東方見雲録

東方見雲録

2026.06.21
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カテゴリ: 文化

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三斎流の歴史と伝統
三斎流とは
三斎流は、利休七哲の一人細川忠興公を流祖とする茶系であります。三斎公は、元和六年剃髪して三斎宗立と号され、この称によって古くは三斎公御流儀と称していた様であります。三斎公は利休の点前を改めなかったと伝えられており、現在伝わっている点前も、他の流儀に比して大変丁寧な所作で、約四百年前の利休や三斎公の時代の形が多く残されています。

出雲地方への伝来
三斎流は、細川三斎 ─ 一尾一庵 ─ 稲葉正喬 ─ 中井祐甫 ─ 志村三休 ─ 荒井一掌と継承され宝歴年間松江藩士林久嘉・高井長太夫・矢島半兵衛の三人が荒井一掌に師事し、これらによって三斎流は出雲地方に伝来することとなったのであります。

荒井一掌
荒井一掌は江戸麹町に閑市庵を営み、古帆宗音と号し当時の大宗匠でありました。味噌屋を業とする商人ではありましたが、武士の血筋をひき武道にもすぐれ、皆伝の後、駿河国原の宿松蔭寺に禅風を鼓舞した白隠禅師に参禅し修業すること九年、禅師のもとを辞するにあたって、師より掌に一の字を与えられ、以来一掌と号したといわれています。松江市普門院に残された、長い白髭をたくわえ眼光鋭い風貌の一掌晩年の画像は、一道に達した一掌の人柄をよく物語っているように思われます。

一掌に師事した二人
一掌に師事した三人のうち林久嘉は医師であり、宝歴十三年不昧公の侍医となり、十三才の不昧公はこの頃茶の湯に親しみ、朝夕顔を合わす久嘉は不昧公にとって恰好の茶の湯に関する話し相手ではなかったかと考えられます。話のうちに荒井一掌の事に及び、ここに不昧公は荒井一掌を大先生として尊敬し、このことは公の書簡などにより確かめる事ができます。林久嘉は江戸勤番が長かったのに反し、高井長太夫は出雲在国が多く、従って出雲、伯耆地方の三斎流は高井長太夫に負うところが多く、その道統は普門院観月庵を営んだ恵海法印に伝えられました。


明治に入り、三斎流の道統は寺を離れて在家に移り、川津村久保田梅屋翁、次いで木村宗七翁、渡辺宗世翁と受け継がれてきました。宗世翁は観月庵に住して流儀の普及に努められ、晩年は境港に移られたが、その最晩年の門弟が観翠庵森山祥山宗匠であります。

観翠庵森山祥山宗匠は、三斎流再興の熱情に燃え、大徳寺高桐院に数年の間止宿して都の茶風を研究し、その後出雲市に観翠庵を営み子弟の薫育にあたりました。観月庵十一世を継承したものの観月庵には入らず、一掌以来の三斎流の道統は出雲市に根をおろすことになりました。

細川家より三斎流の認可賜る
昭和二十九年、東京国立博物館後庭の応挙館で催された三斎公三百十年遠忌を機に、細川護立公より三斎流家元の認可を受けられ、大西良慶・竹田益州・山田無文老大師方の祝福のうちに名実ともに、三斎流の再興を果たされたのであります。昭和三十七年には田部長右衛門様の絶大な後援のもとに、出雲市観音寺境内に立派な道場が完成しました。
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関連サイト:三斎流茶道体験 こちら

関連サイト:観音寺 こちら





関連サイト:不昧公ゆかりの茶室「観月庵」 こちら




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関連サイト:荒井一掌(読み)あらい いっしょう こちら
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荒井一掌」の解説
荒井一掌 あらい-いっしょう
1726-1804 江戸時代中期-後期の茶人。
享保(きょうほう)11年生まれ。江戸麹町(こうじまち)で味噌商をいとなみながら,志村三休に三斎流をまなぶ。出雲(いずも)松江藩主で,石州流不昧(ふまい)派の祖松平治郷(はるさと)とも交流があった。文化元年8月8日死去。79歳。通称は三郎兵衛。別号に古帆,宗音など。著作に「名物釜記」。

関連サイト:細川忠興 こちら
信長亡きあと、忠興は豊臣秀吉に仕え、九州征伐や小田原征伐などに従って武功を重ねた。父から受け継いだ丹後宮津の地を治める大名として、忠興は秀吉政権下で確かな地歩を築いていく。

その一方で、忠興は当代屈指の茶人としても名を馳せた。千利休に茶の湯を学び、その高弟である「利休七哲」の一人に数えられる。号を三斎と称し、のちに三斎流(肥後古流)と呼ばれる茶道の祖と仰がれた。とりわけ名高いのが、天正十九年(一五九一年)、利休が秀吉の勘気を被って堺へ追われる際、世間の目を恐れず、古田織部とともにただ二人だけが師を見送ったと伝えられる逸話である。

武人として槍をとり、茶人として一碗の茶に心を澄ます——忠興の中には、烈しさと静けさが同居していた。

戦場の烈しさと、茶室の静けさ。忠興は秀吉に仕えて九州・小田原などに従軍する一方、千利休の高弟「利休七哲」に数えられ、号を三斎と称した。利休が追われる際、古田織部とともに師を見送ったと伝えられる。

この武と茶の二面性こそ、忠興という人物の核心である。だが、風雅を愛したこの茶人は、まもなく、生涯で最も過酷な悲劇に直面することになる。


ガラシャの最期 — 大坂玉造に散る
大坂玉造の屋敷で最期を迎えるガラシャ(AI生成イメージ)大坂玉造の屋敷で最期を迎えるガラシャ · AI生成イメージ
慶長五年(一六〇〇年)、徳川家康が会津の上杉景勝を討つべく出陣すると、忠興もこれに従って東へ向かった。その留守を衝くように、石田三成が大坂で挙兵する。三成は、東軍諸将の妻子を大坂城下に集め、人質として手中に収めようとした。

大坂玉造の細川屋敷にあった正室・ガラシャにも、人質として城へ入るよう要求が突きつけられた。だが、ガラシャはこれを敢然と拒んだ。細川家の名誉のため、そして夫・忠興の足枷とならぬため、彼女は屋敷とともに果てる道を選ぶ。キリシタンであったガラシャは自害が教えに背くため、自らの手で命を絶つことができない。そこで家老・小笠原少斎が、彼女の願いを受けてその胸を突き、最期を見届けたと伝えられる。享年三十八。

遠い陣中でその報せを受けた忠興の悲嘆は、深かった。妻の悲劇的な最期は、忠興を東軍の戦いへといっそう駆り立てていく。

人質となることを拒んだ妻は、信仰ゆえに自害もかなわず、家臣の手を借りて散った。慶長五年(一六〇〇年)、忠興が家康に従って出陣した留守に石田三成が挙兵し、大坂玉造の細川屋敷にあったガラシャは人質化を拒んで最期を遂げた。キリシタンゆえ自害できず、家老・小笠原少斎が手にかけたと伝えられる。

愛する妻を喪った武人は、その悲しみを刃に変えて関ヶ原へ向かった。ガラシャの死は忠興を東軍の戦いへと突き動かし、やがて細川家に大きな飛躍をもたらすことになる。

関連サイト:大徳寺 高桐院 こちら
戦国武将として名高い細川忠興が父幽斎のために建立した寺。開山玉甫和尚は忠興の叔父にあたる。

忠興は利休七哲の一人として茶道に秀で茶室松向軒を遺す。紅葉の庭と知られる方丈南庭、忠興・ガラシャ夫妻の灯篭墓石、出雲阿国・壇団右衛門 名古屋山三郎等の墓がある。
・・・・
大徳寺塔頭。「楓の庭」で知られる。
1601(慶長6)利休七哲の一人細川忠興(三斎)の創建。
利休邸移築の書院につづく茶室松向軒は秀吉の北野大茶会に用いられたものを移したと伝える。
江戸初期につくられた庭に三斎とガラシャ夫人の墓がある。


・・・・


客殿南庭は「楓の庭」と呼ばれ、江戸時代初期の作庭による。

苔の平庭には、中央に細川ガラシャの墓標の写しの灯籠が据えられ、周囲に楓10数本だけが植えられている。

背後は竹林に蔽われている。現在の地苔を主にした庭になったのは、1971年に住職となった松山剛山による
引用サイト: こちら

関連サイト:肥後古流 (茶道) こちら
肥後古流(ひごこりゅう)は、熊本藩で伝承された茶道の流派の一つ。千利休の流儀をそのまま伝えていると称される。古市・小堀・萱野の三家で伝承したことからそれぞれ古市流(ふるいちりゅう)・小堀流(こぼりりゅう)・萱野流(かやのりゅう)とも呼ぶ。

関連サイト:千利休 こちら
関連サイト:茶の湯の大成者の生涯と功績 こちら
四規
「四規七則」のうち「四規」とは、茶道の精神を表した「和敬清寂(わけいせいじゃく)」という四文字の言葉を指します。この四つの文字には、茶道のすべての心が込められているといわれています。
「和」
「敬」
「清」
「寂」
・・・・
七則
続いて「七則」とは、茶人が心に留めるべき心得を説いたものです。「茶の湯とは何ですか」と弟子から問われた千利休は「この七則がすべてです」と答えたと言われます。

「茶は服のよきように点て」
「炭は湯のわくように置き」
「夏は涼しく冬は暖かに」
「花は野にあるように」
「刻限は早めに」
「降らずとも雨の用意」
「相客に心せよ」

関連サイト:市中の山居 武者小路千家 十四代家元 不徹斎 千 宗 守 こちら
本格的ですと1週間近く不眠不休で座るのですが、普通1時間ないし1時間半くらい座っては
15分くらい休みがある。それでまた次へ座っていくのですが、最初の頃はその休みの間にお茶
を飲んでいたのですね。その時初めてベテランの師匠たちとお話ができる。そして、また次の座
禅へ入っていく。それを繰り返していく訳ですが、そのインターバルの間に飲むお茶、そしてイ
3ンターバルの間で交わす会話。実はそれがいつの間にか茶会の原形となってしまったのです。
ディスカッションの場としての茶会
当時は非常に身分社会が激しゅうございますから、皆が対等になって話し合うということはな
い訳です。支配者たちは当然上段の間におりますし、ましてやお師匠などというのも上段におり
ます。しかし禅宗だけは、師匠もそしてそれを教わる弟子たちも、座禅をする時はまったく同じ
平面に座り、フィフティーフィフティーになって一碗のお茶を喫しながら、いろいろディスカッ
ションができた訳です。このディスカッションという話し合いをすることも、当時の日本にはな
かった訳ですね
・・・・
その堺の商人たちは、当時の外国人たちを相手にしなくてはなりません。やはり言葉で取り引
きをしなくてはなりませんから、そういう茶の湯の集合性に目を付けまして、いち早く禅宗の中
の茶礼という、今でも禅宗の寺院では毎日しておられますが、その茶礼というものを取り入れて、お茶を飲みながら商談をする訳です。
外国人を呼んでやるのですが、国内にいろいろ物を売る商談をする時も、堺の商人たちはひと
かどの商人は皆、今で言う四畳半くらいの部屋を持っておりました。その中に多くの人たちを招
き入れ一碗の茶を飲みながらやるのです。貿易商人たちですから、外国の珍しい美術品はたくさ
ん持っております。中国伝来の青磁でありますとか、天目でありますとか珍しい器を使ってお茶
を飲みながら商談をする。いわゆるディスカッションをする。
肝心の座禅の方はとにかくさておいて、茶礼の部分だけです。本当は付属に付いていたもので
すが、その付属物を上手に取り入れて、茶礼をさらに昇華して、今のような茶の湯の前身にして
いたのが堺という町でありました。
・・・・
信長も知恵者ですから、あの堺の商人たちを引きずり出すのはどうしたらいいか。そうすると、
彼らがやっているあのなんとも言えん、一杯の茶を飲みながらごてごて言うとる。あれを自分も
やればいいんじゃないかということに気が付く訳ですね。
信長は新しいもの好きで、非常に好奇心の旺盛な男です。しかも外国のものを当時良く使って
おりました。外国と言いましても、中国、朝鮮のものです。それを自分も買い入れまして茶礼の
真似事をします。そのための大名家来を雇う訳ですね。明智光秀、そして細川藤孝という、いわ
ゆる腕っ節だけではなくて、鎌倉幕府創設以来の名門の家柄で、かつ宮中の有職故実にも非常に
明るい。茶の湯とか、そういう元来の鎌倉時代から伝えてきた文化にも非常に明るい二人の大名
を雇いました。
そして彼らがコーディネートした茶会で、堺の商人たちを京都あたりへ呼ぶ訳です。信長も時
6には忍びで堺の町に行ったりしておりますが、表面はあくまで茶会をするという名目で出て行き
まして、いわゆるネゴシエーションをする訳です。その時のコーディネートをしていたのが、実
は利休たちであった。利休一人ではありません。堺の商人は皆、茶の湯をいたします。それもや
はり武器商人がどうしても有力になりますから、武器商人でありますような商人たちが、茶会の
コーディネートをしておりました。そして信長と非常に上手くいって、信長に武器とあり余る資
本をどんどん提供する訳ですね。そして信長はさらに天下統一を進めていくのですが、ご存知の
ように、後ほど雇った明智光秀という家来に弑されてしまう。いわゆるテロに遭う訳ですが、そ
の後急に飛び出してきたのが秀吉です。
・・・・
やがて最終的になりますと秀吉はなかなかの知恵者でして、血を流さずに、例えば島津であり
ますとか伊達でありますとか、ああいう大名たちや地方の豪族たちを傘下に治めるようにします。
それも茶会に呼んで根回しをした上で、改めて正式に帰参を許すという形です。茶会の席で本音
を全部言わせてしまう訳です。そして実際に大名たちが居並ぶ公の席では、もう形式的なことし
か言わないのです。伊達とか島津はどうしても帰参が遅れましたから、秀吉の陣営に入るのは不
利なのですが、そういう条件を全部茶席の方で済ませておく訳です。そして入ってくる。
・・・・
それのもっとも典型的なのが実はお茶の飲み方です。皆様、濃茶というのを飲まれたことがあ
るでしょうか。普通召される抹茶の、最低5倍の濃さはあるお茶でございます。大変な濃さです
が本当はおいしい、甘いお茶なのです。それまでは一人ひとりに点てて飲んでいたのですが、例
えば5人なら5人分をいっぺんに点てて、同じお茶碗から、しかも同じ飲み口から飲んでいくと
いうことをしたのです。いわゆるイニシエーションです。
・・・・
このような話があります。石田三成は、大谷刑部という大変有能な、しかしハンセン氏病にか
かっていて、ほとんど死に体の大名がおりました。これが徳川家康側に付くことになっていたの
ですが、やはり知恵者ですから自分の陣営に欲しい。それでお茶会をする訳です。三成も秀吉の
子飼ですから、もうなんでもお茶会をする。そして濃茶を点てて大谷刑部に飲ませる訳です。大
谷刑部はお茶を飲みますがハンセン氏病ですから、お茶碗の中にうみが落ちてくる訳です。それ
を石田三成は飲んだというのです。それで大谷刑部は痛く感激をして、負けは分かっていても石
田三成に付いた。
・・・・
これは利休が考え出したことなのです。しかも利休が亡くなる2、3年前に、突然考え出す。
記録にも残っているのです。「一碗から飲めとおおせ候」という文書が出てくる訳ですね。秀吉
も、よし、それでいこうと非常に気に入ったという。突然、表れるのです。それが本当に気に入
9ったのなら、例えば食器をまた一緒にするとか、なべ料理が流行るとかありますが、相変わらず
江戸時代に入りますと儒教の思想も入ってきて、日本人は食生活にますます敏感になる訳です。
どこからヒントを得たと思われますか?キリスト教、カソリックのミサなのです。皆さんが想
像されるように、当時カソリックは近畿地方に布教しておりました。高槻という、大阪と京都の
ちょうど真ん中にある町には、高山右近というキリシタン大名がおりました。彼の領地は99%
キリスト教、当時はカソリックです。カソリック信者と言われていました。我々京都の家の周り
にも、天主堂跡というのがいっぱいあるのです。教会があった証拠ですね。だから京の都にもあ
りましたし、ましてや堺の町はバテレンたちが一番最初に上がってくるところですから、もう日
常茶飯ミサがある訳です。
・・・・
400年以上たっておりますから時代も変わりますし、政治形態も変わる
のですが、実はそもそもの茶の湯が別世界を感じられる。そうしてその4、5人の人間が一体感
を持つことができる。そして、このように世の中が大きく変化していくにも関わらず、その方式
が全然変わらないということは、やはりそのイニシエーション性が非常に強いということなので
すね。狭い四畳半くらいの部屋で4、5人の人間が集まって、一碗の茶を喫する。それがやはり
この別世界を、しかも街中でです。決して隠遁の生活ではない。
・・・・
「山にても憂からぬときの隠れ家や 都の中の松
の下庵」。これは実は利休が生まれます 1 世紀近く前の歌なのです。当時、もう京都は申しまし
たように世界的大都会でストレスの塊でありました。その歌を詠んだのはお公家さんであります。
当然、政治の世界にもおりますから、俗世間の影響をもろに受けている訳です
・・・・
かえって逃避をすると余計に心配になってくるのです。それが「山にても憂か
11らぬときの隠れ家や」。山奥へ逃げているのだけれど、憂いが晴れぬ時はどうしたらいいかな。
そうしたらいっそのこと、その喧騒の原因の都の中へ帰ってきて、その代わりそのうちの一区間。
四畳半くらいだけは、もう絶対にその中にいる時間だけは考えない。集中する訳です。
もう障子 1 枚、建具 1 枚の外は都市、世間のストレスの世界なのですが、そのタイトロープが
あるだけに集中する訳です。外に出ても静かだとかえって緊張感がなくなり、集中力がなくなる。
ところが、一歩間違えばまた踏み潰されるというような世間の中にいて、一角だけをそういう別
世界を保つようにすると、非常に神経が内へ内へと集中して、それで結果的に気が晴れるという
のです。「都の中の松の下庵」。喧騒の中へ戻ってきて、そして屋敷の中の松の下に小さな四畳
半くらいの庵を編んで、そこで自分の別世界を作る。そういう習慣をするようになったら、かえ
って憂さが晴れたというのですね。
・・・・
当時、JALさんなど飛行機会社さんはまさに羽振りが良かった。エセックスホテルというのを買収されて、立派なホテルを持っておられました。その最上階をJALさんの好意で取っていただいて私は寝泊りしていたのです。一緒に 20 人から30 人行ったものですから、小さな茶箱のセットを持って行きました。雨の日はどこも外へ出ることがなかったのですが、セントラル・パークが非常に良く見えるのです。またはマンハッタンの、いわゆるフィフス・アベニューとか、そういうところが良く見えるところであります。
それを見ながらお茶を点てておりますと、不思議にそこだけが別世界になるのですね。ガラス
1 枚外は、それこそ世界の大都会のニューヨークであります。ただ、セントラル・パークの方は
緑が見えます。反対側は非常な喧騒です。その中でお茶を点てて、皆で話しておりますと、不思
議にそこだけが浮き上がるのです。
ああ、これはやっぱり、山の中や田舎やら行ったんでは、できん雰囲気やな。「市中の山居」
と言いよったんも、おそらくこういう本当の喧騒の中の一部分を創ってこそ、気持ちが別世界に
行くんだな。別世界にいたのでは、もう別世界になる必要がない訳です。そういう、本当にスト
レスの塊の中でのごく一部、いわゆる忙中閑ありです。そういう気持ちを創るようになったら、
これは上手くストレスが乗り切れるのだなという経験をしたことがあります。
・・・・
実は、利休がした一番の仕事はそれだった訳です。秀吉政権を樹立するために、その四畳半の
空間で、秀吉の国づくりの一番中枢の部分の場を演出した訳ですね。だから当然機密を知ること
になりますから、利休は切腹という当時の極刑。しかも名誉ある。彼は商人ですから、気に入ら
ないことがあれば打ち首、はりつけで良い訳ですが、切腹という最高礼式でもって殺されねばな
らなかったのは、やはり当時の国家の最高機密を知り過ぎたと言うことですね。
具体的には朝鮮出兵に関することで、利休はちょっと影響を受けて殺されてしまう訳ですが、
そういう悲劇の死を遂げましたのも、利休がやはり茶の湯を非常に政治的に使ったということ。
しかし、それだけに利休は全身全霊をかけて創意工夫をした。その結果が、実は今、茶の湯の中
に残っているということでございますね。

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Last updated  2026.06.21 09:00:09
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