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きのうパパゴリラ!さんから質問いただきました。きのう行った「烏来老街」ってど~読むの?「烏来」は「ウーライ」で「老街」は「ラオージェ」ふたつあわせて「烏来老街」=「ウーライラオージェ」です。「老街」は「旧市街」とか「古い町」と云うイミです。きょうは今回の旅の目玉「三峡老街」を目指します。三峡老街は台北ではなく、新北市と云うところにあり、台北駅から台湾鉄道で「鶯歌」駅で降りるか、MRT台北駅から板南線に乗って「新埔」駅で下車します。鶯歌駅は台湾で有名な陶磁器の産地です。鶯歌駅から路線バスで約30~40分で三峡老街に着くのですが、私はバス待ちが面倒でタクシーを使います。「三峡老街」とは山と川に隣接する約700mほど続く民権街一帯を指します。「老街」と呼ばれる伝統的な商店街の中でも台湾で最長と云われ、明代末期に中国大陸からの移住者が開墾に入りました。河沿いで水の便がよいことから沿岸に集落ができ、清代乾隆期に入ると、三角湧街と称される商店街が形成されます。当時付近で染料用のリュウキュウアイが生産されてたことと、水量も豊富なことから、染色業が勃興して、波止場とその周辺は、茶葉、染め物、樟脳の集散地として栄えた街です。レンガつくりの建物には当時の戸主や商店の名前がレリーフやガラスモザイクで記されており、「亭仔脚」と呼ばれる2階部分が1階入口の上に張り出し、柱で1階部分に回廊のような通路を形づくる中国様式であると同時に、ヨーロッパのバロック様式を取り入れたのとか、日本の家紋を模した飾りが見られたり、多様な様式が融けあってます。三峽という地名は、元々この地区に住んでいた少数民族タイヤル族の「三角躅」から始まってます。移民してきた漢人がこの言葉を聞いて「三角湧」と表記、その後「三角湧」と呼ばれるようになりました。今も老街には「三角湧」と表記されているものがあります。「三角湧」とは大漢渓、三峡渓、横渓の3つの川が合流して波立つという意味があります。その後日本統治時代の1899年(明治32年)に「三角湧庄」が置かれ、閔南語発音の「三角湧」に発音の似た日本語の「三峽」へ名称が変更され、1920年(大正9年)に「三峽庄」となり、1940年(昭和15)年に「三峽街」となりました。「三峡歴史文物館」この建物は日本統治時代の1929年に建造されたもので、元々は役場でした。当時としてはかなりモダンな赤レンガ造りの三峡を代表する建物で、「台湾で一番美しいオフィスビル(全台最美麗的辦公大樓)」と云われたそうです。
Nov 27, 2024
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台北到着2日目は台北からバスで1時間10分くらいかかる「烏来老街」に行ってきます。烏来老街のお店は水・木お休みのとこ多いので今日しか行くときがない。台北駅近くのバス停から終点の烏来まで、出発して40分くらいで山道。台北から1時間10分くらいで到着します。海抜500m くらいのとこなので、暖かい格好で行かなきゃ。烏来老街は日本統治時代に林業が発達し、当時木材を運ぶために利用されていたおサルの電車みたいなトロッコ列車が観光に用いられる場所で、地名はタイヤル語の「wulay」(沸騰の水)」に由来してます。ここには烏来温泉が湧出しているのです。私がこの地を訪れるのは日帰り温泉に入るのではなく(時間貸しの個室温泉を備えた温泉宿が多くあります)、この地に住んでるタイヤル族と触れ合ってみたいからです。台湾の原住民と云うのは、中国大陸からの移民が盛んになる17世紀以前から居住していた人たちで、とにかく人懐っこくて陽気!そんなで烏来老街のお店の人はみんなタイヤル族なので、このひとたちと接するのが目的。清代中期、泰雅(タイヤル)族の人々がこの地にやってきて定住しました。タイヤル族は、台湾原住民の中でも2番目に多い約7万5,000人の人口規模を持つ民族。この民族は日本が台湾統治前、宗教的な理由で首刈り族でした。しかも今でも台湾華語以外に、タイヤル語、日本語が混用されてます。なので烏来に行くと、よく日本語で話しかけられます。日テレ系のバラエティ番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」にレギュラー出演していた台湾出身の歌手で女優、マルチタレントのビビアン・スーの母親がタイヤル族です。可笑しなことに、きのう乗ったエバー航空の台湾人CAさん、私に台湾華語で話しかけてくるんですよ。それもひとりぢゃなくて、3人も。台湾人だから、私を台湾人と見間違うハズないし、中国人と間違われたのなら初めての経験です。いままで海外にいって中国人とだけは間違われたことなかったのに。
Nov 26, 2024
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バンコクに行ったのが今年8月、台風10号のノロノロ運転に翻弄されて出国と帰国で振り回されました。台風10号は熱低になっても線状降水帯が各地で発生して大被害もたらしましたね。このときのバンコク行きはコロナ以来、実に4年ぶりの海外だったけど、やはり異文化に触れるのと異国人との遭逢はとても新鮮で楽しめました。しかし体力面で云えば4年前とは雲泥の差でしたね。私は74歳、もうとっくにオジジです。来年には後期高齢者医療制度の被保険者になります。入国審査スタンプだらけのパスポートの残存年数も後2年。さて、いつまで旅ができるのか?なんて考えてたら、もはや米国やヨーロッパはムリにしても、少しでも体力ある間に旅がしたい。みなさん、高齢者になったら驚くほど時間の進むの早いし、体力の減少も早いんですよ。若いうちにできるだけ知らない文化に触れておいてソンはないです。特に20代前半に1回でも違う国に行くことお勧めしますね。それも旅先で日本人ばかり群れてるんぢゃなくて、国籍の違う人たちと交流したり異文化に触れるのが目からウロコで、とても良い人生経験になると思います。例え1回海外に行ったきりで、その後行けなくても若い間に異文化に触れるメリットは大きいです。言葉なんて目ぢゃない。例え話せなくてもど~にかなるものです。ホントウは同じ国の同じ場所を2回以上訪問するのがいいですね。初回はとかく典型的な観光客になりがちで、見るとこも定番ばかりになりますが、その土地の機微に触れようとしたら2回以上がいいです。私も台湾と香港訪問の1回目と2回目はネット情報も少ない時期だったので、観光ガイドブック頼みのまったくのお上りさんでした。もっともまともに英語も話せないのにオーストラリアやイギリスにワーホリ(ワーキングホリデー)行くのはバカのやることですが。仕事と観光は違いますからね。と云うワケできょう昼過ぎのエバー航空に乗って台湾に行ってきます。当初は高雄から入国して、台南経由で台北とも考えたのですが、そうすると旅程が長くなるので、今回は勝手知ったる台北だけに。(とは云っても台北から高雄でも新幹線で片道2時間半ですから日帰りも可能なんですが)台北と台南方面では気候が違いすぎるので、台南や高雄は別の機会に。4泊5日の旅です。エバー航空のチェックインはオンラインで既に済ませてるので、関空では荷物の預け入れだけ。台湾の入国カードも事前にオンライン申請してあるので、機内で紙の申請用紙に書かなくてよくラクチンです。問題は今の気候です。台南や高雄と違って、今の時期の台北は気温が低い日がある。しかも湿気の関係で、日本より体感温度が4℃くらい低く感じるとか。なのでユニクロのウルトラライトダウンとゴアテックスのウインドブレーカーも持参します。泊まるホテルは台北駅の真ん前。ここだと地下鉄や高速鉄道など移動に便利ですし、隣の中山駅だと日本人観光客のメッカなので避けました。きょうは夕方到着なので、とりあえず台湾のICカード「悠遊カード」を買って、それから歩いていける「寧夏夜市」にでも行くか行かないか?夜市はあんまし好みぢゃなくて、定番の「士林夜市」に一回行ったきりです。どっかバーでも探すとすんべい。とは云っても台湾は食べるとこ星の数ほどあるけど、気の利いたショットバー探すの至難のワザなんですよね。だいたい台湾人は飲まない人が多いし、飲んでもビールくらい。日本人観光客ご用達の夜の歓楽街「林森北路」だと気のきいたパブバーも有るにはあるのですが、ちょっと気がすすまない。台北のバーはカバーチャージとるとこ多いです。どっかメジャーなホテルのバーしかないかな? 西門町あたりに繰り出せば見つかるかも知れませんが、あそこは若者向けのお店多いし...今回の旅でイチバンの目玉は台北から電車で約40分の「三峡老街」を訪れること。ここは異民族の侵略で台湾に逃れてきた「客家(はっか)」族が台湾定住を始めた場所です。日本統治時代に完成した赤レンガのストリートがとても美しい街です。てなことで、また旅行中は充分にご訪問が叶わないと思いますがご容赦ください。
Nov 25, 2024
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今や世界一の人口を誇るインド。人口=国の経済力と見るなら、21世紀はインドが中国を追い抜いて世界第二位の経済大国になるハズですが、そうはならないとほとんどの経済学者は見ています。要因のひとつは「職業の質」の問題。職業の質とは、どれだけ付加価値がつけられる職業か?と云うことです。例えば製造業、工業は付加価値の大きい職種です。逆にサービス業は付加価値がありません。飲食サービスで、どんなにサービスが良くても、それが即売上UPには繋がらないからです。そしてインドはこのサービス業がものすごく多いのです。なんとGDPの50%以上がサービス業で支えられてる。そして雇用が需要にまったく追いついてないのです。もうひとつはお分かりですね。カースト制度の問題です。カーストにより、どんなに優秀な人でも下位カーストにいればいい職業につけない。それどころかカーストの身分によって教育の機会さえ制限されてしまう。インドでは1950年に制定されたインド憲法によって、カーストによる差別の禁止を明記していますが、憲法が禁止しているのは、あくまでカーストを理由にした「差別行為」です。つまりカーストそのものは禁止対象ではないのですね。カーストは親から受け継がれるもので、出生後にカーストの変更はできません。都市部の若者なんかではカーストを意識せず、お互いに自然な交流してるようですが、かと云って全く一掃されたワケではありません。このカースト制度に属さないインドの人がいるのご存知ですか?下位カーストよりさらに下の身分の人々。「ダリット」と呼ばれる「不可触民」です。ダリットは、カースト制度によって社会の最底辺に置かれ、長い歴史のなかで「不可触・不浄」であるとされてきました。このためダリットは、平等な機会を奪われて政治、教育、生産活動においても周縁に置かれてるし、住む場所、通る道、水汲み場、参拝寺院など社会生活のあらゆるもので、「上位カースト」から分離されてます。何よりダリットがつける職業は、体液や血液に触れる仕事、排せつ物をためるピットやくみ取り式トイレの清掃、そして汲み取りなど一般の人が嫌がる仕事ばかりなのです。1950年の新憲法で、ダリットは指定カースト(SC)と呼ばれましたが、それでダリットの地位が変わったワケではありません。2011年に公開されたインド映画があります。「ムンバイ・ダイアリーズ(Dhobi Ghat/Mumbai Diaries)」。映画のタイトルは、インド第2の大都市ムンバイの主要な観光名所の1つ、世界最大の屋外洗濯場を指します。この屋外洗濯場で働く人々こそ「ダリット」なのです。こうした洗濯屋は「ドービ」と呼ばれ、病院、ホテル、家庭から汚れたリネンを集め、洗濯してきれいにプレスして返します。そした洗濯場は「ドービー・ガート」と呼ばれています。このドービー・ガートは100年以上の歴史があるんですね。この仕事も世襲制で、代々受け継がれてるものです。ドービー・ガートは、「街中の洗濯物が集まる」とまで云われるほど大きな敷地で、入口以外は高い塀で覆われています。ここが珍しもの好きな観光客のターゲットになって、今では観光コースのひとつなんですね。ドービー・ガートの人々も、そんな観光客を快く受け入れてくれてるみたいです。洗濯はすべて水の手洗い。コンクリートに叩きつけて洗っていきます。そのためのコンクリートだけで約1,000個設置されてて、毎日18時間~20時間、およそ5,000人のドービたちによって、約10万着以上の衣類を洗濯、漂白、乾燥、アイロンがけするのですね。乾燥も基本、自然乾燥です。宅配も彼らの仕事です。料金は1着あたり10ルピー(約17円)。そんなに大量の洗濯物をどのように管理してるのかと云うと、衣類には番号を割り振った布辺が縫い付けてられてて、この番号を頼りに仕分けするのです。洗い場の2階が彼らの生活する住居になります。そして、こんなスラムが延々と続いてるのですね。この土地の所有者はムンバイ市営公社で、借地料が払えなければ即、立ち退かなければならないのです。そのためドービー・ガートのボスはムンバイ市営公社役人に賄賂を払い続けなければならないのですね。なんともやるせない話ですが、日本だって近年になるまで同じような差別が厳然とあり、今もそんな差別が残ってる土地もあります。アイヌの人たちだって昔は差別の目にさらされてきましたが、一般の日本人と同化して昨今はあまり聞かれなくなりましたね。その分、アイヌ独特の文化が立ち消えていったワケです。
Nov 24, 2024
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肥満と云うと、お腹でてる人を連想しますが、アメリカ人の肥満はお腹もそうだし、お尻が異常なくらいデカイ人がいる。2020年時点でアメリカ人の41.9%が肥満、9.2%が深刻な肥満と報告されています。実に成人の2人に1人、子どもの5人に1人近くが肥満。なんで?アメリカはニューヨークやワシントンDCなど特定の大都市を除くと、公共の交通機関が発達しているとは云えません。そのため近くのコンビニやスーパーに行くにも車移動が多い。とにかく歩かない人が多いのです。自転車は子どもが乗るものか、車も買えない貧乏人とバカにして、アメリカ社会での自転車普及率は低いです。夏は高温多湿で気候が険しいニューヨークのような都市では、ゆっくり自転車で走っていても汗をかきます。アメリカの衛生基準はヨーロッパよりも厳しい傾向があり、自転車通勤してデスクで汗をかいたままと云うことは眉をひそめられるんです。さらにアメリカ人は座ってる時間がものすごく長いです。アメリカ人とカナダ人は世界一のTV中毒者と云われ、84%は毎日平均4時間以上TVを見て過ごしており、ミレニアル世代や若者はスマホでTV番組を視聴することが多くなりました。日本の若者のTV離れとは真逆の現象です。座っている時間の合計は青年で1日 8.2時間、成人は6.4時間に達します。アメリカ人って、イメージと違って活動的でない人が多いのですね。アメリカ人のわずか28%だけが充分な運動をしており、ルイジアナ州とケンタッキー州はもっとも運動不足の人が多いと云う調査結果も。次に自宅で調理しない人が多いので、朝昼晩3食をマクドとかジャンクフードの買い食いとかも多く、とにかく主婦で全く調理しないどころか家事全般ゼンゼンしない人もメッチャ多い。子どものときから3食マクドなんてのも結構普通にあるらしい。アメリカのスーパーには、巨大なピザ、大袋のパスタ、冷凍ポテトなど安価な炭水化物がたくさん積んであります。飲み物の棚にはコーラなど砂糖たっぷりの清涼飲料水がビッグボトルで並んでいます。そして、太った人たちは、こういうものを次々とカゴに入れていきます。彼らは単純に食いしん坊で、糖質摂取をやめられないのです。それとともにアメリカ人の食事量も問題なんですね。フランスのパリに住んでる人の食事量はフィラデルフィアに住んでる人の食事量の1/4しかないことが分かってます。アメリカ以外の国では、マクドのポテトでLサイズよりもっと大きい特大サイズは販売されてません。よくアメリカの情報を見ると、肥満の人はいい職業につけないなんて云いますね。それはデマです。実際はアメリカでこんな判断してる企業はありません。もし、こうした認識を企業が持ってたら、「差別」と見なされてしまいます。有り得るのは、肥満の人は自己管理が出来ない、だらしない人と捉えられて出世し難いと云うことくらいです。多くのアメリカ人は太ってる人に寛大なんです。
Nov 23, 2024
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ほとんどの方は知らずに使ってますが、この楽天ブログや他のSNS、Facebook やX、YouTube なんかでも裏でコンテンツ管理システムと云うソフトが働いてます。コンテンツ管理システムは、デジタル情報を管理して、配信などの処理を行うシステムのことです。楽天ブログがどのコンテンツ管理システムを使ってるか分かりませんが、世界中で最も普及してるコンテンツ管理システムは「WordPress(ワードプレス)」と云う製品です。このWordPress に新着情報を表示するソフトがあるのですが、このソフトの名前が「What's New(ホワッツ・ニュー)」。新着情報の日付やタイトルが自動的に表示され、タイトルをクリックすると該当のページが開くと云うお馴染みの機能です。で、きょうのタイトル「ホワッツ・ニュー」はWordPress のことぢゃなくて、20世紀を代表する歌手ビング・クロスビーが1939年にヒットさせたポピュラー音楽のこと(なんぢゃそれは 笑)この曲は女性ジャズ歌手ルイーズ・トビンをボーカルに迎えたベニー・グッドマンも吹き込んでて、こっちも大ヒット。この曲、なんとディキシーランド・ジャズのダブルベース奏者ボブ・ハガートが1938年に作曲したものだったのですね。元々の題は「アイム・フリー (I'm Free)」だったのですが、曲の内容が久々に再開したかつて恋人どうしの取り留めもない会話で女性が「ホワッツ・ニュー(最近何かあった?)」と問いかけるとこから始まって「Adieu(アデュー=フランス語のさよなら)」と収束していく未練たらたらストーリーだったので改題されたのです。ジャズ・サックス奏者でデクスター・ゴードンと云う名プレーヤーがいました。1968年に公開された音楽映画「ラウンド・ミッドナイト」で主役を務め、アカデミー主演男優賞にノミネートされた人物です。この映画は実在のジャズ・ピアニストでビバップスタイルの第一人者バド・パウエルがパリで活動していた時期の実話が元になっている作品で、マイルス・デイヴィス・クインテットのメンバーとしても活躍してたジャズ・ピアニスト、ハービー・ハンコックがアカデミー作曲賞を受賞してます。デクスター・ゴードンは1990年にロバート・デ・ニーロが主演した映画「レナードの朝」にも出演しています。そんなデクスター・ゴードンの「ホワッツ・ニュー」演奏できょうはお終い(手抜き更新でした)Dexter Gordon - Whats new (Holland, 1964)
Nov 22, 2024
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昨年制作されたフランス・ドイツ・スイス・日本合作映画「シドニー・イン・ジャパン(不思議の国のシドニー)」が今年上映されます。1978年の「ヴィオレット・ノジエール」と2001年の「ピアニスト」でカンヌ国際映画祭女優賞を、1988年の「主婦マリーがしたこと」と1995年の「沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇」ではヴェネツィア国際映画祭女優賞を受賞したフランスの女優"イザベル・ユペール"が主演した悲しみの詩的旅路を描いたものです。兄と両親の命を奪った交通事故から生還したシドニー(イザベル・ユペール)にとって、数年後に同じような悲劇が見舞うとは...こんどは交通事故で夫がこの世を去ってしまったのです。悲劇によって執筆の才能に目覚めた売れっ子作家シドニーですが、自分の痛みを語ることができないことに気づきます。シドニーは傷つき、迷い、自分の存在の方向性を見失い、作家としてのアイデンティティさえ疑っているように見えるのです。ある日、シドニーのもとに出版社から招聘の手紙を受け取ります。見知らぬ国 日本の出版社から。そうして処女作の再出版するために日本へ行くことに同意するのです。シドニーに招聘の手紙を書いたのは出版社担当編集者の溝口憲三(伊原剛志)。彼が迎えに行き、プロモーション活動のため京都を始め日本各地に連れて行きます。そして次第にシドニーと溝口は心をかよわせるようになっていくのです。こうして日本での夢のような旅は、癒しと孤独への内省の物語のように展開していくのですね。しかしシドニーは同時に交通事故で亡くなった夫への思いから逃れられずもいました。そして...突然、夫の亡霊が現れ、彼女につきまとうようになるのです。この思いがけない過去との出会いによって、シドニーは自分の信念、人生の選択に疑問を抱くことになります。この作品でシドニーと溝口の関係は、親密さと同時に葛藤も同居し、人間関係の複雑さと文化の衝突について深い洞察を与えてくれてます。溝口は、「日本では、自分の感情は自分の胸にしまっておく」と述べるように、感情表現における文化の違いを浮き彫りにしているのですね。私はこのストーリーから全くジャンルの違う映画を連想してしまいました。ジョディ・フォスターが1997年に主演したSF映画「コンタクト」です。この作品は人類と宇宙の知的生命体との接触を描いたもので、人類と科学や宗教、政治をからめた興味深い映画です。「シドニー・イン・ジャパン」と「コンタクト」では相容れない内容のように思うかも知れませんが、「シドニー・イン・ジャパン」では全く違う文化をもつ2つの国の男女に対して、「コンタクト」では知的生命体を探求する科学者エリー(ジョディ・フォスター)は、宗教家ジョスと心通わせるようになりますが、お互いの信条が真逆のため結ばれることがない。「コンタクト」のエリーは幼いころ大好きな父親に科学のイロハを教えてもらいますが、その父親はエリーが幼いときに病死してしまいます。やがて科学者として成長したエリーは富豪スポンサーの協力で知床半島の付け根に設置された空間転送装置に乗り込むのです。この転送装置こそ、エリーが惑星ヴェガから発信された電波信号を解析して見つけた設計図を元に製作されたものだったのですね。転送装置が稼働すると眩い光がエリーを覆い、そして長い宇宙の旅が始まる。ふと気づくと、エリーはどこかの浜辺に立ってる自分に気づきます。そして浜辺の端から歩いてくる人影が。それは幼いとき亡くした大好きで今も忘れられない父親だったのです。父親は「この姿が君にとってイチバン受け入れやすいだろう」と云います。そして、ふたりは宇宙の深淵について語りあい...エリーは帰路につくのです。とても長い宇宙の旅だったのに、驚くことに、地球にいる人々から見るとほんの数秒間のできごと。エリーの報告は「夢でも見たのでないか」と全く受け入れてもらえません。そうしてエリーは孤独な科学者に戻っていくのですね。この作品を始めて観たとき、人知の及ばない経験をしたエリーと経験してない他の人々とのギャップと思ってたのですが、観直してみると、はたしてエリーはホントウに宇宙に飛び立ったのか?あるいは全てがエリーの頭の中で描かれた幻想では?とも見て取れるようになりました。「シドニー・イン・ジャパン」のフランスと日本の文化の違いを肌身で感じたふたりと経験してない人、「コンタクト」のエリーの旅路と経験してない人との違い。どちらが正しいのか、はたまたエリーの夢なのか、実のところ誰も分からないのではと感じた次第です。
Nov 21, 2024
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スペイン、マドリードの中心部にある最も歴史の古い地区セントロに「マヨール広場(Plaza Mayor)」と云うスペイン観光した人だったらお馴染みの広場がありますね。フランスのヴェルサイユ宮殿広場みたいな129m ×94m の長方形の広場。広場に面して237ヶ所の4階建て建物に取り囲まれています。マヨールとは「大きい広場」を意味し、同じスペインのサラマンカにも同名の広場がありますね。マドリードのマヨール広場を空から眺めると、みごとな長方形で周囲の町並みを切り取ったような景色。斜め上から見ると、広大さがもっと実感できる。このマヨール広場って、行ってみると石畳のただの空き地みたいな感じで、なんの取り柄もない広場に見えるのですが、ここで毎週日曜日に古切手や古銭の朝市が開かれるし、12月の1ヶ月間は伝統的なクリスマスの市場が開かれるそうです。昔のマヨール広場はマドリード最大の市場が開かれてただけでなく、闘牛やサッカーの試合、公開処刑、異端審問の盛んな時代には背教者の懺悔の儀式「アウト・デ・フェ」も行なわれてました。マドリードに世界最古のレストランとしてギネスブック登録されてる「ソブリーノ・デ・ボティン」と云うお店があります。創業は1725年。このソブリーノ・デ・ボティンの建たってるのが、マヨール広場にある9ヶ所のアーチのうち最も有名な「クチリェロスのアーチ」近くなんですね。価格はランチセットでガスパッチョ、セゴビア名物の豚料理、アイスクリーム、ワインかビールがついて、44.45ユーロ(約7,245円)ですから、結構なお値段です。周囲もバルやレストランが立ち並ぶ観光地です。今のマヨール広場ってのは1790年に再建されたものです。もともとは15世紀に造られた「アラバル広場」と呼ばれてた場所なんですね。アラバル広場はいくつもの通りが交錯して、とてもゴチャゴチャだったので、1617年に改修がおこなわれ、続いて歩道上に柱で支えられた屋根がある「ポルチコ」が完成しました。ところが1631年、1670年、1790年と3回も大火災に見舞われ消失してしまったのです。それで1790年の火災の後に再建されたのが現在のマヨール広場なんです。広場の周囲に建ってる建物は4階建てのレストランやホテルになってます。統一感のあるステキな建物群ですね。
Nov 20, 2024
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スペインに「カランダ」と云う桃とオリーブの生産くらいで、これと云った観光資源の無い街があります。有るとしたら、「ロンピーダ・デ・ラ・オラ」と呼ばれるキリストの受難と死を思い起こさせるセレモニーくらいでしょう。このときカランダの街は何千もの太鼓や大太鼓が広場に集結してけたたましい音に包まれます。そして触れ口上する役人がキリストの死を宣言すると、太鼓や大太鼓の連打が止むのです。そのカランダに「ブニュエル・フィルムセンター」と云う施設があります。ブニュエルとはルイス・ブニュエルと云う映画監督で、このカランダ出身なんですね。ただブニュエルはフランスで活躍した後、メキシコ国籍をとってメキシコ人として活動し、晩年にまたパリに戻ってきた異色の映画監督です。ルイス・ブニュエルが撮った作品でみなさんに馴染みあるのは主演のカトリーヌ・ドヌーヴが濃密でエロチックな描写を見せた1967年の映画「昼顔」でしょう。この作品はヴェネツィア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞しました。この映画でドヌーヴは医師の夫とともに幸せな生活を送ると同時に、「昼顔」という名前で娼婦として働くのですね。この二重生活のおかげで、ようやく自分の人生を取り戻すと云うお話でした。映画「昼顔」はかなりセンセーショナルな内容ですが、実はブニュエルの監督としての実績は最初期(1929年)の作品「アンダルシアの犬」に凝縮されてます。この映画は画家のサルバドール・ダリと共同で製作した明快なストーリーの無いイメージだけの作品で、当時のシュルレアリスム作家パブロ・ピカソやアンドレ・ブルトン、ジャン・コクトー、マックス・エルンスト、ル・コルビュジエ、ルネ・マグリット、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、マン・レイなどに拍手喝采で迎えられたものです。パリに出ていたブニュエルがスペインに一時帰国したとき、まだ無名だった友達のダリと見た夢の話をしている内に、それをもとに映画を作ったのが「アンダルシアの犬」です。この作品では修道士役としてダリ自身が出演してますし、冒頭のあまりに有名な女性が剃刀で眼球を真2つにされるシーンの剃刀を持った男は監督のブニュエルが演じてます。とにかくシュルレアリスム映画の金字塔と呼ばれる作品ですが、どのシーンも吐き気をもようさせるものばかりで、けしてお勧めできる映画とは云えません。この「アンダルシアの犬」があまりに有名になって、ブニュエルはシュルレアリスムの映画監督として扱われることが多いですが、実際には多種多様な映画を撮っています。ブニュエル・フィルムセンターで最も人気ある展示は、ブニュエルの映像がいかに楽しく超現実的であるかを称賛する映写室です。椅子の代わりに便器が置かれており、それぞれの便器の中にカミソリの刃、見つめる目、鳥の羽など「アンダルシアの犬」を彷彿させる意匠が施されています。ブニュエルのシュルレアリスム映画は前述の「アンダルシアの犬」とシュールリアリストたちの後押しで運動のパトロンであったノワイエ公爵が出資した「黄金時代」くらいでしょうね。「黄金時代」もダリとの共同制作ですが、宗教やブルジョワジー層を皮肉った作品内容に怒った右翼が、上映中にスクリーンに向って爆弾を投げつける事件が起きて、その後50年間公開禁止となった因縁の作品です。そんなブニュエルはスペイン内戦が勃発した後、アメリカに渡ってニューヨーク近代美術館で反ファシズム映画を集めるという仕事に就くのですが、あまりにも世間知らずなダリが自身の著書「わが秘められた生涯」の中で「ブニュエルは無神論者だ」と述べたため職を失ってしまいます。そうしてブニュエルはメキシコに移り久々に映画監督を再開すると同時にメキシコ国籍を取得するのです。そして1950年の社会主義リアリズム映画の傑作「忘れられた人々」によってカンヌ映画祭で監督賞を受賞するのですね。「忘れられた人々」は後にユネスコの「世界の記憶」に登録もされてます。メキシコに移った後もスペインに戻り1961年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した「ビリディアナ」を撮るなどしてますが、ブニュエルの主軸はあくまでメキシコにありました。1954年にはメキシコシティの路面電車を舞台にした作品「幻影は市電に乗って旅をする」やブルジョア階級の人々の運命をブラックユーモアで描いた不条理作品「皆殺しの天使」など佳作はメキシコ時代に撮ったものが多いです。「皆殺しの天使」はパーティの後、ナゼか部屋から出られなくなってしまったブルジョア階級の人々を描いてて、数日が過ぎ、水や食料が尽きてくると人々は徐々に理性を失っていく。人々は異常事態の原因を邸宅の主人であると決めつけ、主人は拳銃自殺を図ろうとするのですね。そのとき、ひとり女性があることに気づきます。人々が今いる場所がパーティのあった夜と完全に同じなので、その時の状況を再現することで無限ループから脱出できるのでは?みごとにアタリで全員無事に邸宅から脱出できました。無事に生還した人々はお礼に教会のミサに出席します。ところがミサの終了後、そこに集まった人々は教会から出られなくなってしまうと云う物語。晩年は1970年にスペイン・フランス・イタリアの合作映画でカトリーヌ・ドヌーヴが主演した「哀しみのトリスターナ」や1977年のフランス・スペイン合作映画でブニュエル監督の遺作となった「欲望のあいまいな対象」など再びメキシコから出て活躍してます。「欲望のあいまいな対象」ではあまりにも唐突に訪れる結末によって、ブニュエルがシュルレアリスムに回帰したとも受け取られてます。ルイス・ブニュエルが映画に興味をもったきっかけは意外にも大学時代に観たハロルド・ロイドやバスター・キートンなどのドタバタコメディ映画でした。息子のフアン・ルイス・ブニュエルも映画監督をしてます。1983年に肝硬変のため死去しました。
Nov 19, 2024
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アメリカの建築月刊誌AD(建築ダイジェスト)に取り上げられてから、インスタグラムなどで頻繁に取り上げられてるインテリアスタイルがあります。落ち着きのある配色、わずかな装飾、直線的なラインが美しい家具と異素材の巧みな組み合わせ、そして部屋にそっと彩りを添えるさまざまな植物。テーマは余白です。整然としていながら決して厳かな印象を与えない、静謐(せいひつ)さと柔らかさを感じさせる空間。このインテリアスタイルを「ジャパンディ(Japandi)」と呼んでます。名前からして「和」ですが、単に日本のインテリアだけのことではありません。そこに北欧インテリアを合体させたものなんです。もともと北欧家具は、自然素材の使用に重点を置いており、日本のインテリアと共通点が多いですね。「ジャパンディ」はまさに北欧と日本の美学を合体させたスタイルなんです。日本独特のインテリアはあるイミ「借景」が特徴ですね。つまり室内だけでなく、窓から眺められる景色さえも自分の家の一部のように取り込む。そして昔の日本家屋は、畳や技工を凝らした欄間や障子、天井や壁の仕上げなど自然素材を活かして洗練した空間に仕上げています。家具は最小限しか置かず、なにより西洋ではあり得ない毎日使用する布団を収納すること。そして四季があるので、旬の花を生けたりと季節ごとに装飾が変わっていく。北欧インテリアも家具に力入れてますね。ソファや椅子は長時間座れるように、背もたれの角度や座面の硬さ、肘掛の幅や角度まで計算し尽くされているのは、日照時間が短かく家にこもる時間が長いため居心地の良さを第一に考えられてるからです。北欧では日照時間の短かさから、少しでも太陽の光を家に取り入れるため、寝室以外はカーテンやブラインドはつけないそうです。合理的でありながら、自然素材を活かした家造りは日本人に一番フイットしますね。もともと日本のインテリアには「和モダン」と云う、伝統的な和風デザインと現代的なスタイリッシュなテイストを融合させたデザインがありましたね。「ジャパンディ」と「和モダン」の違いは、「和」要素が取り入れられてる割合の違いです。日本で生まれた和モダンは、和をベースにして、そこに洋とモダンスタイルを足していくイメージです。対してジャパンディは、2017年に考え出されたヨーロッパ発祥のインテリアスタイルで、「ジャパン」と「スカンディナビア」を組み合わせた造語です。北欧のシンプルな美に日本の「侘び寂び」を付け加えていったスタイルと云えます。と、云ってもジャパンディと和モダンの違いがよく分かりませんよね。下のジャパンディ画像を見ると、ジャパンディのベースが北欧にあると理解できます。ジャパンディのキモは「バランスと静寂」。そして余白のある空間と自然光らしい。フェルメールの絵画のような芸術的空間を特徴としてます。とは云っても、日本のお宅でジャパンディのインテリアを取り入れた家なんて、よほど広くて物の少ないとこしか実現できないですね。うちで出来るのは、せいぜい物を最小限にとどめることくらい。あっ、それって断捨離でしたね(笑)ジャパンディの起源は1860年代まで遡るそうです。1863年、鎖国を解いて間もない日本を訪れたデンマーク海軍の尉官"ウィリアム・カーステンセン"は、和の文化に深く魅了され、帰国すると自身の経験をもとに記した「Japans Hovedstad og Japaneserne(日本の首府と日本人)」を発表して、母国のデザイナーたちの興味を掻き立てました。デンマークのデザイナーたちは、まだ見ぬ魅力を自ら確かめるために日本へと渡り、そこで日本独自の侘び寂びの美意識、ミニマリズム、自然の素材、シンプルさを大切にするデンマークの「ヒュッゲ(居心地がいい空間)」な暮らしとの間に共通点を見出したのですね。それ以来、北欧デザインは和の美学の影響を受け始めるようになったのです。ジャパンディへの関心が高まり始めたのは2020年ごろ。ちょうどコロナが世界的に大流行しだした頃です。パンデミックによって、私たちは自然やインテリアを今までより大切に思うようになり、より安心感を求めるようになったと考えられてます。
Nov 18, 2024
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ベトナムと云うと昔サイゴンと呼んでたホーチミンを始め、近年リゾートとして人気の高いダナンや世界文化遺産登録されてる古都ホイアンなんかが有名ですよね。それに比べるとハノイって、首都なのに田舎っぽくて訪れる人も他の地域に比べて少ないでしょう。ハノイ観光と云っても、旧市街の問屋街を散策するか、世界遺産のハロン湾を眺めるか、人にもよりますがせいぜい1日あれば用が足りる。そんなハノイの食べ物と云うと、先ず牛肉フォーの本場と云うことと、ベトナム風ぜんざい「チェー」や、フルーツスムージーの「シントー」なんかが有名です。フォーは具に牛肉を入れるか鶏肉を入れるかの2種類。牛肉入りが「フォーボー」で、鶏肉入りは「フォーガー」です。普通、ベトナムでフォーと云うと牛肉フォーを指します。「チェー(Chè)」はココナッツミルクベースに豆類、芋類、タピオカ、寒天、フルーツなど様々な具材があって、具材によって温っかいか冷たいか決まりますね。温かいチェーは「バーバー(Chè Bà Ba)」、冷たいのは「タッ-プカム(Chè Thập Cẩm)」と呼びます。チェーは屋台や市場などどこでも売ってます。「シントー(sinh tố)」の材料には果物はもちろんのこと、コンデンスミルクが欠かせません。使われてる果物はイチゴやバナナ、マンゴー、ドラゴンフルーツ、グァバ、パパイヤ、アボガドなど様々で、これらを組み合わせて供せられます。ハノイの麺料理では「ブン・ダウ(Bún đậu)」も有名です。と、云うか庶民の定番食のひとつですね。ブン・ダウは細米粉麺「ブン」と、揚げた熱々の豆腐「ダウ」を一緒に食べる料理です。ただブンダウは「マムトム(Mam Tom)」と云うオキアミのような小っちゃいエビを発酵させた、臭いがきつくて独特な風味の調味料につけて食べるのが一般的なんですね。このマムトムは外国人が苦手な食材No.1と云われるくらいクセの強いものなんです。私もアレは苦手のひとつ。ハノイの名物料理はもうひとつ有ります。「ブンチャー(Bun Cha)」炭火で焼いた豚肉の脂身やつくねがたっぷり入った甘めのタレに、揚げたての春巻きや細米粉麺をからめて食べるベトナムのつけ麺です。これは美味い!好みによりますが、ホントウに美味しいです。当時アメリカ大統領だったオバマが2016年にヴェトナム訪問したとき、ハノイにあるブンチャー店「フォンリエン」に連れられていかれてブンチャーを食べたのが報じられてから、「ハノイの名物料理」としてブンチャーを出す店が増加しました。オバマが入ったフォンリエンはそれ以来「オバマブンチャー」と呼ばれるようになりました。しかし、元々ブンチャーはベトナムの国民食と云う位置づけで、特に昼食としてよく食べられてます。
Nov 17, 2024
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2017年にタイのバンコクへ息子とふたり旅したときのこと。先ず観光地を訪れない私ですが、息子が初めての訪タイだったので涅槃像のあるワット・ポーに行きました。昔、バンコクに7年も住んでた私ですが、まったく初めてのワット・ポー参り。と~ぜん寺院内は観光客でごった返しています。で、ワット・ポー見学を終了して、お次はオリエンタルホテルでお酒でもと思って寺院周囲を見渡してもタクシーが1台も停まってない。停まってるのはサムローと云う3輪タクシーだけです。サムローでは5つ星のオリエンタルホテルに乗り入れ拒否されるやんか!とは云ってもサムローしかチョイスないので、ホテル手前で降りて徒歩でホテルまで行くしかなさそう。で、サムローにメーターはついてないので、乗る前に料金の事前交渉しなくちゃならないのですが、200バーツ(約900円)とサムロー運転手の返事。とんでもない!ホテルまで近いし、サムローの相場知ってるから別のサムローと交渉しても同じ値段。倍以上吹っかけられてるのが分かるので私が躊躇してると、息子が「何百円の差だったら乗ったら」?そこで、ふと気づきました。なまじ相場を知ってるから、運転手の提示金額に腹立つけど、わずかの金額で押し問答して時間を浪費するよりさっさと乗った方が賢い選択。つまり観光地めぐりをしない私だから理解不足で、しょせん観光客はこれくらいのリスクは甘んじて受けるものだと。大阪、黒門市場のボッタクリが海外でも有名になって、外国人観光客も敬遠しだしたと報じられてますが、そう云うことなんですよね。イヤな思いしたくなきゃ行かなきゃいい。行くなら、金銭的か精神的かは別にして、その分リスクはありますよ~ってこと。どこの国でも観光地と名が付けば、しつこい客引きとボッタクリは程度の差こそあれつきものです。またインドのバラナシ(ヴァーラーナシー)みたいに、ガンジス河で沐浴してるかと思ったら、同時に川岸で火葬もしてる。そして、とにかく人が多くて汚い。そんなで初めてインド旅行した人の大半は方法の体で帰ってくるのですが、今のようにネット情報が行き渡ってたら、そんなことは旅行前に織り込み済みのハズ。日本人には奇異に見える風習でも、その国の人にとっては大切な文化。かつて、イギリスがインドを植民地支配してたとき、ヒンズー教とキリスト教の価値観の違いから火葬場の郊外への移転が企てられたことありました。これに対しバラナシの人々は強く反対し、火葬論争は30年にわたって続きましたが、結局イギリス政府はガンジス河からの火葬場移転を諦めざるを得なかったのです。これはバラナシの文化であり、異邦人がとやかく云う筋合いではないのですね。記録にはこう記されてます「火葬場が町のために存在するのではない。町が火葬場のために存在するのである」。タイやラオスは上座部仏教の国です。その信仰心は日本人の大乗仏教とは比較にならない深いものです。上座部仏教では子どもの頭に仏がやどってるとされてて、うかつに子どもの頭をなでようものなら親とたいへんなトラブルになります。旅行者目線で云えば、子どもがカワイイから頭をなでても、その土地ではタブー。特に信仰に関することは旅行前に絶対知っておくべきことがらですね。またラオスには仏教とは別に精霊信仰の「ファイ」がいたるところに祀られてます。タイでも「ピー」とか「チャオ」と云う精霊が祀られてます。日本で云うところの自然界に霊魂が宿るとする神道の考え方と同じですね。こうした場所に出くわしたら、信仰してない旅行者は手を合わせる必要はなくても、敬意だけは表したいものです。カンボジアの都市シェムリアップと云うとアンコール・ワットの観光拠点として有名ですが、観光客で賑わう繁華街を除いては下の画像のような田舎然とした町です。タイだって首都バンコクは高層ビルの立ち並ぶ大都会ですが、一歩バンコクを離れるととんでもない田舎風景が続いてます。こうした場所訪れて、「いゃあ~タイヘンなとこ来たな」と思うか、非日常を楽しむかはあなた次第ですよね。日本だって、都市部を離れたらこれに類したとこはいくらでもあるし、外国人観光客は却ってこうした場所を楽しむ旅行者も多い。それに、こうした田舎の方が観光客ズレしてる都市部の人たちより気持ちのいい人多いです。まぁ、私みたいにどの国行っても、観光もせず、ただ飲んだくれてるだけの人間は飲めればどこでもいいんですけどね。それでもマレーシアに行ったときは、KLセントラル駅から電車で1時間くらいのとこにあるブルーモスクを訪れて、ボランティアガイドさんにアラブのイスラームとその他の国のイスラームの違いなど聞きましたよ。そこで初めて、イスラーム教が他者をいかに受け入れるかを大切にしていること知りました。こう云うことは、実際にその土地に行って文化に触れないと理解しずらいことですね。ひとつだけ大事なことをお伝えします。それは多くの国に残されてる戦争被害者を祀る施設です。ポーランドで云えば、ホロコーストの行われたアウシュビッツ収容所跡地、ベトナム・ホーチミンにある戦争証跡博物館、台湾の台北二二八紀念館など。こうした地は例え観光旅行でもぜひ訪れていただきたいですね。戦争がどれほど酷いことか、ひとつでも訪れたら平和ボケしている日本人の頭にも強烈に突き刺さります。私はグアムの南太平洋戦没者慰霊公苑にも行きましたが、この地で約2万人に及ぶ日本軍の兵士が死に、アメリカ軍も2千人以上の死者を出し、さらに日本側によって虐殺された島民も700人に及んだと云うことを知りました。私はホーチミンの戦争証跡博物館で、虐殺されたベトナム人写真の前で涙ながしてるフランス人女性の姿が忘れられません。そのとき博物館にいた日本人は私たち夫婦ふたりだけでした。
Nov 16, 2024
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日本近隣で飛行機の航路として使わない空域があります。ひとつは日本海上空。実際には韓国やアメリカに飛行するときは、日本海上空を飛んだ方が近道になるのに、ワザワザ迂回してる。昔は日本海上空を飛行する航空会社は34社くらいありました。しかし、2015年以降はロシアの航空会社しか日本海上空を飛んでません。それもウクライナ侵攻以降、ロシアから日本への直行便は無くなってるので皆無と云えます。日本海ルートをとるのと、太平洋ルートをとるのでは、アラスカやカナダに飛行する場合、運行ルートの違いで航空会社1社で年間数億円以上の燃費が違ってきます。日本海ルートをとる方がだんぜん燃費が安いのです。それでも航空各社が日本海ルートを避ける理由が有ります。理由は2つあって、ひとつは日本海上空の気象条件の悪さです。特に冬は、シベリア高気圧と太平洋低気圧と云う日本海特有の天候要因で、上空の気温がとてつもなく低く、かつ強風が吹き荒れます。これによって機体に氷が付着(アイシング)したりエンジン凍結の事故がおこりやすくなるのです。特にキャブレターの着氷、吸気口の着氷、エンジンの着氷は即事故につながりかねません。しかも日本海に面する都市は、例えば青森が世界一積雪量が多い都市、世界第二に積雪量多いのが札幌、第三位が富山と世界有数の積雪量を誇り、カナダのケベックなんかよりよっぽど飛行が困難なんです。もうひとつはお馴染みの北朝鮮ミサイル問題です。2015年以降から北朝鮮のミサイル開発が激化してきたのと、発射予告をしなくなったため、それからこっち各航空会社とも日本海飛行ルートとるのを止めたのです。日本国内で云えばアメリカ軍横田基地の空域は民間機の飛行が禁止されてます。横田基地の上空にある「横田空域」は、第2次大戦終了後のサイフランシスコ平和条約で、日本の航空機は米軍の許可を得ずに飛ぶことができないんです。横田空域は、東京都福生市にある横田基地の上空を中心に、世田谷区や中野区、杉並区の上空まで広がる巨大な空域です。北は新潟県から南は静岡県、西は伊豆半島に及び、飛行禁止高度は場所によって7,000m に達します。民間航空機はこの空域を避けるため大幅な遠回りをするか、離陸後に急激に上昇して空域の上空を通過する必要があります。もうひとつ国内で上空飛ぶことを避けてる地域があります。みなさんは羽田から西日本に向かう航空便で、窓から富士山を眺められた方も多いでしょう。遠くから眺めるのぢゃなく、もっと近寄って見たいと思うかもしれませんが、先ず航空機が富士山上空を飛行することはありません。ナゼ富士山上空を飛ばないかと云うと、富士山の高さと孤立峰と云うことが原因してます。孤立峰と云うのは富士山のように、連峰とは違い、ただ1つだけでできてる山のことです。風が山を越えて吹くとき、山の斜面に沿って吹き上がった空気は山頂へ向かっていくにつれ冷たく重くなり、山頂を越えると今度は温まって膨張しながら吹き下ろしてきます。麓まで降りた空気は充分に温まり、今度は上昇気流となっていき、上昇するに従い再び冷たく重くなることを繰り返し、波打つような流れを作るのです。このように、山の風下側に発生する波打つような気流のことを「山岳波」と呼びます。山岳波は周囲に乱気流を発生させることもあります。山が高いほど、そして吹く風が強いほど山岳波は強くなるので、周囲に風をさえぎる山がなくて、日本一高い富士山は非常に強力な山岳波の発生源なんです。それが航空機の運行に非常に危険なんですね。なので民間航空機は富士山上空飛ぶことを避けるのです。この富士山の山岳波によって発生した航空事故があります。1966年に発生したサイフランシスコ発「英国海外航空911便」ボーイング707墜落事故です。この事故で機長がとった行動が事故発生につながりました。通常よりも数千メートルも低い高度で、しかも有視界飛行で富士山近傍を飛行しようとしたのです。機長はアメリカ人団体観光客が多く搭乗していたため、サービスで日本の象徴 富士山を近くで見学してもらいたいと思ったのかも知れません。しかし事故当日、中国大陸からの強い季節風のために予想を大幅に上回る強い山岳波が発生していたのです。この強い乱気流によって、垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落し、主翼全体から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落してしまったのです。まさに空中分解です。乗員乗客あわせて124名全員死亡、生存者0と云う大事故になりました。
Nov 15, 2024
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「ステレオタイプ」と云う言葉は、人々に浸透している固定観念や思い込み、先入観を指します。ステレオタイプによって型にはまった考え方が浸透してしまい、事実と異なる誤った認識を持ってしまう可能性があるのですね。キアヌ・リーブスが主演する「ジョン・ウィック」シリーズの第4作目「ジョン・ウィック:コンセクエンス」には真田広之扮するキアヌ・リーブスの旧友はじめ、新潟生まれの女性シンガーソングライター"リナ・サワヤマ"扮する真田の娘や数々の力士、忍者が「コンチネンタル・ホテル大阪」を舞台にジョンとともに敵と闘うシーンが連綿と映し出されます。このシーンのコーディネートは日本人アクション監督の川本耕史がしてますが...これを観た日本人は日本でないどこか他の国の出来ごとだと思ったハズです。キアヌ主演映画でさえ、昔からあるアメリカ人の間違った日本感、日本人=武士と忍者が色濃くあらわれて日本人からしたら違和感の集大成。こう云うことはハリウッド映画では日常茶飯事ですね。「X-MEN」シリーズのヒーロー"ウルヴァリン"が日本で活躍する「ウルヴァリン:SAMURAI」でも主演のヒュー・ジャックマンが来日して日本で撮影をおこなったにも関わらず、外国でイメージされている日本そのものの映画となってしまった。今ごろアメリカ人で日本人=ヘプバーン主演の「ティファニーで朝食を」に登場する小柄で出っ歯、黒縁メガネをかけ着物姿なのにズボンもはいている珍奇な姿の日本人をイメージする人は居ないと信じたいですが...いや、まだ居るかも知れませんねぇ。なにしろアメリカ人で地図上の日本の位置を正しく示せる人の方が少ないのですから。東アジアのどこか、中国や朝鮮半島あたりとしか分からない人が圧倒的なんですね。まぁ、それを云えば、日本人の大多数だってヨーロッパや中南米の国々をちゃんと見分けられる人の方が少ないでしょう。それぞれの国の文化だって、フランス=毎朝クロワッサン、ドイツ=ジャガイモとソーセージとビール、スペイン=パエリアみたいに事実と反してる反してないに関わらずステレオタイプはもってるハズです。ちなみにパエリアはスペインでもバレンシア地方の料理です。フランス人がよく朝食で食べるのはクロワッサンだけでなく、ブリオッシュやバゲットも食べます。アメリカ人と云うと「ホットドック」と云うイメージあって、先日おこなわれたドジャース対ヤンキースのワールドシリーズTV中継でドジャースタジアムに集まった観客が「ドジャードッグ」を頬張るシーン映し出されてました。ところが実際にアメリカ行くと、ほとんどホットドック屋なんて見かけない。事実、アメリカ人にとってホットドックは「まぁ簡便になにか食べるか」感覚で、ハンバーガーやピザほどメジャーぢゃないんですね。日本で云う縁日の屋台料理みたいなものです。アメリカ人と云うと知らない人とでもスグ仲良くなって話し込んだりするイメージがあって、私もバンコク旅行で幾人ものアメリカ人とお喋り楽しみましたが、ぢゃあお話したアメリカ人と友達になれるかと云うとそれは別です。アメリカ人が知らない人とお喋りするのは、日本で云う挨拶みたいなものです。「やぁ、元気?」それくらいの感覚。それが発展して友達になるなんて、まぁ無いですね。アメリカ人にとって雑談も笑顔も社交辞令のひとつなんです。間違っても、真剣に政治問題を語ったりしてはダメです。「I LOVE YOU(アイラブユー)」だって日常会話の「じゃあねぇ」みたいなものです。アメリカ人と云うと日本人に比べて仕事態度がい~かげんで、それが許されるからいいなぁなんて思ってません?たしかに田舎の人はすぐサボルし、ニューヨークなんかでも定員さんの態度悪いとこあります。反面、ニューヨークの一流企業なんかで働いてる人は日本人顔負けの仕事時間と仕事量をこなしてます。なにしろスグ解雇が法律で認められてる国ですから、ちゃんとした企業人はうかうかしてられないのですね。こうしたアメリカ人のステレオタイプは反面正しくて、反面誤解と云えるものです。冒頭の話に戻りますが、真田広之がドラマ「SHOGUN 将軍」で主演だけでなくプロデューサーとしても活動したのは、ハリウッドチックでなく細部にこだわり、現代の人に日本の文化が伝わるような内容にするためだったのですね。つまり欧米人が描いてるステレオタイプの日本像ではなく、できるだけ実態に即した日本を描きたかったためです。まぁ、どの国の人々もみんな異国に対してステレオタイプは持ってるワケで、それを払拭するのは実際にその国に訪れないかぎりムリってことです。
Nov 14, 2024
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Just The Way You Areを直訳すると「ありのままのあなた」だけど、これが邦訳されると「素顔のままで」。もちろんビリー・ジョエルの大ヒット曲のことです。1977年に発売されたアルバム「ストレンジャー」でビリーは一躍スターダムにのし上がったワケですが、そのストレンジャー収録曲のひとつが「Just The Way You Are(ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー)」でしたね。「Just The Way You Are」は翌年のグラミー賞で最優秀楽曲賞と最優秀レコード賞を受賞した、ビリーにとって最大のヒット曲ですね。当時の妻エリザベスに捧げられたラヴ・ソングで、ボサノヴァのリズムを取り入れたミディアム・スロー曲です。2009年にはトヨタ・エスティマのCMソングでも使われました。邦訳の「素顔のままで」と云うと、1992年にフジTVが放映したトレンディドラマにも同名タイトル作品がありましたね。安田成美と中森明菜が主演した。このドラマの主題歌は、今や懐かしい米米CLUBの「君がいるだけで」なのに、ドラマの副題は「Just The Way You Are」。もちろんビリーのヒット曲を意識したものなのに、主題歌は邦楽。なんかヘンやなぁ。台湾や香港では「難得友情人(rare friend=珍しい友人)」という題名で放送されてました。女性シンガーソングライター"メーガン・トレイナー"の2014年のビューシングル「オール・アバウト・ザット・ベース~わたしのぽちゃティブ宣言!」はアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国、オーストラリア、ニュージーランドで1位を記録する大ヒット曲ですが、この曲はJust The Way You Are に影響を受けて作ったとメーガンが云ってますね。こんなラップ調の曲とJust The Way You Are 、ぜんぜん結びつかないけどそうなんかなぁ?ビリー・ジョエルの父親はナチスから逃れるためアメリカに亡命したユダヤ人。母親もイギリス系ユダヤ人ですが、この家族、ユダヤ教にまったく無関心らしい。後年になってビリーは宗教団体を辛辣に風刺した曲「So Long, Reverend Ike」を発表してるくらいですから無信仰なのかも知れませんね。なぁんて四の五の云わず、ビリー・ジョエルの「Just The Way You Are」、お聞きいただきましょうか。いつ聞いてもいい曲ですが、ビリーがこんなラブソング歌ってるのは後にも先にもこの曲だけなんですよね。批評家のなかには、歌詞が陳腐だと云う人もいます。Billy Joel - Just The Way You Are - Live -
Nov 13, 2024
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私がタイのバンコクに赴任したのが1972年。それから7年いました。円が変動相場制に移行したのが1973年ですから、行った当時は1$=360円、1(タイ)バーツ=10円固定の時代です。当時、ベトナム戦争の真っ最中だったので、北ベトナムからのミサイルを避けるため、旅客機は南シナ海をおおきく迂回しての飛行で今の飛行時間より1時間くらい多くかかったと思います。ベトナム戦争の終結が1975年ですが、タイ人でもベトナムに兵隊として駆り出された人もいましたね。そんなタイ人に話を聞くと、戦争映画みたいに勇敢な兵隊なんていなくて、みんなライフル弾が当たってもダイジョウブなようにヘルメットを2重に被り、物陰にジッと身を潜めるしかなかったと。当時のバンコクには米兵専用のホテルがあって、そんなホテルではタイのお金は使えなくて、米ドルだけ通用してたし、タイのリゾート「パタヤビーチ」に行ったら、沖合に米軍の巡洋艦や潜水艦が浮かんでました。当時のパタヤビーチは米兵の保養地だったのです。今の日本は輸出業を除いて円安に苦しんでますが、変動相場制に移行した当時は1$=120円台のとてつもない円高・ドル安で、これはとりもなおさず日本の経済成長率が群を抜いた高さだったためです。タイは昔から親日の国でしたが、私が行った当時は最悪の対日感情。それは何もタイだけぢゃなくて、インドネシアなど東南アジア諸国共通の感情でした。ひとつには東南アジア諸国の人々がとてつもなく貧しくて、それに比べて日本人の東南アジアに対する態度が災いしてたのだと思います。とにかく当時の日本人のおごり(驕り)は、今では考えられないくらい酷かったですね。それとともに日本人は東南アジアへ「日航機」でやってきて、空港では「日本の旅行業者」のガイドに案内され、「日本製のバス」でバンコク入り。「日本人経営のホテル」に泊まり、「日本人経営のレストラン」で食事し、「日本人経営のナイトクラブ」で遊ぶ。それだけでなく現地駐在員は「日本人学校」だけに子どもを送り込み、日本人コミニュティの中だけで生活してると。事実、そうでした。1972年の統計では、当時約7,000人の日本人がバンコクに居住してました。反日感情の引き金になったのは3つの事件が影響してます。ひとつはキックボシングです。キックボシングはタイの国技ムエタイ(タイ式キックボシング)と違って、五木ひろしを世に出したことで有名な野口修が設立した日本キック・ボクシング協会の格闘技です。野口は当時、日本人駐在員お買い物定番のタイ大丸の入口に1972年、ガラス張りのリングを作りそこでタイ人ボクサーを戦わせたのですね。そして日本人キックボクサー沢村忠らがタイ人ムエタイ選手(実態は留学生で正式な選手ではありません)を打ち負かすシーンをビデオで流したのです。これがムエタイを冒涜したとなって、学生約200名が野口ジムを襲撃、投石どころか銃弾を撃ち込んで抗議デモを行ったのです。ちなみに沢村忠は一度もバンコクに来て勝てたことないし、事件以降はタイ入国できなくなりました。2つ目は、1972年にタイの国立大学チュラーロンコーン大学の学生を中心に結成された「全国学生センター」によって行われた日本製品不買運動です。この運動は10日間おこなわれて、日本経済進出の象徴とされていた野口ジムとタイ大丸を攻撃目標にし、ポスターやセミナー、デモなどを通して日本製品不買を訴えました。なにしろ輸入品と云うのは絶対的に日本製品が占めてた時代で、欧米製の車さえ珍しい部類でした。もちろんメイド・イン・チャイナなんて影カタチも無かった時代です。そして、こうした日本製品を買えるのは一部の富裕層だけで、一般庶民には手の届かないもの。この運動はバンコクのみならず、チェンマイやコンケーンなど地方都市にも広がり、タイの新聞は連日、学生の行動を支持する記事を載せました。最後の事件がもっとも深刻でした。1974年におこなわれた田中角栄(当時首相)によるタイ訪問です。これには1972年の日本製品不買運動から漂ってた反日ムードが影響していて、そのトドメをさしたかたちになったのですね。田中首相がバンコクに到着した日に対日赤字が増大し、それが国民の生活を苦しくさせていると約20,000人の学生が市内で抗議活動を行い、そして暴動に発展してしまったのです。田中首相は、日本の経済支配、日本TV番組の影響、関税、日本人旅行客の行儀の悪さなどに関して、学生代表と会見しましたが、このとき田中首相は「わが国が批判されている問題点のうち、かなりのものはむしろタイ国政府の問題にある」と述べたために、火に油を注ぐ結果なったのです。学生は不満を爆発させ、「首相の云い逃れと傲慢さに驚いた」と怒り、対面は物別れに終わりました。これ以降、日本製品の不買運動はますます激しくなり、私も路上で日本車が横転させられて炎上してるの見たことあります。とは云っても、私は現地タイ人スタッフと仲良く、のほほ~んとした生活の毎日。お気楽なモンです(笑)反日運動が下火になったのは全く記憶にないのですが、タイ人の生活が少しずつでも向上していったのと歩調をあわせてたと思います。私がバンコクに赴任してた時期と云うのは、日本の「高度成長期」まっ只中。70年代初頭はベトナム反戦運動が活発になり、ウーマンリブやヒッピーが世界的に流行した時代です。日航機よど号ハイジャック事件は1970年に発生してますから、私はまだ日本にいました。1972年におきた連合赤軍浅間山荘事件も日本でTV中継観た記憶ありますから、その直後に毎日放送退職してバンコクに赴任したのでしょうね。さて、私が初めてバンコクを訪れたときの空港は、現在の広大なスワンナプーム国際空港ではなく、ドンムアン空港でした。ドンムアン空港はタイ空軍の飛行場が併設されてる空港で、現在はLCC国際線と国内線、そしてチャーター機、政府専用機、貨物専用機などが利用してます。下の画像上は1970年代ドンムアン空港に駐機する今はなき「エア・サイアム」です。私もこのエア・サイアムに乗って初めてバンコクを訪れました。まだ飛行機からタラップを降りて、空港ビルまでバス移動の時代です。エア・サイアムはJALと地上業務提携をしてましたが、1977年、経営悪化で運行を辞めた航空会社です。この時代、海外旅行にいく日本人男性は、スーツにネクタイを着用して飛行機に搭乗。空港には知人が集まり出発を見送ったころです。旅の必携品と云えばお守りと正露丸そして漬物でした。バンコクは70年代と80年代には、それほど大きな変化はありませんでした。バンコクの土地はチャオプラヤ川(メナム川)下流のデルタ地帯にできてたため、70年代は地盤が脆弱で高層ビルや地下鉄を作れないと云われてました。しかし、90年代に入ると大きく変化し、超高層ビルが姿を見せ、高架モノレールBTSが走り、現在では地下鉄が縦横に走ってます。私が赴任してたころのバンコクの交通手段と云えばタクシーかトゥクトゥク(三輪タクシー)、ソンテウと呼ばれるトラックの荷台を座席に改装した乗合タクシー、そして公共バスしかありませんでした。どの交通機関も冷房なんてまったく無い時代でした。ソンテウは一度も利用したこと有りませんでしたが、日本人駐在員の奥さま方はよく利用してるの見かけましたね。タクシーは現在のようにメーターがなく、乗車時に値段交渉から入ります。そして車は日本のタクシー中古車をそのまま輸入して使ってたので◯◯タクシーなんて日本の会社の名前がそのままボディに書かれたものが走ってました。しかもボロボロの車も多くて、床が錆びて腐って穴あいてるなんて日常茶飯事。これでスコールに見舞われると、車体の下から水があがってきて足ビチャです。タイ大丸に日本人が経営してて、場所を変え現在もある「泰文堂書店」が日本の雑誌を輸入してましたが、到着まで1ヶ月遅れでした。運賃の高い航空便でなく、安い船便を使ってたからです。ここは日本人学校の教科書も扱ってましたね。TVで衛星放送なんて無い時代です。年末恒例のNHK紅白歌合戦は、日本で録画したテープを番組終了直後にJALカーゴに乗せて、翌日(元日)公開してくれる日本人経営のホテルがあって、それが在タイ日本人で満席になるほど。今のようにネット環境もなく、情報がほとんど入らなかった時代で、みんな日本の情報に飢えてました。当時のバンコクは固定電話回線も脆弱で、スコールが降ると度々通信できなくなる。日本とのやり取りは、もっぱらテレタイプ端末を使用して電話回線で繋ぐ「テレックス」だけと云う時代。忘れられないのはアントニオ猪木がボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと戦った1976年の試合。このときは衛星放送が確率してたのか、バンコクでも日本から送られてくる試合中継がTVで観れました。タイ人の関心は絶大でしたが、イザ試合始まると猪木はリングに寝転んだままで膠着状態の試合が永遠と続いて、あまりのつまらなさに途中からタイ人はほとんどTV前から居なくなりました。バンコクは今や国際観光都市としてシャングリラやペニンシュラ、マリオット、ミレニアム ヒルトン、フォーシーズンズなど5つ星ホテルが林立してますが、70年代のトップホテルと云えば文豪サマセット・モームの愛したオリエンタルと当時国営だったエラワンホテル、そして欧米人ご用達のインターコンチネンタルぐらいしか有りませんでした。バリ風建物で有名だったインターコンチネンタルホテルは2002年に取り壊され、跡地に高級巨大ショッピングセンター「サイアムパラゴン」が建設されました。今も外国人観光客の歓楽街として有名なパッポン通り、ここはベトナム戦争のときに、アメリカ軍兵士がR&R(軍事スラング用語で、休養とリラクゼーション)を楽しむための歓楽街として発展した街です。隣接するタニヤ通りは日本人駐在員対象のクラブ街でしたが、私はもっぱら欧米人の集まるパッポン派でした。このパッポン通りに日本人の経営する「ミズ・キッチン」と云うステーキレストランがあって、在タイの日本人若者が飲んだ後集まるたまり場。その頃は私もまだ若かったので、ここに四六時中出入りしてました。何十年ぶりかで再びミズ・キッチンを訪れたときは、当時そのままの内装に懐かしさから思わず涙しました。そのときは日本人オーナーも高齢とは云え健在でしたが、ほどなく亡くなりお店そのものが消滅してしまいました。なんか私の履歴書みたいになってしまいました(笑)今、思ったら、よく当時のバンコクに7年もいたものです。しかし、のんびりおっとりして住みやすい街だったかな?帰国して何十年経ってから再び訪れたら、まったく知らない国ど~ぜんで言葉が通じたからいいものの、どこに行くにもどぎまぎしました。
Nov 12, 2024
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2014年にマシュー・マコノヒーが主役の元空軍パイロットクーパーを努め、その娘役をジェシカ・チャステイン、クーパーとともに宇宙に飛び立つブランド博士役を映画「レ・ミゼラブル」でアカデミー助演女優賞受賞のアン・ハサウェイが演じたSF映画「インターステラー」が公開されました。とてつもなく話題を呼んだ作品なので、ご覧になった方は多いでしょう。この作品は巨大砂嵐が日常的に発生する異常気象の近未来地球から始まり、NASAが密かに土星近傍のワームホール(時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道)を通り抜けて、別の銀河に人類の新天地を求めるプロジェクト「ラザロ計画」を遂行していることを知った元空軍パイロット"クーパー(マシュー・マコノヒー)"の物語です。人類生存のために第2の地球となり得る惑星を探すミッションにパイロットとして参加するクーパーはブランド博士(アン・ハサウェイ)らと宇宙へと飛び立ちます。飛び立つ直前に10歳の娘マーフと別れをかわしますが、いつ帰還できるか分からないミッションに猛反対するマーフ。結局、マーフとの和解ができないまま「必ず戻ってくる」とだけ云い残し旅立っていくのですね。さて、ここから理論物理学の世界に入っていきます。アインシュタインが確立した特殊相対性理論に基づいて「高速で移動するほど、止まっているものより時間の進みが遅くなる」云う理論で話が進んでいくのですが、映画ではそんなムツカシイ理論を意識することなく鑑賞できます。宇宙に飛び立って2年後、土星近くのワームホールに接近した宇宙船はワームホールを通り抜け、ターゲットのひとつ水の惑星を目指します。同乗していた物理学者は、水の惑星の超重力が時間の流れを遅くしており、この星の1時間は地球の7年間に相当すると警告します。そして水の惑星を探索中に突如として山のように巨大な波が宇宙船を襲うのですね。この波によって他の隊員は溺れ死に、ブランド博士だけが操縦士クーパーに助け出されます。ようやく水の惑星から脱出したクーパー。受信はできるものの、こちらから送信は出来ない地球からの連絡にアクセスします。待っているマーフは既に成人して今はNASAで重力の研究していることを23年分のビデオレターで知るのです。そう特殊相対性理論によって宇宙船より時間の流れが早い地球では既に23年もの月日が流れ、そして自分たちの生存が諦められてることを知ります。もはや燃料と酸素のほとんどを使い切った宇宙船は地球へ帰還することが不可能。そこでブラックホールに接近し、ブラックホールの引力を利用して振り子のように宇宙船を飛ばそうとします。そのためには宇宙船から切り離した小型機をブラックホールに飛ばさなければいけない。クーパーはブランド博士を宇宙船に残し、ひとり小型機に乗り込んでブラックホールに落下していきます。彼女ひとりにミッションの全てを託すのです。ブラックホールに物体が飲み込まれる瞬間を想像しても、実際にその瞬間を目撃することは不可能です。相対性理論では、巨大な重力を持つブラックホールの近傍では、時間が極めてゆっくり流れていく。そのため、ブラックホールに向かって移動する物体を遠くから観察すると、表面に近づくにつれて動きがゆっくりになり、永遠にたどり着かないように見えるのです。実際には物体はブラックホールに到達しているのに、遠くから見るとまるで静止しているように見えるのですね。クーパーがたどり着いた先は...無数の立方体が幾重にも折り重なった4次元超立方体テサラクトの空間でした。立方体は"誰か"あきらかに"見知らぬ知性"が造ったもののようです。そして立方体を辿っていくうちに、立方体の隙間から娘マーフを見つけます。ビデオレターで伝えてた通り、垣間見えたマーフは立派に成人してましたが、クーパーには気づいてないようです。なぜならマーフ側から見たクーパーの位置はただの本棚だったのですから。クーパーは重量波を操作して本棚から本を落とし、マーフと交信を試みますが、それでも自分の過去を変えることはできない。彼は自身が過去を変えるためではなく、未来を変えるためにこの空間に送られたことに気づきます。クーパーは搭載してたロボットに収集させた特異点のデータを、マーフのアナログ時計の秒針を使ったモールス信号で送るのです。その時計はクーパーがマーフに残したハミルトンの腕時計でした。そして...ついにマーフは秒針の微妙な動きが父親から送られてるモールス符号だと気づくのです。クーパーがモールス符号で送った特異点のデータを使い、マーフは重力問題に解を見つけるのです。その瞬間、超立方体テサラクトが閉鎖し始めクーパーはワームホールの中に吸い込まれていきます。どれくらい時間が経ったでしょう。クーパーは土星の軌道上に建造された巨大スペースコロニーの病室で目覚めます。彼は宇宙に放り出され漂流中に、探索中だった宇宙船に発見され救助されたのです。マーフの功績でスペースコロニーの建造と打ち上げが成功し、地球滅亡から人類は救済された後でした。クーパーはコロニーの病室で年老いたマーフと彼女の大勢の子や孫たちとともに再会を果たします。そう父親と娘の年齢が特殊相対性理論によって逆転してたのです。マーフはクーパーに、惑星へひとりで向かったブランド博士を探しに行くよう諭します。そしてクーパーは宇宙船を駆ってコロニーを後にするのです。ブランド博士がひとり待つ惑星に向かって。長々とストーリーを述べましたが、なにしろ難解な作品なので前置きが長くなりました。今日の本題はこの映画の監督クリストファー・ノーランの作品造りについてです。クリストファー・ノーランと云うのは2010年の映画「インセプション」や2012年の映画「ダークナイト ライジング」あるいは昨年アカデミー賞を独占した「オッペンハイマー」など、どの作品を観ても「ここはCGでしょう」と云う場面のほとんどを実写で撮ることで有名ですね。「インターステラー」なんて、近未来から始まって宇宙の深淵まで描写してるのですから、全編CGでもオカシクない。なのにインターステラー作品のほとんどはロケとセットを使った実写なんです。唯一、ブラックホールのシーンだけはCGしかチョイスないのでやむなく使ってますが、その形状についてはノーベル物理学賞受賞者で理論物理学者キップ・ステファン・ソーンに監修してもらって極力実像に近い映像にしてます。このインターステラーで使われたブラックホールのCGシーンは、後の2019年にイベント・ホライズン・テレスコープと云う電波望遠鏡で撮影されたブラックホールの実像と酷似していたので世間を騒がせました。インターステラーの冒頭シーンで登場する広大なトウモロコシ畑は、ノーラン監督が土地を実際に購入してトウモロコシを栽培。その広さ500エーカー、東京ドームの広さが11.5エーカーですから、とんでもない広さなのが分かります。そして、そのトウモロコシ畑をクーパーとマーフを乗せた車が飛行機を追いかけて疾走するのですが、実際にはトウモロコシの背が高くってクーパーからは全く前が見えない。それでヘリコプターで上空から車を追いかけ、無線で運転方向を指示してたのですね。撮影を終えたトウモロコシはお店に安く売って、撮影費用に充てがわれたとか。「水の惑星」のシーンはアイスランドのマゥファボゥトと云う超巨大な三角州で撮影されました。ところがマゥファボゥトに行くのに道路が未舗装で撮影機材が運べない。ど~したと思います?ヘリで?いやいや機材が多すぎて運びきれない。なんとノーラン監督は中継地点からマゥファボゥトまでの15km の道路を新たに建設してしまったのです。この撮影ではスーツの不備でアン・ハサウェイが低体温症になる事故が発生しましたが、事故を乗り越えてハサウェイも撮影を続けたのですから役者根性ハンパないです。さて、問題のクーパーが入り込む4次元超立方体テサラクトのシーン。このシーンの撮影、緑色のスクリーンを背景に出演者が演技して、後から背景を別の映像と合成する「グリーンバック」を全く使ってないのです。今ではと~ぜんのように使うグリーンバックを一切使用せず、あくまで実物大のセットを組んで撮影してるのですね。とにかくリアルにこだわり過ぎた監督と云うのは使う費用も膨大ですが、それなりに見事な映像を見せてくれるのですね。昨今のなんでもCGとは真逆の製作姿勢です。
Nov 11, 2024
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「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」と云うキャッチコピーは世界の3大ビール銘醸地のことですね。ミュンヘンはビヤレストランのミュンヘンぢゃなくて、ドイツ バイエルンの地名。ミルウォーキーは、アメリカのウィスコンシン州はミシガン湖岸にある土地ですね。サッポロはもちろん札幌です。しかし日本ビールの世界シェアは、7位にアサヒ、10位にキリンがランク入りしていますが、実態は世界シェア3.0%と1.5%でほとんど無いに等しい。そもそも「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」と云うキッチそのものが、サッポロビールが1958年に打った広告で、語呂のよさと北緯45度付近に位置する3都市を結んだ着想のよさで流行語になっただけです。そもそも世界のビールシェア(生産量)は次の3社が約半分を占めてます。世界トップのビール会社はベルギービールの「ステラ・アルトワ」などを生産するビール会社「アンハイザー・ブッシュ・インベブ」です。ただ、この会社は世界50カ国以上もの国々に製造拠点を持つグローバル企業なので、例えばアメリカを代表するビール「バドワイザー」やメキシコのビール「コロナ」なんかも販売してるので、単純にベルギービールの会社とはいい難いですね。世界シェア第2位はお馴染みオランダの「ハイネケン」です。この会社の歴史は古いですね。なんと創立は1863年です。第3位は意外に思われるかも知れませんが中国の「華潤雪花(China Resources Snow Breweries)」なんです。実は中国は世界でもっともビールの消費が多い国なんです。まぁ、人口が人口ですからね。このビール会社のそもそもは、満州時代の1934年に大日本麦酒とキリンビールの合弁で奉天に設立された満州麦酒(満州ビール)です。消費は中国本土のみで、輸出は極めて少ないそうです。中国には日本人にも馴染みのある「青島ビール(チンタオビール)」もありますね。ビールと云えばドイツってイメージあるけど、世界シェア上位3社に入ってないのは奇異な感じしますね。中国の雪花ビールを別にして、上位2社はグローバル化してて、他国のビールも扱ってるから単に売上だけでは判断できないですね。ちなみにバドワイザーは、ミズーリ州セントルイスが本部だから「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」のミルウォーキーではない。ミルウォーキーの有名ビールは「パブストブルーリボン(Pabst Blue Ribbon)」です。総じてアメリカのビールは水みたいな味わいで、コクに欠けますね。ドイツと同様にパブでお馴染みのイギリスのビールも販売額では上位いってません。ラガービールが主流の現在でも、イギリスはエールビールが古くからの主流だからです。エールビールは上面発酵という常温に近い温度で麦汁を発酵させる方法で造られます。上面発酵で造られるエールビールは、豊かな味わいと芳醇な香りが特徴。イギリスでビールを注文するときは、「1パイント(約568ミリリットル)」か「ハーフパイント(約264ミリリットル)」という単位で注文しますね。「パイント」は「メートル法」ではなく、「ヤード・ポンド法」の体積単位です。また、「パイント」にあわせたビールグラスが、パブでよく見かける「パイントグラス」です。飲み口が広くグラスの高さが低いため、香りの高いエールビールを楽しむのに最適なんですな。実はイギリスのパブは年々店舗数が減ってるそうです。それでもイギリス全体で4万店舗くらい残ってるそうですが。パブで飲ませるエールビールの特徴は、パブの中で行われる「カスクコンディション」と呼ばれる樽(カスク)の中での二次発酵です。つまり最後の熟成はパブでおこなうので、そのパブの腕次第で味が違ってくるのですね。黒スタウトビール「ギネス(GUINNESS) 」も有名ですが、アレはアイルランドのダブリンのビールですね。これも今は世界各地に製造拠点を持ってますが、ナイジェリア生産のギネスは、アフリカの気候下で保存されるためアルコール分が8%と非常に高くなっています。アイルランドのギネスのアルコール度数は、缶で4.5%、瓶で5%です。ビールグラスで「ビアブーツ」ってのがありますね。ビアブーツにビールを注ぐと、グラスの形状が災いして大きな泡が発生します。そしてグラスの傾きに合わせて泡が先端まで進むと、残ったビールが猛スピードで口に向かって押し寄せるのです。これを防ぐには、ゆっくり泡を抜くのがコツです。ビアブーツのつま先を自分の反対側に向けて飲み始めます。泡がガラスの下を移動するときに、ブーツをゆっくりどちらかの方向に90度回転させ、泡がつま先に到達するまでにつま先が右または左を向くようにします。これにより圧力が軽減され、スムーズでクリーンな飲み心地が保証されます。ビアブーツ事始めと云われてるドイツやオーストリアでは、お店のグラスにラインが入っていて、ドリンク容量を守るために、決まった容量までいれないといけない法律があります。グラスをよくみると0.2リットルとか、0.5リットルの表記と下に短い線が引いてあるのです。この線のことを「アイヒシュトリヒ(Eichstrich)」と呼びます。このアイヒシュトリヒはビールだけでなく、ワインやシュナップスからソフトドリンクなどにも導入されてます。ビールの場合は泡がつきものですが、ラインまで「液体」が入っていることが条件です。泡はアイヒシュトリヒの上からではなければいけないのですね。最後に世界でイチバン安い生ビールはどこで飲めるでしょう?それは"ベトナム"です。ベトナムのハノイで有名な「ビア・ホイ(Bia hơi)」は大ジョッキ1杯約92円から。軽い口あたりで、苦みが少なくすっきりとした味わいで、ヨーロッパのビールに近いです。ハノイでコーラ1缶が約74円から、ミネラルウォーター(500ミリリットル)が約62円からですから、どんだけビア・ホイが安いか分かります。ビア・ホイは量り売りもあって、お店で注文するとグラスとともに大きなピッチャーに入ったビア・ホイが用意されます。それを自分でグラスに注いで、冷たいのがご所望なら中に氷を入れて飲むんですね。
Nov 10, 2024
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日本には温泉や銭湯みたいな大きなお風呂でなくても、どこの家庭にも浴槽があって夏場ぢゃなければ毎日湯船に浸かりますよね。私は温泉の大浴場は誰がお湯の中で何してるか分からないのがイヤで入らないです。温泉にいっても、もっぱら部屋のお風呂で済ませてます。ところが東南アジアを旅行してると、よく浴槽を備えてなくてシャワーだけのホテルに当たることがあります。どこも暑い国なので、シャワーだけでもいいんですが、浴槽に浸かるってのは身体を洗うと云うより、リラックス効果が主目的だからこれが難点なんですね。YouTube なんかで欧州の宿泊施設観ても、一流ホテルは別にして安ホテルやドミトリーなんかはシャワーのみってとこ多いですね。ましてフランスみたいに、アパートを宿として貸してるとこなんかは、連続で使用できるお湯の量が200リットルとか300リットルと限られてて、その量のお湯を使い切ってしまうと例えシャワーの最中でもお湯が出なくなって、お水になってしまうとこが多い。インドや東南アジアの一般家庭では、そもそもお湯で洗う習慣がなくて水浴中心なんですね。シャワー設備もない家庭だったら、バケツに水溜めて、その水を手オケみたいのでバシャバシャやるだけ。川のあるとこだったら、川で水浴びで済ませています。北欧は、サウナで有名ですが、サウナ後のお湯の入ったバスタブってのはありませんね。水風呂とシャワーのみ。まぁサウナで温まってるからこれでも良しなんでしょうが、北欧の家庭見ても浴槽が無くてシャワーのみってのが一般的ですね。そもそも乾燥したとこが多い欧州では入浴の必要性が低く、シャワーすら週1ってとこも多いらしい。欧州にはアイスランドのブルーラグーンとかハンガリーのゲッレールト温泉やセーチェニ温泉、ドイツのカラカラ浴場、オーストリアのレーマーテルメ、トルコのパムッカレ温泉など数多くの温泉地が有りますが、どこも日本みたいに入浴目的ぢゃなくて、温水プールの感覚ですね。なのでトーゼン、水着着用必須。台湾にも関子嶺温泉とか烏来温泉とか多くの温泉地がありますが、個室で無い限り原則水着着用です。そんな中で全露天風呂の日月農荘は水着不可の珍しい温泉。日本と同じように素っ裸で入らないといけないらしい。お隣、韓国で一般家庭はバスタブない家が普通ですね。バスタブがある家でも普段はシャワーだけで済ませる人が多い。韓国のバスタブは、物置代わりや大きな洗濯物を洗濯する場。ときによっては、キムチを大量に漬けるキムジャン用の料理場として使われます。家にシャワーしかないので、身体を温めたいときやリラックスしたいときは「モギョクタン」と呼ばれる銭湯や「チムジルバン」という韓国式のサウナを利用します。モギョクタンは日本の銭湯みたいに洗い場と大きなお風呂があり、垢すりやサウナが利用できるところもあります。チムジルバンは日本でいうスーパー銭湯です。ここでは定番の垢すりの他に汗蒸幕(ハンジュンマク )やよもぎ蒸しも受けられます。中国も韓国と同じで一般家庭に浴槽があるのは稀です。シャワーのみで済ませてしまいます。北京など乾燥した地方では、毎日お風呂に入る習慣自体がないそうです。「ザオタン」という公衆浴場はありますが、男性のみが利用するサウナのような施設で、マッサージやあかすりを目的にしています。日本のお風呂と欧米なんかとの決定的な違いは「洗い場」の有る無しですね。だいたい欧米のお風呂はトイレと一緒くた。なので浴槽に長い時間浸かってると、他の人がトイレ使えない。それで浴槽使わないってのも有るけど、浴槽に浸かってても欧米人は浴槽の中で身体を洗う。よく映画なんかでバスタブ泡だらけにして入浴してるシーンありますよね。浴槽でそのまま身体洗って、お湯抜いてシャワーで洗い流す。しかも多少、泡が残っててもタオルでふき取ってしまうのが欧米人。ちょうどイギリス人が洗剤使って食器洗っても、その洗剤をよく濯がないでそのまま食器棚に入れるのと同じです。日本で洗い場があるのは、日本の高温多湿の気候が影響しているからなんですね。同じ高温多湿でも東南アジアと違って、日本家屋はとにかく通気性を重視して建てられていて冬は寒い。浴室も寒いので、浴槽は温まるためのもの。それで別に体を洗う場所として「洗い場」が設けられたよう。どっちにしても日本人はお風呂を単に身体を温めるとか洗うとか以前に、癒やしの空間と位置づけられてますね。こんなお風呂文化もってる国は他に見当たりませんよ。
Nov 9, 2024
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みなさんは1998年に上映された2つの衝撃的な映画を覚えてらっしゃるでしょうか?ブルース・ウィリスが主演した「アルマゲドン」と、女優ティア・レオーニが理知的で魅力的な新聞記者役をやった「ディープインパクト」です。どちらの作品も地球に最接近して、このままでは衝突する小惑星を宇宙で核爆発により軌道を変えようと云うもの。「アルマゲドン」では宇宙船乗組員の犠牲と引き換えに、小惑星は大気圏突入前に2つに割れて軌道が変わり、地球滅亡の危機が寸前で回避されます。それに対して「ディープインパクト」では、核爆発には成功したものの、大きな破片と小さな破片の2つに分裂しただけで、軌道を逸らせずついに地球に落下して大災害を引き起こす内容でした。どちらの作品も、小惑星を破壊して軌道をそらす切り札として核爆弾を使ってますね。しかし、これは映画の話で、NASAやJAXA(宇宙航空研究開発機構)によると核爆発くらいでは、細かい破片に分裂して逆に地球に降り注ぐだけで現実性は全く無いとのこと。むしろ地球から発射した人工衛星を小惑星にぶつけて軌道を変えるほうが現実性があるのだとか。2022年にNASAは小惑星「ディモルフォス」に探査機「DART」を衝突させて、軌道を変える防衛ミッションを試みました。ディモルフォスは衝突で大きなクレーターが残るようなことはありませんでしたが、衝突の衝撃により幅広い円錐形の粉塵が上がり形状を大きく変形させたようです。全体的に変形し、別の天体のようになってしまったのです。結果として、ディモルフォスの公転周期は11時間55分から、11時間23分になり、DARTをぶつけた衝撃で軌道を変化させられることが確認されました。みなさんは地球に接近する軌道を持つ彗星、小惑星、大きい流星体など地球近傍天体ってどれくらい有ると思われます?下の図をご覧ください。細い青い線が潜在的に地球に最接近するであろう小惑星の軌道なんです!これら地球近傍天体は、地球に接近することから衝突の危険性を持つ反面、地球からの宇宙船が容易に到達できるものです。NASAの発表では地球に衝突すると地球単位の重大な災害を引き起こす天体は既に1,000個以上発見されており、まだ見つけられていない地球近傍天体も多数あるらしい。こうした地球近傍小惑星の中でも、特に地球に衝突する可能性が大きく、なおかつ衝突時に地球に与える影響が大きいと考えられる小惑星は「潜在的に危険な小惑星(PHA)」と呼ばれています。PHAに分類される小惑星は、地球軌道との最小交差距離が約748万km 以下、なおかつ絶対等級が22.0以上の小惑星とされており、地球に衝突しようとしても大気との摩擦で燃え尽きてしまって影響がほとんどない小さな小惑星とは別にカウントされてます。地球近傍天体をシュミレートしたのが下の動画です。現実問題として地球の脅威となるかもしれない小惑星が地球に衝突する確率は平均で数百万年に一度くらいとのこと。その数百万年に一度に当たらなきゃいいのですが...約6,600万年前、恐竜は小惑星の衝突の影響で絶滅し、衝突からわずか数時間のうちにほとんどの陸上生物が死滅しましたからね。この恐竜の絶滅につながった小惑星の衝突はメキシコ湾に存在する巨大なクレーター「チクシュルーブ(マヤ語で悪魔の尻尾)」クレーターとして痕跡が残ってます。この衝突時のエネルギーは広島型原子爆弾の約10億倍、衝突地点付近で発生した地震の規模はマグニチュード11以上、津波は高さ約300m と云う凄まじいものでした。1908年に発生したロシアのツングースカ大爆発では空中爆発により、東京都とほぼ同じ面積範囲の樹木がなぎ倒された他、1,000km 離れた家の窓ガラスも割れました。爆発によって生じたキノコ雲は数百km 離れた場所からも目撃され、地震も観測され、爆発した物質が気化して巨大な夜光雲を形成したため、アジアからヨーロッパにかけて広い範囲で数夜にわたって夜空が明るく輝き、ロンドンでは真夜中にライトなしで新聞を読めるたほどだったとか。小惑星2024 MKは今年6月16日にハワイ大学の開発した小惑星衝突早期警報システムによって発見された地球近傍小惑星です。今年6月29日地球に最接近ましたが、そのときの距離は約29万km で月の軌道より内側でした。そして時速3万4,000km でぶっ飛んでいきました。小惑星2024 ONは今年9月17日、地表から997,799km に接近して、猛スピードで通過しましたが、この小惑星の直径は220~480m で、ニューヨークのワン ワールド トレード センターとほぼ同じ大きさなんです。地球を通過するときのスピードは8.8km 、これは音速の約25倍です。NASAは探査機NEOWISE(ネオワイズ)の宇宙望遠鏡を使って、地球に脅威を与える可能性のある小惑星や彗星を探してました。このミッションは2013年に開始され、地球近傍の天体を迅速に特定して特徴付け、そのサイズやその他の重要な測定値に関するデータを収集してたのですね。NEOWISEはその主要任務中に158,000個を超える小惑星を検出し、そのうち34,000個はこれまで発見されたことが無かったものでした。そしてついにNASAはNEOWISEに最終指令を送り、10年以上にわたる小惑星観測に終止符を打ったのです。NEOWISEがその任務を終わりにしたのは、推進システムがないため軌道を維持できなかったためです。太陽活動の活発化と相まって、探査機は今年末に大気圏で燃え尽きるまで自然に軌道を下降することになります。
Nov 8, 2024
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世界中で唯一、中国人観光客をほとんど見かけない国"インド"。インドってタージマハルのあるアグラを始め、青い街ジョードプル、ピンクシティの名で知られるジャイプール、エローラ石窟寺院群のあるアウランガーバードなど非常に多くの遺跡に恵まれてるけど、反面インド最大の都市ムンバイや首都デリーなんかの大都会を別にするとどこも田舎然としていて、過去の遺産と現代の混沌のギャップが激しいように感じますね。
Nov 7, 2024
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海外旅行でイチバンの難点は「概日リズム睡眠障害」、いわゆる「時差ボケ」ですね。体内時計が、その国の時間と同期しなくって、夜になっても寝付けなかったり、逆に日中たまらなく眠くなる。時差ボケは、出発地から3時間以上離れたタイムゾーン(時間帯)に適応できないときに起きると云われてますが、先日行ったタイと日本は2時間しか時差ないのに帰国当日は時差ボケでした。私がイチバン時差ボケ経験したのは成田からニューヨークに直接飛んだときです。日本とニューヨークの時差は13時間。日本の方がニューヨークより13時間進んでいるんです。対処はひたすら眠らないこと。このときは34時間くらい起きっぱなしにして、1日で乗り切りました。時差ボケはなにも海外旅行に行ったときだけ起こるのではなく、国内にいても例えば仕事してる人が休暇の2~3日間よく寝付けなかったりするのも一種の時差ボケらしい。要するに蓄積された体内時計と違うスケジュールで行動したときに起こると。海外旅行で深夜便を利用したときは、機内で睡眠をとるために、光を完全に遮断するのがいいですね。目的地の時間帯が出発地より数時間早い場合は、出発までの明るい間にサングラスをつけて準備をしておき、その後アイマスクをつけて眠るんです。アイマスクをしないと、同席者のビデオ画面からの光が遮断できません。脳が暗闇を感知すると、体内時計を調整するホルモン「メラトニン」が分泌され、眠りに誘ってくれます。このとき前方の座席は飛行機の中で最も静かな場所です。人の流れが絶えないトイレ近くの席は避けて、できるだけ前方の席を確保することですね。また窓側の席だったら寝るとき機体の壁にもたれかかることができますし、トイレに行くために同席者が乗り越えようとすることが無くなります。客室乗務員がシートベルトを安全に締めているか確認するために起こされないよう、必ず締めて見えるようにしておくこともポイントです。また搭乗直前に胃のむかつきを引き起こすかも知れないスパイシーな食べ物や、脱水症状を引き起こすかも知れない過度に加工された塩辛い食事は避けることですね。美味しくもない機内朝食で起こされるのがイヤだったら、朝食のために起こさないようCAに事前に云っておくことです。私は使ったことありませんが、「Trtl」や「オーストリッチピロー」といった首や頭を覆うタイプの枕は、360度全方位で頭を支えてくれるそうですね。また長時間のフライトで足や背中にかかる負担を軽減するため、前の座席の下に引っ掛けて使用するフットハンモックも快適に睡眠とるため有効らしい。私は気圧変化に対応した耳栓を使ってますが、シリコーン製の耳栓は、耳の穴を完全に塞ぐようにぴったり装着できるので、従来の発泡ウレタン製より快適です。フライト中に眠るためとか、到着後の不眠症を解消するために薬を用いることは精神の不調や意識が朦朧とした状態を引き起こすリスクがあります。特にアルコールと一緒に服用してしまうとリスクがもっと高くなります。あくまでお医者さまや薬剤師さんにどの場面で使うか説明して使用許可を得ることですね。特に日本では販売されてない薬で、アメリカでは市販されてるメラトニンのサプリメントをネット通販なんかで入手して服用は注意が必要です。フライトスケジュールを見直すことで、時差ボケを軽減することも考えられます。フライトを出発時刻重視で予約せず、日光を浴びると体内時計が整えられるため、なるべく日中に到着する便を予約した方がいいのです。それによって、より早く活発に動き出すことができるそうな。またフライトスケジュールが決まったら、旅行の数日前から、就寝時間、日光を浴びる量、カフェインの摂取量を調整することで、時差ボケを最小限に抑えることができます。そうしておいて到着するのが朝から昼過ぎまでなら、コーヒーなどカフェインを積極的に摂ることで体を慣らすのですね。また、お腹の減り具合に関わらず、旅行先の標準的な時刻に食事をとることもよいらしい。
Nov 6, 2024
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アメリカ、ミャンマー、リベリア。一見、全く関係なさそうな3つの国。ところが、この3カ国に共通していることが有るのです。それは...メートル法でなく、ヤード・ポンド法を使うと云うこと。世界中がメートル法使ってるのに、アメリカのような先進国がなぜメートル法を使わないのか?ところがアメリカでは、1866年にメートル法の使用は法制化されてるのです。法律でメートル法を使うこと決められてるのに、いまだにヤード・ポンド法が使われてるのはナゼ?誰でも疑問に思いますよねぇ。このメートル法を使うと云うアメリカの法律が、使用が任意だったからです。一律的な制度とせず、産業界や個人にメートル法の使用をやんわりと促す程度だったのですね。ちょうど日本でチャリ乗車時にヘルメット着用を義務化せず、「努力義務」にしたのと同じです。メートル法を決めたのはフランスです。それまであった様々な計量単位を1本化するため、フランス科学アカデミーは、パリから測定した「北極から赤道までの距離の1,000万分の1の長さ」を1メートルにして、これを尺度の基準にしたのですね。(ちなみに現在の「1メートル」は「1秒の1/299,792,458の時間に光が真空中を伝わる距離」に変更されてます)これが決められて以降、すべての度量衡の基礎となっていったワケです。例えば、1ミリリットルは1立方センチメートルの水の体積、と云うように。アメリカでメートル法採用の法律が決まったとき、度量衡の標準化のため、各州に真鍮製の原器が提供されました。その後、1875年にアメリカ、ドイツ、ロシア、フランスなど大国によって「メートル条約」が締結されて、加盟国が増え続け現在56カ国の加盟国と、40カ国の準加盟国に発展してます。単位換算が分かり易いメートル法に対して、ヤード・ポンド法の単位換算は非常にややこしいです。長さだけでもマイル、ハロン、チェーン、ヤード、フィート、インチとどんどん呼び方が変わっていきます。重さはポンド、オンス、グレーンで、体積はバレル、ガロン、クォート、パイントです。メートル法が世界の単位基準なので、アメリカでは例えばジュースはリットル表記、牛乳はガロン、リットル併記、道路標識もマイルとメートルを併記するなど、2つの単位系が一緒くたになっているのですね。このメートル法とヤード・ポンド法併用の混乱は相互に換算する手間も含めて膨大なものです。なんとNASAでさえ、換算ミスで失敗したことあります。1998年に打ち上げられた2億$の「火星気候探査機マーズ・クライメイト・オービター」は翌年に航行ミスで交信が途絶え、行方知れずになってしまいます。調査の結果、航行ミスの原因は「ヤード・ポンド法の単位で行われていた計算を、探査機の航行担当チームがメートル法の単位と思い込んでそのまま使用したこと」だったのです。NASAでさえこんな有様なんですから、アメリカでおきている単位換算ミスは数え切れないほどでしょうね。
Nov 5, 2024
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ネパールには2008年まで存在したムスタン王国がありました。最近は、トレッキングで観光に訪れる人が多いそうですが、標高8,167m で世界第7位の高峰ダウラギリ山や7,000m 峰~8,000m 峰のアンナプルナ山群のあるダウラギリ地方の北部にあるので行くのは尋常ではありません。ムスタン王国の広さはほぼ奈良県と同じでちっちゃい国だったのですが、長い間鎖国していたため「禁断の王国」と呼ばれています。1951年にチベットが中国の侵略で併合されたため、ムスタンは「チベットの外のチベット」とも呼ばれています。チベットそのものは1769年にゴルカ王"プリトビ・ナラヤン"が統一してシャハ王朝が誕生したのですが、それでもムスタン王国は独立を守ってました。それが2008年、ネパール政府が藩王制廃止を決定したことで、ムスタン国王は退位してムスタン王国そのものが無くなったのですね。今は鎖国が解かれましたが、それでも旅行するにはネパール政府公認の旅行会社を通して申込み、2名以上で行動しなければならないという制約があります。ムスタン王国の首都だった町は「ローマンタン」です。標高3,760m の城郭都市で、周囲1km、高さ11m ~15m の泥でできた塀で囲まれてます。また家々も泥でできていて、住宅数は178戸、人口876人の小さな町です。この町は1350年、ムスタン王国初代国王アメパルによって造られました。チベットの岩塩をインドへ運ぶ「塩の道」中継地点として栄えたのですね。ローマンタンに行くには先ずネパールの首都カトマンズからポカラの北にあるジョムソンまで飛行機で行きます。カトマンズからポカラ、ポカラからジョムソンと乗り継ぎして行くのですね。そしてジョムソンからは車で行かねばなりません。もうひとつの方法はジョムソンからローマンタンまで、ひたすらトレッキングするのですね。ジョムソンから中継地チュサンまでは車で2時間。チュサンから次の中継地チャイレまで歩くと約45分かかります。マスタングゲートを通過すると、ローマンタン行きのジープが午前8時に出発します。サマール、サンウォチェ、ガーミ、ギリング、チャランを経て午後4時頃ローマンタンに到着と云うスケジュールなんですね。なんですが、降雪があるとこんな有り様なので、行くのも簡単ではありません。この辺りの物価は食事が300ルピー(約540円)、ホテルも300ルピーくらい。バスルーム付きの部屋になると500ルピー(約900円)。ジョムソンからチュサンまでの運賃は350ルピー(約630円)、チュサンからローマンタンまでは1,600ルピー(約2,900円)かかります。それに加えてカトマンズからジョムソンまでの航空運賃ですね。ローマンタンの城壁内部は「ゾン」と呼ばれ、藩王の王宮のほかチベット仏教寺院やゴンパ(僧院)があります。さらに中国支配を嫌ったチベット難民などが住む町が城壁を取り囲むように有ります。ムスタン国王は退位して存在しないのですが、ロマンタンギ社会には文化王が今も存在してるそうです。現在の文化王は25代目にあたります。ネパールの中に別の国が存在してたなんて、イタリアの中にバチカン市国があるような感じですね。もっともバチカン市国と違って、こっちは秘境中の秘境。こんなとこまで海外から観光客が訪れるのも驚きです。
Nov 4, 2024
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2016年、時の台湾総統"蔡英文"は台湾原住民の代表者を総統府に招き「過去400年来、台湾にやってきた政権が武力で土地を奪い、原住民族が持っていた権利を激しく侵害しました。そのため、私が政府を代表し、原住民族の皆さんにお詫び申し上げます。原住民族の受けた苦痛や傷は、1つの文章やひと言の謝罪では消えないと思います。しかし今日の謝罪を通じ、すべての人が和解に向かうことを心から期待しています」と述べました。過去の差別的な扱いや、伝統的な社会や文化の保護が不十分だったと総統が原住民に直接謝罪したのは初めてのことでした。この原住民族とは誰のことでしょう?戦後、中国国民党とともに台湾に渡ってきた人々は「外省人」です。現在、台湾の人口構成比率では13%くらいと云われてます。それ以前からいたのが「漢民族」。台湾人の約9割以上を占め、オランダ統治時代に大陸から渡ってきた客家系と福建(閩南/びんなんみん)系で構成されてます。客家系は広東省北部の出身者とその子孫、福建系は福建省南部の出身者とその子孫です。客家が12%、福建系が73.3%の構成比率です。漢民族が台湾に渡ってくる前から台湾に住んでたのが原住民族と呼ばれる人たちです。台湾の人口構成比率では1.7%しかいません。原住民族は、オーストロネシア語族と呼ばれる台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島、マダガスカル、さらに東の太平洋の島々やニュージーランド、イースター島まで網羅した1,000前後の言語をもつ民族です。しかし、この複雑な台湾の民族構成であっても、ひとくくりに台湾人と云ったとき、10代全員、つまり100%が「私は台湾人であって、中国人では無い」と云う意識を持っています。台湾では「先住民」と云う言葉は使いません。先住民は既に滅んでしまった民族と云うイミも含まれるので禁止。あくまで「原住民」。これは台湾の憲法でも正式に謳われてます。ひとくちに台湾の原住民と云っても、非常に多くの部族で構成されてます。政府が公式に認定している台湾原住民族は、阿美族(アミ族)、泰雅族(タイヤル族)、賽夏族(サイシャット族)、布農族(ブヌン族)、雛族(ツォウ族)、魯凱族(ルカイ族)、排湾族(パイワン族)、卑南族(プユマ族)、雅美族(ヤミ族)、邵族(サオ族)の16部族があります。こうした原住民族の特徴として、高床式建築や竹や藤の編み物、刺青とともに、檳榔(ビンロウ)と呼ばれるヤシ科植物の種子から作られた噛みタバコを咀嚼することがあげられます。しかし同じ原住民族間でも言葉は異なり、着る衣類や食べ物から風習も違います。台湾原住民族の中で最も人口の多いのが阿美族(アミ族)です。阿美族の大部分は東部の縦谷と海岸地域に暮らしていて、約17万5,000人います。阿美族は居住地域によって南勢、秀姑巒、海岸、台東、恒春などとさらに細分化され、それぞれに方言や風習、服飾などで多少の違があります。この部族は母系の氏族制と相続制度を持つのですね。私が以前行った原住民だけがお客さんのバーも、全員が阿美族でした。泰雅族(タイヤル族)の人口は約7万5,000人いて、北部の山岳地帯に住んでます。成人式で顔に刺青を入れるのが伝統ですね。またカラフルで複雑なパターンの織物で知られており、織物の技術で女性の地位が決まるそうです。泰雅族の次に人口が多いのは布農族(ブヌン族)で約4万9,500人います。布農族は台湾中部と東南部の山岳地帯に暮らし、乾季の終わりに山を燃やした後、肥料も除草もせずに土地を掘って耕して作物を栽培し、2~3年経って土壌が悪くなると移動してまた作付けする「遊耕」と狩猟で生活してます。こうした台湾の原住民族は自分たちの言葉の他に国語(台湾華語)、そして日本語を織り交ぜて話す人が多いです。台湾省の南東部にある台東県は、阿美族(アミ族)、布農族(ブヌン族)、卑南族(プユマ族)など原住民の人口割合が最も多い県です。延平郷のブヌン族の部落内には観光農場が設立され、果樹園やコーヒーショップ、芸術センター、伝統的な歌唱法による祈祷歌や伝統舞踊などの披露がされています。やはり北海道、道央白老町にある「ウポポイ(民族共生象徴空間)」と同じで、今はアイヌの人たちも台湾原住民族の人たちも観光産業が貴重な収入源のひとつなんですね。台湾原住民の食事で特徴的なのは「竹筒飯」ですね。竹筒飯は猟師が狩りに行くとき、1ヶ月近く山に籠もらなければならいので、村からもち米を持参し、山の中で切り取った竹を使いご飯を炊いたのが起源です。現在は竹筒飯にも、もち米を炊いたもの、おこわにしたもの、小豆と一緒に炊く赤飯の3種類があります。
Nov 3, 2024
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北アフリカのチュニジアと云うと、サハラ砂漠や多くの世界遺産遺跡や町があり、地中海の美しい魅力的な国ですが、2015年にチュニジア議会の敷地内にあるバルド国立博物館で武装集団によるテロ攻撃があり、日本人3人を含む外国人観光客20人が殺害されました。襲撃で死亡した観光客の中には、日本人の他にイギリス人、イタリア人、ポーランド人、ドイツ人、スペイン人、コロンビア人がいました。この攻撃ではチュニジア人3人も死亡してます。しかし現在ではテロ事件で多くの犠牲者を出したイギリスが渡航情報をレベル1に引き下げるなど、渡航制限の緩和が見られるようになりました。日本政府もテロ事件以降、全土においてレベル2(不要不急の渡航中止)から南部、中西部を除いてレベル1(十分注意)に引き下げました。しかし、今でも街の繁華街はチュニジア警察の厳しい監視化におかれてます。現在でもチュニジアは他のアラブ周辺諸国と同じで、テロのような大袈裟なものでなくても、スリや特に夜間の強盗など旅行者にとって危険度の高い国のひとつです。反面、チュニジアの観光に関する競争力では、世界139カ国のうちトルコ、エジプト、モロッコを上回る47位となっています。観光客を見ると、宿泊数で圧倒的にフランス人が多いのはチュニジアの公用語であるアラビア語とともに植民地時代のなごりでフランス語も使われてるためです。次にドイツ人、イタリア人と続いてます。その背景にはチュニジアの物価が安いことで、ヨーロッパからの観光客も格安パッケージ旅行中心となってることですね。そんなチュニジアって、昔は日本人観光客も多かったのですね。2006年頃は、チュニジアの首都チュニスなんかで見かける東洋人はもっぱら日本人一辺倒でした。それが今では円安もあって日本人を見かけることはほとんど無く、代わって中国人と韓国人が進出してます。それでもチュニス旧市街メディナの市場なんかを散策すると、今でも怪しげな日本語で客引きするチュニジア人が多いです。ひとつにはSNSが盛んになって、容易に情報が入りやすいこともあるけど、決定的なのは昔から日本人は言葉が喋れないのと簡単に引っかかるためでしょうね。海外を旅行しててイチバン難儀なのが、この客引き。インドをはじめ、東南アジアでもタイやベトナムの観光地は客引きが強引だけど、メディナの市場ではお店の前通るたびにメチャメチャ声かけられてウザイったらありゃしない。インドでもムンバイのポワイ地区みたいに高級住宅街だとリキシャの運転手でさえ客引きしませんから、やっぱ民度と云うか経済状態に左右されるのでしょうね。そこいくと、台湾でそんなこと目にしたことないし、距離も近いので、日本人にイチバンお勧めの旅行先になるワケです。ちなみに成田からチュニジアのチュニス国際空港まで飛行時間は22時間30分くらいもかかります。チュニジアのおじさんのかわいい日本語アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズの演奏で有名な「チュニジアの夜(Night In Tunisia )」をキューバ系カナダ人ジャズ・ピアニスト"ヒラリオ・デュラン"の演奏で。Night In Tunisia (Live In Studio)
Nov 2, 2024
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私は砂漠っぽいとこ(?)行ったの鳥取の砂丘しかないし(笑)ホンモノの砂漠を見たことが無いので、砂漠に泊まると云うことが想像できないですが、砂漠と云うことは宿泊する場所の周囲にレストランやコンビニ、土産物屋なんて無いから、いきおい宿泊場所で提供される料理しかチョイスが無いってことですね。と云うことは、そんな街からは離れた場所拠点に観光なんてあり得ないから、ど~しても短期滞在か。しかし砂漠だから日没や夜明け、また夜間の満天の星は見応えあるでしょうね。見るものと云えば砂と天体のみ。それでも非日常を満喫できるのでしょうね。砂漠に泊まると云ってもふたつの選択肢がありますね。ひとつは砂漠の中に建てられたホテルを利用するってこと。世界中の砂漠には設備の整ったリゾートホテルが数多くあります。ホテル利用のメリットは個室が提供されるのでプライバシーが保証されるのと、都会的な生活が確保されるってことですね。アラブ首長国連邦のドバイから車で1時間くらいのとこにある「アル マハ ア ラグジュアリー コレクション デザートリゾート」は超高級リゾートホテルです。なんせ全室スイートのみで、1泊約14万円~100万円と云うから、私のような貧乏人はお呼びでないですね。同じアラブ首長国連邦の首都アブダビのリワ砂漠にも豪奢なリゾートホテルがあります。「アナンタラ カスル アル サラブ デザートリゾート」。ここは砂漠のオアシスを利用したホテルで、城郭のような体裁をした非常に特徴的なホテルです。モロッコにはサハラ砂漠の入口、メルズーガの東のジェビ砂丘の端に「オーベルジュ カフェ ド スッドホテル」があります。実際には砂漠のすぐ横にあるんですが、まるで砂漠の一部であるかのようなロケーションです。ここのお部屋は伝統的な洞窟スタイルのモロッコスタイルで統一されてます。さて、ホテル泊ともうひとつの選択肢は砂漠でキャンプすることですね。これも色んな国でツアーを組んでます。砂漠で野宿するのですから、個人でキャンプなんて考えられませんから、これはいきおいツアーしかチョイスがない。オマーンの東ハジャル山地からアラビア海まで約200km にわたって伸びるワヒバサンドは遊牧民ワヒバベドウィン族の地です。ここのマジック・キャンプは、テント付きキャンプ施設です。モロッコのメルズーガの中心部から北に5km のメルズーガ砂丘とエルグチェビ砂丘の端にあるサハラ砂漠に伝統的なベルベルスタイルの「デューンズ ラグジュアリーキャンプ」があります。ここのテントには温水シャワーやトイレも完備されてますから、単にホテルがテントになったようなモンですね。しかも無料WiFiまで完備しているらしい。チュニジアのサハラ砂漠ど真ん中にある「クサールギレン」もシャワーから冷房、トイレ完備のテントホテルです。ここまではホテルが建物からテントに代わっただけって感じ。もっと素朴に砂漠の真ん中でテントもなしに野宿するツアーもあります。こうしたツアーの最大の問題点はトイレとお風呂に入れないことですね。だいたい、この手のツアーでは宿泊地からチョット離れた場所で、めいめいが好きなとこで用を足すシステム。もちろん囲いなんて無いから、青空ポットンです。砂漠に来てお風呂に入れないのですから、1泊以上はムリでしょう。そんなツアーがインド、ラージャスターン州ある"タール砂漠"で実施されてます。キャンプ地まではタール砂漠のオアシス都市"ジャイサルメール"を出発地にトラックを改造した乗合タクシーで集合地まで行って、そしてラクダに乗るのですね。この砂漠は日中の気温が40℃近くなる時期もありますが、砂漠の特性として夜間は7℃くらいまで下がります。この温度差は身体に堪えるやろなぁ。
Nov 1, 2024
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2020年に中国の上海市が友好都市関係を抹消したヨーロッパの都市があります。それはチェコの首都「プラハ」です。なぜ、せっかく結んでた友好都市を解消したのか?それはプラハが"台湾"の台北市と友好都市関係を結んだからです。上海市は「中国の内政に強引に干渉し、一つの中国の原則に公然と挑戦している」と憤懣遣る方ない(笑)このプラハは、1,000年以上の歴史を持つ都市で、しかも第1次、第2次どちらの大戦の被害にも会わなかったため、ロマネスク建築からゴシック、ルネサンス、バロック、アールヌーヴォー、アールデコと各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」となって世界で唯一全市が世界遺産に指定されてます。またプラハ城は世界最古で世界最大のお城としてギネス認定されてます。私には「変身」で有名なプラハ出身の作家カフカを主人公にした1991年の映画「KAFKA/迷宮の悪夢」がイチバン「プラハ」の印象として残ってますね。「変身」を執筆中のカフカが同僚の謎の死真相を追って、迷宮のような城に潜入すると云う物語。この作品はストーリーもそうですが、プラハの街の印象が秀逸でとても好きな映画のひとつです。プラハって若いときの決闘で鼻ばしらを失って付け鼻していたので有名なデンマークの天文学者"ティコ・ブラーエ"が天体観測を行った天文塔など、尖塔が多くあるので「百塔の街」とも呼ばれてるのですね。どの国行っても観光らしい観光しない私でも、全市が世界遺産となると見てみたい(実際には行けないけど)ですね。それには「チェコ」とか「プラハ」って名前に理由のない憧れがあるのかも知れません。反面、こう云う清潔な街で大きな建物ばかり目立つとこってのはしばらく居ると飽きてしまうでしょうね。やっぱ粗雑な私には似合わないかも。チェコそのもので云うと、世界の治安ランキングでは何と日本より治安がよい国として知られています。夜に独りで出歩いても危険な目に遭遇するのは極めて稀です。チェコ人は民族としては西スラブ系の人種ですが、オーストリアやドイツの支配も長く、ゲルマン人の影響もかなり受けています。なので混血がかなり進んでるため美男美女が多いと云われてますね。ちなみにチェコ人の前でかつての国名「チェコスロバキア」と云ったら不快な顔されます。チェコスロバキアは、1993にチェコとスロバキアへ分離して別の国になってるからです。そしてチェコでは、家にあがると必ずスリッパを履いて土足ではあがらないし、学校でも校舎内で履く上履きを用意してます。歩道を多人数で塞いで歩くのも、大声で話すのもマナー違反。電車の乗り降りで、降りる人を通さないのも、優先席を無視して座るのもNGですから日本人とまったく同じ国民性ですね。しかも国民の58%が無宗教と云われており、この辺も日本と似ている。国民性は、概して穏和かつ理性的で暴力を嫌うと云われてます。熱くならず冷静に判断しようとする国民性で、他の国から見たらクールとも受け取られるとか。アメリカ人やラテン系みたいに初対面から大胆にハグして笑顔で挨拶ではなく、チェコ人は声をかけられたら手短に返す、そんな人が多いそうな。チェコと云えばビールですが、もうふたつ名物アルコールがあります。ひとつは「スリヴォヴィッツ」と云うスモモの一種ダムソン・プラムから作られた蒸留酒。このお酒、アルコール度数が何と40%ですが、家庭で作られるものは50%に達するとか。チェコビールの度数が4.5~5.3%ですから、かなり強烈ですね。このお酒はチェコの他にセルビアやスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアなどでも作られてますね。もうひとつは「ベヘロフカ」と云うウォッカベースでハーブとスパイスの混合物から作られるリキュール。独特の風味があり、ショットでもカクテルでも飲めます。こっちのアルコール度数は38度です。チェコ人は豚肉をよく食べる人たちですが、プラハの一流レストランに必ずある料理と云えば「コレーノ(豚の角煮)」です。かなり重量級のお料理で、1人前800g なんてのも。膝肉が柔らかく骨から簡単に落ちるように数時間かけて焼くそうです。同時にローストポークもよく食べられてます。この料理には独特の形した餃子とザワークラウトがつきもの。ドイツでは一般的にシチューですが、起源となったハンガリーではスープそのものの「グヤーシュ」はチェコでも名物です。チェコでは豚肉か牛肉の胃袋をニンジン、パセリ、セロリアックなど根菜と一緒に煮込んだもので、空洞のロールパンに入れて供されます。コレ、ほんとうに美味しいと日本人ブロガーが報告してました。チェコではなく、お隣スロバキアの国民食「ブリンゾベー・ハルシュキ」はチェコでも普通に食べられてます。イタリアのニョッキに似た、じゃがいもと小麦粉のすいとん風の料理で、ブリンザと云う塩味が効いたシャープな味わいの羊チーズが添えられます。好みに応じて燻製した豚肉の脂身やベーコンの切れ端のほか、ニラや長ネギを散らします。
Oct 31, 2024
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北海道の虻田(あぶた)郡と云うと、私が昔 赴任してたニセコ町や倶知安(くっちゃん)町のあるところで、倶知安からニセコの山まで毎日、細川たかしが生まれた真狩(まっかり)村のトウモロコシ畑を挟んで羊蹄山を眺めながら通ったとこです。その虻田郡豊浦町字礼文華(れぶんげ)に日本でイチバン乗降客の少ない駅があります。駅名は「小幌駅」。日本一の秘境駅とも呼ばれてます。なんせ年間の乗降客は2021年が10名以下、2022年も10名以下。その乗降客と云うのは近隣住民ではなく、単なる鉄道ファンばかりです。そんな鉄道ファンが昨年あたりから徐々に増えてるみたい。ぢゃナゼ近隣住民はこの駅を利用しないのか?近くに幹線道路でも走ってて、みんな車移動なのか?いえいえ、そんな理由ではありません。理由は住民そのものがいないからです。ナゼ、住んでる住民もいないとこに駅を作ったのか?昔はいたんです。この付近に漁師が住んでたし、町営キャンプ場や海水浴場もあったのですね。ただ、この駅は元々列車がすれ違うための信号所として開設されただけなんです。ところが少数とは云え住人がいたので、JR北海道発足時に旅客駅へと昇格させたのです。月日は流れ、小幌駅周辺に住む人が居なくなり、そして小幌駅の日常的な利用者はほぼ「0」の状態が続いたと云うワケです。ついにJR北海道は2015年、小幌駅廃止を豊浦町へ通知します。ところが豊浦町は観光振興のために町が維持、管理するとして駅の存続を求めたのです。また駅廃止が決まった年には、廃止を惜しむ多くの人々が訪れたため、JR北海道も廃止を断念し、今も現役の秘境駅として存続しているのです。小幌駅は「礼文華山トンネル」と「新辺加牛トンネル」と云うトンネルの間に挟まれた崖のわずか80mほどの限られた空間にあります。道路も隣接していなければ、四方のうち三方が急傾斜地、一方は内浦湾に接しているため、鉄道と船以外では接近できません。小幌駅に行ってみようと云う奇特な方は、上下線とも本数が少ないので先ず豊浦駅で時間確認してから行かないとアブナイです。終電逃したら野宿になりますが、とりわけ冬は軽くマイナスになるので命の保証ありません。それと撮り鉄チャンに多いマナー違反は、駅が狭いだけにキケンなので絶対やってはいけません。
Oct 30, 2024
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それはアフガニスタンやアルジェリアからコンゴやカメルーンなどアフリカ諸国、インドまで広く分布する「ラーテル」と呼ばれるイタチの仲間です。日本では「ミツアナグマ」と呼ばれてます。ミツアナグマの由来は彼らが蜂蜜やハチの幼虫を好んで食べるからです。英語の名前「honey badger(蜜アナグマ)」もここから来てます。ラーテルは獲物を捕るとき以外に敵に驚いたときも攻撃しますが、それは穴を掘っているときによく起こります。視力が悪く、鼻が地面に最接近しているため、周囲に気づかないことがあります。驚いた彼らは、肛門腺から強力な匂いを放ち、ガタガタと音を立てて直立不動で攻撃者に向かって突進します。敵をを怖がらせて追い払いはらうのですね。しかも敵に噛みつかれて咥えられても、皮膚が緩んでいるので身をよじって敵に噛みつくことができます。 蜂蜜やハチの幼虫を好んで食べると云いましたが、他にも虫やトカゲ、ヘビから小型哺乳類、はたまた鳥も、そして果実まで食べる雑食性で、目に入った捕食対象を手当たり次第口にするとんでもないヤツです。食べこそしませんが、ライオンやアフリカスイギュウなどの大型動物に立ち向かうこともままあります。背中に柔軟な皮の装甲を持っているので、体を裏返しにでもされない限りライオンの牙も鉤爪もラーテルに傷を負わせることができないんです。そして、さきほど述べた臭いガス。そりゃあ怖い物知らずになりますわなぁ。もうひとつラーテルには特殊能力があります。コブラのような毒蛇がもつ神経毒に対して強い耐性を持っているのです。ある学者が顔をコブラに噛まれたラーテルを発見しましたが、頬が大きく腫れていたにも関わらず、わずか5時間後には起き上がって再びヘビを追っていたそうです。そしてヘビはラーテルの大好物のひとつなので、こりゃあヘビさんもうかうかしてられないですね。分厚い皮膚でどんな攻撃もはね返すラーテルにあやかり、南アフリカ共和国では名前にあやかって軍用の「ラーテル歩兵戦闘車」が開発されたほどです。なので人間でもラーテルを怒らせると襲いかかってきますので、海外で遭遇したら一目散に逃げることですが、彼らは走りも得意なので厄介です。
Oct 29, 2024
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三島由紀夫の最後の長編小説「豊饒の海」は、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の4編から成ってますね。この作品は「夢」と「転生」をテーマにした物語です。この「豊饒の海」を書き上げて、三島は1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に赴きバルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起を促す演説をした直後に割腹自決しました。凶年45歳。決起当日の朝、出版編集者はお手伝いさんから「豊饒の海」の最終章「天人五衰」の原稿を渡されますが、巻末日付が11月25日で署名なされてたそうです。「豊饒の海」の第三巻「暁の寺」取材のため、三島はインドとタイのバンコクを旅してますが、このときガンジス川のベナレスを見て「あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は見たことがありません」と述べてます。バラナシ(ベナレス)のガンガー近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられています。そのためインド各地から多い日は100体近い遺体が金銀のあでやかな布にくるまれ運び込まれるのです。そして、その遺体はガンジスの岸辺で荼毘にふされる。タイトルの「暁の寺」はバンコクのワット・アルンのことですね。アユタヤ時代に建立されたこの寺の名前はヒンドゥー教の神アルナに由来し、その名(サンスクリット語で「暁の神」)から夜明けの象徴とされてます。よく「輪廻転生」と云う言葉を耳にしますが、「輪廻」は車輪が回転し続ける様子、「転生」は生まれ変わることを意味して、「輪廻転生」で人が何度も生死を繰り返して人だけでなく動物なども含めた生類として生まれ変わることですね。仏教用語ですが、もともとヒンドゥー教の前身であるバラモン教から生まれた概念です。私は"なんちゃって仏教徒"なので、こんな概念信じてませんし、多くの日本人は私のように無宗教の人が多いので同じようなものぢゃないですかね。死生観は生死に対する考え方や、生死に関わる判断や行動の基準になる考え方のことです。仏教やキリスト教など宗教を信じてる人は死生観を持っていること多いですね。イスラム教では、死はアッラーによって決められたもので、魂は肉体から離れるが、裁きの日に再び肉体と結びついて復活すると、やはり輪廻転生とよく似た考え方です。それで復活する日を五体満足で迎えるため、火葬ではなく土葬にするのですね。死は死後に起きる復活と裁きという結末にむかう通過点でしかないと考えられてます。仏教には日本で信仰されてる「大乗仏教」と別に、おもに東南アジアで信仰されてる「小乗仏教」があります。インドで生まれた仏教で、紀元前後に成立した大乗仏教に対して、旧来の仏教を小乗仏教と云いますが、「小乗」と云う言葉は大乗仏教側が称した蔑称なので、現在は「上座部仏教」と呼んでます。大乗仏教は人間は釈尊と同じ仏になれると考えられてるのに対し、上座部仏教では人間は釈尊にはほど遠く、修行しても及ばないと考えられてます。つまり大乗仏教は、広く民衆救済を目指すものですが、上座部仏教はブッダの教えを忠実に行い、出家して戒律を守ることによって自らの解脱を目指すことなのです。なので上座部仏教信者がほとんどのタイやラオス、ミャンマーなどでは男性全員が一度は仏門に入るのですね。上座部仏教では、死は岸辺に打ち上げられた波が大海に帰っていくように、静かな本来の世界に帰っていくこととされています。涅槃である死は寂静で、意味付けを必要としない世界とされてるのです。日本では武家政権が成立した時代以降、戦場での死に向き合わざるを得ない武士の意識を大きく反映した死生観が育っていきました。それがよく表れるのが、死を前にした辞世の句です。上杉謙信の辞世の句は「四十九年 一睡の夢 一期の栄華は 一盃の酒にしかず 柳は緑にして花は紅」冒頭に登場した三島由紀夫の辞世の句は「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」です。三島のような詭激な人生は別にしても、人間に限らず生き物はオギャアと生まれた瞬間から死に向かって歩んでいくのですから、宗教有無を問わず死生観をもつことはイミあります。もちろん私だって若いころはいつか死ぬのは分かっていても、それは概念だけで、実感として死を意識したことなどありませんでした。しかし年老いてくるにつれ、死は現実のものにどんどん近づいてきましたね。最近は終活サービスや終活など情報が豊富にあり、死生観を持つ人が増えてきたそうです。自分や家族の最期についてしっかり考え、死に向き合うことができれば、漠然とした恐怖や不安も無くなります。死生観を持つことにより、今後の人生をどのように過ごすか見直すきっかけにもなります。ただ漫然と死ぬのを待つのではなく、身体が動くうちにやっておきたいこと、今すぐやらねばならないことが見えてくるのですね。死生観を持ったとしても、持ったその瞬間に死ぬことは限りなく「0」に近いし、お釈迦さまか、キリストかアッラーの神か八百万の神か知らんけど、それから長い短いはあれ生き続けて、ある日死が訪れる。それでいいぢゃないですか。どっちみち選択肢は無いのですから。ただ、意識を持ってるか持ってないかで、最後に「ああしておけばよかった」なんて後悔は少なくなると思います。ガンジーは「明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ」と述べてます。
Oct 28, 2024
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カンボジアと云うと誰しもイメージするのはアンコールワットでしょう。それとともにカンボジア内戦時に埋められた多くの地雷と不発弾は、首都プノンペンとタイ国境周辺以外では今でも撤去処理がおこなわれてなくて、非常にヤバイ国ってイメージも。それにも増してカンボジアの負の遺産は、ポル・ポト政権による大量虐殺が行われた事実。特に知識層の人たちを率先して捕らえ、強制収容所に送られた上、生きて強制収容所から出られたのがほんの一握りしかいなかったと云うことですね。カンボジアは非常に貧しい国です。古い資料で申し訳ないですが、2014年の一人当たりGDPは世界平均の10%に満たない水準です。2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2$(300円弱)未満で暮らす貧困層は828万人もいて、これは国民の半数を超えているのです。ところが中国と関係強化をはかってきたカンボジアは、プノンペンだけ経済発展が著しく、高層ビルが建ち並び、先進国に匹敵する数の高級車が街中を走っているのですね。つまり貧富の格差がとてつもなく広がってるのです。私は中国の息かかった国には絶対旅行しない方針なので先ず行くことはありませんが、アンコールワットだけは見ておきたい気持ちも。アンコールワットがタイあたりにあったらいいのにねぇ。カンボジアに旅行してみたいと云う方のため調べてみました。以前はアンコールワット周辺は観光客を狙うスリやひったくりが多く、けして治安がいいとは云えませんでしたが、今はアンコールワットのあるシェムリアップの方が首都プノンペンより治安がかなり良くなってるようです。カンボジアに旅行するときは、ビザの取得が必ず必要です。東京にある大使館か宮城県仙台市、もしくは名古屋にある領事館に本人が直接赴いて取得するか、「eビザ」と云うオンライン申請して、カンボジア到着時にそれを見せる方法。もしくは「アライバルビザ(到着ビザ)」と呼ばれるカンボジア到着時に入国審査場にあるアライバルビザカウンターで発給してもらう方法もありますが、到着して申請するまで発給されるかどうか分からないですから不安も残りますね。eビザを利用して入国できる空港は限定されますが、OKのところにプノンペン国際空港とシェムリアップ アンコール国際空港の2つが含まれるので、観光旅行者には充分でしょう。ただ日本からカンボジアへの直行便は就航してないので、バンコクやソウル、香港などで乗り継ぎが必要となります。2022年にカンボジア保健省が入国時のワクチン接種証明書の提示を不要としましたので、水際防疫措置は撤廃されました。スマホ用の「simカード」は空港到着時に空港で取得可能です。空港の「セルカード(Cellcard)」か「スマート(Smart)」そして「メットフォン(Metfone)」と云うベトナム系の携帯電話キャリアで、カンボジア国内で最強の電波の強さを誇るとこが買えますが、必ずパスポートの提示が必要なので街場で買うより空港で買った方が楽ですね。カンボジアsim は5$(約750円)くらいで1ヶ月利用可能です。もし「eSIM(イーシム)」対応のスマホお持ちだったら、それを使う手もありますね。それとともに「グラブ(GRAB)」云う配車アプリを日本でダウンロードしておく必要があります。このアプリは電話番号入力必須なので、現地sim であたふたするより、日本でインストールしておくのがいいのですね。これで配車しないと、特に空港はトゥクトゥク(三輪タクシー)の餌食になります。かれら(運転手)は旅行客を見かけると、やたらめったらキャッチしてきて、捕まってしまうとヒドイ運転手になると通常の3倍くらいの金額をふっかけてきます。空港からシェムリアップ市内まで40km くらいですが、空港バスだと8$(約1,200円)です。カンボジアには硬貨がありません。お札のみです。とてつもないインフレで、1US$(約140~150円)で4,000カンボジア リエル(RIEL)です。まったく共産化する前のラオスと同じです。ホテルやちゃんとしたレストランでは米ドルでも支払いできますが、街場の食堂やトゥクトゥクなんかはリエルしか受け付けないので両替が必要になるんですね。100$札なんかで支払いすると、お釣りが用意できないこと多いのです。なのでドル払いだったら、10$とか20$紙幣をたくさん用意する必要があります。カンボジアにはニセのドル札が蔓延してるし、汚れたドル札は受け取ってもらえないことが多く注意が必要です。500リエル札の裏面に描かれてる橋は日本が建てたものなので「日本の国旗」が描かれており、走ってる車は「日産ジューク(JUKE)」です。両替所はプノンペン市内だったらいくらでも見つかるし、直接「円」からカンボジア リエルに両替できるとこも沢山あります。また羽田空港の両替所「Travelex 」では、リエルの両替も行なってるそうです。どっちにしてもリエルは、カンボジアを出ると国際的に貨幣価値が無いのと同じなので、カンボジア出国のとき逆両替が必須です。カンボジアのお料理は基本的にタイやラオス料理の系統ですね。タイのイサーン地方鍋料理チムチュムに似た「チュナンダイ」ってのが有ります。チュナン(鍋)+ダイ(土)=土鍋で、まさにチムチュムと同じです。入ってる具も、牛肉や豚肉、鶏肉など肉類とエビ、いろんな野菜とキノコ、春雨など。タイのクイティオやベトナムのフォーとそっくりな「クイティウ」と云う麺料理も非常にポピュラーです。同じくライスヌードルを使った炒麺「ミー・カタン」もカンボジアではおなじみ。タイ料理やベトナム料理を召し上がられる方は、カンボジア料理も受け付けそうです。ベトナムと同じように、トルコのケバブなんかもプノンペンでは見られます。それもダメって人は、プノンペンに行けば中華や洋食のレストランも豊富にあるので、食べることに困らなそう。さてアンコールワットのことですが、アンコールワットに入場するにはチケットが必要です。そのため入場前にアンコール遺跡群チケット販売所に行く必要があるのですが、非常に込み合うので余裕をもって行かねばなりません。チケットは2~3日前には購入OKです。チケットには顔写真を撮影してチケットに載せるので(つまり誰かが代表して人数分購入ではなく、行く人全員が販売所に行かねばなりません)発行まで時間がかかります。チケットは1日用と3日用、7日用があります。アンコールワットは非常に広大で、1日では全部まわりきれないのですね。アンコールワットそのものには、みんな夜明け前に到着するように行くみたい。敷地内のトイレは寄付金(1,000リエル)制です。それでは2001年公開でアンジェリーナ・ジョリーが主演した映画「トゥームレイダー」の世界をご覧ください。
Oct 27, 2024
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スペインやポルトガルでよく飲まれているフレーバードワインに「サングリア」ってのがありますね。フレーバードワインは、ワインをベースに各種スパイスやハーブ、果汁などを加えて作ったお酒のことで、イタリアのヴェルモットとかフランスのキールもフレーバードワインのひとつです。サングリアは、赤ワインに一口大かスライスした果物と甘味料を入れ、風味付けとしてブランデーやシナモンなどのスパイスを少量加えて一晩寝かしたものです。スペインなんかのお店でサングリアを頼むと、よくストローつけて出してくれますが、ただでさえ一般的なワインが12~15%なので酔うのは間違いなしです。さて、そのサングリアですが、レシピはしごく簡単なので欧米では安いワインを買ってきて、自宅で作るのも一般的です。よく欧米のパーティなんかの画像なんかでは、テーブルにドデンと置かれた大きいボールに入ったサングリアを見ることがありますね。ところが日本では、酒類製造免許が無い者がサングリアを作ると酒税法違反になるんです。国税庁は通常レシピのサングリアは酒税法違反と規定してるのですね。ぢゃあ通常レシピ以外とは何なの?それは「消費の直前において酒類と他の物品との混和をする場合」とあるように、一杯ごとに飲む直前に果物を入れることです。しかし、それはもはやサングリアではありませんな。なぜサングリアを作ると酒税法違反になるかと云うと、ワインの度数が関係してきます。日本では梅酒のような果実酒(混成酒)を家庭で作る場合でも20度以上の酒に漬けることが義務づけられてるのです。酒類製造免許を所持しない者が、20度未満のお酒作製した場合は、酒税法違反となるのですね。そしてワインの度数は12~15%くらいですから、みごとに酒税法違反と判断されるのです。なので例えば梅酒を漬けるお酒も、ワインだったら同様に酒税法違反になります。酒税法には「みなし製造」という概念があって、酒を混ぜたり割ったりすることは新しく酒を製造したとみなされ、酒の製造免許が必要なのです。なぜ「みなし製造」の規定があるかと云うと、酒に糖などを入れると発酵が進んでアルコール度数が上がることがあります。そうすると税率が変わることになり、公平な課税ができなくなるからです。酒によってはアルコール度数が高くなると税額も上がります。例えば焼酎は20度を超えると1度ごとに1リットルあたり10円加算されるのですね。と、国税庁はのたまわってます。しかも酒税法違反には罰則があり、酒の製造免許を持たずに製造した場合、10年以下の懲役か100万円以下の罰金が科されるのです。ただし、自分の家で梅酒を作り、近所にタダで配ることは想定される行為として許容されてます。ところが大量に作って近所から注文をとって販売する場合は、個人であっても製造事業者として申請する必要があるのですね。
Oct 26, 2024
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琵琶湖のように淡水の湖に対して、塩水をたたえる湖のことを「塩湖」と云いますね。塩水と云っても魚が生息できて、沿岸漁民が漁業してる塩湖もあれば、オーストラリア南西沖のミドル島にあるヒリアー湖みたいに海水の約10倍と云う塩分濃度の塩湖もあります。世界一標高の高い塩湖はチベット自治区ラサの北100km にある「ナムツォ」で、海抜4,718m の高さにあります。世界一標高の低い塩湖は、みなさまお馴染みの「死海」で、海抜は-(マイナス)433m です。塩湖の水が太陽による熱で干上がって塩やミネラルが堆積した地形を塩原と云います。もっとも有名なのは、ボリビアにある「ウユニ塩原」ですね。世界一の広さを誇る塩原、まさに塩の大地。標高約3,700m にあって、南北約100km 、東西約250km もある広大な塩原です。チリ最大の塩原「アタカマ塩原」も非常に広大で世界第2の大きさです。長さ約100km 、幅80km もあり、高度は海抜2,300m の高さにあります。しかし、こんなとこ観光で行っても、スグ見飽きそう。アメリカ、ユタ州のグレートソルト湖にある「ボンネビル・ソルトフラッツ」は、260平方km もある広大な塩原ですが、年に3回開催される地上最速を競うモータースポーツ「スピードウィーク」で有名ですね。南部アフリカのボツワナ北部、カラハリ砂漠に広がる塩原が「マカディカディ塩湖」です。塩湖と云う名前ですが、実態は塩原です。ここの面積も広大で、16,057平方km もあります。サハラ砂漠北部最大の塩湖が「ジェリド湖」で、チュニジアにあります。ここも塩湖という名はついていますが、水で満たされることはありません。東西は最大で200km 、南北が最大80km で、面積は7,000平方km です。アフリカ最大の塩湖は、ナミビア北部にある「エトーシャ塩湖」で、大きさは東西120km 、南北60km 、面積で約4,800平方km あります。湖の南側に広がるモパネと呼ばれるアフリカにのみに見られる木の林があって、そこには象が生息しています。塩湖と周辺は「エトーシャ国立公園」になっています。アルゼンチン北西部にあって、チリとの国境付近にある広大な塩原が「アリサロ塩原」。アルゼンチンではサリーナス・グランデスに次いで2番目に大きな塩原で、面積は1,600平方km あります。標高は3,460m です。このアリサロ塩原の真ん中に非常に興味深い「物」があるのですね。高さ147m の砂岩でできた完璧なピラミッドです。「コノ・デ・アリタ」と呼ばれてます。アンデス地域に住むインディオ、アイマラ族の言葉で「アリタ」は鋭い、または突き刺すという意味です。円錐形は塩と黒い溶岩の混合物でできています。コノ・デ・アリタは、火山の噴火でできて、それが数千年にわたる浸食によってできたと云う説が有力ですが、真相は解明されてません。円錐形の頂上には、塩原開発の先駆者を記念する銘板があります。
Oct 25, 2024
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大阪には中之島の土佐堀川を周遊する「大阪ダックツアー」と云う観光用「水陸両用バス」があります。このバス、窓がオープンなので雨降りはびしゃ濡れ。だけどバスの中で傘さすワケにはいかないので、雨降りはレインコート必須なんですね。東京にも「スカイダック」と呼ばれる水陸両用バスありますね。この水陸両用バスとよく似たのがオランダのアムステルダムにもあります。名前は「フローティングダッチマン」。スキポール空港から科学技術博物館までは陸上を通行。ここから水上バスとなり運河からアムステルダムの景色を楽しめるバスです。しかし水に浸かってる姿は道路冠水で身動きとれず救助待ってるバスみたいな(笑)アフリカ、セネガルの国営輸送機関は「カーズ・ラパイド」と呼ばれる中型バスです。このバスが首都ダカールなんかでは、いつもスシ詰め状態らしい。しかも運転手の意識が低くて、定刻通り来たためしなし。それよか、この外装は...やっぱアフリカですね。フィリピンの乗合タクシー「ジプニー」は有名ですね。フィリピンでは第2次大戦後にアメリカ軍が残していった車輌を改装したジプニーがまだ15万台も走ってるらしい。戦時中までのフィリピンの交通手段は路面電車とケーブルカーが主でした。ところが戦争で街は壊滅状態に陥いって路面電車が使えなくなり、このジプニーが登場したのですね。しかし古いジプニーは排気ガス モクモクの環境汚染の元凶。で、フィリピン政府は古いジプニーを段階的に廃止し、将来は環境に配慮した電気ジプニーに変えていく方針らしいです。なのでジプニーに乗りたいなら今が最後のチャンスかも知れません。南米 グアテマラの路線バスは「チキンバス」と呼ばれてます。このバスでニワトリを運ぶことが多かったから、そう呼ばれるようになったのですね。このバスの外装もケバケバしいです。だいたい低開発国ほどケバイのが多いですね。むしろインドのバスのほうが大人しい外装。その代わり...
Oct 24, 2024
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1858年と云うと安政5年。彦根藩主だった井伊直弼が幕府の大老に命じられ、幕府は「日米修好通商条約」を結んで、アメリカ船が日本の5ヶ所の港に出入りし貿易することを認めた年です。2年後には咸臨丸が日本船として初の太平洋横断し、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されましたね。まだ南北戦争勃発前のアメリカでは、1858年に蒸気フリゲート艦「ナイアガラ」が北米とヨーロッパ間の通信時間を数週間から数秒に短縮するため、全長約3,541km の鉄と銅のより線でできた電信ケーブルを敷設しました。つまり大西洋横断海底ケーブルです。下の画像がナイアガラが海底ケーブルを敷設してる図ですが、船尾にはケーブルを海に落とすのに使用された繰り出し機械が見えます。当時、ニューファンドランドからイギリスまで敷設する電信ケーブルの全重量に耐えられる船がなかったため、ケーブルはナイアガラ号とアガメムノン号に分割されました。海底ケーブルは新しく設立されたアトランティック電信会社に繋がれ、ビクトリア女王からジェームズ・ブキャナン大統領にお祝いメッセージが送られました。ところが99語のこの短いメッセージを受信するのに、数秒どころか16時間30分もかかったのです。日が経つにつれ、どんどん信号は弱まり、文章もどんどん文字化けしていきました。解読可能な最後のメッセージが海底を通過して、そしてケーブルは役立たずに成り下がったのです。ケーブルの耐用年数はおよそ3週間でした。調査の結果、主任電気技師エドワード・ホワイトハウスが設計したケーブルの銅芯が細すぎるだけでなく、誘導コイルが高電圧を発生させて、銅芯を焼いてしまったのが短命の原因と分かりました。こうして人類最初の大西洋横断海底ケーブルはみごとに失敗しました。しかし、敷設当初はそんな欠陥などつゆ知らぬアメリカは熱狂の渦に包まれました。当時、大西洋横断ケーブルは1969年に実施された人類初の月面着陸のようなもので、大西洋をはさんでアメリカ、イギリス両国の人々を熱狂させたのですね。この熱狂に便乗して大儲けした人物がいます。チャールズ・ルイス・ティファニー。あのニューヨークの高級宝飾品「ティファニー」の創業者です。彼は1837年、ブロードウェイ259番地に雑貨店「ティファニー・アンド・ヤング商会」を開業します。会社は設立したものの、売上は皆無に近く、ど~したものかと思案してたら、東洋からの船がボストン港に入船したとの話を聞くのです。そこでティファニーはボストンに出向き、当時珍しかった日本の人形など工芸品を目にすると、親戚に借金をして購入しました。これは最初の大博打でしたが、エキゾチックな日本の工芸品はたちまち高額で売れたのです。そうして翌年にはガラス製品、磁器、刃物、時計、宝石など販売品目を増やして事業を拡大していくのですね。そのティファニーと海底ケーブルにどんな関係があるのでしょう?海底ケーブルは、敷設に必要な長さキッチリに用意されるものではなく、かなりの余裕を見て裁断されてます。ナイアガラ号には敷設後に残されたケーブルの切れ端が残されてたのです。ナイアガラ号船内にはケーブルを巻き取る巨大な車輪が2つ残されていて、約32km の余剰ケーブルが巻かれています。このケーブルの余りをティファニーが買い取ったのですね。そして彼は、約10cm にケーブルを裁断して真鍮のバンドでとめて海底ケーブル敷設の記念品として売り出したのです。当時、ティファニーの商品は高級品ばかり扱ってましたが、この海底ケーブル記念品だけは当時の金額でわずか50セント、現代で約19ドル(約2,900円)に設定したのです。これが売り出されるとティファニー店にはあまりにたくさんのお客が殺到して、警察を呼んだほどだと云います。もちろん大西洋横断ケーブルが用をなさなくなると人々の関心は急激に冷めてしまいますが、そのときにはティファニーは充分に元をとってました。それ以上にティファニーの狙いは、こうして耳目を集める商品を売り出すことによって、マスコミを通じて宣伝することだったのですね。こうした積み重ねがどんどんティファニーを高級品店の代名詞に伸し上げていったのです。
Oct 23, 2024
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先だって行ったバンコク旅行記で夕飯にジョージア(グルジア)レストランでジョージアの代表的な料理「ハチャプリ(Khachapuri)」食べたと述べました。タイでジョージア料理とはヘンなものですが、ここ「ARGO」で食べたハチャプリは格段に美味しかった。本国ジョージアでもハチャプリはお店によって当たり外れが多く、旅行者にはお店の選択が難しいと云われてるのですが、バンコクのハチャプリは絶品の美味しさです。お店のオーナーさんはジョージア人でした。ハチャプリはジョージア風チーズピザとも云われてますが、ピザどころの話ちゃいます。特にチーズ大好き人間にとっては外せない。「ARGO」には、これまた代表的なジョージア料理「ヒンカリ(Khinkali)」もメニューに載ってましたが、ハチャプリだけでお腹イッパイになるの分かってるのでこのときはオーダーしませんでした。このジョージアの首都トビリシからお隣の国アルメニアの首都エレバンまで距離273km です。アルメニアはまったく海に面してない内陸国ですね。ジョージアでさえ全く知識ない私には、アルメニアは名前こそ知っていても、どんな国か想像つかない。もともとソ連領だった両国、1991年のソ連崩壊に伴いそれぞれ独立できましたが、ジョージア国内には大規模なアルメニア人居住地域が存在してるらしいですから、別の国のようで一緒の国のような。ちなみにジョージアは、今ものすごい日本ブームでトビリシのキヨスクみたいなとこでも日本のコミックやフィギアが売ってるし、市内を走る車の大多数は日本車です。アルメニアの首都エレバンの様子をYouTube で観ると道にはゴミひとつ落ちてないし、公園の周囲を囲んでオシャレなレストランが多く、とても快適そうな街です。ただ建物はソ連時代の名残りかぶっきらぼうなものが多いですね。そんなアルメニアの食べ物を見ると、ジョージア料理に酷似してます。ど~やらアルメニアの位置から、非常に多くの文化と味が融合しているようです。ジョージア料理を初めペルシャ料理、ロシアやウクライナ料理、そしてアジア料理に近いものまで。もちろんハチャプリもヒンカリもあります。ロシア料理のペリメニもあります。西アジアのほとんどで食べられてるドルマもあります。アルメニアでは「サルマ」。サルマはお米、ラムの挽き肉、玉ねぎ、ハーブ、スパイスを茹てブドウの葉で包んだ詰め物料理です。アルメニアンケバブ(ホロヴァッツ)と云うのもあります。これはアルメニアの国民食のひとつで、普通は豚肉を使いますが(アルメニア人のほとんどはキリスト教徒)、子羊肉、牛肉、鶏肉を使うことも多いです。「ラマジョ」はトルコ風ピザです。この料理はトルコやイラクなどオリエント一帯で食べられてる料理のひとつです。お肉は子羊か牛肉を唐辛子、玉ねぎ、その他の調味料と一緒にペースト状に刻んだものを使います。アルメニアの国民食と考えられているハリッサは、コルコット(殻付き小麦)を、脂の多い子羊肉や鶏肉と一緒にゆっくりとどろどろになるまで煮込んだお粥です。出来上がる直前に中央にくぼみを作り、バターを少し入れて溶かすのがコツらしい。こうしたアルメニア料理を引き立たせるのがアルメニアワインです。首都エレバンの市内中心部を囲む長い大通り「サリャン通り」はワイン愛飲家の楽園として有名です。この通りは、アルメニアがエレバン最古のワイナリーの発祥の地であることから、アルメニアのワインと食べ物の歴史的重要性を祝う5月に開催されるフェスティバル「エレバン ワイン デイズ」の主要ストリートでもあります。
Oct 22, 2024
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日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、台湾の台南にある「烏山頭(うさんとう)ダム」の放水口に投身自殺した女性がいます。彼女の名前は八田外代樹(とよき)。なぜ終戦後になっても彼女は台湾に居つづけたのか?なぜ日本が降伏した8月14日から日にちを隔てて自殺したのか?自宅の机上に残された遺書には「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹なかよく暮らして下さい」と書かれてただけです。外代樹の夫、八田與一は東京帝国大学(現在の東大)工学部土木科を卒業した水利技術者です。大学卒業後、台湾総督府内務局土木課に就職して、初代民政長官であった後藤新平以来、重点施策であったマラリアなどの伝染病予防のため嘉義、台南、高雄など各都市の上下水道の整備を担当しました。その後、発電・灌漑事業の部門に移るのですが、この部署での活動が今でも台湾の人たちに敬愛される存在となるのですね。台湾南西部にある嘉南平原は、台湾の中では広い面積を誇ってましたが、夏は多雨、冬は乾燥と云う気候に加えて日照時間が短く、稲の生産力は台北や台中の半分に過ぎませんでした。その嘉南平原を台湾の穀倉地帯に変えたのが八田與一が作った貯水量1億5,000万m3の大貯水池「烏山頭ダム」と嘉南平野一帯に16,000km にわたって細かく張り巡らされた水利設備「嘉南大圳(かなんたいしゅう」だったのです。烏山頭ダムは1930年(昭和5年)に完成しました。このダムを造るにあたって、八田與一は当時としては画期的な新しい3つの方法を取り入れたのです。1.コンクリートの土台を中心部にだけ用い、大量の土砂をその上に盛って、水の力を利用して粘土や細かな土砂を下に落ち着かせて土の堰堤を造る「セミハイドロリックフィル工法(湿式土堰堤工法)」を取り入れました。この工法は、地震の多い台湾で当時最善の方法だったのです。2.工事を早く進めるため、当時ではほとんど使われていなかったスチームショベルやエアダンプカーなど大型土木機械を多数取り入れました。3.「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」の思想から、工事で働くひとだけでなく、その家族も一緒に住める町を烏山頭に作り、宿舎のまわりに学校や病院の他、テニスコートやプールまで作ったのです。この事業によって八田與一は「嘉南大圳の父」として、現在でも台湾の中学教科書「認識台湾 歴史編」に詳しく記述されてます。八田與一の妻 外代樹は石川県金沢の開業医で、県議も務めた米村吉太郎の娘で結婚したとき16歳でした。学生時代から非常に聡明な女性だったそうな。このとき八田與一は31歳。外代樹は台湾に嫁いでなんと8人の子供を授かり、ダムの完成を目指す八田與一を支え続けたのですね。烏山頭水庫の完成から12年を経た1942年(昭和17年)、八田與一は軍からフィリピンの綿作灌漑調査を命ぜられ、外代樹と8人の子供を残し、広島の宇品港から大洋丸に乗り込みます。ところが船団が五島列島沖を航行中、アメリカ潜水艦「グレナディアー」の攻撃を受けて大洋丸は撃沈されてしまうのです。それから1ヶ月ほど経ったころ、漁をしていた山口県の漁師の網に遺体がかかりました。対馬海流に乗ってここまで漂流したのです。腐乱がひどく顔形は判別できませんでしたが、衣服の名詞から八田與一の遺体であることが分かったのです。しかし、外代樹は八田與一の死を知ってすぐさま後を追ったのではありません。彼女は戦時中、子供たちを連れて烏山島に疎開しており、終戦まで悲しみに耐えながらじっと過ごしました。息子が学徒動員で戦地に赴いていたのです。1945年終戦を迎え日本人の引き上げが始まりましたが、外代樹は台湾にとどまりました。同年8月には長男が戦地から戻りました。長男が戻ってきたのが8月31日。久しぶりに家族で食卓を囲みました。その翌日、9月1日の未明、子供たちが寝ている間に、喪服に白足袋という正装で外代樹は烏山頭ダムの放水口に身を投げたのです。身を投げた場所には草履がをきちんと揃えられてました。享年45歳。そして...身を投げた9月1日は、烏山頭ダムが完成した日だったのです。夫婦は烏山頭ダムのほとりに一緒に埋葬され、その後二人は離れることはなかった。残された子どもたちは後に国民党政府により日本に強制送還されました。台湾南部・台南市を拠点とする成功獅子会(ライオンズクラブ)は、日本の北國新聞社が復刻出版した「水明り 故八田與一追偲録」52冊を購入し、台南市に寄贈してます。市を通して市内の高校に配布するためです。「水明り」は外代樹が、夫の一周忌にあたる1943年に八田與一が東京から家族に宛てた手紙や絵はがき、親族による追憶集などを集めて少量印刷されたものです。1946年、地元の農民たちがわざわざ日本の黒御影石を探し出して八田夫妻のために日本式の墓をたてました。烏山頭ダム傍にある八田の銅像は、ダム完成後の1931年(昭和6年)に作られたものですが、像設置を固辞していた八田本人の意向を汲み、一般的な立像を諦め、工事中に見かけられた八田が困難に一人熟考し苦悩する様子を模し、碑文や台座は無く地面に直接設置されてます。2007年に李登輝元総統は、八田與一に対して褒章令を出してます。
Oct 21, 2024
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インバウンドの好調な日本ですが、最近は国内の観光地によってはボッタクリが横行して、それがSNSで拡散されてどんどん外国人の足が遠のいてる観光地もあります。そもそも世界遺産の数では、日本は世界11位を誇ってますが、日本の自治体は世界遺産=観光資源としか見てない傾向が強くって、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件なんて考えてないことが多いですね。最近はSNSの普及で情報が拡散し、例えば台湾人が日本で好意的に見られていることを知ってる中国人は、台湾人と中国人の見分けがつきにくいことをいいことに日本に来ても台湾人になりすます中国人も多いです。と、云っても話し方で台湾人か中国人か判別つきますね。台湾人は結構周囲の様子を気にして、大声を出さないほうが良い場所ではその場にあわせた声で話すのですが、中国人はどんな場所でも大声で話すことが多いです。また、台湾人で痰を吐く人はあまり見かけませんが、中国人の中には今でも平気で道路や床に痰を吐く人がいます。こうした輩は中国本土に行くと、香港を除いて都市部でもかなり居ますので中国人独特と云っていいでしょう。もっとも分かりやすく中国人を見分ける方法はスマホの使い方です。中国では中国政府のインターネット規制によってLINEは利用できませんので「WeChat」と云う中国アプリがもっとも普及してるコミュニケーションツールになります。例の安全上の懸念を理由にオーストラリア国防省が使用を禁止したWeChatです。音声を送る機能はLINEでも実装されてますが、日本人や台湾人は指でメッセージ送る人が多いでしょう。中国人もWeChat を使って指でメッセージを書くこともありますが、音声通話をする確率がとても多いのです。そのときにとる仕草がコレです! これは中国人ならではのスタイルなんです。だから、こうしてスマホで喋ってる姿見たら中国人と思って間違いありません。ことさら左様に日本で台湾人と中国人の見分けはなかなか難問ですが、ぢゃあアメリカ人は日本人と中国人の見分けがつくのか?日本のYouTube なんかには日本の自然と都市に感動したとか、日本食世界最高!なんて動画が山ほどUPされてますが、これは日本オタクのアメリカ人が云ってる言動だけです。日本に来てるから挙動で日本人と中国人の判別もつくのです。私たちだって、言葉を発しないかぎりアメリカ人、カナダ人、オーストラリア人の区別なんてつかないでしょう。言葉を聞いただけでもオーストラリア英語は「Maybe(メイビー)」ぢゃなくて「マイビー」など独特だから分かるにしても、アメリカ人とカナダ人の判別なんてムズイですよね。むしろカナダ人はどこ行ってもカナダの国旗「赤のカエデ(メープルリーフ)」のついたバッグとか衣類を身につけてることが多いので、それで判別つくくらいです。端的に云うとアメリカ人の大多数は「日本人」=「中国人」と思ってます。日本人も中国人も全く違わない。だから日本人がアメリカに行くと「ニーハオ」って云われる確率が高いです。「アジア人の顔」=「ニーハオ」がアメリカ人大多数の意識なんです。簡単に云うと、アメリカ人で日本人と中国人の区別がつくのは日本に住んでるアメリカ人だけです。もっと恐ろしいのはアメリカでは、日本人を含むアジア人がイチバン差別されてるってこと。黒人差別は問題になりやすいけど、実態はどの民族よりもアジア人に対する差別的な発言が多いのです。殴られることはめったにありませんが、コロナ蔓延のとき、アメリカ在住の日本人女性が暴漢に襲われたニュースはまだ記憶に残ってますよね。アメリカ人の大多数は日本人が「犬を食べる」と思ってます。これはアメリカ社会ではとても有名な話で、日本のみならずアジア人はみんな犬を食べると思ってるのです。普段の生活で差別的な態度をとるアメリカ人は少ないですが、「アジアンヘイト」は厳然としてあります。一般のアメリカ人のほとんどは、日本に対する情報に疎いのです。日本のゲーム、任天堂とかSONYはアメリカ人も大好きだけど、たいていアメリカの会社と思ってます。理由はゲームで表示される文字や発せられる言葉が英語だから。HONDA(ホンダ)やTOYOTA(トヨタ)もアメリカの会社と思ってるアメリカ人も多い。これも関税の関係で、日本車のほとんどはアメリカで製造してるから。まさか今どき日本人は日常的に着物着てるとか、刀さして歩いてるとは思ってないでしょうが、なんとも単純な、アンタたちのアタマの中ってど~なってんの?と云いたいですが、大多数のアメリカ人の日本に対する認識はこんなモンです。全体的に見て日本に興味あるアメリカ人は10%くらいしかいません。それとアメリカ人はキリスト教徒以外は人間と思ってない人が多い。とくに日本人みたいに神仏混淆がアタリマエなんてあり得ない話で、仏教なんて宗教と思ってない人が多いです。もっとも悲惨なのは在米の中国人でしょうね。とにかくアメリカでは中国ヘイトニュースのオンパレードですから。そして先程述べたようにアメリカ人の大多数は中国人と日本人の見分けはつきません。さらにサンフなんかでは黒人が黄色人種を差別する案件が頻繁におこってます。しかし世界レベルになった和食はどのアメリカ人でも興味あるでしょう?和食を食べさせるお店はアメリカでも増えましたが、実際の話、寿司の好きなアメリカ人は50%くらいです。残りの50%は生モノを全く受け付けない。つまりものすごく寿司の好きなアメリカ人と、全く受け付けないアメリカ人の両極端。YouTube なんかで訪日したアメリカ人が寿司サイコー!と云ってるのは、単に日本文化に興味あるアメリカ人の言動なんです。それにアメリカの日本食レストランに行くと、スタッフの大多数は中国人や韓国人。加えてアメリカの和食のほとんどはなんちゃって和食ですから、普通に日本から行ったらとても食べられたものぢゃありませんが、それを日本オタクは食べてて、そして日本に来る。そりゃあ日本の寿司、サイコーになるワケです。結論から云うと、唯一、日本の理解深いのはアニメに興味あるアメリカ人だけ。20代や30代のアメリカ人はアニメ通じて興味ある人の確率は高いが、それ以上になるとからきし。アメリカ人の間で特に日本人に関して有名なのは、日本人は数学が得意と云うことだけです。日本人が数学得意と云うことぢゃなくて、アメリカ人の計算能力があまりにも劣ってるだけなんですけどね(笑)アメリカの白人と友達になりたっかたら、同じ共通の興味あることを話すことです。例えば映画「マトリックス」は必須なんですな。逆に男が歌手"テイラー・スウィフト"のコンサートに行くと云ったら間違いなくアウトです。アレは女性が聞く歌手で、ゲイと勘違いされます。ちなみに男性がスタバ(スターバックス)によく行ってるとアメリカで云うと「ゲイ?」って反応が返ってきます。アメリカ人の男は「カプチーノ」なんて飲まない。男はレッドブルなんかの「エナジードリンク」だ!とか、バーに行って男性がカクテルなんて頼もうなら、またまた「ゲイ?」。男だったらウイスキーとかウオッカのストレートだろうってのがアメリカ人の認識です。さらにアメリカ人と云うと「タトゥー(入れ墨)」いれてるってイメージあるけど、それは一部の人だけです。アメリカでタトゥーをいれてると先ず就職が絶対的に困難です。アメリカには保守的な人が案外多いので、例えば子どもがタトゥーをいれて帰ってくると、発狂する親が多いです。私が行ったバンコクの欧米人街でもタトゥー入れてる人、ついぞ見かけませんでした。
Oct 20, 2024
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世界で最も低い首都ってのは、海抜のことです。それは東ヨーロッパと西アジアの境界にあるアゼルバイジャンの首都「バクー(Baku)」のことです。バクーは海抜マイナス28m にあり世界で最も低い首都であるとともに、海抜がマイナスの世界最大の都市でもあります。と、云ってもアゼルバイジャン自体が日本人には馴染み薄い国のひとつですね。アゼルバイジャンは南コーサス地方に属し、東はカスピ海、北はロシアのダゲスタン共和国、北西はジョージア、西はアルメニアとトルコ、南はイランと接しています。そして、シルクロードや南北回廊など主要な国際交通動脈の交差点に位置しているんですね。アゼルバイジャンの人口約97%はイスラム教徒です。15世紀アゼルバイジャンのシルヴァンシャー朝がバクーに建てた「シルヴァンシャー宮殿」と、ゾロアスター教徒の火の神殿と考えられる12世紀の建造物「乙女の塔」を含む旧市街は、ユネスコ世界遺産に登録されてます。なんか旧市街の画像を見ると、なかなかに良さげな町に見えますね。しかし現在のダウンタウンは近代と歴史的な建物が合い建ち並んで非常に清潔で美しい。世界は広いなぁ。こんな知らない都市がこんなに発展してるとは。バクーはコーカサス地方で最も重要な観光地の一つで、世界的大手ホテルチェーンが数多く市内に拠点を置いてます。そしてバクーは東洋のパリとしても知られてるらしい。またバクーのバクー・シティ・サーキットではF1レースも開催されてるそうです。それではお定まりのアゼルバイジャン料理を見てみましょうか。アゼルバイジャンはイスラーム教国にしては珍しく、日常的に飲酒が盛んな国です。そして有名なのがカスピ海で獲れるチョウザメのキャビア。「プロフ(ピラフ)」と云うラム肉とドライフルーツやナッツ、スパイスを使った炊き込みご飯が非常に有名ですね。アゼルバイジャンの王様料理と云われてます。子羊肉や牛肉、鶏肉で作られる「サジ・イチ」と呼ばれるアゼルバイジャンのバーベキューも有名です。サジ・イチはグリルしたトマト、玉ねぎ、ピーマンに加え、パセリやコリアンダーなど新鮮なハーブを添えて供されます。なんかお隣、ジョージアの料理と酷似してます。この辺一帯はどこも似通った料理なんでしょうね。「タンディル・トユク」と呼ばれるタンドリーチキンも有ります。香り豊かなスパイスのブレンドにマリネした鶏肉をタンドールオーブンで調理した人気のアゼルバイジャン料理です。「ピティ」は子羊肉とひよこ豆のスープです。材料は子羊肉、ひよこ豆、焼き栗などで、野菜、プラム、カリンなどを加えて味を整えます。「グタブ」はアゼルバイジャンのパティパイです。色んな野菜、肉、チーズが詰められてます。グタブは伝統的に大きな円形の金属製鉄板で三日月(半円)形に調理されます。「アゼルバイジャン・ケバブ」。アゼルバイジャンにはさまざまな種類のケバブがありますさまざまな種類のミンチまたは刻んだ肉、魚、鶏肉で作られていて、すべての材料を串に刺して直火で焼きます。その結果、アゼルバイジャンのケバブは深いロースト風味になります。アゼルバイジャンのケバブの中でも「ルレ・カバブ」は最も人気のあるメニューの1つです。ラム肉のケバップにレモン、塩、スパイス、ハーブを混ぜ合わせたものです。
Oct 19, 2024
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中国とイギリスの関係は、東インド会社によるイギリスの清王朝に対するアヘン戦争まで遡って非常に歴史の長いものですね。しかし現在は、ご存知の中国政府による補助金で価格を不当に引き下げている鉄鋼、EV(電気自動車)、太陽光パネル、リチウムイオン電池などにイギリスのみならず、EU連合そのものが大きく課税して抑制しようとしてます。しかしイギリスが中国に対して問題視してきたのは、経済だけの話ではありません。2022年に当時のイギリス首相リシ・スナクは毎年恒例の「ロード・メイヤーの晩さん会」でこう演説しました。まだコロナの蔓延時期です。このコロナに対して、中国で激化していたゼロコロナ対策の抗議デモにおいて、中国政府はBBC(英国放送協会)のジャーナリストを暴行するなど、さらなる取り締まりを選択したと述べたのです。またスナクは「中国が我々の価値と利益に対する体系的な挑戦を仕掛けていると認識している。中国が権威主義をさらに強めるにつれ、この挑戦はより深刻になっている」。「英中関係の黄金時代は、欧米との貿易を増やせば中国の政治改革につながるという甘い考えと共に終わった」と述べたのです。背景には1997年にイギリスから返還された香港をめぐる中国政府のやり方に不満が有ったのですね。イギリスの香港返還では、1997年の返還に先立つ1984年に交わされた中英共同声明で香港の「高度の自治」が返還から50年適用されると述べられてます。ところが返還後の2014年に駐英中国大使館が、「今は無効だ」と云い出したのです。しかも、これに先立って英下院外交議員団による宣言の履行状況の現地調査を、中国政府は「内政干渉」として入国すらさせなかったのです。世論調査でイギリス人の対中感情は、香港問題を機に悪化傾向にあります。中国には人権問題で対抗するべきと考える人が最も多い上、香港人に英国籍を与えるべきと考える人が半分を超えるなど、一般のイギリス人は貿易問題を重視する政府と異なり、価値や規範を重視する傾向が高いのです。まだエリザベス女王が健在で、現国王チャールズが皇太子だった2015年、習近平はイギリスを訪問してます。習近平の公式訪問は、中国の対英投資拡大を図る英国政府の外交政策の一環として実現(当時はまだ中国経済が好調)したのですが...習近平夫妻はバッキンガム宮の大広間で開かれた女王主催の公式晩餐会に招待されました。主賓である習近平の隣には、ウィリアム王子や中国を意識してか、赤いドレスに身を包んだキャサリン妃が列席。キャメロン首相をはじめ政財界の関係者のほか、各国大使らも招待される華やかな外交の大舞台でした。そうした厚遇を中国メディアは「最上級の待遇」と報じました。170人以上の招待客に出された特別メニューは、西海岸産ヒラメのロブスタームース添えと、北部スコットランドのバルモラル産鹿肉ローストのマデイラ酒とトリュフソース。そしてワインはフランス・ボルドー産の赤ワイン、シャトー・オー・ブリオンで、市価で1本約30万円する高級ワインです。ところがこのワインが英国王室の隠れた中国政府への抗議だったのです。シャトー・オー・ブリオンで特に当たり年は1989年、2000年、2014年ものですが、晩餐会でチョイスされたのは1989年ものだったのです。この1989年がイミするものは...北京の天安門広場を占拠していた民主化を求めるデモ隊に対し、中国人民解放軍が実力行使して学生ら300人以上の死者を出した天安門事件の年なんです。このとき、戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、西ドイツなど西側諸国のTV局による生中継のための回線は中国共産党によって次々と遮断されました。中国にとってもっとも触れられたくない年のワインをわざわざ選んだのですね。さらに晩餐会に時のチャールズ皇太子は出席しませんでした。チャールズはかねてからチベット弾圧などの人権問題を批判しており、抗議の意味での欠席でした。欠席を許した女王にも同じ思いがあったのでしょう。エリザベス女王は晩餐会の席上「今年は両国にとって非常に特別な年となる」と歓迎の言葉を口にしましたが、言葉とは裏腹に習近平と会ってる間、ほとんど笑顔を見せませんでした。さらに晩餐会で習近平がスピーチしてるとき、隣に座るアンドリュー王子が頬杖をつく姿も物議をかもしました。中国は習近平の訪英の前年に李克強 元首相も訪英してますが、このとき李克強は「女王に会えなければ訪英しない」と注文をつけたり、空港で「レッドカーペットが3m 短い」など傲慢な姿勢を続けてきました。とにかく当時の中国は良好な経済状態を盾にとって、無礼極まりない振る舞いをしてきたのですね。それに対してイギリスの狙いは中国のカネだけ。中国の対英投資拡大を図るイギリス政府の外交政策の一環として訪英も許していたのです。王室による歓待はその謝意ではありますが、信頼や敬意を抱く関係ではないことのメッセージがエリザベス女王をはじめとした王族の振る舞いに込められていたのですね。習近平が帰国した後、エリザベス女王が習近平一行について、「非礼だった」と代表取材のカメラクルーが撮影している園遊会で発言しました。当然、この発言は報道されたのですが、政治や外交について公的発言を控えるエリザベス女王が不注意に本音を漏らしたとは考えにくく、度重なる中国の非礼に腹に据えかね、意図的に漏らしたのではないかと云われています。これに対して、英王室バッキンガム宮殿は、「女王の個人的な会話内容についてコメントしない」とする一方で、習主席の公式訪問は「大成功で、つつがなく進行するよう関係当事者は誰もが緊密に協力し合った」とコメントしています。習近平の一行は、同行した多数の中国人警備スタッフに護衛用銃器の携帯と訪英中の反習近平政権デモ取り締まりを求めましたが、イギリス警備当局はいずれも拒否しました。そして儀式用大通りであるザ・モール沿いの反習近平政権デモ参加者の数は、親北京支持者よりもはるかに多かったのです。
Oct 18, 2024
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中国が「台湾独立勢力を震え上がらせる」と勝手な理由をつけて台湾周辺で軍事演習してましたけど、やり方が北朝鮮と同じで頭オカシイとしか云いようないですね。狙いは台湾の頼清徳政権への圧力を高めるためだけなんですから。日本ではあまり報道されてませんが、台湾人が日本に感謝している最大のものはコロナ蔓延期に日本からワクチンを送ったことと、中国が台湾製パイナップルの輸入を差し止めたとき、日本が中国に代わって購入してくれたことです。台湾の公用語は台湾華語、つまり中国の標準語(北京語)に近い言葉ですね。なので台湾人と、北京語を喋る中国人の会話は成り立つワケです。台湾ではこの言葉を「国語」と呼んで、学校教育も主にこの国語が使われています。しかし台湾のMRT(地下鉄)に乗ると台湾華語(中国語)と英語の他に昔からの台湾語(閩南語とも呼ばれる原住民語)、そして客家(はっか)語(桃園市南部や新竹県と苗栗県の大半などで話されている言語で、台湾に300万人いるとされてる)4つの言語で車内放送があります。また台湾の東武に行くと阿美(アミ)語が入ってきます。阿美語は台湾東部の原住民族アミ族の母語です。これらの言葉はほとんど一緒なんですが、やはり違いがあるのですね。しかし台湾人はこうした言語を織り交ぜて使うことができます。逆に台湾人で1つの言葉しか話せないと云う人は少数派です。さらにMRTでは台北駅、台北101や世界貿易センター、龍山寺など外国人観光客の利用が多い駅で日本語と韓国語の表示とアラウンスも追加してます。つまり、こうした駅では台湾華語、英語、台湾語、客家語+日本語、韓国語となるワケです。台湾華語(中国語)と台湾語では発音が違いますし、文字も微妙に違うことがあります。台湾華語で「こんにちは」はご存知の「你好(ニーハオ)」ですが、台湾語だと同じ文字でも「リーホゥ」と発音します。台湾語で「リー→」は高めにのばし、「ホウ↘」は上から下へ下げるのですね。しかし一般的に台湾人が挨拶するとき、もっともよく使うのは「食飽未(ジアバーボェイ)」です。直訳すると「お腹いっぱい?」と云う意味ですが、「元気?」くらいの感覚なんですね。こう聞かれたら「食べたよ」と云う意味の「飽未(ジアバー/元気だよ)」と答えます。「ジアバーボェイ」の発音は下で低く「ジア↓」、上で高く「バー→」、最後はまた下で低く「ボェイ↓」です。「有難う」、台湾華語では「謝謝(シェシェ)」ですが台湾語だと「多謝(ドーシャー)」。台湾語では最後を高めに延ばすイメージで「ド(→)シヤー(→)」と発音します。「ごめんなさい」、台湾華語では「對不起(ドゥイブチー)」ですが、台湾語では「拍謝(パイセ)」と云います。拍謝は謝るときも、通してほしくて「すみません」と云うときも全て「パイセ」でいけます。「美味しい」は台湾語で「好食(ホージアー)」。高めに「ホー(→)」、そこから下げるイメージで「ジア―↘」です。「私は日本人です」を台湾語で云うと「我是日本人(ワーシーリップンラー)」で、「ワー(→)」「シー(↗)」「リップン(↗)」「ラー(↓)」で、最後は「ラー」と低く伸ばすのがコツらしい。台湾人は発音がチョット間違ってても、一生懸命理解しようとしてくれる国民なので、こうして台湾華語ではなく、台湾語を話すととても喜んでくれて親近感がマシます。台湾人が日常的に使用している言葉は台湾語「閩南(ビンナン)語」と述べましたが、この言葉は中国、福建省の方言とほぼ同じです。台湾人の祖先の多くは、17世紀~19世紀にかけて福建省から移住してきたため、その言葉が基礎になって広まりました。シンガポールやマレーシア、インドネシア、フィリピンなど東南アジア諸国の地元華人コミュニティにも閩南人が強く影響してますね。台湾の閩南語には、日本語からの借用語も数多く取り入れられています。こうした日本語からの借用語には、今でも台湾語の中に定着して若い世代にも使用されている日本語もあれば、消えていった日本語もあります。また若者たちは、元が日本語と知らずに使ってる度合いが増えてます。年代を問わずよく使用されている日本語からの借用語には、りんご、刺身、たこ、テンプラ、わさび、看板、寿司、おばさん、おじさん、味噌汁、運ちゃん、畳、休憩、気持ち、予備などがあります。他に高齢者がよく使う借用語には、沢庵、みかん、にんじん、風呂、油揚げ、おでん、タンス、カバンなんてのが。ただ台湾で「テンプラ」のことを「甜不辣」と書きますが、中身は日本と全く違う代物です。台湾のテンプラは日本で云う「さつま揚げ」みたいなものです。逆に台湾北部の港町「基隆」では「ちくわ」のことを「吉古拉」と書きますが、ここの名物 吉古拉はまんま日本の竹輪です。さて、この台湾語なんですが、この名称で台湾の与野党が対立してるのです。2010年から始まった教育省(日本で云う文科省)が全土で実施しているヒアリングと会話の「閩南語能力検定試験」と云うものがあります。この検定試験の名称を政権与党である民進党が現在の「閩南語能力検定試験」から「台湾語能力検定試験」に変えようとしてるのです。台湾社会で「台湾語」として定着している「閩南語」を、正式に名称変更する動きなんですね。つまり「閩南語」が正式な「台湾の言語だ」と云うイミです。これに反発したのが中国です。中国の国営メディアは「民進党政権による中国離れの一環だ」と反発してきたのです。「閩南語」なら「中国福建省の方言」と云う認識で中国も許容できますが、それが正式に「台湾語能力検定試験」に変わってしまうと、中国語と完全に袂をわかって台湾独自路線を進めていると受け取ったのですね。これに呼応したのが台湾野党です。野党は中国との融和を進める考えなので、名称の変更は「脱・中国」の動きそのものだと反発してるのです。まさに民進党政権が目指してるのは「中国離れ」ですから、2300万いる台湾の人たちに、「自分たちが日常的に使っている言葉は、中国福建省の言葉ではない。台湾独自の言葉だ」という意識を植え付けたい思いがあるのです。この問題は台中両国の対立激化に拍車をかけるかも知れませんが、台湾国民の大多数は中国と付かず離れずの現状維持を望んでるので民進党政権もムツカシイ舵取りになりそうです。
Oct 17, 2024
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なにもヨーロッパに限ったことではありませんが、平和ボケしている日本人観光客にとって、ある程度海外旅行慣れしてる人でもついウッカリで犯罪被害にあうことは多々あります。テーブルにスマホなど物を置いたまま離席しないのはと~ぜんだし、街中で不用意にスマホを取り出して画面を見るのもご法度。バイクの運転者に通り抜けざまスマホを奪われる事件なんてザラにあります。もちろんバックは背中でなく、前に回して抱えるように持つのも鉄則。だいたい現地の人がしている行動を見れば分かりますね。現金は必要最小限を持って、それもほとんどは隠しポケットにでも入れて、万一強盗に襲われても最小の被害で済むよう少額だけをポケットに入れるとか。クレジットカードだったら、最悪スラれても使用停止できますね。ヨーロッパは比較的安全な国が多いけど、ウクライナを始めポーランド、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアのように政治的に安定しない国は別にしても、危険な国と云うより地域は厳然としてあります。私はヨーロッパに行ったことありませんが、世界平和度指数(GPI)を国別で見ると、治安、紛争、犯罪面でトルコは10年連続で、ヨーロッパで最も危険な国としてとらえられてます。トルコの世界GPI安全度ランキングは、ベネズエラと北朝鮮の間、150位なんです。フランスは非常に危険なところが多いです。フランスは常にヨーロッパで最も治安の悪い国のトップにランクインしてます。もっとも大きな原因は異なる民族が多すぎることです。誤解を恐れず云わせていただくと、移民や難民の多い国は総じて治安が悪い。これらの人たちが容易に国籍を取得できないことによって、仕事に就くことができず、格差が大きいからです。フランスでは暴力犯罪も多く、ちょっと数え上げただけでも民族闘争に類する犯罪が多数発生してます。2015年に発生したムハンマドの風刺画を掲載したフランスの週刊新聞「シャルリー・エブド」への襲撃は記憶に新しいですね。この事件では12人が死亡してます。これ以降も...2015年にパリで5人死亡同じく2015年にパリのバタクランコンサートホールで130人死亡2016年にパリで2人死亡同じく2016年にニースで84人死亡同じく2016年にノルマンディーにあるサン=テティエンヌ=デュ=ルヴレで3人死亡2018年にオクシタニーにあるトレブで5人死亡同じく2018年にパリで2人死亡2019年にはリヨンで爆弾攻撃があり、13人が負傷2020年にドローム県にあるロマン=シュル=イゼールで2人死亡同じく2020年に再び週刊新聞「シャルリー・エブド」で複数が負傷2021年にはニースで4人が死亡2023年にはパリで1人が死亡と毎年のように凶悪犯罪がおきてます。そして問題は、こうしたテロ事件が普通に人々が生活する危険地域と呼べないようなとこで起こってることです。つまり観光で訪れたフランスで多くの観光客が行き交う場所でも事件に巻き込まれる確率はあると云うことです。特にフランスのリヨンはスリ犯罪の温床です。とにかくョッピングバッグをたくさんもって、お友だち同士で話しながら歩いている日本人はスリの恰好の標的です。それとともに置き引きもスリと同じくらい日本人がよく遭うトラブルの1つです。フランスでは日本人旅行者を標的に私服警官と偽り、麻薬捜査を理由に所持品検査を行い、パスポートや財布を提示させたスキにお金の一部を盗み取るという犯罪も発生しています。一般に警察官が観光旅行者を対象に麻薬捜査を行うことは先ずありません。イタリアやスペインでもスリ被害は多いですね。イタリアではアイスクリームスリってのも報告されてます。街中を歩いてると、後ろから声を掛けられます。背中にアイスクリームがついてますよと云われる。見るとビックリ、背中にべったりアイスクリームが。声がけしてくれた人は親切にもアイスクリーム拭くのを手伝ってくれる。これが手なんです。親切なイタリア人が立ち去った後で気づくと財布が無いなんてことが頻発しています。日本人は目立つきれいな服装で行動することが多いので格好のエジキと判別できるのですね。オランダで最も危険なのはアムステルダムの中央駅です。ここは飾り窓地区(風俗店、ストリップクラブ、成人劇場が集中している地区)も近く周辺は治安が良くありません。飾り窓地区はオランダの他にもドイツやベルギーにもありますね。アムステルダムの中央駅周辺でもっとも多いのは引ったくりです。1人が声を掛ける役、その人物が注意を引いている間に他の仲間が荷物をひったくるというパターンです。また、突然複数で襲い掛かるケースも多いそうです。スペインのマドリードとバルセロナで外国人、特に日本人をターゲットにした首締め強盗が昼夜問わず多発してるそうです。3~4人、時には6~7人の集団で背後から近づき、突然羽交い締めにして首を絞め、意識を失わせて所持品を奪うと云うものです。ときには被害者を殴打したり、ナイフなどの凶器をふるってケガを負わせるケースもあります。犯人は日本人が貴重品を隠す防犯グッズ類を使っていること、下着の中などにお金を隠していることを熟知しているそうです。人通りの多い場所で襲われても、周囲の人は助けてくれない事がほとんどです。万一襲われた場合は抵抗せず、身の安全を第一に考えることしかなさそうです。スペインは世界で最も日本人の強盗被害が多い国で、そのほとんどがマドリードとバルセロナで発生しています。こんなこと書くと恐くて海外に出れないと感じるかも知れませんが、ちゃんと身支度と心づもりしていけばまぁそうそう犯罪に巻き込まれることは無いでしょう。実際、現地の人は普通に暮らしてるのにナゼ?と思われるでしょうが、それはあなたが旅行者、それももっとも不用心な日本人と分かるからです。とにかく日本と同じと不用心にならないことです。要するにスキを作らないこと。相手が子どもでも集団スリやるのもいます。そして危ない場所には近づかない。だいたい被害にあう日本人の多くは、まったくの無防備な人が多い。デモやってるのを見物になんて絶対考えないことです。どんなに街がキレイで整然としていても、それと犯罪は別と云うこと。いくら現地日本人駐在員がよく着てる服装を事前に調べて、同じもの着て「私はこっちに住んでるから事情は分かってるわよ」と騙したつもりでも立ち入る場所が観光地だし、第一目線の配り方を見れば現地の人か観光客か一目瞭然。私たち日本人観光客はとりわけ狙われやすいことを忘れずに。もしくは個人行動に制限ありますが、団体ツアーを利用することですね。
Oct 16, 2024
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一時期、日本でもブームになったイタリアの菓子パン(?)マリトッツォ。私はほとんど甘いものを口にしないので、食べたのは一度きりですが、なかなかに上品な甘さで美味しかった記憶あります。日本のマリトッツォは、フランスのブリオッシュに生クリームを挟んだものですが、これって正統なんですかね?私はイタリア旅行したことないし、どれが正統かも分からない。それで「Maritozzo」で画像検索したら、まさに日本のと見分けつかないマリトッツォが表示されたので、ど~やら日本のもイタリアに忠実に作られてるようです。ただイタリアのは中に生クリームだけですが、日本のは生クリームの中にまたベリーのソースとかヘーゼルナッツチョコが入ってたりと一捻りしてて、この辺が日本の食文化を色濃く表してますね。ところが上の画像の正式名称はイタリア語で「Maritozzo con la panna(マリトッツォ・コン・ラ・パンナ)」と云い、イミは生クリーム入りのマリトッツォ。ど~やら本場のマリトッツォにもイロイロなバリエーションがあるみたいな。要するにイタリアのパンで具材を挟んだ「パニーノ」の一部なんでしょうかねぇ。調べてみると上に掲げた日本やイタリアのマリトッツォも「ローマ風マリトッツォ(Maritozzo romano)」と呼び、他にもバリエーションがありました。イタリア中部のアドリア海沿岸にあるマルケ州のマリトッツォは、ローマ風がまん丸なのに対して細長いパンを使ってます。生地にはレモンの皮のすりおろしを加えて風味を出すのがコツらしい。マルケ州の人たちはこのパンにクリームとか、ヘーゼルナッツクリームの塗って朝食にするそうです。イタリア南部のプッリャ州とか地中海に浮かぶシチリア島なんかでは、また違ったマリトッツォがあります。フランスのブリオッシュ・トレッセみたいに、三つ編みに成形したパンを使ってるのです。このパンにグラニュー糖をまぶすのがこの地域の特徴みたい。その代わり生地には脂肪分と砂糖がほとんど含まれてなくて、やはり朝食でよく食べられてるらしい。これはパンの中に何も入れないので、純粋にブリオッシュと同じですね。お食事系マリトッツォだったら「マリトッツォ・サラート(塩味のマリトッツォ)」です。これはイタリアでは屋台料理の典型でもあるそうな。塩味で香ばしいパンに生ハムとかモッツァレラチーズなどいろんな具材を挟み込んで、これはもうサンドイッチと云うかパニーノそのものですね。でも美味しそうです。ところで、これまでの記述で気づかれたと思いますが、マリトッツォは本来パンだけを指す言葉だったのです。
Oct 15, 2024
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香港に1993年に取り壊された九龍城砦(九龍城)と云う巨大なスラム街がありました。私が初めて香港を訪れたときはまだ健在でしたが、ツアーガイドが危険だからと九龍城砦の前をバスで通り過ぎただけで、中に入ることは叶いませんでした。次に香港訪れたときは、もう取り壊されてて後の祭りです。現在の香港で九龍城砦に代わる建物と云ったら、映画「トランスフォーマー/最後の騎士王」のロケ地として有名になった東区鰂魚涌にある複合高層ビル「益發大廈」(Yick Fat Building)ですね。日本ではモンスターマンションの名前で呼ばれてます。1972年に建てられた5棟の商住混合ビルで、2,200戸の住居があり、バックパーカー向けの宿泊施設もあります。そんな九龍城砦を別名にするマンションが日本にもあります。別にスラムでもなければ、貧民が住んでるワケでもなく、外見もしごく普通のマンションなんですが、この建物、日本最大の違法建築物なんです。名前は「沢田マンション」。高知県高知市の薊野北町1丁目にあります。沢田マンションがナゼ違法建築物かと云うと、この建物、素人夫婦が独学と自力で作った手作りマンションなんです。それも増築に増築を重ねた外観から、軍艦島と並んで「日本の九龍城」と呼ばれてるのです。建てたのは沢田嘉農夫婦で、1971年に着工しましたが、素人だったので建築確認は取らないまま着工しました。当時の役所は「強くは文句云わないが、手数料の用意が出来たら許可は取ってくれ」という程度の非常に大らかな時代だったらしい。このマンションは現在も100人以上が入居していて、しかも近年はその建築の壮大さに魅了された若者の入居が増加。海外からも注目され、多くのアーティストやデザイナーが訪問するほど。部屋数はおよそ70あります。マンションの基礎ができてからも、度重なる行政指導や工事中止命令など軋轢がありましたが、住民で自主防災組織を結成し、年に1度の避難訓練を行うなどして行政との関係も概ね良好らしいです。普通、マンションの部屋と云うと縦に同じサイズ、同じ仕様の部屋がアタリマエですが、こっちは増築に増築を重ねて全部の部屋のサイズがマチマチです。廊下も迷路のようになってて、しかも同じ階の各部屋はベランダで自由に行き来ができる。ここには短期利用者や旅行者用の部屋もあって、1泊4,000円くらいで泊まれます。建設のとき使った地下水を汲み上げるポンプを動かすための発動機が40台、屋上にはこれまた建設で使ったクレーンがそのまま残されてます。このクレーン自体がオーナー夫婦の手作りだと云いますから驚きです。全くの素人ですよ。マンション造成に使ったコンクリートも全て自分たちが手でこねたそうです。最上階5階がオーナーの沢田家住居。ここの庭には"プー太"と呼ばれる元はミニブタだったのがデカクなったのとか、ニワトリさんやウサちゃんまで居ます。まぁとにかくカオスなマンションです。なんか楽しそうですね。それが高知の片田舎に建ってるってのも。
Oct 14, 2024
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それは中央アジアのカザフスタンです。これはテロ対策の一環ですが、5人以上の集合写真を撮るときは警察に申請して許可が必要です。観光で訪れての集合写真でも警察が乗り出す場合があるので注意が必要です。また少ない人数でも軍事施設、国境地域、空港、一部の公的建物の近くで写真やビデオを撮影すると逮捕される場合があるのですが、これらの制限について警告する標識がない場合もあるのです。大型店舗やスーパーマーケットなどでも写真撮影が禁止されているところが有ります。たかが写真くらいで面倒と思いますが、その国の法律ですから仕方ないですね。カザフスタン西部のアティラウとアクタウ、およびアスタナとアルマティに外国人コミュニティがあるのですが、そこのナイトクラブやバー周辺では強盗も多発してます。またナイトクラブやバーでは、飲み物に薬物を混入されるリスクも皆無でないらしい。銀行内のATMは安全ですが、路上のATMはカード情報を盗み出す改ざんがおこなわれてることがあります。カザフスタンで外国人はパスポートの原本を常に携帯する必要があります。街を巡回している警察が身分証明書の提示を求める場合があるのですが、コピーは受け付けられないし、政府の建物に入るにはパスポートの原本を提示する必要があるんです。バー、レストラン、カフェを除いて午後11時~午前8時までは、店舗でアルコールを販売してくれません。警察が路上で飲酒しているのを見つけたり、または酔っているように見える場合、警察署に連行し罰金を科したり、留置所に一晩拘留したりすることがあります。多くの国がそうであるように公共の場やその付近では喫煙、電子タバコの使用は違法です。特に電子タバコは持ち込みも禁止。電子タバコを持ち込んだ場合、最長2年の懲役刑が科せられる可能性があります。なんとも絶対、行きたくない国の筆頭みたいな。カザフスタンは、イスラム教徒が多数派を占める国としても世界で最も広大かつ最北端にあります。日本の面積の約7倍あります。英語は全く通じません。通用するのはカザフ語かロシア語のみです。また2050年までロシアが租借している土地があります。南がウズベキスタンに接してる政令指定地区「バイコヌール」です。このバイコヌールの行政権はロシアが握っており、ロシアの法律が適用され、通貨もカザフスタンのテンゲでなくロシアのルーブルが流通してる町です。バイコヌールにはロシアのバイコヌール宇宙基地があるからです。このバイコヌール宇宙基地から人類初の有人宇宙飛行をしたガガーリンをのせたボストーク1号が発射されました。ところがカザフスタンは中央アジアで最も裕福な国なんですね。それは大量に埋蔵されてるウランがあるからです。ウラン埋蔵量、世界No.2。全世界の産出量の40%がカザフスタンからなんです。また石油の埋蔵量も膨大です。首都アルマトイの通りはキレイです。道もよく整備されてる。そしてバスの数がものすごく多いのですね。バスは一律50円(150テンゲ)くらい。アルマトイには地下鉄もあって、紙の切符でなく窓口で「トークン」を購入するシステム。料金はどこまでいっても一律70円弱(200テンゲ)。驚くことに「電動キックボード」のシェアリングサービスが盛んで、距離でなく時間で料金が決まるシステムらしい。タクシーアプリ「Yandex Go 」を使ってキックボードがレンタルできるそうです。またレンタルの電動自転車も街のあちこちに有ります。街のスーパーは超大型で、それとは別に昔ながらのバザーも有ります。ほとんどの人は日常の食品などバザーで買うみたいです。こうして街の様子見ると、法律と治安さえちゃんと理解してりゃ観光旅行にも良さげな街に見えますね。ただしがつきます。アルマトイの夏は気温があがっても30℃くらいなので問題ないのですが、冬はマイナス10℃くらいまで下がる日があるので旅行する時期が限られると云うことです。カザフスタンは旧ソ連領ということもあってロシアと親交あるのですが、もう一方の国境には中国があって、中国とも親しい。かと思ったらアメリカはじめ西側諸国とも親交があって、あるイミ、上手な外交してるのですね。とは云え、中央アジアの国々と云うのは、我々にとって理解しがたい国に変わりないのですが。ちなみに一般のカザフスタン人は非常に人好きで親切。よく知らない人でも家にあげてご飯を振る舞う民族らしいです。
Oct 13, 2024
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ネギ焼きと云ってもお好み焼きのことではありません。単に白ネギを炭火で炙ったアレです。非常にシンプルな料理なのに、ポン酢とかごま油と塩をつけて食べると、甘みがあって美味しいものです。ネギの焼きびたしもオツなものです。白ネギのことを関西では「東京ネギ」と呼んで、緑色の部分を食べる九条ネギなど葉ネギと区別する人も多いです。と云っても日本三大ネギは群馬の「下仁田ネギ」と福岡の「博多万能ねぎ」とともに兵庫県朝来市の「岩津ネギ」もあって、岩津ネギはまんま東京ネギと一緒なんですけどねぇ(笑)こんなシンプルな料理、日本独特かと思ったら世界は広いものです。日本の他にもネギを同じように調理する国があったのですね。それもアジア圏ではありません。なんと、スペイン北東部 地中海岸にある「カタルーニャ」の伝統料理なんです。料理の名前は「カルスターダ(Calçotada)」。カタルーニャ州タラゴナ県の冬から春に掛けての名物料理なんです。この料理は新葱の採れる3月までしか食べることができません。カルスターダの始まりは、19世紀末にシャット・ド・ベネージュと云う農民が、ネギのグリル料理を調理してたところ、仕上がりをちゃんと見てなかったため焦がしてしまった。しかし勿体ないのオバケが出るってことで、焦げた皮をむいて味見したら中は柔らかくって風味満点!ってことで、この料理が定着したと云う話です。いまでは1月最後の週に「グラン・フェスタ・デ・ラ・カルスターダ(カルスターダ大祭り)」が開催されて、カタルーニャの名物になり、毎年多くの観光客が訪れます。カルスターダで使われるネギは「カルソ」と呼ばれて、特にカルスターダ用に栽培されたものです。このカルソの焼き加減ってのがハンパない!ワインに使うブドウの剪定枝の上で真っ黒に焦げるまで焼くのですね。火から降ろされたカルソは一旦新聞紙に包まれて30分ほど放置し粗熱をとります。その後、焦げた部分を手でむいて、中の柔らかくなった白い部分を食べるのですが、手でむくために手が炭で真っ黒になるばかりか服まで汚してしまいます。それでレストランなどではよだれかけが用意されてるのですが、いい大人がよだれかけぶら下げてネギに食らいつく姿は滑稽でもあります。焼けたカルソは「ロメスコソース(salsa romesco)」と云う、ナッツが入っててコクのある味わいが特徴のソースをつけて食べます。このソースもよく垂れるので、これが着ている衣服を汚す原因にもなり、よだれかけが必要になるのですね。スペインには市販のロメスコソースも数多く売られてます。このカルスターダは前菜で、メインは「ボティファッラ (butifarra)」と云うカタルーニャの松の実入りソーセージです。このボティファッラに赤ワインの組み合わせが定番なんですね。最近ではバルセロナのお店なかでもカルスターダを出してるみたいです。
Oct 12, 2024
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きょうは先ず下の漢字をご覧ください。読めます? イミ分かりますか?この漢字は中国語で平たいことを意味する「扁扁」が訛ったものだそうです。なんとも面倒くさい漢字で、画数が57もあり中国人でもほとんどの人は書けないそうです。この文字をふたつ重ねて、さらに「麺」をつけるととなって陝西省でよく食べられてる「ビアンビアン麺」。幅広の手延麺で、日本で云う ほうとうやうどんに似た食感です。ことさら左様に同じ漢字と云っても、中国語と日本語では微妙に違ったり、まったく違ったり。さらに現在の中国は簡体字なので日本人には略しすぎて読めない字も多いですね。まだ台湾みたいに繁体字の方が馴染みあります。漢字そのものの複雑さは「繁体字」→「日本語」→「簡体字」と云うことになります。例えば「台湾」と云う国名も日本語で書けば「台湾」ですが、台湾華語(台湾の中国語)では「台灣」になります。台湾の言葉は基本的に北京語ですが、他に昔からの台湾語(台語)と呼ばれるものもあります。特に年配の人や高雄、台南なんかに住んでる人で話せる人が多いですが、今では絶滅言語に近くって、若い人はほとんど話せません。この台湾語は北京語と全く違って、例えば「你好(ニーハオ)」は台湾語で「リーホー」、「好吃(美味しい)」北京語では「ハオチー」ですが、台湾語は「ホッジャー」と云います。ところで台湾って通貨の単位が「元」ですよね。ところが台湾人で「◯◯元」と云う人はいません。「◯◯塊(クアイ)」と云います。台湾飯と云えば魯肉飯 (ルーローファン)、豚肉の煮込みをご飯にかけたのが有名ですが、他には胡椒餅(フージャオビン)と云う豚肉と葱を皮で包んで焼いたのや、鹽酥雞(イエンスージー)と云う唐揚げ、麺線(ミンシェン)と云う細い麺のスープ煮、排骨(パイクゥ)と呼ばれるスペアリブ、そして私の好きな臭豆腐(チョウドウフ)などが日本人にも馴染みありますね。焢肉飯とか炕肉飯とか爌肉飯(コンロウファン )と云う豚の角煮丼も有名です。きょうは台湾の食堂や屋台で食べられてる料理名をご紹介しましょう。屋台だと眼の前で料理が見えてるので名前知らなくてもオーダーできますが、お店だと店頭かテーブル席にある「注文票」を見てオーダーしたい料理に個数マークをしなければなりません。有名なお店ですと英語や日本語が併記されてるし、店内に料理写真も掲示されてますが、まったく台湾華語しか印字の無いとこも多いです。この注文票のシステムが分からないと、「内用」(ネイヨン=店内)で食事ができないワケですね。注文票の上部に「内用清寫桌號」と記入欄があるので、ここにテーブル番号を書き込みます。ちなみに台湾の食堂に行っても「歓迎光臨(ファンイングアンリン=いらっしゃいませ)は云いません。代わりに「内用外帯(ネイヨンワイダイ=店内で食べるのか、それとも持ち帰り?)みたいにいきなり聞かれます。次に聞かれるのが「幾位(ジーウェイ=何人ですか?)」。これは指の表現でいいです。「請先付款」とか「請先结帳」と表示あったら「オーダー時点」で会計してください。ビールの注文は「ビァ」ではなく「ビール」でOKです。料理で冷たいのと熱いのがあるときは「冰的熱的(ビンダラーダ)?」と聞かれますので冷たいのが欲しいときは「ビンダ」、熱いのは「ラーダ」と答えます。パクチーのことは「香菜(シャンツァイ)」ですが、「要香菜嗎?(ヤオシャンツァイマ)」と聞かれたら「パクチー要りますか?」と云うイミです。「要辣嗎?(ヤオラー マ)」は辛くしますか?と云うことで、辛さには4段階あります。イチバン辛くない(ピリ辛)のが「微辣(ウェイラー)」次が「小辣(シャオラー)」「中辣」「大辣」と続きますが「小辣」でも日本人にはものすごく辛いです。「試試看(シュシュカン)」は試し食いしてってことで、味を確認できます。お店のお勧めは?は「推薦(トウェイジェン)?」です。「老闆(ラオバン)推薦」は店長推薦と云うイミです。「禁帯食」とか「請勿攜帶外食」は食べ物の持込みはダメ!ってこと。トイレ借りるときは「洗手間(シーソージェン)」とか「厠所(ツァースオ)」ですが、これは「トイレ」でたいてい通じます。トイレ表示で「本廁所容易阻塞」は「このトイレは簡単に詰まる」で、次に「衛生紙(トイレットペーパー)請投入拉圾桶(ゴミ箱に入れてください)」。前回、このブログで中華の名前は規則性があるので簡単と述べました。例えば、これも台湾名物「鶏肉飯(ジーローファン)」は一目瞭然ですね。鶏と飯です。これが焼き飯だと食材の名前+「炒飯」です。「綜合炒飯」は何もかも入りのデラックス炒飯。「蚵仔蛋炒飯」の「蚵仔」は牡蠣のこと。これに「蛋」はタマゴが入った炒飯。これが牡蠣の代わりに小エビが入ると「蝦仁蛋炒飯」となるワケです。台湾名物の「蚵仔煎(オアチェン)」は牡蠣オムレツで、牡蠣ではなくエビが入ったら「蝦仁煎」。この飯や炒飯が「湯」になるとスープ、繁体字で「燙」です。「猪肝湯(ジュ―ガンタン)」の「猪肝」は豚レバー+スープですね。牡蠣の「蚵仔」が入ったスープは「蚵仔湯」。これが「蛤仔湯(ハーマータン)」だとアサリのスープ。「花枝湯」はイカのスープで、「花枝丸」はコウイカで作った団子、「酸辣花枝羹」は「酸辣湯」(サンラータン)にイカのすり身を加えたスープです。「羹(ゴン)」は日本語で云う「羹(あつもの)」で、煮込んだ熱い汁もののことです。「餛飩湯」はワンタンスープのことです。麺料理は「湯麺(スープ麺)」と「炒麺(焼きそば)」ですね。「麻辣麺(マーラータン)」は、舌が痺れるような麻味花椒と、ピリッとした辣の唐辛子で味付けしたスープ麺。「牛肉麺(ニューローメン)」は読んで字のごとしですが、その文字の前に調理法がつくと「紅焼牛肉麺(醤油ベース)」とか「清燉牛肉麺(胡椒ベース)」とか「川味牛肉麺(四川風)」とか「清湯牛肉麺(薄味)」と違った牛肉麺になります。この約束はすべての料理に共通です。とにかく台湾の麺類は種類が多いです。「陽春麺(ヤンチュンメェン)」は、具にもやし、韮、そして少量のチャーシューが入っているだけのシンプルな麺です。「切仔麺(チエザイメン)」は「油麺(ヨーメェン)」と云う黄色い中華そばに、これも具にもやし、韮とシンプルな麺で、台湾新北市の蘆洲が本場ですが台北でも食べられます。「意麺(イーメン)」は、小麦粉に卵を加えて練り込んだシンプルな麺のことです。こうした麺は「湯」汁ありスープ麺か「乾」汁なし混ぜ麺のどちらか選べます。炒め物は全て頭に「炒」がついて、後に食材です。「炒青菜(チャオチンツァイ)」は読んで字のごとしですから分かりますね。「炒花枝」の「花枝」はコウイカのことです。「炒鮮蚵」の「蚵」は先ほど出てきた牡蠣のことですね。「炒腰只」の「腰只」は腰子(豚の腎臓)のことで、貧血や生理痛などに悩まされてる女性に良いとされてます。「炒赤肉」の「赤肉」は脂身のない豚肉のことです。「豆乳雞」ってのがあります。豆腐乳から揚げのことで、「雞」は鶏肉。料理名に「豆乳」とありますが、日本で云う豆乳とはまったくの別物で、中国語で「豆乳」とは正確には「豆腐乳」または「腐乳」と云われ、豆腐に麹をまぶして塩水の中で発酵させたものを云います。例えれば大豆で作ったチーズみたいなものです。日本で云う豆乳は中国語では「豆漿」と云います。「豆乳雞翅」の「雞翅」は手羽先ですね。これが「蒜香雞翅」になると、にんにくとネギの手羽炒めです。ハツは「雞心」。「胸肉」は日本と同じ字ですが、ササミは「小里肌肉」、もも肉は「雞腿」と書きます。「鹽酥雞」の「鹽」は塩の旧字体、「酥」はさくさくという意味で、さくさくしてる塩味の鶏と云うことになります。鶏の唐揚げだけ指すなら「鶏排(ジーパイ)」です。「小菜(シャオツァイ)」は漬物など小皿料理で、たいてい自分で並べられてる冷蔵棚からとるシステム。「小菜自取」と書かれてたら「自分でおかずをとってね」と云うイミ。小菜分はお店の人が会計するとき加算します。台湾式の鉄板ステーキでは「牛排(ステーキ)」「沙朗牛排(サーロインステーキ)」「猪排(豚ステーキ)」などが有りますね。台湾式ステーキは、ステーキそのものだけでなく、付け合わせやソースが鉄板の上で一緒に焼かれます。それによって肉汁と旨味が凝縮されて、独特の風味を加算してるのですね。またナイフとフォークに不向きな白米ではなく、麺が付け合わせに使われてます。洋式のソースはバターを使ったものが多いですが、台湾では醤油やサツマイモ粉などを使って独自の味に仕上げてます。ソーセージ系では「大香腸(ダーシャンチャン)」と云う台湾ソーセージがもっともポピュラーですね。香辛料がしっかり効いてスパイシーです。「大腸包小腸」はデカい台湾風豚肉ソーセージをもち米入りの腸詰で包んだものです。鳥肉のウィンナーは「爆漿黄金雞腿捲(ジャンバオジンジャンジートゥイジュワン)」と云います。ソーセージではありませんが、鶏の皮を巻いてスティック状にして焼いたものに「黄金雞肉巻(ホワンジンジーロウジュワン)」があります。屋台系では「炒栗子」が甘栗、「醤烤魷魚」がイカ焼き、「蔥抓餅(ツォンズワピン)」はネギが入った生地を焼いて具を挟み、醤油だれを塗ってます。「刈包」は豚角煮バーガーです。「蛋黄芋餅」はタロ芋団子の中に卵の黄身とロウソンと呼ばれる肉でんぶが入ってます。「茶葉蛋」はジャスミン茶やウーロン茶、紅茶、プーアル茶などで煮込んだ卵のこと、「香酥芋丸」はタロ芋をすりつぶしたものを丸めて揚げたお団子です。アイスクリームは「叭噗」、「花生捲」はピーナッツロールのことで、ピーナッツは塊にしてからカンナで削って粉にします。タロ芋クレープ生地にピーナッツ粉をまぶして、さらに「叭噗(アイスクリーム)」とパクチーを載せて巻いたのが「花生捲冰淇淋」です。ところで台湾夜市の果物(カットフルーツ)買わない方がいいです。ものすごく高いです。私も士林夜市にタクシーで行っとき、運チャンから注意されました。それと夜市のカットフルーツは切ってから時間経ってるの多いです。特に士林夜市は外国人観光客が多いので、入口近くの果物屋はボッタクリもいいとこと思ってください。フルーツはスーパーで買うのがイチバン安いです。ジュース類の氷、屋台では水道水で作ってある可能性大なんですが、台湾の水道水は飲めません!。滷味(ルーウェイ)薬膳の沢山入った醤油ベースのスープでさまざまな食材を煮込んだもので、屋台の定番料理ですね。ところが夜市の滷味は調理した後、長時間そのまま置いてるケースがほとんど。買っても再度加熱しないので、夏場は特にキケンです。夏場の屋台で「醤烤魷魚(焼きイカ)」買うのもキケンが伴います。食材が外にそのまま置いてるし、イカに限らず海鮮ものは要注意です。また台湾夜市で夏場にミルク入ってる飲み物もお勧めしません。ときとしてミルクが腐ってることがあるんです。冷蔵庫の無い環境で保存してるからで、アイスボックスに入れて保管してても、そのアイスボックスに氷なんて入ってません。夜市の屋台でもっとも注意しなければならないのは、値段が表記してない屋台です。観光客で言葉が分からないととんでもない高値つけてくるのです。先ず値段を確認して、店員さんがハッキリ値段を云ってきてから買ってください。台湾に「苦茶(グーチャー)」と云うお茶を飲ますお店があります。苦茶は漢方が入った真っ黒いお茶で、滋養強壮、便秘、下痢などに即効性があるのですが、少し飲んだだけで吐き気が襲うくらいの苦さです。台湾のコンビニは店内飲食(イートイン)できるところがあって、日本と同じように おでんなんかが売られてます。コンビニやスーパーでの会話では、「要微波嗎?」と聞かれたら「温めますか?」です。必要な時は「要(ヤオ)」不要な時は「不要(ブヤオ)」です。買い物して会計時に「發票印要嗎(ファーピャオ イン マ))」と必ず聞かれます。これは「レシート」いりますか?と云うイミで、要るときは「要(ヤオ)」、要らなければ「不要(ブーヤオ)」ですが、台湾のレシートは宝くじになってるのです。コンビニなんかのレジ横には「レシート寄付箱」があります。もし当選したら寄付しますの箱です。「買1送1」は1個買ったら1個タダ(つまり半額と一緒)「第2件6折」は同じ商品を2つ買う場合、2つ目は4割引き「5折」は5割引きで半額「任選四様50元」は4つ自由に組み合わせてトータル50元と云うイミ。「自助装袋區」は「自分(セルフ)で袋に入れるところ」のことです。台南の孔子廟から直ぐのとこに「窄門珈琲館(コーヒーショップ)」と云うお店があります。このお店に入る通路が異常に狭いことで有名なんですね。あまりの狭さに、知らずに通り過ぎてしまう人も多い。女性でも真っ直ぐ向いて通り抜けられない狭さで、身体を横にしてやっとすり抜けられる狭さです。この極端に狭い通路を抜けると、右側にお店に続く階段が見えてきます。店内に入ると別世界。クラシックな内装の心地いい空間が広がってます。不思議なお店でしょ?ちなみにアメリカンコーヒーが欲しいときは「美式咖啡(メイスーカーフェー)」、ラテは「拿鐵(ナ~ティエ)、アイスは「冰(ビン)」ホットは「熱(ルー)」は先に述べた通りです。
Oct 11, 2024
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台湾で使う中国語はいわゆる北京語ベースの台湾華語です。ただ台湾を始め香港やマカオで使われてる(書かれてる)繁体字と違って、今の中国では簡体字を使いますね。シンガポールも簡体字です。例えば「ありがとう」は繁体字だと「謝謝」ですが、これが簡体字だと「谢谢」になります。私は上海語の読み書きはできるのですが、発音はできません。それに加えて簡体字を使う中国では全く言葉が分からないのと一緒です。だったら繁体字を使う台湾に行くなら上海語ができるのだからOKかと云うと、それもダメなんですね。料理メニューくらいは判読できますが、台湾は北京語ベースなので理解できないことが多いのです。上海語は、上海とその周辺の華東地域の一部で通じる言葉でしか過ぎません。上海人は上海語が喋れない中国人を「外地人」(田舎者)と呼んで馬鹿にして、上海の市場で北京語で買い物すると高く売りつけられたりします。どれくらい北京語と上海語が違うかと云うと、例えば「彼ら」を北京語で書くと「他们」が上海語では「伊拉」。「あなた」は北京語で「你,您」が上海語は「儂」。「しかし」は北京語で「但是,可是」が上海語は「必过」。「誰が」は北京語で「谁」が上海語では「啥人」と全く違うのです。そもそも日本では中国語の標準語と云うことで「北京語」と呼んでますが、北京人が話す中国語も標準語とは云いがたく「北京话」という立派な方言なんです。中国の方言は大きく分けて7大方言と云われてます。「北方語」「呉語(上海語・蘇州語)」「粤語(広東語)」「贛語(南昌語)」「湘語(長沙語)」「閩語(福建省、台湾)」「客家語」の7つです。さらに地方によってもっと細かく言葉が分かれます。これに加えて中国では55の少数民族が暮らしており、少数民族が使用する言葉はまた違うのですね。北京人が喋る中国語は語尾が「アール」という巻き舌音になるのが特徴で、口全体を使って発音しますが、上海語は日本語と同じように口の前部分を使って発音し、標準語に比べ四声もはっきりせずに抑揚の少ない方言と云われてます。なので北京人が上海人同士の会話を聞くと聞き取れないことが多いです。ところが呉語として分類されている「上海語」と「蘇州語」もそれぞれ違いが大きく、上海人と蘇州人ではコミュニケーションが困難と云われてます。上海人は上海語が喋れない中国人を「外地人」と呼んで馬鹿にしてると述べましたが、ぢゃあ上海語ができないと上海で生活できないかって云うとそんなことはありません。上海は人口2,000万人以上を数える大都市ですが、外国人や中国全土からの出身者も多く、街中で上海語を聞く機会もそれほど多くありません。上海語を話せなくても北京語を話せれば生活に困りません。上海学校でも北京語で教育してるので、上海人でも子どもたちはみな北京語なんです。とにかく日本語だったら、方言でも他の地方の人もある程度理解できますが、中国語の方言はほとんど外国語と同じなので厄介なんですね。なので、これから中国語を習おうって方は北京語以外に選択肢がないワケです。私みたいに読み書きだけでも上海語ってのはガラパゴス人間なんですな。中国には標準語である北京語を話せない人が約4億人いるらしく、政府は全国民が北京語を話せるように普及活動に努めています。ちなみに中国語の料理メニュー判読はとても簡単です。「麺」は分かりますね。この「麺」の前に麺の種類や具材がひっついてます。例えば、山西省発祥の麺で、包丁で削る麺が「刀削麺」。中国四川省発祥の麺で、辛味を利かせた挽肉やザーサイの細切りなどをのせた麺が中国本土では「担担面」(簡体字)、台湾では「擔擔麵」です。「ギョーザ(水餃子とか蒸餃子)」は「餃子」。中国式の皮が厚いのを焼いたのは「锅贴(鍋貼)」。皮が薄い日本風の餃子は「日式餃子」(繁体字)。ブタマンは「小笼包(ショーロンポー)」ですね。前菜のことは「冷盘 (冷たい皿)」とか「凉菜(冷たい料理)」、「拼盘(盛り合わせ)」と云います。ピータンは「皮蛋」ですね。「蛋」は卵のことです。スープは「汤、湯」で、これの前に食材などがくっつきます。「サンラータン」は「酸辣湯」、つまり「酸(すっぱい)」+「辣(辛い)」+「湯(スープ)」と云うワケです。このスープに麺が入ると「酸辣湯麺」。お料理は基本的に「蒸す」か「焼く」か「煮る」か「揚げる」か「炒める」になります。「蒸す」は「蒸」、「焼く」は「烤」、「煮る」は「煮」、「揚げる」は「炸」、「炒める」は「炒」です。これに食材の名前をくっつけるだけ。「紅焼蝦仁」の「紅」は醤油によって赤茶色になった料理の色を云い、「焼」は加熱した材料をスープで煮詰めることで、「蝦仁」はむき身の小海老のこと。これが車海老だと「明蝦」になるので「紅焼明蝦」です。さらに「紅焼」ではなく「乾焼」になると「乾焼蝦仁」でエビチリになります。四川料理の鶏肉とピーナッツの炒め物は「宫保鸡丁」。チンジャオロースーは「青椒肉丝、青椒肉絲」。「青椒」がピーマン、「肉絲」が豚肉の細切り。「肉」は豚肉で、牛肉は「牛肉」と書きます。スブタは「咕咾肉(古老肉)、香醋肉塊」。フカヒレスープは「魚翅湯」。かに王は「芙蓉蟹」。上海焼きそばが「上海炒麺」なら、五目チャーハンは「揚州炒飯」。「揚州」は江蘇省の土地の名前ですね。ジャージャー麺は「炸醤麺」。八宝菜はまんま「八宝菜」。北京ダックは「北京烤鴨」です。こんな風に食材と調理方法が日本の漢字に近いので判読は難しくないのですね。台湾旅行計画されてる方へ。2025年の6月30日まで、台湾政府が「遊台湾金福気」と云うキャンペーンをしています。台湾を訪れる外国人で、滞在が3~90日で、かつ団体旅行や台湾観光署の奨励補助金を利用したツアーでなければ(個人旅行)誰でも応募できます。抽選で5,000元 台湾$(約23,000円)のホテル券かICカード(電子マネー)が当たるのです!申し込みは台湾到着の7日前~1日前に日本でエントリーして台湾空港の到着ロビーで抽選。当選するとその場で景品引き換えと云うシステムです。ICカードは電子マネー:悠遊カード、一卡通(iPASS)、icash2.0(愛金卡2.0)のどれかで、以前は自由に選択できましたが悠遊カードの希望が多すぎて、今はその時有るものになったらしい。ホテル券は1,000元 台湾$券✕5枚になります。今年の当選商品数は15万人分らしい。詳しくはいらっしゃいませ・遊・台湾で検索してください。ちなみに悠遊カードなどは後から金額が足りなくなったら台湾の小銭(硬貨)などを機械でチャージできて小銭の始末にいいのですが、このイベントで配られるICカードはチャージできないので使い切る必要があります。
Oct 10, 2024
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舞妓さんや芸子さんで有名な京都の花見小路や先斗町。今では1年を通じて外国人観光客が団体で押し寄せて、たいへんな賑わいですね。しかし実際に舞子さんと出会えるのは極めて稀で、出会うために何時間もまたなくてはならないケースも。それに運良く出会えても、彼女らの歩くペースはとんでもなく早くってアッという間に通り過ぎていきます。そもそも舞子さんや芸子さんに了解もとらずバシバシ写真撮って、肖像権侵害にならないのかしら?東京、渋谷スクランブル交差点近くの"ハチ公"銅像前も外国人観光客が記念写真撮るために列を作ってますね。やっぱ映画の影響ってのは大きい。道頓堀と云うと「グリコ」の看板で有名な大阪 南の繁華街。昨年の阪神タイガース優勝のときも、ここの道頓堀川に「とんぼりリバーウォーク」から飛び込んだバカものがいましたなぁ。他には「かに道楽」や「金龍ラーメン」、「串かつ だるま」のオッサン看板など、ケバケバしい看板も道頓堀の象徴。大阪 北(大阪駅 梅田)と違って上品さのカケラもない。そんな道頓堀、大阪人は若い人のデートか、かに道楽で蟹でも食べに行かない限り、まず行くことはありません。とにかく混んでるのと、地方からの旅行者が多すぎるからです。バブル前は松竹新喜劇の「中座」や「浪花座」もありましたが今はもう無いし、「松竹座」は残ってるけど、ここは御堂筋から行けますからね。大阪にありながら、普段、大阪人で道頓堀に足を運ぶ人はほとんど居ないんぢゃないでしょうか。特に年末の道頓堀から心斎橋に至る商店街なんて、ただ人に押し出されに行ってるようなもので、先ず足を踏み入れることはありません。私が通ってるリハビリ施設の若いスタッフが先日、そんな道頓堀界隈に用事があって通過したらしい。「いゃ~あ、外国に来たのかと思いました」。「そんなん云うたって、アンタは韓国一度行ったきりやんか」。「そうなんですが、中国人から韓国人に混じって欧米の旅行者だらけで、日本人の方が少ないんですよ」。え~そんな状況なの!で、YouTube で今年の道頓堀の動画を確認したら...なんぢゃ、こら!バンコクの中華街並の欧米人だらけさ。以前は大阪に来るのは中国人や韓国人と云ったアジア系が多くって、欧米人は東京が多いと云ってたのに、何が彼らの琴線にふれたのか。調べてみると大阪を訪れる外国人は、大阪駅周辺よりも道頓堀の方がダントツに多いって。欧米人のセンスってこんなん?こりゃあ地元、大阪人の足はもっと遠のきますな。考えて見れば先日行ったバンコクの「ソイ(辻)11」も欧米人だらけで、商売人以外、地元民の姿は無かった。まぁどっちにしても地元が潤えばそれでいいけど、日本全国いたるとこがこんな状況なんでしょうね。後は行政と商店会が道路清掃など頻繁におこなって、旅行客が気持ちよく過ごせる環境整備に務めることですね。そんだけ地元が潤って税収も増えてるのですから、オーバーツーリズムだって文句云ってないで。
Oct 9, 2024
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