地に極力多くの客席を設けたいために、スタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と云われたのです。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知れわたっていました。私も大阪スタヂアムには何度か足を運びましたが、上層の席から下に向かって転げ落ちると大ケガ、運悪ければ死ぬのではないかと云う急峻な観客席だったの覚えています。このグラウンドの狭さから、当たり損ねの打球が外野フェンスを越えてホームランになってしまうなど、投手泣かせの球場だったのです。この時代~60年代と云うのは"鶴岡一人"監督率いる南海ホークスの黄金期でした。毎年のように優勝争いを繰り広げており、今では考えられないことですが、関西では南海ホークスは大阪タイガース(阪神)をしのぐ人気球団だったのです。1963年8月29日の南海ホークスvs阪急ブレーブス戦で、日本記録ペースで本塁打を量産していた当時 南海ホークスの野村克也がこの試合でもホームランを打ってたにも関わらず試合途中で雨になり、2時間14分も中断してしまいました。本来なら中止試合となるところですが、野村の1本を生かすには中止はできない。なんとか試合を成立させなければなりません。そこでとった策がグラウンドにガソリンを撒いて火を付け、水分を蒸発させて試合を再開させると云うものでした。結局この年、野村はシーズン52本の本塁打を記録して本塁打王に輝きました。しかし、それ以上に野村がスゴかったのが、この年は150試合全部、それもフルイニング出場したことです。これを知ったアメリカ人記者は「全く信じられない。捕手で全試合、全イニングなんて、彼は一体、その選手はどんな物凄い体をしてるんだ」と驚いたと云います。野村克也は1954年、南海ホークスに契約金0円のテスト生として入団した人物です。さて、みなさんは水島新司の傑作野球マンガ「あぶさん」を覚えてらっしゃるでしょうか?酒豪の強打者「あぶさん」こと景浦安武を主人公にしたビッグコミックオリジナルの人気マンガでした。この景浦安武の入団したチームが南海ホークスです。なので南海ホークス時代の盟友として、藤原満(現役引退後は南海、ダイエーのコーチ)や佐藤道郎(現役引退後はロッテ、中日、近鉄コーチ)、江本孟紀(南海から阪神)、門田博光(南海、ダイエー、オリックス)などが登場してます。佐藤道郎や門田博光は実際に酒豪であり、景浦のよきのんべ友達でした。同期の藤原満は景浦安武の親友のような存在です。野村克也が景浦安武のモデルではありません。60年代半ば以降はTV中継でセ・リーグの読売ジャイアンツ戦が多くを占めるようになりました。その結果、関西では唯一同じセ・リーグ所属の阪神タイガースに「巨人の対抗馬」として人気が集中。パ・リーグの人気は長期低落傾向をたどります。その結果、大阪スタヂアムの年間観客動員数が1965年以降、南海ホークスとしての最終年1988年まで1度も50万人を超えなかったのです。南海ホークスとしての最後の公式戦は1988年10月15日の対近鉄戦。西武ライオンズとのし烈な優勝争いをしていた近鉄を相手に互角の白熱戦を展開します。岸川勝也の決勝本塁打で南海が6-4で勝利して有終の美を飾りました。同年、南海ホークスがダイエーに売却され福岡市に移転。大阪スタヂアム跡地には「なんばパークス」と云う複合商業施設が建ちました。
Dec 5, 2019
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小鳥さんと云うと、耳に心地よいさえずりが魅力ですよね。日本で日本三鳴鳥とも云われる鳴き声の美しい鳥は、ウグイス、コマドリ、キビタキと云われてます。しかしクロツグミは最も耳に心地よい声でさえずる鳥と呼ばれています。クロツグミは今では数少ない夏鳥として、大阪府のレッドデータブックでは絶滅危惧種の2類になってしまっています。逆にデカイ声でウルサイ鳥は?世界でもっともウルサイ鳥は南米ギアナやブラジルのパラー州、ベネズエラやトリニダード・トバゴにいる「スズドリ(Procnias albus)」と云われてます。2019年にマサチューセッツ大学が発表した研究によると、スズドリの鳴き声は125dB(デシベル)に達し、これは鳥類の鳴き声としては最も大きなものでした。125dBと云うとロックコンサートの音量とほぼ同じ大きさです。上の画像で口からヘンなものぶら下がっていますが、これは七面鳥なんかに見られる肉質の塊「肉垂」ですね。これは力強いオスの象徴で、大きいとメスにモテるそうです。他には温度調節の役割もあるとか。スズドリの体長は28cm ほど。オスは画像のように純白で、嘴には肉厚の黒い肉垂がありますが、メスは全体的にオリーブ色をしていて肉垂はありません。スズドリの鳴き声は、配偶者(メス)を誘惑するために使用されます。その大声は彼らの食性が関係しているそうです。果実を丸ごとついばんで食べ、約1日で消化して種を吐く習性を持ちますが、果実を丸ごとのみ込めるよう、くちばしを90度を超す角度で開くことができます。これが金管楽器の広がった先端のような役割を果たし、音を増幅させるのですね。オスが同じとまり木にいるメスに鳴くとき、メスの顔に向かって怒鳴る傾向がありますが、メスがどのように聴覚障害を回避するのかはまだわかっていません。White bellbird: listen to the world's loudest bird call
Dec 24, 2023
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私は若いころ、とびきりの呑兵衛でして、ほぼ毎日飲み歩いていました。それも泥酔するまで飲む。で、胃癌発病で、胃の全摘と云う仕儀に相成ったワケです。飲むのは圧倒的にショットバーが多かった。ショットバーのカウンターでバーテンさん相手にウダウダ云って嫌がられてた。そんなでホステスさんのいるお店に行ったのは、生涯に5~6回ぐらい。それも接待とか会社の社長に連れられてとか。自分の意思で行ったことはありません。イヤなんですよね、飲もうと思ってるのに、ホステスさんの機嫌とって違う方向ってのが。なのでスナックはもっと行きません。なんで飲んでる時に、知らないオッサンのヘタな歌聞かなあかんのか理解できない。最後に勤めていた会社の社長は京都人だったので、いちど(大阪の)新地に連れていかれて、どっか飲めるとこ探してくんろなんて云われたことあります。そんな新地で一見さんOKのお店なんて無いし、いきなり行っても...結局、どのバーも全部断られて、やむなく初めてガールズ・バーに行きました。バカバカしいったらありゃしない。入れ代わり立ち代わりアルバイトの女の子がカウンター越しに現れて、それを常連の男性客はお酒(実際はソフトドリンク)おごって気をひこうとしてる。もう、こんなとこに出入りしているお客の情けない表情と態度ったらありゃしない。キャバレーは一度も行ったことありません。私がタイから帰ってきたときはもうキャバレーの衰退期に入ってて、世はもっぱらディスコ一辺倒。そのうちキャバクラ(行ったことありませんが)なんかの台頭で存在そのものが危うくなってました。大阪、京橋には「京橋グランシャトー」と云う有名な総合レジャービルがあって、その中にある「キャバレー香蘭」も2015年には撤退してしまいました。グランシャトーのCMは「オレたちひょうきん族」で明石家さんまがネタにしてから全国版になりました。日本のキャバレーは第2次世界大戦後、進駐軍向けにオープンしたのが始まりです。それから発展して1960年~70年代に隆盛きわめましたね。特徴は時間制で明朗会計の料金とショーを行うステージや生バンド付きのダンスホールが売り物。と~ぜんホステスさんが必須です。全盛期のキャバレーには三傑と呼ばれる経営者がいました。「銀座ハリウッド」の福富太郎。「赤坂ミカド」の小浪義明。「キャバレーハワイ」の日本一成(本名 小松崎栄)。これらの人たちの共通点は主業が「観光業」であると云うことです。つまりキャバレー経営は彼らの事業のあくまで一部だったのですね。福富太郎は、15歳で銀座の高級キャバレー「モンテカルロ」のボーイとして働いたのが水商売に足を踏み入れた最初です。その後、銀座のダンスホールのバーテンや五反田、渋谷、品川などのキャバレー支配人を経験し、1957年に26歳で独立しました。それが神田のキャバレー「21人の大部屋女優の店」だったのですね。それ以降、「ドガ」「ヌーベルバーグ」「二等兵」「ベビードール」などを次々に手がけ、1964年、ついに銀座8丁目の戦前「帝国博品館勧工場」があった土地に大型キャバレー「銀座ハリウッド」を開店したのです。これが契機となって、マスコミでは「キャバレー太郎」の異名をとり、一時は、TVやラジオなどにも出演多数でした。キャバレー「ハリウッド」は、最盛期には直営店だけでも29店舗、全国に44店舗もありましたが、1973年のオイルショック以降、客足が遠退き次々とキャバレーは廃業へ。福富太郎が没した時にはハリウッドも赤羽店、北千住店の2店舗のみとなっていました。この2店舗が東京都内で営業していた最後のグランドキャバレーでしたが、赤羽店、北千住店も2018年に閉店になっています。名古屋でパチンコ店や観光バス事業を経営していた山田泰吉が、来るべき1964年の東京オリンピックでの外国人客を見込み、5年の歳月と当時の金額で15億円の巨費を投じ、地上6階建て、延床面積2千余坪を以って赤坂2丁目に完成したのが「ミカド」です。当初のミカドは国際社交場にふさわしい大噴水ショー、そしてレヴューなど世界の一流ショーを売り物とし、内外装、調度品ともに豪華さの粋を集めた「レストランシアター」でした。しかし欧米人客には 大好評を得るもホステスが存在しないことが仇となって、日本人客には不評で1964年に閉館へと追い込まれます。その後、ミカドの経営は神戸の「新世界」大阪の「エムパイア」や「クラウン」と云った大型キャバレーの成功で名を馳せていた神戸出身の小浪義明が買収して引き継ぎ。華美な面を省くなど大々的な改装が施され、ゴールデンタイム、サンデーサービスを設け、高級路線の大衆キャバレーとして装いも新たに翌1965年に再オープン。営業担当の畑本克己が銀座のクラブやキャバレーからホステス、マネージャー、バーテンダー、ボーイを引き抜いたことが業界で大問題となりましたが、最盛期には500名のホステスを抱え大成功を収めます。1967年には力道山が自らの建設、運営した総合スポーツレジャービル 渋谷の「リキパレス」を買収しキャバレー「エムパイア」も開店しました。赤坂ミカドも1988年閉店。後に取り壊され、跡地には「プラザ・ミカドビル」と云うテナントビルが建てられました。「キャバレーハワイ」の創業者、小松崎栄(日本一成)は茨城出身です。19歳で上京。東京で就職すると、誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰る生活を続け、日給は毎日、出勤前に郵便局に立ち寄り貯金と云う生活。ご飯は、職場で出る物だけで済ませ、ただひたすらお金を貯めました。小松崎栄はやがて「バー松」をオープンします。ここからが、小松崎栄の快進撃の始まりです。小松崎栄は、その後、バーを3店舗経営しましたが、バーでは限界があると判断し、業種をキャバレーに変更。それがキャバレーハワイです。上京から10年後、キャバレーハワイは、全国650店舗にもなりました。年商500億円。最終的に、全国に1,500店舗を作り上げました。さて、ここからが興味深いお話しです。日本最初の全店24時間営業チェーンを展開したコンビニに「サンチェーン」と云うものがありました。このサンチェーンのオーナーがキャバレーハワイの小松崎栄なんです。小松崎栄は成長が見込めなくなったキャバレー事業から経営の軸足を移すため、コンビニ業界に進出したのです。サンチェーンは東京からスタートして100店舗達成を機に、関西サンチェ―ンもスタ―トさせました。サンチェーンはついに全国で1,000店舗以上までに達しました。そして西のローソン、東のサンチェーンと呼ばれるようになったのです。その後、ダイエーの中内代表と業務提携を交わし、サンチェーンの経営権を売却。関東に弱かったローソンはハワイのサンチェーンとの業務提携によりセブンイレブンを抜かそうとします。そうしてサンチェーンの名前はローソンに統一となったのです。
Nov 18, 2019
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お芝居や映画などで有名な国定忠治、清水次郎長、大前田英五郎など義侠心を持つ侠客(きょうかく)は強きを挫き、弱きを助ける任侠を建前とした渡世人のことですが、はたして実際はど~だったんでしょうね?東映映画「昭和残侠伝」と云えばご存知"高倉健"の代表的シリーズですが、この物語の時代背景は戦前の昭和初期~太平洋戦争終結直後を背景に物語が展開します。高倉健の他に池部良がレギュラーで、高倉健の花田秀次郎、池部良の風間重吉が互いに友情で結ばれ、最後は2人揃って殴りこみに行くのがパターンでした。このときの高倉健は、とりわけかっこ良かったなぁ。ブルースリーの映画が流行ったときは劇場出ると、自分もカンフーの達人になった気分だったし、昭和残侠伝を観たあとは、自分も高倉健のようにいっぱしの任侠に身をおいてる錯覚がひどかった(笑)1971年公開のシリーズ8作目「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」では高倉健と池部良のコンビが一宿一飯の義理で助っ人として敵対する親分をたたっ斬ろうとしますが...他に鶴田浩二や松原智恵子、葉山良二など豪華キャスト。昭和残侠伝 吼えろ唐獅子 予告編この「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」では、旅の途中の高倉健たち侠客が土地の親分に一宿一飯の恩義に預かる、いわゆる「草鞋を脱ぐ」とこがあって、上の予告編冒頭シーンのように仁義の切り方が描かれてたり、賭場でのマナーから、「親分さんに恨みつらみはございませんが、渡世の義理でお命いただきにまいりました」と刺客の口上まで任侠道に基づいた立ち振舞が詳細に描かれてます。その「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子」で「時のしのぎ」と云う夕食をご馳走になるシーンがとても細かく描写されてるのですね。時のしのぎのメニューはご飯、味噌汁、焼き魚、沢庵の一汁二菜が定番で、ここから沢庵を除いた一汁一菜のときもあります。給仕役の子分は、「遠慮なくおあがりなさいませ」と告げと、高倉健は「ご厚情に預かります」と挨拶した後、懐紙を取り出して膳の横に置きます。先ずご飯と味噌汁に一口ずつ口を付けた後で焼き魚にかかるのです。このご飯は必ず丼くらいの茶碗に2杯、山盛りが作法です。このときご飯1杯でも、2杯以上のおかわりでもマナー違反です。しかし丼大の茶碗に山盛り2杯のご飯では普通食べきれません。そこで高倉健は、1杯目のご飯は真ん中のあたりだけ食べて茶碗を給仕役に差し出します。すると給仕役は「作法にかなったおかわり、恐れ入ります」と述べ、真ん中のへこんだご飯に2杯目をつぎ足して2杯分と云うことにします。これは1杯は仏さまだと嫌うことからそう云うマナーらしい。では焼き魚の食べ方はと云うと...ここで、時のしのぎの最初に取り出した懐紙を使うのですね。この懐紙の上に食べれないひれの部分や骨を置いて包み、懐に入れて持ち帰るのです。残さずいただき、食べない部分は持ち帰ると云うのがマナー。そして食べ終わると「手厚きおもてなし有難うございました」「なんのお構いも」と双方お辞儀して時のしのぎが終わります。ホントウにこんな食事作法あったのか疑問ですが、文献にはそうありますね。もっとも侠客の全部が全部、こんなマナーを守ってたのかは分かりません。侠客が「博徒(賭博で生計を立てる者)」の原点とする説もありますが、ど~なんでしょうね。よく「渡世をはっている」が博徒、「稼業をはっている」が神農(テキ屋)と云いますが、どっちにしてもヤクザの一形態には違いない。また博徒は職業神として天照大神を祀っているそうですが、テキ屋は職業の神様として神農を祀っています。博徒は「渡世人」で、テキ屋は「稼業人」とも呼び、似て否なるものとも云います。どっちでもい~ですけどね。どっちにしても、ヤクザ世界も高齢化が激しいらしく、「若い衆」のリクルートがムツカシイらしい。ヤクザ組織のトップ代紋頭がみな後期高齢者なのです。
Jan 29, 2025
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幼いころは突出した能力を発揮したのに、大人になってからは全くと云ってよいほど芽の出ない人がいますな。身近なところでは子役タレントなんかもそう。子役の間は、大人顔負けの演技力だったのに、いつの間にか消え去っていく。ここに人類史上最高の天才と呼ばれた男がいます。ウィリアム・ジェイムズ・サイディズ(1944年没)。アメリカの数学者です。両親は息子を育てるにあたって一切の罰を与えることなく、早期英才教育によって知識欲を植えつけようと考えました。その結果は...・生後6ヶ月にして、スプーンを使用して自ら食事を摂ろうとしはじめました。そして2ヵ月後には成功したのです。・1歳で綴り方を覚えました。・1歳6ヶ月にして「ニューヨークタイムズ」を読むことができました。・2歳でラテン語を独習しました。・3歳でギリシア語を独習するとともに、タイピングを憶えました。タイプライターに手が届くよう高い椅子を使い、初めてタイプしたのは、百貨店に玩具の注文を出す手紙だったのです。・4歳で解剖学に関する学術論文を執筆しました。・6歳の時には、アリストテレスの論理学を修得しました。・また6歳の時にロシア語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語を修得。さらにトルコ語とアルメニア語も修得したのです。・6歳の時には、歴史上のいかなる日付でも曜日を計算し、当てることができました。・6歳で大学レベルの数学の試験で合格点を取りました。・6歳でグラマースクール(文法学校)に通い始めました。あまりに上達が速いので、3日で3年生に進級。7ヶ月で卒業しました。・4歳から8歳までの間に、4冊の本を執筆しました。・7歳の時、ハーバード大学医学部の解剖学の試験に合格しました。・8歳にしてMIT(マサチューセッツ工科大学)の入試に合格しました。8歳のときにハーバード大学に願書を出しましたが、学力は充分だったにも拘らず大学側に早熟児を受け入れる態勢が整っていなかったため、入学を拒否されました。その後、早熟児のためのプログラムが始まったため、11歳で再度ハーバードに志願して入学を許されたのです。数学教授たちの前で四次元体に関する講義をおこない、高く評価されました。彼はハーバード入学者の中では史上最年少だったのです。MIT教授のダニエル・コムスティックは、ウィリアムこそ20世紀最高の数学者になるに違いないと予言しました。計量心理学者エイブラハム・スターリングは、ウィリアムの知能指数を250~300と測定しました。1914年、テキサス州ヒューストンのライス大学で数学教授に就任。しかし1年もしないうちに大学や学生たち(ウィリアムよりも遥かに年長)への不満が募り、辞職してボストンに帰郷しました。1916年、彼はハーバード大学ロースクール(法学教育機関)に入学しましたが、成績優秀だったにも拘らず中退しています。1919年、社会主義者、無神論者、ソビエト政治の支持者だった彼はメーデーの反徴兵パレードに参加したために逮捕されました。この頃から、ウィリアムの転落の人生が始まります。両親の奔走で収監は免れたウィリアムでしたが、彼は殻の中に閉じこもり、計算機の運用といった半端な仕事に従事するようになったのです。そして少数の友人と共にサークルを結成し、路面電車の切符や鉄道雑誌を蒐集する趣味に没頭したのです。1944年に彼はボストンで脳卒中により死去し、父の眠るポーツマスのサウス墓地に埋葬されました(46歳)。晩年はジョン・W・シャタックやフランク・ファルーパなど、複数の偽名を使って数学以外の領域で仕事をしましたが、その詳細はほとんど判明していません。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Feb 6, 2017
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昨年に公開された岡田准一主演の映画「関ケ原」。映画館で観ようと思いつつ、観逃してしまったのをようやくDVDで観れました。監督は「日本のいちばん長い日」を撮った原田眞人です。原作は司馬遼太郎の小説「関ケ原」ですね。これまで家康を主人公にした小説は多かったのに、初めて石田三成にスポットあてた作品で、私もなんども読み返しました。物語はご存じ天下分け目の関ヶ原の戦いを描いたものですが、これに至るさまざまな人間関係がオモシロイ作品です。ここで描かれる石田三成は、戦国時代にあって稀有な存在なんですね。どの大名もスキあらば隣国を犯して領土拡張、もしくはお家を守ることに汲々としているなかで、三成は「義」を貫いて豊臣家を守ろうとするのです。三成は加藤清正や福島正則のような純粋な戦争屋ではありません。秀吉の朝鮮出兵では増田長盛や大谷吉継と共に漢城に駐留して総奉行を務めます。このとき兵站(物資の配給や兵員の展開、施設の構築や維持)をみごとに捌いたのが三成で、三成なくして朝鮮出兵は成し得なかったのですが、なにしろ縁の下の力持ちみたいな兵站の仕事。つまり三成は数値に明るく、計画的な参謀役に適してた人材なんです。ところが秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則、黒田長政ら戦争屋の反発を招くことになり、これに乗じた家康の術策にはまって関ケ原の戦いに発展していくのですね。三成には致命的な欠陥がありました。相手がバカに見えてしかたないのですね。しかも、それを表情に出して見下してしまうものだから、誰だっていい気はしません。しかも明敏な頭脳を持ちながら、その発想は常に観念論や倫理を基準とした批評の範疇に留まり、現実的な行動がともなわないのです。今でもこんな人はときどき居ますね。三成の腹心の島左近に「人から嫌われる要素がこれほど揃っている男も珍しい」と評されるほどです。ちなみに島左近はもともと三成の家来ではありませんでした。しかし、名将としての誉れは高く、三成は島左近を召し抱えるのに、自分の知行の半分も与えているのです。それだけ欲しい人材だったのですね。これを聞いた 秀吉は驚愕、賞賛し、三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えてます。古今武家盛衰記には「治部少(三成)に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だったのです。島左近は関ヶ原の戦いで命を失っています。その最後は諸説あって、黒田長政軍の鉄砲隊に銃撃され負傷し後、死去したとか、小早川秀秋の東軍寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなったため、左近は再び出陣。正面の黒田長政軍及び田中吉政軍に突撃し、敵の銃撃により討ち死したと云うものなど。しかし関ヶ原での戦いぶりは、徳川方をして「誠に身の毛も立ちて汗の出るなり」と恐れさせたことが記されています。享年61歳。司馬遼太郎は家康のことを好意的に書いてません。ちょうど「坂の上の雲」の乃木希典と同じような扱いです。たとえば司馬遼太郎の「関ケ原」にはこんなくだりがあります。家康が「爪を噛む」のです。ど~やらいらだった時にする家康のクセらしいですが、これを記したのは司馬遼太郎以前には貝原益軒の「黒田家譜」くらいです。映画では、西軍に反旗をひるがえす手はずだった小早川秀秋が、なかなか動こうとしないことに苛立って爪を噛んでいます。さて、本題の「関ケ原の戦い」ですが、これが行われたのは1600年(慶長5年)9月15日。総勢、西軍が8万、東軍が7万4千。人数はほぼ互角で、西軍がやや有利のように見えますが...家康の軍は、福島正則や加藤清正など豊臣恩顧の武将が多くいたのに対し、西軍は小早川秀秋みたいに合戦途中で東軍に寝返ったり、西軍の総大将なのに全く動かなかった毛利輝元とか島津義弘みたいに、我が身大事で戦力にならなかったのが大勢いました。実質、西軍で働いてたのは石田三成、大谷吉継、安国寺恵瓊ぐらいでしたから、こりゃあ戦力が違い過ぎますね。まぁ、あまりに有名な史実なので、合戦の話はこの程度で。戦力もそうですが、三成が破れた要因は他にもあります。・光秀には家康がもっているカリスマ性がなかった。・毛利輝元が総大将にもかかわらず、実質的には三成が代行せざるを得ず、タイトルと権限が伴っていなかった。・そのため毛利輝元や島津義弘に戦に参加するよう促すのに、三成自ら馬を飛ばして説得にいかなければならなかった。実質、総大将にも関わらず、その人が右往左往しなければならないのは滑稽ですらあります。司馬遼太郎の小説では、小早川秀秋の説得に失敗した三成は陣地に帰る途中でお腹が痛くなり、馬上で便をチビルとあります。サラリーマンでもありますよね。あまりのストレスに肝心なとこで、お腹が痛くなる。・しかも三成は加藤清正なんかに比べたら、純粋に戦闘経験が少ない。つまり、なるべきでない人が総大将として振る舞わなければならなかった悲劇なんですね。さて、本題の映画のデキですが、この映画、見始めてスグ、あることに気づきました。「映像美が皆無なんです」映画のメインは関ケ原の戦いですが、その前哨戦とも云える光秀と家康のかけひきにさえ美しいと感じるシーンがないのです。石田三成役の岡田准一をはじめ、秀吉役の滝藤賢一や役所広司、平岳大、東出昌大、松山ケンイチ、北村有起哉、音尾琢真、松角洋平、和田正人、大場泰正、西岡徳馬、有村架純と芸達者を集め、みんないい演技してるのですよ。だけど、美意識が希薄。これは監督と脚本を務めた原田眞人の責任だなぁ。確かに関ケ原と云っても、狭い日本の国土です。戦いの場は狭い道とか、谷あいが多かったのでしょう。しかし映画なんですから、史実に忠実よりも観ていて「あぁ、スゴイ映像だなぁ」感嘆させるシーンがないと。例えは古いですが、チャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンが主演した1961年製作の「エル・シド」。映画の後半で攻め込んで来たムーア人大群のすさまじいシーン。または黒澤明の「影武者」や「乱」のダイナミックさ。黒沢作品で云えば古い「蜘蛛巣城」でさえ、妖艶とも云えるシーンの連続でした。これではブラッド・ピットが主演した(私には駄作の)「トロイ」と同じこと。単に規模だけで見せてるような。こんなにお金かけましたよ~みたいな。これではCG満載のジョン・ウー監督作品「レッドクリフ」の方がよっぽど迫力があった。唯一納得させられたのは戦闘員が槍を突き刺すように構えるのではなく、上からたたきつけるように構えていたこと。下っ端の戦闘員なんて、きのうまでクワ持って百姓してた連中です。と~ぜん戦闘なんて訓練充分にしてない。訓練できてない輩が槍で突き刺そうとしても払われるのがオチでしょう。だから長いこん棒みたいにたたきつけるのがイチバン効果がある。まぁ、それくらいで、この映画は岡田准一主演の映画としては、イマイチのデキでした。だいたい岡田くんの映画は当たり外れ無いのですけどね。と、云っても私の感想ですから、別の方が観たら、それなりに感動されるでしょうけど。
Nov 2, 2018
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世界有数のメガシティ、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ。2016年にはオリンピックが開催されましたね。そして世界遺産リストに登録されるくらいの美しい景観。コルコバードのキリスト像やポン・ヂ・アスーカルの奇岩、そしてなにより世界最大の見世物と呼ばれるリオのカーニバル。まぁ、何をとっても魅力的なものばかり。何と云うてもカーニバルのダンスがサンバってのがいいですね。そんなリオにもうひとつの顔があるのはご存じですよね。オリンピック、パラリンピック期間中は85,000人の警察官、警備隊を投入して、観客やメディア関係者が死亡するような事故や事件は発生しませんでした。しかし、だからと云ってリオの犯罪率の高さは尋常ではありません。オリンピックの前年、2015年にリオで起きた事件数は殺人1,205件、強盗81,740件もあり、同年の日本全体の殺人933件、強盗2,426件より多く、人口10万人あたりの発生率で見ると殺人発生率は日本の25倍、強盗発生率は660倍にもなります。これが1国ではなく、ひとつの市で起きているのですから、驚きです。東南アジアで最もヤバイ、フィリピンよりもっとヒドイ。ジャイール・ボルソナーロ大統領は、ブラジル人が銃器を所有することをより容易にするという法令に調印してます。この銃器保持の有資格者は、農村部、殺人率の高い都市部、事業主などの市民が対象です。所有者になるには、犯罪歴がないこと、心理検査を受けること、ガンクラブでコースを受講すること、25歳以上であることなどの要件を満たす必要がありますが、銃規制をするのではなく、身を守りたかったら武装せよと云ってるようなもので、こんな国も珍しいですね。その背景にはブラジルのほぼすべての大都市および中規模都市の郊外に、不法居住者の建てた小屋の並ぶファヴェーラ(貧民窟)や、既存の町がスラム化したファヴェーラが存在することです。中でもリオのファヴェーラがもっとも有名で、カリオカ(リオっ子)の4人に1人はファヴェーラに住むと云われています。ファヴェーラの多くは、土地を不法占拠する形で小屋や家屋が築かれたものです。1940年代には住宅危機が起こり、都市部の貧民たちは郊外に無数のバラック街を築いたのですね。これがファヴェーラの元となりました。ファヴェーラの建物は非常に入り組んでおり、1軒1軒も狭くって、地形に合わせた階段や通路が家々の間を通っています。そのため、車による通行のできない場所が多いのです。無断で建てているので、と~ぜん電気の供給はないのですが、家々には夜になると灯が点いています。これは付近の電線から勝手に電線を引いた盗電なんですね。ファヴェーラで大きな問題なのが、コロンビア産のコカイン取引がここで行われることが多いことです。ファヴェーラに麻薬常用者が集中し、地域のギャングたちが麻薬販売で大きくなっていきます。ファヴェーラは麻薬王に支配されるようになり、密売組織と警察の市街戦や、犯罪者同士の銃撃戦がしばしば起こっています。ファヴェーラの住民は、密売組織との関係を維持することで身の安全を確保している状態なのです。ファヴェーラの住人の多くは都心などで低賃金の仕事に就いて生計を立ててます。しかし、失業やドラッグ、ギャング同士の抗争といった社会問題に巻き込まれる率も多いのです。もうひとつの問題は少年による犯罪率の高さです。下の画像は、拳銃をもったふたりの少年が、病院の待合室で、次々と金品を強奪していく防犯カメラから撮ったシーンです。ほんとうに少年と呼べる若年層のギャングが、軍用ライフルで武装してる町なんですな。警察も次々に逮捕、拘留しますが、焼け石に水の様相を呈しています。下の動画はBBCニュースが町でインタビューしてるシーンです。カメラの回ってるの承知で、少年が割り込んで強盗しようとしています。次の動画は、サンパウロで起こったできごと。バイクに乗ってた警官が、バイクに乗った少年にバイクをハイジャックされそうになる動画。最後の最後に、この少年が撃たれるシーンがありますので、閲覧注意です。最後の動画はあるインスタグラマーが、自撮り中に拳銃強盗に襲われるシーンです。屋外で撮影していたところ、後ろから自転車に乗った細身の少年がサクッと拳銃を取り出して銃口を向けてきます。ところが、件のインスタグラマーが振り返ると、なんと犯人は友達でした。偶然に友達が、それと知らずに強盗しようとやってきたのです。「よう!」といって握手をする2人。こうして難を逃れたと云う次第です。
Jul 25, 2019
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日本近隣で飛行機の航路として使わない空域があります。ひとつは日本海上空。実際には韓国やアメリカに飛行するときは、日本海上空を飛んだ方が近道になるのに、ワザワザ迂回してる。昔は日本海上空を飛行する航空会社は34社くらいありました。しかし、2015年以降はロシアの航空会社しか日本海上空を飛んでません。それもウクライナ侵攻以降、ロシアから日本への直行便は無くなってるので皆無と云えます。日本海ルートをとるのと、太平洋ルートをとるのでは、アラスカやカナダに飛行する場合、運行ルートの違いで航空会社1社で年間数億円以上の燃費が違ってきます。日本海ルートをとる方がだんぜん燃費が安いのです。それでも航空各社が日本海ルートを避ける理由が有ります。理由は2つあって、ひとつは日本海上空の気象条件の悪さです。特に冬は、シベリア高気圧と太平洋低気圧と云う日本海特有の天候要因で、上空の気温がとてつもなく低く、かつ強風が吹き荒れます。これによって機体に氷が付着(アイシング)したりエンジン凍結の事故がおこりやすくなるのです。特にキャブレターの着氷、吸気口の着氷、エンジンの着氷は即事故につながりかねません。しかも日本海に面する都市は、例えば青森が世界一積雪量が多い都市、世界第二に積雪量多いのが札幌、第三位が富山と世界有数の積雪量を誇り、カナダのケベックなんかよりよっぽど飛行が困難なんです。もうひとつはお馴染みの北朝鮮ミサイル問題です。2015年以降から北朝鮮のミサイル開発が激化してきたのと、発射予告をしなくなったため、それからこっち各航空会社とも日本海飛行ルートとるのを止めたのです。日本国内で云えばアメリカ軍横田基地の空域は民間機の飛行が禁止されてます。横田基地の上空にある「横田空域」は、第2次大戦終了後のサイフランシスコ平和条約で、日本の航空機は米軍の許可を得ずに飛ぶことができないんです。横田空域は、東京都福生市にある横田基地の上空を中心に、世田谷区や中野区、杉並区の上空まで広がる巨大な空域です。北は新潟県から南は静岡県、西は伊豆半島に及び、飛行禁止高度は場所によって7,000m に達します。民間航空機はこの空域を避けるため大幅な遠回りをするか、離陸後に急激に上昇して空域の上空を通過する必要があります。もうひとつ国内で上空飛ぶことを避けてる地域があります。みなさんは羽田から西日本に向かう航空便で、窓から富士山を眺められた方も多いでしょう。遠くから眺めるのぢゃなく、もっと近寄って見たいと思うかもしれませんが、先ず航空機が富士山上空を飛行することはありません。ナゼ富士山上空を飛ばないかと云うと、富士山の高さと孤立峰と云うことが原因してます。孤立峰と云うのは富士山のように、連峰とは違い、ただ1つだけでできてる山のことです。風が山を越えて吹くとき、山の斜面に沿って吹き上がった空気は山頂へ向かっていくにつれ冷たく重くなり、山頂を越えると今度は温まって膨張しながら吹き下ろしてきます。麓まで降りた空気は充分に温まり、今度は上昇気流となっていき、上昇するに従い再び冷たく重くなることを繰り返し、波打つような流れを作るのです。このように、山の風下側に発生する波打つような気流のことを「山岳波」と呼びます。山岳波は周囲に乱気流を発生させることもあります。山が高いほど、そして吹く風が強いほど山岳波は強くなるので、周囲に風をさえぎる山がなくて、日本一高い富士山は非常に強力な山岳波の発生源なんです。それが航空機の運行に非常に危険なんですね。なので民間航空機は富士山上空飛ぶことを避けるのです。この富士山の山岳波によって発生した航空事故があります。1966年に発生したサイフランシスコ発「英国海外航空911便」ボーイング707墜落事故です。この事故で機長がとった行動が事故発生につながりました。通常よりも数千メートルも低い高度で、しかも有視界飛行で富士山近傍を飛行しようとしたのです。機長はアメリカ人団体観光客が多く搭乗していたため、サービスで日本の象徴 富士山を近くで見学してもらいたいと思ったのかも知れません。しかし事故当日、中国大陸からの強い季節風のために予想を大幅に上回る強い山岳波が発生していたのです。この強い乱気流によって、垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落し、主翼全体から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落してしまったのです。まさに空中分解です。乗員乗客あわせて124名全員死亡、生存者0と云う大事故になりました。
Nov 15, 2024
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高市首相は、2022年末に策定された国家安全保障戦略などの「安保関連3文書」の改定作業を前倒して、2025年度中に防衛費を国内総生産(GDP)比1.8%から2%水準に引き上げることを表明しましたね。これには日本の国防力強化とともに、トランプの訪日を前に防衛費増額への日本のコミットメントを強く示す狙いがあります。しかしホワイトハウスは、日本の防衛費についてGDP比で3.5%~5%への引き上げを非公式に要求したと報じられてます。この要求の背景には、今年のNATO首脳会議で加盟国の防衛費目標がGDP比5%に引き上げられたことや、トランプ政権からの同盟国に対する防衛費増額圧力があります。とは云ってもアメリカ自体の防衛費はGDP比3.5%くらいですから、NATO加盟国の防衛費増額はメチャメチャな数字なんですね。アメリカの一部の専門家は、防衛費の「GDP比」という数字だけに焦点を当てるのでなく、日本がどのような具体的な役割を担い、どのような能力を強化していくかについて議論すべきだと指摘しています。さて、表題のことですが、世界でもっとも多く米軍が駐留してる国は間違いなく「日本」です。アメリカによる軍事展開は180ヶ国以上の国で行われており、約1,650,000人のアメリカ軍現役将兵がアメリカ合衆国とその領土外で従事しています。そんな外国での駐留兵でもっとも多いのが57,094人の日本なんです。内訳は陸軍が2,516人、海軍が20,733人、空軍が12,757人、海兵隊が21,070人、沿岸警備隊の18人です。駐留人数の2位がドイツで34,668人と日本と比べて2万人以上開きがあります。ドイツはNATOの重要な拠点であり、冷戦時代からの歴史的経緯と地理的優位性があって駐留米軍が多いのですね。ヨーロッパの政治・安全保障における米軍のプレゼンスを維持する上で、ドイツは戦略的に不可欠な位置を占めているのですが、それを上回って日本がトップなのは?3位はお隣 韓国です。総数26,643人の駐留ですが、内訳は陸軍と空軍が圧倒的に多いです。駐留の理由は朝鮮戦争の休戦状態が続いていることと、北朝鮮からの継続的な軍事的脅威を抑止するためです。アメリカは第2歩兵師団や第7空軍などを含む在韓米軍を、韓国軍とともに米韓連合軍司令部として編成しています。有事の際には、在韓米軍司令官が韓国軍に対する作戦統制権を行使する体制になるのですね。それとともに軍事力増強を進める中国へのバランスを取る役割も果たしているのです。さらに戦略爆撃機など、韓国が独自に保有していない軍事能力をアメリカ軍が補うことを韓国側が要請しているためです。ナゼ日本に駐留する米軍が世界一多いかと云えば、まさに日本の立地に伴う地政学的最重要拠点だからです。米軍が日本に駐留していることで、万が一の事態が発生した際に、日本周辺地域への迅速かつ機動的な対応が可能になります。特に沖縄は、アメリカ本土やハワイよりも地理的に近いため、緊急時の対応に有利で、アジア太平洋地域における米軍の戦略上の重要な拠点となってるからですね。だからこそ駐留米軍の中でも水陸両用の軍隊「海兵隊」と「海軍」が多いワケで、国境での戦闘が想定される韓国の駐留陸軍が多いのとは真逆なんですね。さらにこうした見方もできます。もし日本と云う防波堤を失った場合、アメリカは中国や北朝鮮と直接対峙しなければならなく、こっちの方が台湾、フィリピン、インドネシアからオーストラリア防衛も含めて天文学的に負担が増えるのです。こうした地政学的な理由で駐留米軍が多い国には他に、地中海のほぼ中央に位置して中東やアフリカ、そしてバルカン半島といった、戦略的に不安定な地域への軍事作戦における重要な兵站拠点としてのイタリアがあります。イタリアはNATO南側の防衛線の一部で、ロシアの影響力拡大を抑止する上でも不可欠な拠点なんですね。さらにバーレーンはペルシア湾岸という戦略的に重要な位置にあり、イランをはじめとする地域の脅威に対する防衛に不可欠な拠点となっていて駐留米軍の多い国です。バーレーンには、米海軍第5艦隊と海軍中央軍の司令部も置かれており、世界で最も重要な海上交通路のひとつペルシア湾を守っているのですね。日本に米軍が駐留するもうひとつの理由は「日米安全保障条約」に基づき、日本とアジア太平洋地域の平和と安全を維持するための「抑止力」を確保するためですね。日本の防衛義務を負う米国が、常に日本に軍を駐留させておくことで、有事の際に迅速に対応できる態勢を整え、侵略を未然に防ぐ役割を担っています。これには日本だけでなく、極東地域の安全維持のためにも施設、区域を使用することが安保条約で定められてるのですね。つまり在日米軍の駐留は、日米同盟の中核をなすものなんです。しかし何ですな、世界中が軍を撤廃して軍事費を他のことに使ったら、どんだけ素晴らしい地球ができるかって世界中大多数の人が思ってるのに現状はまことにもって残念ですね。現在、世界の21ヶ国(国連名簿の1/9)は常備軍を保有していません。1948年に軍隊を廃止したコスタリカは、軍事予算を教育や医療に回すことで福祉国家を実現し、「軍隊はいらない」という国民感情が強いことで知られています。
Oct 26, 2025
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先日、私のブログにmarnon1104さんが「昔、仙台から福島へ移り、家電が必要で不動産屋さんから電話の債権を苦労して買った事を「TOKYO 東京」の写真を見て思い出しました。50年近く前の話なのですけどね」とコメを残してくださいました。電話の債権、懐かしい名前ですね。1800年代以前に成人されてなかった方は全くご存知ないでしょうが、昔はNTTの前身の電電公社が電話回線拡充資金として加入者から強制的に借りた債券がありました。債権ですから、企業が借りる立場にあるのですが、これを昔は電話を引く人が強制的に設置費用とセットで購入させられてたのですね。まぁ、今の世代は固定電話そのものを設置してない方が多いので、NTTから徴収される費用なんてご存知ない方が大半でしょうけど。債権ですから「借用証書」が発行され、満期になると利子つきで返金可能です。ところが満期=自動返金ではなく、利用者が銀行で手続きしなくちゃなりません。この手続きを忘れてて時効になると換金できなくなるのですね。電信電話債券(加入者債券)が取り入れられたのは1953年(昭和28年)で、1983年(昭和58年)に終了しました。通常、債権の時効は10年なんですが、NTTが特例として2027年7月5日まで換金を受け付けているそうです。とは云っても、そんな昔の債権証書残して無い方が多いでしょう。公式なデータはありませんが、数十年にわたり放置されているものが多数存在してるそうです。しかし債権を強制的にって、なんだかNHKの受信料と同じで、民営化される前の事業主って利用者無視して有無を云わさずお金をまきあげることが多い。JRだって旧国鉄時代は駅員が威張りくさって利用客を乗せてやる感強かったし。いちど国鉄時代に窓口で切符買ったら、オツリを投げてよこして頭にきたことあります。今は役所でも利用者に丁寧で親切だし、これがアタリマエですよね。つきつめれば、みんなサービス業なんですから。「電話加入権」は電信電話債券と違って、今でも生きてます。NTTの電話回線を利用する権利で、新規設置時に支払う約4万円の費用のことを云います。設置費なので解約しても返金されませんが、光回線電話やフレッツ光のインターネット回線を使った電話が普及した今、ほとんどイミが無くなってますね。そもそもこの電話回線(メタル回線)は老朽化が激しく、2035年をメドに廃止にするらしい。うちもとっくにフレッツ光に切り替えました。しかし高齢者宅なんかではまだ引き続き使ってる方もいるでしょうが、これもガラケー(3G)が無くなったのと同じでいずれは対応しなくちゃならない。
Apr 29, 2026
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普段、じっくり見たことなかったけど、私の足指は左右とも親指がイチバン長くって、親指からだんだんに小指まで低くなっています。この足指タイプを「エジプト型」云います。この足指タイプは日本人では最も多い部類で、だいたい70%~80%の日本人はこのタイプらしい。親指が人差し指より長いので外側に傾きやすい特徴があり外反母趾になりやすいそうです。これ以外にローマ型とかスクエア型、ポリネシア型とも呼ばれる5本の指がほぼ同じ長さもあります。日本人で云えば、約5%がこのタイプです。均等に圧迫されるので、指の間に魚の目ができやすいみたいです。もうひとつ多いのが、ギリシャ型。足の人指し指が親指より長い形です。日本人は25%くらいがこのタイプ。人差し指が長いので余裕のある靴を選ばないと、指が曲がったまま硬直するハンマートゥになりやすい特徴があるようです。さらに人差し指が一番圧迫を受けるので、魚の目、たこができやすいのです。たとえば古代ギリシアで制作された女性像「ミロのヴィーナス」の足の人差し指は異様に長いのです。ちょっと長いとかじゃなく極端に長いのです。このような足は、"ギリシャ人の足"もしくは"モートンの爪先"と云われています。足裏のしびれ感や痛みで多く見られる「モートン病」の"モートン"ですな。パリのルーブル美術館でギリシア時代の彫刻を調べたところ、ギリシア時代の彫刻20数体のうちすべてが「第2趾が母趾よりも長い」造形だそうです。古代エジプトでは足指は親指から小指まで徐々に小さく描かれていました。すべてが正確に計算しつくされ、少なくともわたしたちの目には調和のとれた均一なスタイルに見えます。ところが長い時間をかけて理想のスタイルに変化が訪れたのです。古代ギリシア・ローマ芸術では長い第2指が理想とされました。それから1500年後、レオナルド・ダ・ヴィンチは、有名な「ウィトルウィウス的人体図」を描きましたが、これまた足の人差し指がイチバン長いです。先に述べたように、"ギリシャ人の足"を別名"モートンの爪先"と云ったダドリー・モートンはアメリカの整形外科医です。彼は「この隔世遺伝性中足は、色覚異常や尻尾、過剰乳頭などと似た先祖帰りの特徴で、簡単に木から木へ飛び移ることができた、わたしたちの先祖である先行人類はかつて皆もっていた」と述べてます。西洋美術史の多くの時代においては、理想的な足の標準でしたが、足病学者たちは、できれば靴や中敷きを調整してなるべく楽に歩けるようにすることを勧めています。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jul 11, 2017
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みなさんは黒澤明の傑作映画「七人の侍」をご覧になったでしょうか?この映画で三船敏郎扮する「菊千代」が所持しているバケモノみたいな「刀」でてきます。これは映画用の空想ではなく、「野太刀」と呼ばれる本物の刀ですね。野太刀は大太刀と呼ばれる「長大な刀」で、刀身の長さが三尺(約90cm)以上のものを指します。刀身の長さが90cm だったら、大したことないと思われるでしょうが、昔の日本人の平均的な身長が150cm ~165cm と比べると非常に大きい物であることがわかります。単に長大な刀でも、戦場で使うことを前提とした拵えをしてるものを野太刀と呼んでいたのですね。この刀はもともと騎馬武者が馬上から馬の走る勢いで斬る武器でした。長いリーチを生かして、相手方の攻撃を避けつつ、相手を落馬させたり、相手の馬の足を狙って馬をつぶすことを目的に作られました。そのため乗馬の時は片手で太刀を扱うことが基本の武具として発展しました。馬上で両手で太刀を構えたのでは手綱を握ることができず、馬を操ることができないからです。通常の太刀は柄の中程を握り、柄の一番端の部分に付けられた手貫緒(てぬきお)と呼ばれる紐を手首に通して刀の脱落防止としました。しかし、野太刀の場合は鍔元に近い部分を握り、手貫緒を肘の部分に通して締めます。拳と肘の二箇所で柄を保持し、刀の重さを支えるためです。刀を振る際は肘から先の前腕を一体として振り、通常の太刀のように手首を動かすことはしません。そんなことをしたら、刀の重さを支えられないばかりか、手首を痛めてしまうことになるからです。当時の騎馬武者を描いた絵図には、抜身の野太刀を握った手を肩の高さまで上げて刀身を肩に乗せているものが描かれていることがあります。これは一旦抜いた野太刀を保持し続けることは重量的な面で苦しいため、肩に乗せることで疲労と腕を痛めることを防ぐためだったのです。このように野太刀は本来、騎馬武者のために作られた刀でしたが、腕力を誇る武士が馬に乗らない白兵戦で使用する場合もありました。これが冒頭で述べた「菊千代」の使い方ですね。こうして地上で使われるものになるにしたがって、柄は両手で持って扱うことが容易なように長くなっていきました。こうして野太刀は「中巻野太刀」、やがて「長巻」へと発展してゆくのです。たとえ腕力と体力に溢れた者であっても、大太刀は非常に重く扱い辛いため、それまでの太刀の拵えと同じ形状の柄では扱いにくいものでした。そのため野太刀として使われるに従って柄は次第に長くなり、より振り回し易いように刀身の鍔元から中程の部分に太糸や革紐を巻き締めたものが作られるようになったのが中巻野太刀です。中巻野太刀は、小柄であったり非力であったりと野太刀を振るうことが難しい者でも用いることが出来る上、通常の刀よりも威力が大きく、振る、薙ぐ、突くと幅広く使えるために広く普及しました。「太閤記」では秀吉や信長が好んで使わせたとあります。これを発展させたのが「長巻」です。野太刀をわざわざ改良するのでなく、最初からある程度の長さを持った刀身に長さの同じもしくは多少長い柄を付けたものが長巻です。長巻はしばしば「薙刀」と同様のものと混同されますが、薙刀は長い柄の先に「斬る」ことに主眼を置いた刀身を持つ「長柄武器」。対する長巻は大太刀を振るい易くすることを目的に発展した「刀」で、まったく別物です。戦国時代には、朝倉氏や長尾上杉氏が「力士隊」と呼ばれる巨躯巨漢の者を集めた部隊を編成し、野太刀を持たせて戦わせたことが記録されています。朝倉氏の家臣である真柄直隆、真柄直澄の兄弟は、共に戦場で五尺三寸(約175cm)の野太刀を用いて奮戦し、両名ともに姉川の合戦で討ち取られたものの、その大太刀は「太郎太刀」「次郎太刀」の名で現在に伝えられています。画像は朝倉家の武将「真柄直隆」が使用した野太刀です。真柄直隆は姉川の戦いで奮戦するも、朝倉陣営の敗戦が濃厚になると味方を逃がすべく単騎で徳川軍に突入。12段構えの陣を8段まで突き進みました。しかし向坂三兄弟の攻撃を受け力尽き、「我頸を御家の誉れにせよ」と敵に首を献上して果てたと云う荒武者です。直隆の身長は2m を超え、体重250kg に達していたと云われています。なので175cm もの巨大な野太刀「太郎太刀」を振り回すことができたのだと(ほんまかいな?)野太刀は通常の場合、背負うか従者に持たせて携行していました。自らの手で運ぶ場合は、かなり長い大太刀を引き抜くことが可能でした。戦いの始まる前には邪魔になるので、鞘を捨てることもあったそうです。通常は従者が手で運びます。野太刀を引き抜く際には従者に鞘を持たせて、馬に乗った武者が引き抜くようです。長い刀と云うと、「巖流島の決闘」で武蔵と決闘して破れた佐々木小次郎の「物干し竿」が有名ですね。実は小次郎の物干し竿は「備前長船長光」と云う野太刀は野太刀でも、刃長3尺余(約1m)しかありません。しかも、この決闘時、武蔵は20代で小次郎は60歳近くだったと云われています。記録では赤穂浪士のひとり、堀部安兵衛が野太刀を持って吉良邸に討ち入ったとあります。しかし、これはヘンです。野太刀は本来、屋外で使うもので、家の中で振り回すものではありません。それに時代は将軍綱吉の時代で、戦国時代とは違い野太刀など簡単に手に入らないハズ。なにより戦国時代も末期になると、戦いの主流が徒歩の集団戦になり、長槍、打ち刀が主流で、野太刀は廃れていきました。なので、これは後の時代の戯作者が野太刀のことをよく知らないまま創作したのでしょうね。大隅の豪族、肝付氏は代々この野太刀を愛用していて、肝付家の家老であった薬丸氏が「野太刀流」と云う剣術を編み出しました。また、その影響からか薩摩島津氏の島津家久も、野太刀を愛用していたそうです。この「野太刀流」と薩摩の「示現流」をミックスさせた物が、幕末に薩摩の剣客が学んだ「野太刀自顕流」です。
Dec 11, 2017
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私が香港に行ったのは、1993年に取り壊された「九龍城砦」がまだ存在してたときですから、もうずいぶん以前のことになります。その後、1回だけ会社の社員旅行で香港に行きましたが、そのときは意識してなかったので、覚えていない。国内旅行と変わらない時間で行ける香港ですが、それ以来、1度も訪れていないんですね。九龍城砦の取り壊された1993年と云うと、平成5年ですか。今の天皇がご成婚された年ですね。この頃は九龍のヴィクトリア・ハーバーに面した九龍城区にある啓徳空港が香港の国際空港でした。啓徳空港はそれ以前、香港を租借地にしていたイギリスの空軍基地でもありました。と、云うより「世界一着陸の難しい空港」の表現の方が有名ですね。私も初めて香港に行ったとき、ヒヤヒヤしながら機外の景色を眺めていました。九龍城砦と云うのは、要するにスラムのビルです。ビルと云っても、最初に3階建てのマンションがつくられて、それに幾つものビルがよりかかったような形で、各棟の建物の高さや階数が違い、しかもビルの中に清が建てた煉瓦造りの建物も残っていると云う、なんとも摩訶不思議な建物なんですな。建物内にはエレベーターがたった2基しかなく、また建築に関する法律は高さ制限以外一切無視され無謀な増築が繰り返されたのです。当然のことながら防災といった観念は一切考えられていなかったため、建物が折り重なり、日の光が一日中入らない部屋や窓のない部屋が普通でした。天井を連なる水道管や電線もカオス状に広がっていたのです。ちょうどインドや東南アジアで見かける、屋外の電線の処理が屋内でも行われていたようなものです。しかも、九龍城砦の住人はほとんど電気代を払っていません。近くの電柱から勝手に引いたいわゆる"盗電"と呼ばれるものです。その引き込んだ電線を、また幾本も枝分かれさせて分岐しているのですから、タコ足配線なんてものぢゃない。青空の見える唯一の場所であった九龍城砦の屋上からは、周囲に高い建物が無かったため香港島の超高層ビル群やヴィクトリア湾が一望できたそうです。もちろん数10m 頭上には啓徳空港へ離着陸する巨大な旅客機が絶えず通過していました。九龍城砦はカオスのニオイがプンプンで、アニメーション映画「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」のシーンに使われたり、 ハリソン・フォードが主演した歴史的なSF映画「ブレードランナー」では、遠景こそ東京で撮影してますが、街の雰囲気はこの街を参考にしたそうです。ジャン=クロード・ヴァン・ダム主演デビュー作の映画「ブラッド・スポーツ」では、実際に九龍城砦内で撮影がおこなわれています。なぜ、こんな無法地帯ができたかと云うと、1898にイギリスが清朝から香港島や九龍に隣接する新界、及びランタオ島をはじめとする香港周辺200余りの島嶼部を99年間租借したことから始まります。九龍城砦は新界地区に所在していたのですが、例外として租借地から除外され清の飛び地となっていたのです。後にイギリスの圧力で清軍、官吏等が排除されてしまい、以後中華人民共和国となって以降も、事実上どこの国の法も及ばない不管理地帯となったのですね。とくに1940年代の中国内戦と、中華人民共和国樹立により、香港政庁の力が及ばないこの場所に中国大陸からの流民がなだれ込みバラックを建設、その後スラム街として肥大化していきました。とりわけ毛沢東による文化大革命の開始により、これを逃れる難民で人口流入は更に激しくなっていたそうです。九龍城砦が取り壊される直前の1990年代初頭には、0.026km2(約200m×120~150m )の僅かな土地に、5万人もの人々がひしめき合って暮らしていました。人口密度は約190万人/km2 と世界で最も高い地区だったのです。これは畳1枚に対して3人分の計算です。行政権が及ばなかったために売春や薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法」地帯を意味する「三不管」の地域と呼ばれてました。そのため、イギリス領である香港領内での認可を受けておらず、中華民国と中華人民共和国のみで通用する免許で開業した歯科医院や海賊版の出版物の出版、コピー商品の製造、麻薬の取り引きなどが半ば公然と行われていたのです。また衛生法上、とても認可できない環境下での点心製造などがありましたが、最盛期には香港のホテルや飲食店で使われた点心のかなりの割合を請け負っていたそうです。私が旅行で香港に行ったときも、危険だから近寄らないようにと注意され、車で通り過ぎただけでした。しかし日本では1980年代に九龍城砦がカルト的な伝説化して、中には観光バスで乗り付け、内部を探索するというツアーまで登場したそうです。日に2t にもなる廃棄物の収集は香港政庁が実施しました。香港政庁はゴミ箱をいたるところに設置していましたが、スペースがあるとそこにゴミを廃棄する習慣があって、ゴミよけのビニールシートを天井に貼り付ける者もいました。下水道は1970年代に香港政庁が導入しましたが、それまでは通路に作られた排水溝に廃棄されていたため、井戸水が汚染され水の供給、衛生面で問題を起こしていたようです。九龍城砦は1933年~1994年にかけて取り壊し工事が行われ、サッカー場やバスケットボールコート、マウンテンバイクの走行コースなどが設置された賈炳達道公園になりました。同時期に建設されたショッピングセンターの九龍城廣場に隣接する形で、九龍寨城公園も造成されました。取り壊しが行われる前後にはかなりの数の日本のマスコミも取材に訪れたばかりか、立ち退きで最後まで内部にいたのは日本のTVクルーだったそうです。しかし、香港には他にも九龍城砦と似た建物があります。1960年代に完成した香港の九龍、尖沙咀地区にある高層ビル「重慶大厦」です。ここは九龍城砦と違って、欧米人のヒッピーが利用するゲストハウスやホテルなどの宿泊施設が多いことで知られている他、ショッピングセンターやインド系レストラン、両替所などが軒を連ねる雑居ビルでもあります。香港政庁からは九龍城砦の取り壊しと同時期に建物の改装を強いられましたが、2017年時点でも1階エントランスの改装や館内の防犯カメラ設置程度しか行われていません。建設当初から計画された建物であるので九龍城砦と比べれば相当整備された施設ではありますが、構造が複雑なため防災が行き届いていない箇所が散在しているそうです。広東省広州市北部にある旧市街地「三元里」も同様に一般の中国人すら滅多に足を踏み入れないスラム街があります。阿片戦争時、広州へ攻め入るイギリスに抵抗する民衆がこの地から立ち上がったことで、中国ではかつての反英運動の地として知られているのですが、反面、市街の過密に集合した住居群や不安定な治安状況、また近接する旧広州白雲国際空港の存在など、九龍城砦の環境と酷似しているのですな。ここには、どう云うワケかアフリカ系の男を多く見かけます。瑶台西路という通りでは、英語の看板を出すアフリカ人向け食堂が何軒もあるし、路上では十数人のアフリカ人が昼間から青島ビールを飲んで騒いでたりします。これは中国に服を買い付けに来たナイジェリアの商人たちです。中国で買い付けた100元(約1,700円)の衣服をナイジェリアで売れば、7,000ナイラ(約2,500円)になるからです。そこで中国でも、とびきり物価の安い三元里で寝泊まりして、約2ヶ月ぐらいを買い付けにあてるのです。常時、100人ぐらいのイボ族のナイジェリア人がたむろしています。
May 24, 2019
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ヨハネス・ヘヴェリウス。17世紀、ポーランドの天文学者にして、月の地形学の創始者。ヘヴェリウスと云えば「ヘヴェリウスの空気望遠鏡」。この望遠鏡、あまりに巨大だったので、風や震動の影響を受けやすく、観測は巧く行かなかったようです。しかし、1682年に到来したハレー彗星の観測では成果を挙げています。お月さまと云うのは、実際に見えてる形とは別に、私たちの心像風景みたいなものがありますね。いわゆる、日本だったら"ウサギ"の形みたいな。16世紀の天文学者"ガリレオ・ガリレイ"の観測した月の表情が下図です。ガリレオは望遠鏡をもっとも早くから取り入れたひとりですが、彼が月面を観測した望遠鏡は倍率20倍のものです。そして月面に凹凸(クレーター)があることを発見し、黒い部分(ガリレオはそこを海と考えました)があることも発見したのです。世界初のSF映画は、1902年にジュール・ヴェルヌの小説をもとに制作されたジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」と云われています。まだトーキーがなく、無声映画の時代。この映画では、大砲から発射された宇宙船での月旅行を描いていますが、まだまだ心像風景の延長で好感がもてます。月の裏側の様子を人類初めて撮影したのは、1959年に打ち上げられたソ連の無人月探査機「ルナ3号」です。この探査機には「イェニセイ-2」と呼ばれる、フィルムカメラ、自動現像装置、スキャナのセットが積み込まれていました。人工衛星の中で現像までしていたのです。日食は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間で合計224回観測されるとされています。ところが月食は多くの場合1年間に3回起こる年もありますが、だいたい2回起こるか起こらない年がほとんど。21世紀の100年間では合計142回と日食より大幅に回数が少ないのです。その代り日食と違って、月が見える場所だったら、地球上のどこからでも同時に観測することができます。月は毎年、約3cm ほど地球から離れ続けています。月ができた当初は、22,000km 離れていましたが、今では400,000km も離れています。この原因は、地球と月の間の潮汐摩擦の影響で、地球の自転が遅くなることが原因です。
Sep 7, 2019
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サスガの私もこの映画はリアムタイムで観てません。吉永小百合が主演してブルーリボン主演女優賞を受賞した「キューポラのある街」。1962年(昭和37年)公開です。吉永は1945年生まれですから、このとき、まだ17歳だったのですね。共演の浜田光夫も若かったし、小沢正一や殿山泰司、はては菅井きん まで矍鑠としてます。驚いたことに、若い女工役で吉行和子が出演している。この人も女優歴長いんですね。タイトルの「キューポラ」と云うのはコークスの燃焼熱を利用して鉄を溶かし鋳物製造のために液体になった鉄を得るための溶解炉のことです。埼玉県の川口市、とりわけ南部地域に江戸時代から続く鋳物工場があって、最盛期にはキューポラの煙突が林立した鋳物の街でした。全盛を極めたころはとりわけ「だるまストーブ(石炭ストーブ)」の生産が盛んでしたが、今では鋳物工場の数も激減してしまいました。映画の冒頭に「文部省選定」「児童福祉審議会推薦」「日本PTA全国協議会推薦」「主婦連合推薦」「東京都教育委員会選定」「全国勤労者文化協会推薦」と云う文字がズラッと並びます。物語は鋳物の街、川口市を舞台にした青春ドラマ。主人公ジュン(吉永小百合)は中学3年生。高校進学を目指していましたが、父 辰五郎(東野英治郎)が工場を解雇されたため、家計はたちまち火の車。修学旅行に行くことさえも諦めえないハメに。自力で高校の入学費用を貯めようと、パチンコ屋でアルバイトを始めるジュン。担任教師(加藤武)の助力で修学旅行にも行けることに。ところが、ようやく再就職した父親ときたら、待遇不満で仕事を辞めてしまったのです。全日制の高校進学を取りやめて、就職を決断するジュン。ジュンは、自立して働きながら定時制高等学校で学び続けると云うストーリーです。映画「キューポラのある街」予告編で、この「キューポラのある街」のシーンに、北朝鮮への帰還問題で苦悩する在日朝鮮人の一家が描かれてます。児童文学作家 早船ちよの原作にも在日朝鮮人の北朝鮮帰国運動を肯定的に描いているのです。そして続編となる「未成年 続・キューポラのある街」(1965年)では、日本に残った在日朝鮮人の日本人妻をジュンが説得して北朝鮮に渡らせるストーリーまで加えられています。ど~も北朝鮮や韓国のことを取り上げると、多分に政治的なことになりがちですが、私のブログはそんな意図は全くありませんので、史実のみの記述にとどめますね。映画が公開された1962年と云うのは、アメリカのケネディ大統領がキューバ海上封鎖を表明して、世界戦争直前までいった「キューバ危機」のあった年です。世の中は東と西の覇権争いで最も揺れ動いた時代。この前後、1950年代~1984年にかけて日本では、在日朝鮮人とその家族の北朝鮮への集団的な永住帰国あるいは移住が頻繁におこなわれたのです。その背景には韓国との関係がありました。当時の韓国大統領"李承晩"は日本にいた在日朝鮮人の受け入れを拒否。韓国は朝鮮戦争による荒廃からの復興が立ち遅れており、かつ農村部を中心に過剰な人口を抱えていたため、在日朝鮮人の受け入れに消極的だったのです。それどころか1952年には「李承晩ライン」を宣言します。李承晩ラインは韓国が国際法を無視して勝手に決めた"海洋境界線"のことで、アメリカは韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告しましたが、韓国政府はこれを無視。韓国による「竹島」の占拠もこれが根拠になっているのです。日韓基本条約が結ばれるまでの13年間に、日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3,929人、死傷者は44人を数えました。李承晩が云った言葉が、当時の韓国の流行語になりました。「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」このように、日本と韓国の関係は今の状況に輪をかけて悪かったのです。日韓基本条約が結ばれて日本と韓国が国交を開始したのは1965年(昭和40年)になってからです。このように在日朝鮮人の受け入れを拒否する韓国政府と対照的に、日本にいる同胞を資金や技術源に使えると判断した北朝鮮の金日成は積極的に在日同胞に関与し、朝鮮学校の設立を推進していくのです。つまり韓国と対照的に接することで、同胞世論の多数派を北朝鮮支持へと誘導することを画策したのですが、これがみごとに成功したのですね。今でも国内に朝鮮学校(北寄り)はたくさん有るのに、韓国学校が少ない背景には、李承晩による、在日朝鮮人帰国反対と民族主義支持という矛盾した対在日同胞対策があったからです。逆に北朝鮮は朝鮮学校に資金提供する代わりに民族主義として北朝鮮支持教育をさせ、北朝鮮や朝鮮総連を支持する者が更に増加していったのです。日本政府は韓国に対し引き続き「帰国費用を負担するから希望者を帰国させてやりたい」と相談しましたが、韓国はその後も民団に指示し、日本居留という名の帰国させない姿勢を取り続けました。しかし、対立する立場にあった北朝鮮は、在日同胞の有用性に気づき、敢えて‟順次”受け入れ方式を日本側に提案してきたのです。こうして、北朝鮮はまだ帰国していない親族に対し帰国した者を人質に取って、金銭や技術を北朝鮮へ送らせたり、対韓、対日スパイをさせたりすることに成功していくのです。しかも当時は朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞などが率先して、帰還事業を歓迎しています。当時は、北朝鮮の実情について現地取材に乏しく、ソ連の援助もあって急成長する北朝鮮と云うイメージが強かったためです。北朝鮮の実情が分かっていれば、在日朝鮮人の帰還事業なんて一笑に付されてたハズです。日本と北朝鮮には国交がなかったため、帰還事業にまつわる実務は、日本赤十字社(日赤)と朝鮮赤十字会(朝赤)の日朝両国の赤十字社によって行われました。1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航したのを皮切りに、帰国事業は、1984年まで続いたのです。この事業で93,340人が北朝鮮へ渡航し、そのうち少なくとも6,839人は日本人妻や被保護者といった日本国籍保持者でした。しかも在日朝鮮人には日本から地理的に近い朝鮮半島南部の出身者が多く、要するに韓国出身者です。彼らにとっては、祖国ではありますが、実質的には異郷への帰還となってしまったのです。帰国船の費用は北朝鮮政府が負担し、事業の後期には万景峰号(初代)も使われています。日朝間を頻繁に往来する帰国船は、北朝鮮から朝鮮総連への指導、連絡をはじめ、日本、韓国への工作員送り込みといった諜報活動に利用されました。この帰国事業に対して、韓国政府は驚くべき事件を起こしています。まだ日韓で国交が樹立してなかった1959年、韓国政府は在日義勇兵41人の他に、韓国軍予備役将校、韓国警察試験合格者24名からなる北韓送還阻止工作員を結成して、日本への密入国を決行します。彼らの目的は帰国事業を推進していた、新潟日赤センターを爆破しようと云う算段だったのです。これには在日韓国領事館の3等書記官まで関与していました。結局、新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名を警視庁外事課が取り調べて、事件発生前に防ぐことができました。警視庁の外事課が出張ってくると云うのは、事前に情報をキッチしていたのでしょうね。工作員の鞄の中からは雷管を装填した4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1リットル缶4本を隠したウィスキー箱も発見されてます。まさに韓国政府が行おうとした暗殺、爆破テロ未遂事件だったのです。今と真逆で、当時は「テロ国家の韓国」というイメージが強くありました。北朝鮮が高度に閉ざされた体制をとっており、自由な往来が不可能であること、領域内において外国人の自由な活動を許していないこと、北朝鮮の文書資料の入手が困難であることから、北朝鮮への帰還者たちがどのように処遇されたかは脱北者などの証言からしか把握できていません。脱北者の証言では北朝鮮における身分制度である出身成分では最下層に分類され、また「動揺階層」として差別されたとか。農村に配置された帰還者が、自らにあてがわれた住居を「お世辞にも立派な代物とは云えなかった」と評している手記もあります。帰還者は妬みと差別の意味を込めて「帰胞」(帰国同胞)と呼ばれ、潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれたとも。脱北者の証言ですから、どこまで真実か分かりませんが、ビートたけしの主演した映画「血と骨」でも、冷徹な高利貸しで大儲けしたビートたけしが、全財産持って北朝鮮に帰還したら、その財産を根こそぎ没収されて、粗末な小屋で孤独死する姿が描かれてました。血と骨は、梁石日(ヤン・ソギル)の実父をモデルに描いています。「北朝鮮は地上の楽園」などという朝鮮総連の嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられた在日朝鮮人の人たち。大鶴義丹の母親で、唐十郎の妻だった在日韓国人2世の李 麗仙は「朝鮮日報」のインタビューの質問にこう答えています。「あなたはどの国の人なのか?」「ハングクサラム(韓国人)」と答え、「国籍は日本。日本で生まれ育ったので、韓国で暮らすのは難しい。保険の恩恵を受けようと思ったら日本で生活しなければならない」。「でも、心までは日本に渡していない」。「血とはそういうもの」であると。
Dec 18, 2019
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高層ビルを上り下りするのに無くてはならないエレベーター。このエレベーターを開発するとき、テストでは実際のビルと同じ高さの建設物が必要となそうです。それでエレベーター会社各社はテスト塔とよばれる高い建設物を作り、製品の安全性、機能性などをテストしているそうな。それぢゃあドバイにある世界一高いタワー「ブルジュ・ハリファ」なんて、実際にテスト塔を作ったのでしょうか?高さ828m ですよ~ブルジュ・ハリファでなくても、東京スカイツリーの600m でさえ不可能なような。そしたら東京スカイツリーのエレベーターテスト塔は高さ135m で試験したそうです。これでも40階建てのビルと同じ高さなんですね。こんな高層ビルですから、エレベータの速度も重要ですよね。ブルジュ・ハリファのエレベータを手がけたのは、世界最大のアメリカのエレベータ会社「オーチス」です。しかし、このビルのエレベータ速度は世界第3位なんです。同じ3位だったら、東京スカイツリー やサンシャイン60もほぼ同じ速度です。東京スカイツリーは東芝製、サンシャイン60は三菱電機製です。日本でイチバン速度が速いエレベータは横浜ランドマークタワーで世界第2位。三菱電機製です。そして世界で最も早いエレベータは、台湾の台北101です。私もこのビルの展望台まで登ったことありましたが、確かに速い。そしてものすごく静か。ここのエレベータは東芝製です。エレベーターそのものは紀元前から存在し、古代ギリシアのアルキメデスがロープと滑車で操作するものを開発していました。ローマ皇帝ネロは、宮殿内に設置した人力エレベーターを使用していましたし、コロッセオには剣闘士と戦うライオンなど猛獣を闘技場まで運ぶ人力エレベーターがあったそうです。中世ヨーロッパでも、滑車を用いた巻上機がありました。17世紀に入ると、人荷を吊り上げる箱の対極につけるバランス用のおもり(カウンターウェイト)を用いたものが発明されてます。19世紀初頭には、水圧を利用したエレベーターがヨーロッパに登場し、工場などで使用されました。1835年に蒸気機関を動力として利用したものがイギリスに現れ、1840年代にはアメリカの工場やホテルでも導入が広がっていきます。「エレベータ」と云う名前を考案したのは、こんにち世界最大のエレベータ会社として君臨する「オーチス・エレベータ」の創業者エリシャ・オーチスです。彼は1852年、逆転止め歯形による落下防止装置を発明し、1853年のニューヨーク万博で発表しました。オーチスが来場客の面前で、吊り上げたエレベータの綱を切ってみせると、エレベータは数インチ落下しただけで止まったのです。この発明により、エレベータは初めて実用的なものになりました。 1870年にはニューヨークのエクイタブル生命ビルが旅客用エレベータを設置した世界初のオフィスビルとして建設されます。1880年にドイツのヴェルナー・フォン・ジーメンスが、それまでの蒸気機関ではなく、世界初の電動式エレベータを開発します。続いて オーチス・エレベータも1889年、に電動式エレベータを開発し、ニューヨークのビルに初めて採用されます。これ以降、ニューヨークの摩天楼化に拍車がかかっていくのです。日本における最初のエレベータは1875年(明治8年)に王子製紙 十条工場に設置された水圧式の荷物用エレベータです。これを契機に荷物の昇降用として、蒸気機関や水圧式のエレベータが日本で使われ始めました。1890年(明治23年)東京浅草の凌雲閣、通称「浅草十二階」に藤岡市助が設計した日本初の直流電動機式のエレベータが設置されてます。エレベータは地階に据え付けた7.5馬力のモーター1基に対し、M字状にロープで連結したかご2機を同時に運転し、1階か8階だけに止る独自の構造をしていました。8階から上は螺旋階段で登るようになっていて、9階は新聞の閲覧室、10階は上等休憩室、11と12階は展望室で見料1銭の望遠鏡が備えられていました。9.11のテロで崩壊したワールドトレードセンターが竣工するまで、世界一の高さを誇ったビル「エンパイア・ステート・ビルディング」。実は、このビルは1945年に飛行機が突っ込んでいるのです。それも味方の飛行機が。濃い霧の中をニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港に着陸しようとしたアメリカ陸軍の中型爆撃機B-25が、79階の北側に衝突して機体が本ビル内に突入してしまいました。衝突時の衝撃で機体から脱落したエンジンが破壊したエレベータ扉と同シャフトを経て、火災が80階へ延焼しましたが、約40分後に消火されてます。しかし、このときエレベータ2機のケーブルが切断されてしまいました。エレベータ1基には女性1人が乗ってたものの、幸い落下したケーブル1,000フィート(304.8m )が底の方にとぐろ巻きになって衝撃を吸収してくれたお陰で命に別状がなかったのですね。近年になっても、エンパイア・ステート・ビル内で勤務する2人の女性が乗ったエレベータが44階から突然落下と云う事故があります。このときは安全装置が作動して4階付近でようやく停止しましたが、それでも40階分(約120m )も落ちたそうです。事故は、エレベータの箱の重さを調整するケーブルが切れたため起きたのです。私もニューヨークに行ったときエンパイア・ステート・ビルの展望台まで登りましたが、そのエレベータのものスゴイ揺れと騒音は忘れられません。あんなに恐ろしい経験をしたのも珍しいです。日本のエレベータのように、全く揺れず音もしないのとは真逆。概してアメリカの古いエレベータはみんなこんなです。日立製作所が2006年に発表した「循環式マルチカーエレベータ」は非常にユニークな構造で、人が乗るための「かご」が最上階に到達すると、クルっと横に反転して、こんどは下に向かって下りて行きます。つまり従来のエレベータで云うと、扉2つ分を登りと下りで占有する構造なんですね。だから登りの入口は登り専用、隣の入口は下り専用となるワケです。この構造の方が複数台エレベータを設置するより設置台数が少なくできるのと、登り下りが最初から決まっているので効率がいいそうです。ところが日立方式と云うのは、チェコやデンマーク、スゥエーデンなどには100年以上も前から有るエレベータ方式なんですね。これを「パーテルノステル」と云います。いわゆる「循環式エレベータ」で、1~2人用の小さな乗用かごが常に循環していて、乗り降り口とかごに扉がなく、自由に乗り降りできるエレベータです。これって危ないと思いません?だって扉がないのですから、挟まれるのは自己責任と云うことになります。日立の循環式マルチカーエレベータはと~ぜん扉がありますし、降りたい階のボタンを押せば、ちゃんとその階で止まります。ところがパーテルノステルはずっと動き続けて止まらないので、乗降客は自分の意思で必要な階を通過するときに飛び降りなければならないのです。実際、ときどき事故が起こっているようですが、この辺の国はとてつもなく古いビルが多数存在するので全廃にはなってないんですね。サスガに新しいビルでは普通のエレベータらしいです。ほとんど観覧車の発想ですね。このパーテルノステルで乗降してる動画があります。The Ups And Downs Of Prague's Paternostersみなさんは2012年の映画「トータル・リコール」をご覧になりましたか?この映画でコリン・ファレル演ずる主役とジェシカ・ビール演ずるヒロインが、ケイト・ベッキンセイル演ずる殺し屋に追いかけられるシーンがあります。追われ追われて逃げてきたのがエレベータ。しかし、それは私たちが知っているエレベータなどではなく、上下左右、縦横に移動するエレベータなんです。これが現実のものとなろうとしてます。エレベータでヨーロッパ最大シェアのティッセンクルップが発表した次世代エレベータ「MULTI」は、なんと従来のエレベータのような垂直移動だけでなく水平移動が可能なエレベータなんです。しかもロープレス!ロープを無くすことができたのは、マグレブ(磁気浮上)型であるためです。これはリニアモーターカーと同じ原理なんです。エレベータに乗った人が行きたい階の場所を指定すると、ソフトウエアが他のキャビンの混雑情報をもとに最短ルートを計算して動くため、常に複数のキャビンが連携し無駄が出ません。これにより例えば鉄道駅と建物を結びつけるなど建物内、建物間移動の概念を変えることができます。最初のMULTIエレベータは2019年に着工した、ベルリンのオフィスビル「エッジイーストサイドタワーベルリン」に登場すると情報がありますが、エッジイーストサイドタワー自体の経過情報がでてないので、ど~なってるか判然としません。MULTIエレベータの説明動画thyssenkrupp Elevator MULTI now reality – world’s first rope-less elevator for high-rise buildings
Nov 9, 2020
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映画で男女間のドロドロした関係を描いた作品と云うのは、私のもっともニガテとする分野なんですが、2018年に封切られた邦画「神と人との間」はまさにそんな作品らしい。この作品のモデルになった実話は文豪 谷崎潤一郎と、谷崎の親友で同じく文豪の佐藤春夫、そして谷崎の妻 千代子との三角関係のことです。谷崎は元々は芸者で、気性の激しい初と云う女性と結婚したかったのですが叶わなかったのですね。そこで紹介された初の妹、石川千代子と結婚したのが1915年(大正4年)、谷崎 29歳のときです。谷崎が望んだのは、初に感じた妖しい魅力でしたが、千代子はごく家庭的で平穏な生活を望む女性でした。ところが1921年ごろ、谷崎は千代子の妹で芸者の せい子に惹かれ、千代子夫人とは不仲になっていくのですね。当時、せい子はまだ10代でしたが、ハリウッド女優のような美しさだったらしい。このせい子が、谷崎の作品「痴人の愛」のモデルです。谷崎の親友、佐藤春夫は千代子の境遇に同情してましたが、同情がしだいに愛情に変わり、好意をよせるようになるのです。そうして三角関係が生まれました。佐藤春夫と千代子の関係に気づいた谷崎は、千代子を佐藤に譲ることにしたのですね。それは、せい子の存在があったからです。当時、谷崎35歳で、せい子15歳。谷崎は大正活映の脚本顧問となり、せい子を女優として売り出すまでするんですね。谷崎が意気揚々と、せい子に求婚したところ「え?おじさん、なに云うてんの?」あっさりフラれてしまうんです。それで、谷崎は「せい子にフラれたから、やっぱ奥さん返して」と云い出したから、佐藤春夫は激怒!絶縁状態になっしまったと云うのが「小田原事件」。実は、千代子をめぐっては、もうひとり男が関与したのですね。1926年(大正15年/昭和元年)に、和田六郎と云う青年が押しかけ弟子として谷崎の家に居候をするようになります。この青年が千代子に夢中になり、谷崎もその愛を認めて千代子と結婚させようとまでしたのです。谷崎の小説「蓼食ふ蟲」は、和田と千代子の恋愛関係をテーマにした作品でした。千代子は和田の子を妊娠して、堕胎したこともあったのですが、結局2人の恋は成就しませんでした。和田が姿をくらました後、谷崎は改めて千代子を佐藤(春夫)に譲渡する気になるのです。ふたりは小田原事件後長く絶交状態にありましたが、このころは仲直りしてたのですね。佐藤は千代子と和田の関係も知っていましたが、それでも千代子を受け入れてます。よほど惚れていたのでしょう。このとき、3人連名で、「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り...取あえず寸楮を以て、御通知申し上げ候」との声明文を発表したことで「細君譲渡事件」として新聞などで大々的に取り上げられ、世の話題になりました。このとき佐藤39歳、千代子35歳。谷崎との間にできた鮎子も同時に谷崎の元を離れて千代子と一緒に佐藤に入籍します。しかし「細君譲渡事件」が世間のスキャンダルになって、乱れた家庭の子供として鮎子は女学校を退学させられるのですね。それでも谷崎の娘に対する愛情は変わらず、小遣いや学費など養育費を終生送り続けています。いっぽう佐藤と千代子との間に生まれた佐藤方哉は慶應義塾を出たあと、心理学者になり、後に帝京大学の教授を経て神奈川県の星槎(せいさ)大学の学長まで努めます。2010年8月23日午後8時35分頃、京王線新宿駅のホームで、42歳のアルバイト男性が電車待ちの列にぶつかりました。先頭にいた方哉は押し出され、八王子駅発新宿行き準急電車と接触。電車とホームの間に挟まれ、搬送先の病院で死去してしまうのです。一方、谷崎はと云うと、ノーベル文学賞候補に選ばれること7回、日本人で初めて米国文学芸術アカデミー名誉会員に選出され「大谷崎」と呼ばれた作家ですが、私生活は自堕落そのもので、1931年(昭和6年)21歳も年下の婦人記者 古川丁未子(とみこ)と再婚します。それが佐藤と千代子が結婚した年なんです。丁未子は断髪が似合うモダンガールでした。谷崎作品「猫と庄造と二人のをんな」や「蘆刈」のモデルになっているので、出版関係の間ではかなり知られた存在でした。「僕は初めてほんとうの夫婦生活というものを知った。精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云うものの有り難味が45歳の今日になって漸く僕に分かった」と谷崎が述べてます。ところが結婚して2年後の1933年(昭和8年)には別居し、その翌年には離婚してしまいます。離婚して間もなく、丁未子は若い文芸春秋の編集員、鷲尾洋三と再婚しています。そして谷崎が亡くなってから4年後の1969年(昭和44年)に亡くなっています。この次に現れるのが、有名な3番目の妻で小説「細雪」の幸子のモデルになった松子です。実は「細君譲渡事件」がおこった前後から、谷崎の心をとらえていたのは松子だったのです。それが、なぜか一旦 古川丁未子と結婚するのですね。このころ松子は大阪の豪商の奥さんで、要するに不倫です。あげくのハテに谷崎は松子の前夫との間の長男の嫁(ややこしい)の千萬子にまで云い寄るありさま。結局、谷崎は丁未子と離婚し、やがて松子と同棲を始めるようになります。彼らが正式に結婚するのは1935年(昭和10年)、谷崎は48歳になっていました。
Aug 17, 2021
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PCは云ってみれば「電卓」のオバケみたいなものですが、動作原理に違いはありません。その電卓以前は云うと、歯車を使った「機械式計算機」でした。私も若いころ「電気機械式計算機」を使った経験ありますが、たいそうなガタイの割にできるのは足し算、引き算、掛け算、割り算の四則計算のみ。今みたいに手のひらにスッポリ入る電卓と比べようもありません。その機械式計算機を最初に作ったのは17世紀フランスの哲学者パスカルです。あの有名な「人間は考える葦である」のパスカルです。彼が19歳の1643年に作った「パスカリーヌ」が現存する最古の機械式計算機なんです。パスカリーヌは歯車を回して四則計算を行うことができました。パスカルがなぜ計算機開発に着手したかと云うと、父親のためでした。パスカルの父エティエンヌは税金計算する仕事についてました。しかし父親の仕事は膨大で、計算版を使って税額を計算するため夜遅くまで起きていることが多かったのです。それがパスカルに計算機づくりを決意させるきっかけになったのですね。ところがパスカルはパスカリーヌの使用法を「操作法は文章にしても誰もわからないから書かない」と遺言状に残して他界してしまったのですね。計算機だけど使い方のわからない計算機。ただの金属製の箱でんがな。だいたい当時のフランスの通貨は十進系ではなく、1リーブル=1/6~1/3エキュ(銀貨)=1/10~1/20ルイ・ドール(金貨)と複雑で、それに対してパスカルのパスカリーヌは十進法。金額の計算にパスカリーヌを使おうとすると、計算結果を更に変換する必要があったのです。パスカリーヌの各ダイヤルは数値のうちの1桁に対応し、計算結果は上部の窓に表示されます。歯車は一方向にしか回らないため、負の値を直接計算することはできません。減算をするには、9の補数表現にして加算する必要がありました。このため使用者に便利なよう数字が見える部分下側が通常の表示、上側が補数の表示になっており、蓋状の目隠しをスライドしてどちらかのみが見えるようになっています。現代になって多くの学者がパスカリーヌの使用法を研究しました。日本では東京理科大学経営情報学科教授の内山昭が使用法を解明してます。円筒の表面には2列の数字が刻まれており、上側が9の補数になります。たとえば上の数字が1なら、下の数字は「9-1」で8です。プレートを使用すると、減算中は上の列の数字が表示され、加算中は下の列が表示されます。数字のセットは下図②のスポークの間にスタイラスをセットし、針が止まるまでホイールを回転させることで可能です。足し算はカンタンなんですが、問題は引き算です。単に操作するだけでなく、オツムの回転も必要になります。例えば「182-93」を計算するとしましょう。パスカリーヌの設定を全部「0」にします(ここは足し算でも同様)。下の窓に「000」が表示されると云うことは、上の窓には「999」が表示されます。次に被減数が「9」の補数として入力します。つまり、一桁のホイールが「7」に、十の位のホイールが「1」に、百の位のホイールが「8」に回転させます (補数182の9の補数は817)。上の行の数字は実際には降順に移動されるため、「999-817」の減算を行い、結果は「182」になります。次に、減数「93」を入力して「182-93」の減算を行います。なんともややこしいですね。引き算だけでも私はアウト!これが掛け算になると、パスカリーヌだけでは計算できなくて、乗算表なるもので被乗数の単位を2分割するところから始まると云うから、普通に手で計算した方が早そう。これでは計算方法が解明されても、凡人にはやはり「計算できない計算機」。最初期の計算機ですから仕方ありませんが、それよりこれをパスカルは19歳のときに考えついたと云うのが脅威ですね。彼のパスカリーヌは、他の発明家に影響を与え、後の計算機器開発に貢献しました。
Nov 5, 2023
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同じ哺乳類でも種別が違うと身体の構造も違ってきますね。例えば同じゾウなのに、アジアゾウはアフリカゾウに比べると耳が小さいですね。牙もアフリカゾウの方が立派。その代わりアジアゾウの鼻には、上部分に突起があり、これにより鼻に巻きつけて持つのが得意です。またアジアゾウは人に慣れやすく温厚な性格してますが、アフリカ象は気性が荒くて人に慣れにくいところがありますね。総じてアフリカゾウの方がアジアゾウより大きいです。こさら左様に生き物は十人十色。それは脳と云った体の内部まで。人間の脳には約860億個のニューロン (神経細胞)が含まれています。脳の波紋と襞は、私たちのすべての行動、感情、本能の源ですね。ところがウニやナマコ、クラゲのように脳をまったく持たない生き物もいるからオモシロイ。あの可愛すぎるコアラの脳はど~でしょう。コアラのご飯はご存知の通りユーカリ。ユーカリの葉には青酸配糖体という毒素成分を含んでいます。この有毒成分は青梅にも含まれているもので、誤飲すると喘息の悪化や食あたりを起こす可能性があります。コアラの消化系器官は、そこに共棲するバクテリアの力を借りて、ユーカリの葉に含まれる毒性成分を解毒する特別な機能が備わっているのですね。ところが、このユーカリの葉には栄養価がほとんどないのです。それでコアラは何日もかけて腸内で葉を発酵させなければなりません。なので腸の比率は身体全体で哺乳類の中で最大です。 腸の比率と比べて、身体に対する脳の比率は比較的小さいです。彼らの脳はユーカリの僅かな栄養から極めて少量のエネルギーしか貰えないので、考えるための充分なエネルギーが足りないのですね。それでコアラの脳は脳腔の75%しか占めておらず、脳脊髄液によって脳の内側表面に押し付けられているのです。それがために、コアラは人生の80%を寝て過ごすしかないのです。ニューロンの表面積を拡大するには、脳を折りたたむ必要があります。そのため人間のような生き物は、細かく折りたたまれた大きい脳を持っています。それに対して、コアラやカンガルーのような有袋類は他の哺乳類よりも脳が小さい傾向があります。それ以上にコアラの脳が人間などと違うのは「脳にヒダがない!」と云うことです。つまりちっちゃい脳で、しかもヒダがないのでニューロンの面積がとても少ない。しかし脳の大きさだけでコアラは怠けもので、愚かものと云う認識は誤解です。たしかに脳のサイズが小さいと云うことは、認知能力が限られていることになりますが、食物を見つけたり捕食者を避けるために樹上の複雑な環境を移動しなくてはなりません。コアラはお気に入りのユーカリの木の場所を記憶しており、お腹すいた時にそこに戻ることができますが、これには ある程度の空間認識能力と問題解決スキルが必要です。またコアラは孤独な動物ですが、発声と匂いのマーキングを使用して互いにコミュニケーションしており、これはある程度の社会的相互作用とコミュニケーションスキルを示しています。コアラはエネルギーを節約するために 1日最大18~22時間睡眠します。だからと云って、怠けものとは当たらないのですね。それは、あくまでユーカリと云う低栄養の食事をしているからなんですから。コアラの脳は、食事のニーズに合わせて進化してきました。彼らは環境にうまく適応し、問題解決スキル、空間認識、社会的行動をそれなりに示しています。つまりコアラの脳は一見単純そうに見えますが、生息地での繁殖を可能にする認知能力を持っていると云うことです。
Feb 6, 2024
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びろうな話で恐縮ですが、今日はおなら(屁)の話題で(笑)歌川国芳の弟子だった浮世絵師で日本画家でもあった"河鍋暁斎(きょうさい)"と云う人物がいます。幕末から明治にかけて活躍した絵師です。非常にユニークな絵を描く画家で、「花鳥図」のような正統日本画を描くかと思ったら、「動物の曲芸」なんて擬人化した絵も描いてます。この河鍋暁斎が1867年(慶応3年)に発表した作品に「福山画師 六十九翁 相覧」と云うのがあります。この作品の中に「屁合戦絵巻」と云うのがあって、これはもともと平安時代の天台宗僧侶"覚猷(鳥羽僧正)"がユーモアと風刺を織り交ぜた戯画として伝えたものを写本したものです。この屁合戦絵巻がとにかくぶっ飛んでるのですね。まぁ、ご覧じろ。江戸庶民の間では、おならは自然現象、笑えるものでした。まぁ、今の時代でも親しい間柄では笑ってすませられるけど、公共の場でするとかなり気恥ずかしい。嘘をつくことを「うそをこく」と云うように、放屁することも「屁をこく」とも云いますね。「こく」は体の外に出すと云う意味合いですね。江戸時代後期に発行されたかわら版「スカ屁」ってのがあります。文章を読むと「越中(富山)の"かき山"の"いまき谷"にある"尻が洞"の割れ目から、スカ屁という老婆が出現し、こやし取りに次のように告げた」。「4~5年以内に、今は名もない"おなら病"が流行する。それは芋屁(芋を食べた後に出る屁)を止める薬も効かず"手に汗握り屁"になるだろう」。ことさら左様に、江戸時代と云うのは屁の話題に尽きないのですね。男性だけでなく、女性も「屁をこく」ことになんら恥じらいがなかった。ところが、これは庶民の話で、大奥の女性たちを始め、大名や旗本などの奥方や姫君、朝廷に仕える公家の姫君や典侍にとって「屁」したのを知られるのは死活問題でした。こうした女性たちは和歌や書道、茶道、香道などの教養を身につけることが求められたし、立ち居振る舞いにも高貴さが求められる中で、屁をこくなんて有り得ない話だったのです。庶民でも「大店(おおだな)」の奥さんや娘さんも同様だった時代らしい。そんな高貴な女性が、ついウッカリ人前で屁こいたら「放屁娘」と冷やかされ、もう二度と人前に出られないほどの醜態です。おならは「一生の恥」、なかには自殺した女性までいたとか。そんな女性の危機を救う職業がありました。「屁負比丘尼(へおいびくに)」。普段は高貴な女性の付き人として身の回りのことをこなしながら傍を離れず、女性がまんいち屁をこくと云うミスを犯したときには、すかさず恥ずかしそうに「私がしました」と身代わりになってその場を収め、ご主人を守る役割の女性です。役目をするのは"尼(あま)姿"の女性が適任とされましたが、あまりに高齢だと耳が遠くなって屁こいたことに気づかない。それで音を聞き逃さない中年の演技力がある人が選ばれたようです。屁負比丘尼はあんうんの呼吸で、屁以外でも身分の高い女性が起こした粗相やはしたない行いなどをすべて引き受けていたようです。当時、身分の高い女性にはたくさんの付き人が付き添ってましたが、そのほとんどが花嫁修業としてお勤めしていたそれなりの家柄の娘さんです。なので屁負比丘尼はそれらのお付きの人とは別枠採用だったようです。尼さんだったら「もうお嫁に行くことないから恥かいても大丈夫だろう」と云うことで採用されたのですね。ちなみに「おならをする」を英語で云うと「fart(ファート)」。日常会話で非常によく使われるカジュアルかつ卑俗な表現です。これが大きな屁となると「a loud fart」、子ども向けの可愛い表現は「Toot」ですが、非常に直接的で品のない表現なので、親しい友人や家族間でのみ使うのが無難です。「fart」はスラングで「嫌なやつ」とか「ろくでなし」ってイミもあります。
Apr 17, 2026
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世界で一番小さい国家は?もちろんバチカン市国ですよね。ところがバチカン市国より小さい自称国家が存在することをご存じですか?「シーランド公国」と云います。なぜ自称国家かと云うと、国連に加盟する193か国およびバチカン市国の計194か国の中でシーランド公国を国家承認している国は全くないからです。なにせこのシーランド公国には領土がない。土地が存在しないのです。ぢゃあどこを指して国家と云うの?イギリスが第二次世界大戦中に作ったマンセル要塞と呼ばれるいくつかの海上トーチカのうち、最も北に位置するフォート・ラフス要塞と呼ばれるものがシーランド公国そのものなのです。そこはイギリス沖10km の北海洋上。ラフ・サンズと呼ばれる砂堆の上に大きな柱が2本突き出していて、その上に居住区や対空砲台などが作られてたのです。大戦中はここに300人ぐらいのイギリス兵が常駐してましたが、大戦が終わるとそのまま放棄されてました。そこに目をつけたのがパディ・ロイ・ベーツと云う海賊放送の運営者。彼はイギリスの放送法違反で訴えられてたのですが、それならばとイギリスの領海外に存在したこの要塞に目をつけ占拠。独立宣言を発表してしまったのですね。要するにシーランド公国とはこの要塞そのものなんです。そしてパディ・ロイ・ベーツはこのシーランド公国で自らをロイ・ベーツ公と名乗ったのです。イギリス政府は強制的に立ち退かせようと裁判に訴えたのですが、シーランド公国がイギリスの領海外に存在することで司法の管轄外とされ裁判そのものが成り立たなかったのです。しかしシーランド公国を独立国家として承認する国が現れることはなかったため、国際的には国家として扱われていません。それは国際条約で島とは自然に形成された陸地であって、高潮時においても水面上にあるものを云うとしているからです。なのでシーランド公国は自称国家で、国際的には国家では無いのですが、かと云ってイギリスの領土でもないと云うややこしい位置づけになったのですね。海底に設置したアンカーと2本の円柱、甲板のみで構成されたシーランド公国。国家ではありませんが、いちおう国家と云うことにすると国土面積は207平方メートルで、バチカン市国の440平方メートルよりも小さいことになります。ちなみにバチカン市国でさえ東京ディズニーランドよりずっと小さいのですが、シーランド公国になるともうお話しにならないの小ささです。さてここからが映画のようなお話し。イギリスからまんまと占拠したロイ・ベーツ公は1978年にカジノ経営を画策するのですね。しかし資金が問題。そこでドイツの投資家アレクサンダー・アッヘンバッハを首相に任命して、資金調達しようとします。ところがこのアッヘンバッハが一筋縄でいかない人物で、シーランド公国そのものの略奪を計画するのです。モーターボートやヘリコプターでシーランド公国を急襲!ロイ・ベーツ公の息子を人質に取ると、ロイ・ベーツ公を国外へと追放したのです。しかしロイ・ベーツ公も黙っていない。もともと元イギリス陸軍少佐だったロイ・ベーツ公は20名程の同志とともにヘリコプターを使った奪還作戦を決行し、これを成功させたのですね。アッヘンバッハはシーランド公国により反逆罪で投獄され、7万5,000マルクの罰金を命じられるのですが、こんどはドイツ政府がイギリス政府にアッヘンバッハらの解放を依頼。ところがイギリスの領海外と云う司法判断が効いているためイギリスは手をだせない。しかたなくドイツはシーランド公国へ特使を派遣して解放交渉を行うこととなったのです。国際法上、国家として認められてないシーランド公国に外国の政府から正式に外交官が派遣されたのでロイ・ベーツ公はドイツに承認されたものと喜んで(でも承認はされてませんでした)罰金の問題は立ち消えとなったのです。ドイツへ戻ったアッヘンバッハ一派は、アッヘンバッハを枢密院議長として擁立し「シーランド公国亡命政府」の樹立を宣言。しかし国家として認められてないシーランド公国なので亡命政府を国家承認している国も1ヶ国も存在していません。一方、シーランド公国のロイ・ベーツ公は2012年に91歳でこの世を去っています。後を継いだのは一時アッヘンバッハに拉致された息子のマイケルが2代目シーランド公に就いたのです。このシーランド公国はウェブサイト上で爵位を販売しています。男爵で44.99£。購入すれば誰でも爵位を名乗ることができ、有効期限がないため更新手続きの必要はありません。このシーランド公国の爵位を買った日本人がなんにんも居るのですね。西川きよしさんとかモデルの知華さんとか、亡くなった流通ジャーナリストの金子哲雄さんもそうでした。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Sep 27, 2015
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昨年、亡くなられたシンセサイザー奏者の冨田勲さん。奥さんは往年の歌手、本間千代子さんのお姉さんですね。彼が初めてシンセサイザーの音楽に出会ったのは、大阪万博の前年、1969年のことです。冨田さんは、万博の東芝IHIパビリオンの音楽を録音するため、大阪に滞在してました。そのときたまたま訪れたレコード店でウェンディ・カルロスの「スイッチト・オン・バッハ」と出会ってしまったのです。この曲は当時、日本ではあまり知られていないシンセサイザーを全面的に用いて作られたものでした。シンセサイザーによるアルバムで初のミリオンセラーヒットを記録した有名な曲だったのです。話は横道にそれますが...冨田さんにシンセサイザーの魅力を教えたシンセサイザー奏者、ウェンディ・カルロス。実は、元の名前はウォルター・カルロスと云いました。1980年に男性から女性に性転換したからです。閑話休題。ウェンディ・カルロスが使用したシンセサイザーは「モーグ」社の「MOOGiii-C」と云うシンセサイザーとしては最初期のものです。これは昨今のディジタル・シンセサイザーと違って、トランジスタ式のアナログ・シンセサイザーでした。このモーグ・シンセサイザーはウェンディ・カルロス以降、実に多くのミュージッシャンによって使われてます。1967年にザ・モンキーズのメンバー、ミッキー・ドレンツが購入してアルバム「スター・コレクター」で使用したのをかわきりに、ローリング・ストーンズ、ザ・バーズ、サイモン・アンド・ガーファンクル、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズなどそうそうたるメンバーがモーグ・シンセサイザーの知名度を高めていったのです。日本で最初にモーグ・シンセサイザーを買ったのは個人ではなく、ヤマハ楽器でした。個人で手にしたのは冨田さんが日本初でした。冨田さんが最初に手にしたモーグ・シンセサイザーは飛鳥貿易経由で日本に輸入されたようですが、実際には冨田さん自身がニューヨークのバッファローにあるモーグ社まで行って交渉したようです。当時は1$が360円の時代。さらにモーグは外国車なんかと同じく贅沢品扱いで関税率が200%以上。なので今の価格で1,000万円くらいしたようです。しかも買ったモーグは1日中電源を入れっぱなしにしないと動作が安定しないので、夜の8時から明け方の4時までは冨田さんが使って、それ以外の時間は音楽プロダクションの若いメンバーに使わせてあげてたようです。それほど有名だったモーグ・シンセサイザーが衰退する原因となったのは、アナログ・シンセサイザーだったからです。1980年代半ば、低価格なディジタル・シンセサイザーが大頭すると、回路が複雑でコストがかかるアナログ・シンセサイザーは製品の主流ではなくなりました。今では、ディジタル・シンセサイザー以外にも、シンセサイザーを再現してPCで演奏するソフトも数多く販売されてます。もはやアナログ・シンセサイザーは過去の遺物となったワケですが、現在のディジタル・シンセサイザーでは得ることが困難な質感を求めて、製造を終えた旧式のシンセサイザーを修理しながら使用するミュージッシャンも多くいます。いわゆる「ビンテージ・シンセ」と呼ばれるそれらのシンセサイザー市場において、モーグ・シンセサイザーは今も高い人気を有しているのです。そんなで、もうモーグ社は消えてしまったと思ってたのです。ところが...今月号のミュージッシャン用雑誌「Sound&Recording」を見てビックリ。そこにはまぎれもない「モーグ」が!最初、ビンテージ特集かと思ったら、なんとモーグ社の新製品とあります。そうだったのです、1986年にキーボード製品の製造を終了したモーグ社だったのですが、現在は小規模工房でのシンセサイザー開発に戻ってたのです。モーグ社はロバート・モーグと云うひとりの電子工学博士によって設立された会社でした。冨田さんがニューヨークのバッファローにあるモーグ社まで行ったとき、すでにモーグ社は国際的に有名な企業でしたが、それでも野中の一軒家と云った小さな工房で少量ずつ生産する企業体質を持っていました。それが成功するにつれ、演奏性や音楽性だけでなく、ビジネス的な利益に偏ったことに気づいたモーグ博士は原点に立ち戻ってシンセサイザー作りに励むようになったのです。「Sound&Recording」で紹介されてたモーグ・シンセサイザーは「MOOG SUB37」。相変わらず"ディジタル"ではなく"アナログ"シンセサイザーのようです。初期のシンセサイザーと比べたら、ずいぶんコンパクトになりましたね。日本では"コルグ"が輸入販売しています。販売価格は200,000円です。スペシャル版の「SUB37 Tribute」の収益の一部は、モーグ社の所在地であるアッシュビルの音楽教育プログラムに拠出されるそうです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jun 29, 2017
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オリンピックの卓球で銅メダリストになった、福原愛さんが無事に女の子を出産されたそうですね。旦那さんはご存じ台湾卓球選手ですが、中国は台湾を中国の一部としているので、中国の報道では赤ちゃんを「日中のハーフ」と紹介しているような。私のようなオッサンは「泣き虫・愛ちゃん」と幼少期から慣れ親しんでいたので、出産したのがなんか不思議な気分です。で、福原愛さんがやってる卓球ですが、だいたいアジア諸国が強く、日本人は男女ともいつも優勝にからむ試合ぶりで心強いですね。しかし中国は強敵ですなぁ。なにしろオリンピックの金メダル、最多取得国ですからね。なので「卓球と云うのは中国がルーツかいな?」と思ってる方も多いのでは?実は違うんですよね。卓球の発祥地はイギリスです。卓球の起源はインドのゴッシマテニスという遊戯で、それが1880年代のイギリスに伝わり上流階級の遊びとして広まっていったとされています。テニスをしようとしたら雨が降っていたため、どうにかして屋内でできないか、そんな時に考え出されたのが「卓球」だったワケですね。ゴッシマテニスでは、バトルドー・アンド・シャトルコック(バドミントンのルーツ)から流用された、皮を張ったラケットが使用されています。ちなみにテニスの起源となった「ポーム」という競技は、そもそも屋内でするスポーツだったそうですから、先祖返りしたとも云えます。しかし最初の卓球は流行しませんでした。問題はボールでした。当初の卓球ではコルクのボールを使っていたため、弾まなかったのです。結局、1901年にセルロイド製ボールが開発されて、それから本格的な卓球の流行に至りました。ちなみに昔の卓球台は緑色でした。私が記憶している卓球台は緑色です。しかし今では青色の卓球台が世界中で使われています。これが変わったキッカケはTVでのタモリの発言からです。ある番組でタモリが織田哲郎に「あれ(卓球)って根暗だよね」と発言したことから、翌年の中学生の卓球部員が激減しました。そこでイメージ刷新とばかり、当時の国際卓球連盟会長であった荻村伊智朗の発案により、それまで黒に近い深緑だったのが、青色に変わったのです。ところで卓球って、ピンポンとも呼びますよね。ピンポンは「ping pong」と書きますから、日本独特の云いまわしかと思ったら、立派に英語の名前なんです。これはイギリスのジェームス・ギブがアメリカから持ち帰ったセルドイド製の球をラケットで打ったのが始まりとされてます。球がラケットに当たると「ピン」、テーブルに弾むと「ポン」、で、「ピンポン」。これを遊戯用具の会社を経営していたジェームス・ジェイクスに持ち込むと、これは面白いとさっそくピンポンの名前を商品登録して、1898年にボールとラケットをセットにして発売しました。したがって「ピンポン」と云うのは商品名なんです。なので一時はピンポン協会も設立されたのですが、商品登録されているため、協会は解体。「ピンポン」の代わりに「テーブルテニス=卓球」と名付けられて、今日に至ってます。
Oct 16, 2017
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きょうは映画の初期の初期に撮られた作品のご紹介から。アメリカの映画監督にして、俳優でもあり、脚本家でもあったD・W・グリフィス。映画作法の基礎を築いた人物で、モンタージュ、カットバック、クローズアップなど様々な映画技術を確立して、映画を芸術的な域へと高めた「映画の父」と呼ばれている人物です。グリフィスの作品と云えばアメリカ初の長編映画「國民の創生」や「イントレランス」が有名ですね。「國民の創生」は、KKK誕生物語を南部白人の立場から描いた物語だったため、北部においては黒人差別映画として上映拒否されたり物議を醸しましたが、作品自体は大ヒット。ニューヨークでは44週間連続で上映されたという記録をもっています。この作品はクローズアップやフラッシュバックなどを効果的に使用するなど、映画技術や編集で画期的な工夫がみられ、後にアメリカ国立フィルム登録簿に登録されています。映画史上最大の古典として語り継がれている「イントレランス」は4時代の物語が同時並行的に描かれるという当時としては革新的な作品でした。しかし難解との評判を呼び、アメリカ本国では興行的に失敗に終わった作品です。作品自体はクロスカッティングや大胆なクローズアップ、カットバック、超ロングショットの遠景、移動撮影など画期的な撮影技術を駆使して映画独自の表現を行い、アメリカ映画史上の古典的名作として、後にはソ連(ロシア)の映画作家にまで影響を及ぼしました。1919年には、チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォードと共にユナイテッド・アーティスツ社を創設しています。そう、あのユナイテッド・アーティスツです。そのグリフィスの作品で1908年に発表された「RESCUED FROM AN EAGLES NEST(ワシが赤子をさらっていった)」と云う、日本ではほとんど知られていない映画があります。当時最先端の映像をつなぎ合わせる技術によって完成した、ワシにさらわれた子どもの救出映像で、特撮映画のはしりと云える作品です。この時代の映画ですから、と~ぜん無声映画です。今だったらCGでササッと作れる映像も、この時代はタイヘンそう。背景の景色は完全にペインティングですね。Rescued from an Eagle's Nest (1908) - 1st Henry B. Walthall movie appearance - D.W. Griffith cameo
Jan 9, 2020
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きのうの私の投稿に対して、marnon1104さんから「SDカードも寿命があるのでしょうか? 」とご質問いただきました。DVDなんかが、10年くらいでデータが消えてしまうのはご存知ですよね?SDカードやUSBメモリにも寿命があります。むしろ数ある記憶媒体の中でも、寿命がかなり短い部類です。SDカードやUSBメモリに使われている「フラッシュメモリ」と云うICはデータが欠損しやすく、長期保存に向いていないんです。専門的になりますが、書き込み方式に「MLC」と云う規格が採用されている製品は5年程度が製品寿命とされています。寿命が10年程度のSDカードやUSBメモリは、これと比して同じメーカーのでも高額と云うことです。同じ容量なのに、5倍も6倍も値段の高いメモリはそれだけのことがあると云うことですね。さて、きょうは先ずこの凄まじい画像からご覧ください。なんか映画「インディ・ジョーンズ」にでも出てきそうなとんでもないとこに建ってる建物ですが、ミニチュアの作り物なんかぢゃなくてブータンに立派に存在するチベット仏教の寺院です。別名「トラの巣」。ブータンに密教をもたらしたとされるパドマサンバヴァが雌トラの背に乗って、この地に降り立ったとされたためにそう命名されました。ここは、元は洞窟でした。標高3,120m の垂直に切り立った岩壁にある洞窟。そこに1692年から寺院の建築が開始されはじめ、1694年に建立されました。ここに行くのは簡単ですよ~ブータンで唯一の国際空港パロ空港のある都市「パロ」から登り口までバスが出ています。所要時間も約30分くらい。そこから3時間くらいひたすら登れば着きます(笑)この寺院はとても有名なので、ご存知の方も多いでしょう。まぁ、私は脚の問題をかかえているので、行けるワケありませんが、なんか魅力的な場所ですね。
Jan 18, 2021
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「妖精が見える」とフランシスが云うのを、嘘をついていると思っている叔母。「じゃあどうして私には見えないの?」意地悪を云うと...「大人は信じることをやめたから」。妖精も天使もそして幽霊も、信じる人にしか見えないものなのです。と、云うお話は1997年のイギリス映画「フェアリーテイル」映画の大筋は、8歳のフランシスと12歳のエルシーと云う仲のいい従姉妹。ある日、遊びに出かけた近所の小川で写真を撮るのですが、その写真には美しく光る妖精が写っていたのです。その写真がやがてイギリス中を巻き込む大騒動へと発展していくと云うストーリー。 この作品、単純なファンタジー映画かと思ったら、イギリスのヨークシャー州でおこり、後に世界中で大騒ぎになった1917年の事件を題材にしてるのですね。その事件と云うのが「コティングリー妖精事件」。コティングリー妖精事件とは、イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー村に住む2人の従姉妹フランシス・グリフィスとエルシー・ライトが撮ったという妖精の写真の真偽をめぐって起きた騒動のことです。最初の写真は1917年7月に撮られました。妖精がフランシスと一緒にいる写真をエルシーが撮ったのです。彼女たちは、1917年~1920年の間に全部で5枚撮影しました。妖精は、小さい人の姿で、1920年代の髪型をし、非常に薄いガウンをはおり、背中には大きな羽があります。1枚の写真にはノーム(大地の精霊)が写っており、そのノームは身長約30cm くらいで、エリザベス朝時代の格好をして背中には羽がありました。こんな見えすいた写真なのに、なぜ世界中で論争になったのか?それは「シャーロックホームズ」でお馴染みの小説家コナン・ドイルが関わったからです。ドイルは専門家とともに写真を調べあげ、トリックの可能性はないとして雑誌に発表したのですね。これを契機に新聞、雑誌などメディアが注目し、田舎町コティングリーに記者や観光客が押し寄せる騒ぎとなってしまったのです。騒動には神智学者のエドワード・L・ガードナーも関与しています。最初の妖精写真はエルシーの父親から借りたカメラを使って撮られたものですが、それから3年後に写真に関心を持ったガードナーが新しいカメラを渡すと、少女たちはさらに3枚の妖精写真を撮ったのです。このようにドイルやガードナーと云った、当時、著名人だった人物がそろって写真は本物と云ったことから、信憑性や話題性が増してしまいました。そしてこの時期がヴィクトリア朝時代から続いていたイギリスでの妖精ブームの末期に重なっていたのですね。また、撮影したのが少女だったため、子どもに捏造する技術はないハズと云う大人の勝手な思い込みも、事を複雑にしてしまいました。しかしガードナーは、神智学者なんていかにも胡散臭そうな人物ですから分かりますが、シャーロックホームズのような探偵小説を書いてるドイルまで、なぜ簡単に騙されたのでしょう?実は、ドイルは「オカルトマニア」としても有名な人物で、心霊研究家と云うのはえてして都合のいいように自分自身まで騙してしまうのですね。コティングリー妖精事件はドイルが死去すると人々の記憶から忘れられていきました。ところがドイル死去の36年後に世界中を驚かせることが発表されます。1966年の「デイリーエクスプレス」誌に、撮影当時 少女だったエルシーが偽造写真であることを告白したのです。「あの写真は、私とフランシスの想像の産物です!」しかしPotoshop なんかの無い時代です。写真はどのように撮られたかのでしょう?答えは単純なものでした。妖精の形をした平らな紙の切り抜きをピンで止め、写真に撮ったものだったのです。周囲の背景や人物が、シャッターが下りる瞬間わずかに動くために輪郭がぼやけるのに比べ、妖精の輪郭が明瞭であることから、妖精はシャッターが下りる間も静止している。すなわち作り物ではないかという指摘が当時からあったのですね。その後、1915年に発行された子供向けの絵本「Princess Mary's Gift Boo」の中に、写真とそっくりのポーズをした妖精の絵が掲載されているのも発見されました。この絵を模写して切り抜き、帽子止めのピンで固定していたことを、高齢者となった少女たちは告白したのです。コティングリー妖精事件は「最も多くの人々を最も長い間だましたトリック写真」としてギネスブックに載ることになりました。
Apr 2, 2021
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エジプトのピラミッドやアンコールワットの寺院など、フォークリフトや油圧式クレーンがない時代の人々がどのようにして何トンもの石材を運搬したのか不思議ですね。よく映画なんかで、ピラミッド建造にたくさんの人々が丸太のコロを下に敷いて運搬させてる映像が映し出されますが、アレってホントウなんでしょうか?ピラミッドに関して云えば、エジプトで約20年の研究を続けてる地理考古学者パー・ストレミルによれば、採石場からピラミッド建設現場近くまでは、ナイル川を利用していたと述べてます。古代エジプトの石切り場は大半がナイル川沿いにあり、輸送距離は比較的短かいからです。しかし、実際の建設現場はナイル川から数十~数百km も離れていて、木製のコロでは長距離輸送にはまったく役立たないと述べてます。つまり映画のシーンではダメと云うこと。パー・ストレミルはある種の「線路」を作ったのではないかと推測してます。石材を載せた「そり」を引けるように、木材のレールを敷いた可能性が充分考えられると。ではアンコールワットはどのようにして?2000年以来、アンコール地域のカンボジアとフランスの考古学ミッション責任者のクリストフ・ポティエによると、アンコールワット建設の当初、9世紀ころは周辺地域の粘土から作ったラテライト製のレンガを寺院造営に利用したと云います。10世紀になると石材が使用されるようになります。しかし、砂岩台地の石切り場は、建設現場から50~70km も離れていました。寺院に使われた石材の約95%は、重さ200kg ~300kg と云います。初期の研究者らは、道路を利用してアンコールまで運搬したと考えていました。しかし30~40年前、アンコールと石切り場を結ぶ運河が発見され、新たな説が浮上したのです。雨季の間、いかだに載せてアンコールまで運んだ石材を、建設現場近くまでくると木製のコロで移動させたと推測されてるのですね。ピラミッドと違って、建設現場までそんなに離れていないので、これが可能だったとか。それに東南アジアには、ゾウと云う強力なブルトーザーがいたのが幸いしてます。ここまでは想定の範囲ですよね。問題はイースター島のモアイ像です。火山岩から切り出されたモアイ像の重量は、4.5t ~73t にも及びます。しかも設置場所は、石切り場から10km ~12km 先の海に面した高台(アフー)。イースター島には大規模な森は存在せず、1,000体分もの石材を運搬するには木材が足りず不可能なんですな。この地にに住むポリネシアの開拓者の血を引く先住民ラパヌイは2,000人ほど居ます。その人たちの答えは実にシンプルです。「われわれは知っている。像が自分で歩いたのだ」と。数世紀にわたり解明が試みられてきたイースター島のモアイ像の運搬方法。最終的な結論はこうです。削り出された石切り場から最大18km の距離を移動しているのですが、モアイはロープと人の力だけで左右に揺らし、直立で移動するように設計されたものだと。移動には木材のコロに乗せて移動させたとも。しかし、先程述べたように、イースター島には森は存在しないから、コロを作るのは不可能ですよね。ところが地質学調査によると、モアイが作られた当時は椰子の木が生い茂っていたのです。その椰子の木は花粉分析の結果から分かったことですが、島民たちの乱伐によって消失してしまってたのですね。かつて島民は木材を燃料やカヌーや家屋といったインフラに使い、耕地を広げるために森を切り開いていったのです。さらに部族の権威を高めるために祭祀に使うモアイを盛んに立てたことが森林の減少に拍車をかけることになったと云うワケです。このモアイ像は、観光客による落書きや破壊行為が絶えません。チリ政府は、もし損壊した場合は最高5年の禁固刑または最高1万9,000$の罰金が課せられる法律を作っています。それはモアイ像だけでなく、たとえタダの岩であっても傷付けることは犯罪としているのですね。2003年には日本人観光客が「ただの岩」と思い落書きを彫り込んだのが、実は倒れているモアイ像だったため、警察に逮捕されてしまいました。2008年には、フィンランド人が像の耳部分を破壊し破片を盗んだため、警察に身柄を拘束され、罰金1万7,000$支払らわらせてます。
Jan 15, 2023
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探偵 金田一耕助を主人公にした小説で有名な作家 横溝正史。その横溝正史、戦前は「鬼火」や「貝殻館綺譚」、「蝋人」など耽美的な作品が多かったのですね。そんな横溝の耽美小説のひとつに「蔵の中」と云う作品があります。小説「蔵の中」は、主人公の雑誌編集長のところに筆で書かれた原稿を持ち込んだ美少年のことから始まります。その原稿には少年の生活が私小説風に描かれてたのですが、その生活がなんとも怪しい。少年は名家の生まれで、美しい姉がいるのですが、その姉は聾唖で肺病を患ってたので、蔵の中に幽閉されてたのですね。少年はこの姉が大好き。で、姉恋しさに蔵に入り込み、毎日、蔵の中で姉と過ごす毎日。そして、ついに姉弟でありながら男女の仲になってしまうと云うようなお話。この横溝作品は1981年に角川が映画化してます。その映画作品で姉を演じてたのが"松原留美子"。松原留美子、ご存知ですか?実はこの方、ニューハーフなんです。今では普通に使ってる「ニューハーフ」って言葉、これを定着させたのが松原留美子だったのです。ただ松原留美子は、当時、まったく性転換の手術はしてません。「ニューハーフ」って和製英語ができたのは80年代初頭です。この単語を作ったのはサザンの桑田佳祐なんですよ。今では創業37年にもなる大阪 南のショーハウス老舗店「ベティのマヨネーズ」のリーダーにして、1980年に桑田作詞作曲の「I LOVE YOUはひとりごと」で歌手デビューしたベティ・ママ。ベティ・ママは私もいっとき懇意にしてもらってたのですが、私の大嫌いな和田アキ子(笑)ともママは懇意で、しだいに遠ざかっていった経緯があります。このベティ・ママが桑田と対談したとき、ママが「私、男と女のハーフなのよ」と云ったら、桑田が「なら、ニューハーフだ」と返したのが始まりです。そのニューハーフの走り松原留美子が女優になったのはこんな経緯からです。80年代初頭、六本木で「六本木美人」というキャンペーンをやってました。毎月1人、六本木に住んでるか、働いている女性をモデルにして、ポスターを街中に張って盛り上げる企画だったのですが、松原のポスターだけは張っていく先から盗まれていく。松原が本当は男であることなど誰ひとり想像もしなかったのですね。そのポスターを見た監督の高林陽一は「この子だ」とピンときたのです。面談のとき、松原がホントウは男だと明かしたのですが、高林はそれでもいいとヒロインに抜擢して映画「蔵の中」が完成したと云う次第です。「蔵の中」作品中では、姉弟が蔵の中で見つけた遠眼鏡で、窓から近くに住む女と男の生活を覗き見するようになります。ある時口論から男が愛人の女の首を絞めて殺すところを目撃してしまうのですね。それを見た姉は「自分も同じように殺して欲しい」と弟に頼み、弟は姉の首に手をかけると云うストーリーです。なんかヒッチコック監督の映画「裏窓」のようなストーリー展開ですが、覗いてるのが姉弟で、覗き場所は「蔵の中」と云うことで、こっちの方が怪しい雰囲気プンプンですね。しかし、何ですな。蔵と云うと、こんな陰湿なイメージではなく、例えば岡山県倉敷の蔵屋敷が立ち並ぶ「美観地区」とか、蔵造りの町並みを有する埼玉の「川越一番街」、福島県喜多方市の「蔵の里」など、歴史のある美しい町並みが一般的なイメージなのに、反面、この「蔵の中」とか夢野久作の代表作「ドグラ・マグラ」のように蔵の内部を描くと怪しい雰囲気が漂ってくる。つまり外観を楽しんでる分には明るくて、ひとたび内部に侵入すると摩訶不思議、暗くて空気が淀んでるようなイメージが。それは窓が極端に小さく少ない、しかも重厚なドアで仕切られてる蔵の構造と関係あるかも知れませんね。蔵のドア「蔵戸」は骨董の世界では有名ですね。高価なのになると30万円以上で取引されてます。しかし、問題はそのサイズで半間(91cm )のものなんてまぁ有りません。だいたい120cm 以上から。なので、蔵戸を買って既存の家にはめようとしたら、入り口のリノベーションが必要となるワケだし、だいたい普通の家で、扉だけアンティークってのは浮いてしまって正視に耐えないでしょう。着物の古着の世界では、よく蔵ごと買います。蔵ごとと云っても、蔵を買うのではなく、蔵の中のもの一切合切まとめてなんぼと云う買い物です。よくCMなんかで着物1枚からお宅に参上して買い取りなんてのが有りますが、アレは着物が目的ぢゃなくて話の流れで眠っている金製品や宝石有りませんか?ってのが本来目的。金専門の買取店ぢゃないから、自宅で値踏みされてもそれが適正価格かどうか分からない仕組みなんです。蔵ごと買い付けると、それを1点ずつチェックして、どれもたいした値打ち物が無いときも有れば、中に大正の銘仙など高値で売れるものも。そう云う風にして古い着物専門のオークションにかけるのです。
Nov 8, 2023
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驚くべきことにアメリカの航空会社、ユナイテッド航空の成田空港エグゼクティブラウンジ。このラウンジのトイレがウォシュレットぢゃないんです。理由はアメリカ人はウォシュレットに慣れてないと云うことらしいですが、利用客は乗り継ぎ以外みんな日本のホテルで滞在してきた人ばかり。慣れてないことは無いでしょう。理解に苦しみます。「インドに行った旅人は2つに分かれる。インドが大好きになるか、インドが大嫌いになるかのどちらかだ」よく云われる言葉ですね。私は行ったことありませんが、よく喧伝される騙したりぼったくったりするインド人、街全体を覆うスモッグだらけの空気と喧騒、そしてあの不衛生さ。百歩譲ってインドのカレー料理が大好きでも、それでも絶対訪れたくない国の筆頭です。現在のインドは人口世界一でGDPは第4位、なによりIT大国。日本や中国と並んでアジアの宇宙開発を牽引し、アメリカ、ロシア、中国に続いて宇宙ドッキング技術を開発した4番目の国です。またマイクロソフトやグーグル、IBMなどアメリカ大手企業のCEOはインド人が次々と独占していて、「CEO」はインド最大の輸出品とも云われてます。と、これだけの知識だととてつもない先進国に見えます。反面、私たちがよく見聞きするインドの汚さはハンパありませんね。とうてい人間が生活できる環境ぢゃない。ただ単に汚いだけでなく、毎年およそ30万人のエイズ患者が病院で使い回された注射器によって感染すると清潔が第一の病院でさえこの始末。なによりトイレ状況が最悪ですね。基本的にインド人は、トイレットペーパーを使いません。トイレには小さなバケツのようなものが置いてあって、それに水を入れて左手でお尻を洗います。だから左手は不浄とされ、左手で握手をしたり、人に手を振ったりしてはいけないのです。とりわけ長距離列車のトイレは最悪です。トイレはステンレス製で、洋式とインド式の両方がありますが、どちらも便器の底に穴が開いていて糞尿は線路に落ちるようになってます。もっと厄介なのが、インドではトイレを使わず屋外排泄する人が男も女もとてつもなく多いと云うこと。ユニセフとWHOが2015年に行った調査で、インドは世界一の野外排せつ国だったのです。全世界で野外排せつしている人の6割がインド人で、約5億6,425万人にものぼります。この数字はインドよりはるかに経済的弱者のアフリカ諸国はおろかアジア最貧国バングラディッシュよりもひどい現状を表してます。2001年のインド国勢調査では63.6%、2011年の調査でも53.1%の世帯がトイレをもってなかったのです。こうした屋外排泄をする地域には公衆トイレが無いとこが多く、仮に有っても人々はそれを使わず、道端で排泄するのです。なぜ公衆トイレを使わないかと云うと、とてつもなく汚いのと、後で述べる別の問題もあるからです。野外排せつには多くの問題があります。何より井戸や川の近くで糞尿をすると水が汚染され、その水を利用する人の健康を害するということです。また女性は、インド名物レイプの危険性があります。セーブ・ザ・チルドレンの調査報告では思春期の少女、3人に1人は公共の場で性的暴行やストーカー被害にあってるとしてます。なぜ世界最先端の技術を持ちながら、反面、こんなにもインドが遅れてるのか?それは背後にヒンドゥー教とカースト制度の存在があるからです。インドのヒンドゥー教徒の割合は、総人口の約80%を占めます。ヒンドゥー教には、清潔と不浄に関する独特の概念があります。ヒンドゥー教において、清潔さや衛生は儀式的・精神的な純粋さをイミし、不浄は道徳的汚れや宗教的タブーを指します。ヒンドゥー教では身体や空間の清潔は重要視されますが、人間の排泄物は単なる汚れを超え、最大の不浄のひとつとみなされました。排泄の場所は居住空間と分けられ、排泄物が滞留する場所も聖なる空間から離さなければならない。そのため家の中にトイレを設置すると家庭や神聖な空間が汚されると考えてるのです。ヒンドゥー教の教科書「マヌ法典」には、「太陽や火、神聖な対象や人に向かって排泄してはならない。自分の家から遠く離れた場所で大小便をせよ。排泄物は住居から遠くに処理しなければならない」と書かれてます。排泄物を処理する行為自体が不浄とみなされるため、家にトイレを作れば家族の誰かが処理しなければならず、公衆トイレでは「糞は不浄なもの」なので、その不浄なものを多くの人が排出していく公衆トイレは「極めて不浄な場所」とみなされてます。インドでは私的空間と公共空間に対する衛生概念そのものが私たちとは異なってるのです。公衆トイレでは排泄物を誰が処理するのかと云う問題が発生します。多くの人が排泄していく公衆トイレを掃除をする人は誰も居らず、路上より公衆トイレの方が汚いと云う逆転現象が生じるのです。その処理はカーストの最下層に位置する人々の役割でした。制度上では廃止されたカースト制度ですが、実態は厳然と残ってるカースト制度。その最下層の人々が排泄物の処理を負わされてきたのですが、地方に行くほどそんな人も数少なくなっていきます。なので下層地域では屋外排泄が普通で、公衆トイレそのものが無いと云う状況なんですね。「インドが汚い理由は、インド人があまりに清潔だから」これは外国の記事でなく、インドのメディアが報じたものです。ここで云う清潔とは家の中だけをきれいにすることを云います。逆に路上に汚物やゴミを捨てることは、何ら恥ずかしい行為では無いのですね。町を掃除するのは掃除人の仕事であり、自分たちがやらなければならないことでは無いと。この考えはインドのみならず、欧米でも普通で、お店の前の歩道までお店の人が掃除しているのは日本人だけです。つまりインドの問題はインフラ整備とともに、インド人の意識改革が必要で、それがもっとも困難なことなんですね。屋台の食べ物や飲み物の衛生が悪いのも、衛生教育が充分おこなわれていないことが原因なんです。
Oct 6, 2025
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今どき写真を撮るのはスマホが定番だし、普段は私もそうしてます。カメラはニコンとフジフイルムのミラーレス一眼を持ってますが、大きいし重くってほとんど出番がない。コンデジもパナソニックとニコンを1台ずつ持ってますが、こっちも古すぎて引き出しに放り込んだままになってます。なのに新しくコンデジを買ってしまった。ミラーレス一眼が重すぎて出動できないなら、スマホでいいぢゃないと思ってるのにです。それもコンデジと云っても、極めて特殊なタイプのカメラ。最初は定評あるリコーのGR Ⅲを思ったのですが、価格が約22万円ではとても手が出ません。そこで買ったのがソニーのZV-1Fと云う機種。買った動機は普段使いだったらスマホで充分なんですが、ちょっと気合い入れて最初から撮るぞと云うとき、スマホのカメラ機能では表現したい写真がうまく撮れない。それは腕の問題でしょう...仰る通りなんですが、そこはそれ自己満足と云うことで。このカメラ、何が特殊かと云うとレンズなんです。35mm フイルム換算で焦点距離20mm と云うとてつもない超広角単焦点レンズを搭載してるのです。超広角単焦点レンズなんて使いにくいのですが、同時にF2.0と非常に明るいので暗いとこでもブレにくい写真が撮れるのですね。なんで、こんな特殊なレンズを搭載してるかと云うと、このカメラ「ブログ用」と銘打ってるのです。どう云うことかと云うと、SNSなんかに投稿するとき大勢の人を一緒に撮っても全員がフレームに収まることと、自撮りしたとき自分の顔をしっかり撮れるからなんですね。それで動画撮影時には内蔵マイクに風切音が入らないよう防風のウインドスクリーンまで付属してます。しかし私はSNS用に使うことは少ないと思いますので、仲間と集団写真なんて撮らないのですが、逆に広角レンズは写真の奥の方(背景)までボケなくキレイに写し込めます。よく広角レンズを使ってる初心者が風景写真を撮ると、画角が広いので遠くから全体をくまなく撮ろうとします。しかし、これでは出来上がった写真はいったい何を撮りたかったのか分からなくなってしまうのですね。広角レンズは自分が撮りたいものにくっつくぐらい接近して撮るものなんです。そうすると撮りたいものが前景になって、しかも背景までシッカリ写ってくれる。このワザは望遠レンズでは背景がボケてしまってできない。逆に背景をボカしたかったら望遠レンズを使わないと、広角レンズではできません。このコンデジを選んだ理由のひとつはメーカーがソニーだからです。ソニーのカメラはレンズを自社生産せず、ドイツ製のツァイス(ZEISS)レンズを使ってます。このレンズが非常にシャープで高性能なんですね。パナソニックもライカレンズを使ってますね。ただコンデジの悲しさ、ミラーレス一眼のようにファインダーがなく液晶のみでピントや構図を確認しなければならないのですが、こんだけ小さいと仕方ないですね。重さは本体のみで約229g 、サイズは約105.5mm × 80mm × 46.4mm しかありません。このZV-1Fは最新のコンデジだけあって、Bluetooth(ブルートゥース)使って瞬時に撮った画像をスマホに送れます。まさにブログ用カメラで、この機能を使って、撮ったしりからSNSに投稿できるワケです。もっとも私は画像をレタッチ(修正や調整)してからアップロードするので、あんまし使わないと思いますが。
Sep 22, 2026
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音楽用のカセットテープがからまってしまったり、緩んでしまったら、鉛筆の出番って常識だと思うのは私らカセットテープ世代の人間しか知らないのかな。カセットテープの穴にはギザギザがあるので、そこに六角形の鉛筆をはめると、丁度いい具合にピッタリはまって固定できます。これで鉛筆をくるくる回してテープを巻き取る算段です。カセットテープ世代にはお馴染み。カセットテープの背中には「爪」があって、この爪を折ると再生はできるけど、録音はできない仕組みになってました。誤って、録音済みのテープに重複して録音するのを防ぐためにね。で、爪を折ってから、また録音したくなったら、セロハンテープで折った爪のあった穴を塞ぐしか仕方なかった。スライド式の爪をもってるカセットは、スライドの上下でコントロールできるんですけどね。今ではCDはおろか、ネット音楽をダウロードする時代だけど、工事現場などで実施する朝礼前のラジオ体操で使われるのは、CDなんかより電池の減りが少ないカセットテープの方がよいと、現在でもカセットを使った体操が多いそうです。人類初の月面着陸を果たしたアポロ11号で使われてたカセットテープは「TDK」製です。1969年のこと。こんな腕時計が売り出されてたのですね。2010年に売り出されたこの腕時計は、文字盤がカセットテープになってます。EOS NYのMixtape Watch。時間の経過とともに「テープ」が時計の一方の側から他方の側へ「巻き取られる」仕組みで時刻を表示するようになってるのです。135$(約15,000円)。今でも売ってるのかしら?こっちは今売られている商品。カセットテープをそのまま大きくしたようなテーブルです。NYのクリエイターが製造するこのコーヒーテーブル、LEDライト内蔵で、カップホルダーや収納スペースも装備しています。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jun 25, 2017
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フランツ・カフカの「変身」と云う小説を読まれたことありますか?カフカと云うのはチェコ出身のドイツ語作家で、ユダヤ人です。「変身」は「ある朝目覚めると巨大な虫になっていた」で始まる男の物語で、家族からはキモチ悪がられ疎んじられて、父親に投げつけられたリンゴによって深い傷を負った男は次第にやせ衰え息を引き取ります。そんな物語です。人間の不条理を描いた小説として実存主義の金字塔と評価されてる小説です。フランツ・カフカは小説家専業ではありませんでした。本業は労働者傷害保険協会の職員です。当時のハプスブルク家の官僚体制で、勤務時間が朝8時から14時まで昼食を取らずに働くというシステムだったため、残りの午後の時間を小説を書く時間に使えたのですな。やがて結核を患ったカフカは勤務が不可能となり、年金生活者となりますが、困窮する生活の中で病状が悪化し、40歳と11ヶ月でこの世を去っていきます。1924年のことです。カフカの「変身」はその解釈をめぐってさまざまな研究がなされており、また「変身」に触発された映画や「変身」そのものを描いた映画も作られてます。「変身」と云うタイトルの映画だけでも、1975年にヤン・ニェメツが監督したTV映画「変身」を始めとし、1977年のキャロライン・リーフ監督によるアニメーション「ザムザ氏の変身」、1987年にはジム・ゴダード監督でTV映画「変身」、2002年には有名なワレーリイ・フォーキン監督による「変身」が上映されています。これらの映画に描かれている主人公は虫と云うだけで、ゴキブリのようなナンキンムシのような、いっこうに形体がハッキリしませんね。実はカフカが「変身」を発表したとき、彼は出版社に対して「昆虫そのものを描いてはいけない」「遠くからでも姿を見せてはいけない」と注文をつけていたのです。これはドイツ語の原文が「Ungeziefer」なっており、古高ドイツ語では「生け贄にできない不浄な動物」を意味する単語なんです。つまりカフカはどんな虫に変身したのか、読む人の想像にまかせていたのですね。先に上げた「変身」の映画画像を観て、どっかで見たような?と思いません。そう、テレポットと云う転送装置にハエが紛れ込んでたため、人間がハエに変身してしまう映画「ザ・フライ」。この作品は1986年の映画ですが、1958年に公開された映画「ハエ男の恐怖」のリメイク版です。このザ・フライの監督をしたデヴィッド・クローネンバーグは、カフカの「変身」に触発されて映画を作ったと述べています。「変身」はまた舞台化もされてます。それもバレエやオペラに。有名なのが1969年に初演されたイギリス人演出家スティーブン・バーコフのバージョンで、バーコフ自身のほか、ロマン・ポランスキー、ミハイル・バリシニコフ、ティム・ロス、また日本では宮本亜門や森山未來が主人公役に挑戦しています。私にはデビッド・リンチが監督した有名だけど、とても難解な映画「イレーザーヘッド」もカフカの影響が大きくのしかかっているように思えてなりません。「変身」は虫に変身した男の悲劇と捉えられがちですが、どっかユーモラスな部分が見え隠れしています。だいたい虫に、それも突然変身するって発想自体が奇想天外。実はカフカはこの作品の原稿を朗読する際、絶えず笑いを漏らし、時には吹き出しながら読んでいたと云います。学者先生が深刻な物語と受け止めて、研究に余念がないのを尻目に、カフカは出版物が文字の大きさや版面のせいで作品が暗く、切迫して見えることに不満を抱いていたと云います。最後にカフカ自身を描いた映画をご紹介しておきましよう。「KAFUKA/迷宮の悪夢」1991年に上映された私の大好きな映画です。ここでも現実と非現実が入り乱れたストーリーで、非常に興味深い映像美を見せています。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Dec 3, 2016
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1987年にケビン・コスナーが特別捜査班のリーダー役、エリオット・ネスを演じて話題となった映画「アンタッチャブル」を覚えていらっしゃるでしょうか?この作品でアンディ・ガルシア扮するエリオット・ネスの部下、ジョージ・ストーンがシカゴ・ユニオン駅の階段から落ちてきた赤ん坊の入った乳母車を身体で止めながら、アル・カポネ・ファミリーと銃撃戦をやるシーンがあります。このシーンは公開当時から「あぁ、あのシーンの引用ね」と話題になっていました。と、云っても、「アンタッチャブル」の監督ブライアン・デ・パルマは最初このシーンは列車を舞台にした大がかりなアクションを撮ろうとしてたのです。ところが予算が底をついて、やむなく「階段落ち」を思いついたのですが、それが大ヒット!この映画で最も印象深いシーンとなったのです。アンディ・ガルシアは、このシーンで注目を集め、そのキャリアスタートとなったのです。では、「あのシーンの引用」と云われた映画とは何なんでしょう?それは、とてつもなく古いフイルムです。なんてったって、「サイレント映画」なんですから。サイレント映画で、「階段落ち」?そうなんです、1925年に公開されたソ連(ロシア)映画、「戦艦ポチョムキン」。この1シーンに「乳母車の階段落ち」シーンがあるのです。このシーンは「オデッサの階段」と云われる約6分間のシーンで、「映画史上最も有名な6分間」と云われています。この乳母車の階段落ちは、コサック兵に銃で撃たれた母親の手を離れた乳母車が階段を落ちていくシーンなんですね。「戦艦ポチョムキン」はロシア第1革命20周年記念委員会より、製作を依頼された記念映画でした。海外では共産主義的な内容から検閲によって上映禁止や、多くの場面をカットして上映されることとなったいわくつきの映画です。日本では、1926年に横浜港にフィルム届きましたが、共産主義プロパガンダが含まれているとみなされ検閲で輸入禁止。終戦まで政府により上映禁止措置が取られていました。1959年になって評論家の山田和夫など有志による自主上映運動により、初めて日本の観客が目にした映画で、1967年にATGの配給で、ようやく劇場で一般公開された作品です。「戦艦ポチョムキン」を制作したのはセルゲーイ・ミハーイロヴィチ・エイゼンシュテインと云うソ連史上もっとも評価を受けている監督です。エイゼンシュテインは成長すると、かつてロシア内戦の最中に労働者、農民赤軍として設立された赤軍に入隊し、復員後は参謀本部アカデミーで日本語を学ぶのです。これが後の映画監督としてのキャリアに多大な影響を与えることになります。1920年ごろから映画の勉強を始め、1925年に彼の代表作とされる「戦艦ポチョムキン」を監督するのです。「戦艦ポチョムキン」は視点の異なる複数のカットを組み合わせて用いる「モンタージュ理論」を確立した作品として知られています。エイゼンシュテインは「アトラクションのモンタージュ」と云った独創的なモンタージュ理論を実施しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えました。「戦艦ポチョムキン」は、現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、D・W・グリフィス監督による「國民の創生」、オーソン・ウェルズが監督・製作・脚本・主演をした「市民ケーン」とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされています。エイゼンシュテインがモンタージュ理論を確立できたのは、日本人教師に漢字を習っていたからだと云います。漢字という象形文字の持つ抽象的な概念を描写的デザインに表現しているという基本コンセプトから、「身」と「美」で「躾」に、「口」と「鳥」で「鳴」になるなど、全く別の意味になるということに興味を持ったと云います。このコンセプトを基にモンタージュ理論を開発したと云うのです。で、「オデッサの階段」シーンですが、実は史実によると「オデッサの階段での市民を虐殺する」事件というものは存在していません。ウクライナのオデッサにある、巨大な階段「ポチョムキンの階段」がこの映画のモデルになったところで、階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、階段を見下ろすと階段をそれほど長いようには見せないと云う錯視を作り出すためのデザインがほどこされています。事件当時オデッサにいたジャーナリストのコルネイ・チュコフスキーによれば、コサック兵が階段の上にいたかどうか、人々で階段がいっぱいになっていたか、発砲が実際に行われたか、すべて不明なことだらけらしいです。恐らく、エイゼンシュテインはあらゆる都市で実際に発生した戦慄すべき弾圧を、この階段のシーンに人間の悲劇の象徴の一つとして凝縮させたのだろうと云われています。エイゼンシュテインは「戦艦ポチョムキン」後も、「十月」(1928年)や「アレクサンドル・ネフスキー」(1938年)、「イワン雷帝」(1944年)といった映画史に残る重要な作品を次々と世に送り出しました。「十月」はレーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握した十月革命の模様が描かれています。この作品には実際に革命に参加した人々が多く参加しており、エイゼンシュテインの天才的な映像技術とともにそのリアリズムは際だっているのです。「イワン雷帝」は、現在のロシアの基礎を築いたイヴァン4世の生涯を描いた作品で、全3部構成で制作される予定でした。第1部は時の権力者スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止、第3部はついに完成されませんでした。エイゼンシュテインは1928年に2代目市川左團次の歌舞伎初の海外公演をモスクワで観劇しており、歌舞伎の「見得」を初めて見たエイゼンシュテインは左團次に「歌舞伎の見得は映画の技法でいうクロースアップだ」と感想を述べ大いに感銘を受けました。その影響から、「イワン雷帝」ではクローズアップ・ショットで主人公に見得を切らせるという、歌舞伎的な様式の演出を用いているのです。
Mar 22, 2018
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きょうは土星と木星のお話しぢゃなくて、それぞれの衛星のお話し。衛星と云っても、ただの衛星ぢゃなくて、どっちも水蒸気を噴出している衛星です。水蒸気を噴出してると云うのは、と~ぜん水ですから、生命が存在する可能性があるってことですね。先ず、土星の第2衛星「エンケラドゥス」直径は498km ですから、お月さまの直径3,474km から見たら、ずいぶん小さい天体です。土星からの距離は約24万km、土星の周りを33時間ほどで公転している衛星です。1997年にNASAと欧州宇宙機関(ESA)共同で打ち上げられたカッシーニ探査機は、金星→金星→地球→木星と合計4回スイングバイ(天体の運動と引力を利用して飛行すること)を行なって土星軌道に到着。そして土星第6衛星にして、太陽系でイチバン デカイ衛星「タイタン」の軌道に乗ると、積んでた惑星探査機「ホイヘンス・プローブ」をカッシーニから切り離してタイタンに着陸させたのです。このカッシーニ探査機が土星と木星の衛星の重要な観測をおこなったのですね。カッシーニ探査機の観測により、「エンケラドゥス」の南極付近の表面で活発な地質活動をしている証拠と思われるひび割れが見つかりました。エンケラドゥスの表面は、このひび割れから噴出する「氷の間欠泉」によって絶えず塗り替えられているのです。さらにひび割れから噴出しているものが氷の粒子および水蒸気で、地下に存在する液体の水が貯水池のような役割を果たしている可能性があるそうです。この間欠泉のことをNASAは「プルーム」と呼んでいるのですが、そのブルームの中からメタン、プロパン、アセチレン、ホルムアルデヒドなど、生命進化の出発点である有機分子が検出されています。さらにプルームの氷の粒子から塩分まで検出されたのです。エンケラドゥスから噴出した、この水蒸気や氷の粒子がプラズマになり、土星の磁場に取り込まれることによって土星磁場の回転速度がわずかに遅くなることが判明しています。電波観測を基に計算されてきた土星の自転周期は、エンケラドゥスの影響で、計算上より長くなってしまうことを意味します。いっぽう木星の第2衛星「エウロパ」は、アーサー・C・クラークのSF小説「2010年宇宙の旅」を 映画化した「2010年」で、木星が第2の太陽と化したあと、木星の光と熱を受けるようになったエウロパに生命が栄え始め、数千年後には湿地帯が出現し、ジャングルが生い茂っていたと云うラストシーンが登場します。エウロパはガリレオ・ガリレイによって発見された木星の4つの衛星「ガリレオ衛星」の中でイチバン小さな衛星です。その大きさ(3,203km )はお月さまよりわずかに小さいですが、太陽系内では6番目に大きい衛星なんですね。エウロパで最も目立つ特徴は、表面全体にわたって縦横に走っている暗い筋状の割れ目模様です。これは「線条」と呼ばれていて、割れ目の両側にある地殻の縁が動いていることが判明してるのですね。大きい帯状のものは幅が20km 以上あり、規則的な縞模様と明るい物質からなる中央の帯を持ってます。この線条ができるのは、エウロパの地殻が広がって地下の温かい層が外部にさらされることによって、割れ目に沿って連なった温かい「氷の噴火」によって形成されたと予想されてるのです。これと同じものが地球の中央海嶺(海底山脈)で見られます。エウロパの線条は、木星の潮汐力によるエウロパの変形によって引き起こされてると考えられています。つまり、この星にも水(氷)が存在するのです。現在までエウロパのことで分かっていることは、宇宙空間に向けて水を噴出(間欠泉)していること。そして、表面の氷の下に地球よりもはるかに多くの水をたたえた海(内部海)があることです。さらに内部海に起源を持つと思われる塩がエウロパ表面に見られるいくつかの地形を覆っています。エウロパ自体の主成分はケイ酸塩岩石で、おそらくは鉄とニッケルからなる金属核を持ってます。酸素を主成分とした極めて薄い大気があるのです。内部海には、地球外生命が存在する可能性があるかも知れません。土星の衛星「エンケラドゥス」、木星の衛星「エウロパ」、ともに間欠泉を吹き出していて、ともに生命体の存在可能性があると。まぁ万が一、なにか発見されても、バクテリアとか、そんな単純な生命体でしょうが、それを云ったら、我々人類だって元を質せばご同様ですからね。
Apr 29, 2021
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私が若者だったトラッド全盛のころは、何と云ってもニューヨークのブルックス・ブラザーズが憧れの的。そりゃあバブルの頃にお嬢さまたちが、やれシャネルだ、やれヴィトンだと騒いでいたのとご同様。ブルックスのエンブレムついたジャケットなんてはおっていたら...しょ~もない人間でもいっぱしに見える(笑)そのブルックス・ブラザーズが昨年、コロナの影響で打撃を受け、アメリカの民事再生法を申請してしまいましたね。ブルックスって、世界最古のブランドなのにこの有様です。同じことが日本のレナウンでも...負債総額約139億円ですからハンパない倒産ですね。私らの世代はレナウンのCMと云えば、お約束の「ワンサカ娘」でシルヴィ・バルタンと相場が決まってました。こっちは若い女性向け衣料ですが、男性用だと当時大ブームのポロシャツは「アーノルドパーマー」のロゴ入り。これもレナウンが独自のブランドマークを考案したもので、別にアメリカのアパレルを輸入したものではありません。アーノルドパーマー、ご存知ですか?PGAツアー通算62勝の偉大なゴルファーです。もちろん、そんな時代は日本のゴルフプロなんて問題にならなかった。日本人のPGAツアー参加の草分け"青木功"でさえ、1980年代に入ってからですが、そのころパーマーは既に"シニア"メジャー大会で活躍していましたから。しかし、ホントウのところ私はアーノルドパーマーのポロシャツを1枚も持っていませんでした。なんとなく、ロゴが趣味にあわなくて(笑)私がイチバン集めてたポロシャツは「マックレガー」でしたね。こっちはスコットランド生まれでアメリカ育ちのオーナーが始めた企業。マックレガーと云えば、なんと云ってもジェームス・ディーンです。映画「理由なき反抗」で彼が着用したマックレガーの真っ赤なジャンパーは「アンチフリーズジャケット」。とにかくタイヘンな人気でした。他によく着ていたのは、帝王と呼ばれたプロゴルファー"ジャック・ニクラウス"の熊のロゴでポピュラーな「ゴールデンベア」と、世界で初めてゴルフ専用ウェアを誕生させた、これもポピュラーな「マンシングウェア」ですかね。「ゴールデンベア」はコスギがジャック・ニクラウスと契約を結び生産してたものだし、「マンシング」はデサントが販売代理店でした。どっちも、みなさんよくご存知ですよね?う~ん、今の時代ではご存知ない方もあるのかな...そうそう、フランスの「ラコステ」と、「クロコダイル」論争と云うのもありましたな。ラコステもクロコダイルもワニがシンボルマークで、右向いてるか(ラコステ)、左向いてるか(クロコダイル)。ラコステの創業は1933年で、クロコダイルは20年ほど後の1952年。クロコダイルは香港ブランドです。クロコダイルの日本販売元はヤマトインターナショナルで、後に自社ブランドへ切り替えています。ヤマトインターナショナルがクロコダイルの日本販売を始めたのは1963年。ところが老舗のラコステの日本国内販売はそれより後だったため、日本では先にクロコダイルの知名度があがったのですね。で、ラコステは商標権侵害で訴えたのです。日本だけぢゃなくて、世界中で。ところが訴えたときにはクロコダイルも知名度が充分あったので「両者は混同しない」と、何度もラコステ側が敗訴してます。他にはウェザーコックとかトロイとか。ブランドものではポロラルフローレン、フレッドペリー、お馴染みのバーバリーとか、今でもこれ見よがしに胸にワンポイントつけてる衣類がありますね。もう私はこれらのメーカーには興味なくなって、もっぱら普段着はユニクロとアディダス、ナイキ、リーボックと云ったスポーツ系ばかり集めてます。この方がお気楽に着れますからね。フレッドペリーなんて高級品、こんなオジンには似合いません(笑)ところで、このワンポイントのロゴマーク、右側についててもよさそうなのに、決まったように左側についてるのはナゼ?これには諸説ありまして、例えばみなさんがネットを見るとき、先ず左側に目をやるのと同じで、・人は右側より左側を注視する傾向があるため...とか。・例えば、軍服でも星章やワッペン、メダルも左胸に配置されているように、歴史的に左側に配置されてるから...とか。・アラビア語などのように右から左に文字を書く国もありますが、西洋では左から右。その習慣にあわせてる...とか。・多くの人が右利きなので、逆に左側をより意識している...とか。・左側のロゴは、記憶に残りやすく、その視認率は平均89%で、右側につけたロゴよりよく覚えられているとか。そんな理由らしいです。
Apr 30, 2021
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東西ヨーロッパを結ぶ列車と云えばアガサ・クリスティーの小説で有名なオリエント急行。起源は1883年に運行が開始されたパリ~コンスタンティノープル(イスタンブール)間の夜行寝台列車です。その後、西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ国際寝台列車を押し並べてオリエント急行と呼ぶようになりました。どの列車も最盛期は第2次大戦前のことで、戦後は飛行機の普及や東西冷戦のため廃れていき、本家本元のオリエント急行も2009年(平成21年)にその幕を閉じました。この元祖オリエント急行を今、再現するとど~云う行程になるのでしょう?イスタンブール行の場合、実際の出発地はパリではなく、今やドーバー海峡の海底を英仏海峡トンネルがイギリスのフォークストンと結んでいるカレーなんですが、ここは同じフランスとしてパリ起点と考えると、次の停車駅はかつてドイツ帝国に属したが、近世初頭にドイツの混乱に乗じてフランスが侵略して併合したアルザス地方のストラスブールです。現在パリからストラスブールまで乗り継ぎなしの最短の列車だと1時間45分で着きます。これはフランス国鉄のTGV inOui と云うTGV(高速鉄道)で、オリエント急行が豪華な寝台列車だったことを考えると、なんとも味気ない車両になりましたな。ストラスブールを出発すると、次の停車駅はドイツのミュンヘンです。最短所要時間は約3時間30分で、ストラスブール駅から出発し、最終的にミュンヘンのミュンヘン中央駅に到着します。ここもフランス国鉄のTGV利用になります。ミュンヘン中央駅の旧駅舎は第2次大戦で破壊され、戦後に現代的なデザインの建物が建設されてます。ミュンヘン中央駅を出発すると、次はモーツァルトが長年暮らしてたオーストリアのザルツブルクになります。ザルツブルグ中央駅まで所要時間は約2時間で、ドイツ鉄道が運行しているICE(インターシティ エクスプレス)と云う高速列車が利用できます。オリエント急行でザルツブルクの次の停車駅は、同じオーストリアのリンツで現在はヨーロッパ都市間特急「ユーロシティ」で所要時間は約1時間。その後、ウィーンに停車します。リンツ-ウィーン間はユーロシティで約1時間30分。ウィーンを出発すると、いよいよ中欧ハンガリーの首都ブダペストになります。ウィーンから地域鉄道利用だと4時間15分かかりますが、オーストリア国鉄 (ÖBB) のレイルジェット (Railjet) 高速鉄道だとブダペスト東駅 (ケレティ パーイアウドゥヴァル)まで約2時間50分で着きます。ブダペストの次はセルビアのベオグラードに行きます。だんだんオリエント急行らしくなってきましたな。ベオグラード中央駅は旧ターミナル駅だったベオグラード駅より約1.6km 南にあります。ベオグラード中央駅を出発して同じセルビアのニシュへ。ニシュはバルカン半島でも最も古い歴史を持つ都市の1つです。ベオグラードからニシュまで車で行けば約2時間で到達しますが、鉄道だとセルビアの国有鉄道「スルビヤヴォス(Serbia Train)」に乗って約6時間もかかります。将来はベオグラード~ニシュ間に、最大時速200km の高速鉄道が建設される予定です。いよいよ追い込みに入ってきました。ニシュを出ると、こんどはブルガリアの首都ソフィア行きです。ソフィア中央駅に隣接してソフィア中央バスステーションがあり、これはブルガリアで最大で最も近代的なバス・ターミナルです。またソフィア地下鉄の中央駅も近接していて、まさにソフィア交通の中心なんですね。実際にはベオグラードからソフィアまでニシュ経由の直通列車が走ってて、所要時間は11時間30分かかります。ニシュ止めだと、ニシュで1泊しなければならないですね。さて、ソフィアを出発するといよいよゴールのイスタンブールです。ただソフィア発のトルコ国鉄TCDD夜行列車「ソフィア-イスタンブール エクスプレス」のトルコ側到着地はイスタンブール郊外のハルカリ駅になるんですね。この列車とは別にソフィア発、ハルカリ経由でイスタンブールの港町イェニカプに到着する便もあります。ソフィア-イスタンブール エクスプレスでハルカリ駅まで所要時間約10時間。イェニカプ行きの列車だと、乗り継ぎを含む所要時間は約11時間27分です。このソフィア-イスタンブール エクスプレスの難点は、夜中の1時過ぎにブルガリア国境の駅スピレングラードに到着すると、寝ていても車掌に「パースポートコントロール」で起こされること。そしてトルコ側国境の駅カプクレに到着するのが2時半で、ここでもパースポートコントロール。そうして、ようやくイスタンブールのハルカリ駅に到着と云うワケです。いかがです?あまりにも様変わりしたオリエント急行の導線をたどる旅。オリエント急行の開通記念列車はパリ・ストラスブール駅(パリ東駅)を発車し、6日かけてイスタンブールに到着してます。ただ、このときはドナウ川を船で渡ってますし、ヴァルナ~イスタンブールは汽船で黒海を渡ってますね。
Dec 23, 2024
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江戸時代の刑罰は現在のと違って「罪を犯すとこう云う仕置きを受ける」と云う見せしめの意味合いが強かったのですな。しかもどの罪がどの刑罰を受けるのかは公にされていなかったため、実際に刑罰を受けてるところを目撃しないと分からない仕組みでした。なので罪を犯した者は、裁決が下りるまでどんな刑罰が下されるか分からなかったのです。刑罰には呵責(しかり)、押込(おしこめ)、敲(たたき)、追放、遠島、死刑の6段階の正刑があり、その他に付加刑として引回(ひきまわし)、晒首(さらしくび)、闕所(けっしょ)、晒(さらし)がありました。「呵責」とは軽犯罪などを犯したとき、役所に呼び出されて奉行、代官から直接叱責を受ける刑です。刑罰としては最も軽く、厳密には一般的な「呵責」と、より重い刑とされた「急度叱り」の2種類があり、過料などが併科される場合もありました。「押込」は自宅や自室の前に戸を立てて閉鎖(いわゆる座敷牢)して、一定期間の昼夜の出入、通信を一切禁じて謹慎、幽閉させることです。「敲」は衣服を剥ぎひざまずかせた罪人の肩、背、腰を殴打することです。その回数は一般には50回。重罪の場合100回(重敲)が常でした。 「追放」「遠島」「死刑」「晒首(さらしくび)」は分かりますね。「引回」は時代劇で「市中引き回しの上打ち首獄門」と云われる罪人を馬に乗せ、罪状を書いた捨札などと共に刑場まで公開で連行していくことです。「闕所」は財産没収刑のことで、土地などの権利を失うことです。「晒」はこれこれと云うものはこんな悪いことをしたと掲示することで、現在もネット上に他人の悪口を載せているのがありますが、あれも「晒」のひとつです。たとえば博打でつかまったとか、隠れて売春をした場合は「過料」つまり罰金を支払わなければならなかったのですが、これが一番軽い刑です。軽い盗みの場合は「敲(たたき)」の刑です。しかしこれが重なると「入墨」と云う入墨刑が課せられます。罪をおって入墨を施された前科者がより大きな入れ墨を施すことでこれを隠そうとする場合もありました。姉妹伯母姪と密通した者、男女心中(相対死)で、女が生き残った時はその女、また両人存命の場合は両人とも、主人と下女の心中で、主人が生き残った場合の主人などは「非人手下」と云って「非人」つまり被刑者を非人という身分に落とす刑がありました。これはいわゆる身分刑にあたります。修行中の僧が女犯をおかした場合は「晒」です。酒乱、乱心、人ちがいやケンカ口論で人を殺めた場合は最も軽い死刑の「下手人」でした。死刑に「軽い」「重い」?江戸時代は死刑と云っても、罪状に応じて6種類も定められていたのですね。他の死刑は「鋸挽き」「磔」「獄門」「火刑」「死罪」とおぞましいものばかりですが、「下手人」は刀で首をはねるだけの軽いものでした(笑)10両以上の盗みや辻斬りは「死罪」です。この時代、一般の人は3両あれば1年間暮らせたので、10両と云えば結構な額だったのですね。放火は罪重いです「火刑」。まさに目には目ですな。主人傷害、親殺しは「磔」。最も重いのが主殺しで「鋸挽き」です。罪人の体を鋸で挽く刑罰が「鋸挽き」(痛いったら!)そんな罪人を入れてるのが牢屋ですが、現在と違うのは未決囚だけを収監する場所だったのですね。つまり現代で云えば留置場のようなものです。この牢屋と云うのが、武士と庶民で扱いが違ったのです。江戸時代の最大規模の牢屋は「小伝馬町牢屋敷」です。ここで庶民は板敷の牢に入れられて、食事は朝夕の2回のみ。対する武士は畳敷きの揚屋と呼ばれる牢に入れられて、食事は3食ついてきてました。しかも武士には軽罪の者が給仕役として侍り、例えば湯を飲みたいと云うと、この給仕役がスグ手配すると云ったものだったようです。その他、小伝馬町牢屋敷には町奉行が捕らえた者、寺社奉行が捕らえた者と別々の牢が用意されてて、女の牢は重罪とそうでない者によって別牢になっていました。オモシロイのは「僧」は「僧専用」の牢に入らなければならなかったのです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jun 23, 2016
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いまごろ出版不況と云うことで、その中で27万部も売れた(しかも発売日に完売!)雑誌があります。2015年の女性ファッション雑誌「Sweet」7月号です。小嶋陽菜さんが表紙を飾ったこの雑誌、ファッション誌で27万部の売上げというのはスゴイらしい。ちなみにファッション以外の雑誌を1号あたりの平均発行部数で調べると(2015年)、男性ヤング誌部門では集英社の「MEN'S NON NO」がダントツで13万部。男性ヤングアダルト誌部門ではマガジンハウスの「Tarzan」が19万部。男性向け漫画雑誌部門は集英社の「週刊少年ジャンプ」がダントツで239万部。講談社の「週刊少年マガジン」が113万部でこれに続きます。ちなみにベネッセコーポレーションの「いぬのきもち」が10万部、「ねこのきもち」は9万部と云う結果です。ところが戦前の日本において日本出版史上初めて発行部数100万部を突破した国民的雑誌があったのです。出版社は大日本雄辯會講談社と云って、現在の講談社です。雑誌の名前は「キング」。「一家一冊」「面白くてためになる」「国民大衆雑誌」というキャッチフレーズで、全ページルビつきの大衆娯楽雑誌として創刊されました。創刊号は関東大震災の傷跡が残る大正14年(1925年)でこの時の価格が50銭。昭和32年(1957年)の廃刊まで戦前、戦後を通して発行され続けました。当時イチバン売れてた雑誌は「主婦之友」で、これの発行部数が24万部。ところが「キング」は創刊号ですら74万部の売り上げ。創刊から2年後には大台を飛び越えて120万部、翌年はさらに伸ばし150万部を記録したのです。これは日本出版史上の一大快挙でありました。内容は小説、講談、実用知識、説話、笑い話など多岐に渡り、安価でボリュームのあるページ数、豪華な付録、万人受けする多彩で娯楽的な編集方針などが、その成功の原因でありました。都市労働者層から大学生や旧制高校生、さらに日雇い労働者まで幅広い読者を獲得しました。「キング」に半年遅れて創刊された「家の光」が農民層に多く読まれるようになる昭和6、7年ごろまでは、都市部だけでなく農村でもほとんど1位を占めたほどです。当時の日本の人口は約6,000万人。人口が倍になった現在、もしも当時の「キング」が発刊されていたら300万部売り上げてる計算になります。この「キング」を作ったのは野間清治と云う東京帝国大学出身の元教員です。彼は優れたアイディアマンで、当時「演説」が社会的に流行(戦前は政治演説会がある種の流行だったのです)しているのを見るとそれを紙上で再現して、明治43年(1910年)に雑誌「雄弁」を創刊。その翌年には巷で「講談」が流行しているのを見て、講談を再現した雑誌「講談倶楽部」を発行したりしてたのです。「雄弁」と「講談倶楽部」はまたたくまに日本有数の雑誌となりました。その後、野間は子供向けの雑誌「少年倶楽部」婦人向け雑誌「婦人倶楽部」を発刊してこれも大当たり。こうして大日本雄辯會講談社(講談社)は日本有数の雑誌出版社になっていったのです。こうしたさまざまな雑誌の集大成とも云えるのが「キング」でした。先ず値段を驚くほど"安く"したのです。「中央公論」や「改造」などのライバル誌が1冊1円以上で売られていた時代に、「キング」は50銭です。こんなに安くできたのは紙面に大量の広告を掲載したことが要因でした。また発売キャンペーンも大々的に行いました。地域の有力者へは今でいうダイレクトメールを送付し、書店の店頭へ書名入り幟旗を掲げてもらう(これは「キング」が起源と云われています)。チラシやポスターなど、新聞広告以外の宣伝だけでも30種あまり、総計7,000万部を全国へ配布した他、チンドン屋を繰り出したり、コマーシャルソングを野口雨情作詞で発売した上、踊りまであったのです。「キング」は徹底的に大衆路線を突っ走りました。これまで本や雑誌を読まなかったような人々を読者として取り込むため、小難しい議論は排除して、誰もが興味をもつ社会的な話題や気軽に読める人情話、歴史英雄伝などを中心に載せたのです。そしてこの雑誌から売れっ子作家が生まれました。宮本武蔵を執筆した「吉川英治」です。昭和18年(1943年)に「キング」は敵性語であるという理由で「富士」に改題されましたが、太平洋戦争後は再び「キング」に戻されています。しかし一時的に30万部まで持ち直した程度で、雑誌の細分化や週刊誌の台頭もあり、昭和32年に終刊しました。「キング」をリニューアルした新雑誌「日本」が廃刊になった年に創刊されましたが、昭和41年(1966年)に月刊の総合雑誌「現代」と入れ替わる形で廃刊となっています。雑誌「週刊少年キング」はこの「キング」とは何の関係もありません。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jul 6, 2016
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柳原家と云う幕末から明治維新にかけて多数の人材を輩出した名家がありました。この頃の当主、柳原光愛は権中納言、議奏となった人です。その光愛の次女、愛子は明治天皇に典侍として仕え、大正天皇の生母となった人です。ところがこの一家は後々、数々のスキャンダルにまみれるのですな。光愛の息子、前光の後を嗣いで伯爵となった義光は野心家だったのですが、彼の妹が有名なあき子、つまり柳原白蓮です。柳原白蓮...世に云う「白蓮事件」とは、福岡の炭鉱王 伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(あき子)が夫と訪れていた東京からひとり行方をくらまして、社会運動家で法学士の宮崎龍介と駆け落ちした事件です。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」では仲間由紀恵さんが柳原白蓮役になって有名になりました。姦通罪が存在していた時代のことです。しかも当事者は華族の流れをくむ世間的にも著名人。マスコミが放っておくハズありません。たちまちマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられました。しかも夫の伝右衛門があき子に対して「絶縁状」をこともあろうに大阪朝日新聞を通じて公開してしまったのですな。対するあき子も別のメディアを通じて縁切りの宣言を行うと云う、当時としては異例中の異例なことをしでかしたワケです。結局、夫婦は分かれたのですが、それは当時としては珍しく、伝右衛門の優しい処置によるものだったのです。で、これだけでも大変な騒ぎなのに、義光の娘 徳子の「不良華族事件」に見舞われるのですな。「不良華族事件」とは、東京のダンスホールの主任ダンス教師が警視庁に検挙されたことから始まります。この男、女優やダンサー、良家の娘、有閑マダムなど多くの女性と関係を持っていたのです。先ほども云いましたように、姦通罪が存在した時代で、男の行為は検挙の対象となり得たのです。ここで驚嘆すべき事実を男は白状します。男に数多くの女性客を紹介したのは歌人の吉井勇の妻 徳子であることを自供したのです。この吉井勇の妻 徳子こそ、柳原義光の娘だったのですな。そして徳子の遊び仲間として歌人斎藤茂吉の妻 輝子なんかの名前が出てしまうのです。吉井勇も伯爵だったのですが、同じ伯爵家同士と云っても吉井勇は新華族。対する徳子は押しも押されもしない堂上華族の出。そのため勇は徳子と距離を置いており、そのことが影響して徳子には遊び癖がついてしまったのですな。そこで徳子は不倫、不倫相手の妻もダンス教師と不倫、というダブル不倫まで発覚してしまうのです。ところが、この徳子の父親、柳原義光自身もスキャンダルにまみれます。男色相手の新派の元役者の男に手切れ金を脅し取られる事件をおこしたのです。つまり義光はバイセクシアルと云うことで、男色相手田中吉太郎は役者あがりでバーを経営、華族相手の男娼として知られていた男です。田中に飽きた義光は別の男娼を探すようになるのですが、華族に男娼を斡旋していたブローカーの男がこれを知り、義光に手切金2,000円を支払うよう要求するのですな。そんな大金のない義光が拒否すると、目真野は脅迫するようになる。進退窮まった義光は田中を警察に訴えると云う筋書きです。事件は昭和天皇も知るところとなり、木戸幸一に事態の収拾を命じられることとなりましたが、当の本人義光は避暑と称して姿をくらましていたそうです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Jun 26, 2016
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世界中旅行したいけど、北朝鮮とアフリカだけは嫌やなぁ。アフリカでちょっと見てみたいのは北アフリカのモロッコとチュニジアぐらい。なんと云ってもアフリカは食べる楽しみが無さそう。アンゴラ、ガボン、カメルーン、コンゴ、コンゴ民主共和国、サントメ・プリンシペ、赤道ギニア、チャド、中央アフリカ、ブルンジ、ルワンダ赤道アフリカの国々は少なくとも私にとっては最も縁の無い国々です。そんな無知の赤道アフリカでも、とりわけ"ガボン共和国"と云うのはほとんど名前さえ聞いたことがあるかないか。北西に赤道ギニア、北にカメルーン、南と東にコンゴ共和国と国境を接し、西は大西洋のギニア湾に面している国です。アルベルト・シュヴァイツァーが医療・伝道活動を行っていたのは、この国のランバレネと云う土地です。この国は長い間、奴隷貿易に苦しめられてきました。15世紀末にポルトガル人が渡来し、奴隷貿易を行ったのをかわきりに、オランダ、イギリス、フランスが進出してきました。この地は奴隷貿易と象牙の集散地として栄えたのです。1885年にフランスが占領しました。1910年にフランス領赤道アフリカの一部となり、この状態は1959年まで続いたのです。ガボンは国土の80%以上が森林で、近隣諸国と比べ人口密度が低いため、手付かずの豊かな自然が多く残されています。アフリカ森林には、ゾウ、ゴリラ、チンパンジーなどの大型哺乳類が多数生息しているのです。ガボンには多様な自然環境をふくむ、13の国立公園があります。ガボン政府は、自然環境の保全に力を入れており、中部のロペ国立公園や、大西洋岸のロアンゴ国立公園ではエコツーリズムが導入されています。また南西部ニャンガ州に位置するムカラバ-ドゥドゥ国立公園では、日本人研究グループによる大型類人猿の長期野外研究プロジェクトが進められています。2007年にロペ=オカンダ生態系と残存文化的景観が複合遺産として世界遺産に登録されました。気候は熱帯モンスーンで、首都リーブルヴィルの降雨量は雨季の9~5月が毎月約300mmですが、乾季の6~8月は3ヶ月で35mmと極端に少ないのが特徴です。1日の最高気温は平均29~30度Cですから、比較的過ごしやすい部類ですね。とは云ってもスコールが来ないので、午後はかなり暑いそうです。旅行者は毎日、ペットボトル2~3本の水を飲んでいるもよう。コカコーラやファンタは750ml という特大のビンで売られています。これだけ水を飲んでいても、ほとんど汗になって出てしまうので意外なほどトイレに行かないそうです。トイレシャワー共同の部屋は5,000セーファーフラン(CFA、日本円で約850円)Lalala(ラララ)の集落に1件しかない宿。このLalalaは地図にも名前がありますが、村などというものはなく、三つ又のジャンクションを中心に十数軒の家が並ぶだけの何もない所でした。主要道路の分岐にある小さな村の一軒宿。電気、水道は無し。ベッドがあるだけの宿です。こちらは市場と典型的なガボン料理。ヌジョレと云う町で、トマトと玉ねぎと赤唐辛子醤油で鶏肉と牛肉のソテー。こちらはヌジョレの美容師。ガボンランバレネ魚の燻製ストリートガボンの魅力的な民族お面。このガボンには天然原子炉と云う珍しい土地があります。「オクロの天然原子炉」天然原子炉とは、過去に自律的な核分裂反応が起こっていたことが同位体比からわかるウラン鉱床のことです。天然原子炉の知られている地球上唯一の場所がオクロにある3つの鉱床で、自律的な核分裂反応のあった場所が16箇所見つかっています。20億年ほど前、数十万年にわたって、平均で100kW 相当の出力の反応が起きていたもようです。オクロ以外では天然原子炉は見つかっていません。ほかのウラン鉱床も核分裂反応を起こすのに十分なウランが含まれていたものの、ウランと水と、核反応を起こすための物理的な条件とがそろっていたのはオクロ以外にはなかったのです。天然原子炉では、ウランに富んだ鉱床に地下水が染み込んで、水が中性子減速材として機能することで核分裂反応が起こります。核分裂反応による熱で地下水が沸騰して無くなると反応が減速して停止する。鉱床の温度が冷えて、短命の核分裂生成物が崩壊したあと、地下水が染み込むと、また同じサイクルを繰り返すと云う仕組みです。このような核分裂反応は、連鎖反応ができなくなるまで数十万年にわたって続いたそうです。中之島公園の猫たち-SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Dec 9, 2016
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映画と云うのは、と~ぜん主演俳優だけでは成り立たなくて、そこに芸達者な脇役が存在してこそですな。男優の脇役はよく取り上げられてるので、きょうは私のお気に入り脇役女優たちを。脇役と云っても、「マンマ・ミーア!」や「レ・ミゼラブル」に出演してたアマンダ・サイフリッドとか、「プラダを着た悪魔」とか「レ・ミゼラブル」に出演してたアン・ハサウェイみたいなとびきりの美人ぢゃなくて、演技力が魅力の女優さんを。とは云っても、「スノーホワイト」や「プロメテウス」に登場してたシャーリーズ・セロンみたいに、とっておきの美人さんもいますけどね(笑)「プロメテウス」でプロメテウス号の責任者メレディス・ヴィッカーズ役をやってたシャーリーズ・セロンのなんと魅力的なことか。先ずは、「ボーン・スプレマシー」や「ボーン・レガシー」でCIAの調査官パメラ・ランディ役をやってたジョーン・アレン。決して美人ぢゃないけど、とても理知的な雰囲気が。1956年生まれですから、もう62歳なんですね。ジョーン・アレンは、アメリカの副大統領に就任しようとしますが、女性に対して差別的な議員の妨害にあう「ザ・コンテンダー」と云う映画で、アカデミー賞主演女優賞を受賞してる実力派です。助演女優賞では、「ニクソン」と「クルーシブル」で2度もノミネートされています。とにかく雰囲気がいいですね~大好きな女優さんのひとりです。お次はリーアム・ニーソン主演の「フライト・ゲーム」で、CA役やってたルピタ・ニョンゴ。彼女は2013年に公開された初出演の映画、「それでも夜は明ける」で、女性奴隷役をやっていきなりアカデミー賞助演女優賞を獲得した女優さんです。もともとはケニア人ですが、生まれたのはメキシコ。育ったのはケニアです。「スターウォーズ」新三部作にも、マズ・カナタ役で出ていますね。次は「イーグル・アイ」や「ミッション:8ミニッツ」のミシェル・モナハン。と、云うよりトム・クルーズの「Mi:III」でイーサン・ハントの妻ジュリアの方が有名ですね。この女優さん、大学時代は乃木坂に年間数ヶ月程度滞在しながら、日本でモデルの仕事をしており、ある程度の日本語を話すこともできるのですね。「イーグル・アイ」では、自分の子供を人質にとられて大統領を殺害せよと命令される数奇なお母さん役をこなしていました。とにかく、笑顔が魅力的。なんともほのぼのさせる表情なんですな。お次は、日本語はおろか英語のサイトでさえ、ほとんどプロフィールの載ってない女優さん。でも「マトリックス」ご覧になった方だったら、その強烈な存在感で印象に残っているハズです。ベリンダ・マクローリー。名前は知らなくても、映画「マトリックス」の"スウィッチ"役を覚えていらっしゃるでしょう。彼女はオーストラリアの女優で、アメリカの映画は「マトリックス」がデビュー作のようです。他の作品と云っても、ほとんど無名のものばかり。日本では福山雅治主演で映画化された「容疑者Xの献身」を、韓国で映画化した「X -エックス-」とか、「バタフライエフェクト・イン・クライモリ」なんてサスペンスホラー程度です。要するに彼女の魅力は「マトリックス」の"スウィッチ"役に凝縮されているのですね。最後の女優さんは昔の人。今はクロアチア領、当時はイタリアのアリダ・ヴァリです。本名は神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)アリダ・マリア・ローラ・アルテンブルガー・フォン・メルケンステイン・フラウエンベルク男爵夫人と云うとても長い名前。戦時中は、ファシスト政権を嫌って出演を断ったために、逮捕されそうになったこともあるとか。彼女の出演作で最も有名なのは「第三の男」でしょう。あのラストシーンで、アントン・カラスのチターの響きが流れ、枯葉舞う一本道。ジョセフ・コットンを一顧だにせず、現れ、通り過ぎる...もう存在感のかたまりですな。英語に強い訛りがあったため、アメリカでは成功はしなかそうですが、それでもアルフレッド・ヒッチコックの「パラダイン夫人の恋」に出演したり、イタリアでは100本以上の映画に出演してます。特にミケランジェロ・アントニオーニの「さすらい」とか、ルキノ・ヴィスコンティの「夏の嵐」などが有名です。
Sep 6, 2018
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ヨメの友達がモスクワ旅行にいってきました。もちろんパッケージ旅行です。ロシア旅行はだんぜん厳寒期がいいとの弁でしたが、モスクワの1年で最も寒い2月5日の平均最低気温は -11℃、最高気温でも -5℃なんですよ~これを意外に暖かいと云うのか、やっぱり寒いと云うのか?しかし行ってみたいですね、ロシア旅行。なにしろ広いから、見るとこ多くて、行き出したら病みつきになりそう。でも関空からモスクワまで13時間~14時間かかります。とても耐えられないです。ロシアがまだ赤の時代の社会主義国家だったころ、西側諸国の文化は禁忌とされていました。それでも若者たちは、西から生まれたロック文化を吸収しようと必死だったのです。情報が統制されている中、彼らがどんな手段で西側の文化を知りえたのかは分かりません。しかし時代の最先端を行きたかった彼らは、ソルホーズ、コルホーズといった時代にゴス、パンク、ロック、ヘヴィメタなどを吸収していったのです。ロシア自体が一般の日本人には縁遠い存在なのに、ロシアの周辺諸国となるともっと縁がないとこ多いですね。ど~もロシアと云う国は、ヨーロッパでもない、かと云ってアジアでもないような...その周辺国と云うと、もっとヨーロッパ色は薄れています。ソビエト連邦構成共和国とは旧ソ連時代、それも1956年~1989年に存在した共和国です。全部で15の共和国がありました。しかし共和国と云っても、自分たちの意志でソ連の構成共和国となったのではなく、なかば無理強い的にソ連の圧力に負けてソ連に直属する形で国家を構成していたのが多かったようです。これらの国々の多くは、ソ連に牛耳られる前は、ドイツ軍によって牛耳られてたので、散々な歴史をかかえてる国が多いです。1980年代の終わりになるとソ連内部の組織自体が瓦解直前で、とうぜんこれらの共和国にも影響が及びます。結局、1991年におこった共和国の脱退によって、ソ連は崩壊しました。共和国はこのとき全ての国家が独立国となり、独立後の政府の多くではソ連時代の首脳が引き続き政府を構成したのです。なをソ連崩壊時にはエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国はすでにソ連を脱退しており、12ヵ国となっていました。ウクライナは1917年に成立したウクライナ人民共和国がその祖で、その後、いくつかのソビエト共和国を併合し、1991年まで存続した社会主義国家です。第2次大戦後、天然資源関係以外のほぼすべての産業がウクライナで発展し、目覚しい復興を果した結果、ソ連の繁栄にも欠くべからざる存在でした。1991年にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が主権宣言を行うと、後を追うようにウクライナは国家の独立を宣言。ウクライナ共産党は解散し、国号も「ウクライナ共和国」を経て、ウクライナに改められたのです。ウクライナの首都はキエフで、ウクライナになってからも首都のままです。東ヨーロッパにおける最古の都市で、その起源は5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落までさかのぼります。勇敢で有名なコサックの連隊の中心地がキエフです。今日、ウズベキスタン共和国として知られている国は、1991年までウズベク・ソビエト社会主義共和国と呼ばれていました。1990年になって、やっと大統領職を制定し、翌年ソ連から離脱し独立国家となったのです。ウズベキスタンの首都はタシュケントです。いわゆるオアシス都市ですな。最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長しました。ウズベキスタン独立後の今日でも大きなロシア人社会を抱えていますが、町並みからは徐々にロシア色は消えつつあります。カザフスタン共和国として独立したカザフ・ソビエト社会主義共和国もまた1991年に国名の変更が採択され、同年ソ連から離脱して独立国家となった国です。現在のカザフスタンの首都はアスタナですが、1998年まではアルマトイが首都でした。アルマトイは今でも最大都市として君臨しています。1991年にソ連を解体し、独立国家共同体を始動した協定はここアルマトイで調印されました。白ロシア・ソビエト社会主義共和国と云うのは、現在のベラルーシです。「ソ連8月クーデター」と呼ばれる、ソ連改革派のゴルバチョフに対し、ゲンナジー・ヤナーエフら守旧派が起こしたクーデターですが、エリツィンを中心とした市民の抵抗により失敗に終わり、逆にソ連崩壊を招いた事件です。この8月クーデター失敗が引き金となって、白ロシア・ソビエト社会主義共和国のソ連からの独立が認められました。白ロシア・ソビエト社会主義共和国の時代からベラルーシの首都はミンスクです。第二次世界大戦後、町は周囲の村を組み込みながら急速に復興しました。かつての建築を再建するのでなく、スターリン様式の都市計画が行われ、無機質な建築が建てられていったのです。1986年のチェルノブイリ原子力発電所の事故では発電所のあったウクライナよりベラルーシが被害を受け、ベラルーシの地方の住民の多くがミンスクに移り住みました。1920年に赤軍のアゼルバイジャン侵攻によって成立し、1922年のザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国の一部としてソビエト連邦を構成したのが、アゼルバイジャンの前身です。アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の首都は現在と変わらずバクー。イチェリ・シェヘルすなわち「内城」と呼ばれる城壁に囲まれた旧市街と、帝政ロシア時代にその周囲に築かれた新市街とに分かれます。その周囲、北から東にかけての平地から丘陵の斜面一帯にソビエト連邦時代につくられた市街が広がっているのです。グルジアは、1921年に「グルジア社会主義ソビエト共和国」として設立されました。スターリンの統治のもと、数多くのグルジア人たちが処刑された国です。独立後はロシア語由来とされる国名の「グルジア」を排除して英語名の「ジョージア」を「基準的な外名」とする方針を積極的に打ち出してます。トビリシは、ジョージア(グルジア)の首都。トビリシとは「あたたかい」を意味するトビリに由来し、温泉と関係あるとされています。タジキスタン共和国は1991年に独立が宣言されましたが、政情は安定せず、タジキスタン内戦に突入してしまいました。首都のドゥシャンベは、タジク語で「月曜日」という意味です。月曜に市場が開かれた村から急成長したためです。タジキスタンは中央アジアの中で最も貧しい国ですが、内戦終結後の経済発展は著しくなりました。主要産業はアルミニウムの生産と綿花栽培。そして何より重要なのは海外での出稼ぎ労働者からの送金です。人口の1割にあたる87万人がロシアで働いて送金しています。今では自国民の愛国心を高めるため、ソ連時代から用いられ続けていた(公用語としての)ロシア語を廃止。産まれてくる子供に外国名を名付けること(特にロシア語での命名)を禁止しています。最近では、テレビ番組に外国風の衣装を身に着けたキャラクターを登場させることを禁止する他、仕事で海外から渡って来た人たちにも多言語を使用ことに制限が設けられてます。モルドバ共和国の国民は文化的にはルーマニア人との違いはほとんどありません。中世のモルダビア公国以後、トルコとソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。1991年、ソ連の崩壊に伴いモルドバ共和国として独立しました。キシナウはモルドバ共和国の首都。ルーマニア語の「泉」と「新しい」に由来してます。この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成されました。地勢は大部分が平地で、中世より葡萄栽培が盛んです。また電気工業、機械工業、繊維産業、ゴムやプラスチック製造などが盛んな工業都市でもあります。しかし2015年には国内の銀行から約1,200億円が消える事件が起こり大規模な反政府抗議へと繋がりました。この消えた金はモルドバGDPの15%に相当する金額だったのです。ドニエストル川にはビーチが在り、そこでの水泳や日光浴を楽しむことが出来ます。しかしモルドバ政府の民族主義的政策に反対した「沿ドニエストル」の独立紛争との関係上、身の安全性を欠くことがあるため、一般の観光客は立ち入らない方がよいようです。キルギスの別称は旧国名のキルギスタンですが、別称として公式に認められているようです。旧ソ連を構成していた中央アジア5ヶ国で「最も民主的」といわれています。キルギスは1世紀ごろ匈奴の支配下に入ったのをかわきりに、6世紀には突厥、7世紀には唐、8世紀には回鶻、13世紀にはモンゴル帝国の支配下と、時代時代の覇者に牛耳られて来た土地です。そして1865年にはロシア帝国に併合。現在の政治体制は共和制で、国民による直接選挙で大統領と議員が選出されます。大統領の任期は6年で、再選は禁じられているのです。隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、ローマやサンフランシスコと同じ気候区なんです。クムトール鉱山は世界屈指の金鉱山ですし、水銀の産出量は世界第3位を誇っています。伝統的なキルギス料理では羊肉や馬肉を用いることが多く、さまざまな乳製品を多用します。羊肉はキルギス人が最も好む肉です。キルギスの国民食とも云えるベシュバルマクは馬肉を数時間煮込み、自家製の麺の上に載せた後、パセリやコリアンダーをふりかけて食べる料理です。馬肉の代わりに羊肉を用いる場合は、ゆでたヒツジの頭は主賓のテーブルの前に置かれ、主賓は頭部を切り分けて同じテーブルの他の客に取り分ける習わしがあります。1940年、リトアニアはエストニアやラトビアとともにソ連に占領され、リトアニア・ソビエト社会主義共和国が建国された後にソ連に編入されました。独ソ戦勃発後は、ナチス・ドイツの占領下にあった国です。第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、再度、ソ連構成共和国となり社会主義化が行われました。旧ソ連構成共和国では、もっとも急進的な独立運動が展開した国で、1990年に独立回復宣言を発表しました。リトアニアの首都はヴィリニュスで、同国最大の都市でもあります。かつてはポーランド領だったこともある都市です。1994年に旧市街はユネスコの世界遺産に登録されました。リトアニアが独立するきっかけとなった有名な事件があります。1990年、ヴィリニュスの共和国最高会議議長に就任した非共産党員ランズベルギスは、ソヴィエト連邦を構成する共和国で真っ先に独立を宣言しました。これに対しゴルバチョフ政権は、1991年の夜、ソ連軍部隊の戦車が首都ヴィリニュスの重要拠点の占拠に向かったのです。リトアニアの市民は最高会議の建物やテレビ塔の周りに集まり、人間の盾を作りました。それをソ連兵がテレビ塔を守ろうとしていた非武装の民間人に発砲したのです。13人が殺害されました。これが有名なリトアニアの「血の日曜日事件」です。この事件が契機となりリトアニア政府は態度を硬化、リトアニア独立革命へとつながっていくのです。トルクメニスタンは元はトルクメン・ソビエト社会主義共和国と呼ばれていました。1991年の国民投票でソ連からの独立に94.1%が賛成し、トルクメニスタンとして独立した国です。首都はアシガバートで、1919年~1927年の間はポルトラツクと呼ばれていました。主要産業がガラス製造、ぶどう酒醸造、綿織物業などですから、そんなに裕福な国ではないですね。しかし、道路にチリひとつ落ちてないなぁ。アルメニアはソ連崩壊までずっとソビエト社会主義共和国だった国です。ソ連から独立を宣言したのは1991年のことですが、1995年の憲法改正まではソ連の機構を保持したままでした。ソ連時代に農業国から工業国への転換を果たしています。首都エレバンは、現存する世界最古の都市の1つとされており、また創世記に語られている「エデンの園」が存在していたという伝承のある地でもあります。ラトビアは第2次世界大戦以前は独立国でしたのに、大戦が起こると1940年にエストニアやリトアニアとともにソ連に占領されたのです。加えて独ソ戦勃発後は、1941年~1944年まで、ナチス・ドイツの占領。第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、再度、ソ連構成共和国となり社会主義化が行われました。独立できたのは1991年のソ連8月クーデター失敗に伴ってです。首都のリガは「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町で、その旧市街はユネスコの世界遺産に登録されています。1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵攻し、ラトビア人を大量に処刑したりシベリア送りにしたことから、市の人口は1/3まで激減することになりました。その代わりにソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガ市の民族構成は一変してしまったのです。その後、ラトビアは独立を回復し、リガも首都に返り咲きました。エストニアもラトビア同様、ソ連に占領、編入された後、独ソ戦勃発後はナチス・ドイツの占領。第2次世界大戦末期にソ連軍による再占領の後、1991年にソ連から独立した国です。首都タリンは、フィンランドの首都ヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルクと同じく、フィンランド湾に面する主要都市の1つで、旧市街は世界遺産「タリン歴史地区」に指定されています。ヘルシンキまでは海を隔てて85km と至近にあります。と、云うように、ひと口にソビエト連邦構成共和国と云っても、広大な土地に民族も違えば、宗教も、文化も違う人たちを十把一絡げにしていたのですから、もともと無理な治世を敷いてたのですな。今の中国でも同じことが云える。ソ連改革派のゴルバチョフに対抗した勢力が「ソ連8月クーデター」を起こし失敗した後、たちまちこれらの国々が独立したのは必然性があったのですね。
Dec 30, 2018
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開けて2日目の朝。いよいよ今年で平成が終わりますね。新年一般参賀は毎年きょう。今上天皇と皇后美智子さまにお目にかかれる最後の機会となりますね。みなさんは「明治宮殿」と云うのがあったのご存じですかぁ?明治時代、江戸城西の丸御殿が皇居だったのですが、1873年(明治6年)の失火により焼失してしまいました。しばらくは青山御所が仮皇居となったのですが、青山御所では儀式典礼に支障をきたすようになったため出来たのが明治宮殿です。皇室建築を司るのは、728年(神亀5年)に起源を有する宮内省内匠寮です。明治宮殿は、江戸城西の丸に建設されることとなり、1888年(明治21年)に落成しました。明治宮殿は、京都御所を模した和風の外観に、椅子やシャンデリアのある洋風の内装という和洋折衷の様式の木造建築だったのですね。ところが第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)の東京空襲で、桜田濠沿いにあった参謀本部が爆撃され炎上した際、火の粉により明治宮殿に類焼し全焼しました。昭和天皇らは吹上御苑内の御文庫に避難しており無事でしたが、消火作業に当った警視庁の特別消防隊19名が殉職したのです。翌日、焼け跡をみまわった昭和天皇が、警衛局長兼内匠頭のお詫びに対して「戦争のためだからやむを得ない。それよりも多数の犠牲者を出し、気の毒だった。」と述べられました。明治宮殿が焼失してから、戦後になって吹上御所および新宮殿が新たに造営されるまで、天皇は御文庫を仮の御所とし宮内庁庁舎3階を仮の宮殿としてました。戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかったのです。昭和天皇は戦争終了後「国民が戦災のために住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ」と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で焼失した宮殿などの再建に待ったをかけていたのですね。現在の宮殿(新宮殿)が建設されたのは1968(昭和43年)になってからです。明治宮殿ができる前にお住まいになられてた、赤坂離宮は実は非常に狭い家でした。天皇の御座所は、信じられないことに15畳1間しかなかったのです。もちろん、ここで食事もとります。部屋の装飾も質素で、「床の間」と「違い棚」くらいしかありませんでした。あまりに狭いので1884年(明治17年)には家を新築しますが、それもかなり粗末なものでした。明治宮殿が完成し、引っ越しをすることになったとき、明治天皇は宮殿の奥まで見て回り、自分の荷物をどこに置くか、ひとつひとつ札を貼らせていったそうです。荷物を運んだのは3人だけ。その人たちが晩に赤坂で荷物を確認し、翌朝受け取っては指定の場所に設置していったのです。毎日、作業が終わると、再び赤坂に戻って次の荷物の確認をすることを繰り返し、荷物の運搬だけで1ヶ月かかったそうです。明治宮殿の造営は、いわゆる労働者ではなく、かなり身分の高い人たちだけが作業にあたりました。女性も土砂を運んでおり、その様子を見た明治天皇が「よう働いてくれる。ご苦労なことじゃ。うんと飲ましてやれ」と山のような酒樽と大量のスルメを下賜したと記録されています。明治宮殿の建物は「奥宮殿」「中段」「表宮殿」の3エリアに分かれていました。「奥宮殿」はプライベートな生活の場、「中段」は天皇が政務を行う御学問所、内謁見所、侍従たちの詰所があり、「表宮殿」が宮中儀礼のための場所です。1924年(大正13年)1月26日に行われた昭和天皇の結婚式では、大正天皇が病気で静養中だったため、告文を奏した後、西一の間で首相と面会。披露宴は5月31日に開かれました。まず豊明殿で会食し、牡丹の間でゲストと会談した後、千種の間で夜宴が催されました。前述の通り、明治宮殿は1945年の空襲で焼失します。その後、昭和天皇は長らく防空壕だった御文庫で過ごした後、1961年、吹上御所が完成すると昭和天皇と香淳皇后は亡くなるまでここで過ごしました。今上(平成)天皇は、1993年から新築の御所(吹上御所とは別)に住んでおられます。こちらは鉄筋コンクリート造りで、一部が2階建て。総費用は約56億円で、全部で62室もあるそうです。かつて明治宮殿では、正月などに天皇、皇后が廊下を通る直前、加熱したお香入りの水を持って歩き、ほのかな香りを残しておく習慣がありました。これを「焼き香水」と呼びます。こうした文化は、明治宮殿の焼失とともに失われてしまったのです。
Jan 2, 2019
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業界人だったらイザ知らず、世の一般人の中には「セメント」と「コンクリート」を混同してる人が居るのではないでしょうか。セメントはコンクリートを作るための材料の1つです。セメントの主原料は石灰石と粘土類で、コンクリートの原料はセメント、骨材(砂や砂利)、水などです。コンクリートの強度は水対セメントの比率で決まります。セメントに対する水の比率をある程度まで減らすことで、コンクリートの強度を高めることができるのです。コンクリートを生産する場所で分類すると、生コン工場で生産される「レディーミクストコンクリート」と、建設現場で生産される「現場練りコンクリート」に大別されます。一般に使われているのはレディーミクストコンクリートです。で、レディーミクストコンクリートを建築現場まで運ぶのがミキサー車ですね。日本では1949年(昭和24年)に傾斜装置の上に鍋形の生コン容器を取り付けたミキサー車が登場しました。その後、現在の形の原形となる傾斜円筒ドラムを搭載したアジテータートラックが登場したのは1952年(昭和27年)になってからです。ミキサー車は他のトラックと同じで、自動車メーカーが製造したシャーシに架装業者がミキサーの装置部分を装備して製作されます。架装業者はミキサーの部分であるドラムやホッパ、シュートなどを製造するのですね。最近は女性のドライバーも多いそうです。ミキサー車にはミキサー車の肝となる「ドラム」以外に生コンの投入口の「ホッパ」、生コンを流し込むための樋である「シュート」などともに無線機も重要なアイテムとして積まれています。無線機は1台のミキサ車で運び切れる小規模な現場を除いて、複数台で循環輸送するので、出荷工場での操車指示や納品現場で先行車と後続車との入れ換え連絡用に必要なんですね。スマホでは一斉連絡をすることができず効率が悪い上に、走行運転中のスマホ使用はできないため、いまでも無線機が使われているのです。で、生コンは先ほど述べましたようにセメント以外にと骨材や水を混ぜていますが、それぞれ比重が違うため工場から生コンをそのまま運んでしまうと、砂や砂利など比重の重い材料は下に沈み、水などは浮き上がって分離してしまい工事現場でコンクリートを流し込めなくなります。そこで、ミキサー車は生コンが入ったドラムをゆっくりと回転させ、混ぜ合わせながら現場に生コンを運んでいるのですね。混ぜ合わせるために、ドラムの内部には「ミキシング・ブレード」と云う刃がついてます。この刃がドラムと一緒に回転することによって、生コンをドラムの奥へ奥へと導くとともに、攪拌ができると云う仕組みです。現場に到着すると、ドラムを逆回転させることにより、刃も逆回転して、こんどは出口まで導くワケです。生コン運搬は時間との戦いです。生のコンクリートはセメントと水が反応し、数時間で固まりはじめてしまうため、工場での製造からスピーディーに建設現場に届けなくてはならないのです。ドライバーは事前に道路の混雑状況などを予測し、すばやく確実に届けられる周辺の生コン工場を探したり、現場に到着してからもミキサー車がスムーズに作業できるよう誘導したりします。そこで、私はある疑問が浮かんだのです。現場に着いて生コンをミキサー車から取り出すところまでは分かりました。その後、工事現場なんかでよく洗車してるのを見かけます。それは分かるのですが、はたして洗車だけできっちりコンクリートを洗い落とせるのかしら?なにしろ相手はドロドロの半液体です。そんな水でサッと流しただけで生コンがきれいに流れ出るのか。もし、生コンが少しでも残っていたら、ミキサー車が動かなくなるのでは?そしたら、昔 大工をしていたと云う知人が教えてくれました。「ミキサー車のドラムは夜間でも止めないで回し続けてるのさ」なぁ~るほど!とはいきません。そんな1年365日、エンジンをかけっぱなしなんて。ホントにそうかなぁ。その知人によれば、だからミキサー車が横転でもして、ドラムが回転しなくなると中で生コンが固まって、そのドラムは廃棄しなければならないと。う~ん、これは分からないでもない。しかし、ドラムを休みなく回し続けるってのは現実味がないなぁ。で、調べてみました。そしたら、例え横転しなくても、生コンは練ってから2時間以内に出さなければ固まり始めるらしい。それはJIS規格で決まっているのです。ですから、ミキサー車に搭載する生コンは、きっちり現場に着いたら使い切る量を入れるらしい。と、なると夜間にドラムを止めないで回し続けるのはイミないことになります。これはガセですね。答えは簡単でした。やはり「洗浄」です。荷下ろし直後に水を使い洗浄します。ホッパーの部分とドラム内部までしっかり洗っておくらしい。特にリヤの排出口の辺り、ホッパーの部分やシュートの辺りを丁寧に洗っておくことが見栄えに反映するとあります。生コンのミキサー車の場合は、その辺りを見れば運転者の性格まで解るくらいだと。広い現場の場合はミキサー車の汚れを落とす場所があるので、丁寧じゃなくても固まったら困る場所や見た目の汚れを落とす事ができます。それでも他のミキサー車の迷惑にならないように、迅速にしなくてはなりません。なので会社に戻ってから改めて丁寧に洗車する必要があるのです。ミキサー車は1人1車制です。相棒のミキサー車をきれいに洗車し翌日の運搬にそなえるワケです。この洗車を終えてから運転作業日報を締めて、業務連絡と報告をして初めて1日の業務が終わります。この洗車を「うがい作業」と呼ぶらしい。このためミキサー車には、外での洗浄用に水タンクと水圧が強い水ピストルを搭載しているのです。ミキサー車のうがい「水を大量に入れ高速撹拌」毎日の業務はそれでいいのですが、やはりドラムの中には生コンが残っていて、それが固まってこびりつくらしい。工具などを使って砕いて取り除く作業を定期的にしなければならないのです。これが「はつり」であり、実はかなり体力と根気を必要とする作業なのです。はつりを行う頻度は、年2回ほど行うのが理想的で一般的だとか。水を使うので体が冷える真冬などは避けます。固まってしまった生コンを落とすためにハンマーを使って叩いて砕き、それを取り除いていかないとなりません。力が必要な作業ですから時間がかかってしまう作業となります。ホッパー周辺や内部、細かくて手作業では難しい部分のコンクリートを砕くのは電動ピックを使って取り除きます。これらの作業を行うにあたり、粉塵対策としてマスクやゴーグル、そして耳の防護のために耳栓などを使って保護します。また、ドラム横のマンホールを開けて内部に入って作業を行うので、ドラムを気づかずに回転させないよう周囲に知らせてから入ります。こうしてでてきたコンクリートのクズは産廃業者に頼んで処分してもらうのですね。いゃあ~他のトラック運転手と違って、オマケの作業がハンパないですね。私にはまったく縁もゆかりもない知識ですが、ひとつ賢くなりました。「レディ・ジェット」と云う器械を使った洗浄動画では驚くほどたくさんのコンクリートのクズが剥がれ落ちてくるのが分かります。the Ready-Jet, revolutionary inside cleaning of the drum of concrete mixertrucks
Feb 7, 2020
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私の大好物歌手がそうなんですね。"グロリア・エステファン"。熱海への新婚旅行は1978年に来られました。彼女は大の親日家で、もともとはキューバ生まれです。松田聖子が全米進出する際はプロデューサーとして曲作りもしてます。お父さんがキューバの親米派だったフルヘンシオ・バティスタ大統領のボディガードを務めたキューバ軍人だったので、革命後、マイアミに移住してきたのです。お父さんは、その後、米軍に入隊してます。グロリア・エステファンの最盛期は1980年代ですね。夫のエミリオ・エステファンが率いるバンド「マイアミ・ラテン・ボーイズ」で「ドクター・ビート」や「コンガ」、「ワーズ・ゲット・イン・ザ・ウェイ」、「キャント・ステイ・アウェイ・フロム・ユー」など、まさに80年代ラテンリズムの華として活躍しました。1996年に開催されたアトランタオリンピックの閉会式では「リーチ(Reach)」を大観衆の前で歌ってます。ちなみに、この閉会式の音楽を担当したのは映画「X-メン」の音楽担当で作曲家のマイケル・ケイメンですが、彼のオファーを受けて布袋寅泰も参加していました。この「リーチ」には「プエデス・ジェガール(Puedes Llegar)」と云うスペイン語ヴァージョンというのも存在します。こっちは「ウィー・アー・ザ・ワールド」をパクっているのかと云わんばかりにフレーズごとに異なるシンガーが登場します。そのメンバーと云うのが実に豪華。グロリア・エステファンを始め、リッキー・マーティンや、フリオ・イグレシアス、プラシド・ドミンゴといった超大物まで登場してるのです。実は、アトランタオリンピックが開催される6年前、グロリア・エステファンはタイヘンなケガしてるのですね。1990年に乗車中のバスにトラックが追突する交通事故に遭遇したのです。この事故でグロリア・エステファンは脊髄に重傷を負うのですが、1年間のリハビリの末に復帰しました。2015年には夫とともに、民間人に贈られる最高の栄誉「大統領自由勲章」を受章してます。このひと、頭い~ですよ~なんせ英語とスペイン語の他にフランス語も堪能で、大学在学中にCIAから語学担当スタッフとしてスカウトされたほどです。てなことで、きょうは彼女の「コンガ」動画を観ていただきましょう。ノリノリですよ~Gloria Estefan - Conga (from Live and Unwrapped)
Nov 1, 2020
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ジャン・ギシャールと云う有名な灯台撮りの写真家がいます。そう岬の先端なんかに設置されて、船の航行目標になる灯台です。彼が1989年に撮影した「ラ・ジュマン(La Jument)」と云う写真は傑作作品として世界的に有名なんですな。さっそく、その画像を見ていただきましょう。撮影は暴風雨の中で行われました。スゴイ波でしょう。この波なのに、灯台の外に人が立ってるのが分かります。この人は灯台守で、ギシャールが飛ばした撮影のためのヘリコプターを救助ヘリコプターと思って外に出てきた灯台守です。この灯台はフランスはブルターニュ地方にあるラ・ジュマン灯台です。この地方は大西洋に突出した半島が連なる地域で、北にイギリス海峡、南にはビスケー湾に面しています。海岸線は秋から冬にかけて暴風雨に見舞われ、この海域の巨大な波と強い流れで、ヨーロッパで最も危険な海域の1つとされているのです。この海域では1888年~1904年の間に31隻もの船が遭難してます。灯台の建設が計画されたのは、1896年にグラスゴーで建造された蒸気船SSドラモンド号が難破し、約250人が死亡したのがきっかけです。しかも建設資金は裕福なフランス人資産家による個人資金だったのです。建設は1904年に始まりましたが、激しい嵐、巨大な波、強い潮流が頻繁に発生する厳しい海域のため工事が難航し、完成したのは1911年です。ギシャールがラ・ジュマン灯台を撮影した1989年は最もひどい嵐が来襲した年です。アイルランドからの低気圧の前線が強風と高さ20~30m の巨大な波をもたらし、灯台めがけて衝突を繰り返したのです。このときの波は灯台の下の窓を打ち破り、正面玄関を破損させ、塔を浸水させた上、家具を海中へと洗い流してしまったほどです。冒頭写真。ギシャールの乗ったヘリコプターがラ・ジュマン灯台に到着し、撮影のためにホバリングしてたときです。灯台の中では、灯台守テオドール・マルゴーンがヘリコプターの音を聞き、救助だと勘違いして階下に行って外に出たとき...その瞬間、灯台背後に巨大な波が覆いかぶさり、これが世界的に有名なショットの瞬間になったのです。マルゴーンは、巨大な波が灯台を飲み込もうとしていることに気づき、寸前のところで中に戻ってます。その後、マルゴーンは別に飛来した救助ヘリコプターによって助け出されてます。ラ・ジュマン灯台は1991年に自動化されました。灯台守が必要なくなったのです。この灯台は2017年に歴史的建造物に指定されてます。
Apr 24, 2022
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