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Nov 16, 2017
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カテゴリ: 基本事情(各国)

急告: 中規模病院から、「レントゲン写真」と「MRI映像」を
    CD-Rに落としてもらい、大規模病院に提出し、
    「ヘルニア」手術が必要なのかを将来見てもらう準備が
    できました。
    まずは、「クレストール錠2.5mg」を小生が中止した
    理由として、ヘルニア症状が以前から持病であった
    事実として月末に、提出します。
    尿が褐色なったのは飲み始めて暫くで終わりました。
    ヘルニア症状で「痛み」が強烈に表れ、立ち上がるのにも
    痛みから時間がかかり、また「便秘状態」が続きましたので、
    1. 「ヘルニア」本来の病気の発症なのか、
    2. 「クレストール錠2.5mg」が「Trigger」となったのか
    判断できません。
    とりあえずは、「クレストール錠2.5mg」を中止したので、
            月末までには、その影響は少なくなりましょう。
    「鶏か卵か」を知りたいのです・・・
    できれば、鶏を起こさないように、静かにいてもらいたいのですが。

 以下は、オーストリアの第一次大戦の切っ掛けとなった、
 サラエヴォ事件の直前までを、WIKIPEDIAなどから
 抜粋・写経いたします。

 次回予告:

  「各国の略史・基本事情の写経」は一次中断して、

 「マドレーヌ氏から戴いた小冊・・・
 ・・・伊勢の旧家の知人の伝統工芸展」を
 何回かに分けて寄稿文として掲載します。 

​★



国名:オーストリア共和国

 略史 1 <外務省、WIKIPEDIAなど>​

年月

略史

 BC12C~

 ハルシュタット文化は中央ヨーロッパの青銅器時代後期の骨壺墓地文化~鉄器時代初期(BC8CからBC6C)にかけて主流となった文化。

 BC450~BC1C

 ラ・テーヌ文化は鉄器時代後期に東フランス、スイス、オーストリア、
西南ドイツ、チェコ、スロバキア、ハンガリーで発展し栄えた。
ローマ以前にガリアに進出したギリシア人やエトルリア文明などの
地中海からの影響を強く受けている。
ラ・テーヌ文化圏から地中海文化圏への輸出品は、塩、スズ、銅、
コハク、ウール、皮革、毛皮、金など。

 BC16年

 ノリクムとは現代オーストリア&スロベニアの領域に」存在したケルト人の王国、
BC14年にはローマ帝国
ノリクム属州となり、AD245~313年にイタリア統治領イリュリア教区に属す。

 BC9年

 マルコマンニは古代ヨーロッパに存在したゲルマン民族の一つで、ローマ軍団にボヘミア地方に
追いやられ、そこで強大な王国をたてた。AD2C、マルコマンニはクアディ、
ヴァンダル、サルマタイといった周辺の民族と同盟関係を結び、ローマと
敵対したが、AD180にローマが得るものは少なく勝利。
滅亡までローマ帝国は国境線をドナウ川とした。

​799年​ ​​​​​​カロリング朝のフランク王国 カール大帝 が、オーストリアの前身である
オストマルク東方辺境伯 の爵位を、臣下のヴィルヘルム家に与えたこと
から始まる。
・・・・・・・・・・・
< 神聖ローマ帝国 は、ドイツでは800年のカール帝冠を始まりとするが、
 帝国史は「ローマ帝国期(=カール帝冠800年~中世盛期10C)」、
 「帝国期=オットー大帝帝冠962年~シュタウフェン朝の断絶1254年」
 「ドイツ国民の神聖ローマ帝国期(=中世後期~1806年)」に分類>
ただし、厳密には「神聖」の名前が冠されたのは1254年以降である。
 「ローマ帝国期」には、復興した「西ローマ帝国」として、
 「(東)ローマ帝国」に対抗する勢力を有していた。

・・・・・・・・・・・
領土範囲は現在のオーバーエスターライヒ州・ニーダーエスターライヒ州
あたり。
828年スラヴ族の侵入に対する特別区となる。
・・・・・・・・
843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約でフランク王国は
東・西フランクと北イタリアに分割された。
・・・・・・・・
907年ハンガリー大公が率いるマジャル人がオーストリアに侵入し、
同家はフランス王国に援軍を要請、スイスでこれを大破した。
・・・・・・・・・
​​​​​ 帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが
暗殺され962年に東フランクのオットー1世の戴冠まで帝位が途絶えた。
「帝国」期の皇帝はイタリア王と東フランク王を兼ねた君主で、11C以降
「ローマ王」を兼ね、ローマ教皇からの戴冠が続いた。
(1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねた。)

​976年​

​​​ バンベルクを支配したバーベンベルク家(フランスのロベール家の支流)
のリウトポルトが、オストマルク東方辺境伯を改めて( 神聖ローマ帝国の
オーストリア辺境伯 となった。
辺境伯領の版図はライタ川付近まで伸張したが、領内にはバイエルン司教
などの所領が広がっていた。​​
・・・・・・・・・・・
10C~11Cには「皇帝権>>教皇権」であったが、皇帝の司教の任命権
(叙任権)介入に、教皇・皇帝が衝突し、相互の廃位宣言に至り、
ザクセン公ほか独諸侯は皇帝謝罪なくば皇帝空位やむなし、との結論を
受けて皇帝は行き詰る。
・・・・・・・・・・・・​

1077年の「カノッサの屈辱=教皇による皇帝の破門への解除願い」など
教皇と皇帝の対立が顕在化してくるなかで、
辺境伯レオポルト2世は、1078年に教皇を支持する姿勢をとった。
そのため、皇帝ハインリヒ4世はオーストリア支配をボヘミアの
ヴラチスラフ2世に認め、ボヘミアと武力衝突が起こった。
しかし、結局バーベンベルク家はほぼ版図を維持し、
次代のレオポルト3世は皇帝ハインリヒ5世と姻戚関係を結び、
家門の権威を高めることに成功した。
一方でカトリック教会との結びつきも強め、ハイリゲンクロイツに
修道院を設けた。

​1156年​

​ レーゲンスブルクの議会の「Privilegium Minus」調停案で、
レオポルト4世の兄で辺境伯ハインリヒ2世はバイエルンを放棄するが、
一方で オーストリア(エスタライヒ)を大公領 として、公位継承や裁判権
などに対する諸特権が認められることになった。
次代のレオポルト5世、レオポルト6世もオーストリア公国の発展に努め、
統治下のウィーンなどが発展していった。​

​1246年​

​​​​​  バーベンベルク家の断絶 でオーストリアはドイツ諸侯の争奪の場となったが、
マルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したハプスブルク家の
ルドルフ1世 が領有し、 1278年以後ハプスブルク家の支配(~1918) が続く。
ハプスブルク家が本拠にしてからのウィーンは政治、経済、学芸の中心として
繁栄していくことになる。
1359年 にルドルフ4世が「オーストリア大公」を称して以降は、
オーストリア大公国 となった。​​​​​

 1439年

​ ハプスブルク家のルドルフ4世が 神聖ローマ皇帝に推挙され、以後の帝位は
オーストリア大公・ハプスブルク家が世襲
するようになり、
15世紀にはマクシミリアン1世は結婚政策でブルゴーニュ、フランドル、
スペインにも家領を持つようになる。​
(1479~1490ハンガリーのフニャディ家の支配下)

​マクシミリアンの孫のカールはスペイン王カルロス1世となり、
フランスのフランソワ1世と熾烈な皇帝位争いをへて
神聖ローマ皇帝カール5世となった。
スペインは大航海時代の成果として新大陸に植民地を有しており、
​ハプスブルク家は「太陽の沈まない帝国」​ となった。
しかし、ドイツではマルティン・ルターの宗教改革で神聖ローマ帝国は動揺。
弟フェルディナントは、モハーチの戦いで(敗死したラヨシュ2世から)
ハンガリー・ボヘミア王位を継承、ハンガリー、ボヘミアもハプスブルク家
の支配下。
ハプスブルク帝国は多民族化の進行と同時に1529年の第一次ウィーン包囲以来
オスマン帝国と勢力圏が接するようになった。

1556年

 カール5世が退位、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承、
フェルディナントがオーストリアと皇帝位を継承。
フェルディナント1世は1555年のアウクスブルクの和議で兄皇帝に
代わりプロテスタントに一定の譲歩を示す形で和解したが、
以後の皇帝たちはカトリック重視政策でプロテスタント諸侯と対立。

​カトリック強硬派のフェルディナント2世即位で 1618年に
​プラハ窓外投擲事件(=プラハ城を襲った群衆が、
王の使者2名と書記3名を城の3階窓から地面に投げ落とした事件)
が起き、三十年戦争(~1648)​
が始まった。
フェルディナント2世は神聖ローマ帝国を「カトリック帝国」にすべく
戦争を推し進めるが、それにプロテスタント諸侯が反発、デンマーク、
スウェーデンが介入した。
さらにハプスブルク家の強大化を怖れたカトリック国・フランスも

​介入した。
1648年のヴェストファーレン条約では信仰の自由と諸侯の自由が認められ
事実上神聖ローマ帝国の実態は失われ、ハプスブルク家によるドイツ統一は
不可能となった。​​

​以降、 ハプスブルク家はオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの
「家領」の支配を強化し絶対君主制の基礎を固め て行った。​

​1683年​

​​​​  オスマン帝国による第二次ウィーン包囲 を守り抜き、攻勢に転じた。
・・・・・・・・・
​最も功績のあった軍人は、ロレーヌ(=ロートリンゲン)公国の
名目王・シャルル5世​
であり、
ポーランド王ヤン3世の協力でオスマン帝国軍を敗走させた。
さらにハンガリーに攻め入り、モチーハの戦いでオスマン帝国に
勝利した。( →後世においてロートリンゲン家がハプスブルク家の娘婿となる端緒
・・・・・・・・・
1699年にカルロヴィッツ条約を締結 、ハンガリー全域とクロアチアを獲得。
スペイン継承戦争ではブルボン家の王位継承を認めたが、南ネーデルラント、
ミラノ公国、ナポリ王国を獲得した。​​​​

この頃に即位したカール6世には男子がいなかったため、家領不可分と
長子相続を条件に定めた国事勅書で、娘のマリア・テレジアを後継者とする。しかし、マリア・テレジアの即位に諸侯は異議を唱え、プロイセン王国の
フリードリヒ大王がシレジアに侵攻した。

​1740年​​

​ オーストリア継承戦争では、 マリア・テレジアの継承は承認されたが
シュレージェン(ポーランド南西部~チェコ北東部)、
パルマ・ピアチェンツァ公国(伊北部) を失う 。​

​​マリア・テレジアはハンガリー女王、オーストリア女大公
(1740.1020~1780.11.29)、ボヘミア女王(1740~41、43~80)
神聖ローマ皇后(1745.9.13~1765.8.18)となり、オーストリア系
ハプスブルグ家の男系最後の君主( 女帝=Königinと皇后Kaiserin、 ​K.K​ )。​

奇跡のような恋愛結婚であった、夫フランツ1世の家名ロートリンゲン
(=ロレーヌ)を引き継ぎ、後継者は「ハプスブルグ・ロートリンゲン家」
となる。

皇女マリア・アントニアをフランス王太子(後のルイ16世)と婚約させ、
200年来の敵対関係を終結させ(外交革命)、対プロイセン包囲網を
結成した(墺露仏の同盟を「3枚のペチコート作戦」という)。

1756年からの七年戦争ではロシア帝国とともにプロイセンを窮地に
追込むが、
シュレージェンの回復にも失敗。
その後、ポーランド分割に参加。晩年のマリア・テレジアは1765年、息子のヨーゼフ2世と共同統治を行い、
彼女が1780.11に没するとヨーゼフ2世が親政を開始した。​

​ヨーゼフ2世は啓蒙主義の影響を受け、農奴制廃止など近代化政策をとったが、
広範な支持を得られず、失意のなかで没す。
レオポルト2世は1789年にフランス革命の勃発で
仏王室の身を案じ「パドヴァからの回状」でブルボン家援助を求めたが、
スウェーデン王、プロイセン王のみが軍事同盟に加わった。

プロイセン王とピルニッツ宣言をともに出し、
ルイ16世が処刑されると革命に介入。
さらに第一次対仏大同盟にも参加し、フランス革命戦争へと巻込まれる。
フランスでナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位すると
「アウステルリッツの戦い」(1805年)を戦い、その後バイエルンの離反、
ライン同盟の結成などドイツ諸侯が帝国議会から脱退する。
神聖ローマ皇帝 フランツ2世(在位1792.7.7~1806.8.6)は、
1804年に
オーストリア皇帝フランツ1世として即位(~1835.3.2)、
​1806年に神聖ローマ帝国は解体→オーストリア帝国へ。

 1814年

 (1809年に就任したオーストリア帝国外相メッテルニヒは、皇女を
ナポレオン1世と製酪結婚させるなどしたが、ナポレオンが1812年
ロシア遠征に失敗し、ライプツィヒの戦いで敗れエルバ島に流されると)
ウイーン会議を開催、ナポレオン戦争後の新秩序構築を主導。
各国の利害の錯綜、ナポレオンの復活でワーテルローの戦いの混乱もあったが、
仏外相の正統主義に沿う「仏革命前の復古体制=新秩序」で取りまとめる。

結局、神聖ローマ帝国復活はできず独連邦の成立にとどまったが、
オーストリアは、南ネーデルラントをオランダ王国に譲る代わりにヴェネツィアを含む北伊とチロル、ダルマチアを獲得した。
さらに「ウィーン体制」維持のために神聖同盟に参加した。

しかし、独では独統一運動が始まり、スペインではラテンアメリカの独立が進み、
1820年にはリエゴ革命、1830年にはフランスで7月革命がおきるなど
「ウィーン体制」は早くも動揺をはじめた。
また1834年には独関税同盟がプロイセン王国の主導で結成され、
オーストリアの影響力は低下し始める。
1848年仏2月革命では帝国のウイーン、ブダペスト、ミラノなどで暴動が勃発、メッテルニヒは
英国亡命、「ウイーン体制」は崩壊。
フランクフルトで独国民議会が開催され「小独主義」が独統一の基調となり、
フランツ・ヨーゼフ1世が新皇帝に即位、大独主義を唱えたが、
1859年伊統一戦争で敗北、1866年普墺戦争でも敗北、オーストリアは孤立。

1867年

 ハンガリー議会がオウストリアとの合体「アウグスグライヒ法案」を可決。
オーストリア・ハンガリー二重帝国が成立、同君連合体制
で繁栄をえた。
この体制は「独系・マジャル人 VS チェコ・ポーランド人少数派スラブ人」
となり、民族主義から影響を受ける。
フランツ・ヨーゼフ1世は独皇帝ヴィルヘルム2世の「汎ゲルマン主義」に同調する。










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Last updated  Nov 20, 2017 07:14:33 PM
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