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うちの地域の夏祭りが25日の土曜日に行われてました。なんで天神祭と同一の日にするの?みんな天神祭のハイライト、3,000発の奉納花火 見たいだろうに。日本三大祭りのひとつ、大阪天満宮の天神祭は1,000年以上の歴史をもつ大掛かりなお祭りです。私の古い楽天ブログのお友達で、今はFacebook なんかで活躍されてる石見一女さんは、この天神祭の神事「陸渡御」を昔からお世話されてるひとりなんですね。私が天神祭に行ったのは、遠い昔の1回だけ。なにしろ芋の子を洗うものすごい人出。あのあたり一帯は、天神祭になると電波の取り合いで、スマホが繋がりにくくなるくらいです。天神祭そのものは24日の「宵宮」、25日の「本宮」、2日間にわたって開催されるお祭りですが、先立つこと23日には日本一長い商店街「天神橋筋商店街」を"ギャルみこし"が練り歩きます。こっちも見応えあって、何よりピチピチお姉ちゃんのお神輿かつぎが楽しいです。本番の船渡御は、大川に約100隻の船が行き交い、かがり火たいた船上で大阪を代表する大槻能楽堂の面々が能の舞いをおこないます。酷暑のなかでかがり火ですから、船の上はタイヘンな暑さでしょうね。そんな今年の天神祭、ニュースで観てたら...ここにも大勢いますがな。外国人観光客です。よくまぁ、海外でこんな雑踏の中に入れ込めるものです。大阪人の私よりよっぽどバイタリティがある。天神祭奉納花火 2023年の様子です。
Jul 27, 2026
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私もそうでしたが、若い方たちは夫婦がともに歳とって、どちらか片方が介護を必要とするなんて考えてもいないですよね。しかし人間いつかは死ぬものだし、夫婦そろってある日ポックリなんて考えられない。日本の65歳以上の高齢者は3,619万人で、総人口に占める割合は29.4%にも登ります。今でも介護要員の不足などで、高齢化社会の介護問題は深刻なのに、これが団塊世代や団塊ジュニア世代の高齢化により介護問題の深刻さがますます増すワケです。ここで問題なのが核家族化になって、しかも高齢者が医療の進化などで長寿化していくなかでの「老老介護」です。ときどきニュースなどで報じられてる、老老介護に疲れて介護者が介護受けてる連れ合いを殺してしまったり、心中したり。身近で介護してない方には信じがたい出来事ですが、介護者自身が加齢で体力が低下しているため、移乗や入浴介助などが重労働となり、慢性的な疲労や睡眠不足に陥ったり、さらに「他人に迷惑をかけたくない」という思いから外部へのSOSが遅れがちになると云う事実。もっと悲惨なのは介護者自身も認知症の初期症状があるとき、薬の管理や火の元の確認ができず重大な事故や詐欺被害につながる恐れがあります。こんな話題を取り上げたのも、私のヨメが長期入院してて今は自宅に返すことを病院に止められてるけど、本人は1日でも早く自宅に戻りたがってるからです。私は今月の終わりで76歳、立派な高齢者です。これでヨメの体調が上向いて自宅に戻すと云っても簡単な話ではありません。先ず、自宅に介護できる設備を整えることから始まります。ヨメは寝たきりで酸素吸入でかろうじて命を永らえてるので、酸素供給の設備、これは私が就寝中でも酸素が何かのはずみで途切れた場合の通報装置までいります。そしてベッド脇には簡易トイレや食事なんかをとるためのキャスターつきのオーバーベッドテーブル(ベッドサイドテーブル)など点数が多い。そして定期的な診察のために通いの医師と看護師の確保が必須になります。私の住んでる地域は島のような構造の特殊なとこなので、通ってくれる医師を見つけるのは至難なんですが、入院してる病院から紹介してくれます。他に日常の世話を手助けしてくれる介護士も必須ですが、これは大阪の場合「地域包括支援センター」と云うところが斡旋してくれます。私も「要支援1」の身なので既に地域包括支援センターに担当者がいますのでこれは問題ありません。それでも病院の説明では介護する家族は最低2人必要で、このふたりが交代で昼夜を問わず介護し続ける覚悟が必要だと。これが老々介護での悲惨なニュースと結びつくのですね。それくらい高齢者が自宅で高齢者を介護することはハードルが高いのです。入院患者がど~してもと希望しても、一時の感情に負けて簡単に踏み切ることはできません。介護側が倒れてしまったら共倒れなんですから。そう云うことで、今のところヨメは入院したまま病院の看護ケアを受けさせてます。ただ現在入院してる病院は自宅から遠くって、車で1時間、電車だと1時間半もかかってしまうため、現在近場で看護ケアを受け入れてくれる病院を、今入院してる病院のお世話で探してる最中です。こうしてうまく近くに看護ケアしてくれる病院が見つかったら、そこに入院させ、様子を見ながら最初は1日、次は2日と短期からしだいに長期的に自宅療養を試みる考えです。これによって自宅での介護の問題点もハッキリするし、改善ヶ所もわかってきます。今のところそんな状態ですね。
Jul 26, 2026
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若いころ司馬遼太郎の歴史小説を読み漁った記憶あります。私がもっとも好きな小説は大ヒット作「竜馬がゆく」よりも、明治の壮大な叙事詩「坂の上の雲」や新選組の存亡を描いた「燃えよ剣」でした。とりわけ新選組副長"土方歳三"にスポットをあてた「燃えよ剣」は肩入れが大きいです。しかし数居る新選組隊士で司馬遼太郎がチョイスしたのがナゼ土方歳三だったのか?天然理心流の4代目で局長だった近藤勇をはじめ、新選組最強とも称される天才剣士で、若くして病没した悲劇のヒーロー沖田総司や無外流の使い手で、剣の腕前もさることながら、数少ない明治以降まで生き延びた人物として知られる斎藤一、「北辰一刀流」の遣い手で、若年層の隊士をまとめた藤堂平助など個性派ぞろいだったのにナゼ土方歳三だったのか...ご存知の通り新選組のスタートは京都に上る14代将軍 徳川家茂を警護する「浪士組」に参加することを目的に集まった約250名の壮士から始まります。一行は中山道を進み京都に着きましたが、到着早々、浪士組の発案者である清河八郎がとんでもないこと云い始めます。「われわれの目的は将軍の警護でなく、攘夷の先鋒になることである」と。これでは話がまったく逆転。それで幕府は、浪士組に江戸へ帰るように命じます。そのとき、あくまでも将軍の警護を主張して京都に残留したのが後に局長となった近藤勇と芹澤鴨。彼らは京都守護職 会津藩お預かりの「壬生浪士組」になり、そして「新選組」と名を変えて京都の治安維持にあたったのですね。近藤とともに筆頭局長だった芹澤鴨は、北辰一刀流の達人で腕前は超一流でしたが酒癖が悪く、気に入らないことがあると商家を脅迫したり放火したり。それで規律を重んじる近藤らと対立していくのですが、文久3年(1863年)に近藤や土方歳三らによって暗殺されてしまいました。お話を土方歳三に戻しましょう。司馬遼太郎が土方を主人公に選んだのは、局長 近藤勇が慶応4年(1868年)下総国流山で新政府軍に投降後、板橋宿(東京都板橋区)の刑場で斬首されたのに対し、近藤が処刑された後も旧幕府軍の副長として北関東から会津、そして函館へと転戦し徹底抗戦を続けた最も長く戦い抜いた新選組隊士だからでしょう。近藤は武士にも関わらず、切腹ではなく斬首と云う盗人同然の扱いを受けたのに対し、土方は箱館の最期まで信念を貫き通したまさに武士そのものであることを体現した人物だったからです。土方はもともと武士ではありませんでした。東京都日野市にあたる武蔵国多摩郡石田村の豪農の生まれで、次兄 喜六夫妻の手で養育されて家伝の石田散薬行商の傍ら、厳しい身分制度の中で武士になることに強く憧れ、天然理心流の剣術を学んだのですね。そして文久3年に「浪士組」として上京したのは前述の通り。近藤勇を支えるNo.2として厳格な隊内統制(局中法度)を敷き、規律を破った隊士には切腹をも辞さない容赦ない態度で組織を統率したことから「鬼の副長」の異名で恐れられました。司馬遼太郎は土方を評し、新選組時代は京洛で過激志士達を追い回し、戊辰戦争では幕軍残党の将官として戦いに明け暮れる日々を送った。「芸術家が芸術そのものが目標であるように、喧嘩そのものが目標で喧嘩をしている」と評し、明確な政治思想も持たず、さながら芸術的興奮を求めるように戦い続けたその生き様を「喧嘩師」と形容してます。徳川慶喜との主従関係からいつのまにか解き放されて、新撰組からも離れ、自らの意志で行動するようになり生き生きして見えるひとりの男。ここにはカラー分けできない次の時代に適合しようとした武士の姿があるように思えます。江戸城無血開城後も土方はあくまで抗戦を続けることを譲らなかった。その後大鳥圭介ら幕府陸軍残党と共に各地を転戦した土方は会津に入り、奥州諸国を奔走して諸侯を説得し、奥州同盟を固めさせます。そして江戸を脱走した幕府海軍副総裁 榎本武揚率いる艦隊と合流するのですが、同盟した諸藩がどんどん腑抜けになって同盟は崩壊。土方は艦隊とともに風浪を切り開いて北上し、一躍北海道を目指すことになるのです。北海道へ上陸した一行はまず函館を占領し、函館郊外にある西洋式要塞「五稜郭」に本営を築きます。さらに松前城を奪取すると北海道全域を支配下に置き、榎本を総裁とする蝦夷共和国を樹立させたのですね。この動きに新政府は速やかな攻伐を決定、最新鋭の装甲艦を駆使して猛攻を仕掛け榎本軍はどんどん衰退していきます。しかし酸鼻を極める数多の戦闘で、土方は天賦の才と云える采配で鮮やかに部隊を指揮。寡兵をもって官軍の進撃を押し留め続け函館政府軍唯一の常勝将軍として名を馳せたのです。多勢に無勢、いくら土方が獅子奮迅の働きをしても、劣勢はくつがえりません。土方も五稜郭まで退くものの、もはや敗戦は避けられぬことを痛感し己の最期を考え始めます。敵砲が豪然と火を噴く中、土方は新選組の残党とともに吶喊攻撃を敢行するものの、寡勢の不利を覆すことは叶わない。覚悟を決めた土方は、参謀府に斬り込みをかけんと単身敵陣に突撃し、官軍の一斉射撃を浴びて腹部を銃弾で撃ち抜かれ、落馬してまもなく絶命するのです。現在、函館市若松町の「土方歳三最期の地碑」が建つ場所 がその最期の地とされています。土方は、正規の武士の出でないだけに武士というものに鮮烈な理想像を持ち、加えて故郷の多摩が天領で源平時代に剽悍をもって鳴った坂東武者の発祥の地でもあることから、その理想を前にして容易に命を投げ出すことを己の信条としてました。自らを思想もなければ天下国家のことも頭に無く新選組を天下第一の喧嘩屋に育て上げる職人であるとし、人を斬るためのみに作られ余計な存在目的を持たない剣のように、武士は小理屈を持たず粛然と節義のみに生きるべきと考えています。そのため隊規の紊乱を寸毫も許さず、隊律を乱せば即死罪という苛烈なまでの掟で隊士を縛り上げ、戦慄恐懼をもって統率したのですね。まことにもって、戦国武将のような考え方です。
Jul 25, 2026
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女性が「セクシーだね」と云われると、褒め言葉でなく軽い女に見えるって云われてると思い込んでしまう人も多いですね。こうなるとセクハラの世界。なので日本人男性はうかうかこの言葉を発せない。しかし欧米人に「セクシーだね」と云うとメチャメチャ喜びます。欧米で「セクシー(Sexy)」は相手に対する褒め言葉としてポジティブに受け取られるのです。それは外見だけでなく、知性や自信、振る舞いを含めた大人の魅力を表現する最高の褒め言葉なんですね。「セクシー」は単に露出が多いといった意味やメイクだけでなく、その人の「自信に満ちた態度」「知性」「姿勢の良さ」「声のトーン」「しなやかな身のこなし」に対して使われることが多い言葉です。「美しい」や「可愛い」とは異なり、その人自身の生き方や内面の余裕が空気感として表れてるからこそ出る言葉なんですね。欧米では「セクシー」は女性だけでなく、男性に対しても使われます。男性に云う場面は「男らしさ」「色気」「知性」「ユーモア」を総合的に褒めるときに使いますね。知的な会話ができることや、ユーモアのセンスがあること、才能に溢れていることはもっとも大切なセクシーな要素とみなされてるのです。そしたら大阪のオッサンの「ボケ」「ツッコミ」もセクシーの部類かいな(笑)もちろん使う場面には注意!ビジネスシーンや初対面でいきなり云うと、それこそセクハラとか軽薄な印象を与えてしまうのは世界共通。日本の女子高生からとったアンケートでは「カワイイ」は最高の褒め言葉だけど、セクシーは「気持ち悪い」「バカにされている」「セクハラ」の声が大多数です。もっとも女子高生でセクシーな子おるんかいな?いまどきは、おるんかなぁ。と、まぁ相手やシチュエーションにもよるけど、セクシーと云われるのは、自分でも気づいていない隠れた魅力が外に溢れ出ているのですからポジティブに受け止めて。とは云え、欧米と日本では受け止め方が違うこと多いから、日本で使うには難易度が高いですね。欧米人と接触がない日本人男性には「死ぬまで使わない言葉」の筆頭か?言葉と云うのはムツカシイ...
Jul 24, 2026
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コンピュータと云うのは、性能の良し悪し、古い新しいに関わらず2進数で命じられた処理を行ってます。2進数と云うのは普段私たちが使う10進数と違い、「0」と「1」の2つの数字だけで数を表現する方法で、数が「2」になる瞬間に桁が上がります。電気のON/OFFで処理を行うコンピュータにとって最も扱いやすいのですね。物理的に云うと、電圧が「無し=0」、「有り=1」と云うことです。ここで云う電圧とは例えば「5V」と云った特定の電圧で、中途の2Vとか3Vは存在しません。コンピュータが理解できる2進数のことを「機械語」と呼びます。この機械語をひとつひとつコンピュータが読み込んでは、処理していくのですが、現在のCPU(コンピュータの頭脳)はこれを64個並列に、しかも一昔前では考えられないスピードでおこなうため、どんどん性能があがっていくのです。ところが、この機械語は述べましたように「0」と「1」の組み合わせですから、とても人間が目で見て理解できるものではありません。理解できないものを開発できるワケがない。それで「コンピュータ言語」と云うものが開発されました。これは人間が理解しやすい言語で、これで書いたプログラムをコンピュータに翻訳させて2進数に置き換えるのです。しかし、いくらコンピュータに翻訳させると云っても、プログラミングする人が勝手な構文をそれぞれ書いたのではコンピュータの翻訳が書いた人によって違ってきます。それで「コンピュータ言語」は、一定のルールに従った文字列の組み合わせで表現されるのですね。文字列は基本的に英文が使われますが、英語の単語そのものとも異なります。で、このコンピュータ言語ってのは、使う場面によって幾種類もあるのですね。種類によって構文も使う単語も異なります。AIだってコンピュータのプラグラムのひとつですから、と~ぜんコンピュータ言語で書かれてます。AIでは「Python(パイソン)」と呼ばれるコンピュータ言語を使ってます。この楽天ブログは「CSS」と云うWeb ページのデザインを定義する言語の中で、「HTML」と云うWeb ページの骨組みを作る言語で書かれたものを、「JavaScript(ジャバスクリプト)」と云うWeb サイトに「動き」や「対話的な機能」を加える言語を通してアップロードされてます。他にはデータベースから必要なデータを検索・抽出・操作するための言語として「SQL」と云うのがあったり、処理速度が非常に速く、家電やOSなどハードウェアに近い制御を得意とする「C」や「C++」と云う言語、古くは科学技術計算に向いたプログラミング言語「Fortran(フォートラン)」や金額計算など事務処理用に広く使われていた「COBOL(コボル)」なんて言語もよく使われてました。このようにプログラミング言語ひとつでオールマィティではなく、使う場面によって得手不得手があるのですね。私もいっときは「C++」や「JavaScript」を勉強しましたが、使う場面が無くなってきれいさっぱり忘れてしまいました。今では「HTML」と「CSS」をかろうじて覚えてるだけです。こうした多種多様なプログラミング言語の中で、「COBOL(コボル)」が開発されたのは1960年と非常に古い言語です。1954年に開発された「Fortran」に次ぐ古さでしょう。しかしCOBOLは、金額や利息など1円の狂いも許されない金融・会計システムに特化しており、小数点以下の計算を誤差なく処理できるのです。そのため銀行の勘定系システムやクレジットカードの決済処理、官公庁では年金、税務、住民情報などのシステム、一般企業では給与計算や人事管理、受発注・在庫管理などの基幹システムなど幅広く使われた言語なんですね。私が長年勤めてた会社の大型コンピュータも、このCOBOLが稼働してました。ここで2025年、イーロン・マスクがトランプと仲違いする前、彼が率いて連邦政府の無駄な支出や過剰な規制の削減に取り組んだ政府機関「DOGE(政府効率化省)」のことについて。アメリカの社会保障局と云うのは年金の支払いや社会保障番号の管理をしている機関で、ここで稼働してるコンピュータ・システムが支えてるのは6,500万人を超える受給者の年金です。そして、この社会保障局のシステムは6,000万行の全て「COBOL」で書かれてました。これをイーロン・マスクは、生成AIを使って、この古いCOBOLのコードを数ヶ月で新しい言語に書き換える作業を命じたのですね。AIは古い言語を読み取って、新しい言語に変換できるからです。結果は...みごとに失敗しました。確かにAIはコードが読めました。しかし結果は何度テストしても、期待したコードは生成されなかった。では何が壁になってるのか?原因はふたつです。ひとつはAIが勝手に古いコードの一部を省略してしまうこともうひとつは同じコードを入力しても、1回目と2回目で違うコードを排出する「ゆらぎ」の問題。なまじ、推論を勝手にするAIだから起こりうる問題だったのです。これが0(ゼロ)からAIにシステムを作らせてれば、こんなことは起こらなかったのですが、それでは仕様を決めるのに何十年の歳月が必要になります。膨大なCOBOLプログラムとそれを処理するデータが、企業や政府機関に長年開発し続けられ今なを稼働しています。メインフレームが世界に1万サイト以上あって、導入から長期間が経過し、技術の老朽化や度重なる改修によって複雑化・肥大化した旧型のレガシーシステムがあります。COBOLは全プログラム約3,100億行のうち約65%の約2,000億行あって、今なを毎年約50億行が増えているのです。ここに日本固有の問題が出てきます。2019年に日本のIT国家戦略を技術面・人材面から支える経済産業省所管の独立行政法人「情報処理推進機構」は国家試験の基本情報技術者試験から「COBOL」を外してしまいました。現場ではまだ必要とされる言語を国が「もう勉強しなくていい」と判断してしまったのです。そうして若手の技術者は誰もCOBOLを学ぶことが無くなった。まだまだ現場では必須の知識が若い世代に受け継がれなくなっていったのです。これこそ現場を顧みない役人の悪癖の最たるものなんですね。IT業界では、経産省が警鐘を鳴らす「2025年の崖」問題がありましたし、それは今も継続してます。多くの企業で老朽化・複雑化したレガシーシステムが残り続けることで、デジタルトランスフォーメーションが進まず、2025年以降に最大で年間12兆円の経済損失が生じる可能性があると云うことです。ところが、この問題はひとり日本だけの問題で、他の国では声高に云われてないんですね。フィリピンのマニラにあるアイルランドに本拠を置く世界最大級の総合コンサルティング企業「アクセンチュア」1社だけで、1,000人を超えるCOBOL専門家が在籍してます。世界的にCOBOLプログラマーは減少しているのは事実ですが、技術者の減少と裏腹にシステムの維持・改修・移行の需要はますます高まっており、希少価値から高賃金で採用されてるケースが多いです。そんなことで海外は言語の新しい古いに関わらず、必要な技術者を育て続け、日本だけが人材のパイプラインを枯らしてしまったのです。京都市は30年間稼働し続けてたCOBOLによる基幹システムを2014年からAI使って刷新しようとしました。その費用80億円以上、そして2度失敗。日経クロステックの報道では最終的な損失は最大99億円に登ると報じてます。京都市民ひとりあたり約7,000円が消え去った計算です。日本情報システム・ユーザー協会の調査では、企業のIT予算の77.5%が、既存システムの維持・管理に使われてました。100万円の予算があっても、新しいことに使えるのは22万円だけです。日本でCOBOLを扱える技術者の平均年齢は50代後半とされています。毎年、約3,000人規模で減っていってるのです。10年で30,000人、これは地方の小さな市がひとつ消えるくらいの人数です。それもこれも情報処理推進機構が国家試験から「COBOL」を外してしまったからです。
Jul 23, 2026
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昨夜からヨメが入院してる病院お泊まりで、帰ってからの更新のため、こんな時間になってしまいました。2017年に広瀬すずが出演したアパレルブランド「アース ミュージック&エコロジー」のTV CM「幸せについて~線路沿い~」篇のこと覚えてらっしゃいますか?彼女はCMのセリフで「人の悪口は云わない。とにかく、人の悪口だけは云いません。私は...幸せになれますか?なれますよね?」ってくだり。このCMが放映されたら、ネット上で「台詞に説得力が全くない」「どの口が云うてるねん」と猛批判。と云うのも、広瀬は2015年に出演したラエティー番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」で、局の照明スタッフに対し「どうして、生まれてから大人になった時に照明さんになろうと思ったんだろう?」音声スタッフの仕事についても「なんで自分の人生を女優さんの声を録ることに懸けてるんだろう?ってすごい考えちゃいます」とステッフを軽視する発言をして大炎上したからです。しかし昔のことより、このCMセリフで違和感を覚えた人も多かったハズ。その違和感の正体は「悪口は云わない」を繰り返すことで悪口を云う人の悪口を云ってるように聞こえたからです。「悪口はむやみに云わない」と云う倫理観やマナー意識が日本人には浸透してますね。そもそも人の悪口を云うことは、影で自分も悪く云われてると云う観念とともに、悪口を云うことでトラブルになることを恐れるのが常人。ところが倫理観やマナーを共有することで社会生活を維持する一方で、人はそこから外れて楽しむことも知ってます。「源氏物語」の作者 紫式部も「もの言ひさがなきやうなれど」=「ものの云い方が下品なようですが」と云い、末摘花と云う姫君の容姿の問題点を詳しく描写してます。読んだ人が「ひどい表現だなぁ」と思いながらも笑ってしまうことを計算した上で書いてるのですね。マナーから外れることであっても、いや外れるからこそ、人を笑わせる力が悪口にはあります。民俗学者 柳田國男は「笑はひとつの攻撃方法である」と述べてます。他人の悪口を云って笑うほど、攻撃的な言語活動はないでしょう。それをパワハラととるか、心を開いて遠慮のない言葉が交わせるかで、双方の人間関係が分かりますね。大阪人はみんなで食事や飲みに行って、ひとりがトイレに立ったあと暫く帰ってこないと、帰ってきたとき相手が女性であっても「ウ◯コしてたん?」と必ず尋ねます。このとき当の本人の答え方はひとつです。「そや、ウ◯コしててん」。たとえしてなくても、これが大阪人の答え方なんですが、なんともえげつない会話です(笑)東日本大震災のおよそ1年前、民主党鳩山内閣の末期、と云っても組閣からまだ半年ほどの2010年、週刊文春に「鳩山首相、ほんにお前は屁のような。ここまでアホとは思わなかった」と云うタイトル記事が掲載されました。「ほんにお前は屁のような」を文春が使うのはこれが初めてでありません。1998年には「戦後最悪の失政内閣-橋本総理殿、ほんにお前は屁のような」と云う記事を掲載してます。「声はすれども姿は見えずほんにお前は屁のような」と姿を見せずに良い声で鳴くウグイスを愛でた都々逸からきた言葉。それが無能な総理には悪口になってしまうのですね。>
Jul 22, 2026
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ヒット曲を自分で歌った動画をYouTube やTikTok なんかの動画投稿サイトに投稿する「歌ってみた」や、同じくヒット曲の振り付けをマネて投稿する「踊ってみた」もたいへん盛況ですね。ユーザーがマネして投稿する曲は、もともと作曲家や作詞家、振付師、それにレコード会社が著作権をもってるものですが、それをネットにアップすることって著作権法違反にならないの?まず「歌ってみた」動画から考えると、誰かの曲を自分個人で楽しむ範囲で演奏したり歌うことは著作権侵害になりません。まぁ、世間一般の常識ですね。では自分が歌った動画をネット上にアップするのはどうでしょう?作権のひとつに「公衆送信権」と云うのがあります。これは著作物をネットなどで不特定多数に向けて送信する権利で、著作権者だけが持つものです。他人の著作物を勝手にネット上に投稿して、他人が閲覧できる状態にしただけでも「送信可能化」したとして公衆送信権の侵害になります。なので他人の曲を自分で演奏したり歌ったりした動画を著作権者の了解を得ずに動画投稿サイトにアップすれば、「原則的に」違法とみなされる可能性があります。「原則的に」と云うのは、アウトにならないケースがあるからです。YouTube やニコニコ動画などの主要な動画投稿サイトは、音楽の著作権団体であるJASRAC(日本音楽著作権協会)と、同団体の管理楽曲を使用していもいいと云う年間包括契約を結んでます。つまり動画投稿サイトが著作権団体にお金を払って公衆送信を許諾してもらってるので、ユーザーが「歌ってみた」動画をアップしても著作権法違反にならないのですね。ただ世の中すべての楽曲をJASRACが管理しているワケではなく、他団体が管理している楽曲を使う場合、動画投稿サイトが契約を結んでいなければアウトになります。問題はもっと深刻で、JASRACと取り交わしている包括契約で対象になるのは曲と歌詞の著作権だけ。アーティストの音源に関する著作権は契約外です。なので自分で演奏したり、歌ったりするのはOKでも、CDの音源なんかを使って投稿することは許されてません。となると「踊ってみた」がヤバイことに。「踊ってみた」動画の投稿を観ると、バックに流れる楽曲はアーティストの音源なのがほとんど。これは著作権法違反になるケースが非常に高いことになります。ただレコード会社側でダンスとともに拡散されるのを狙って条件づきで使用を許諾してるケースも結構あります。たとえば新垣結衣主演TVドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で星野源の「恋」が使われてましたが、レコード会社は「90秒程度」「ドラマ放送期間中」と云う条件をつけて公開を認めてました。ただ「踊ってみた」には「振付師」の著作権問題も発生します。国立病院で長らく療養してるヨメのことですが、今日は私が別の病院受診でヨメ面会時間がかなり遅くなります。そしたらヨメの病室が個室なので、私が一緒に宿泊していいと国立病院が了承してくれました。なので、明日の投稿はいつもの時間ではなく、明日帰宅してからの投稿になりますので、かなり遅い時間の投稿になるかと思います。
Jul 21, 2026
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最近は多くの企業が代表電話番号を告知してなかったり、応対がメールやチャットのみと云うとこも増えてきましたね。電話番号を告知してても、イザ掛けると音声案内で要件ごとに番号入力させられて、やっとオペレーターに繋がったと思ったら「現在、タイヘン混み合ってます。そのままお待ちください」とまた音声案内。この手間なんとかならんものかとイライラさせられます。やっとオペレーター登場と思ったら担当者ぢゃなくて別企業のコールセンターに繋がっててなんやと思わせることも多い。このコールセンターのオペレーターと云うのは、電話対応のプロだけどこっちは直接担当者と話したいと意思表示しないと転送してくれないし。コールセンターのオペレーターが応答するときの決まり文句は「お電話ありがとうございます。〇〇でございます」ですね。アメリカだと「Thank you for calling [会社名]. My name is [担当者名]. How can I help you today?"(お電話いただきありがとうございます。〇〇でございます。本日どのようなご用件でしょうか?)と云うことで日本と変わらない。ここで「もしもし」が登場するのですが、日本のコールセンターのオペレーターは、けして「もしもし」とは云いません。「もしもし」=英語だと「Hello」ですが、アメリカではコールセンターでも使われてるようです。まぁ、私たちの日常の電話でも今どき「もしもし」なんて云いませんね。そもそもスマホに着信したら登録番号か番号未登録、発信者番号非表示が表示されるので、それに応じて対応しますし、未登録や番号非表示だったら応答しないでしょう。「もしもし」と云うのは「すみません」とか「ちょっと」と云うニュアンスの言葉ですが、これは1890年(明治23年)に日本で初めて電話のサービスが開始された当初に生まれた言葉から派生したものです。この時代、電話をかけるには必ず「電話交換手」という局員を呼び出して、繋ぎたい相手の番号を伝える必要がありました。電話の受話器をあげると、先ず交換手につながるのですね。そこで相手の所在や名前を告げると、交換手が電話回線を接続してやっと通話ができるって仕組みです。当時、電話は非常に高価で地位の高い人が使うものでした。そのため、電話交換手は失礼のないように「これから申し上げます(お話しします)」という意味を込めて「申します、申します」と先ず断ってから回線をつないでたのですね。これが略して「もしもし」となり、やがて電話の挨拶として日本中に普及していったのです。そうすると「申す(申します)」は謙譲語ですが、「もしもし」は略語にあたるため、ビジネスシーンや目上の人に対して使うのはマナー違反なんですね。と云うワケで日本のオペレーターは「もしもし」を使わないのです。ちなみに電話交換手と云うのは女性の職業でした。今のコールセンターのオペレーターもほとんど女性ですね。これは「女性の方が声が高いから聞こえやすい」「男性だと利用者とけんかになってしまう」「女性の方が感情をコントロールできるから」と云う理由らしい。政府や公社は、限られた予算の中で電話サービスを普及させる必要がありました。電話の場合、利用者と直接コミュニケーションする場面があり、そこをおろそかにすると利用者が満足しません。そうした問題に対処するために注目されたのが、育ちの良い「ミドルクラス」の未婚女性です。日本で創世記に電話交換手の担い手となったのは、旧士族など高い社会階層の娘たちでした。時代の変化と経済的な理由から働く必要のあった彼女たちは、一定の教育を受け、高い文化資本を有しているものの低賃金で使える労働者として活用されました。しかし、ナゼ「申します、申します」「もしもし」と繰り返すのか?「申します」ひと言でいいぢゃないか。それは日本人が一声呼びを忌み嫌う考えがあるからです。「申します」「もし」と一節だけ言葉を発することが不吉と云う概念があるからなんですね。高知や島根、沖縄など日本各地で、妖怪が動き始める時間に人を呼んだりすれ違うときに「もし」とか「おーい」と一声だけ発するのをタブーとしてきた歴史があるのです。仮に一声のみで話しかけられたら、返事をしてはならない。それは妖怪や悪霊で、取り憑かれてしまうからと云う言い伝えです。このしきたりの根底には、二声と比べたときの一声の不安定さ、さみしさ、そこはかとなく感じられる不気味さがあると云われてます。例えば、ドアをノックするときでも、一度だけだと不穏な空気を覚えるから「ノックは2回」。それで高知では葬儀の出棺のときなど、死者に対して「お~い」と一声だけ呼びかける習慣があるそうです。また、イタチやカラスなどが一声だけ鳴くと火事が起こると云う俗説もあります。「一杯茶」と云って、客が茶を一杯だけ飲んで辞去することも縁起が悪いと云われます。われわれ日本人には「ひとつ」に対する畏怖が染み付いてるのですね。仏式の葬儀で故人の枕元にお供えするご飯(枕飯)「一膳飯」は生者と死者が別々の世界へ行く(縁を断つ)ための儀式として供えられます。
Jul 20, 2026
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平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期を生き、日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきた"藤原定家"の歌にこんなのがあります。「見渡せば 花も紅葉も なかりけり浦の苫屋の 秋の夕暮れ」この歌は漁師小屋のほかには何も無い海辺の寂しさを歌った歌ですが、その光景を定家は「花も紅葉も なかりけり」と歌いました。それによって私たちの心象には、何も無いはずの海辺に突如として花と紅葉が咲き乱れるのです。何も無い空間をあえて「花も紅葉も なかりけり」と詠むことによって、それを聞く者が自ら花と紅葉を探し求め始めてしまう。これが「引き算」という方法を如実に表してます。これが絵画だと余白のある日本画や水彩画でしょう。画面のほとんどが余白ということです。その余白が「何も描いていない」のではなく「書かないことで何かを表現している」。描くものを少なく、一方で表現する何かは大きく。ここに見えない「差」が有ると云う考え方なんです。これが写真だと、不要な背景や要素をボカしたりフレームから外したりして、被写体の存在感を高めるのですね。インテリアのような現代的なものにも引き算の美学が追求されてます。装飾を極力減らし無駄な要素を省くことで、本当に伝えたいメッセージや素材そのものの質感を強調しようと云う考え方です。その典型が日本庭園の「枯山水」でしょう。眼前に広がる大きな海を表現するために、水を張るのではなく、むしろ水を抜くことで表わします。あえて抜いて、そこに仮の物としての岩や砂を置き、岩を島に、砂を波に見立てることによって見る者の心により強く呼び起こす何か。これによって「見えている三次元世界」に、もう一次元の奥行きを加えようとするのです。このような「抜き」と「見立て」と云う方法によって、私たちの感覚できる世界のその奥に独特な超感覚的世界を構築してきたのですね。千利休が確立した茶道はまさに引き算の美学です。限られたスペース(茶室)と最小限の道具だけで空間を仕立て、その瞬間の一期一会を大切にします。これは、華美な装飾や、物質的な豊かさよりも「心の豊かさ」「静寂の中にある美しさ」を大切にする、日本人の精神性を表してるのですね。華道においても、花をたくさん盛るのではなく、数本の花と空間(余白)のバランスで美を表現します。まさに日本文化の「わび・さび」や「間・余白」の精神そのものなんですね。和食も「引き算の料理」と云われますね。素材の臭みや余分なアク、雑味を丁寧に取り除くことで本来の旨味や季節の味わいを引き出している。これがフランス料理やイタリア料理と根本的に違うとこです。スマホやネットによって、私たちは膨大な情報に日々さらされ、常に「つながっている」ことを求め、求められるようになりました。それによって心は休まる暇がなく、ストレスや不安を抱えやすくなっているのですね。情報が洪水のように押し寄せ、モノが溢れかえる時代。「情報過多」によって、本当に大切なものを見失い「モノ」に囲まれながらも、心が満たされないと云う矛盾した状況に陥っている。何かを「足す」ことは誰にでもできますが、物事をシンプルに本当に重要なものだけを残して他を捨てるという「潔さ」が、洗練された美や感動を生み出すのですね。医療の分野でもこの引き算を実戦してらっしゃるお医者さまは大勢おられます。あえて薬を減らすことで、予期しにくい薬の副作用を減らし必要最小限の薬で「ちょうどよい健康」を保つ。それが、医療における引き算の美学なんです。薬を減らすと云うと「治療をやめる」ような印象を持たれがちですが、実際は「この人にとって本当に必要な薬だけを残す」と云う前向きで慎重な判断を要するのですね。
Jul 19, 2026
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年を取ると身体のふしぶしにガタがきて、あちこち痛んだり、調子が悪くなるのはアタリマエです。痛みも不調もだましだまし、うまく折り合いをつけていくしか方法がありません。老化に抵抗するなんて、川の流れに逆らうようなものです。身体の具合が悪くなったとき、病名を云われると却って安心し、「歳のせい」と云われるとムッとする人が多いですが、「身体も自然の一部」なんですよ。例えばガンになると云うことは、老化によって細胞の遺伝子に傷がつき、それが蓄積して、身体にさまざまな障害をおこす「老化現象」のひとつなんです。老化も自身のことだし、ガンも自身のこと。「これも自然の摂理」と考えて、できる限り仲良く付き合っていくしかないのですね。ローリング・ストーンズと云ってもイギリスのロックバンドのことではありません。読んで字のごとく「転がる石」は苔むさないのです。身体も頭もほどよく動かしてサビつかせない。喜怒哀楽を豊かにして、五感をよどませない。気の進まないことに執着しないで、生きる喜びを大切にすること。手も口も感情も感覚も、ほどよく動かし続ける。よく歩くようにすれば、血液が下半身に滞留しないでスムーズに体をめぐり、自分の身体にあった血圧が保てやすくなります。声をあげてアハハと笑えば、表情筋も横隔膜も動くし、呼吸も深くなり、血行がよくなります。美味しいものを食べたり、好きなことに打ち込んで幸せな気分になると、セロトニンやドーパミン、エンドルフィンなど、意欲やモチベーションを高める物質がわいて人生が楽しくなります。すると少々の不調は忘れられる。「よどまないこと」が自然の摂理にかなった健康法なんですね。英語の「ペイシェント(Patient)」のイミは「患者」と云うことと同時に「がまんする人」ってイミももってます。ひとりの人間が死にいたる姿は、周囲の人々の心に深く刻まれます。「あの人は最後まで運命を呪い、人を恨んで死んでいった」ではなく、「最後の最後にほんとうに優しくしてくれて有難うと云って去っていった」と云われるほうが自分にも周囲にもどんだけ救いになるか分かりません。苦しくても、周りを思いやる気持ちだけは持ち続けたいですね。
Jul 18, 2026
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「シロクマのことは考えないで」と云われてホントウに考えない人はいないでしょう。むしろ考えてしまうのが人の性です。「このボタンを押さないでください」と書いてあると、無性に押したくなるのも人の性ですね。高齢になると、人の役に立ってる実感が得られなくなることが多い。見る・聞く能力が落ちる上に身体を動かす能力も充分でないため、周りのサポートを必要とする場面が多くなるからです。特にそれまで主婦として家族を支えてきた、仕事で家を支えてきたと云う自負がある人ほど、現在の状況に満足できません。もはや「仕事をしなくてもいい」と云われたら、最初は嬉しいかも知れませんが、何だか満たされない思いにかられがちです。満足できない高齢者は自分が否定されてると思い込んで「死ねばいいと思ってるだろう」とか「早く死にたい」などと云ってしまいます。しかし一方で家族が仕事や家事を肩代わりしてくれているのは、本当に気を使ってくれているのだと云うことも分かってるのです。そしてヘタに家事に加わって火事を起こしたらタイヘンだとか、炊事をしてもつい時間がかかって食事が遅くなることも分かってます。だから「家事をしたい」とは云えないんですね。それで高齢者は「早く死にたい」と云う発言をすることよく耳にします。家族としては「ネガティブな発言をやめさせたい」「愚痴をなくしたい」と思って「そんな愚痴は云わないの」とか「ネガティブ発言は止めなさい」とか注意しますが、これはかえって逆効果です。「シロクマのことは考えないで」と云われたらかえって考えてしまうのが人の性。では問題はどうすれば解決するのか?それは高齢者にとって身体の負担が少なく、危険が伴わないような、例えば庭仕事をしてもらうとか、何かできることを与えることです。高齢者の中には白内障を患う人も多いですね。それで医師が手術をすすめても、家族が「歳だから見えなくていいです。世話は私たちがしますから」と云うと医師は無理強いできません。しかし病気が進行すると食事さえ自分でとれず、介護が必要になってきます。歳とって耳目が不自由になり、仕事もないと刺激が減り、しだいに認知症に進んでいくんですな。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、仕事なんてしなくても元気でいてくれればと思いがちです。周りは「ムリをさせない」「身体の安全が第一」と考えがちですが、歳を重ねれば重ねるほどTVやスマホ、新聞や雑誌、家族との会話などが楽しみになるので、それを阻害する要因、白内障なんかの手術は本人が希望する限りやってあげた方がいいのです。認知症になりにくい方法としてよく知られてるのが身体を動かす運動をすること。また頭を使うことも有効ですね。ただ、そうするとTVなんかでよく報じられてる「老人ホームでお遊戯をしている光景」を思い浮かべがちですが、ホントウに高齢者でお遊戯をしたいって思ってる人がいるでしょうか?実際は、高齢者はそれぞれに自分のやりたいことが有るのです。そのためには決まった時間にそれをやってもらう習慣をつけること。若い人でも用事が無いと、日がな一日ゴロゴロ過ごすものです。例えば先程述べた庭仕事でも、水やりの時間を決めることによって生活にリズムがついてくるのですね。なんてことを高齢者の私は息子に云い聞かせてたのですが、息子いわく「オヤジくらい趣味だらけやったらやること探す必要ないやろ」だとさ。
Jul 17, 2026
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「不思議なピーチパイ」「シングル・アゲイン」「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「純愛ラプソディ」と云えば私の大好きな竹内まりやのヒット曲ですね。同じ竹内のヒット曲「駅」で歌詞の中に登場する「見覚えのあるレインコート 黄昏の駅」の情景は、今はなき「東急東横線の旧渋谷駅」がモデルになったと云われてます。竹内は優れたメロディセンスと普遍的な歌詞で多くの名曲を生み出し、近年は世界的なシティポップ・ブームの火付け役としても知られています。特に1984年に発表した楽曲「Plastic Love(プラスチックラヴ)」が海外で高く評価され、世界的なシティポップ・ムーブメントの象徴的存在となりました。今では竹内のアルバムは夫 達郎のアルバムとともに海外でも高値取引されて、訪日外国人のファンは日本の中古レコードショップで彼女のレコードを漁ってる始末。私はなぜかこの時代のシティポップ、それも女性歌手に惹きつけられるのですね。もはや古いと云えばそうなんですが、あのなんとも云えない女性の心情をしみじみと切なく歌う姿が好きなんです。シティポップは1970年代後半~80年代に流行した都会的で洗練されたポピュラー音楽のことですね。そもそもシティポップは明確な音楽ジャンルと云うよりは、雰囲気やスタイルを指す言葉です。ジャズやフュージョンなど高度な技術を持つスタジオミュージシャンが制作した非常にクオリティの高いアレンジが施されているのが魅力です。そんなシティポップで松任谷由実、竹内まりやの後を継ぐ歌手として注目されてた女性歌手を覚えてらっしゃるでしょうか?最近はとんと表に出てこないシンガーソングライター。"古内東子"のことです。恋愛を主題にした曲のスタイルから「恋愛の神様、教祖」と称された歌手です。私は彼女の歌が大好き。好きさ加減では竹内まりや以上かなぁ。ところが古内が「はやくいそいで」でデビューしたのは1993年。大ヒット曲「誰より好きなのに」のリリースが1996年と、シティポップの全盛期が過ぎて、コアな信奉者だけが引き続き聴いてると云うような時期だったのですね。もし古内が80年代に現れてたら、当時の音楽シーンを席巻していた松任谷由実や竹内まりやのような存在として、トレンディドラマの主題歌を数多く担当し、「恋愛の神様」として女子大生やOLの圧倒的なカリスマになっていた可能性が高いのですが、出遅れてしまったのですね。古内はライブに力を入れてて、2004年からは「小さなホールの方が観客に言葉をよりダイレクトに伝えることができる」と弾き語りライブを定例化してます。2009年と2010年には批評家の間で「ニューヨークで最高の音質」と評価の高い「ジョーズ パブ(Joe's Pub)」で弾き語りライブを実現しました。彼女はアメリカ留学してたので、英語はペラペラなんです。彼女は「恋について歌えなくなったら歌手をやめる」と断言するほど、経験した恋愛のみを歌うことが最大の訴求点なんですね。そのため女性人気が高く、独身OL音楽の第一人者とまで評されてます。しかしなんですな、この世代の女性歌手ってのは、松任谷、竹内、古内だけでなく、「真夜中のドア~Stay With Me」の松原みきとか「みずいろの雨」の八神純子なんて逸材が揃ってましたなぁ。それでは最後に古内東子の「誰より好きなのに」を♪やさしくされると切なくなる冷たくされると泣きたくなる・・・追いかけられると逃げたくなる背を向けられると不安になる...女性の恋愛感情そのものですねぇ。
Jul 16, 2026
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どんなことでもそうですが、ひとつのことで完結するってことの方が珍しい。その典型が有酸素運動や筋力トレーニングでしょうな。筋トレとタンパク質は切っても切れない関係にあります。筋トレで負荷をかけると筋肉の繊維が分解されますが、その修復の材料となるのがタンパク質です。このふたつを適切に組み合わせることで、初めて効率的な筋肥大と筋力アップが可能になります。よく高齢者のなかには野菜の煮物ばかり食べてお肉やお魚を全くとらない方がいます。そんな方でも毎日「納豆」を食べてるのでダイジョウブと思ってるのかも知れませんが、納豆に含まれるタンパク質は豚ヒレ肉100g のタンパク質含有量約39g に対して、納豆2パック食べても約16g しかありません。鶏むね肉100g で約24g のタンパク質、サバでも約20g 有るのにです。いくら高齢と云っても、イヤ高齢者ほど意識して積極的にタンパク質を摂ること考えないとダメですね。私のような高齢者になると、筋力の維持が何にも増して重要になります。特に私の場合は右関節に人工関節入れてるので、筋力の低下=歩行困難に繋がってしまう。車椅子生活が長引くと、ますます筋力は衰えていって、最後は寝たきり老人です。自家用車と同じで、少しは立って歩けても車椅子の利用者はどんなときでも車椅子に頼ってしまう。なので車椅子生活そのものを極力避けるためにも筋トレが欠かせないんですね。筋トレを行う場合、1日に必要なタンパク質の量は体重1kg あたり1.6~2.4g が適正値です。たとえば体重60kg だと1日あたり約96~144g のタンパク質が必要になります。ただタンパク質は一度に大量に摂取しても体内で吸収しきれません。1回の食事で20~30g を目安に、朝・昼・晩・間食などに分けてこまめに摂取するのが最も効果的なんですね。そして筋トレ後1~2時間は筋肉の合成が最も高まる「ゴールデンタイム」で、このタイミングでタンパク質と糖質を一緒に摂取すると筋肉の回復がスムーズになります。食事時間帯とうまくマッチしなければプロティンで補う方法がいいですね。筋トレは「すばやく動くほうが筋肉がつく」と考えてる人が多いですが、勢いをつけてスピーディに筋トレを行うと全身運動になってしまい、効率的に特定の筋肉に負荷をかけることができません。すばやく動くと、それだけ関節に負担がかかり、ケガのリスクも高まってしまいます。筋トレでは「スロートレーニング」の方がより効果的なんです。腕立て伏せであれば、息を吸いながら3~5秒かけて腕を曲げ、息を吐きながら3~5秒かけて腕を伸します。その際、完全に腕を伸ばしきらないようにし、筋肉から力が抜ける時間をつくらないのがポイントになります。そうすることで筋肉の血流が制限されて酸素不足になり、より筋肉が疲労します。この状態が筋力アップに効果的なことが研究で実証されてます。ウォーキングなどに励んでる人の中には「雨の日でも、調子が悪い日でも、同じ距離を毎日欠かさず歩かないとイミがない」と自分に課して歩いてる人が多いですね。しかし、効果面で云えば、日によって歩く距離が違っても、場合によっては休んでも問題ないんです。とくに健康のためであれば、週末に一週間分の運動をまとめてこなすことでも効果はあります。週末の運動でガンなどのリスクが低下することが、2017年、アメリカの医学雑誌「JAMA」に掲載されてました。これが筋トレの場合、2~3日空けて筋力を回復させた方が効率的だと云うことが知られてます。ムリをしてケガしたら元も子もないですからね。ムリのない範囲で続けていくことが大切です。
Jul 15, 2026
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唐突ですが、1962年(昭和32年)~1965年(昭和40年)までTBS系で放映されてた忍者もの時代劇がありました。大瀬康一主演の「隠密剣士」と云うドラマで、霧の遁兵衛と云う伊賀忍者を牧冬吉が演じて、忍者ブームの火付け役となった作品です。女優の高千穂ひづるの旦那だった大瀬康一は「月光仮面」や「豹(ジャガー)の眼」など当時の人気TVドラマでも主役を演じてた人気俳優でした。この「隠密剣士」で霧の遁兵衛が放つ手裏剣が「卍」の形してます。忍者と云えば十字手裏剣ですが、これの先端途中が90度に折れてて卍形してるのですね。実は、この手裏剣、「隠密剣士」プロデューサー西村俊一のまったくの創作なんです。西村に云わせると、この形状は「先が尖っていては危ないから卍にした」と云う単純なもので、ところがその後に出てきた忍者ものドラマで頻繁に使われるようになり、あたかも実在する手裏剣のようになってしまったのですね。手裏剣は元々日本の剣術や忍術の流派で発展した投擲武器で、海外にこれに類似した武器はありません。しかし現在では、海外の忍者ブームやNARUTOなどのアニメ影響により、海外にも手裏剣術の愛好家や研究団体が存在し、日本と同様に武道の一つとして稽古されることがあります。また、観光客向けのお土産として日本各地の土産物屋でも売ってますね。手裏剣は忍者の主要武器のイメージが強いですが、そんなことは無くて武士の一般的な武器でした。古武術で一般的に使用されている手裏剣は、細長い形状の棒状手裏剣ですね。棒手裏剣の投てき方法は、手のひらにのせ、手裏剣を中指・人差し指・薬指で挟み、剣尾を親指で押さえ、上段構えから打ち込む方法が主で、尖端が上を向くように構えて手から離れた後、尖端がそのまま的を目指して飛ぶ「直打法」と、尖端を逆にして持った状態から「打つ(投てきする)」瞬間に剣を反転させる「反転打法」、そして西洋のナイフ投げなどと同じように手から離れた後、回転して的に刺さる「回転打法」の3つの投擲法があります。直打法では、手裏剣がまっすぐ飛ぶワケぢゃなくて、剣で切りつけるように弧を描いて飛んでいきます。対する十字手裏剣は「車剣」と呼ばれ、読んで字のごとく回転して飛ぶので、どこかの歯が刺さることになります。平たい面が当たる平打ちにならない限り、初心者が投げても当たれば刺さる。一説では、棒状手裏剣が非常に難しいので、誰でも投げれば刺さるように工夫されたのが車剣だと云います。ところが車剣(十字手裏剣)を主体にする手裏剣術の流派はほとんど見当たりません。柔術の高木揚心流に「銛板(せんばん)」と云う正方形の板の角が出っ張って刃先になってる形状の車剣があるくらいです。ほとんどの流派では棒状の手裏剣を使ってるのですね。ナゼ、棒状なのか?「手裏剣」と云う呼び方は「手」の「裏」の「剣」、つまり「掌中に隠し持つことのできる剣」と云うイミです。これが車剣だと手に持つと刃先が飛び出て隠しきれない。当然、懐に忍ばせねばならなのですが、専用の革袋でも用意しないと携帯に不便だし、瞬時に取り出そうとすると刃先で自分の指を傷つけてしまう危険が。これが毒でも塗ってたら、自分で毒にあたってオダブツになります。これが棒状手裏剣だと、束ねて帯に挟んでおくことも可能だし、刃先に毒を塗っていても、まず自分を刺すことは皆無に近い。と云うワケで、古武道どの流派でも棒状手裏剣をメインに稽古しているワケです。手裏剣の有効射程距離は2間~3間と云いますから約4~5m くらいでしょうか。それ以上の距離だと、狙って当てるのが非常に難しいらしい。と、云うことは第一撃で当たらないと、刀を持った相手に踏み込まれてオジャンですな。ど~やら実践的な武器にはほど遠い感じです。
Jul 14, 2026
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近年になって訪日外国人の中には東京の台東区にある合羽橋道具街を巡って、食器などの小物と同時に「包丁」を買い求める姿がよく見かけられるようになりました。訪日外国人が日本の包丁を購入する主な理由は、その圧倒的な切れ味と高い職人技術、そして機能美が世界的に高く評価されているためです。和包丁は刃が薄く鋭角であるため、食材の細胞を潰さずに切ることができ素材本来の味や食感を引き出せますし、中華包丁が主流の国とは異なり、魚用、野菜用、薄刃、刺身包丁など、用途に合わせて細かく種類が分かれていることに驚き、機能性を高く評価しているからなんですね。ひと昔前はドイツ製ナイフが最高評価でしたが、ゾーリンゲンの包丁も今はステンレス製一辺倒です。ところが日本の包丁はステンもあるけど、やはり主力は硬くて切れ味に優れる「鋼(はがね)」ですよね。特にプロの料理人に愛用される伝統的な和包丁は、軟鉄などの「地金」に硬い鋼を鍛造(たんぞう)で接合した素材が主流で、これが鍛冶技術によって作られ、その切れ味と耐久性は「職人の魂を感じる」と訪日外国人は云います。しかし鋼の包丁は放って置くと錆びるし、砥石を使ってちゃんと研がないと切れ味が落ちるけど、欧米人で研げる人いるのかしら?鋼の包丁と云ったら、私には「堺打刃物」しか思い浮かびません。堺打刃物は、大阪府堺市で作られてる刃物です。ここ堺は、今から約2,000年前、弥生時代中期には既に集落が営まれ石包丁が使われていました。世界文化遺産に認定された世界最大の古墳「仁徳陵」は堺の東部丘陵地帯にあり、当時この造営は想像を絶する大土木工事であったものと推察されますが、この工事用に鋤、鍬などの土工具が沢山生産され、職人は集落をつくって住みつき、今では丹南(タンナ)や日置荘(ヒキソウ)などの地名として残ってます。戦国時代の堺は自由都市として大いに栄えていて次第に刀鍛冶が増えていったのですが、天文12年(1543年)ポルトガル人によって鉄砲が伝来すると、堺刃物の優秀な技術はここにも生かされて、戦国時代堺は鉄砲の産地として一気に著名になりました。同時にポルトガルからもたらされたタバコの葉を刻むたばこ包丁が天正年間(1573~)に堺で造られるようになり、徳川幕府は堺極印を附して専売したために、これで堺刃物の切れ味と名声は日本各地へ拡がったのですね。これが後の堺刃物の起源と云われてます。堺打刃物は、丈夫さと切れ味を両立するために、地金(軟らかい鉄)と刃金(鋼:はがね)の2種類の異なる材料を合わせて作られます。ここで熟練の職人による優れた「鍛造(かじ)」と「研ぎ」の技術による研ぎすまされた刃先の「切れ味」を両立させてるのですね。刃物は鍛造だけでは完成ではなく、そこにすぐれた研ぎ職人の技術が無いと完成とは云えません。近年の包丁は、鉄板をくり抜いて刃の部分を削るものが増えていますが、堺打刃物は二つの鉄を打ちながら包丁などの形に仕上げるもので、これにより鍛えられた刃物は硬度が高く、抜群の切れ味が長く続きます。堺打刃物では鍛冶、研ぎ、柄付け(えつけ)と云う工程をそれぞれ専門の職人が分業して作る特徴があります。手技TEWAZA「堺打刃物」Japan Sakai Forged Knife/伝統工芸 青山スクエア Japan traditional crafts Aoyama Squareそんな堺で日本刀が作られ出したのは15世紀の室町時代ころからです。全国を回っていた刀工たちが優れた港町である堺に定住し、本格的な日本刀の製造が始まりました。戦国時代に鉄砲の製造拠点となったと述べましたが、同時に武士たちの需要に応えるため多くの名刀も引き続き打たれました。そんな刀鍛冶は現在でも堺には職人や工房が存在します。たとえば1872年(明治5年)創業の「水野鍛錬所」では、包丁の製造とともに伝統的な古式鍛錬による日本刀の製作が今も受け継がれているのです。日本刀は「折れず、曲がらず、よく斬れる」と云いますが、ヘタに使えば「折れるもの、曲がるもの」なんです。よくTVなんかで剣術の達人が太い真竹や畳を見事に切断してるシーンが出てきますが、これは身幅が広くも鉄の質がよい頑丈な造りの試し切り向きの刀を使ってます。時代劇なんかで、剣客が大勢の敵を峰打ちでバッタバッタとなぎ倒していくシーンが出てきますが、あんな刀の使い方したら曲がるか下手すれば折れてしまいます。なぜなら、刀の峰には焼きが入ってないので、鉄が柔らかく、強く打てばわずかに伸びます。しかし反対側の刀の部分には焼きが入っているので、硬いから伸びない。となれば、片方は伸びて、片方は伸びない。しかも刀の峰側には反りがあります。ここが伸びれば、刃の側に大きな負担がかかり、硬化している刃部にひび割れができてポキッと折れてしまうのです。これを防ぐには、最初から峰打ちを想定して、峰側にも焼きを入れた特殊な刀を注文するしかない。そもそも刀は「斬る」目的で製作されたもので、「殴る」ことは想定してません。ただ正しい使い方をしている限り、滅多に折れるものではありません。鋳物だったら素手でも折れますが、鋼鉄の棒の日本刀は簡単に折れない。ヨーロッパで放映されたTV番組の実証実験では、現代刀でさえ重機関銃から打ち出された50口径弾丸を7発まで両断してから、ようやく折れたくらいです。ヨメの長期入院で毎日見舞いに行ってるため、往復2時間と病院滞在時間を足すと家事ができかねてます。洗濯やお風呂洗いはなんとかできても、広くもない我が家ですが、部屋の掃除がいきとどかない。で、最後の手段でロボット掃除機買いました。幸いワンフロアーのマンションなのと、以前にリフォームして段差をなくしてたので、ロボット掃除機使うにはうってつけ。ところがロボット掃除機と云うのはアメリカのiRobot「ルンバ」一社以外全て中国製です。と思ってたらiRobot 自体が倒産して中国企業に買われてしまった。いゃだなぁ~と思いつつ、他にチョイスが無いのでシェアNo.1のECOVACS (エコバックス) のT80を購入。ローラー式モップを備えてて掃除とともに水拭き両用で、すべてAIが勝手に部屋の状況を判断して掃除するし、バッテリーがなくなったら勝手にステーションに帰って、充電後、再度掃除再開。音も今使ってるダイソン掃除機よりかなり小さいです。ステーションに帰ったら、自動でゴミ収集してくれるので、まったく手放しで他の用事ができます。使い始め、最初に掃除機が複数の部屋をくまなく移動して、部屋のマッピングまでしてくれるのですね。あとはバッテリーがどれだけ持つか?安くない買い物なので、せいぜい働いてもらわないと。
Jul 13, 2026
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お盆と云うのは全国的に8月13日~16日ですが、東京や神奈川、静岡、石川などの一部では1ヶ月早く7月13日~16日ですね。これは明治時代に行われた改暦が関係しています。改暦は明治時代に暦の国際基準化を目的として行われました。改暦に伴って日本の各行事は30日遅れとなり、 もともと旧暦の7月13日に行われていたお盆も、改暦後には新暦の8月に行われるようになったのですね。農業が盛んな地方の7月は農繁期で忙しいため、1ヶ月遅らせてお盆を行ったと云う説もあります。お盆には先祖の霊が帰ってくると云われ、みんな故郷に戻って墓参りしますね。13日の迎え盆では、キュウリを馬に、ナスを牛に見立てた精霊馬を作って盆飾りにします。降りてきた霊はこの馬に宿るのですね。ウチはチャッピくんとミミちゃんが逝ったころは精霊馬と迎え火をしてましたが、そのうち止めてしまいました。怒ってるかな?「迎え火」は夜道をやって来るご先祖さまの霊が迷わないよう、玄関先やお墓で焚くのが慣例ですね。火の代わりに提灯を使用することもあります。「送り火」はお盆の最終日にあの世に戻る御霊をお見送りする習わしですね。お盆は、仏教における 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」が正しい呼び方です。古代インドのサンスクリット語「ウランバーナ(ullambana)」が語源と云われてます。イミは「餓鬼道に堕ちて逆さ吊りにされ、苦しみもがいてる」ことらしい。お釈迦様のお弟子の中で、もっとも神通力の優れた目連(もくれん)が、亡くなった母親がどうしているか透視しました。すると、母親は「餓鬼道」に落ち、逆さ吊りにされて飢えと渇きに苦しんでる姿を察知したのです。なんとか救ってやりたいと釈迦に相談すると「夏の修行が終わる日に、多くの僧侶を招き、心のこもったご馳走を施して供養しなさい」と教えられました。そのご馳走の一部が母の口にも入り、苦しみから解放されるだろうと。目連が云われた通りに僧たちを歓待し、それによって母は地獄から助け出された。お盆とは地獄に堕ちた死者を救った故事に由来する習慣だったのですね。今でもお寺では、お盆に「施餓鬼(せがき)供養」と云う法会を行うことが多いのはこれに由来してます。こうして救われた死者は、嬉しさのあまり踊りだしました。これが盆踊りの起源なんですね。やぐらの周りを輪になって踊る姿は、死者の葬列なんです。福島県いわき市を中心に盆踊りの原型のような行事が残ってます。お盆のいわき名物となってる「じゃんがら念仏踊り」です。1年以内に亡くなった人がいる新盆を迎えた家などを巡り、鉦(しょう)や太鼓とともに祈りの念仏を唱え、踊る慣わしです。先祖の霊が帰ってくるときの「迎え火」や終わりのときの「送り火」は、どちらも家の軒先で行いますが、はるかに巨大なものがあります。京都で有名な「大文字焼き」です。神奈川県の箱根町や栃木県佐野市なんかでも行われてますね。京都の大文字焼き、正しくは「五山送り火」と云います。その名の通り、これは送り火の一種なんです。夏に花火が多いのもお盆が関係してます。江戸中期の1732年、西日本では瀬戸内海を中心に不作に見舞われ、享保の大飢餓が発生します。一節によれば約100万人が命を落としたと云う。また同年、江戸では疫病コロリ(コレラ)が猛威を振るいました。日本中で多くの死者が出たことを重く見た8代将軍 吉宗は両国で行われる夏の納涼祭(川開き)のときに、慰霊と疫神退散のため花火を打ち上げたのです。これが「隅田川花火大会」のルーツなんですね。コレラだけでなく、当時は多くの疫病が発生してました。これらは細菌やウイルスが繁殖しやすい夏場に流行するのが常です。病で倒れた人々を花火で慰め、あの世に送る。それはお盆と結びつき、日本中の夏のイメージとなってくのですね。中国から伝わった思想に、人は生きているあいだ「魂(精神)」「魄(肉体)」とが融合しており、死後にはこれが分離して「魂」は天に、「魄」は地上に行くという考え方があります。これを 「魂魄(こんぱく)思想」 と呼びますが、地上の「魄」を祀るために造られたのがお墓だとされます。お盆になると、天へ行った「魂」はお墓に眠る「魄」の下まで帰ってきます。この「魂」をお墓から自宅へ迎えるためのものが「迎え火」。要するに、お盆に家に帰ってきたのは「魂」だけで、「魄」は依然お墓に残っているというわけです。この「魄」も供養するためにお墓参りをするのです。日本のお盆は、中国から伝わった儒教や道教の伝承や死生観に、仏教や日本古来の信仰が交じり合ってできたものです。まぁ私みたいに信仰心のカケラもない人間でも、お盆くらいお墓参りはしますね。
Jul 12, 2026
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「あらゆる手段を使う」「これは脅しでない」。プーチンがウクライナ侵略に関してウクライナとNATOに度々宣言してきた言葉。「あらゆる手段」ってのはもちろん「核」のことです。第二次大戦以来、一度も使われたことのない核ミサイルをウクライナに発射することも辞さないと身の毛も凍ることを云う。ストックホルム国際平和研究所2026年のデータによると、ロシアの核総保有数は約5,580発で、うち現役配備は約1,710発。対するアメリカの総保有数は約5,042発で、うち現役配備は約1,770発と拮抗してます。このうち大陸間弾道ミサイル(ICBM)など「戦略核」ではなく、短距離・局地戦用の戦術核兵器ではアメリカのは約200発程度なのに対し、ロシアが保有する戦術核は推定約1,400~1,500発と大きく水をあけてます。これは核戦争=国が滅びる=地球壊滅と云うスタンスのアメリカと、局地的な紛争でも積極的に核兵器を使うと云うロシアとのスタンスの違いです。ウクライナ侵攻当初こそ自国内のみで戦ってたウクライナ軍。これは、プーチンの脅しがあったからですね。ヘタにロシア領内に侵攻したら、核兵器で対抗してくるかも知れん。ところが、最近はロシア領内も領内、首都モスクワにもドローン攻撃やミサイル攻撃仕掛けてて、精油施設が破壊されたものだから、資源大国のロシアがガソリン不足に見舞われて、いままで原油を売ってた先のインドから逆輸入しなければならないハメに。インドにしたら経済制裁で売り先困ってたロシアから原油を安く買い叩いて、それで今度は言い値で売れる。こんなボロイ話しはない。インドにしたら、売った原油の穴埋めは中東から輸入すれば済むことですから。あれほどプーチンが強気の発言してるのに、ウクライナは核の脅しに動じていない。これは、ウクライナはプーチンが実際には核を使うことはないだろうとの読みか?実際、自分の足元モスクワに攻撃かけられてるのにプーチンは核のボタン押さないですね。まだ通常兵器だけで充分と思ってるのか? それとも押せないのか?答えは「押せない」んです。ロシア軍がアクライナに侵攻した当初のニュースを見れば分かりますが、第2次大戦当時そのままに、大群の兵士と戦車など戦闘車両が群れをなして襲いかかってきました。ところが5年目に突入した今は戦術が大きく変わって、戦闘の主力はドローンを使った攻撃に様変わり。これが先だってのロシア精油施設攻撃にも繋がってるのですね。こうしたドローンの攻防になると、兵士は空からの偵察ドローンを避けるために、極めて少人数に「分散」して戦います。戦略国際問題研究所(CSIS)が昨年発表した現地調査によると、ウクライナ軍歩兵は2~4名の極小チーム単位で行動し、塹壕線に広く散らばって戦ってるとか。司令部ですら地下深くに作られた小さな拠点に分散してるのです。つまり1発の戦術核で戦局を決定づけられるような大規模な「兵力の集中地点」が存在しないのですね。これでは国際世論とさらに厳しい経済制裁を無視して核を使うイミが無いワケです。前線のウクライナ軍を壊滅させようとするなら、数十発~数百発の戦術核を発射する必要がありますが、そんなことをすれば放射能汚染で自軍も進めなくなります。いまや戦争形態そのものが大きく様変わりしようとしてる。海上自衛隊の護衛艦でも「V-BAT」と云うアメリカ製の垂直離着陸式の偵察ドローンを運用しています。航続時間10時間のV-BATにより、これまで人が操作するヘリによる海上・地上部隊の警戒監視任務が無人でできる時代になったのです。このV-BATはウクライナの実戦で証明された無人偵察機で、つまりウクライナの戦場は最新兵器の実験場と化してるのですね。それでは前線ではなく、キーウなど主要都市に核を使ったら?都市を破壊することによって、ゼレンスキー政権そのものを破壊する。昨年、プーチンがトランプと停戦についてアラスカで会談したとき、ウクライナの土地割譲についてトランプが提案しても、プーチンは一瞥もしませんでした。プーチンにとってウクライナ全土が放射能汚染されても、それによってNATO侵攻の障壁をウクライナがつとめてくれる。プーチンの興味は土地ではなく、ウクライナ全土をプーチンの傀儡政権に変えることなんですから。ところが、ここにどうしようもない問題があります。「風向きの問題」です。もしプーチンが核のボタンを押してウクライナが壊滅状態になった場合、被害はウクライナ1国だけではとどまりません。ロシアが実行支配してるドンバス地域やクリミア半島、あるいはロシア本土、同盟国のベラルーシーに流れていく可能性があります。つまり自国の兵員や国民が、自国の核によって被爆する確率が高いのです。さらに、もしロシアが核兵器を使えば、世界中でパニックが起き。金融市場も物流網も大混乱をきたします。そうしたときに、ロシアを支え続けてきた中国やインドなどに対しても、西側諸国は経済封鎖をする可能性が高くなります。かれらにとってロシア1国を支えるために、世界中から総スカンをくらうことを選ぶでしょうか?利にたけた習近平とモディのふたりが...ロシア経済を支えてきたこれらの国のエネルギー資源購買が停止される可能性が大になります。つまり核兵器=ロシア経済の破滅に繋がるのです。アメリカ政府やNATOは、ロシアが核兵器を使用した場合、ロシアに対して「破滅的な結末」をもたらすと繰り返し警告してます。もしロシアがウクライナで核を使えば、核 対 核ではなく、圧倒的な通常兵器で報復する可能性が高いのです。長引く消耗戦で疲弊したロシア軍を膨大な西側諸国の連合軍によって壊滅させる作戦です。それによって西側の同盟国がロシア本土になだれ込んだ場合、ロシアそのものを地方ごとに分割する可能性も見えてきます。もし、そんなことが起これば、それはすなわちプーチンにとっての「完全な敗北」となり、敗北を招いた指導者を今までプーチンを支えてきたロシアの政治家が許すでしょうか?核を使えばプーチン自身の「命が危ない」。それは政治生命の終了とともに命を危険にさらす行為です。暗殺やクーデター、民衆蜂起によって、プーチンそのものが消されてしまう可能性が大きいのですね。つまりプーチンの核使用発言は「コストの安い交渉ツール」でしかないのですね。プーチンは非常に計算高い人物なので、万が一にもやぶれかぶれで核を使うなんてことは起こらないと思いますが、こればっかしは予想できません。
Jul 11, 2026
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絶え間なく続くことを表すのに「のべつ幕なし」と云いますね。この「のべつ幕なし」と云うようになったのは明治になってからです。ぢゃあ江戸時代は何と云ってたかと調べてみたら、単に「のべつ」だけだったらしい。「のべつ」は漢字で書くと「延べつ」で、これが「絶え間ない」と云うイミなんですね。ところが時代が下がるにつれて本来のイミが希薄になり、改めて似たようなイミの「幕なし」をくっつけたと云う次第。よく「面子をつぶされた」とか云いますが、これも明治以降に使われだした言葉です。面子=世間体とか対面つまりプライドに関する言葉ですが、これは中国の旧唐書(10世紀)などで「面子(ミェンズ)」として既に使われてたのが、日本語としては明治以降に輸入され定着したのですね。しかし江戸時代にも「面子」と云う言葉自体は存在してました。江戸時代の面子=「めんこ」で、つまり子供が遊ぶメンコのこと。この遊びは8代将軍 吉宗の時代に始まりました。ただ、江戸時代は紙が極めて高価だったので、泥粘土を素焼きにしたものがメンコでした。これとは別に麻雀用語にも「面子」がありますね。麻雀用語の「面子(メンツ)」は、麻雀であがるための「牌の組み合わせ」を面子と呼ぶことから、揃えるべき仲間とかメンバーと云う意味に転じました。麻雀は清朝末期の1860年代に中国で生まれたテーブルゲームで、明治の終わりころに中国の四川省で英語教師として赴任していた名川彦作や、夏目漱石などの文人によって持ち込まれたものです。麻雀では正面の打ち手のことを「対面」と呼びますね。麻雀用語ですから、これを時代劇で使うのは間違ってます。時代劇だったら「正面」とか「向かい」と云わなければならないワケです。剣道の「対面」は、稽古や試合において相手と「一足一刀の間合い」で向き合う状態や、互いに面を打ち合う技を指します。「一足一刀の間合い」ってのは一歩踏み込めば相手を打てる、引けば相手の打ちを外せる距離のことです。私は大学一年のとき、剣道部の主催で部員に勝てば日本酒一升くれると云うので参加しました。こっちは刀と同んなじだから、どこでも、ちょっとでも触れたら勝ちと思ってたけど、打ち込む場所が決まってるのですね。アッという間に負けてしまいました。「月命日」って云いますよね。亡くなった日と同じ日にちが毎月巡ってくる日を指す言葉。これとは別に、亡くなった「月」と「日」が一致するのは「祥月命日」。祥月命日は中国の儒教の考え方に由来します。なので月命日は年に11回訪れ、祥月命日以外の日にちにあたるワケですが、江戸時代は月命日は単に「命日」と呼んでました。ところが時代が下がるに連れ、祥月命日を略して「命日」と呼ぶようになったものだから、毎月の命日を呼ぶ「月命日」と云う言葉が近年になって生まれたと云う次第です。
Jul 10, 2026
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大阪にはふたつの繁華街があります。梅田(大阪駅)界隈と道頓堀界隈です。大阪人は梅田界隈を「キタ」と呼び、道頓堀界隈を「ミナミ」と呼びます。キタ=「北」、ミナミ=「南」で地図上の位置を示してるのですが、なぜか大阪人はこの北、南をカタカナで表現します。他府県から来られて、キタとミナミ両方とも歩かれたら分かると思いますが、このふたつの地域、同じ大阪なのにどこか違うんですよね。ハッキリ云うと、キタとミナミは対局にあります。キタは梅田周辺から天満、堂島、中之島あたりです。ミナミはナンバ(難波)から千日前、道頓堀、心斎橋くらいまでの範囲。これもハッキリした境界線は無いのですが、だいたいキタは北区の南半分、ミナミは中央区の南半分くらいになります。だいたいマスコミはみんなキタに集まってます。朝日、毎日、読売、産経と各新聞社が、そして朝日放送、毎日放送とTV両局もキタにあり、ラジオ局や広告代理店もほとんどキタにあります。さらに大会社のサラリーマンもキタに集まってます。大阪証券取引所もキタです。大会社に務める人たちには大阪出身でない人も多く、標準語もキタでは多く聴かれます。対してミナミには中小企業が多く、まぁミナミで大阪弁以外を聞くのは他県からの観光客か訪日外国人くらい。しかもミナミを根城にする人はキタの柔らかい摂津弁と違い、大阪でも言葉の荒い河内と和泉の人が多いから、言葉に飾り気がなく、かなり荒く聞こえます。「~やんけ」とか「ワレ」とか「なにさらしとんねん!」は全部河内弁です。毎年開催される堂島の天神祭の幻想的な伝統行事と、スピード感や豪快さが売り物の河内は岸和田だんじり祭を見ればよく分かりますね。キタは転勤者も抱え込む多様な人の街に対して、ミナミは土着の世界なんです。ミナミの人間は買い物なんかでキタにも行きます。しかしキタの人間がミナミで遊ぶことは少ないでしょう。ミナミは盛り場としての歴史が非常に古いです。運河である道頓堀川は大阪夏の陣の終わった元和元年(1615年)に出来上がりました。この両岸が開かれて新地になったのですね。寛永3年(1626年)、南岸に芝居小屋が公認され、その芝居裏に色街ができあがりました。これが難波新地です。難波新地の南の千日前が焼き場、刑場、墓地でここが当時の大阪の南限になります。道頓堀川の北岸が島之内で、その六軒町に女郎屋が六軒ありました。この辺りが東心斎橋です。当初の南(ミナミ)はこの島之内の遊里のことでした。それから次第に宗右衛門町が中心になってくるのですね。そんなワケでミナミには老舗のお店が格段に多いです。それに比べてキタが本格的に繁華街になったのは太平洋戦争後です。近世の中之島一帯には各藩の蔵屋敷が建ち並んでいました。藩の留守居役を北船場の商人たちが接待したのが堂島や曽根崎の遊里です。これが後に北新地のような高級クラブの並ぶミナミとは隔絶した繁華街に発展するのですね。北新地の高級クラブ、ほとんどは一見さんお断りです。ミナミの宗右衛門町なんか夜歩いたら、呼び込みのオニイチャンだらけで辟易しますが、北新地でそんな風景はほとんど見かけません。タクシーの運ちゃんに聞いても、夜の宗右衛門町はうざくて行きたくないと云ってます。しかし北新地も最近は高級クラブが数多く撤退して、普通のバーが多くなりました。不景気で社用族がめっきり減ったからです。大阪は全国有数の風俗営業が盛んな街でした。大正時代~昭和初期(1930年頃)発行の「全国遊廓案内」によると、公認されていた遊廓の数は大阪が約20ヶ所で約800軒、東京が約10ヶ所で約650軒でした。娼妓の人数は大阪が約7,000人で、全国最大、東京を上回っていました。ホンマに大阪のオッサンはどないなってんのやろ?(笑)大阪の通天閣の先、西成区「飛田新地」には今でも日本最大の遊郭が残っており、1958年の売春防止法施行により遊郭がすべて廃止された後も、「特飲街(ちょくいんがい)」 と云う料亭の営業形態をとって、現在も昭和初期の遊郭建築が約150軒以上軒を連ねてます。一度、飛田新地の写真を撮ろうと歩いてたら、一軒の遊郭からオバチャン出てきて「そんなんしてたら地回り(ヤクザ)にカメラ取り上げられるで」と云われ、あわてて隠したことあります。
Jul 9, 2026
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江戸時代のサムライは「武士は食わねど高楊枝」、どれほど貧しくお腹が空いていても決してそれを表に出さず、満腹を装って悠然と楊枝を使ってたとか。やせ我慢してでも武士の誇りや気高さを保とうとしてたのですね。ところが江戸時代以前の戦国時代は「腹が減っては戦はできない」と云ってたのですから、180度違う展開。これって...戦国時代の「腹が減っては戦はできない」の方が極めて現実的で自然な気持ち現してるのに、なんでこれが「武士は食わねど...」になったのか?これには敵を倒すのが仕事の武士を骨抜きにする、徳川幕府の精神的教育と云うかプロパガンダが見え隠れするなぁ。幕府にとって自分たちの政権を永遠のものにするには、幕府成立まで狛犬のように働いてきた武士が謀反をおこさないようにするのがイチバン。と、なると武士に腹いっぱい食べさせなきゃいいワケで、だけど食べさせないとこれまた謀反の元凶に。そこで、習近平みたいに政府がプロパガンダ打ちまくって、徐々に武士を骨抜きにしてしまう。つまり空腹と云う身体的な現象は、心がコントロールできると思い込ませていたのでは?そもそも切腹って行為そのものが精神性だけの代物ですね。腹を切ったら痛いに決まってる。それを死につつある自分を冷静に見据えながら、逍遥として死んでいくのですから。もっとも赤穂浪士の時代になると、切腹の作法さえ知らない浪士が幾人もいたとか。「士農工商」で階級そのものは武士がトップに立ってるけど、ホントにそうだったのかしら?中国の歴史書「十八史略」には「書は姓名を記せば足りる。剣は一人の敵のみ」と記されてますつまり剣はいくら強くても、ひとりずつしか相手にできない。ぢゃあどうするかと云うと政治家になることです。一対一でやってもラチがあかないから、大勢の人間をいっぺんに統制すると云う考え方です。つまり「士農工商」の上に将軍さまがいて、刀を使わずしてコントロールするには精神性だけを唱えれば済むことです。鎌倉時代から戦国時代は、弓や馬の上手な人が尊ばれてました。鎮西八郎為朝や宮本武蔵が典型ですね。それが江戸時代のすこし前くらいから、個々の武術が上手いのはたいして尊敬に値するとは限らなくなってくる。むしろがむしゃらでただ強いのは「イノシシ武者」なんてね。それが嵩じて、武士は先ず身を修めなくてはダメだ。つまり教養が大事と、これは徳川存続のために打った、柳生宗矩ら徳川家剣術指南の手だったのですね。柳生家は剣術指南ぢゃなくて兵法指南の色合いが強い。とにかく武士に教養をつけ、精神を磨かせる。しかも強制しないで、憧れさせて自然にそう云う風にもっていく。それが「武士道精神」と云う名のもとに。この自己規制の心が今でも電車内で騒がないとか、ゴミをポイ捨てしないとか、列に割り込まないと云った日本人特有の行動様式に繋がってるように思えます。1980~90年代には「恥の文化」と云う背景から生活保護を申請せず、餓死に至る痛ましい「札幌母親餓死事件」や「北九州市餓死事件」がありました。もっとも日本には「旅の恥はかきすて」って言葉もあるけど。
Jul 8, 2026
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訪日観光客で圧倒的なシェアを持つ韓国や台湾などの東アジア圏の観光客は全体の約6~7割を占めますが、例の高市発言が契機となった中国政府による日本への渡航自粛や航空便の減少により、訪日中国人数は約64%も減少しています。ところがその穴埋めを欧米人やオーストラリア人がしてくれていて、全体の約20~25%を占めるとともに、アジア圏が「近隣で短期滞在」であるのに対し、欧米豪の観光客は「長期滞在・富裕層」の傾向が強いので、インバウンド全体の消費額の約3割以上を占めています。特にオーストラリア、ドイツ、イギリスなどからの旅行者は、ひとり当たりの旅行支出が39万円近くと非常に高いのが特徴です。一口に欧米人と云っても、とりわけアメリカ人は全体の約6%強の約270万人、単月では月間30万人を超える月も珍しくなく、欧米の中で最大市場になってます。オーストラリアやイギリス、カナダ、フランス、ドイツなどは全体の約15~19%で約600万~700万人規模を構成しています。こうした欧米豪からの観光客は、地方への訪問意向が非常に高く、東京・大阪・京都の三大都市圏以外での宿泊割合や周遊率の高いのが特徴ですね。さて、ひと口に欧米人と云うけれど、国数はかなりのものです。これらの人たち、どこから来たか見分けられますか?だいたい喋ってる言葉で英語圏かその他の国かは判別できますね。英語圏と云ってもアメリカやイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドと云った欧米諸国もあれば、 シンガポールやフィリピン、インドなどから南アフリカ、ナイジェリア、ジャマイカ、バハマなども英語圏です。フィリピン人の英語はアメリカ英語をベースにしていて、一音一音ハッキリと発音します。Fifty(フィフティ=50)を「ピプティ」と「F」や「V」の音を「P」や「B」で代用したり、「TH」を「T」や「D」と発音することがあります。インド人の喋る英語は、独特の巻き舌で「ル」や「ラ」と強くハッキリ発音したり、単語の最後に「~ィ」や「~ゥ」のような音を付け足す癖があるので分かりやすいですね。さらに厄介なのは「欧米人」=「白人」とは限らないことですね。アメリカは雑多な人種のるつぼですから理解できるとしても、欧州だって黒人もいれば黄色人種もいる。それに加えて混血が多いから、一見白人だと思ったら黒人との混血だったり、なかなか外見で見分けがつかない。下の画像はディズニー映画「モアナと伝説の海」の主人公モアナの声優アウリイ・クラヴァーリョですが、彼女はハワイ先住民であり、プエルトリコ系、ポルトガル系、中国系、アイルランド系の血を引くまったくもってややこしい人種なんですね。同じ英語を喋っていても、それが母国語か母国語は別だけど海外に出たから英語なのかは聞いていて分かりますね。しかし英語が母国語の国民でも国によって違うのはアメリカ英語とイギリス英語が違うようによく聞いてると見分けがつきます。アメリカ英語とイギリス英語の主な違いは、発音、単語、スペル、そして文法にあります。先ず発音では、アメリカ英語は「R」の音を強く巻き舌のように発音し、単語の中の「T」を「ラ行」のように発音することが多いです。いい例が「水」を指す「water(ウォーター)」 を「ワーラー」と発音します。対するイギリス英語は、「T」の音をはっきりと発音し、「R」の音は控えめです。また、全体的に母音が上品で、口をあまり大きく開けずに発音する傾向があります。単語で例えると「エレベーター」をアメリカ英語では「elevator」、イギリス英語は「lift」。「地下鉄」、アメリカ英語では「subway」、イギリス英語は「underground」。「ポテトチップス」、アメリカ英語では「potato chips」とそのままですが、イギリス英語は「crisps」。綴りも「旅行する」の「トラベリング」、アメリカ英語では「traveling」、イギリス英語は「travelling」と微妙に違いますね。ところが、もっと厄介なことが有るんです。ひと口にイギリスと云っても、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドと云う4つの「カントリー(国)」が連合して国を形成しています。これらの人々、外見だけで見分けることは困難ですが、言語やアイデンティティが全く違うのですね。先ほど述べたイギリス英語はイングランド人の英語ですが、これがスコットランド人(スコティッシュ)になると巻き舌(ローリング)が特徴的な力強いアクセントで話します。さらにウェールズ人(ウェルシュ)は、同じ英語でも歌うような独特の抑揚(イントネーション)がありますし、独自のウェールズ語も話します。さらにさらに北アイルランド人(アイリッシュ)は、アイルランド英語特有のメロディックなアクセントがあり独特の云い回しを使います。同じようにアメリカ人も、州によって喋る言葉が違います。そもそもアメリカ人は「出身は?」と聞かれると国名でなく州名で答えることが一般的な国です。カリフォルニア、ワシントンなど西海岸の人、特にカリフォルニア出身者は「Hecka(めっちゃ)」などの西海岸特有のスラングを使ったりします。ニューヨーク、マサチューセッツなど東海岸の人は、「R」の音をあまり発音しないなど発音がイギリス英語に近い特徴があります。テキサス、ジョージアなど南部の人は、ドローと呼ばれるゆっくりとした引きずるような発音、いわゆる「南部なまり」があり、初対面でも「Y'all(みんな)」などの代名詞をよく使います。イリノイ、オハイオなど中西部の人は、訛りが最も少なく聞き取りやすい英語を話す人が多いです。これにオーストラリア英語やカナダ英語も加わり、しかもカナダみたいに英語圏があるかと思えば、モントリオールやケベックなんかはフランス語が公用語なんですから、もうお手上げですね。言葉だけでなく、アメリカ西海岸の人々は全体的にフレンドリーで、Tシャツやパーカー、サンダルなど非常にカジュアルな服装を好みます。対する東海岸の人々は合理的、自己主張がはっきりしていて、初対面では少し冷たく見えることもあります。服装は洗練されたスタイルやダークトーンを好み、機能性を重視します。全体的に訪日するアメリカ人の多くはパーカーやヨガウェア、ベースボールキャップ、そして白のスニーカーを履いていることが多いです。また、リュックサックを愛用する傾向があります。対して、欧州の人は、ファッション性やシルエットを重視して、体にフィットしたシャツやジャケット、レザーシューズを好み、白のスニーカーはスポーツする時以外はあまり履きません。外出時のバッグも小さめの上品なものが多いです。よく欧米人が日本旅行に来て、東京なんかの日本人女性のファッションセンスの秀逸さに驚いたと述べてます。同じ日本人としてそう云われるのは、他人事とは云え嬉しいのですが、しかし何処見渡しても思い思いに普通の格好してるだけなのに?これには裏があるのですね。欧米では国や地域によって女性が着る服のパターンが社会通念で決まってるのです。ちょっとでも他の人と違う服装すると「なんて格好してるの!」と罵倒される。それのいい例がドイツ人女性です。足元から襟先まで「黒」でまとめてたら、かなりの確率でドイツ人と分かります。なので日本人女性の自由な服装選びを見て驚くのですね。フランス人は、派手な柄や刺繍よりも、モノトーンや落ち着いた色合いの無地の服を自然に着こなし、会話中によく両肩をピクッとすくめます。これは「仕方ない」「分からない」といった感情を表す代表的な仕草です。驚いた時や呆れた時に、唇を尖らせて「フゥー」と息を吐く特徴的な表情もします。うがいをするような「R」の喉を鳴らす音や、鼻から抜ける母音が多いのが聞き分けのポイントです。ポーランド人は、瞳の色はブルーやグレー系が最も多く、髪の色は黒に近いダークブラウンからブロンドまでさまざまです。他の西欧人に比べてやや面長で、頬骨がしっかりしている人が多い傾向にありますし、ヨーロッパ系の中では比較的小顔で、頭の形がきれいな人が多いですね。イタリア人を見分けるには、「身振り手振りの大きさ」や「会話中の表情の豊かさ」に注目するのが一番の近道です。特に指先をすぼめて振る「ケ・コザ(何てことだ)」のポーズや、頬を人差し指でくるくる回す仕草はお決まりです。まぁ、会話中に手や顔を大きく動かし、ジェスチャーの多さではダントツですね。スペイン人は、同じヨーロッパ系でもイギリスやドイツなどの北欧・中欧系とは異なる特有の性質を持っています濃いブラウンや黒の髪に、深い褐色の瞳を持つ人が多いですね。そして少し小麦色に近いオリーブスキンの健康的な肌で、日焼けを好む傾向があります。南欧系特有の濃い顔立ちで、身長は平均的~やや小柄です。彼らは会話中の距離が非常に近く、相手の肩や腕に触れながら話すことを好み、手振りが大きく、声のトーンも高めで非常に表情豊かです。とくに日本人と比べてかなり声量が大きく、レストランなどでも賑やかになることが多いです。まぁ、日本人以外は中国人ほどで無いにしても、全体的に声のボリュームは大きめですけどね。スペイン人とイギリス系の違いと云うのは、スペイン人はイギリス系を1km 先からでも見分けられると云います。だいたいは服と、立ち振る舞いなど全体の雰囲気で。ジーンズひとつとっても、いかにもアイルランドっぽい着方っていうのがあって、スペインに行くと人の服装の違いがすぐ分かるらしい。スペインの人たちってバーに入ったらまずバーカウンターのスタッフに挨拶することが多いのですが、イギリス人は話しかけられるのを待ってることが多いそうです。こうなると話す言葉での見分け方以前の問題ですね。ポルトガル人は、スペイン人より控えめで口数が少なく礼儀正しいのが特徴です。また同じポルトガル語圏のブラジル人と比べると、発音がこもり気味でボソボソと話す傾向があります。純粋なポルトガル人は、ブラジル人のような陽気でリズミカルなイントネーションではなく、英語の歯擦音(「sh」の音)に近い、少しロシア語やドイツ語に似たこもった発音をします。そして口をあまり大きく開けず、ボソボソと話す印象を受けます。ヨーロッパ大陸の南西部に位置するため、黒髪や濃い褐色の瞳を持つ人が多いですが、ケルト人やその他のヨーロッパ諸国の血も混ざっているため明るい髪色の人も見られます。アメリカでは「月・日・年」の順で表記しますが、ヨーロッパでは「日・月・年」の順で表記しますね。アメリカ人は、スピードを重視するため、歩きながらコーヒーや食事をしたり、カフェで持ち帰り用の紙カップをそのまま使ったりします。それに対して、ヨーロッパ人はレストランでもカフェでも、テイクアウトカップではなく陶器のカップでゆっくり過ごすことを好むのは、食事は社交の場であり、時間をかけて楽しむ文化だからです。まぁ、とは云っても外見だけでどこの国の人か判別するのは日本人にとって不可能に近いですね。欧州の人たちは小さいころから、多国語を学んでるので各国入り混じってたら、どこの国の人かも分からない。そんなもんだと云う知識程度です。
Jul 7, 2026
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ハウス食品のインスタントラーメンに「好きやねん」ってのがありますね。鶏ガラだしとカツオだしのうまみをきかせた、あっさりしたしょうゆ味の浪花の中華そば。このラーメンが発売された当初、大阪の落語家、桂べかこ(現在の南光)が屋台の主人役としてダウンタウンらと共演してTV CM打ってました。この べかこのセリフ「好きやねん」がいかにも大阪らしく、他府県からは大阪弁の代表のように思われたのですね。まだ「知らんけど」が認知される前です。ところが大阪人から云わせると「好きやねん」は純粋の大阪弁では無いんです。ほんまは「好っきやねん」と、小さい「っ」を入れるんですね。何でか?これは恥じらいの言葉だから。「好きやねん」とハッキリ云うのぢゃ無くて、「好っきやねん」と恥ずかしそうにつぶやく言葉なんです。それが証拠に大阪出身のシンガーソングライター"やしきたかじん"のヒット曲「やっぱ好きやねん」の歌詞途中に出てくる「やっぱ好きやねん」をよく聞くと「やっぱ好っきやねん」と歌ってるのが分かります。と云っても「っ」はほとんど認知できないほどちっちゃく云うのですね。やしきたかじん「やっぱ好きやねん」1分30秒くらいにセリフが出てきます。「相撲」のことを大阪では「すもん」と発音します。正確には「すもン」です。「行かンならん」とか「何してんねン」も同様。男の子を丁寧に云うと「ぼン」、それが「好きやねン」でも同じで、要するに「ン」は半音なんですな。まぁ、きっすいの方言です。私見ですが、悪いイミで中国人にイチバン近い人種が大阪人だと思います。先ず声が大きい!大阪人は東京の人と比べて声大きいです。東京で山手線なんかに乗っていても、周囲は静かなのに大阪人の話し声だけ聞こえてくる。きっと東京の人は経験された方多いでしょう。まぁ、中国人みたいに怒鳴り合うような話し方ではないけれど(笑)それと電車なんか待ってるとき、電車が入ってくるまでは東京人も大阪人も同じように並んでるのですが...イザ電車が入った瞬間、大阪人は列乱して乗車しようとする人が結構多いです。だから道頓堀に中国人観光客が多いのか?「けったいな」って言葉ご存じですか?「卦体(けたい)」を強調した言葉で、易経の「卦」に表れた算木の形から来た言葉に、「っ」を入れて強調したものです。大阪人はこの「けったいな」を「いまいましい」とか「気持ち悪い」のイミでよく使います。例えば「けったいな人」はワケわからんヘンな人ってことです。もっと強調して「けったクソ悪い」なんてのも有ります。こうなると「いまいましい」が最高潮に達してるのですね。「ややこしい」も有ります。これは関西で赤ちゃんを指す言葉「嬰児(ややこ)」に「し」を付けたので否定形。これは「込み入ってる」「煩わしい」と云うイミですが大阪以外でも使うとこ有りますね。この「ややこしい」、大阪弁では「怪しい」とか「ウサン臭い」とか「いい加減な」とかの場面にも使います。もっともよく使われるのが「あのふたりはややこしい」と男女の仲を推測する場合。「あの会社はややこしい」と云うと「倒産のキケンがあるよ」ってイミです。わざと分かりにくくして、露骨にできない場面に使う言葉で、この言葉自体がややこしいですね。地方の人が東京に出ると言葉のコンプレックスに悩んで、一刻も早く標準語に直そうとしますね。それに対して、大阪人は東京に出ても大阪弁で通します。明石家さんま見ていたら分かるでしょう。大阪人が日本中どこでも大阪弁で通せるのは、TVのお笑いのおかげでしょうね。
Jul 6, 2026
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イーロン・マスクが運営するスペースXの地球低軌道に数多くの小型人工衛星を網羅的に配置し、連携させることで地球全体を隙間なくカバーする通信ネットワークシステム「スターリンク」によって地球上ほぼ全域で衛星インターネットアクセスが可能になりましたね。これで地上インフラが破壊されても、問題なくインターネットが利用できる。日本ではソフトバンク、au、ドコモ通信3社とも追加料金無しでスターリンクが利用できるようになりました。このスターリンクは1万基を超える小型衛星で構成されてて地球全体をカバーしてますが、実際にサービスが提供されるのはスペースXからサービス提供のライセンスを取得した国に限られ、約45ヶ国がライセンスを持ってます。このスターリンクのライセンスが取得できない国の筆頭がロシアです。ウクライナ戦争に関連し、スターリンクはロシア国内やロシアが占領している地域ではロシア側端末を遮断する措置を講じてます。そのためロシアの軍事的な通信が大きく阻害されているのですね。同じように中国もライセンス取得しておらず、こちらはむしろ海外からの情報阻止のため中国政府がコントロールできない通信網の利用を禁じているからです。政府の許可を得ずに利用すると、刑事罰に処せられます。スターリンクはスペースXが小型化と量産化により製造と打ち上げのコスト削減を実現した人工衛星網です。しかし、こんなに沢山の衛星を打ち上げて、地球の周りはゴミだらけになるのでは?それでスペースXは今年度中に、高度550km を周回する約4,400基の衛星を高度480km まで引き下げることを計画してます。これによって、老朽化し使えなくなった衛星の自然落下までの時間を大幅に短縮し、宇宙空間での衝突事故を減らすことを目論んでるのですね。問題はこの衛星の耐用年数です。いったいどれくらいの期間使い続けられるとお思いですか?それが...たった5年なんです。そのため第1世代から定期的に新しい衛星へ更新・廃棄が行われていて、もうこれで当分安泰は無いんですね。中には太陽の磁気嵐影響で高度が下がり、数年で運用を終えて大気圏に突入する機体もあります。約49年前に打ち上げられた「ボイジャー1号」が電力不足に悩まされながらも、今なを稼働して飛び続けてるのとは大違いです。そのためスペースXは10年におよぶ計画の総コスト、設計・製造・打ち上げなどに100億$(約1兆6,200億円)も費やしてるのです。つまり世界中でスターリンクが普及しても、常に更新のコストが重くのしかかり、いっこうに採算がとれないのですね。ここで思わぬ事態が発生しました。2022年、アメリカのスターリンクユーザーが異変に気づきます。急激に送受信速度が落ちたのです。これが加入者が急増した時期とピッタシ合ってたのです。1万基の衛星を飛ばしても速度が出ない?それはスターリンクが電波を使ってたからです。電波には帯域幅と云うものがあって、一定の帯域の中でしか通信ができません。この限られた帯域にアクセスする利用者が多すぎてオーバーフローしてしまったのです。いわば一車線しかない道路にそれまで数台の車しか走ってなかったのに、いきなり1,000台超の車が押し寄せたようなものです。衛星を増やせば増やすほど、同じ帯域に衛星がひしめくことになります。その結果は...電波は混雑するだけ。道路を広げることは物理的に不可能。車をどんだけ高性能にしても、車線の数は増えません。しかもデータの需要は止まらないどころか、ますます増えるばかり。この問題に回答を出した1企業があります。それは...日本のNECです。NECは電波ではなく、光に着目しました。光通信の帯域幅は電波の10倍~100倍に達します。しかも光は電波に比べてビームがとてつもなく細いので、点ポイントで通信拠点と結べるため、傍受や妨害が極めて困難なんです。光通信においてNECの強みは、国際通信の約99%を担う海底ケーブル市場で世界トップクラスのシェア(約20~35%)を誇ることです。いまや海底ケーブルでの通信は光ファイバを通した光通信なんですね。NECは、深海8,000m の過酷な環境下で25年以上の稼働に耐える製造から敷設、保守までを一貫して手がけ、世界的な情報インフラを支えています。NECが施設した海底ケーブルの総延長は地球11周分を超える45万km に達してるのです。光通信を衛星通信に応用するアイディアはアメリカが一歩先んじました。しかし、それをシステムに統合することができないでいます。それに対してNECは1990年代からずっと宇宙で光通信を使うことに執着して研究を続けてきました。まだ電波で充分だと世界中が考えてた時代からです。そして光ファイバの代わりに、レーザービームで衛星間をつなぐことに成功したのですね。秒速7km で飛ぶ相手にレーザーを正確に当て続ける、その執念が実り、2005年、OICETS(愛称「きらり」)が世界初の衛星間双方向光通信に成功しました。世界が電波衛星の物量戦にあけくれる最中、昨年、「きらり」だいち4号とデータ中継衛星「JDRS-1」の間で光通信が実施されます。その距離、約4万km 。結果は...世界最速記録を出しました。そして今年3月16日、NECは光通信衛星コンステレーション用ペイロードの設計完了を発表したのです。このペイロードの処理能力は、数十基や数百基ではなく、数千基規模のメッシュネットワークを構築できるものです。つまり数千基の光衛星群を統率する頭脳を最初の小さな1基に組み込んだのです。この衛星は来年度中に地球周回軌道に打ち上げられます。もちろんバックには日本政府がいます。防衛省は今年度予算に「JDRS衛星コンステレーション構築」として262億円、「次期防衛通信衛星」の整備に280億円の予算配分しました。つまり政府は光通信を通信インフラではなく、安全保障インフラと位置づけたと云うことです。
Jul 5, 2026
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日本の医療や介護現場で「ぽっと出症候群」と呼ばれる困った事案がよく話題になります。同じ症例をアメリカでは「カリフォルニアから来た娘症候群」と云い、カナダでは「オンタリオから来た娘」と呼ばれ、台湾では「天邊孝子症候群」(空の向こうの孝行息子症候群)と呼ばれてます。ここで云う「カリフォルニア」は、カリフォルニア州から来たとは限らず遠方の比喩です。なので当のカリフォルニアでは「ニューヨークから来た娘」や「シカゴから来た娘」と反対側にある東海岸の都市名で呼ばれてます。また「娘」となっていますが、性別や血縁の関係性は問うてません。どの国の医療現場も、ケアマネも施設関係者も困るのがカリフォルニアから来た娘症候群の人たち。しかし、もっとも困ってるのは介護者を毎日面倒をみている一番近いご家族です。カリフォルニアから来た娘症候群とは、これまで高齢の親と疎遠な関係の遠方の親族が、終末期医療の場面で、それまで近隣の親族や医療チームと時間をかけて築き上げてきた合意を覆し、そのケアに異議を唱えたり、患者の延命治療を強く求めたりする状況を指す言葉なんです。カリフォルニアから来た娘は、しばしば怒りっぽく、自己評価が高く、明晰と自認し、情報通を自称します。これによって、対象の高齢患者とその介護者、医療関係者との同意を否定し、安らかな終末を阻害してしまうのですね。カリフォルニアから来た娘は、普段の治療状況を何も理解しないまま、年に1、2度突然やってきて「治療法が納得できない」「介護サービスが不十分」などと主張する遠方に暮らす子どものことです。日々、介護の現場と連携を取りながら治療を続けていると、患者や家族との関係はとても良好なものになります。しかし、そんな関係をカリフォルニアから来た娘は一瞬で崩してしまうのです。日本でカリフォルニアから来た娘症候群の人は、なぜか東京に嫁いだ娘が多い傾向です。カリフォルニアから来た娘は、普段、高齢患者の生活やケアから遠ざかっていたため、患者の悪化の程度にしばしば驚き、医学的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまうことにあります。また不在であったことに罪悪感を感じ、再び介護者としての役割を果たそうとする心理もあるのですね。これは心理学で云う「罪悪感と否定」であり、必ずしも患者にとって最善であるとは限らないのです。なぜかカリフォルニアから来た娘は、知り合いの医療関係者からの中途半端な知識を持っています。ただ、その場合の「知り合い」とは決して近い身内ではありません。例えば「要介護者の長男のお嫁さんの叔父さん?」のように遠い関係なんです。ところが、このカリフォルニアから来た娘に対して、医療や介護の現場は何も云えないんですね。日本では、2000年に介護保険が施行されるまで、介護とは「行政処分」でした。つまり「介護で困っているから行政が何とかしましょう」というスタンスでした。しかし介護保険の導入により、毎年国民が保険料を負担することで、処分から「権利」にしたものが介護保険制度なのです。医療や介護の現場は、個々のスタッフの人間性に支えられている部分が大です。介護保険制度の中でできるだけのサービスを提供しようしているのですから、「権利の主張」はなじまないのですが、なかなか理解してもらえないのが現状です。このようにカリフォルニアから来た娘対策はなかなか難しい事案なんですね。批判や正論で反論すると、相手は防衛的になり状況がますます悪化します。罪悪感や不安を肯定的に受け止めることで、冷静な対話のテーブルへ誘導することが第一歩です。ここで家族だけで話し合うと感情論になりがちです。医師、ケアマネジャー、ソーシャルワーカーなどの専門職が同席し、客観的な医学的状況やこれまでの経過を説明する必要があります。そして本人の判断力が低下した場合、誰が代理で意思決定をするのかを家族間で公式に合意しておきます。また、本人が元気なうちから希望するケアについて話し合い、エンディングノートや意思表明書として形に残しておくことが最強の抑止力になります。うちも夫婦ともに万一のときは、延命処置はするなと云ってあります。
Jul 4, 2026
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広島にあるお好み焼き店「ロン」はいつも外国人観光客で超満員なのがYouTube でよく紹介されてますね。このお店はメッチャ愛想いい女将が人気者で、カタコト英語でもお客さんの笑顔が絶えない。おなじ広島でも「いっちゃん 本店」は、「ミシュランガイド広島」で優れたコストパフォーマンスの店に贈られるビブグルマンを複数回獲得した有名店です。どっちもキャベツ大盛りの広島風お好み焼きですね。アレアレ!お好み焼き云うたら大阪ちゃうの?まぁ、大阪のたこ焼きに対する兵庫の明石焼きと同じで、よく似た食べ物でもところ変われば品も変わる。お好み焼き、大阪人でも広島焼き大好きですよ。広島焼きのキャベツは大阪のように刻まないし、焼きそばを必ず入れるのがミソですね。お好み焼きの起源は昔も昔、千利休に発します。小麦粉(うどん粉)を溶いてナベに流し、片面に味噌を塗って焼く、そんな茶事の焼き菓子を利休が手ずから作ったのが始まりです。これが「麩の焼き」と云う名で江戸時代に商品になるのですね。あんを巻いた甘い焼き菓子で、後に「せんべい」「落雁」「どら焼き」などの菓子になっていくのです。江戸後期の文政十年(1827年)版の「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)」には「杓子(しゃくし)程度では書ケぬ文字焼屋」と云う川柳が載せられてます。文字焼きってのは、駄菓子屋や屋台で、子どもたちが小麦粉を砂糖蜜で溶き、鉄板の上で薄く焼いて食べるのが流行したのですが、このとき溶いた小麦粉で杓子を使って文字を書いて遊んだのが名前の由来。この「文字(もんじ)」がなまって「もんじゃ」になったのです。屋台の文字焼き屋が太鼓をたたいて流して歩いたので、「どんどん焼き」とも呼ばれるようになりました。私は大阪人で「もんじゃ焼き」が好きだと云う人と出会ったことないし、そもそも「あんなゲロ吐き出したようなモン食べられへん」と云うのが大半。大阪のお好み焼きは水溶きした小麦粉を鉄板に流し、順次その上に具を載せ、ひっくり返してすっかり焼き上げる。対する東京は、先ず具を焼き、それでドーナツ状の堤防を作り、その中に小麦粉を流し入れる。周りの具を少しずつそれに混ぜながらいただく。ぐちゃぐちゃのままである。お好み焼きだって美的感覚とは大きく外れてるけど、もんじゃ焼きは美的感覚そのものが無いですな。明治十五年(1882年)、アメリカから小麦粉が初めて輸入されました。それまでの小麦粉が「うどん粉」と云ったのに対し、この小麦粉に英語の「アメリカン(American)」がなまった言葉「メリケン粉」と云う名前をつけたんですね。これによって小麦粉使った食文化が大きく広がります。明治から大正にかけて、桜エビや天カスなどの具を載せる食べ方が広まったのです。これを大阪では「洋食焼き」と呼びました。この洋食焼きは1枚が1銭だったので、「1銭洋食」と称しました。一方、東京では「どんどん焼き」とか「もんじゃ焼き」と名前を継承していったのですね。大阪で1銭洋食にソースを塗りだしたのは、昭和五年(1930年)ころから。ソースは外来の調味料なので、洋食焼きの名前にピッタシだったのですね。小麦粉そのものに味が無いので、粉モンはソースが決めて。国産ソースを最初に作ったのは銚子のヤマサ醤油の「ミカドソース」です。ところが思うように売れず中絶してしまうのですね。で、25年(1892年)に神戸の「日の出ソース」、27年に大阪の「三ツ矢ソース」と「錨印ソース」が本格的に発売され大ヒットしました。昭和四年(1929年)、大阪梅田に阪急百貨店が開業され、大食堂の「ソースライス」が大評判になりました。コレ、ただのライスにソースをかけて食べる、ただそれだけのメニューだったのですね。洋食焼きと云う子どものオヤツがお好み焼きに変貌したワケです。お好み焼きを扱ったのは、先ず大阪ミナミの甘党屋です。洋食焼きを上品(?)でオシャレにしたのですね。好きなものを載せて自分で焼くので、若い女性ファンがたちまち増加したのです。これが招じて専門のお店を構えるようになっていくのですが、洋食焼きみたいに屋台や駄菓子屋ではなく、盛り場の横町に多くできていったのですね。大阪の宗右衛門町や曽根崎新地など花街近くのお店は、旦那衆と芸子が座敷の後の逢引に使ってました。そのため、お好み焼き屋はお店の座敷につい立てや仕切りをしたり、小間に暖簾をかけ、個室もできました。そもそも「お好み焼き」の「好き」と云う字に色気がある。男女の密会にうってつけなんですな。これは飲食店ではなく、風俗営業だと警察がうるさく取り締まり対象にしたそうです。昭和21年(1946年)、大阪でも下町中の下町 玉出にある自宅の玄関先で西野栄吉がお好み焼き屋を開業しました。このお店のお好み焼きは、ぼってりと厚みがあり、具の豚肉が焼けるときに"ぢゅう"と音をたてることから屋号は「ぼてぢゅう」に。この「ぼてぢゅう」が成功して、ミナミの宗右衛門町にお店を出すまでになりました。このとき、それまでのお好み焼き屋の小間をやめて、広いカウンターにしたのですね。お好み焼きが密室からオープンに変わった瞬間です。これによって家族連れも含め、普通の人々が多く食べに行くきっかけになったのです。お好み焼きにマヨネーズをかけたのも「ぼてぢゅう」が最初です。大阪人は「いらち」なので、焼けるのをじっくり待てない。早くひっくり返してしくじります。早く焼けるようにと、コテでしきりに押さえる。それでせっかくの具の肉汁が出てしまう。こりゃあ見てられないと、客に焼かさないようにして、一切を店主が焼くようにした最初は大阪、天満の「菊水」です。昭和31年(1956年)のこと。これが名物になって今でもお客はいっさい触れないのですが、私がいったとき「ちょっとどんな具合?」と触ろうとしたら、「触るな!」と店主に叱られて、えらい客を客と思ってない店やなぁと思った記憶があります。天満の菊水はお好み焼き超有名店でしたが店主が亡くなって閉店してしまいました
Jul 3, 2026
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映画の時代劇でよく登場する大名の「参勤交代」。参勤交代の「参勤」は正しくは「参覲」と書きますが、これは将軍に拝謁すると云うイミです。「自分は将軍家の臣下でございます」と云う意思表示をおこなうことが参勤なんですね。で、江戸に参勤してくる大名と入れ替わりに領地に帰国することが「交代」。なので「参勤交代で江戸に行く」ってのは交代≠帰国になって明らかな間違いなんです。参勤交代の大名が道中で泊まる宿が「本陣」ですね。全国に多数の本陣が存在しましたが、現在も建物が残っている代表的な宿場は、現存する最大級の本陣として知られてる滋賀県草津市の「草津宿本陣」や中山道随一と評される見事な建物で有名な長野県下諏訪町の「下諏訪宿 本陣岩波家」などいくつもあります。映画なんかで誤解されてますが、本陣は大名に宿泊場所を提供するだけ、つまり素泊まり高級旅館なんですね。飲食は持参と云うこと。それで参勤交代する大名は調理器具や食材、料理人、さらには入浴用の風呂桶など一切合切を運ばなければならなかったのです。それどころか「本陣」はそもそも役職のことなんです。まわりくどい云いかたをすると、宿舎は「本陣の館」と云うことになります。本陣は身分的には町人ですが、実は戦国時代は武士だった人たちです。豊臣家や徳川家が天下統一する過程で、どんどん有力大名が滅ぼされていきましたが、そう云う大名家に仕えてた家臣団まで根こそぎ滅ぼされたワケではありません。そんな根絶やしにするような扱いすれば、ひどい叛乱がおきて天下統一なんてできっこありません。有力大名を攻め滅ぼすとき、トップは根絶やしにしますが、その下の「幹部家臣」は、名主、庄屋、本陣などと云う名前と身分を与えて、今までの収入がほぼ維持できるように懐柔策をとってたのですね。今で云えば敵対的企業買収「M&A」でライバル会社は乗っ取っても、社員全員総取っ替えするワケいかないので、代表権をもたない幹部社員はそのまま継続して社員として遇するのと同じことです。したがって名主、庄屋、本陣は身分的には百姓町人でありながら、本人の意識は武士のまんまだったのですね。「苗字帯刀の百姓町人」と云う存在は、徳川家の「戦国期の混乱状態をできるだけ波風を立てずに円満に治める」と云う考え方からきた折衷妥協の産物なんですね。
Jul 2, 2026
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知能や性格、行動など「わたし」を形作る要因には「遺伝」と「環境」があります。遺伝率は双生児の研究などによって推計可能で、それによって説明できない部分が「環境」なんですな。例えばある植物を完全に同一の環境で育てることができれば、背丈の差は遺伝のみによって決まり遺伝率100%となりますが、それとは異なる栄養状態の土壌で育てれば背丈は変わってきます。人の身長の遺伝率はかなり高いですが、20世紀以降、いくつもの国で平均身長が急激に伸びています。これは栄養状態が改善したこと、つまり環境が変化したことによるものです。兄弟姉妹にも、似ているところと似てないところが有りますね。これは環境のなかにおけるお互いを近づけるものと、遠ざけるものがあるからです。一緒に育った双子や兄弟姉妹は、同じ家に住み、同じ親の教育を受け、似た食生活を送ります。一般には子育ての部分ですね。これらは「共有環境」に該当します。同じ家庭にいても、個別の友人関係、部活動の違い、学校での先生との相性などは「非共有環境」です。同じ家庭で育った一卵性双生児でも、見分けがつかないくらいそっくりになることは有りません。どんな子供でもすべての環境を共有するワケが無いからです。双生児の研究によれば、性格の遺伝率は30~50%で、「氏が半分、育ちが半分」と云う諺が正しいことを示してます。一卵性双生児は遺伝子が同じで、同じ環境で育てられた=遺伝と環境を共有してる=非共有環境だけが違うのですから、とてもよく似ているのです。日本で人種問題は存在しませんが(実際には在日系の問題がありますが)、アメリカではこの人種問題が子供の成長に大きく関与します。白人と黒人の生徒が混在する学校に通う黒人の子供は、「勉強するようなヤツは仲間ぢゃない」と云う強い同調圧力をかけ続けられてます。仲間はずれにされたくなければ、意図的に良い点数を取らず、ギャングの振る舞い方を身に着けなければなりません。同様に男女共学の学校に通う女子生徒は、「数学や物理ができる女は可愛いくない」と云う無言の圧力を加えられてる。要するに「バカで可愛い女」でなければ友達グループに加えてもらえないなら、彼女たちはさっさと数学の勉強を止めてしまうでしょう。こう考えると親のイチバンの役割は、子供のもってる才能の芽を摘まないような環境を与えることに尽きます。しかし有名校に子供を入れたとしても、そこでどのような友達関係を結び、どのような役割を演じるかに親は介入できないですね。子供は無意識のうちに、自分の遺伝的な特性を最大限に活かして目立とうとするでしょうが、それは多くの場合、偶然に左右されるものです。もちろん、これは「子育ては無意味」と云うことではなくて、人生とは、もともとそう云うものなんですよね。子育ての大切さが強調されるようになったのは、核家族化が進み、教育が将来の成功を左右するようになった近代以降です。それ以前の子供たちは大家族で育ち、親は教育のことなどあまり気にかけてなかった。子供は男女に分かれて年齢の近いグループをつくり、年上の子供が年下の子供の面倒を見ることで親の肩代わりをする。思春期を迎えるまで、この「友達の世界」が子供にとってすべてなんですな。人は社会的な生き物で、群れから排除されると生きてく術がない。古今東西、どんな社会でも「村八分」は死罪や流刑に次ぐ重罰でした。これは子供も同じで「友達の世界」から追放されることを極端に恐れます。勉強だけでなく、遊びやファッションなんかでも、子供集団のルールが家庭でのしつけと衝突した場合、子供が親の云うとこを聞くことは絶対ありません。それは親を経験しなくても、自分を振り返ったらよく分かることですね。私ごとですが、きのうヨメが息が苦しいと云うので通ってる国立病院に連れていきました。ヨメは昔、肺気腫を患って片肺除去手術をしているので、残ったもうひとつの肺だけで生活してます。この肺にときどき水が溜まるのですね。そうすると、片方しかない肺なのに、それの酸素取り込み量が極端に減ってゼイゼイハアハア。それで今まで2回入院してます。今回は...処方されてた薬のうち、調子が良さそうだからとお医者さまが1種類を減らしたらこの始末。結局、入院になりました。お医者さま自身が判断を誤ったと云ってます。とりあえず水を注射器で抜いて、今は酸素吸って安静。てなことで、しばらく病院通いが続くため、タイムリーにご訪問できないかと思いますがご容赦ください。
Jul 1, 2026
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西はフランスのアルザス地方、南はスイスに隣接しているドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州。この州のメーアスブルク市にはツェッペリン飛行船関連だけを集めた「ツェッペリン博物館」が、シュトゥットガルト市には「メルセデス・ベンツ博物館」など乗り物関連の博物館が多く存在します。そんなひとつにバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市にある「ジンスハイム自動車・技術博物館」と云う1981年に開設された博物館も。屋内・屋外合わせて50,000m2 の展示スペースを有する巨大な博物館で、年間約100万人以上の入場者数を誇るヨーロッパで最も大きな博物館のひとつなんですな。この博物館、自動車技術博物館と云う名称と裏腹に、各時代の軍用機および民間旅客機50機、戦車、大砲、その他軍用車両、装甲戦闘車輌など多数、蒸気機関車だけで27輌と乗り物に関すれば何でも。車で云えば、クラシックカーだけで約300台、1950年代からのアメリカ車、レーシングカーにF1カー、各種トラックとバス、バイクだけで約200台、トラクターは150台、蒸気エンジンから蒸気オルガンまで。総数、約3,000点の展示品を所蔵する、動くものならなんでも博物館なんですね。ここの最大の見どころは超音速旅客機として知られる「コンコルド」とソ連版コンコルド(コンコルドスキー)と呼ばれた「ツポレフ Tu-144」が2機並んで地上数10m の高さに展示されていることです。このコンコルドはフランス政府から正式に受領した機体で、中に入って見学することも可能です。さて、ジンスハイム技術博物館の職員たちはすぐれた技術者でもあります。彼らは2006年にとんでもないもの作り上げました。「BMW」と云えばドイツの自動車やバイクメーカーとしてつとに有名ですね。BMWの「7シリーズ」セダンなんて見ているだけで惚れ惚れするほど。ところがBMWのスタートは1916年に設立された航空機エンジンメーカーなんです。そこからバイクエンジン、車のエンジンと手を広げていったのですね。第2次大戦前から大戦終了まで、ドイツ空軍が使用していたレシプロ双発爆撃機に「ハインケル He111」と云う重爆撃機がありますが、これに搭載されてたエンジンもBMW製です。この重爆撃機のエンジンを自動車に搭載したらどんな車が出来上がるか?それをホントウにやってのけたのです。ハインケルHe111のエンジンは一般的な乗用車の約20~40倍以上の容積を持つ排気量47,000CCでV12、1,700rpm で150馬力もあります。とても車に搭載するエンジンぢゃない。車体は1908年式のアメリカはアメリカン・ラフランス製消防車。これにムリヤリBMWエンジンを載せて、出来上がったのがこの車!「ブルータス」と名付けられたこの車、エンジン・パワーは3速トランスミッションを介して、バイクのようにチェーン駆動。シフトレバーとサイドブレーキは運転席の外、ボディにへばりつくように設置してます。それで最高速度は時速200km 以上に達したのです。巨大なエンジンから繰り出される大トルクと豪快な排気音を放つモンスター車ができあがったのですね。イギリスのTV番組「トップ・ギア」で司会者のジェレミー・クラークソンは、この車を運転するのは「トラに食べられながらクロスワードを解くようなもの」と云ってます。この車はジンスハイム自動車・技術博物館の専用ルームに常設展示されています。TV番組「トップ・ギア」で紹介された「ブルータス」の走行動画Jeremy Clarkson vs -u0027The Brutus-u0027 Bomber BMW (TOP GEAR)
Jun 30, 2026
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私には理解できないのですが、ラーメン店からレストランまで、飲食店に長蛇の列を作って並ぶ人たち。そんなに暇なのかと呆れてしまいます。そんなんせんでも、似たようなお店は山のようにあるだろうに。訪日外国人でさえ、SNSで有名になったラーメンチェーンの「一蘭」に並んでる姿がYouTube なんかによく登場してますね。もちろん好きで並んでる人もいるでしょうが、ほとんどは「みんなが並んでるから美味しいのだろう」と云う同調行動が働いてるのとちゃいまっか?みんなと同じことしてたら安心なんです。さらに云えば「こんだけ待ったのだから美味しくないハズがない」と合理化と呼ばれる心理の働きかけも。そうして美味しいと思い込んでるのですね。実際は他店と五十歩百歩であっても。ホントウにそのお店の味を冷静に味わいたかったら、行列がないときに行ってみるしかないのです。この同調行動は、タレントがTVやSNSなどで健康食品や化粧品などを絶賛するの見て、自分もと買ってしまうのにも表れます。「◯◯さんが使ってるのだったらいいものだろう」とか「私もこれを使えば◯◯さんみたいになれる」とか。勝手に思い込んで、まんまとメーカーと、それにタイアップしたタレントの餌食になるのですな。例えば特売売り場では、ついつい争うように買ってしまう。就職活動のときみんな同じようなリクルートスーツに身を包む。とくに日本人は同調行動を取りがちと思うのですが...ナゼとりわけ日本人が同調行動をとりがちかと云うと、昔は農耕社会として集落単位での協力体制が不可欠だったため、集団の和を乱さず、他人と足並みを揃えることが美徳とされてきた背景があります。しかし現在はそんな意識も薄れたと思いがちですが、社会的規範や「人に迷惑をかけてはいけない」という意識の強さが、結果として周囲に合わせた行動を選択させる要因になってますね。これは同調行動と云うより「同調圧力」で、日本以外では儒教の影響が強い韓国や中国などの他、東南アジアや中東の集団主義的な社会でよくみられる傾向です。同調行動とは別に、ショップなどで「限定商品です」「最後の一点です」と云われると、「今を逃したら買えないかも」となってつい買ってしまう。これは「心理的リアクタンス」と呼ばれるもので、この状態になると選択の余地がなくなって、その呪縛から自由になるために、半ばムキになってでも「買ってしまおう!」となるワケです。それに加えて、大勢の人が限定品に群がってるのを見て自分も買わなきゃと云う同調行動が働いて、みすみす業者のエジキになるワケですな。「限定商品」を買うと云うことは、価値有る商品を自分が所有できる優越感、手に入れたことによる満足感が増して、ますますその商品が魅力的に見えてくるものです。こうなると喉から手がでるほど欲しくなってるのですな。
Jun 29, 2026
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ご存知のとおり生成AIは人間が指示するだけで、文章や画像、動画、音楽など新しいコンテンツを自動で創り出してくれる人工知能のことです。このAIには今のところ目的によっていくつかのタイプに分かれます。ひとつはChatGTPやGemini に代表されるテキストを作るタイプ。このAIを使うことによって、メールの作成からアイデア出しや文章の要約までこなしてくれますね。次にAdobe Fireflyや Canva のような画像やデザインを生成してくれるAI。このAIを使うことによって、言葉で指示するだけでリアルな写真やイラストを生成してくれます。もうひとつはテキストや画像から動画を作ったり、自然な音声を読み上げさせたりするAI。Runway のように映画と見間違うばかりの高品質でリアルな動画を作成できるものから、ElevenLabs のように感情豊かで非常に自然な音声読み上げと、声色のクローン機能を備えたAIまであります。ただ、これらのAIはもっともらしい嘘をつくことがあるため、出てきた情報の正確さは必ず人間が確認する必要があるのですね。ナゼAIが嘘をつくかと云うと、ChatGTPなど生成AIは「LLM(Large Language Model)」と呼ばれる仕組みを使用して内部で動作します。LLMを簡単に云うと、「テキストを受信すると、確率に基づいて次にありそうな単語を予測し、それらを一度に1単語ずつ接続する」ただそれだけをやってるのです。たとえば「猫が○○の上にいる」という入力を受け取ると、AIは次の単語の候補をその確率とともにリストアップします。ここでは「ソファの上に」が最上位にくるとすると、AIは「猫がソファの上にいる」と返すワケです。LLMの学習目的は「次の単語の予測精度を向上させる」ことで、これは「事実として正しい言葉を選ぶ」こととは別の話です。 その結果、文としてはもっともらしく聞こえても、事実としては間違っているものが生成される可能性があるのですね。今はAIの種類によって得手不得手がありますが、そのうちオールマィティなAIが出現するのは遠くないでしょう。さてAIと云えど、そのスタートは人間が手でキーボードをたたいてAIのプログラムを書くとこから始まります。この手順なくして、AIは成立できない。つまりAIと云えど、先ず人間なくして存続できないワケです。ところがGoogle で使ってるプログラムのコード75%はAIが書いているのをご存知ですか?AIの登場以降、アメリカのプログラマーの労働人口が1/4以上消えたことが統計で明らかになったのです。アメリカのプログラマー数が、1980年以降で最低水準まで減少している。過去45年間でアメリカ全体の労働力が約75%も増えたのに対し、プログラマーは大幅に減少したのです。AIに職業を奪われるとの懸念がここ数年で声高に叫ばれていましたが、職種によって明暗が分かれているのです。ワシントンポスト紙が報じたところによると、コンピュータープログラマーの雇用数は過去2年間で27.5%も減少したと云います。アメリカ労働統計局の調査では、420以上の職種中、最も大きな打撃を受けた10職種にプログラマーが入っているのです。つまりAIを生成するまでは必要だったプログラマーが、AIが完成したとたんご用済み。花形業種だったのに、自分で自分の首を締めてたワケです。ナゼこんなことになったかと云うと、プログラミングでコードを書く作業と云うのは、過去の遺産の積み重ねによったコードのパターンを手続きの順番通りに打ち込むことです。素人には特別な能力の持ち主と思われてるプログラマーの仕事、実は単純作業の繰り返しなんです。となると、こんなことはAIのもっとも得意とするところです。これまで人間のプログラマーが担ってきた基本的なコーディング作業の多くが自動化されるようになってしまったのです。背景には企業がAIサーバーやデータセンターの拡張に数兆円規模の投資を行っており、そのための人件費の見直しが必要不可欠になったことがあります。しかし、これには裏があって、コーディング作業はAIが請け負っても、そのAIが書き出したプログラムが正しいか確認して実装できるのは人間のエンジニアにしかできまん。なにしろAIは嘘をつくの得意ですから。つまりプログラミング行程全般のうちコード(プログラム)を書く作業とは別に、後工程としてテストやバグ修正などがつきまとうのですね。ワシントンポスト紙の調査結果によれば、プログラマーの数が大きく落ち込む中、「ソフトウェア開発者」の職は0.3%のわずかな減少にとどまっています。AIがいくら発達しても、たとえ人間の能力を大きく超えたとしても、AIには絶対にできないことがあります。それは...「責任を取ること」です。例えば東日本大震災で大きな津波がやってきて原発に被害がでたとき、津波対策が妥当だったのかどうか、災害後の対応が適切だったのかどうかがさかんに議論されました。こうした観点から考えると、最後までプログラマーに求められるのは、AIが生成したコードに責任を取ると宣言することです。AIが生成したコードを理解し、新たなシステムとして責任をもって承認することは人間にしかできません。消えるプログラマー、残るソフトウェア開発者と云う構図なんです。
Jun 28, 2026
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アメリカの文化と云っても一括りに語れないのは多文化・多民族国家ゆえの複雑さですね。アメリカの人種・民族構成は白人が約57.8%、ヒスパニック・ラテン系が 約18.7%、黒人(アフリカ系アメリカ人)が約12.1%、アジア系が約6%、その他・混血などが約6.1%、アメリカ先住民・アラスカ先住民が約0.7~1%となってます。しかしアメリカの多様性は州や地域によっても大きく異なります。例えば、ハワイ州やカリフォルニア州では非ヒスパニック系の白人が少数派となり、アジア系やヒスパニック系が人口の大きな割合を占めるなど地域差が大きいのですね。そこで問題を絞り込むために白人社会だけに的を絞ると、所得の上位5%、年収20万$以上の富裕層は特定の地域に住んでるのです。VIPの住むこの高級住宅地は「スーパージップ」と呼ばれてます。「ジップ」とは「ZIP CODE 」、つまり郵便番号のことです。アメリカの郵便番号は基本5桁とプラスで下4桁から構成されてますが、実際には州の略称と5桁の方だけを書けば郵便が届くシステムです。こうした普通のジップコードに対して「スーパージップ」は郵便番号別のランキングのこと。居住者層における大卒者の比率と平均収入の高低を郵便番号ごとにランクづけし、0~99までの数字で、上下を表すと、95以上のZIP CODE がスーパージップで、全米で650ヶ所が該当することになります。この場合の大卒者の比率は70%です。スーパージップがもっとも集積しているのはワシントンで、他にニューヨークとサンフのシリコンバレーがあり、ロスやボストンがそれに続きます。ワシントンに知識層が集まるのは「政治」に特化した特殊な都市だからです。この街でのビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなどきわめて高い知識と学歴を有してないと得られません。ニューヨークは国際金融、シリコンバレーは情報通信産業で世界経済を牽引し、ロスはエンタテイメント、ボストンは教育の中心地ですね。スーパージップに住む上流階級はマクドナルドのようなファーストフード店には近づかないし、アルコールはワインかクラフトビールで煙草は吸いません。アメリカでも新聞の購読者数は減ってますが、上流階級はリベラル派がニューヨークタイムズ、保守派はウォール・ストリート・ジャーナルに毎日目を通し、「ニューヨーカー」や「エコノミスト」などの雑誌を定期購読してます。間違っても、過激なゴシップやスキャンダル、UFOなどの都市伝説を扱う週刊誌「ナショナル・エンクワイアラー」を定期購読してるなんてありません。戦前はもちろん戦後も1960年代くらいまで、アメリカの富豪は庶民とたいして変わらない生活してました。金持ちになればハイボールがジムビームからジャックダニエルになり、乗ってる車がシボレーではなく、ビュィックやキャデラックに変わりましたが、異なる文化コンテンツを持ってたワケではありません。1970年代でさえ、65%の家庭が中所得地域に住んでいました。 べバリーヒルズのように、「リッチマンが住むエリア」」と云うのはあったことは有りましたが、その頃の境界線は曖昧で、こうしたスーパーリッチエリアにも、肉屋さんがあったり、工場が近くにあったりといった多様性が存在していました。しかし1980年代以降、とりわけ21世紀になって、アメリカ社会に大きな変化が生まれたのです。それは日本でも云えますね。国民の大多数が自身を中産階級と認識していた「一億総中流」時代は、1970年代~バブル景気を迎えた1980年代まで。その後、バブル崩壊と1990年代後半からの非正規雇用の拡大により、中産階級の割合は低下し格差社会へと移行したのと同じです。今日では富の2極化がすすみ、上流階級は庶民とは全く異なる文化を生きてるのです。逆に一般庶民が暮らす社会では、働く気がなかったり、薬物やアルコールに溺れたり、赤ん坊を置いて遊びに行くような問題行動をとる住人が急激に増えてます。その割合が限界を超えると地域社会は重荷を負えなくなり、コミニュティは崩壊して町全体が「下層階級」に堕ちてしまう。つまり美徳は「善良な95%」ではなく、「強欲な5%」のなかにかろうじて残されてることになるのですね。彼らはきわめて高い所得を使って、親たちが彼らに望んだ「古き良きアメリカの理想の家族」を忠実に演じきってるのです。これを日本に置き換えると、高額マンションの購入では現金とローンの比率はおおむね、現金20~30%、ローンが70~80%です。しかしトップクラスの高額マンションになると現金購入が約60%にも跳ね上がります。超富裕層やリタイア層の購入とは別に、投機目的が大半を占めるのでしょうが、高ければ高いほど現金が多いのです。日本はアメリカのような深刻な人種問題はないし、ほとんどの富裕層は庶民とそう変わらない生活をしています。だから「知能による社会の分断」とは無縁ですが、それでも日本における純金融資産5億円以上の「超富裕層」の割合、全世帯の約0.2%(約500世帯に1世帯)と1億円以上の「富裕層」が日本全体の金融資産の約1/4以上を保有しているのです。
Jun 27, 2026
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記憶には「感覚記憶」と「短期記憶」、そして「長期記憶」と云う3つのシステムがあるそうな。目や耳、鼻などの感覚器官でとらえた外部刺激を、約1秒保っておくのが感覚記憶だとか。その際に「パターン認知」と云う処理がおこなわれるらしい。たとえば車を見て「ベンツだ!」と思うなど、自分の記憶のパターンに情報を結びつけ、重要な情報だと判断されたものだけが短期記憶に送られるのです。短期記憶になると感覚記憶より覚えてる記憶量も時間も長いが、それでもせいぜい数十秒。このとき繰り返し唱えたり、語呂合わせをしたりすると記憶は定着しやすい。こうして強化された記憶の一部が長期記憶に送られ、記憶として保存されるのだとか。長期記憶は、その内容により2パターンに分けられます。ひとつは、言葉では記憶されないが、行動にはできる「手続き記憶」。たとえばチャリに乗るとき、人はいちいち「先ずハンドルを握り、ペダルをこぎ...」なんて考えなくても乗れますね。これが手続き記憶です。もうひとつのパターンは、言葉によって記憶されるもので「宣言的記憶」と云います。宣言的記憶には「自転車とは2輪の乗り物である」と云った知識としての記憶を表す「意味記憶」。それと、自転車を見ると子供のときに練習をした体験を思い出すような「エピソード記憶」に分類されます。なので初対面の人に自分のことを覚えて欲しいなら、面白い話をしたりしてエピソード記憶を増やすようにすればいいのです。ちなみに移動手段として定期的にチャリに乗ると、認知症のリスクが19%、アルツハイマー病が22%軽減できると云う研究結果がでてます。サイクリングは中強度から高強度のトレーニングで、バランスも必要なので、記憶にとって重要な脳領域のサイズを増やすのに役立つ可能性があるそうな。これはウォーキングよりも複雑な脳機能が必要となるため、認知症のリスクを軽減する効果があるとしているのです。さて、ここからが私のようなオジン(高齢者)の切実な悩みについて。歳をとると記憶力がどんどん低下して、私なぞ昨日食べた食事メニューさえ忘れてしまってる。これは加齢のせいだろうか?せいだろうなぁ...大脳皮質のなかに1,000億個あると云われる脳の神経細胞「ニューロン」は日々死滅していきます。その数、1日に10万~20万個ずつと云うから、そりゃあ記憶力が加齢とともに衰えていくのは仕方ない。ところが記憶に関する心理学の実験では、60代までなら一時的に記憶できる能力は20代とさほど変わらないらしい。問題は、記憶したことをそのときどきの必要に応じて思い出す能力が加齢とともに衰えてくること。とは云え、記憶したものを見て思い出す能力が60代でも、20代に引けを取らない人もいます。単純に年齢だけを言い訳にしてばかりもいられない。忘却の大部分は、覚えたことを忘れてしまってるのではなく、思い出すことに失敗してるだけ。「アレの名前が喉元まで出かかってるのに...」ですな。記憶は常に正しく思い出されるワケではありません。思い出すときに自身でも気づいてないような偏見が反映されたり、空想が混ざったりすることがあります。心の奥底で「バイアス」がかかるのですね。事故を目撃した後、誘導尋問によって証言が変わってしまうことが、数々の心理実験で証明されてます。人間の長期記憶には、原則として記憶量の上限はなく、いつまででも残ると云われてる。ただ実際は、覚えたことすら忘れてしまったり、思い出せずに終わってしまうことも少なくない。記憶を思い出すには3つのパターンがあります。きっかけがなくても思い出せる「再生」。きっかけがあれば、既知のことは思い出せる「再認」。そして、いくつかの記憶を組み合わせて再現する「再構成」です。どっちにしても興味のないことは、覚えてないものです。
Jun 26, 2026
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ドイツ菓子ユーハイムやゴンチャロフ製菓と並び、神戸の菓子ブランドのひとつとして有名な「モロゾフ」。この会社は1931年(昭和6年)に白系ロシア人フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフによって設立されたものです。このフョードルはロシア革命が勃発すると、家族を連れて中国の黒竜江省ハルビンへ逃れます。ハルビンを拠点に貿易を行い、反革命側の白軍を支援しようとしましたが計画は頓挫。1923年、家族とともにハルビンを離れアメリカのシアトルへ移住したが生活が成り立たず、1924年シアトルを離れ日本の神戸へ移住しました。神戸では初め羅紗(ラシャ)の卸売を行っていたのですが、日本が急速に西洋化しようとしていることに目をつけ、西洋の食料品を売る事業を興そうと考えます。そして白系ロシア人の菓子職人を雇い神戸トアロード103番地に「モロゾフ」を開店するのです。このフョードルが神戸に来たとき始めた羅紗の販売は何もフョードルの専売特許ではなく、当時、日本に住んでた白系ロシア人がこぞって手を染めた職種だったのですね。その行商が日本人の間に洋服を広めるひとつの要因になったのです。しかし戦前にそんなにロシア人が多かったのでしょうか?日本は歴史上、亡命者や難民をほとんど受け入れてこなかった国です。ところが戦前のある時期だけ、一度にまとまった数の亡命者を受け入れたことがあるのです。その亡命者とは1917年3月、ロシアで起こったレーニンを中心とする革命軍によって命の危険を感じた反革命側の200万の人々が安住の地を求めて国外に亡命したのですね。ロシア人の主な亡命先は欧州の近隣諸国が多かったのですが、日本にも約1,600人が亡命を希望し、日本政府はこれを受け入れたのです。1,600人と云う数字は正式な登録を行った者だけなので、未登録の者まで含めると、実際には数千人規模にまで膨れ上がったと考えられてます。日本にやってきたロシア人たちは釧路や旭川、函館、東京、横浜、神戸、長崎などに分散し、各地で生活を営みました。日本の地を踏んだ彼らの中には、一度落ち着いた後に、別の国に向かう人もいましたが、なかには日本にうまく同化し、余生を日本人として送った人も多かったのです。昭和の大横綱 大鵬幸喜の父親はウクライナ出身です。大鵬はサハリン生まれですが、ウクライナ東部ハルキウ出身のウクライナ人であるマルキャン・ボリシコと、日本人の母との間に生まれました。マルキャンはコサックの血を引く騎兵隊将校で、ロシア革命後に日本領だった樺太(サハリン)へ渡り、その後ソ連軍の進駐によって家族離れ離れになりました。冒頭で述べたフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフの息子ヴァレンティンは、太平洋戦争終戦後に「コスモポリタン製菓」を設立します。これも神戸市の老舗洋菓子メーカーのひとつです。また日本にパン食が浸透してなかったロシア革命当時、ロシア人が主食としていたパンはロシアパンとして驚きをもって迎えられました。その他にはボルシチやピロシキが広まったのも彼らの功績です。ピロシキと云えば私たち関西人は「パルナス」のピロシキ。1947年(昭和22年)に神戸で創業し、後に大阪に移転したロシア風菓子店です。オーナーは日本人でしたが、ロシアの女性菓子職人イェヴドキヤ・オージナが技術指導を行い本格的な「パルピロ(ピロシキ)」を販売してました。しかし2002年にこの会社は解散してます。日本にバレエを普及させた最大の功労者は、ロシア出身の舞踊家エリアナ・パヴロバです。1927年に来日して鎌倉に日本初の本格的なバレエスタジオを開設。全国を巡業してバレエの魅力を広め、多くの後進を育成して日本のバレエ界の基礎を築きました。彼女のスタジオからは、後に日本のバレエ界を牽引する東勇作、服部智恵子、貝谷八百子などのスターダンサーが多数輩出されました。彼女は1937年に帰化して霧島エリ子と名乗りました。日本の野球界にもロシア人投手がいました。沢村栄治と並ぶ日本プロ野球黎明期の大投手で、長身からの角度のある豪速球のスピードは沢村とも並び称され、巨人の第1期黄金時代の中心投手として活躍したヴィクトル・スタルヒンです。1937年春~1940年まで5シーズン連続で最多勝利を獲得したスゴイい投手です。スタルヒンはウラル山脈のふもとペリムと云うとこでロシア貴族として生まれました。ロシア革命によって革命軍の標的になることを恐れた一家はロシアを脱し、中国のハルビンに向かいます。そこから日本に亡命しようとしたのですが、日本の白系ロシア人受け入れ条件は厳しく、亡命者ひとりにつき1,500円(現在の約170万円)の所持が必要でした。一家は家族3人分4,500円を工面するため、持ってきた宝石を売り払ったのですね。入国を認められた一家は北海道の旭川に落ち着き、そこで行商を始めました。商売は軌道に乗り、数年後にはミルクホールを経営するまでになったのですね。スタルヒンも旭川の生活になじみ、野球を始めると持ち前の豪速球でたちまち注目の選手になります。そして迎えた高校3年のとき、来日したアメリカ大リーグ選抜チームと対戦するために結成された全日本選抜チームに選ばれ、その後、このチームを母体に設立された「大日本東京野球倶楽部」に引き抜かれたのです。この大日本東京野球倶楽部こそ、現在の読売ジャイアンツです。しかし旭川では地元を捨てた裏切り者よばわりされ、夜逃げ同然で東京に向かったそうです。スタルヒンはプロ入り3年目から頭角を現し、1937年には28勝、翌年は33勝、さらに翌年には68試合登板し、当時、日本記録の42勝をマーク。この年の巨人の勝ち星は66勝だったので、スタルヒンひとりで2/3を上げたことになります。そんな英雄的投手にも関わらず、スタルヒンは亡命者と云うことで国籍がありませんでした。そのため遠征にいくたび警官から取り調べを受け、また、街中では理由もなく憲兵に絡まれたりしました。そして1939年にノモンハン事件が起こるなど、日ソ間の関係が悪化したことから、スタルヒンは軍部からスパイの容疑を受けます。スタルヒンは軍部に呼び出され、水道橋駅から後楽園球場へ行く途中、船で軍需物資を運搬しているため橋の上から神田川をのぞき見ることの禁止、球場の外野スタンドに立てられた旗を見ることは旗から風力・風向など天気情報を見極めてソ連に伝達することを懸念して禁止されます。この状況下で、エースであるスタルヒンが憲兵に潰されてしまうことを懸念した名古屋金鯱軍代表の赤嶺昌志の勧めにより、1940年にスタルヒンは須田博に改名しました。しかし、太平洋戦争が激化した1944年には巨人から追放され、敵性人種として軽井沢で幽閉同然の生活を送ることになります。戦後、プロ野球が再開されると、巨人からの誘いを断り、パシフィックに入団。引退後は司会業などをしてましたが、1957年、不慮の事故で帰らぬ人になってしまいました。
Jun 25, 2026
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運動には無酸素運動と有酸素運動があって、私が通ってるリハビリ施設にはどちらの運動にも対応できる器具が多数設置されてます。このうち無酸素運動は、短時間で筋肉に強い負荷をかける強度の高い運動のことですね。運動中に酸素を使わず、筋肉に蓄えられた「糖質」を主なエネルギー源として使用するため、この名前がついてます。なにも呼吸しないで運動することではありません。無酸素運動の効果は筋肉が鍛えられ、たくましい体を作ることと筋肉量が増えることで、日常生活でもエネルギーを消費しやすい太りにくい体になります。器具を使わない無酸素運動の代表的なものがスクワットや腕立て伏せですが、こうした運動は数分しか続けられないような、息を止めてしまうほどの強い負荷をかける運動なので無理せずできるだけ毎日続けることが肝要ですね。これに対し有酸素運動は、ウォーキングや水泳のように、酸素を取り込みながら比較的軽い負荷を長時間続ける運動のことです。私が通ってるリハビリ施設にはルームランナーの他に、エアロバイクやスピンバイクなどが揃ってます。しかし、こんな器具を使わなくてもジョギングやウォーキング、サイクリング、水中ウォーキングなどを続ければ効果的な有酸素運動になりますね。有酸素運動をおこなうと、体内の糖や脂肪をエネルギー源として燃焼させるため、ダイエットや生活習慣病の予防、心肺機能の強化などに高い効果があります。なにより心臓と肺の機能を高めるのは、疲れにくい体を作るのに必須ですね。それとともにストレス解消にも役立ちます。有酸素運動をするにあたっての留意点は、息が完全に上がらず「少しきついけれど会話ができる程度」のペースが最も効果的なんですね。それとともに、よく云われるのが有酸素運動は1回あたり、20分以上続けて運動しないと意味がないと。しかし、実はこれは勘違いなんです。実際には、5分や10分など、ちょっとした時間の運動でも体脂肪はきちんと燃えてるのです。ではなぜ「20分以上運動しないと意味がない」と云う説が生まれたのか?それは、運動を始めると、糖質と蓄えられてる脂肪がエネルギーとして使われるのですが、最初のうちは脂肪がエネルギーとして使われる割合が少ないからです。およそ10分で脂肪が使われる割合が増え始め、20分たつと糖質より脂肪が使われる割合の方が多くなります。つまり「20分以上運動しないと...」説は、それくらいになると脂肪の燃焼効率が高まると云う話が、中途半端に広まった誤った常識なんですね。有酸素運動は何も器具を使ったり、毎日欠かさずジョギングしたりしなくても、例えば通勤、通学のときに、少しだけスピードアップして歩くだけでも効果があります。呼吸が苦しくなって、息があがるほど頑張ってしまうと、却って負担が大きすぎるので、その点だけ注意して。とにかく続けることの方が大切ですね。
Jun 24, 2026
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海上自衛隊の艦艇は、大きく水上艦艇と潜水艦の2つに大別されます。潜水艦は役割が明確ですが、水上艦艇にはさまざまな種類があり、素人には役割が判然としないことも。その中で海上自衛隊の主力となる水上戦闘艦が護衛艦です。護衛艦の中にもイージスシステム搭載のミサイル護衛艦(DOG)や近海警備用のDE、最新の多機能護衛艦(FFM)など細分化されてるのですね。イージス艦は、防空戦闘を重視して開発された艦載武器システム「イージスシステム」を搭載した艦艇の総称で、高度なシステム艦として構築されています。この艦は、フェーズドアレイレーダーと高度な情報処理・射撃指揮システムにより、200を超える目標を追尾し、その中の10個以上の目標を同時攻撃する能力を持ってるのですね。で、今日のテーマなんですが、海上自衛隊では護衛艦への女性配置制限が2008年に撤廃されました。これを皮切りに、女性自衛官が実戦部隊の指揮官としてキャリアを積むケースが増加したのですね。その海自における女性リーダーのパイオニアが大谷三穂1等海佐なんです。大阪出身の大谷三穂さんは、龍谷大学文学部在学中の2年生のとき、大学の下宿先で湾岸戦争のニュースを見て「愛国心を覚え」、防衛大学校への進学を決意するのです。そして家族の反対を押し切り、1992年(平成4年)女子1期生として防衛大学に入学します。入学当初は航空要員を希望していたのですが海上自衛隊に配属され、練習艦「なつぐも」で最初の勤務を迎えます。その後、防衛大学校の指導教官や海上幕僚監部などの勤務を経て、2011年、練習艦だった「あさぎり」の副長に就任しました。そして2008年に護衛艦への女性の配置制限が撤廃された後、2012年に「あさぎり」が護衛艦籍に復帰したことに伴い、女性初の護衛艦副長となるのです。ここから彼女の本格的なキャリアがスタートするのですね。2013年には練習艦「しまゆき」艦長に就任します。さらに2016年には「やまぎり」艦長に就任し、女性初の護衛艦艦長となりました。やまぎりの乗員数は220名。基準排水量は3,500トン、長さ137m 、幅14.6m 、喫水が4.6m 、ガスタービン4基で54,000馬力。62口径76mm 速射砲と高性能20mm 機関砲の他に短SAM装置、SSM装置、アスロック装置、3連装短魚雷発射管を備える高性能艦です。ちなみに大谷さんは22代「やまぎり」艦長ですが、24代、26代やまぎり艦長も女性が努めてます。そして大谷さんは2019年に「みょうこう」艦長に着任し、女性初のイージス艦艦長となりました。イージス艦が備えるイージスシステムは、遠くの敵機を正確に探知できる索敵能力、迅速に状況を判断・対応できる情報処理能力、一度に多くの目標と交戦できる対空射撃能力を備える画期的なシステムです。このおかげでイージス艦は同時に多数の空中目標を捕捉し、これらと同時に交戦できる、極めて優秀な防空艦なんですね。イージスシステム以外にも、イージス艦が搭載する全ての兵器はイージスシステムのコンピュータを中核として連結され、イージス戦闘システムと呼ばれる統合システムを構築しています。これによってイージス艦は、対空・対艦・対潜など、戦闘のあらゆる局面において、脅威となる目標の捜索から識別、意思決定から攻撃に至るまでを迅速に行なうことができるオールマィティな艦なんですね。大谷さんは、2021年に統合幕僚学校教育課 第1教官室学校の教官、翌年には練習艦「かしま」艦長に就任し、2023年に自衛隊神奈川地方協力本部長に就任します。さらに2026年には横須賀地方総監部 管理部長の重席を務めるまでになりました。しかし自衛隊初の女性練習艦艦長は、大谷さんとともに防衛大学校女子第1期生として卒業した東良子さんが、大谷さんより数ヶ月早く努めてます。この年、東さんはソマリア沖・アデン湾の海賊対処行動水上部隊指揮官として派遣されてます。2018年には女性初となる第1護衛隊司令に着任しました。さらに航空自衛隊では輸送機や救難機のパイロットの女性配置制限を撤廃していましたが、戦闘機パイロットだけは高ストレス・高リスクな職域で、肉体的負担が高いことや直接戦闘地域に出向くことから配置制限を残していました。しかし2015年にこの制限が撤廃されると、戦闘機操縦課程を志し、その女性第1期生に選ばれた女性がいます。松島美紗さん。彼女は2018年、日本人女性として初の戦闘機パイロットとなったのです。陸上自衛隊史上初の女性将官は横田紀子さんです。横田さんは、地対艦ミサイル連隊をかわきりに、野戦特科部隊中隊長などを経て、陸上自衛隊富士学校主任教官や湯布院駐屯地司令にまで上り詰めた方です。戦闘職種の中隊長および連隊長、駐屯地司令、陸将補昇任、陸上自衛隊の団長職などに任命された陸上自衛隊女性で初ずくしの人物なんですね。2歳の息子を家族に預けイラクに派遣されて以降、C-130H輸送機の機長としてさまざまな任務に従事してきたのが樋口美登里さん。現在は、第1輸送航空隊の運用班長としてC-130H輸送機などの任務計画を担当してます。ミサイル艇、初の女性乗組員として「しらたか」で勤務しているのが林亜姫さん。しらたかで勤務する女性は2人だけですが、ミサイル艇は乗組員が少なく、実にさまざまな業務をこなしてるのですね。ミサイル艇は小型で速度が速いため揺れが大きく、出港中は船酔いとの闘いらしい。今は潜水艦を除く全ての艦種に女性が乗れるようになり、女性自衛官の活躍の場が広がってます。ミサイル艇「しらたか」高速航行 他の艦艇をどんどん追い抜いて航行してます
Jun 23, 2026
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1299年にアジア大陸の最西部アナトリアの小国家として誕生し、1922年まで600年以上に渡りヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸にまたがる広大な領域を支配した巨大イスラムのオスマン帝国。このオスマン帝国軍がトルコ東部の標高2,134m の「ネムルト山」を偶然に行軍したとき、山頂部が人工的な建造物だと云うことが発見されました。紀元前162年、クレオパトラが統治してたプトレマイオス朝のミトリダテス1世はヘレニズム文化を取り入れました。ミトリダテス1世はヘレニズムとペルシアの2つの文化を承継した王ですが、この後継となったコンマゲネ王国の王アンティオコス1世が紀元前62年に建てた遺跡がネムルト山の山頂にあったのですね。直径152m 、高さ49m の頂上部には王の座像のほか、2羽の鷲、2頭のライオン、さまざまなギリシャ神話やペルシャ神話の神々の像などが並んでいるのですが...とてつもない大きさのこれらの石像はみんな首が無いんです。そして首は別の場所に林立してる。これらの像に関する記述が西のテラス裏側に刻まれた古代ギリシア文字の碑文に残されてました。ある碑文には石像のひとつは古代ギリシャ・ローマ世界の最高神ゼウスだと。しかし同時にゾロアスター教の最高神であるアフラ・マズダのオロマズデスの名もつけられてます。実はアンティオコス1世は、ゾロアスター教を信奉してると自身が残してるのですね。つまりこの山の遺跡は古代ギリシャと古代ペルシアで発祥した世界最古の宗教ゾロアスター教の融合したものなのです。石像の下には破壊された5枚のレリーフが建たってましたが、復元するとその内4枚は石像と同じ神々と握手するアンティオコス1世が描かれてましたが、1枚は19個の星がちりばめられたライオンが描かれてました。これらの星はしし座や火星、水星、木製なども記録されてます。天文学者によると星の並びが同じになる日は紀元前62年7月7日、アンティオコス1世がコンマゲネ王国を即位した日なんですね。ネムルト山の山頂部分にアンティオコス1世の墓があり、玄室も存在するとされてますが、実は小石を人工的に積み上げて造られているため、崩落の危険性が非常に高く、発掘後の復元の可能性が低いことから、発掘調査ができないのです。玄室自体も小石を積み上げて造られていると推定されており、盗掘防止のための措置と見られています。このような建造技術は現代には伝わっていないため、復元は不可能という意見が大半を占めてるのですね。では首の無い石像と首だけの石像の関係は?首は石像の足元に散在し、一部は鼻が損壊されてます。プレート同士がぶつかる断層から5km しか離れてないため、地震のために頭部が転げ落ちたとする説と、イスラム教徒による偶像破壊運動の一環とする説のふたつがありますが、事実は分かってません。
Jun 22, 2026
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ファッションデザイナーの森英恵の孫でファッションモデル、タレントをこなす森泉は大の生き物好きとして知られていますね。現在飼っている代表的な生き物は保護犬を始めとするワンちゃん8匹、ルリコンゴウインコ、モモイロインコ、ゴシキセイガイインコなどインコ類の他、烏骨鶏など鳥が17羽、アルダブラゾウガメなどリクガメの他、ナマケモノ、ミニブタの「キャロット」、フェレット、ハリネズミ、トカゲなどの爬虫類多数。多種多様な生き物約30匹と同居しています。ヤギと同居している国会議員と云えば国民民主党の榛葉賀津也 参議院議員ですね。静岡県菊川市の自宅で「ケビンファミリー」と呼ばれるヤギたちを長年飼育しており「ヤギおじさん」の愛称でも親しまれています。対して衆院選の宮城2区で当選した立憲民主党の鎌田さゆりは、遊説に連れていたペットのヤギを選挙が終わったら「里親に引き渡す」とSNSに投稿。「選挙に利用しただけなのか!」と批判が殺到する事態となりました。海外に目を向けると2021年、愛するフレンチブルドッグ2匹が誘拐されたとき、躊躇することなく懸賞金50万$(約5,400万円)を提示して救おうとしたレディ・ガガ。この愛ワンの名前は「アジア」と弟「コージ」、そして「グスタヴォ」。アジアちゃんは、高級ブランド「COACH(コーチ)」のイメージドッグに選ばれたりとモデルとしても大活躍でこれに誘拐犯が目をつけたんですね。この事件はロサンゼルスで散歩代行の男性が銃撃され、愛犬3匹のうちコージとグスタヴォの2匹が強奪されました。別の事件に関与したとして逮捕された男女5人のうちのひとりの女が「犬を見つけた」と警察に届け出て、2匹は無事にガガの元へ戻りました。実行犯の男は殺人未遂で禁錮21年の判決。警察に犬を届け出た女ジェニファー・マクブライド被告が、「無事に戻れば報奨金を支払う」という約束が果たされていないとしてガガを提訴。しかし裁判所は、マクブライド被告が犯行グループの一員であることを理由に「報奨金を受け取る法的権利はない」とし請求を退けました。そりゃあそうやろ!そんなガガが、マリブの約25億円の豪邸に日本から迎えたペットは「鯉」。6万$(約655万円)支払い、27匹の錦鯉を日本から購入して、美しく装飾した自宅の池に放ったそうです。映画「Michael/マイケル」で人気復活のマイケル・ジャクソンは、来日した時に「バブルス」という名のチンパンジーを連れて歩き世界中で大きな話題となりましたね。古くはオードリー・ヘップバーンが「ピピン」と云う名の小鹿と同居していたことも有名です。1930~50年代のセントルイス出身のジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーは、ペットのチーター、愛称「チキータ」を舞台によく登場させてました。たまに舞台から逃げ出すこともあったそうで、観客は肝を冷やしたそうです。チキータはベーカーと一緒に車に乗り、一緒に寝て、世界中を旅してたそうです。俳優のジョージ・クルーニーは1988年、当時のガールフレンドだったケリー・プレストンのためにブタの「マックス」をプレゼントしてあげました。しかし、すぐにケリーとは破局。それでジョージはケリーとの破局後もマックスをロサンゼルスの自宅で同居し続けました。寂しがり屋のマックスは、毎晩ジョージのベッドに飛び乗ってきてベッドを共にし、彼の人生において最も長い付き合いだったと語っています。そんなジョージの愛を受け続けてのびのび育ったマックスは、18年間生き、2006年に老衰で亡くなりました。このマックスの死がジョージにはよほどダメージだったらしく、もう二度とブタは飼わないと語っていたほどです。現在はコッカスパニエルの雑種、アインシュタインをシェルターから引き取って溺愛しているそうです。俳優のレオナルド・ディカプリオは「ケヅメリクガメ」と云う世界で3番目に大きい品種のリクガメ環境保護活動家でもあります。ケヅメリクガメは、もともとアフリカを中心とした砂漠地帯に棲息しているため乾燥に強く、最大で約83cm 、体重は70kg 以上、最大で100kg 近くにまでなる種類です。彼はこのケヅメリクガメを自身が映画「タイタニック」で演じた役名"ジャック"と命名してかわいがってるらしい。らしいと云うのは、彼がどこでどのようにしてこのカメを飼っているかまったく公表しておらず謎だからです。エキゾチックアニマルと同居してることで有名なのが俳優のニコラス・ケイジ。キングコブラ、ワニ、シャークに、15万$(約1,632万円)もするタコを購入。キングコブラはつがいで、メスは「シーバ」、オスは「モービー」と呼んでかわいがり、万が一かまれたときのために抗毒血清の注射を用意していたそうです。しかし近隣住民から不安がる声が上がったため、動物園に引き取ってもらったそうな。彼は絶滅した恐竜にも魅力を感じ、レオナルド・ディカプリオとオークションで競って、貴重なタルボサウルスの頭蓋骨を27万6,000$(約3,000万円)で落札。ところが、この頭蓋骨は盗品であったことが判明したためモンゴル政府に返還したそうです。女優のニコール・キッドマンはほとんどの生活をナッシュビルの邸宅で過ごしているのですが、シェルターから迎え入れた"ルイ"を含むにゃんこ3匹、2019年から飼っているワンちゃんなど、ペットに囲まれて過ごしています。そんな彼女の牧場には、アルパカが4頭同居してます。もともと長い首とふさふさしたアルパカのルックスが大好きで、「いつか飼うのが夢だった」というニコールの独断で飼い始めたようですが、アルパカはとても穏やかな性格のため、ふたりの幼い娘たちの遊び相手としても最高なのだとか。シンガーソングライターで女優のアリアナ・グランデと云えば動物の保護や救助、里親探しなどを支援する非営利の動物レスキュー・センター「Orange Twins Rescue」を設立したことでも知られてます。大の日本ファンですね。そんなアリアナが、2018年に迎えたのがキュートなブタ「ピギー・スモールズ」。インスタグラムのアカウントを立ち上げたりして溺愛してました。2019年のiHeartRadioミュージック・アワードでは、「最もキュートなミュージシャンのペット」にノミネートされたのですが、その後、近況をアップデートしなくなったのですね。ピギーについて質問を受けたアリアナは、ネット上で「料理された」「食べられちゃった」と云うジョークを云われてピギーが傷ついちゃって、「もう写真の投稿しないで」って云われたからだとか。
Jun 21, 2026
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今や全国的に広まり、日常会話の定番フレーズとして定着している大阪弁の「知らんけど」。「自分の云ってることは責任持てない」とか「間違っていても許してね」という意味を込めた魔法のクッション言葉ですね。元NHKアナウンサーで今は作家の下重暁子の著書に「老いも死も、初めてだから面白い」ってのがあります。この著作で下重は、若いころ友達から「あなたはせっかく真剣に話してるのに、まあねと逃げるとこがズルイ」と云われたとか。「まあね」、なかなか便利な言葉でどうでもいいと思ったときにこれを云えば話を打ち切れる。言葉を使う場面は違うけど、なんか「知らんけど」と同じでオールマイティな感じします。下重暁子の最大のベストセラーは、ミリオンセラーとなった「家族という病」ですね。家族のあり方に一石を投じ、大きな社会現象となりました。 しかしこの「老いも死も、初めてだから面白い」もなかなかにウンチクあって読み応えあります。下重は、「老いが現れると云うより、若さがイチバン現れるのが写真である」と述べてます。若いころの写真を見ると、「若いなぁ!」と感心する。「いったいあなたはだ~れ」。写真の年齢は隠せない。隠そうとも思わないが、最近撮った着物の写真を見た知人は、「いい具合に年をとりましたね」と云ってくれたので嬉しかった。私自身は昔の写真より、最近の写真の方が、中身を感じられて好きだと。下重はこうみえて、酒豪でならしてたのですね。ところが年とってからはあまり飲まないので、昔を知る人は「どこか悪いの?」と云うが、そうではなく、次の日に持ち越さぬよう気をつけているだけだとか。年相応の飲み方がある。好きな日本酒は今もよく飲むし、焼酎も嫌いでない。ワインも白をよく飲んでたが、最近は赤になった。好みはどんどん変わってく。カレーも胸やけして食べれなかったのが、今は大好物になった。若いころより何でも口にできるようになって、かえって健康になったのか? 年をとるのも悪くない。年を重ねた今の自分に、私はある態度満足しているのだとか。そうなんですよね、生き物はどれも間違いなく年とっていくのですから、年相応に楽しまなくっちゃ。なにも若いころにこだわることは必要ない。年相応に体力も落ち、疾病に悩まされることも多々ですが、それも人生と受け入れないと。下重は1936年〈昭和11年〉生まれだから、もはや90歳。対する私は1950年生まれの75歳で、もうスグ76歳。もうこれくらいの年齢になると36年生まれも50年生まれもへったくれもない。目の前にあるのは「死」と云う締め切りだけ。それに向かってひたすら歩いていくワケですが、困ったことにその締切がいつだか分からない。下重は、最近になって死からの逆算は考えないようにしてると。今から前へ先へと目を向けてる方が下重らしい。おめでたく...区切りなんて考えないでと語ってます。これからの自分の行方を見つめてやろう。そう考えると嬉しくなる。一度も経験したことない未来に向かうのだとも。「畳の上で死にたい」と人は云う。自分の家で親しい人たちにみとられてと云うこと。下重にそんな願望はありません。むしろ旅先で、死に場所を探してることが多いらしい。「ここはどうだろう」「いやこっちの方がふさわしい」と気にいった場所を値踏みしている。「死をもて遊んではいけない。バチがあたる」と云われそうだが、死を楽しんでもいいのではないか?暗いイメージも払拭される。下重が死を意識した場所はサハラ砂漠です。砂漠で死を迎えると砂に埋もれ干からびて骨も瓦礫になる。どの砂漠でも砂と一体になった風が吹いてる。そのまま眠って死の世界に入りたいと云う経験をしています。
Jun 20, 2026
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今日からミケランジェロ・フランマルティーノ監督の3作品が一挙に上映されますね。大阪は空中庭園近くのテアトル梅田で上映されます。ミケランジェロ・フランマルティーノはイタリアのミラノ工科大学建築学部出身の珍しい監督です。彼の長編映画はまだ「ザ・ギフト」「ザ・フォー・タイムズ」「ザ・ホール」の3作品しかありませんが、その秀逸な映像美にどの作品も高く評価されてます。ミケランジェロ監督の作品にはほとんどセリフがありません。彼は映像だけで自己世界を完結させる名人なんですな。そこには詩的で豊かな映像の連なりで物語を紡いでいく姿勢がはっきり表れてます。イタリア南部カラブリア州の小さな村を舞台にした最初の作品「ザ・ギフト」は、瞑想的な視野を通して田舎のコミュニティの日常生活を映し出してます。そこには村人の日常生活や静けさ、村人取り囲む自然など、田舎の生活の本質を捉えることに終始しているのですね。何げないとある田舎の日常生活と云う面白みのないテーマをとらえながら、それを映像の力で日常ではない風景に昇華させてます。2作目の「ザ・フォー・タイムズ」が私のイチバンのオススメ。この映画はカンヌ国際映画祭「監督週間」でスタンディングオベーションを浴び、世界中の批評家を熱狂させた作品です。物語は、イタリア最南端カラブリアの丘の村に暮らす老いた羊飼いがテーマ。病に侵された彼は、教会の床の塵を水に溶かして飲むという迷信的な治療法に頼っていました。ある晩、「魔法の粉」を使い果たした彼は絶望し、静かにベッドに横たわり、翌朝、眠るように息を引き取ります。その後、彼のヤギの群れは新しい牧夫に引き継がれ、その中から1頭の子ヤギが誕生すると云うお話。まさに輪廻転生を描いた、三島由紀夫の「豊饒の海」の世界なんですな。「ザ・フォー・タイムズ」トレーラーLe Quattro Volte - Theatrical Trailer3作目の「ザ・ホール」は2021年に公開されました。この作品は前2作とは大きく違い、イタリア南部にある大きな洞窟ビフルト・アビスの内部700m の深部で撮影されました。1960年代の好景気のさなか、若い洞窟学者たちが手つかずのカラブリア後背地にあるヨーロッパで最も深い洞窟を探索しています。地下700m にあるビフルトの深淵の底に初めて到達したのです。この探検は近隣の小さな村の住民には気づかれませんでしたが、ポリーノ高原の老羊飼いは気づいていました。羊飼いの孤独な生活が探検者たちと絡み始める。「ザ・ホール」は、生命と自然の未知の深みを巡る記録で、ヴェネチアで審査員特別賞を受賞しました。彼の作品はどれも人間と自然が混然一体となって描かれてるのですね。特集上映「ミケランジェロ・フランマルティーノの驚くべき世界」予告編
Jun 19, 2026
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五木寛之の小説に「戒厳令の夜」ってのが有りますね。占領下のパリからナチスによって日本へ運びこまれた1958年の解体まで存在した、南米ヌエバ・グラナダ共和国の画家パブロ・ロペスの「少女の像」の背後にある秘密を追う主人公の物語。この物語は後に樋口可南子や鶴田浩二主演で映画化されました。最後はヌエバ・グラナダに飛んで...しかし、その国では戒厳令が間近に迫ってたと云う物語。戒厳令ってのは2024年に韓国の尹錫悦 元大統領が発した「非常戒厳」の宣布のように必ず軍隊が関与します。戦争や大規模な災害、暴動などの非常事態で、国家の統治権の一部または全部を軍隊に移譲し、通常の法制度や市民の権利を制限する非常措置です。日本で最後に戒厳令が発せられたのは1936年(昭和11年)の「二・二六事件」のときです。青年将校らが起こしたクーデターを受け、岡田啓介内閣のもとで天皇が勅令により東京市一円に「非常戒厳令」を施行しました。この年に生まれた人は今年90歳。1947年(昭和22年)に日本国憲法が施行されて戒厳令は廃止されましたから、戒厳令を体験した人は極めて少数になります。現在、全土にわたり「戒厳令」が敷かれている国はウクライナです。ロシアによる軍事侵攻を受け、2022年に布告されて以来、期間の延長が繰り返されています。国単位の戒厳令ではありませんが、それに準ずる全土的な「非常事態宣言」や、一部地域での「戒厳令」が適用されている国もあります。ミャンマーではクーデター後、国軍によって治安が特に悪化している特定の地域・郡区に対して「戒厳令」が発令されています。またエクアドルでは、ギャングによる暴力行為や深刻な治安危機に対処するため、広範囲で「非常事態宣言」と「夜間外出禁止令」が発令されています。しかし戦争中だからと云って必ず戒厳令がひかれるとは限りませんね。ベトナム戦争中の旧南ベトナム首都サイゴン(ホーチミン市)では、政情不安や北ベトナム・解放民族戦線(ベトコン)の攻勢、大規模な反政府運動に際して戒厳令や夜間外出禁止令が断続的に発令れましたがいつも一時的なもので、普段の市民は普通に生活を続けてました。そうなんですよね、戦争中と云ってもこれが長引くと一般市民ってのはどんなに危険でもそれが日常化して危機意識が薄れるのです。私がタイに赴任した年ははっきりした記憶ないのですが、1972年(昭和47年)に起きた「あさま山荘事件」は日本で報道を観てたので、ぎりぎりこの年明けくらいに渡泰したと思います。このころの東南アジアは1974年の田中角栄による東南アジア歴訪が影響して、日本の急速な経済進出や日系企業の市場独占に対する不満が蓄積していたところに、経済格差や現地の生活苦が原因で激しい反日運動が巻き起こってた時代です。行った当初は道路の至るとこで日本車が焼き討ちにあってたの目撃しました。今、考えれば、よくこんな時期にタイに赴任したものです。それとともに、タイでは頻繁に軍事クーデターが起こってました。タイは王国で国王が絶対権力をもってるのですが、それとは別に内閣の主流派と非主流派が衝突して、これがクーデターに発展してたのですね。結局最後は国王が出てきて「いいかげんにしなさい!」で決着するのですが(笑)もっとも身近なのでは、1973年に権力中枢の不正蓄財が明るみに出て反政府運動が激化。これでタノーム首相らは辞任して国外に逃亡しました。さらに抗議に集まった学生・市民に対し軍が発砲して多数が死傷民衆運動を契機に民主化が進み、労働運動、学生運動、武装闘争方針をとるタイ共産党の活動が活発となっていったのです。これには軍部・右翼保守派も危機感を増してより強硬になりました。1976年には国立のタマサート大学で行われた学生演劇で王室に対する不敬があったとして、右翼が武装して大学を襲撃し発砲。死者100名以上と云う惨劇が起こりました。それを機に、民主化の進展を警戒した軍部がクーデタを決行して内閣を倒し、その後も、幾つかの内閣が軍によって倒されるという事態が続いたのですね。よくこんな環境化で7年も生活できたとお思いでしょう?ところがずっと戦争してる国の市民と同じで、あまりに頻繁にクーデターが起こると「あぁ、またか」程度になってしまうのです。第一、タイのクーデターの現場と云うのは毎度、王宮近辺なので、その辺りに近づきさえしなければよそ事。クーデターの度に戒厳令が敷かれて、夜間外出禁止になるのですが、それも慣れてくるとどうどうと無視。深夜まで飲み屋街で飲んだくれて、タクシーで帰ろうとすると警察にとっ捕まりますが、署に連行されても警官になにがしかのワイロを渡すと、冷房のない拘置所ではなく、冷房のきいた警官詰め所で朝まで。毎回、そんなで、警察官にビールとアテ買いに走らせて、警官たちと酒盛りの繰り返し。それが現実なんですな。そんなバンコク生活を7年やって帰国。それから何十年も経ってから、語学を見込まれて再びバンコクに出張が増えたのですが、2014年にインラック首相ひきいるタクシン派政権と反政府デモ隊の衝突により陸軍が全土に戒厳令を発令したことがありました。そのときバンコクに行ってた同僚が一足先に帰国する予定でスワンナプーム空港に送っている途中でこの戒厳令にひっかかったのですな。もう空港が見えてるのに、高速道路が立ち往生した車で身動きとれず。タクシーの運ちゃんと云うのはほとんどがタクシン派の出身地チェンマイ出が多く、たまたま乗ってたタクシーの運ちゃんもチェンマイ出身。なのでタクシーは反体制派によく攻撃されるんですな。そしたら高速道路の下から誰かがこっち向かってライフルを乱射してくるのです。こりゃあヤバイと思って、タクシーのシートに身をうずめて被弾から逃れてたら、タクシーの運ちゃんが「ハンドル握ってるオレはど~なるねん!」(笑)なんとか銃撃から逃れて、高速道路をUターンし、またぞろバンコク市内に引き返しました。それから空港が再開されて帰国するまで1周間くらいかかりましたね。てなワケで、戦争と同じで戒厳令も実際の経験と報道されるのとは大違い。日本で報道されるのはかなり誇張もあるし、事件の真っ只中と云うことで記者も興奮状態なんでしょう。そんな記者も戒厳令の夜だって飲み歩いてるのですから、い~かげんなモンです。
Jun 18, 2026
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私が若い人たちに一度は海外旅行を経験した方がいいと云うのは、日本国内だけでは理解できないカルチャーを知って見る目を大きくしていただきたいからです。それも日本人だけの団体旅行ではなく、個人で行動して、現地の人たちとどんどんコミニュケーションをとること。英語なんて母国語ぢゃないのですから、うまく話せなくてアタリマエ。そんな気概でとけ込んでいけば、意外とお互いの意思は相通ずるものです。とは云え、若いうちは仕事していてなかなか時間が思うようにとれないし、収入も充分ぢゃないのが悩みですね。高齢になって時間とお金に余裕できたときは、こんどは体力が衰えて体験したいことの1/10も果たせないのも悩みのタネ。世の中、うまくいかないものです。私は幸か不幸か若いうちにタイのバンコクに7年間も赴任して、タイを起点に周辺諸国も経験できましたが、ぢゃあタイに永住するかと云えばまったくその気にはなれませんでした。最大の理由は何年タイに居ても、永久に参政権はとれないと云うこと。どこまでいっても、外国人はしょせん「風の人」で、いつかは去っていく存在。異邦人でしかないのです。近年はインバウンドが非常に盛んで、訪日外国人が年ごとに増えてますが、彼らだってそのほとんどは「風の人」。日本に定着する外国人は極めて少ないですよね。なにより世界有数の難語である日本語習得がブレーキになってるでしょう。外国人にとって、意外にカタカナが最も厄介らしい。と、云うのはカタカナが使われる場面の多くは外来語を訳したものですが、その外来語の発音が日本流で、ほんとうの発音をトレースしたものでない。例えば「リンカーン(Lincoln)」を英語で発音すると、カタカナ表記の「リンカーン」とは異なり、後半が短縮された「リンカン(ˈlɪŋkən)」のような音になります。よくSNSなんかで欧米人観光客がサイゼリヤのパスタが、牛丼チェーンの牛丼が、立ち食いうどんが最高の味だったとか語ってるのあるけど、明らかに誇大広告でしょう(笑)それか祖国の外食がよほどプァなのか。それでもスタッフの接客マナーは最低限守られてますね。アメリカに行って感じるのは、飲食スタッフの程度の悪さ。これで20%のチップに最近はサーチャージを追加で要求される。これだけはアメリカ人でもガマンならん人が続出。そこいくと、日本はホテルスタッフでもチップを断ること徹底されてるから気持ちいい。って、昔は旅館の中居さんに心づけ渡してたけど、今はど~なんでしょうねぇ。YouTube なんかで訪日外国人が日本を褒めるのに、電車やバスが時間通りに発着するとか、公共の場ではみんな静かにしているとか、公衆トイレが至るとこにありしかも綺麗とか、子供だけで出歩けるし、夜、出歩いても治安がいいとか、24時間営業のコンビニや自販機がどこにでもあるとか、ゴミ箱が極端に少ないのに道にゴミ落ちてないとかetc 。しかし欧州の観光地見ても、道端にゴミ落ちてるなんて見かけるの少ないし、東南アジアでも繁華街の道はきれいに清掃されてます。逆にシンガポールくらい政府の指導キビシイ国でも一歩路地に入るとタバコの吸い殻たくさん落ちてたり。日本だって道にゴミが皆無かと云うと、そうではありませんね。不届き者が飲み物の缶やペットボトルを捨ててたり、コンビニの袋や食品の包装紙が風に舞ってたり。それでもニューヨークの車道と歩道の境目に捨てられてるタバコの吸い殻の山と比べたらカワイイものです。ど~やらこの現象は、海外には「使い捨てハイザラ」が存在してないことも影響してるような。食で云えば、日本のレストランや屋台に至るまで衛生管理が徹底されていて、安心して美味しい食事が楽しめることにとどめ差しますね。中国人みたいに道路であろうが、室内であろうが、ところ構わず痰やツバを吐く民族と大違い。そしてチョットしたカフェーでも荷物置きのカゴが設置されてたりとか配慮が行き届いてる。このホスピタリティは日本以外で見たことありません。ほんとうに日本のホスピタリティは世界一です。逆に日本はハラルフードやベジタリアン向けの料理を提供しているお店が少ないし、キャッシュレス決済が徹底されてなくて、今でも現金のみのお店も多い。先ず何よりも日本人の語学力の貧困さでしょうが、これは視点を変えれば日本に来てるなら最低限の日本語を勉強してこいよとも云える。アメリカ人みたいに世界中英語がまかり通ると思い込んでたり、中国人みたいにどの国行っても中国語で押し通そうとする方がよっぽどオカシイ。今はスマホの通訳アプリも充実してるのだから、やはり行った先の言語で話そうとする姿勢は大切ですよ。私は台湾行くとき、台湾で普通に使われてる「台湾華語」と呼ばれる中国語以外に、昔の台湾で使われてた「台湾語」も最低限の単語は勉強してから行ってます。もっとも帰国したらきれいさっぱり忘れてしまうので、毎度毎度の勉強になりますが。料理メニューは上海語の読み書きできるので、これで何とか理解できてますね。そうそう料理で云えば日本旅館の食事だけは世界一ですよ。あのメニーの多さと、綺麗に盛り付けられた料理の品々。器にまでこだわって。これがイチバン訪日外国人に経験してもらいたいところ。陳腐なビュッフェでは味わえない奥の深さを感じます。そこいくと、海外の料理はどこも味気ない皿盛りばかりですね。繊細さのカケラもないのはとにかく味と量を追求する外国人と、それに目で楽しむ日本人の料理に対する姿勢の違いでしょうね。アメリカみたいに、大食漢のアメリカ人でも食べきれないくらいポーション大きいのがいいことだみたいな人種とは大違い。それは蕎麦のような日常口にするものまで徹底されてますね。日本人の素晴らしいとこは、それが洋食や中華でも目で楽しむことに徹底してるとこ。それで美味しいのですから、そりゃあ外国人にしたら円安もあって何度でも訪日したくなるワケです。このこだわりは他の国では体験できないスゴイとこです。ジョリーパスタみたいなファミレスでさえこれですからねぇ。それに加えて春の桜、夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色と1年を通じて風景が劇的に変化してやっぱ日本人は感性で生きてく民族。それを知るには、若いときから海外に出て外から日本を見直すことが肝要です。これは日常に埋没してたら分からない世界です。虫の音を聞き分けられるのは日本人くらいで、外国人には騒音に聞こえるらしいですからね。
Jun 17, 2026
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ここで云う中国軍と云うのは現在の中国共産党が統帥する組織で、正規軍である中国人民解放軍を中心に構成されている軍隊のことです。確かに昔の中国は諸外国との戦争で連戦連敗、とんでもない体たらくでしたが、直近では日本軍に勝ったぢゃないか?と云うのは誤解で、日本軍と戦ったのは蒋介石ひきいる「国民革命軍」で、そのとき毛沢東ひきいる「中国共産党軍」は山奥に難を逃れて手出ししませんでした。先ごろ、習近平は中国人民解放軍の最高幹部を次々と粛清しました。粛清の理由は詳らかにされてませんが、英国BBCは巨額汚職と習近平の支配を脅かす組織内の派閥主義と推測してます。台湾併合を目指している習近平がナゼこの時期に人民解放軍の戦力が弱るのもいとわず軍のトップたちを粛清したのか。一節では人民解放軍のトップたちはこぞって台湾侵攻に反対だったとか。台湾侵攻すればアメリカが出てくる可能性が高い。対する人民解放軍は創設以来戦争に勝ったのは同じ中国人の国民革命軍とだけで、対外戦争に勝ったことは無いし、そもそも実戦経験者がいなくなってる。それで台湾侵攻に慎重だったのですね。人民解放軍が弱いもっとも良い例がベトナム戦争後に起こった「中越戦争」に集約されてます。「中越」の中は中国ですが、「越」はベトナムのことです。中国はベトナム戦争中、ベトナムを支援してましたが、戦争後いっきに関係が悪化して1979年、中国軍が一方的にベトナムを侵略したのですね。中国軍は一時、ベトナム北部の主要都市を占領するのですが、後にベトナム側の対抗に苦戦し、すたこらと撤退してしまったのです。ことの起こりは当時カンボジアを独裁支配してたポル・ポト率いるクメール・ルージュ政権に対するベトナムの侵攻です。ポル・ポトは自国民に対して1日十数時間の過酷な強制労働を強いた上、国民は満足な食事や医療が与えられないどころか、少しのミスや政府への批判とみなされると次々と処刑や粛清を行ってきた史上最悪の人非人です。ポル・ポトの政策によって餓死や病死を含め、最大200万人が死亡する大惨事となりました。このポル・ポトを政権の座から追い落としたのがベトナムだったのです。そもそも事の起こりはカンボジアが先に手を出したのが発端です。理由はベトナム戦争後、ベトナム共産党が優勢な軍事力でインドシナ連邦を形成しようと策動していることを恐れたことから始まりました。ベトナムの計画を阻止するため、クメール・ルージュ政権はベトナムで訓練を受けた同志を粛清し、1975年ベトナムに対する戦争を開始したのです。対抗するベトナム軍はベトナム戦争で鍛えられた百戦錬磨のつわ者。たちまちクメール・ルージュは四分五裂し、カンボジアの国民は救われたのですね。ところが、これを快く思わなかったのがクメール・ルージュ政権を支援してた鄧小平ひきいる中国。「中越戦争」は中国がベトナムへ懲罰として侵攻することで始まりました。実は、この戦争には中国、ソ連(ロシア)、そしてアメリカの存在が大きく関与してます。1950年代まで中国とソ連は同じ社会主義の兄弟のような関係でした。ところが1960年代に入ると、両国の関係はいっきに悪化します。ソ連のフルシチョフが先代指導者スターリンの犯罪を告発したことがきっかけとなって、毛沢東はこれを社会主義の裏切りとみなしたのですね。これが契機になって中ソ国境紛争にまで発展するのです。1969年にはウスリー川の珍宝島で両国が交戦しました。もはや中ソは敵同士に発展したワケです。この時点でベトナムはソ連寄り、対するカンボジアは中国寄り。これの前提が1972年にニクソン大統領が北京を訪問し、米中関係が劇的に改善したことです。まだベトナム戦争が終結する前のことです。ベトナムからすればアメリカと懸命に戦ってる最中、その敵であるアメリカと手を組んだ中国はもはや同盟国ではありません。これが契機となってベトナムは1978年にソ連と友好協力条約を締結。事実上の軍事同盟です。これに対し当時の中国の指導者 鄧小平はアメリカを訪問します。表向きの訪問理由は中米国交正常化の祝賀でしたが、カーター大統領との首脳会談で中国側はベトナムへの軍事行動を打ち明けたのです。これが中国がベトナム侵攻の2周間前。カーターは自制を促しましたが、明確に反対はしませんでした。なぜアメリカの了承を中国が得ようとしたのかはソ連の存在です。中国がベトナムに侵攻したとき、ソ連がベトナム側につくと両面戦争をしなければなりません。これでは中国が勝てるワケないので、アメリカを巻き込んで、中国・アメリカ・ソ連の三つ巴の体制を作ろうとしたのですね。これによってソ連は安易にベトナム派兵ができなくなると、敵はベトナム一国。力の差が歴然としてます。こうして1979年2月15日、鄧小平はベトナムに対する懲罰的軍事行動を発表します。中国の投入兵力は20万人以上、対するベトナムの国境守備隊は10万人に満たない。中国は自信満々で中越戦争に臨んだのですね。そして中越国境で人民解放軍の1,500門の大砲が一斉に火を噴きました。それに続いて歩兵部隊が3方向からベトナムに突入します。彼らは国境沿いの主要都市を制圧してたちまち撤退する計画で、長くても2周間で片付くハズでした。ところが最初の3日間で中国軍は数千人の死傷者を出します。予想もしなかった損害です。その理由は人民解放軍が本格的な戦闘を経験したのは26年前の朝鮮戦争が最後、朝鮮戦争当時と同じ人海戦術で突撃を繰り返すばかり。対するベトナム軍はベトナム戦争で大国アメリカ相手に互角以上の力を発揮したつわ者ぞろいです。しかもベトナムの地形はほとんどが山岳地帯とジャングルで、戦車や装甲車両の待ち伏せ攻撃は容易ですが、敵を発見するのは困難です。ゲリラ戦にたけたベトナム軍はRPGロケットランチャーで数十両の戦車と装甲車が最初の数日間で破壊されたと云います。しかもこの時点で国境を守ってたのは、国境警備隊、地方軍、民兵中心で、ベトナム正規軍主力はカンボジアに駐留したままだったのですね。人民解放軍が膨大な損害を出しながらも人海戦術でなんとか首都ハノイに近い距離まで進軍したとき、カンボジアに展開していたベトナム正規軍が到着したのです。ソ連が大規模な空輸をおこない、カンボジアからベトナム北部に兵員を急遽輸送したのです。人民解放軍はこの時点で深刻な状態にありました。ベトナム軍の二軍との戦闘で推定2万6,000人が戦死し、しかも兵站線は延び切り弾薬と食料の補給が困難な状態に。そこにベトナム正規軍が投入されたのです。中国共産党中央軍事委員会は決断せざるを得ませんでした。中国政府はベトナムへの軍事的懲罰は終了したと宣言し、全軍に撤退を命じざるを得なかったのです。西側の軍事専門家たちは、人民解放軍の近代戦に対する無能ぶりに驚嘆したと記録してます。まさにプーチンが約2周間で終了すると断言してたウクライナ侵攻が、ウクライナ軍の抵抗で足掛け5年経っても勝てない。トランプが1周間もあればイランは降伏すると云ってたのに、3ヶ月経ってもラチがあかない。弱小国だと見くびっていると、手痛いシッペ返しをくらうのですね。その後、中越両国は関係改善の兆しを見せ、1991年には両国関係を正常化しました。しかし西沙諸島や南沙諸島では両国の領土問題は改善されず、ますます紛争がエスカレートしてます。
Jun 16, 2026
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私の息子は液晶ディスプレーの製造装置設置で足繁く台湾の台南に行ってた時期があります。行くときは台北の桃園国際空港から出迎えの車で約3時間で台南到着。なので台北は全く知らないのですね。逆に私は何度か台湾を訪れてますが、全て台北滞在。で、息子に台南料理ってどんなん?と問うても、無類のエビ好き息子は台南滞在中、毎日エビを山のように平らげてただけで、これでは情報にならない。好みにもよりますが、台湾で食べるものって先ずハズレ無いです。どんなに陳腐なお店でも、どんな料理でも台湾での食事はお金払ってソンは無い。台北の冬は昼間でも薄てのダウンコートいるくらい寒いですが、台南で最も寒い1月でも日中は20℃~25℃くらいだそうですから、薄手のパーカーぐらいで過ごせそう。台南まで足のばしたら、約1時間で着くマグロの本場 高雄にも行きたいところですね。私は高雄でその日水揚げされたマグロを新幹線で運んできたのをステーキにしたの台北のレストランで現地の人に連れて行ってもらって食べましたがこれは絶品!ですが、きょうのテーマはあくまで台南で。それに高雄から関空までの帰り便は早朝出発しかないから、1日ムダになってしまう。ボラの卵巣を塩漬けにし、天日干しで作られるカラスミは台湾がもっとも有名ですが、台南が台湾最大のカラスミ生産地です。そう云えば大好物なのに、もう久しくカラスミ食べてませんねぇ。台南は台北に都が移るまで政治・経済・文化の拠点として栄えた台湾でもっとも古い都市で「台湾の京都」と呼ばれる古都。新鮮な食材と甘めの味付けの料理が特徴の台湾随一の美食の街です。台北と違って地下鉄がないため、移動はもっぱらバスらしいですね。台南では中国語と違う、昔ながらの「台湾語」が使われることも多いそうです。台南麺料理と云えばあまりに有名な「担仔麺(擔仔麵)」。エビの出汁をベースにしたあっさりスープに、肉そぼろと小エビがトッピングされた麺料理です。担仔麺の他に包仔麺(カット麺)ってのも有りますが起源が異なります。担仔麺は台南発祥、包仔麺は新北市蘆州発祥です。そして担仔麺は小さな器に盛り付けられ量が少ないのに対し、八仔麺などは巨大な器にこれでもかと云う量ですし、担仔麺と違って包仔麺のスープは大骨など豚肉の材料から作られてるのですね。スープと云えば、台南三大名物として「牛肉湯(ニュウロウタン)」もつとに有名薄切り牛肉に、熱々のスープをかけていただく台南のソウルフードです。あっさりした旨味で、名店の「文章牛肉湯」などが有名です。ご飯もので云えば「蝦仁飯(シャーレンファン)」でしょうね。蝦仁飯は中華系だったらどこでも食べれますが、台南の蝦仁飯はエビや鰹の出汁で炊き上げたご飯の上に、プリプリの小エビをたっぷりのせたエビ飯で、香ばしく甘辛い風味が特徴らしい。台湾南部で養殖される国民的白身魚に「サバヒー(虱目魚)」ってのが有ります。身がミルクのように白いことから英語では「ミルクフィッシュ」と呼ばれ、あっさりとした上品な旨味が特徴なんですな。名前に「サバ」とつきますがスズキに近い魚です。この魚を使った台南のお粥が「鹹粥(シェンヂョウ)」。サバヒーや牡蠣、サワラなどの魚介の旨味が凝縮された具だくさんのお粥で、「阿堂鹹粥」など、早朝から観光客で行列ができる専門店も多数あります。またサバヒーはお粥だけでなく、スープ(魚丸湯)や煮付けなど、さまざまな調理法で提供されてますね。意外にも台南では生のカカオが売られてます。カカオの実のことをカカオポッドと云いますが、カカオポッドに30~40粒ほど入っているカカオ豆を取り出して発酵・乾燥させ、焙煎(ロースト)することでチョコレートやココアの原料になります。ところがカカオの利用方法はこれだけでないんですね。果実を絞っただけのカカオネクターや果肉を使ったカクテル、果実酒などさまざまに応用ききます。そうそう台南と云えば「タウナギ意麺(シャンユィイーミェン)」も有名です。タウナギってのはウナギとは全く別の種類の淡水魚で、臭みがなく、コリコリとした歯ごたえが特徴の魚なんですな。このタウナギの炒め物と、油で揚げた平打ちの「意麺」を玉ねぎなどと一緒に強火で炒め、黒酢や砂糖を使った甘酸っぱくとろみスープで和えた料理です。やっぱ台北とはまた違う料理が多いですね。台北でも台南料理食べさせるとこ有るけど、新幹線で1時間半でつくのだから現地に行くほうがアタリでしょう。1泊2日でも楽しめそう。台湾鉄路「台南駅」から徒歩で約15分くらいの「ケンブリッジホテル」だったら、台南を代表する観光スポット「赤嵌樓(一級古跡)」まで徒歩で2~3分で行くことができます。先に挙げた担仔麺で有名な「赤崁擔仔麵(チーカン ダンザイミィェン)」もすぐ斜向かいにあるそうです。
Jun 15, 2026
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ベトナム戦争は1955年に共産主義の北ベトナムと、資本主義の南ベトナムとの間で対立が激化し、開戦された戦争です。それから南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、北ベトナムの勝利で終結するまで実に20年。このベトナム戦争真っ最中に私はベトナムとラオスを挟んだタイのバンコクに赴任してました。ベトナム戦争終結のニュースを聞いたのもバンコクでです。赴任時はベトナム上空を飛べなかったので、ベトナム沖を迂回飛行せねばならず、今より1時間くらいフライト時間が長かった。ベトナム戦争時、沖縄の嘉手納基地はアメリカ軍の後方支援基地として機能し、B52戦略爆撃機の出撃・補給拠点として活用されたので県民にはベトナム戦争が身近な存在だったと思います。社会党や労働組合を中心に大規模な反戦デモがアメリカ大使館周辺などで展開されたり、「ベ平連」などの戦争反対市民団体が組織されたりしましたが、それでも沖縄以外の地域ではそれほど市民が大きく関心をもってたように感じられません。ひとつには60年代後半から過激になった新左翼や極左暴力集団が主体となった反戦運動に市民は冷ややかな目でみてたためだと思います。それよりアメリカ軍に必要な物資を日本が製造・供給した「ベトナム特需」で日本の高度経済成長を力強く後押したことの方がインパクトがあった。一般市民の関心度合いで云えば、今のアメリカ・イラン紛争の方がホルムズ海峡封鎖にともなう物価高騰でこっちの方が高かいのぢゃないですかね。実際、私も初めてバンコクに赴任するまで、ベトナム戦争の知識なんて皆無に近かったです。ベトナム戦争の発端は1946年~1954年まで続いたフランスによる植民地支配から独立を求めるベトナムとの間で繰り広げられた「第一次インドシナ戦争」です。1954年にディエンビエンフーの戦いでベトミン軍がフランス軍を撃破。この敗北によりフランスはインドシナから撤退し、ベトナムは北緯17度線で南北に分断されることになりました。その後、フランスの撤退によって生じた「力の空白」を埋める形で、アメリカが反共産主義の防波堤として南ベトナムへの支援を強化し、これがベトナム戦争へと発展していきます。なぜフランスが撤退したあとのベトナムにアメリカが介入しなければならなかったのか?それは西側諸国と、ソ連を盟主とする共産主義・社会主義陣営との間で世界を2分した対立「東西冷戦」が原因だったのですね。つまり朝鮮戦争と同レベルの代理戦争がベトナムで行われたのです。このころのアメリカは「自由主義陣営の盟主」として国際秩序の番人を務めてた時期だったのです。トランプの行動を見ても分かる通り、アメリカ人は自分たちがなんでも世界No.1と今でも思い込んでるのです。当時のアメリカは圧倒的な物量をベトナムに投入し、その差から「象と蟻」の戦いと揶揄されました。それなのにアメリカは1973年になってベトナムから撤退。2年後には南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落し、北ベトナムの勝利でベトナム戦争が終結してしまいました。米軍の撤退時は「アフガン戦争」から2021年に撤退した騒動どころの話では有りませんでした。ベトナム戦争における米軍撤退の最終局面では、アメリカ人のみならず南ベトナムの協力者たちも国外脱出を求めて殺到し、アメリカ大使館屋上からのヘリコプター脱出など、歴史に残る極度のパニックと大混乱が生じました。北ベトナム軍の進軍が迫る中、アメリカ軍はサイゴンのアメリカ大使館などから大規模な緊急ヘリコプター輸送作戦を決行しました。これに殺到したベトナム群衆により極限状態に陥ったのですね。さらに空母甲板に着陸するヘリがあふれかえり、着陸スペースを確保するために数百万ドルの価値があるヘリコプターを次々と海に投棄せざるを得ない事態にまで発展しました。また、ボートや民間船でサイゴン川から脱出を試みる人々も後を絶ちませんでした。定員オーバーで脱出できなかった南ベトナムの軍人やアメリカの協力者たちは、その後共産主義体制となったベトナムで厳しい収容所送りになったのです。1975年4月30日のサイゴン陥落で南ベトナムが無条件降伏した状況は当時ベトナム特派員だったNHK記者の記録に詳しく述べられてます。28日、最後の南ベトナム大統領ミン将軍の就任式が行われました。北ベトナムとの和解をとなえるミン将軍就任は、サイゴン総攻撃を避けられるかもしれないと云う南ベトナム側の甘い観測がありました。しかし、その期待は就任式からわずか30分後に打ち破られます。解放勢力は空軍力を使ってサイゴンの空港を爆撃。そして29日、解放勢力はサイゴンに対して本格的な攻撃を開始したのです。これで日本大使館から避難命令が出て、特派員を含む全日本人が緊急避難をしようとしたのですが、空港は爆撃で飛べない状態。それで折り返して、サイゴン港から船で脱出をはかったのですが、どの船も超満員でとても乗船スペースがない。そうした状態を見て特派員たちはサイゴン脱出を諦めざるを得なかったのです。こうして、いみじくも解放勢力によるサイゴン掌握をスクープできたのですね。アメリカ軍が圧倒的な兵器を保有しながら敗北したのは、戦争の意義不明だったことからきてます。大義名分のない戦争への批判から国内世論が分裂したこと。そしてホー・チ・ミン率いる北ベトナム軍・解放戦線の祖国統一に向けた強い意志と粘り強さが大きな原因です。ベトナムにとっては独立のための正義の戦争でした。ホー・チ・ミン国家主席も「独立と自由よりも尊いものはない」と語ってます。だから世界から支援を受け、ベトナムの国民も正義の戦争を応援してたのです。アメリカはベトナムに勝てないかもしれないと考え始めたころ、1971年のキッシンジャー大統領補佐官による秘密訪中などを通じ中国との協力を始めました。これによって中国が直接ベトナム和平に乗り出すことになり、1973年のパリ協定でアメリカをベトナムから追い出すことに成功したのです。ベトナム戦争終結後の51年間、国際情勢は大きく変わっています。それに対して、国際情勢をよく把握して、最も適切な外交を展開するのがベトナムの強みです。ベトナム戦争後、ベトナムは他国とは連携しない自主独立の方針を掲げました。米中ロ3ヶ国に均等な利益をもたらすようにし、バランスを取ってきたのですね。ベトナム国防省は2019年「ベトナムに軍事拠点を置くことを認めない」「武力による解決を許さない」「敵対する勢力のどちら側にもつかない」「軍事同盟に参加しない」という方針を明らかにしました。こうしてベトナムと云う国は難しい国際社会を渡り歩いてるのですね。ベトナム人を甘くみてはいけません。彼らはしたたかな民族なんです。
Jun 14, 2026
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昔の大阪は地下鉄の切符を売ってるのが自動券売機ではなく、駅の窓口で購入しなければなりませんでした。ところが、この窓口がいつも混んでて並ばないと買えない。そこで昭和30年代~40年代に登場したのが地下鉄の入口や市電の駅周辺に屯する「切符売りのオバチャン」です。この人たち、市の委託ではなくまったくの個人事業主。商売はこうです。11枚綴りの回数券を1冊購入します。それをバラして客に1枚ずつ定価で売るのですね。そうすると、1枚分が利益になると云うなんともせちがない商売ですが、ほとんどの地下鉄や市電利用者はこっちの方が待たないで買えたので繁盛してました。しかし駅の切符売り場自動化が進捗するとアッという間に姿を消しました。日本のバスは明治36年(1903年)に京都の堀川中立売~七条~祗園間で二井(にい)商会と云う会社が初めて商業バスの営業を始めました。当時はバス車両がなかったことから蒸気自動車を改造した幌なし6人乗りの車両が使われました。しかし翌1904年には倒産してしまいました。今の世代の方はご存知ないでしょうが、昔のバスはワンマンではなく、運転手とは別に路線バスに切符売りが乗車してました。厳密には車掌とかバスガールですが、1970年代半ば(昭和40年代後半~50年代前半)まではこうした職種が存在してたのですね。主な仕事は切符売りの他、バスの停留所アナウンスも車掌の仕事でした。このバス車掌の主力は中学校を卒業して就職した女性で、東京都交通局は縁故採用のみだったらしく縁故のない女性には門戸を閉ざしてたのですね。ところが1960年代に入るころは高度経済成長でバス需要は急増。増便など輸送力増強と夜間への運行時間延長が求められました。ところが、その高度経済成長によって女性の働く場が増えてきたこと、高学歴化が進み中卒女子自体が少なくなっていたことなどで女子車掌の採用が困難になっていたのです。さらに当時は女性の労働時間に制限があり、深夜時間帯には女子車掌を乗務させるわけにはいかなかった。それでとりあえず男性車掌を増やしたり、運転士候補生や事務職などを車掌として乗務させたりして凌いでたのですが、輸送力増強には追いつかず運転手のみで運行する「ワンマンバス」への切り替えが急速に進んで消えていったのですね。昭和39年 ネをあげたバス通勤タイのバンコクではパタヤビーチなどに行く長距離バスは大阪駅周辺の長距離・高速バスと同じで切符売り場があってそこで乗車前に切符を買い求めます。しかしバンコクの路線バスではエアコンバスとノーエアコンバスともに集金係(車掌)が乗車していてこの人に料金を支払う仕組みです。エアコンバスは距離によって運賃が変わりますが、ノーエアコンバスはどこまで行っても一律運賃です。面白いのは車掌が使う「切符売り道具」。ガチャガチャと音を鳴らしながら素早く乗車券を切り取る銀色のブリキの筒です。正式名称はタイ語で「クラボーッ・トゥア・グン・ロッメー(バスのお金と切符の筒)」と呼ばれます。これは切符の筒(クラボーッ)が縦長でリレーのバトンのような形をしており、内部にロール状の紙の乗車券(チケット)がセットされています。筒の底にはバネが仕込まれており、切符を引き出して使用する仕組みです。フタのフチは少し鋭利になっており、これを使って素早くチケットをピリッと切り離すのですね。小銭入れ筒の上部やフタの部分はお金(コインや紙幣)を一時的に挟んでおくクリップのようになっており、お釣りを素早く渡せる設計になっています。このクラボーッ・トゥア・グン・ロッメーはお土産としても販売されてます。台湾の長距離バスチケットはセブンやファミマなどコンビニで買えます。事前予約分の発券もできます。このシステムは高速鉄道でも同じ端末でできます。台湾は交通系ICカード「悠遊カード」がものすごく発達していて、悠遊カードだけで路線バスから鉄道、コンビニまで支払いが全部済ませられるのですが、この悠遊カードでコンビニでのチケット発券も対応してます。台湾の路線バスは日本と同じくワンマンです。日本と同じように車掌(女性の「車掌小姐」)が乗務していたのは、1950年代~1970年代にかけてです。1930年代の日本統治時代から一部存在していましたが、第2次大戦後の1950年代から全盛期を迎え、1970年代後半~1980年代前半にかけて順次廃止されました。ところが今年になって、台北の路線バスでは一部で車掌が復活して乗客をサポートするようになったらしい。彼女たちは「行安天使(安全の天使)」と呼ばれ、停車バス停のアナウンスをしたり、高齢者や身体の不自由な乗客の乗降の手助けをする役割を担ってます。台北のバスに車掌が復活、「安全の天使」として乗客をサポートオペラハウスで有名なシドニー、ニューサウスウェールズ州で1969年に撮影されたバス車掌の画像見たらなかなか面白い切符発券機を持ってました。これは「チケットパンチャー」と呼ばれ、普通チケットパンチャーは、バスや電車の紙製切符に切り込み(入鋏)を入れて使用済みであること標す道具ですが、こんな機器も同じように呼ぶのですね。イギリス、ロンドンと云えば有名な2階建てバス(ルートマスター)。このバスにも車掌が乗務していた時期が有ったのですね。車掌の乗務は1950年代に本格化し、1980年代まで車掌乗務の「ルートマスター」がロンドン街の代名詞として全盛期を迎えてました。しかし2005年ころからコスト削減やバリアフリー対応(ノンステップ化)を理由に車掌の乗務が徐々に打ち切られ、2019年に全ての路線で車掌が消えました。ロンドン・バスの乗務員が使ってる発券機は「クリッピングマシン」と呼ばれてます。「ギブソン発券機(Gibson ticket machine)」、あるいはそれ以前の時代に使われていた「ベルパンチ(Bell punch)」と呼ばれるクリッピング(穴あけ・発券)機構を持った手動式の機械です。この機器の仕組みは、白紙のロール紙を内蔵していて、車掌がダイヤルで運賃や乗車停留所の区間を設定し、サイドのハンドルを「ガチャン」と回すことで、その場で切符を印刷・発券します。女性の車掌はこのクリッピングマシンを持ってることから「クリッピー」と呼ばれてました。そしたら何げに東京のバス車掌の画像見てたらこんな画像を発掘しました。今の屋根のない「スカイバス東京」や、はとバスの屋根なし2階建てオープントップバスぢゃなくて、1970年代のはとバスのイギリス製2階建てバスの時代。車掌さんがロンドン交通局で使ってるのと同じギブソン発券機のクリッピングマシンを使ってるのです。バスだけぢゃなくて、車掌文化までイギリスから取り入れてたのですね。それでは最後に現在のインドのバス切符売りについて。インドはタイと同じように今でもバスに車掌が乗ってます。車掌が車内を巡回してきたら、行き先を云ってキップを買うのも同じですが、車掌が手にしてるのはスマホみたいな専用端末です。この端末を使って行き先別のキップを発券してるのですね。サスガIT王国インド!?(笑)しかしお金の収納は相変わらず、腰にぶら下げたカバンのようです。
Jun 13, 2026
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黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈の南側に位置する南コーカサスは、一般にジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンの3ヶ国を指します。この辺りはアジアとヨーロッパの交差点として独自の文化が息づいている地域ですね。この南コーカサスにジョージアの一部と云われてるアブハジアと云う地域があって、事実上は「アブハジア共和国」として独立状態にあります。その独立は国際的には認知されていませんが、2008年にロシアが承認すると、その後ニカラグア、ベネズエラ、ナウル、そしてシリアが独立を承認しました。国家承認している国連加盟国はこの5ヶ国のみです。アブハジアの人口構成はアブハジア人が50.7%と最多を有し、他にアルメニア人が19.2%、ジョージア人が17.4%、ロシア人が9.1%と云う比率でした。アブハジアは1992年~1993年にジョージアからの分離戦争を起こしましたが、これによってほぼすべての非アブハズ人住民が陸路や海路で脱出し、その過程で約1万人が命を落としました。そして25万人~30万人ほどの難民が発生したのです。そうした非アブハズ人たちが放棄した都市がそのまま放棄され、南コーカサスの離脱地域として今も存在してるのですね。これらの地域は幽霊都市として世界的に知られています 。最も有名な放棄された場所のひとつがソ連時代は豊富な石炭採掘で栄えてたのに、紛争で荒廃してからは、一部の住民が暮らす「廃墟の町」となったタクヴァルチェリと、タクヴァルチェリ近くのかつての炭鉱の町で、やはり紛争後に放棄されたアカルマラです。このふたつの都市はソ連時代の壮大な集合住宅が、今は苔に覆われ、ゆっくりと周囲の山や森林に吸収されていってる都市です。これらの集合住宅は第2次大戦のドイツ人捕虜によって建設されたものでした。ロシア帝国やソ連の支配下にあったときには有名なリゾート都市だったガグラもそのひとつです。ガグラとアブハジアの首都スフミは分離戦争の中心地で大きな被害を受けました。チェチェン人の悪名高い反乱指揮官のシャミル・バサエフが指揮官として、アブハジア側に立ってガグラで戦って以来、ガグラはアブハジアの残りの部分と同様に発展が止まっています。ここには廃墟となったウィンター シアターや歴史的に壮大な鉄道駅など、いくつかの有名な遺跡があります。首都スフミの郊外には、かつてソ連オリンピックの中心拠点だった「エシェラ スポーツ コンプレックス」があります。1980年代にはソ連の代表的なオリンピック強化施設として利用され、近代的なスタジアムやプール、屋内トレーニング施設などが整備されていました。しかし紛争によって放棄され、現在は自然に還りつつある「廃墟スポット」として知られてます。これらの街は民族浄化と云う名のもとに、人々を強制移住させた遺産です。なんとも、ゾッとする光景ばかりですね。
Jun 12, 2026
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私は学生時代、夏は北アルプスで岸壁登攀、冬は普通の高山登山に没頭してました。冬も登攀をおこなう人は多いですが、夏場と違って冬の岸壁は氷に覆われてることが多いので、手足だけで登るフリークライミングではなく、人工の道具を使っての登攀になるので面白み半減。それで冬はエッチラオッチラ登山を選択してたのですね。まぁピッケルやアイゼンは持ってましたが、あくまで登攀用の先鋭的なものでなく、普通の稜線歩き用です。それでも冬の北アルプス登山はどれも厳しかったです。近年、富士山登山がいろいろと問題でてますね。富士山は9月中旬~翌年6月下旬までの閉山期間中は、山小屋も営業しておらず孤立峰なので気象条件が極めて過酷なのに、それを無視して閉山中の無謀な登山をおこない遭難が急増してる。それも軽装や不十分な装備で登ろうとする登山者が多いらしい。つまり充分な登山知識と経験もないまま、たかが3,776m くらいと甘く見てる登山者が増加してる。高さは3,000m 級でも、孤立峰の富士山は周囲に風を遮る山がないため「強風」や「急激な天候悪化」に直接さらされ、平地との気温差に加えて、突風による体感温度の急低下や滑落の危険性が非常に高くなります。とりわけ近年はオーバーツーリズムが富士山にまで及び、登山者によるポイ捨てなどのゴミ問題や山頂付近が激しく混雑し、落石の誘発などの問題を引き起こしています。落石は山を登る者が絶対引き起こしてはいけないことで事故に直結します。富士山に訪れる外国人の中には登山経験の無い人も多く、山の恐さを認識してないんですね。特に富士登山の中国人問題は深刻ですね。閉山期間中に登山計画書を提出せず、適切な装備もなしに立ち入る行為が多発してるのです。昨年閉山中の4月には、富士山に登りにいった中国人が滑り止めのアイゼンを紛失して身動きが取れなくなり、標高3,000m 付近からヘリコプターで救助されました。ところがこの男、山に残してきたスマホを捜しに再び入山。今度は高山病を発症して動けなくなり、また救助隊のお世話に。もう言語道断ですね。中国のSNSで富士登山がブームになっており、雪山登山経験がないまま「映え」やステータス目的で無謀な挑戦をする輩が増えているのです。こんなバカでも遭難すれば地元救助隊は過酷な環境下での救助をせねばならず、隊員の命を危険にさらすうえ、高額なヘリコプター費用などの公的負担も問題になってます。スイスでの山岳救助は完全有料です。救急車による陸路搬送だけだと数十万円~ですが、ヘリコプターによる救助・搬送は数十万円~数百万円、捜索・治療費など総額がケースによっては1,000万円を優に超えることもあります。なので山に登る前に必ず山岳保険や救援者費用特約に加入してるのですね。日本みたいに山のある県が外部の人のために県税をつぎ込むなんて無いです。富士山の場合は登山シーズン中の登りやすさが却ってネックになってますね。なにしろ標高2,000m ~2,400m の5合目まで車で行けて、本格的な山登りは1,700m 足らずですから。それもただひたすら整備された道を登るだけで、岸壁なんて無いのですから、これが冬季でも同じように思い込んでしまう。夏場の穂高連峰縦走の方がよっぽど難易度が高いのです。昔の冬富士なんて、1960年代後半に真冬のアイガー、マッターホルン、グランド・ジョラスのアルプス3大北壁登攀を達成した「山岳同志会」のトレーニングに使ってたほど登攀のエキスパートの場だったのですから。これとスケールは違うけど、世界最高峰エベレストでもおこってるのですね。エベレストの累計登頂者数はこれまで7,000人以上に上ります。近年は商業化が進んでおり、毎年約800人が挑戦し、単一のシーズンだけで過去最多の1,000人超が登頂に成功した記録も報告されてます。さらに1日の最多登頂では274人が山頂に到達した記録があります。その背景にはガイドやシェルパがテント設営や酸素ボンベの運搬、ロープの設置などルート工作全てを代行してくれる商業公募隊が一般的になったのと、気象予報の技術向上により、強風が収まる「天候の窓」をピンポイントで予測できるようになったことがあげられます。つまり個人の小規模隊が自分たちでルート開拓や荷揚げをして、一瞬の天候の隙間を狙ってのアタックは過去のものになってしまったのです。一時議論された酸素使用もいまは誰しもアタリマエに考えてるし、充分な登山技量がなくてもお金さえ払えば登れる山になってしまったのですね。最後はシェルパがひっぱり上げてくれます。逆に世界第2位の高峰、標高8,611m のK2登頂者はこれまで世界で約400~500人程度です。K2はエベレストをはるかに凌ぐ急勾配、頻発する雪崩や落石、過酷な気象条件により技術的にも非常に困難な山で8,000m 峰の中で最も危険な山の一つとされてます。登頂者に対する死亡率は約20~25%前後と云うことは4人に1人が命を落とす計算。つまり富士山と同じで、山ってのは世界規模でも単に高さだけが問題では無いのですね。その典型的な例をご紹介しましょう。パキスタン北部のギルギット・バルティスタン地域にある岩窟塔の群「トランゴ・タワーズ」です。この岩窟塔でイチバン高い地点で6,286m 。アルプスの最高峰モンブランで4,810m ですから、もう酸素が極めて希薄でこれが登山をより困難にしていますが、エベレストの8,848m に比べたらはるかに低い山々です。が、その出で立ちがハンパない。トランゴ・タワーズ岩窟塔群のひとつ「ネームレス・タワー」をご覧になってください。ネームレス・タワーなんて「その他」みたいな名前ですが、とんでもない壁です。画像で見ると岩の裂け目がハッキリしてて登りやすそうですが、高度6,000m 級の山でしかも5m 以下の練習用壁を登るのと同じ道具に頼らないフリークライミングでやってのけるってハンパないです。こうした本物の登攀者と冬富士の迷惑登山者を比べるべくもありませんが、高低差に関わらず山を登るのはそれだけの訓練を積んで、そしてルールはひとつあくまで自己責任でやらないと。登れなくなったら救助隊を呼べばいいやと云う考え方はスマホが普及してから突然増加してしまいましたね。
Jun 11, 2026
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トランプと云えばドナルド・トランプぢゃなくて、ババ抜きや七並べ、神経衰弱からポーカーに使われるカードゲームのトランプ。このトランプ、日本で最初に発売したのは任天堂ってのは有名な話ですね。「スーパーマリオブラザーズ」産みの親、任天堂の宮本茂はかつてトランプのデザイナーでした。トランプってのはスペード、ハート、クラブ、ダイヤにそれぞれ「A」のエースと2~10の数字、そして11の「J(ジャック)」、12の「Q(クイーン)」、13の「K(キング)」で13枚×4種で合計合計52枚。これの考え方を変えて「1」~「13」の数字を全部足すと「91」になります。それが4種類あるので、91×4=364です。この364にジョーカーの1枚を足すと「365」。つまり1年のカレンダーを表現しているのですね。これはこうも考えられます。1年は「52週」あります。52週×1周間の日数7→364+ジョーカーの1枚=「365」。これがエクストラジョーカーのもう1枚足すと「366」日で、うるう年の日数になります。「1」~「13」の数字を全部足した「91」が4種、これはそれぞれの季節(四季)を表してるのですね。きょうは色気のない数字カードではなく、「K」「Q」「J」の絵札について。15世紀ごろからフランスのトランプ製造業者は、絵札それぞれに歴史や神話上の人物を充てるようになりました。イギリスではチャールズ1世とチャールズ2世の間の空位期間(1649年~1660年)の間、トランプの製造が違法だったため、チャールズ2世の王政復古を迎えてやっとイギリス王室でトランプが再びプレイされるようになりました。ここではフランスの絵札を踏襲しましたが、それが誰かまでは伝わらなかったようです。この絵札に歴史や神話上の人物を充てる慣習は19世紀までには大方失われてしまったのですね。ハートのキングは、頭に剣を突き刺しているように見えるので、「自殺するキング」と呼ばれる事もままあります。このキングは4人のキングの中で唯一口ひげを生やしていないんですね。ところが元々のデザインでは口ひげが有ったらしい。当時のトランプは木彫りの版画で刷られてたのですが、木彫り職人が手を滑らせ、ひげをそり落としてしまったのですね。締め切りに追われてたのか、はたまた作り直すのが面倒くさかったのか理由は定かでありませんが、そのままハートのキングとして提出。そして、このデザインがハートのキングとして定着したと云われてます。このキングは西ローマ帝国滅亡のあとに誕生したフランク王国の最盛期を築いた"カール大帝"です。ドイツとフランスの基礎を築いた人物と云われ、東は現在のクロアチアやハンガリーにも及ぶ広大な領土を築きました。クラブのキングは武器を地面に付けている唯一のキングで、有名な"アレキサンダー大王"です。アレキサンダー大王、元々は古代ギリシャの一勢力マケドニアの王で、10代の頃から哲学者として有名なアリストテレスに英才教育を受けていました。ギリシャの覇権を握ったマケドニアですが、父王が暗殺されてしまい、彼は20才の若さで王位につきます。当時、ギリシャ軍の主力は盾と槍を持ち、正方形に隊列を組んだファランクスと呼ばれる重装歩兵でした。アレキサンダー大王はこの部隊に、サリッサと呼ばれる長槍の装備を採用。この戦法でギリシャ軍歩兵を圧倒したと云います。最終的に彼はペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからインド北西部に至る広大な帝国を築き上げました。ダイヤのキングは、唯一剣でなく斧を持っており「斧を持つ男」という愛称があります。この人物は"ジュリアス・シーザー"の呼び名で有名な世界史に冠たるローマ帝国の基礎を作った人物"ユリウス・カエサル"なんですね。キングの絵札では、唯一、顔が真横を向いてます。ナゼ横向きなのかと云うと、古代ローマのカエサルの姿が刻印されてるコインが横を向いてたからです。スペードのキングは右を向いている唯一のキングですね。これは旧約聖書にも登場する、古代イスラエルを統一した"ダビデ王"がモデルと云われてます。羊飼いから身を起こし、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒して英雄となってエルサレムを都に定めて国家の基礎を築いた偉大な王です。だけど王になってから、部下の妻バト・シェバと不倫関係になり、夫を最前線に送って戦死させるという罪を犯しました。預言者ナタンにその罪を指摘されたダビデは深く悔い改め、神に赦しを求めたそうです。「Q」と「J」は駆け足でご紹介すると...ハートのクイーンは旧約聖書外典の1つである「ユディト記」に登場するユダヤ人女性"ユディト"です。彼女はアッシリア軍に包囲された故郷を救うため、敵将ホロフェルネスの陣営に潜入し、彼を酒に酔わせて寝首を掻いて故郷を危機から救ったユダヤの英雄なんですね。クラブのクイーンはフランスの伝説の美女"アルギヌ"です。これは女王を意味するラテン語「Regina(レジーナ)」のアナグラム(言葉遊び)から名付けられたものですが、薔薇戦争を終結させた王妃がモデルだという説も存在します。ダイヤのクイーンは旧約聖書に登場するイスラエルの始祖ヤコブの最愛の妻"ラケル"です。彼女は非常に美しい女性で、その劇的な結婚生活とイスラエル12部族の誕生において重要な役割を果たしました。スペードのクイーンはギリシヤ神話の「知恵の女神」"パラス"です。彼女はギリシア神話の知恵と戦略の女神であるアテーナー(アテナ)のことを指すのですが、彼女が「パラス・アテナ」とも呼ばれるのには、親友の死を悼んでその名を名乗ったという悲しい神話の背景があります。それでは最後にジャックを。ハートのジャックはフランスの勇士"ラ・イア"(ラ・イル)です。百年戦争でジャンヌ・ダルクと共に戦った実在の猛将です。クラブのジャックはアーサー王伝説に登場する円卓の騎士"ランスロット"。馬上槍試合では槍、剣術、乗馬のどれも彼の右に出るものはいなかった猛者でした。ダイヤのジャックはトロイアの王子で、トロイア戦争におけるトロイア勢最強の戦士と云われた"ヘクトール"と云われてます。ヘクトールは、ギリシア神話の叙事詩「イリアス」に登場するトロイア軍の総大将で最強の戦士です。祖国の「支え手」としてギリシア勢と勇敢に戦い、家族を愛する責任感の強い人物として描かれてますスペードのジャックは中世フランスのシャルルマーニュ伝説に描かれてる伝説的な騎士"オジェ・ル・ダノワ"です。シャルルマーニュ大帝(カール大帝)に仕えた最強のパラディン(十二勇将)のひとりとして数々の武功を立てました。と、まぁ絵札には実在、伝説を問わずモデルがいたワケですが、日本に普及してるトランプに特定のモデルはいないとされてます。
Jun 10, 2026
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日本のように島国と違って、他のアジアやヨーロッパ、中南米などどの大陸も複数の国が存在してて、その国境線と云うのは複雑なかたちをしてますね。アメリカとメキシコの国境を流れるリオグランデ川を境にした国境線、アルプスを挟むフランスとイタリアやピレネー山脈のフランスとスペインなど山脈や川を利用した国境線。また砂漠の地形を利用した国境線や湖の中央を境界とする形態もあります。自然の地形を利用してるのですから、そりゃあ国境線が複雑になるのは分かります。他にもっと人為的な国境線もあります。それは地形を利用した複雑に入り込んだ国境線ではなく、定規で一直栓に引いたような国境線なんですね。それが中東やアフリカ諸国の国境線です。砂漠だから目印になるものなくて、こうなった?いえいえこれは他人が勝手に引いた国境線です。「他人」とは欧米のことです。アフリカ大陸にはもともと多様な民族が共生し、それぞれが先祖代々、独自の文化を守りながら生活をしていました。民族のトップたる族長や王はいましたが、彼らの使命は土地を守るよりも民族の生活と秩序を守ること。中には定住せず、遊牧を行いながら生活を営む民族もいました。彼らには「国境」という概念がなかったのです。ところが大航海時代を迎えたヨーロッパの列強諸国が、新天地を求めアフリカに手を伸ばしたことで様相は一変します。彼らはアフリカ大陸を「無主の地」と決めつけ、我先にと土地の奪い合いを始めたのです。そうして1884年、アフリカ分割のきっかけとなった「ベルリン会議」が開催されます。ベルリン会議は、ドイツの宰相ビスマルクの提唱により開催された会議で、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルなど欧米14ヶ国が、「実効支配の原則」などアフリカ分割のルールを取り決めた会議です。これには「早い者勝ちのルール」が取り決められ、ある地域を自国の領有と主張するには、単なる宣言だけでなく、実際に占領し、行政や軍隊などの統治機構を置いて有効に支配していることが国際法上必要と定められたのです。これがアフリカの現地住民の意志や歴史的な民族分布を完全に無視し、欧米列強の都合のみでアフリカ分割が進む契機となったのですね。さらに第1次大戦中の1916年、「サイクス・ピコ協定」と云うオスマン帝国の領土をイギリス・フランス・ロシアの勢力圏に分割する取り決めがなされました。これによりシリア、レバノン、アナトリア南部、イラクのモスル地区はフランスの勢力範囲に、イラクの大半とボスポラス・ダーダネルス海峡周辺、黒海東南沿岸のシリア南部ロシアの勢力範囲がイギリスの勢力範囲に取り決められたのです。この協定で引かれた国境線はアフリカ同様、そこに住むアラブ人などの民族や宗教・宗派の分布を無視した恣意的なもので、後に中東各国が独立した後も、これが大きな火種となり地域情勢の不安定化を招く要因となってるのです。さらにイギリスは映画「アラビアのロレンス」で描かれたように、同じ地域でアラブ人の独立国家建設を約束すると同時に、ユダヤ人の国家建設を支持した「3枚舌外交」を展開したため、問題の深刻さを決定づけてしまったのですね。今日のイスラエル・パレスチナ問題の元凶となったのです。イギリスやフランスはこれら植民地統治を行うにあたり、アフリカやアラブの民で全く違う人種や言語、階層、宗教、イデオロギー、経済的利害などに基づく対立、抗争を助長して、連帯性を弱め自国への矛先を逸らす手法「分割統治」を積極的に取り入れました。これが今日までこれらの国が相争う元凶になったのですね。しかしアフリカ諸国が独立して久しいのに、ナゼ現在に至るも国境線を合理的に引き直せないのでしょうか?それはあまりにも多くの多様な部族がアフリカには存在することに起因してます。云ってみれば、各部族ごとにひとつの国のような。つまり国境の変更が、さらなる民族紛争や国家の崩壊を引き起こすリスクが極めて高いからです。現在ある国境を少しでも動かそうとすると、それは他国との戦争や、国内での分離・独立運動の正当化につながります。ある地域が独立すれば「自分たちも民族ごとに国を分けるべきだ」という主張が次々と噴出し、結果的に国がバラバラになってしまうため、どの政府も国境の再編に積極的になれないどころか、強く反対しているのです。こう云うことで、今日のアラブやアフリカの悲劇は、19世紀~20世紀初頭にかけてのヨーロッパ列強による「領土分割ゲーム」が原因してるのですね。いまは何くわぬ顔してこれらの諸国と交流してるイギリスやフランス。しかし、その歴史的犯罪による被害が世界平和をいつまでも損なってるのです。
Jun 9, 2026
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埼玉県川越市の一番街は江戸時代の蔵造りの町並みが残ってるので訪日外国人にも人気ですね。一番街の中で最も古く、1792年(寛政4年)に建てられた大沢家住宅は国の重要文化財に指定されています。「時の鐘」をはじめとするこの一番街周辺は、重要伝統的建造物群保存地区に選定されてます。この一番街周辺を「旧市街」とすると、隣接する西武鉄道 本川越駅周辺は百貨店や商業施設が集まって「新市街」と云えるでしょうか。日本にはヨーロッパのような明確な行政区画としての「旧市街」「新市街」は少ないですが、城下町の風情を残すエリアとしての旧市街と近代的なターミナル周辺の新市街が共存する都市がいくつかありますね。例えば福岡の伝統的な神社仏閣や歴史ある町家が残る博多エリアとオフィスや商業施設が立ち並ぶ近代的な天神エリアが対をなしていますね。日本と違って旧市街と新市街が明確に別けられてる地域が世界には多いですね。海外から来る旅行者には近代的な新市街より、歴史が息づく旧市街の方が魅力的に映りますが、だいたい旧市街と云うのは伝統的な家屋とともに迷路のように入り組んだ路地が多く敷居も高いものです。例えばモロッコのフェズは典型的な旧市街ですが、マラケシュみたいにフランス統治時代に開発された近代的な新市街と違って世界最大の迷宮都市として知られてます。旧市街=歴史地区ですが、世界には街全体や指定されたエリアがそのままユネスコの世界遺産に登録されている旧市街が数多く有ります。イギリス スコットランドの首都エジンバラは、中世の街並みがそのまま残る旧市街と、18世紀以降に開発されたジョージアン様式の美しい新市街が同居してますね。クロアチアの城壁に囲まれた美しい港町ドブロヴニク旧市街はアドリア海の真珠と称えられてます。ここのドゥブロヴニク城壁は旧市街をぐるりと囲む全長約2km の城壁で、この上へからの景色は絶景ですが、歩いて一周するのに1~2時間ほどかかります。ベルギー北西部にある「ブルージュ歴史地区」は「屋根のない美術館」とも称される世界遺産です。13世紀の交易で繁栄を極めた後、港の衰退によって中世の面影が奇跡的にそのまま残されてるんですね。ここにはミケランジェロの傑作「聖母子像」が安置されていることで有名な「聖母教会」もあります。イタリアのフィレンツェ歴史地区はルネサンス文化の中心地となった芸術の都です。街全体がこれまた「屋根のない美術館」と称され、大聖堂や宮殿、数々の美術品が徒歩圏内に凝縮されているのですね。アルノ川に架かるフィレンツェ最古の橋で、橋の上に貴金属店が連なったヴェッキオ橋の夕暮れ時景色は特に絶景らしい。イエメンの首都サナアにある「サナア旧市街」は、ノアの息子セムが築いたという伝説が残る世界最古の都市のひとつです。日干しレンガと石を積み上げた5~8階建ての高層住宅が立ち並ぶ「世界最古の摩天楼」として知られてますが、2015年に激化したイエメン内戦で戦闘や空爆により歴史的な建造物が甚大な損傷を受けました。それに加えて近年の異常気象による記録的な大雨と洪水により、日干しレンガや漆喰で作られた伝統的な高層住宅が倒壊。壊滅的な被害が発生し、今では危機遺産に登録されてます。2022年に国家としての破産を宣言して、国際通貨基金 (IMF) に支援を要請したスリランカ。シナモンや天然ゴム、紅茶といった作物のプランテーションで有名ですね。巨大な岩山に築かれた「シーギリヤ・ロック」や仏教の聖地「キャンディ」など世界遺産の多い国ですが、同じ世界遺産としてオランダ統治時代の街並みが残るゴール旧市街と要塞群はヨーロッパと南アジアの建築様式が融合した港町です。
Jun 8, 2026
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