2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全12件 (12件中 1-12件目)
1
「母性的な愛」と「父性的な愛」某チャットルームで、チャットを楽しんでいる時、キリスト教における「母性的な愛」と「父性的な愛」についての話を思い出した。どこまで聞いた話で、どこから自分で感じたことか、定かじゃないし、ちゃんとした根拠のある話でもないんだけど、紹介してみる。「母性的な愛」 ありのままを受け入れてくれる神さまの愛。「父性的な愛」 しつけのような、きびしい神さまの愛。時に愛のむち。キリスト教が発展したのは、西洋社会、すなわち、もともとは狩猟社会。そこでは、一瞬の判断ミスが、獲物を取り損ねたり、命とりになってしまう世界。個人プレーが、時には、集団全体の生死さえ、左右しかねない。だから、規範やルール、すなわち「掟」が重要視され、そのような社会では、「父性的」な思考が受け入れられやすい(らしい)。一方、日本は、農耕社会。1年に1回の収穫に向けて働く。自然の恵みを待つ生活。厳しさより、和が求められる文化。規則よりは情緒的。あくまで、推論の域を超えないんだけれど、西洋文化、つまり、狩猟社会の影響を色濃く受けた文化の中で、キリスト教の「父性的」な部分が強調され、それが、そのまま、農耕社会の日本に持ち込まれていることはないかな。それゆえ、神さまの「裁き」「厳しさ」「義」「掟」の部分が、さらに強烈な印象となって、私たちを、必要以上に苦しめることはないかなって。実際の人の成長は、生まれたばかりの赤ん坊が、完全に、他者に受け入れられるところから始まる。そこには、何の条件もない。排便の始末も、食事の準備も、移動することさえ、自分でできないのに、自分で「何にもできない」と嘆く赤ん坊はいない。泣くだけの自分を「わがままだ」と嘆く赤ん坊もいない。それが、許されているから。ただ一方的な「母性的な愛」の中、育まれる。赤ん坊は、成長の段階にしたがって、少しずつ、社会ルールや、自分を律すること、我慢することなどを、しつけられる必要が出てくる。ここで、ようやく「父性的な愛」の出番だ。体罰を含め、きびしく接する局面も出てくるだろう。この時、きびしいことばや、訓戒、時に罰にも耐えられるのは、しかるべき時に、経験的に、無条件に愛されたことを学んだ子どもじゃないかな。この人は、自分に善きものを与えてくれるっていう土台の安心感。自分の教会生活を振り返る時、なぜか、神さまの「母性的」な部分抜きに、「父性的」な部分の厳しさだけを、敏感に感じ取ってたんじゃないかなって、最近、思う。だから、今さらながらだけど、神さまの「母性的な愛」に思いっきり浸って、一方的な愛、無条件の愛、無償の愛を感じたいな。そのままで「大好き」っておっしゃる神さま、自分の存在の根源であり、存在自体を喜んで下さる神さまのふところに抱かれる喜びを感じたいな。自分にはそんな価値があるとは思えなくととも、イエス・キリストが十字架上で身代わりになるほどの価値が、自分にあることも、認めて、かみしめていきたいな。そして、成長に応じて、鍛え上げられていきたいな。(神さま、お手柔らかに!) わたしの あいするこ さく:まほ あかちゃんの きみいてくれるだけで とっても うれしいたれながしでも じぶんでたべられなくてもなんにも できなくてもいてくれるだけで おおきな よろこび でも なにかに はんのうしてくれるとまた べつのよろこび「べろべろば~」「ぐふっ ぐふっ うきぃ~っ☆」もっと うれしくなる おはなし できるようになるとまた べつのよろこび「○○(こどものなまえ)」「なあに」「○○のこと だ~いすき」「○○も だ~いすき」もっと もっと うれしくなる じぶんで かんがえられるようになるともっと べつのよろこび「これ プレゼント」「おとうさん おかあさんの えを かいたよ」「ありがと~う」 うるうるみんな まんめんのえがおもっと もっと もっと うれしくなる でも きみが いてくれるだけでとっても うれしいんだたとえ しっぱいしてもたとえ はんぱつしても --- x --- x --- x --- x --- x --- あなたをつくった かみさまの よろこび それはあなたが かみさまの しゅくふくをうけ よろこぶことあなたが かみさまに きづき かんしゃすること でも あなたが いてくれること それだけでも かみさまの よろこび たとえ あなたが きづかなくてもたとえ なんにも できなくてもたとえ こころを とざしていてもたとえ あなたが とおく はなれていても あなたは わたしの あいするこ わたしは あなたを よろこぶ あいする かみさまのこえ
2002年11月30日
コメント(4)

また、神さまにしかられちゃったぁ!(げろげろ) 完全に、燃やし尽くせって。こげかすを、いつまでも、いじいじ、いじくってないで、早く手放しなさいって。いつまでも、自己憐憫に陥っているなって。 神さま、完全な明け渡しを与えて下さい。 (11月26日日記の件です。)
2002年11月28日
コメント(10)
先月の、教会創立30周年記念礼拝で賛美した「大いなる方に」を、数日前、ゆっくり、思い起こしていた。 「大いなる方に」 大いなる方に 感謝ささげます 御子キリストの 愛のゆえに 聖なる方に 感謝ささげます 御子キリストの 愛のゆえに いま弱い者よ 叫べ 勇士だと 勝利の主が 共におられる いま貧しい者よ 叫べ 富んでいると 恵みの主が ともにおられる 感謝~ します~ 何回か、口ずさんでいるうちに、この歌は「勇士だ」「富んでいる」と叫べ、という歌だということに、気がついてしまった。(歌詞そのままやんかってつっこまないでね。) 歌っている時は、ただ単に、神さまに感謝を献げよう、勇者として下さるから、富んだ者として下さるから、感謝を献げよう、っていう意味のように、ぼんやり思っていた。でも、微妙に(しかし、この微妙は大きい)、違うことに気がつかされた。 歌で言われていること、それは、現状のまま、叫び、感謝を献げる、っていうことみたい。とてもじゃないけど、「勇士だ」とは言えない弱い状況の中、「富んでいる」とは思えない貧しい状況の中で「叫ぶ」、感謝なんかできない状況の中で「感謝をささげる」ことを歌っているんじゃないかなって。そして、その根拠は「勝利と恵みの主が共におられる」から。「御子キリストの愛ゆえ」。(英語だと「主が我々のためにして下さったことのゆえ」「神がそのひとり子、イエス・キリストを与えてくださったゆえ」かな?) うわぁ、これって、ある種の宣言みたいじゃない? 弱く貧しい自分、そのまま、ありのままの姿で、主が共にいて下さる(なして下さったこと)ゆえに、勇者であり、富んでいると、認め、叫ぶ。キリストの愛のゆえに、感謝できない状況の中、感謝を献げる。自分が、実際に勇者に、富んだ者に、直接、変わるわけではない。ただ、主がともにおられ、みわざをなしてくださったことに、土台を据え、望みを置く。 (もちろん、その後、主が祝福を与えてくださることも、あるだろうし、また、来たるべき日に、勝利者とされるであろう究極の約束はあるけれど) ってぼんやり考えながら、昨夜、ステレオをかけてたら、ピアノ演奏の「大いなる方に」が、たまたま、流れてきた。そんなことを思わせられている状態だったので、しんみり~と、歌詞を思い起こしながら聞いていたら、このCD、インストゥルメンタルのはずなのに、ところどころ、波の音や、鳥の鳴き声などが混ざっている。そして、この曲、一巡演奏後、ピアノをバックに、ナレーションが重ねられていた。 そのナレーション、外国語なので、これまで、よく聞き取れず、そんなに気をとめずにいたのだが、今回は、ところどころ、聞こえてくる単語が、いくつか耳に残り、数少ない聞き取れた単語を、くっつけていると、ああ、あの詩じゃないか。(10年くらい前、一回聞いたことがあったけど)、数日前に、員子ガガさんHPと、ナオミさんの本館HPで読んでいたあの詩じゃなかろうか。 急いでお二人のHPに直行、CDのナレーションと聞き比べると、やっぱり、「苦難の中にある者の告白」の詩そのものだった!(ガガさん、ナオミさん、HPに掲載しておいてくれて、ありがとう!そうしなければ、この詩だって分からなかった。) 「苦難の中にある者の告白」 大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに謙遜を学ぶようにと弱さを授かった より偉大なことができるように健康を求めたのにより良きことができるようにと病弱を与えられた 幸せになろうとして富を求めたのに賢明であるようにと貧困を授かった 世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに得意にならないようにと失敗を授かった 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのにあらゆることを喜べるようにと生命を授かった 求めたものは一つとして与えられなかったが願いはすべて聞き届けられた 神の意にそわぬものであるにもかかわらず心の中の言い表せないものはすべて叶えられた 私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ 「A Creed For Those Who Have Suffered」<原題> 作者不詳の詩 ニューヨーク市立大学のリハビリテーションルームに刻んであった詩です。ベトナム戦争で負傷した若者の詩として知られています。 (員子ガガさん http://plaza.rakuten.co.jp/kazukor/002022 )(ナオミさん http://olive.zero.ad.jp/~zbh62135/ ) 「大いなる方に」と「苦難の中にある者の告白」の取り合わせが織りなす不思議な世界。 不覚にも、とめどもなく、涙が流れてきた。そして、主の慰め。神さま、ありがとう。(それにしても、よくもまあ、この2つを結びつけたものだと思う。きっと、組み合わせた人も、何かに、苦しみ、そして直接の慰めを受けた人なんだろうなぁ。) しかも、このCD、数曲後に、大好きだった聖歌541番まで入ってるし。 みなささげまつりし 我がものはなしときわに 御旨に したがいまつらん 我ささぐ みなささぐ御前に 主よ我 みなささぐ 完全に、ノックアウト。 今日、ひとつの決断をした。あるものを、手離すという決断。 それ自体は、罪でないこと。とても、楽しく、自分に心地よかったこと。自分にも、いくらかの正当性はあるように思えること。 その、大切なものを、主は、手離しなさいと言われた。神さま、どうして?神さまと格闘。(大けんか、といった方がいいかもしれない。) でも、神さまは「取り去りはしない、お前が手離すのを待つよ」と待たれた。 祈り、悪あがきしながら、だんだん、まわりの状況、常識的判断、自分の正しさの問題ではなく、しがみついている自分の姿に、焦点が合わせられてきた。(げげげ) あなたは、わたしを愛するか。主は与え、主はとられる。愛するイサクをささげたアブラハム。そして、何より、愛するひとり子を手放された、父なる神の愛と苦悩。 あなたのすべてをささげなさい。手離しなさい。委ねなさい。明け渡しなさい。 そして、降参。主は、3週間の間、ゆっくりと、心を変えて下さり、決断できるようにして下さった。 一連のできごとの中に、主のお取り扱いがあるのだろう。人知を越えた何かの計画と目的があるのだろう。 主よ、み思いのままに、錬り、聖めて、みこころのままに、形づくってください。 わたしは、今の状態のまま、「勇士である」と叫び、「富んでいる」と叫ぼう。そして、大いなる方、聖なる方に、感謝をささげよう。 ただ、十字架を見上げて。わたしより、わたしのすべてをご存じの方を慕いつつ。 背後で、牧師を含め、いろんな人の祈りと励ましがあったことを感謝しつつ。関わってくださったお一人一人に、豊かな豊かな主の祝福があることを祈りつつ。 「Give Thanks (大いなる方 英語原文)」Give thanks with a grateful heart, Give thanks to the Holy one; Give thanks because He’s given Jesus Christ, His Son. And now let the weak say, "I am strong," Let the poor say "I am rich" Because of what the Lord has done for us,Give thanks, Give thanks. ( ↓ ちなみにこんな曲 そういえば、そろそろ、サンクスギビングディ)http://www.geocities.co.jp/Broadway/3875/nso/givethanks.mid
2002年11月26日
コメント(11)

「ごはんを、ちゃんと食べなさいっ!」子どもがいる家庭では、1日に、何十回と飛び交うことば。なぜ親は、子どもに、ごはんを食べさせようとするのか。それは、やはり、子どもに健やかに、そして大きく成長してほしいから。冷めてしまうとおいしくなくなっちゃう食事の場合なんかは、おいしく食べてほしいという親心も。 まあ、しかるけれど、それは、子どもへの愛情ゆえなんだよね。 食事の目的、それは何かな。味覚の楽しみもあるなぁ。おいしそう!(じゅるじゅる)でも、一番大切なのは、食物が、消化吸収されて、栄養が、血となり、肉となり、エネルギーとなり、人の命と活動を支えることじゃないかな。 それでは、みことば(聖書のことば)を食べることって何かなって考えてみた。 「人はパンのみにて生くる者にあらず、人は神の口より出ずる言葉によりて生くる者なり」 (マタイによる福音書 4:4) 1歳になったばかりの赤ちゃんが、両親が目を離した隙に、聖書のページをちぎって食べ始めたんだって。気づいたのが、くちゃくちゃに丸めて、口に放り込むところで、親が駆けよった時には、ごっくんしちゃった後。「あ~あ、みことば、ほんとに食べちゃったぁ」って。でも翌日、消化されずに、う●ちといっしょに出てきたそうな。「まだ、堅い食べ物だったのね」とのこと。(うちじゃないけど、実話) おっと脱線脱線。 自分の信仰生活を振り返ってたら、ややもすると、その時の感覚だけを頼りにしていたのかなって思わされた。ごはんのたとえでいうところの、「味覚の楽しみ」が中心になってたんじゃないかなって。みことばを読んだり、いろんな信仰書を読んだり、集会に参加したり、賛美したり、メッセージを聞いたり……。その時々の「おいしさ・まずさ」だけに、目が行きがちだったなぁって。「みことばが迫ってきた」「賛美で恵まれた」「メッセージがびしばし伝わってきた」 もしくは、逆に、「つまらなかった」「難しかった」って……。それぞれ、味覚同様、必要なものだし、大切なことだけど、一番大切なのは、それが消化吸収されて、霊的なエネルギーとなり、血と肉となって、信仰を支えることになんだよね。だから、今まで食べてきたみことばも、気づかない間に、消化されていたんだけど、これからは、いただく霊的食物を、まずは、リアルタイムで味わいを楽しみ(時に苦しみ)、そして、時間差で、消化吸収し、血となり肉となり、エネルギーとなるということも、しっかり自覚していきたいなぁ。まずくても、きらいでも、食べれば、ちゃんと消化されて、力になる(はず)っていうことも。なるほど、聖書を読む前に、祈るけど、食前の祈りのように、感謝して、いただきますって、祈ってみようかな。 「好き嫌いしないで、ちゃんと、食べなさい!」って怒鳴りながら、いろいろ気づかされるなぁ……(神さまも言ってんのかなぁ、好き嫌いしないでって。あ~あ、結局、自分に戻って来ちゃった。あいたた。 )
2002年11月25日
コメント(3)
●子どもメッセージアメリカに、顔中に赤い大きなあざのある人がいました。彼のお父さんは、その子が生まれた時から、「生まれる前の赤ちゃんの顔に、天使がキッスをしてくれた部分が赤くなるんだよ。」と言って育てました。その子は、大きくなるまで、自分がそんなにたくさん神さまに愛され、そして、天使にキッスされたんだと信じて過ごし、逆に、あざのない人たちがかわいそうだなあとさえ思いました。人はいろんな評価を気にして生きていますが、神さまの評価に心をとめていきましょう。 ● 礼拝メッセージ 「あなたもあなたの家族も救われます」 使徒の働き16章から 「私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱しローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。 夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ。」と言わせた。そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください。」と言った。ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。」 (使徒16章16~39節) 1 何とかして役に立たなければならない、存在価値がなければならない、という重荷からの解放占いの霊につかれた女奴隷。彼女が、悪霊から解放された時、主人たちは、そのことを喜ぶどころか、自分たちの金づるがなくなったことで、その怒りは、パウロとシラスを捕らえ、訴えるほどであった。「相手から、何を受けようとするか」これが、この世の判断基準。大地震で扉が開いてしまった牢。自害しようとした看守にとっての自分の存在価値は、牢を守ることだった。 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義 とみなされるのです。」 ローマ人への手紙 4:5 「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために 死んでくださいました。」 ローマ人への手紙 5:6この世の価値観は、強いこと、早いこと、優れていること……。しかし、例え、何の実績がなくとも、役に立つ者でなくとも、イエス・キリストは、それをすでにご存じ。その上で、それでも、ご自身の命を捨ててでも、人々を救おうと思われた。どんな評価より、イエスさまの、この価値基準を信じていこう。 2 できるだけ楽をしよう、損を避けようという重荷からの解放 パウロは、この時も、むち打たれた。イエスさまを信じるがゆえ、伝えるがゆえの困難。昨日の結婚式。多くの人の献身的な奉仕の賜物。誰かのために、愛をもって仕えていく時、損得抜きで行動する。困難があったとしても。イエスさまに従うことも、同じこと。 3 失敗してはいけないという重圧、重荷からの解放「失敗」に捕らわれる時、未来のことに対しては、「失敗するのでは」、過去のことに対しては、「あれは失敗だったのでは」と、すべてが失敗に見えてくる。ローマ市民権を持っていたのに、それを表明し損ない、投獄されむち打たれたパウロとシラス。もし、失敗という普通の概念を適応すれば、「しまった」と落ち込むかもしれない。しかし、25節で、パウロとシラスは、深夜に、獄中で、祈り賛美している。????? 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」 ローマ人への手紙 8:28「神がすべてのことを働かせて」 すべてのこと、すべてのことが、益と変えられることを、パウロは知っていた。自分の失敗、よくなかったことに起因すること、また、他人の悪意、不注意に起因したことさえ、神さまを信じる人にとっては、何らかの益とされる、神さまの必然があることを信じることができる。 ● KGK関東主事の安藤理恵子主事が、礼拝に参加してくださった。学生時代以来、10数年ぶりにお会いした。(といっても、当時、直接、会話したことは、ほとんどなかったかも。ちーぼさん、ほーさん、安藤主事とお話ししたよぉ[2人のことも]) 安藤主事は、「恵みの雨」という月刊小冊子の巻頭言「辛口エッセー 沖へいでよ」を執筆していらっしゃる。ちょうど一昨日、最新号12月号の巻頭言を、電車の中で、思いっきり共感しまくりで読んでいたので、2日後に、執筆者とお会いし、お交わりできて、この上ない喜びであった。 ● リンクしているX氏のHPのエッセイの中に、「暗闇と沈黙」というのがあって、なるほどと思い、さっそく実践。http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/1104/essei/ess_028.html 残念ながら、一軒家の浴室なので、X氏宅のお風呂のように、真っ暗にはならなかったが。でも、お風呂での暗闇と黙想、よかったぁ。感謝、感謝。
2002年11月24日
コメント(4)
今日は、待ちに待った健くんと麗子さんの結婚式。ちょっと心配されたお天気も、守られ、あたたかい絶好の結婚式日和となった。( つづく しばらくお待ち下さい。 )
2002年11月23日
コメント(0)
祈る思いが散らされる 祈ろうとする祈れないたくさんの思い雑音波疑問 動揺葛藤 主よ なぜですかこれは あなたから出たことですか そう言葉にするのが やっと あなたが疲れ果てて 祈ることができず 涙が雨のように 流れ落ちる時 主は あなたの弱さを知りたまいて 愛をもって 導きたもう だれかが あなたのために だれかが 祈ってるよ あなたが ひとりさびしく 心が傷つく時 だれかが あなたのために 祈ってるよ あなたが心さびしく ひとり残された時 あなたは 誰に 慰めを得るのか 主は 知ってるよ あなたの気持ちを あなたひとりで いることができないことを だれかが あなたのために だれかが 祈ってるよ あなたが ひとりさびしく 心が傷つく時 だれかが あなたのために 祈ってるよ ステレオから流れる歌を聴きながらそうだ 誰かに祈られているたとえ 誰も祈ってくれなくてもイエスさまが 祈ってくれているそんな思いが 入ってきた すると なぜかあの人のため この必要のため他者のために 祈り始めてちょっとだけ 気が晴れてきた 「試練の中 とりなしの祈りによって 慰めと励ましを受けるよ」 遠い昔、信仰の先輩から聞いた 謎めいた話もしかしたら こういうことかな?15、6年の時を越えて よみがえってきたことば 歌は、別の歌詞で楽天仲間のBETHESDAさんの日記でも紹介されています http://plaza.rakuten.co.jp/bethesda/diaryold/20020929/
2002年11月22日
コメント(0)
自宅に朝7時少し前に帰宅し、少し昼寝というか、朝寝し、教会へ。● 教会学校創世記39~41章あたり ヨセフ物語2回目。兄弟に売られてしまったヨセフが、エジプトで、パロの侍従長である主人に重用されるものの、彼の妻のせいで、投獄される。夢の説き明かしにより、また復活、今度は直接パロのもとで大臣として、働くこととなる。人間的に見るならば、父の愛=高 兄弟の嫉妬・売られる=どん底 侍従長に信頼される=高 妻の誘いを断ったことで投獄=どん底 こんどは大臣に抜擢=高 という山あり谷あり激動の人生。しかし、この聖書には、繰り返し繰り返し、「主のヨセフとともにおられたので……」「主が彼とともにおられ……」「しかし主はヨセフとともにおられ……」と述べられる。どん底の中にある時でさえ。神さまの目からは、すべてが必要なプロセス。そして、山あり谷ありではなく、常に「高」潔白なのに弁解することをせず、流れに逆らうことをしなかったヨセフ。なぜかな?神さまが共におられることを、感じていたのかな?神さまの、祝福されるという約束を、心に深く留めていたからかな?でも、どんな状況にあっても、絶頂にあっても、どん底にあっても、神さまが共におられること、主の御手が共にあることを覚えていきたいな。 ● 礼拝メッセージ 「目が見えるようになった」 新約聖書 使徒の働き9章「さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ。」と言われたので、「主よ。ここにおります。」と答えた。すると主はこう言われた。「立って、『まっすぐ』という街路に行き、サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。 彼は、アナニヤという者がはいって来て、自分の上に手を置くと、目が再び見えるようになるのを、幻で見たのです。」 しかし、アナニヤはこう答えた。「主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。 彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです。」しかし、主はこう言われた。「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。 彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。」 (使徒の働き 9章1~20節) 1 イエス・キリストは、わたしたち人間の痛みを、ご自身の痛みとして、感じて下さる。分かって下さる。 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」(4節) 「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(5節) サウロの、クリスチャンに対する迫害は熾烈を極めた。そして、そのクリスチャンの受けた迫害の痛み・苦しみを、イエス・キリストは、共に担って下さり、ご自身の痛み・悲しみとして表現された。 2 神さまは、奇跡としか言いようのないことをされるイエスを神と信じるところから、最も遠いと思われていたサウロ。しかし、そのサウロを、主は捕らえて下さった。主は、同時に、アナニヤにも働きかけ、なすことを示し、導き、用いて下さった。 3 神さまは、踏み出す1歩を示して下さる 「立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが 告げられるはずです。」(6節) 今まで正しいことだと信じ切り、熱心に迫害してきたサウロ。しかし、真の神に逆らう行為だったことに気づいた彼は、どんなにか、後悔の念にさいなまれただろう。また、今さら、どんな顔をして、もとの集団、および今まで彼が迫害してきた集団と接することができようか。そんなサウロに、神は、1つのことだけを命じられる。ただ「町に入りなさい」とだけ。真の神に出会った彼は、恥ずかしさ、やるせなさにも関わらず、ダマスコの町へと入って行く。アナニヤもまた、神と格闘する。汚名高きサウロ。その彼のもとへ行けとの示し。まかり間違えば、自らの命に関わる出来事。しかし、アナニヤもまた、主の御声に聞き、「まっすぐ」という通りに従い進んだ。 そして、神さまは、最後まで、責任をとって下さるお方。目の前の一歩一歩を示し、そして、最終地点まで導かれる。けっして、「永遠のいのちを保証したから、あとは自力でがんばれ。」とは、おっしゃられないお方。一歩一歩、しかし、最後まで。 何度聞いても、この箇所は感動するなぁ。サウロが1人で幻を見て、独りよがりで、「私は主と出会った」と言って、始めたのではない。神さまは、サウロには「ダマスコの町に入れ」とだけ示し、また、他人であるクリスチャン、アナニヤをその場所に遣わすことで、2人は出会い、化学反応が始まった。どちらか、片方だけの思いではない。そして、どちらかが、神の声に聞き従わなければ、サウロ=大伝道者であり、神学者パウロは誕生しなかったんだろうなぁ。このあと、エルサレムに行ったパウロだが、最初は、皆、恐れて、誰も相手にしようとしなかった。しかし、バルナバだけが、彼を引き受けた。パウロ、アナニヤ、バルナバ。聖書を何気なく読み過ごしてしまうかもしれないが、それぞれが、恥ずかしさや、リスクを背負いつつ、時に、大勢の中の少数意見として非難されかねない立場の中、神さまの促しに、素直に従っていったんだろうなぁ。 神さまサウロのように、後悔や恥ずかしさがあっても、ばつが悪くとも、示された道を、一歩一歩、進み行く者として下さい。アナニヤのように、たとえ恐れがあっても、あなたの御声に聞き従う者とさせて下さい。バルナバのように、聖霊の助けにより、何が大切なことか、真実か、見極めさせて下さい。そして、誰も賛同者がいなくとも、非難される可能性があろうとも、ただ、あなたの促しにのみ、柔らかく、そして従う者として下さい。そして、疎外されている人々にさえ、仕える力をお与え下さい。 アーメン
2002年11月17日
コメント(0)
出張の件は、16日(金)、韓国ソウルまでたどり着いたものの、大阪への乗り継ぎ便がオーバーブッキング状態で、泣く泣くソウルに1泊。(おかげで、時差ぼけ解消!安くてうまい韓国料理も味わえたけど……)翌17日(土)も、13時発の便を、カウンターでスタンバイするも乗れず、夜の大阪便も予約は満席だが、満席だった夕方発の成田便が出発直前に、空席ができたとのことで、判断に悩む。(夜の大阪便に乗れなければ、早くとも18日(日)の夕方着になってしまう。)結局、最悪のシナリオを想定し、その成田便にて帰国を決意、成田から伊丹便に乗り継いで大阪に帰る計画。しかし、2つの悲劇が!1つはディレイ(遅延)。もともと40分くらい遅れていたのが、乗った成田便のソウル出発間際に、エールフランス機がエンジン不調で、成田への緊急着陸を要請したとの連絡が入る。事故などで、滑走路が閉鎖されると、空中で数十分待機しなければならないため、燃料の追加が必要とのことで、さらに30分くらい出発が遅れてしまった。結局、成田には1時間20分遅れで到着。イミグレが混んでいたのは、仕方ないとして、とどめは、ソウルで預けたスーツケースがターンテーブルに出てこない。10分、15分……。とうとう「LAST」のパネルが出てきた頃、自分ともう1人の名前が張り出され、航空会社スタッフにコンタクトするようにとのこと。カウンターに行くと、ソウルで積み残しし、1時間半後に着く別便に載っているとのこと。宅配してくれるということなので、その手続きをして、国内線カウンターに急ぐが、タッチの差で、伊丹便に乗せてもらえず。とほほ。想定した選択肢は3つ。羽田に急ぎ、大阪便の飛行機に乗り継ぎ。東京へ行き、新幹線で大阪へ。羽田はバスで2時間弱かかる計算。渋滞にはまったら終わりだ。最終新幹線には、なんとか間に合いそうだが、新大阪からなんばに到達した時点で、自宅方面への最終電車に間に合わないみたい。ということで、時間的に、余裕のある最後の選択肢=高速夜行バスで大阪に戻ることに。とほほ。とういうわけで、東京駅を出発、JRドリーム号(実は南海サザンクロス)は、二重橋、桜田門、新宿および、何と中央道を経由して、一路、西へ。高井戸、調布、八王子……、なつかしかったなぁ。実は競馬場は、防音壁で見えないんだよね。(おいおい、バス旅、楽しんでないかい?転んでもただではおきません。)
2002年11月16日
コメント(14)
週末まで出張のため、日記掲載および、掲示板レスが、しばらくできません。あしからず、ご了承下さいませませ。
2002年11月11日
コメント(2)
来年、ニューヨーク周辺の日本人宣教のため遣わされる予定の立石尚志・聖美先生が、大浜教会に立ち寄られ、礼拝のご奉仕をして下さった。 新約聖書 ヘブル人への手紙12:1~2 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、 私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐を もって走り続けようではありませんか。 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に 置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 この手紙の筆者は、競技場をイメージしている。ローマには、大きな競技場の遺跡が、市内に残っている。1節「多くの証人たち」=直前の章でひんぱんに、「信仰によって」「信仰によって」と紹介される、先に召された信仰の先輩たち。彼らは、何を証しているか。信仰を持って歩む者に、神は真実を尽くし、その人生を完成して下さること。たとえ、時に、くじけたり、失敗したり、倒れながらも、彼ら信仰の先人たちは、信仰の競争を走り抜いた。 (途中、立石先生のお証)大学を卒業後、身近な人の死が相次ぐ。神学校に行ったものの、伝道師、牧師になる気持ちはなかった。奥さま(となる姉妹)との出会い。しかし、彼女は、牧師としか結婚しないという決意を持っていた。ある日、聖霊の重圧。「今日、決めなさい。」「え、決めなさいって、結婚をですか?彼女は、牧師としか結婚しないって決めています。彼女と結婚するということは、自分が牧師になっちゃうんです。」と、神さまと格闘して、決意。神さまに従い続けるなら、大丈夫との思い。 競走は、1 スタート、2 途中、3 ゴールの3つの部分。クリスチャンにとって、3つとも十字架つながり。スタート 神さまは、私たちを、ものすごく、大切にして下さる。私たちは、自身を取るに足らない者と思うかもしれないが、神さまの視点では、私たちの内に、無限の価値を見出して下さる。イエス・キリストを十字架につけても惜しくはないほどの価値を。その愛に触れ、信仰生活はスタート。途中日々、自分の十字架を負い、自我に死ぬこと。1節「いっさいの重荷とまつわりつく罪」=周りの状況 夫が妻が 上司が あの人さえいなければ‥‥真の問題は、相手や環境でなく、自分の肉・自我。神さまは、聖霊を送って下さった。しかし、我々人間の、自我や肉の性質を取り去られなかった。ゆえに、日々の信仰生活を送る時、この2つの間で、綱引き、矛盾、葛藤が生じる。ある意味、信仰を持つ以前より、しんどいことかもしれない。自分の力では無理。だから、白旗を上げ、神さまに「助けてください。」との叫び。 つきあいづらい人、馬の合わない人が近くに置かれていないか。それは、そのことに気づくため。「愛の人」になろうとしても、自分の力では無理。しかし、聖霊に従う時、強められ、キリストが内に形づくられ、キリストの似姿とされていく。 ゴール十字架に向かって、まっしぐら。イエスさまは、救われる必要も、自我が砕かれる必要もなかったが、十字架の道を歩まれた。なぜならば、父のみこころであり、使命だったから。神さまは、どんな人をも、無目的には、お作りにならない。自分は、なぜ、今、ここにいるのか、この環境の中にいるのか。必ず、使命がある。聖書の神さまは、楽しみの神さま。ゴール地点は、すぐに教えてくれないが、中継点のゴールを1つ1つ、見せて下さる。主イエスは、十字架の前に、すべてを投げ出して下さった。仕えるべき人は誰か、なすべきことは何か、祈りつつ、使命を探らせていただき、全身全霊を、主に献げ、使い切る人生はすばらしい。
2002年11月10日
コメント(0)
心の貧しい者は幸いです カリフォルニアで、「聖書と神学のミニストリー」を主宰されている上沼昌雄先生が、3年ぶりに大浜教会にお立ち寄り下さり、メッセージをして下さった。(通常は、祈り会の時間) 新約聖書 マタイの福音書 5章3~11節 山上の説教 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を 言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 この箇所は、山上の説教と呼ばれる有名な箇所。しかし、簡単なようで、なかなか深く、ある意味、なぞかけ、なぞ解きのような箇所。求められている「心の状態」を示していると言えるのかもしれない。開口一番のことばが、「心の貧しい者」。3節の「心の貧しい」は、霊において貧しいこと。(英語では「Sprit」、それに対し、8節の「心の清い」は単に心で、英語では「Heart」)「霊的貧しさ」を、説教冒頭に持ってきたことには、どんな意味があるのだろうか。「霊における貧しさ、弱さ」 それは、誰もが抱えている、心の闇の部分。自分で気づいていながら、目を背け、ふたをし、認めないこと。自分で触れたくない、見たくないと思うこと。いわば、罪の本質。神さまは、その闇の部分を、いろんな形で、私たちに気づかせようとされる。しかし、認めたくない私たち。まさに「霊の戦い」。そのことに気づくことは幸い。 また、この山上の説教の内容は、イエスご自身の歩みとしても、とれるかもしれない。貧しくなられたキリストの姿を、パウロは思い巡らす。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 ピリピ2:6~7 主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、 キリストの貧しさによって富む者となるためです。 第2コリント8:9パウロの気づき。それは、キリストが人間の体を取って下さったがゆえに、精神的にも、肉体的にも、私たち人間と同じ悩み苦しみを、味わってくださったこと。また、キリストが貧しくなって下さったゆえに、私たちが富む者とされたこと。「ご自分を無にし」て下さったキリスト。自分に死んでいく必要。イエスのたどられたもう一つの「心の貧しさ」 ゲツセマネでの祈り。 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、 わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 マタイ26:39避けて通りたいけれど、避けられない、どうしようもないこと。自分自身に死ぬこと以外に、道はない。神さまは、私たちに、そのことを気づかせるために、苦しみや困難を取り除かずに、そのままにされる場合があるのかもしれない。そのことを通して、さらに、私たちが、自分の霊的貧しさに気づくことを求めておられるのかもしれない。それは、完全なギブアップの道。外側のできごとを通して、気づかせられ、そして、徐々に、心の深いところにある罪や暗闇、かつて受けた傷など、内面的なものを気づかせてくださるのではなかろうか。ヨブの最後のことば=「私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ記42:6)ヨブは、正しい人と呼ばれたが、想像を絶する不幸と試練に見舞われた。最後にギブアップした時、主は、すべての所有物を2倍に増やされた。 主が、心の一番痛いところに、触れてくださる時パウロは、ローマ7章で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(19節)、「私は、ほんとうにみじめな人間です。(24節)」と告白せざるを得なかった。しかし、次の25節では、神に感謝を献げている。それは、自分の罪の姿=弱さ・貧しさに気づくことが、まさに、紙一重で、恵みが届いていることに、パウロは気づいていたから。心の貧しい者は幸い‥‥‥アダムの罪で縛られている私たち、しかし、それにまさるキリストの恵み。 先生のお証。昨年、自宅近くの山火事で、避難勧告。ご夫婦で非難の準備。その後、先生が、奥さまに、山火事を通して、先生ご自身の中に恐怖心があること気づかされたことを告白。プライド。奥さまは、「以前から知ってたわ。」 でも、気づき、ことばにしたことで、言いようのない平安が与えられた。 霊的な貧しさに気づいていく時、山上の説教のような者とされていく。どうしようもない霊的貧しさ・弱さに気づき、知ることで、「悲しむ者」となる。霊的貧しさ・弱さの中、神さまの取り扱いを受け続ける時、「柔和な者」とされる。自分の力でどうすることもできないことで、キリストゆえに「義に飢え乾く者」とされる。弱さ・貧しさに気づき、それにも関わらず、生かされていることを知る時、「憐れみを知る者」となる。 山上の説教は、霊的成長と言うよりは、霊的な歩みを、イエスさまが語って下さったのではないか。そして、イエスご自身がその道を歩んで下さり、私たちに、その姿を見上げつつ、同じ心構えでいなさいと語られているのではないだろうか。
2002年11月06日
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1
![]()
