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年月 |
略史 |
---|---|
BC12C~ |
ハルシュタット文化は中央ヨーロッパの青銅器時代後期の骨壺墓地文化~鉄器時代初期(BC8CからBC6C)にかけて主流となった文化。 |
BC450~BC1C |
ラ・テーヌ文化は鉄器時代後期に東フランス、スイス、オーストリア、 |
BC16年 |
ノリクムとは現代オーストリア&スロベニアの領域に」存在したケルト人の王国、 |
BC9年 |
マルコマンニは古代ヨーロッパに存在したゲルマン民族の一つで、ローマ軍団にボヘミア地方に |
799年 | カロリング朝のフランク王国 カール大帝
が、オーストリアの前身である オストマルク東方辺境伯 の爵位を、臣下のヴィルヘルム家に与えたこと から始まる。 ・・・・・・・・・・・ < 神聖ローマ帝国 は、ドイツでは800年のカール帝冠を始まりとするが、 帝国史は「ローマ帝国期(=カール帝冠800年~中世盛期10C)」、 「帝国期=オットー大帝帝冠962年~シュタウフェン朝の断絶1254年」 「ドイツ国民の神聖ローマ帝国期(=中世後期~1806年)」に分類> ただし、厳密には「神聖」の名前が冠されたのは1254年以降である。 「ローマ帝国期」には、復興した「西ローマ帝国」として、 「(東)ローマ帝国」に対抗する勢力を有していた。 ・・・・・・・・・・・ 領土範囲は現在のオーバーエスターライヒ州・ニーダーエスターライヒ州 あたり。 828年スラヴ族の侵入に対する特別区となる。 ・・・・・・・・ 843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約でフランク王国は 東・西フランクと北イタリアに分割された。 ・・・・・・・・ 907年ハンガリー大公が率いるマジャル人がオーストリアに侵入し、 同家はフランス王国に援軍を要請、スイスでこれを大破した。 ・・・・・・・・・ 帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが 暗殺され962年に東フランクのオットー1世の戴冠まで帝位が途絶えた。 「帝国」期の皇帝はイタリア王と東フランク王を兼ねた君主で、11C以降 「ローマ王」を兼ね、ローマ教皇からの戴冠が続いた。 (1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねた。) |
976年 | バンベルクを支配したバーベンベルク家(フランスのロベール家の支流) 1077年の「カノッサの屈辱=教皇による皇帝の破門への解除願い」など |
1156年 |
レーゲンスブルクの議会の「Privilegium Minus」調停案で、 |
1246年 | バーベンベルク家の断絶
でオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、 |
1439年 |
ハプスブルク家のルドルフ4世が 神聖ローマ皇帝に推挙され、以後の帝位は マクシミリアンの孫のカールはスペイン王カルロス1世となり、 |
1556年 | カール5世が退位、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承、 カトリック強硬派のフェルディナント2世即位で 1618年に
介入した。 以降、 ハプスブルク家はオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの
|
1683年 |
オスマン帝国による第二次ウィーン包囲
を守り抜き、攻勢に転じた。 この頃に即位したカール6世には男子がいなかったため、家領不可分と |
1740年 | オーストリア継承戦争では、 マリア・テレジアの継承は承認されたが
マリア・テレジアはハンガリー女王、オーストリア女大公 奇跡のような恋愛結婚であった、夫フランツ1世の家名ロートリンゲン 皇女マリア・アントニアをフランス王太子(後のルイ16世)と婚約させ、 1756年からの七年戦争ではロシア帝国とともにプロイセンを窮地に ヨーゼフ2世は啓蒙主義の影響を受け、農奴制廃止など近代化政策をとったが、 プロイセン王とピルニッツ宣言をともに出し、 |
1814年 |
(1809年に就任したオーストリア帝国外相メッテルニヒは、皇女を 結局、神聖ローマ帝国復活はできず独連邦の成立にとどまったが、 しかし、独では独統一運動が始まり、スペインではラテンアメリカの独立が進み、 |
1867年 | ハンガリー議会がオウストリアとの合体「アウグスグライヒ法案」を可決。 |
セーシェル共和国の基本情報の更新と同国… Apr 10, 2021 コメント(3)
ミャンマー連邦共和国の基本事情(202… Feb 7, 2021 コメント(4)
「ナイジェリア連邦共和国」の資料改訂 Dec 18, 2020